はてなキーワード: 南アメリカとは
長いこと調べてみたが、学校ではブルマーは導入されていないようだ。その代わり、バレーボールでのブルマーは存在しており、ブルマーを見る機会そのものは結構あったはずだ。
http://ehistory.go.kr/page/view/photo.jsp?photo_PhotoID=598&photo_PhotoSrcGBN=PT
1980年代の韓国、集団のレオタードは確認できる。しかし、ブルマーではない。
https://m.blog.naver.com/chlwl1009/221807217196
学校教育に限らなければ、1970~80年代にバレーボールのブルマーを確認できる。
ただし、今はショートパンツに変わっている。
http://theme.archives.go.kr/next/koreaOfRecord/sportDay.do
しかし、学校ではブルマーが用いられた様子はない。長ズボン、短くても半ズボンである。
http://slide.history.sina.com.cn/slide_61_40602_64127.html#p=8
中国も状況が似ている。写真は、中国の1957年のレオタード。
http://baijiahao.baidu.com/s?id=1644821409427366830
http://pic.people.com.cn/n/2015/1002/c1016-27656087.html
http://vlyball.sports.tku.edu.tw/index2a31.html?cat=20&paged=2
https://3g.163.com/dy/article/FI5BM4B40516A873.html
台湾の学校の昔の写真。短パン姿ばかりである。「台灣 學校 老照片」などで探した。
とはいえ、日本文化の影響で、ブルマー「布魯馬(『ブルマ』と発音する)」「日本女生的體操褲」として知られているらしい。実際、台湾人女性のコスプレを探すことができる。
https://www.youtube.com/watch?v=yBmePNR3pSE
また、このようなCMもある。日本語を使った台湾のCMだが、ブルマーで異国情緒を表現しているのだろうか。
なお、今回は女子陸上のブルマー(セパレートユニフォーム)については調べなかった。
手間がかかるのと、一度バレーボールや体育のブルマーが廃れてから発生してきたように記憶しており、起源が異なる可能性があるからだ。正直なところすごく気になってはいるのだが、素材も違うし、調査対象をむやみに広げると収拾がつかなくなる。
ヨーロッパにおけるブルマーの分布をもう一度確認することができた。そして、前回は確認し忘れていたイタリアにまでブルマーは広がっていることが明らかになった。よって、ブルマーは、寒すぎるためか未確認の北欧を除き、ヨーロッパのほぼ全土に広がっていたことが分かった。また、ヨーロッパや前回の調査で判明した北米・オセアニアだけではなく、今までブルマーが存在しているとは想像もしていなかった南アメリカにも、ショーツ型ブルマーが存在していたことを明らかにした。
言い換えるならば、キリスト教圏(カトリック、プロテスタント、正教会すべてを含む)のほとんどの地域で、ショーツ型ブルマーは使われていた。
加えて、学校指定のブルマーの不在証明はできなかったが、少なくともバレーボールの競技用としては、韓国や中国にもブルマーが存在していた。
この調査も、今回で三回目になった。隙間時間の気晴らしにあまり系統的でない方法で調べているため、ところどころ抜けがあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。
さて、前回は、イギリスからロシアまでの広い範囲にかけて、ブルマーが存在していたことを示した。つまり、学校教育におけるショーツ型ブルマーは日本における特異的なものではなく、一時的とはいえ、そして年代のずれがあるとはいえ、世界的な現象であったことを示した。
今回は、前回の調査から漏れたヨーロッパの一部地域や、今までブルマー空白地帯であったと思われる南アメリカにも、ブルマーが存在していたことを証明する。
http://www.castelbolognese.org/miscellanea/vita-sociale/quando-cera-lavviamento/
イギリスのブルマーほど明確にショーツ型に進化しているわけではないが、その方向に向かいつつあることは確認できる。なお、ソ連ほどではないが、女子生徒の制服がメイド服風である。これは、過去の欧州での女性向けの教育では、家事が重んじられていたことを意味するのだろうか? しかし、考えてみれば、日本の女子制服が海軍由来というのも、海外から見れば不思議に違いない。
https://www.convenevoleprato.edu.it/chi-siamo/la-convenevole-ieri/
