はてなキーワード: 運動音痴とは
ジム行き始めた
年取ってから全然体重減らないからやばいと思って、週2程度だけど行き始めた
初めは器具の使い方とかわからなかったけど、今はなんとなくわかるようになってきた
ただ長年の運動不足故に正しい姿勢が全然できないなら目下の課題
ジム行くたびに体重を測るけど、筋肉量が増えていくのがわかって結構楽しい
ジムは午前中に行くという目標を立てたので、早寝早起きができるようになった
あとこれは予想外だったけど、ジム行きだしてから集中力が上がった
プラセボとか勘違いとかかもしれないけど、仕事中に集中できない・ボーっとすると言うことが減ってきた
運動音痴だから体育って苦手だったけど、トレーナーさんが優しくて丁寧に教えてくれるから体を動かすのが苦じゃなくなってきた
これからも頑張る
首都圏のベッドタウンにあるこの進学校は旧制中学ルーツの伝統校でもあり文武両道が最大のウリだ
「トップ校なのに体育5で入って来てる子ばかり」
みたいに昔から評判。
でも、傍から見てて、あるいは卒業生と接していてこの学校に対して普通に闇を感じた。
例えば……
卒業して大人になっても運動会のときの役割をお互い気にして(スクールカーストトップが就く役割、陰キャや運動音痴が押し込められる役割とか定番がある)、OB同士で「あいつ運動会、〇〇だってよ。ザコだわ笑」みたいに裏で値踏みしていたり。
内心では小馬鹿にしていても、自分の立ち振る舞いの上手さによって札付きのヤンキー達に全く加害されなかった中学時代の経験を誇りにしてたり。
むしろこういう立ち回りをできない人間をカスくらいに見なしていたり。
としか思えなかった。
なんか基本的に、スポーツできない奴とかリベラルの罪が重い感じだった(女子についてはOGと接する機会がなかったので不明)。
ていうか文武両道めっちゃ言うけど、実際のところ単に部活動が盛んってだけでメジャー競技の成績しょぼいんだよなあ。
あとコミュ力超人揃いの割に、栄達に栄達を重ねて超上級国民級のお偉いさんになった卒業生が犯罪級のセクハラで更迭されて大ニュースになったりしてる。
昭和時代、生徒をシバキあげたり気狂うようなガリ勉させたりして進学実績を追い求めたりしていた商売っ気の強さと余裕のなさが特徴的だったスパルタ進学校が当時はマジで
「素晴らしい学校!」
と礼賛されていたけど、
別にこのコミュ力マチズモ進学校も同じように何十年かで変わるパラダイムのおかげで褒めちぎられているだけでそこに本質的な「善きこと」や「優れている」部分なんてないと思うんだよ。
自分も運動音痴でナードタイプだったから体育の授業はよく休んでたし非意欲的だったけど
保健のペーパーでカバーしてなんとか5段階評価で2ぐらいつけてもらってた、10段階評価では5ぐらいになったかな?