小さい画像だが、間違いなくショーツ型のブルマーを着用している。
http://www.televignole.it/la-donna-fascismo-3/
ナチス時代のドイツほど短くはなく、短パンに近いが、ショーツ型ブルマーへと進化する傾向が見受けられる。前回の記事のナチスの少女たちも、よく見れば完全なショーツ型とはいいがたい。すごく短い短パンくらいか。
ポルトガルのブルマーの状況について調べていたが、図らずもブラジルのブルマーがヒットした。方法は同じく、ポルトガル語で「体育 学校 少女」と検索した。時折、1950などの年代を付け加えた。
http://caetanistas78.blogspot.com/2011/10/uniformes-de-educacao-fisica.html
1958年からブルマーになり、1975年は赤ブルマーでバレーボールをしている。
ありがたいことに、このサイトは翻訳文を見る限り、サンパウロにおける体操着の変遷についての資料らしい。
http://www.lugardotrem.com.br/2012/06/estacao-38-80-anos-da-escola-industrial.html
これは提灯ブルマー。
https://www.novomilenio.inf.br/santos/h0250v8.htm
https://educacao.uol.com.br/album/historia_uniforme_album.htm#fotoNav=13
以上より、ブラジルの少女たちも、イギリスやソ連とよく似たブルマーで運動をしていたことが確認された。
https://www.museodelaeducacion.gob.cl/648/w3-article-28884.html?_noredirect=1
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a04ff5c2fdd4c55410b250521aea4cc5b476626
>>日本は28日時点で、世界215の国・地域の中で159位なのだ。
>>ちなみに、158位は東アフリカのウガンダ、160位は南アメリカのガイアナ。
>>一方、感染爆発に見舞われた欧米諸国は、イギリス13位、ロシア15位、アメリカ21位、
>>スペイン27位、イタリア35位、ドイツ43位。震源地となった中国も、世界1位の人口を誇るが、56位
日本全体が実験場なんだろうか anond:20200730093644
アメリカだとM&Aのため、グローバル金融、軍事など世界中の情報を集めている。
もっと小さい事例だと、コロナだったらジョンズ・ホプキンズ大学が世界中の情報を集めている。(主要メンバーは5人らしい)
政治に関する情報は日本にも入ってくるが、アメリカ以外の企業情報はほとんど入ってこない。
スウェーデンのコロナ戦略の話は入ってくるが、どういった企業が有名かなどは話題に上らない。
数字データを使ったとして、人口やら経済成長など、日本と比較するためのグラフで議論はされるが、そこから掘り下げた話まではいかない。
黒船来航といった形(深セン凄いなど)でしか興味が持たれないため、
夢野久作「少女地獄」よりスネキウッド(蛇木杖)という語で出てきた。
この間、カリンにはバラ科とマメ科の二種類があってややこしいと書いたのだが、こちらにも似た事情があるようだ。
一つは、クワ科。材が堅くステッキ材として珍重されるそうだから、「少女地獄」に出てくるのは恐らくこちらだろう。南アメリカ原産で、蛇のような斑紋がある。
もう一つはキョウチクトウ科の常緑低木で、インド蛇木とも呼ばれる。インド・マレーなどの熱帯に分布する。名は根の形状からだが、一説に毒蛇による咬傷の治療に用いられたところからとも。
と、ここでおしまいにしようと思ったら、wikipeidaのsnakewoodの記事に、9種もの植物の別名として知られていると出ていて、思わず吹いた。
https://hsuh.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6263&file_id=22&file_no=2
人間での配偶者選択におけるMHCの役割は依然として議論の的である.
Hutterrite(キリスト教のフッター派の人たちで,隔絶的な生活,信仰と固有の文化に固執している)コミュニティの40組のカップルを対象に,MHCのハプロタイプの合致度を比較したところ,実際に同じハプロタイプを持つカップルの割合は,計算上予測された値よりも有意に低く,おなじMHCハプロタイプを持つもの同士が避け合っていることが示された.
一方,南アメリカインディアンの部落で20人のカップルによる同様の調査では,MHCの交配行動との関係は見られなかったという(BeauchampGKandYamazakiK.,AmJHumGenet61:494-496,197).
MHCのハプロタイプの違いによる体臭の違いを直接かぎ分ける実験も行われている.
すなわち汗をかいた男性のTシャツを箱に入れ,女性に匂いの好みを聞くと,自分と異なるMHCパターンの男性の匂いを好むという研究と,実の父親のMHCのハプロタイプにより近い男性の匂いを好むという一見正反対の結果が出ている(Jacob S et al., Nat Genet 30:175-179,202).
4年前のことを思い出しながらわたしは母のお墓参りにきていた。
そのため、お墓参りをするとなると船に乗らなければならないし、
船は3時間に一本でているが、お墓参りはせいぜい20分もすればすんでしまう。
残りの2時間半どうしようかと思いながら島を散歩しながら海岸を目指していた。
そこに目を飛び込んだのはとある国とこの島がこのような関係性があるんですよ~っていう
石碑を見つけた。その国とは私が片思いしている人の出身国である。
と思い、うれしくなってSNSに投稿したら彼からコメントをもらった。
それだけで私の胸は満たされた。
彼とは私が某英語圏の国にワーホリに行っていた際に知り合った現地の人である。
なんだかんだ定期的に連絡くれるのでやりとりをしていると満たされてしまう。
母のことを思い出しながら彼を思うのである。
はあ、女児が普段からディルドやローターで開発するよう義務教育で勉強させれば良いのに。
数え切れないですよ。その子達を救わなきゃ。
そう今日クラブ言ったんですよ、ラテン系の女の子がたくさん来るクラブ。
そこで仲良くなった金髪でクリっとした目の女の子に、結婚にはお金が必要だっていうんです。
でも結婚して賃貸住んで子供も作らなければそんなにお金いらないでしょと言ったら、結婚には持ち家が必須条件なのが当然だしって言われその考えは無かったわ。
周りにいたペルーやコロンビア人もそういうんですよ。別に彼女たち金持ちじゃないですよ。
全くどうなってるんでしょうか。そんなことに金使ってるから南アメリカは貧しいんだ。うそうそ。今後経度単位での土地面積が最も多い地域が勝つからアメリカ大陸はまだまだ有力なんですよ。
ネットワークの発展でね。それぞれの国で生まれる先天的な天才の割合は変わらないと研究出てたよね。そう、みんな同じ能力になったら同じタイムゾーン内でいかにチームワークを発揮できるかが鍵なんです。
女性は全身が性的だから、男性を誘惑してしまわないよう体全体を隠すべきだよ→ブルカ着用
目意外は全部性的だから、目だけなら見せてもいいよ→ニカブ着用
髪は性的だから見せちゃだめだけど顔だけなら見せてもいいよ→ヒジャブ着用
くるぶしは性的だからが見えちゃだめだけど足先なら出してもいいよ→丈の長いものを着用
ヘソは性的だから見えちゃだめだけど肘は見えてもいいよ→半袖着用
腋が見えたり胸の形が分かる服は性的だからだめだよ→日本一部フェミ的?(キズナアイの服不許可)
胸の形が分かってもいいけど乳首が見えたらだめだよ→アメリカ的
男性と同様、女性にも公衆で乳首を出す権利を認めなさい→ヨーロッパフェミ的
父がアメリカへの長期滞在(1ヶ月半ぐらい)から帰ってきた。60代半ばから「ヘリコプターの免許が取りたい」とここ数年夏の恒例イベントになっていたけど、若者ばかりがどんどん受かって先に帰国していったそうで、父はとうとう免許が取れなかった。さすがにようやく諦めることにしたらしい。
まったくどれだけカネと時間かけたら気が済むんだよ。しかもあんたの母親は重い認知症で足腰もきかなかくなって特養に入ってるんだよ。定年退職してからやることもなく、毎日テレビだけ眺めているような人生よりもいろいろやりたいことがある方がいいけど、父の夢はスケールが大きすぎたり、カネがかかりすぎたりするものが多い。
そこそこ名の知れた企業で定年まで勤め上げ、65歳まで再任用みたいな感じで働き続けたので、そんなに貧乏ではないはずだけど、だからといって趣味に注ぎ込んでいい金額というのには限度があると思うのだ。あと、その夢のために自分の妻がどれだけ我慢しているかにまったく気付いていないところにいらつく。
それでも来年は母を連れてアメリカに行き、「一緒にヘリコプターに乗ろう」とか言ってるらしい。アマチュアとして身内とかを乗せることはできるらしいが、これで事故とか起こして二人いっぺんに死んだりしたら承知しないぞ。海外旅行の計画を立てるにしても「ベトナムを北から南まで縦断したい」とかいちいち常識的な海外旅行の範疇を超えている。まぁベトナムは縦に長いとはいえ、「北アメリカと南アメリカを縦断する」とかいうプランに比べたら現実的な距離なのかも知れないけど、なんだか誇大妄想狂のような気がして仕方ない。
とにかく他人の経験談とかを聞くと羨ましくなって「自分はもっと壮大なことをやってやる!」みたいな方向に行く思考回路の持ち主らしい。目的を達成するために地道な努力を厭わないタイプなら「まぁ頑張ってね」と言えなくもないけど、だいたい努力と根性が足りない人なので、「ほどほどのところで妥協しろ!」と言いたくなる。
逆に母はやりたいことがあっても、ちょっと経済的・時間的な制約があるとすぐに諦めてしまうタイプ。凹凸夫婦でちょうどいいのかも知れないけど、私は両親みたいに一方的に妻が我慢する生活はイヤだ。そんなのだったら独身の方がよっぽど自由でいいと思う。
何だかんだいって両親の存在に頼って暮らしている私であるが、本当に父の思考回路にはついて行けない。あれをもう少し現実的な思考回路の持ち主にすることはできないんだろうか。たぶんできないんだろうなぁ…。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32591700U8A700C1LX0000/ とそのブコメ http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXMZO32591700U8A700C1LX0000/
これは日本のやり方が良いとか悪いとか、飯として豚骨が受け入れられるとか受け入れられないとか、ホテルの予約手法がいいとか悪いとかそういうことではないのだ。本当に身も蓋もないがそのとおりなのだ。
ここでは外国人=欧米の旅行者として話をする。同じ海外でも東アジアとか東南アジアとかそういったところは習慣が違うし、単なる観光旅行でアフリカとか南アメリカとかから日本に人が来ることも多くない。ちなみにこれから言う「旅行地としてのアジア」だけど自分の行ったところのある範囲に限るからそういう留保はしておいてほしい。