その評価は悪意があると思う
他の科目の評定は10段階で8ぐらいだったけど保健体育だけずっと1だった
三者面談で「相対評価だから仕方ないよ(笑)」って担任に言われたの今でも覚えてる
1つけられる人の比率的に、自分は学年で下から4番目か5番目までに入る成績らしくて
1回も休まずに授業受けて補講も受けてペーパーテストは満点近く取ってたのになんで???ってすごい悲しかった
体育1やったわ!!って教室で話してる子もいたけど、どの子もヤンキーというか、そもそも学校全然来てない子だった
毎日学校来てクソ真面目に体育の授業受けてる自分が惨めに思えた
評定=受験で加算する内申点だから1つでも1があるとかなりハンデで
小谷野敦が秋葉原で事件があった時に言ってたけど、「本当のコンプレックスは口に出来ない」そうだ。
秋葉原の無差別の犯人は見た目をコンプレックスだといってるが、他にもっとコンプレックスな事があるはず
ってな事言ってたな。
弱者男性もたぶん自称してるやつはコンプレックスでもなんでもない「どこか余裕がある層」なんだろう。
別に責めてる訳ではなくて、確かにこの傾向は誰にでもあるよな。
ちなみに小谷野先生は「運動音痴がコンプレックスだった」と告白していた・・
(当時は)自分が講師で教授でないことを自虐的に書くことが多かった人だが、それはそんなにコンプレックスではなかったらしい。
いきなり自慢みたいな入りだが、俺は小中学校の成績は5段階評価でほぼすべて5だった。主要5教科は当然ながら、美術も音楽も5だ。
だが、運動音痴だった俺は、体育だけはどんなに頑張っても4、時々3、一度だけ2だったことがあった。
小中高と、俺は体育教師に嫌われがちだった。2をつけられたときに何故だと抗議しにいったのだが、真面目に取り組んでいないだろうというようなことを言われた。確かに俺はスポーツを猿の遊びだと心底バカにしていたが、授業は真面目に受けていたつもりだったのでショックだった。
さすがに2はまずいと、次の学期はさらに熱を入れて取り組んだ。30過ぎたいまでも覚えている。その時のカリキュラムはバスケットボールだった。実技テストとして「レイアップシュート」をやらされた。だいたい一ヶ月くらいの間に一度は成功させるのがノルマだった。
まず初日、当然のように俺は失敗した。そもそもドリブルしながら走ることができず手足がぐちゃぐちゃになった。アメトークの運動苦手芸人のアレだ(当事者からするとアレは笑えないし変な汗が出る)。
だがその時の俺は一味違った。体育教師に頼み込み、昼休みや部活前などのスキマ時間に練習を見てもらうことになった。
まずはドリブルの練習だ。ゴール下まで辿り着けない大問題があるので、スタート地点からゴールまでの歩数を数え、1・2、1・2、左・右、左・右……みたいな感じでゆっくり近づいていく練習をした。そもそも立ち止まっていてもダムダムしているうちにつま先に当たってどこかへ転がって行ってしまうので大変難航した(体育教師は頭を抱えていた)が、少しずつ歩けるようにはなってきた。
放課後もブックオフでスラムダンクを読んで備えた。庶民シュートは「置いてくる」。俺は完璧に理解したと思った。
特別訓練を始めて二週間が過ぎ、ようやく俺は「歩いて」ゴール下まで辿り着けるようになった。走るのはまだ無理だった。ゆっくり歩いてゴール下に近づき、びょんと跳び上がって手を伸ばし、ボールを放す。見当はずれの場所へ飛んで行くボール。慌てて追いかける俺はシューズの紐を踏んづけて転び鼻血を出した。体育教師は無言で氷嚢を持ってきてくれた。
そして迎えたカリキュラム最終日。俺はここまで一度も成功していない。残っているのは俺だけだ。テストをパスした他のクラスメイトはほぼ自由時間で、テストに使っていないゴールの下でミニゲームみたいなことをしていた。
それを横目に、俺は体育教師に視線を向けた。小さな頷きを確認して、俺は徒歩ドリブルを始める。一歩、二歩、やがてゴールの斜め下までやってきた俺は、意を決して助走をつけ跳び上がって手を伸ばす。毎日寝る前にイメトレした。ボールを置いてくる。力まず自然に行えば必ず入ると体育教師も言っていた。
果たしてボールはすっぽ抜け、あらぬ方向へと飛んで行った。虚しく弾む音はミニゲームの歓声に掻き消された。
結局、最終日の授業時間を目一杯使っても俺はレイアップシュートを成功させることができなかった。自主練をした挙句これだ。俺は酷い自己嫌悪に苛まれた。授業後、体育教師の言った言葉が忘れられない。
体育は3だった。俺の自尊心は死んだ。
多少の脚色こそあれど、不本意ながらこれはまったくの実話だ。運動音痴はやる気を出して自主練をしてもこれだという悲しいエピソードだ。
かたや、なんの苦もなくできるように見えるクラスメイトがいる。これは幼少期からの蓄積ゆえなのか? それだけだろうか。やはりセンスがものを言うように思えてならない。
いちおうペットボトル問題なく開けられるし、前回(anond:20230830111751)の15kgは測り間違いかなぁと思い、計り直したところ、13kgだった
今回は代償動作にならんよう、壁に寄りかからず、壁に沿って立って測ったり、椅子に座って測ったら、13kgだった
脳や神経系の病気だとしたら心配だぜ・・・極端に運動音痴&運動不足なだけだと思っておこう・・・
ジムは悩んだ結果、極端に運動音痴過ぎるのでサーキットジムにしたが、今のところ正解だった気がしている
何故なら、ちゃんと効いてる感じはあるのに、ストレッチして風呂はいる時に揉めば、
言うて、運動負荷がちょっと低過ぎるかなぁと思って、通常のジムでトレーナーさん付けてやってみたところ、
やはりマシンの使い方が理解できず・・・トレーナーさんいわくできてると言うが、まったくキツくないんだよな・・・これ絶対に効いてませんわ・・・
モヤっと感が伝わったのかマットでのトレーニングを教えてくれたが、僅か10回の腹筋でお腹が攣って、のたうち回る
マシンもマットで運動もダメだったので、トランポリンで跳ねてみる中年
トランポリンは専門店の方がたぶん楽しそう。トランポリンが小さいので、変な風に飛んだら、膝が変な感じになってしまった(2日くらいで治った)
もういい、泳ごう・・・と言うことで、プールへ移動して、背泳ぎをしたら、ストロークができないよね
腕で水をかこうとすると攣るぞ!攣るぞ!って気配がめちゃくちゃする
無理をせず背泳ぎでキックだけしときましたわ・・・そっかぁ・・・背泳ぎも出来なくなったかぁ・・・
全体的に上手いこといかなかったので、スタジオレッスンとかもしてみるかとピラティスやってみる
初心者にお勧めってあったけど、まったくついていけないわ、お腹攣るわでえらいこっちゃだったわ・・・
マシンピラティスの体験に行ってきた。終わって2時間くらい骨盤が正しい位置にある感じがしてたが、だんだんその正しい位置を忘れてしまうので、さすが身についた癖はすぐには取れませんわ〜と思った。
ピラティス自体はいいものだと思うけど、超弩級運動音痴なので、「股関節曲げて」と言われて(背中でも腰でも足首でもなく、股関節を曲げるにはどうしたらいいんだ…)としばらく考えないと動き出せず、しかも何回股関節曲げる動作をしていようと毎回たっぷり2呼吸は考えてからじゃないと動き出せない。で、そのフリーズしてる間の先生(個人指導のやつに行った)の困ってる感じが耐えられない。別に困ってないのかもしれないが、こちとら超弩級の運動音痴なので教えてくれる人を困らせたり諦めさせたり苛立たせたりしてきたので、困らせてるんじゃないかなと思っていたたまれない。
もう何軒か相性が良さそうなところを探してから決めよう。
直接口に出されこそしない「使えねーな」「もうちょい急げよオラ」を毎日浴びせられて過ごしている。
毎日のように削り取られていく自尊心を癒やすために『いつか凄い人として羽ばたくサナギとしての自分』をいつも空想している。
両親から運動音痴と自閉症スペクトラムを引き継いだ所に早生まれが重なったせいで生まれついての引きこもり気質。
保育所の広場で遊ぼうとすれば「お前がいると負けるから来るな」と追いやられ、一人でブランコをしようとすれば体格のいい子に追い出され、仕方がないからいつも絵本を隅っこで読んでいた。
小学校に入ってからはせめて勉強ぐらいは頑張ろうとしたが、運動も会話もまともに出来ないくせに勉強だけは頑張っていたのをメガネザル系のキャラとして扱われ、頑張って勉強していい高校に入ったら周りは運動も勉強もできる人ばかりで何も持ってない底辺として暮らす日々。