で、アジアに外国人が来る理由だが、特にあいつら食べ物を食べたいとか現地の人と触れ合いたいとかそういう目的でアジアに来てないのだ。いやもちろん現地のものだって食べるしエキゾチックな風俗嬢と遊びたい、って目的がないとも言えないのだがどちらも「体験してもいいかな」レベルの話なのだ。
だからホステルの食パンとジャムとシリアルとミルクとコーヒーしかない朝食に全く文句を言わない。要するにこれでコンチネンタルブレックファストとしては十分だからそれ以上求めてないのだ。海外旅行サイトで「〇〇でぜひやるべき100のこと」とかあるけれどあそこの食べ物を常食としたいのではなく「得難い体験イベントとしてちょっとやってみたい」だけなのだ。ちなみにアメリカンブレックファストが食いたいやつはホステルじゃなくて少しランクが上のホテルに行く。そっちなら卵の焼き方にこだわりの注文を付けられるコックがいるからだ。
台湾人はおそらく世界で一番外食としての朝食にこだわる人だと思うが、パンとコーヒーしかないホテルの朝食会場は欧米人で埋まっていた。もちろんこだわりの朝食を探しに出かけている人もいるだろうが(でなければ近所の豆乳屋の英語がスラスラ通じるはずがない)、コンチネンタルブレックファストが欧米人の旅行スタイルなのだからしょうがないのだ。
振り返ってみれば日本人だってそうだ。大した大きさでなくてもバスルームに湯船があればお湯を入れて浸かりたがる。シャワーで十分汗が流せるから良いじゃないかと言われても意識外のレベルで否定してしまうのだ。
アクティビティだってそうだ。みんなアジアに行ったら何をしたいか。寺を周るか、そこでしか食べられない美味いものを食べるか、絶景を見るか。欧米人がなんとか理解できるのは「絶景を見る」だけだ。寺も食いもんも「体験してもいいイベント」の1つでしかない。食べログが信用できないこれからはgoogle mapsだなんて話があるが非英語圏アジアの英語レビューにろくなものはない。なんで東南アジアでピザ頼んで不味いって言うんだ。なぜそこでイタリアンを食べたいと思ったんだ。理解不能だが仕方がないそういう習性の生き物なんだ。
話が逸れた。アクティビティだ。欧米人がしたいアクティビティったらトレッキングにサイクリングだ。奥地じゃチュービングにジップロープ、ちょっとイケるところならシュノーケリングにパラグライダー、どれもこれも欧米基準のアウトドアアクティビティだ。エクスペディアあたりのサイトはこういうアクティビティをやりたい人間が集まっているサイトだから、失われた王国が作った「新しい街」という名の古都とか、ベトナム戦争の滑走路が通常の道路として今でも使われる景勝地とか、4千の島が集まる滝の際とかどこもかしこも同じようなアクティビティで溢れていて、しかも外国人は楽しそうに遊んでいる。彼らにとって旅というのはそういうものだから仕方がないのだ。言い換えれば、旅行先というものがそもそもあいつらにとっては劣化ディズニーリゾートなのだ。バンコクの町中を走るトゥクトゥクはちょっとスリルを楽しめるカート、古いお寺は雰囲気を増すパビリオン。だから「予約の仕方が違う」とか「出てきた飯が自分の思ってたのと違う」で文句をいうんであって、それはもうそりゃすいませんでしたねと改善方法を考えるのもありなのだ。
ただ、ブコメで社長の目線が変だ、といわれているのもそのとおりで、どこもかしこもこういうやり方で集客しようとするのは「レッドオーシャン戦略」だということを我々は既に学んでいるはずなのだ。日本だって登りやすい山が多いところか、綺麗な水の海があるところか、新雪が山ほど降るところとか、数ヶ所で同じことをするならまだそういった他の目的地に飽きた人たちが来てくれるかもしれない。一斉にやる必要はない。先にやりだしたところが飽きられ始めた時に「隠された名所」として知られる手法だってある。ちなみに欧米人のアクティビティと違い、アジア人のアクティビティは自撮りだ。トレッキングスポットの整備よりインスタ映えする看板のほうが安く作れる。海外事例(この場合の海外は欧米ではなく東南アジアと台湾だ)を参考に作ってみたらいい。ついでに看板の端っこに南京錠かけるところ作っておけばカップルが南京錠買ってくれるよ。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
前1285 | カデシュの戦い | エジプトの大ファラオ・ラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。 |
前479 | プラタイアの戦い | 古代ギリシアとペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い(映画『300』で有名)の雪辱を果たした。 |
前371 | レウクトラの戦い | 古代ギリシアの都市国家テーバイとスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力を左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタのファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア諸都市はその戦術によって敗れ去ることになる。 |
前331 | ガウガメラの戦い | 「大王」アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵がペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵がペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニアが勝利し、大国ペルシアは滅びた。 |
前260 | 長平の戦い | 中国の戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜が虐殺されたという。秦の中華統一の過程において最も大きな勝利の一つである。 |
前216 | カンネーの戦い | アルプスを越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央の歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅」戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海の覇権はローマのものとなっていく。 |
前202 | 垓下の戦い | 秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。 |