大学でも同じような現象が起き、周りは自分と同じ程度の学力だけどソレ以外の能力では圧勝されているので自分に自信を持つことは全く無い。
学歴を印籠みたいにかざして無理やり通り抜けようとした就職活動はボロボロになり、自棄糞になって受けた公務員試験でもペーパーで取った有利を集団面接で全部吐き出し切って完敗に終わる。
やりたい仕事もやるべきだと思う仕事も稼げる仕事も遠ざかり、とにかく数を集めて谷底に突き落とすタイプの会社に入って、適性もないままに椅子にしがみつくことでなんとか生き延びてきた。
自分が仕事の中で相性が良いと感じることを上から上げていくと「分析」「整理」「定型化」だと思うのだが、自分が主にやらされているのは「営業」「懐柔」「折衝」で、正直この辺は死ぬほど苦手でせめて電話・口頭中心じゃなくてメール・チャットでやらせて欲しくてたまらない。
企業風土が自分とあっていると思えないのだが、この仕事を通して積み上げてきたものが自分と相性が悪すぎるからそれを売り込んで入れるような転職先は結局同じような所だろうという蟻地獄に人生が囚われてしまった。
無能扱いされてもいいからせめて平穏に暮らせたら良いのに、毎日のようにせっつかれるしなんだか分からない責任問題に次々巻き込まれている。
本心から望んでいるのは「貧乏でもつまらなくてもいいから平和に暮らすこと」だ。
でもその競争倍率がクソほど高くなってどこも高値で売りつけられていると聞いてもう怖くなって完全に動けなくなってしまった。
毎日この人生からまるごと降りたさに包まれながら職場に向かっていて、そうして一日かけて傷つけられた心を風呂場やベッドに入って「でも僕は近いウチになんか良く分からんがビッグになって大逆転するんだ」という中身のない妄想に浸ることで癒やしていく。
なんなんだろうこの人生は。
最底辺の人間が敷き詰められた狭いアパートで寝起きして、最低限の味と栄養しか無い配給食を食べるために並んで、残った時間は図書館で老人と本や新聞を奪い合いながら暇つぶしをするだけの人生でもう十分なんだ。
どっかの金持ちが無駄な背伸びを繰り返し使い切られてしまったこの世界の余裕を補充し直すために、自分の心を砕きながら社会のひび割れを埋めさせられるのにいい加減うんざりする。
なんでただ生きるためだけに毎日こんなつらい思いをする必要があるんだろう。
最低限度の生活の値段が高すぎる。
生活の値段が高いと言うより、あらゆる労働の性質が非人道的すぎる。
人道的な労働環境に生きたい。
俺の本当の願いはそれだけだ。
でも叶うとは思えないから「ある日凄い人になった自分が凄くチヤホヤされるから、今の苦しみはその時に全部相殺されて「生きててよかった」と思えるはずだ」を毎日妄想するんだ。
辛い……そうして「いつか自分は凄くなるんだ」を握りしめてるせいでかえって人生が苦しくなっている面もあるんだろうな。
これはもう麻薬みたいなもんだ。
どいつもこいつも平然とした顔で「いつかビッグになるよ。良く分からないけど。だから今は頑張ろうね」と麻薬を高値で売りつけてきやがる。
教師も親も誰も彼もが平然とお互いの口に麻薬を詰め込んで適当に酔っ払ってるすきに自分の好きなように操れないかと画策してる。
なんなんだろうなこの世界は。
俺は本当にもう疲れた。
いつ死んでもおかしくない。
親は物心つく前に片方死んで、家父長制の権化のような毒祖父に叱られ続けた学生時代。毒祖父のせいで家庭は崩壊してた気がする。
物理的に包丁向け合ってた家なので子供が得るべき基本的な安心感みたいなのは育まれてないと思う。何をするにも劣等感にまみれてたし、運動音痴だし、友達は少ない。インターネットに救いを求めてた。当然ブスでオタク。承認欲求だけが育ち、当たり前だがスクールカーストで地を這う。田舎でむくむくと恨みを育て続けた。自分を取り囲む環境の全てに復讐したかった。
で、まずは大学受験をしたけれども経済力と偏差値が足りず県内進学。私は頭の出来も普通に悪かったようだ。死にたい。ただし、国立だったので地元では「頭の良い学生」になれた。ギリギリ自尊心が壊れずに済んだ。ついでに目の上に線を足す整形もした。