前48 | ファルサルスの戦い | 古代ローマを代表する二人の軍事的天才、カエサルとポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウスの騎兵を重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルはローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。 |
前31 | アクティウムの海戦 | カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場を離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスとクレオパトラは自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。 |
23年 | 昆陽の戦い | 漢から帝位を簒奪した王莽に反発して「赤眉の乱」が起こる。昆陽に篭もる赤眉軍は、実数でも40万と言われる王莽軍に包囲されたが、リーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡。劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。 |
208 | 赤壁の戦い | 三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州の南部を占拠し、後の飛躍へと繋げた。 |
383 | 淝水の戦い | 五胡十六国時代、前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋の将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退と勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。 |
451 | カタラウヌムの戦い | フン族の王アッティラの侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。 |
506 | 鍾離の戦い | 数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。 |
530 | ダラの戦い | サーサーン朝ペルシアの大軍を東ローマ帝国のベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手の中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。 |
627 | ハンダクの戦い | 初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕を突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。 |
636 | ヤルムークの戦い | 「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠の戦闘に慣れたイスラム騎兵が東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国が興隆することとなった。 |
732 | トゥール・ポワティエ間の戦い | イベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下に土地を与えて「騎士」制度を創設し、これが欧州の封建制へと繋がっていった。 |
751 | タラス河畔の戦い | 西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国が中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟者ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり、中央アジアはイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。 |
1098 | アンティオキア攻囲戦 | 第一回十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見で士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍は成功に終わった。 |
1141 | カトワーンの戦い | イスラム・セルジューク朝を復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。 |
1187 | ヒッティーンの戦い | 暑さと渇きに苦しむエルサレム王国軍に対し、イスラム・アイユーブ朝のサラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。 |
1212 | ナバス・デ・トロサの戦い | イベリア半島で争っていたキリスト教諸勢力が、教皇インノケンティウス3世の要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラム・ムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。 |
1214 | ブーヴィーヌの戦い | フランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国・イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。 |
1241 | モヒの戦い | バトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国の火薬兵器で攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。 |
1260 | アイン・ジャールートの戦い | モンゴル帝国の西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝の実質的な建国者となった。 |
1267 | 襄陽・樊城の戦い | モンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴルの水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。 |