だがカスみたいな地元で上位層になっても仕方ないので「地元で結婚して子供を産みなさい」という大人たちを振り切って上京し企業就職した。
希望の業界だった。まあまあの大きな企業。唯一、業界内で貰えた内定。
希望の職種ではなかったが、こんな自分なんぞが業界に入れただけで誇らしかった。あとゴミみたいな地元からも足を洗えて最高だった。このままコネ作れば希望の職種に就けたりして、と妄想してた。第二の人生始まると思ってた。
が、同業界で希望の職種に就いてる人間を見ていると圧倒的すぎる。
「東大卒です」
「センター利用でMARCHは受かってたのでそこから大学選んだよ」
「実家に家賃として毎月3万円納めないといけなくて大変なんだよ」
「同業界の最大手に受かってたけど、弊社の方が雰囲気良さそうだったから選んだんだ!」
ふざけんな。
こんなに恵まれてる奴らと同じ職種を目指してたのがバカすぎる。同じ土俵で戦える訳あるか。家柄、経済、学歴、容姿、すべて最初から持ってる奴らに勝てる訳ねえ。初期条件が違いすぎる。
ところで、こうしてやいのやいの言ってる自分の職種だが、先輩には高卒の方がいる。仕事ができる人というのは分かるし尊敬もしてる。ただ、なんか色々頑張ったけど東京に住む高卒=地方Fラン国立大卒は同じレベルの仕事をやらされるんだなと思いやりきれなくなった。そもそも最終学歴や出身地にこだわってる自分がゴミすぎるしな。あーマジで何だこれ。
自分がそんな愚かなクソボケだと認めたくなくて足掻いている。頑張ってることしか取り柄がないので、この頑張りを諦めてしまったら○ぬしかない。
自分が首を括るか、希望の職種に転職できるか、幼少期の環境全てが爆発するか、そのどれかでしか報われない気がする。助けてくれ。
ゆうて言うほど、異常に不器用かつ運動音痴になったり、学習障害を持ったり、人の見分けが付かなくなったり、物をポンポンなくしたり、
面倒くさい(過集中で今やっていること以外は邪魔)であらゆること放棄したいか?
まぁそれらは意外とそんなに困っていなくて、困ってるのは異常な怒りの強さだけどな
(ゆうて財布10回は落としてるし、家の鍵無くしてホテルに泊まって更にホテルの鍵も無くしてるし、外資にいたいる・グローバル対応あるのに英語介護受けてるが)
欲しい病名をもらうまでガチャ回すんだよ プロ弱者やってる人達はどんなに(底辺の)健常と診断されても 自分は障害者だという信念がブレない お前も諦めるな
他増田も書いてるプロ弱者を目指すが増田にとってベストなのかは知らんけど、とりあえず鬱でも手帳も年金も出るみたいやで
で、こういう情報を拾えるかっていうのは、ひとえに検索能力だと思うのよね
そして検索するのに必要なのは、モヤっとした抽象的なものを具体的に言語化する能力。べつに語彙力も文章力も要らない
この世の全ては運だが(なぜか英語介護受けることができている時点でそう)、強いてお仕事で運以外の要素をあげるとしたら、
自分が何をして欲しいのか何に困っているのかを具体的に言語化する能力と訓練が重要だと思う
生きづらい働けない・生きづらい極端に低賃金って言ってる人、言語化する能力がかなり弱い印象受けるので、
そこ意識すると前に進みそうな気がする
僕みたいなコミュ障の陰キャの運動音痴には、サッカーがよくわからない。
友人宅に集まってワールドカップなど観戦してみても、何かついていけない・・・けどとりあえずウェーイ・・・という経験はコミュ障の定番と思うが、これは何も友人たちとノリが合わないということではなくて、サッカーという競技そのもののポイントを押さえられていないのだと思う。
だってサッカーって、パスをうろうろ回して、ちょっと走ってみたりして、ディフェンスに阻まれてすごすごパックパスして、またうろうろ回して、あわよくばポーンと蹴ってガーッと行ってゴチャゴチャッとしてシュートでゴール!ってなんだかよくわからんうちに点が入ってたりする。
とにかくボールがゴールに入ったらとりあえず喜んどけばいい、くらいのことは陰キャのコミュ障でも学習した。そこはちゃんとできる。
しかし、そこに至る中盤でのボールの動きが、コミュ障からしたら「何がやりたいんだろう?」という感じなのだ。つまり、「空気が読めない」。
ちらちらと動いてみせ、押したり引いたりして相手の出方を伺って、ここぞという時に切り込む。若い頃にサッカーをやっていた父は、そのことをして「剣道みたいなもん」と評しており、それはそれで言い得て妙かもしれないが、これって実はコミュニケーション全般において当たり前に起こっていることなのだ。そして、そこんとこの機微を読む能力が著しく欠如している人間がコミュ障と呼ばれる。
コミュ障からすれば、ボール回してんなあ。行ったり来たりしてんなあ。あ、取られた。あ、行けた。ウェーイ。その表層の背後にプレーのニュアンスを察しろというのは、酷な話なのです。
そんなコミュ障で陰キャでチームプレー経験のないヒョロガリ運動音痴でも、意外と観戦を楽しめるスポーツがある。ラグビーだ。特にワールドカップが日本で開催されて以降、触れる機会も増えたのではないだろうか。でも何となくサッカーより近寄りがたい印象があるとすれば、それはルールがちょっと多い、面倒くさい、わかりづらいという点にあると思う。
しかし、陰キャ持ち前の粘り強さでそこをクリアすれば、ラグビーは存外「わかりやすい」。
ラグビーのルールの多くは、「ラグビーかくあるべし」という理念に基づいて設定されている。何せ、ボールを抱えて走っていいし、体ごとぶつかっていい、ほっといたらただの喧嘩のようなボールの奪い合いになってしまうスポーツだ。その分ルールによって、ラグビーの迫力を保ちつつもゲームが適切に展開するようにできている。ラグビーはボールを挟んだ陣取り合戦だから、ボールを前に投げたり落としたりしてはいけない(蹴ってもいいけど)、とか。あるいは、プレーが止まるのは良くないから、タックルされたらボールをすぐ離さなければいけないし、タックルしたらすぐにどかなければいけない、とか。そこに垣間見える、激しいぶつかり合いと隣り合わせの冷静さも、ラグビーの魅力だ。
で、この「すぐ」ってなんだよ、何秒だよ、と言いたくもなるのだが、それを判断するのがレフリーだ。レフリーには反則の有無やトライの成功を審判するだけでなく、ゲームを円滑に展開させるという任務がある。だから例えば、いきなりファウルを取るのではなくその兆候が見えた段階で警告するなど、プレーヤーとコミュニケーションをとりながらゲームを進める。観戦にあたってはそれも状況把握のための重要な要素なので、テレビではレフリーの声を聞くことができる。
また、ゲーム中で行われる様々なプレーもこまごまと規定されており、それはプレーが選択肢として整理されているとも言える。即ち、ボールを持ったチームは、走る、パスを回す、ラックを作る、モールを組む、キックする、トライする。ファウルを得た場合は、その内容によってスクラム、スローイン、ペナルティキック。これらをある程度理解しておけば、彼らが「何をやりたいか」が何となく見えてくる。足の速さで切り込むのか。パスで惑わせるのか。力で押すのか。キックで稼ぐのか。急ぐのか。緩めるのか。これはもはや筋肉のチェスだ。
2015年のワールドカップで、日本代表が南アフリカを破るというジャイアントキリングがあった。南アフリカといえば、映画『インビクタス』のスプリングボックスである。深夜の生放送、ノーサイドの笛が鳴った時の興奮、というよりは呆然としたのをよく覚えている。
あの試合、「何がしたいか」がとてもはっきりしていて、それが勝利に結びついた。リスクの高いトライにこだわるよりも得点の少ないキックで点数を稼ぐという戦略。一方後半ロスタイム、3点ビハインドの状況で得たファウルでは、引き分けに持ち込むキックではなく高リスクのスクラムを選択した。「勝つ」ためだ。そして、それは実現された。
理性的な意思決定と、フィジカルとテクニック。ラグビーって面白いよなあ。毎度「負けられない試合」と言いながら、うじうじとボールを蹴り合って結局負けるサッカー(と昔は思っていた)とは大違い・・・とまでは言いませんが。
以上はもちろん傾向にすぎない。サッカーにも明確な戦略の構築はあるに決まってるし、ラグビーもラックのボールをいつどこに出すかとなれば一瞬の間合いの駆け引きだろう。しかし総じて、コミュ障はサッカーよりラグビーを観とけ。あれは俺たちにも「わかる」。