1346 | クレシーの戦い | イングランドとフランスの百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央に下馬騎士を置いた。フランス軍のクロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術で勝利を収めていった。 |
1363 | 鄱陽湖の戦い | 中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋が特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦いの描写はこの戦いがモデルだという。 |
1402 | アンカラの戦い | ニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラム・オスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマンは一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。 |
1410 | グルンヴァルトの戦い | ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦。リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれたドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランド・リトアニアは欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。 |
1420 | ヴィトコフの戦い | ヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的な戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍は撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。 |
1450 | フォルミニーの戦い | 他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲を活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランスの勝利と、そして以降のフランスの軍事的優位を決定付けた。 |
1453 | コンスタンティノープルの陥落 | 東ローマ帝国の首都にして史上最強の城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊の山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国は中世と共に終わりを迎えた。 |
1503 | チェリニョーラの戦い | 第二次イタリア戦争におけるスペインとフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦の経験豊富だったスペイン軍の指揮官ゴンサロは、野戦に攻城戦の技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州に野戦築城の有効性を知らしめた。 |
1514 | チャルディラーンの戦い | イスラム・サファヴィー朝の建国者イスマーイール1世は神がかり的な戦争の天才だったが、対するオスマン帝国のセリム1世は鉄砲と大砲を大量に運用して、不敗の騎兵「クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世は無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。 |
1588 | アルマダの海戦 | 黄金時代のスペインをイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃を企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイの砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。 |
1619 | サルフの戦い | 女真族を統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。 |
1631 | ブライテンフェルトの戦い | 三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフは歩兵・騎兵・砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術が近代的な軍制の基礎となる。 |
1683 | 第二次ウィーン包囲 | オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリアの首都ウィーンを包囲したが、要塞化された都市は容易に陥落しなかった。キリスト教諸勢力は連合して救援に向かい、特にポーランドが誇る有翼重騎兵「フサリア」3000騎の中央突破によって、オスマン軍は大敗した。オスマン帝国の衰退を決定付ける戦いとなった。 |
1704 | ブレンハイムの戦い | スペイン継承戦争において、イングランドのマールバラ公とオーストリアのプリンツ・オイゲンの名コンビが、フランス軍を打ち破った戦い。開戦後、しばらくは一進一退が続いたが、マールバラ公はオイゲンと連携して粘り強く戦い、フランス軍の両翼を釘付けにした上で手薄になった敵中央を突破して撃破した。 |
1709 | ポルタヴァの戦い | 北欧の覇権を握ったスウェーデンをめぐる大北方戦争最大の決戦。スウェーデンの若き天才カール12世は、並み居る敵国を瞬く間に撃破し、残るロシアに攻め込んだが、寒さと焦土作戦により疲弊、ポルタヴァで大敗を喫した。カール12世はオスマン帝国に亡命し、スウェーデンの「大国時代」は終わりを迎えた。 |
1757 | ロイテンの戦い | 七年戦争、プロイセンの「大王」フリードリヒ2世とオーストリア軍の戦い。斜めに行軍して敵の側面に回りこみ火力を集中させる「斜行戦術」により、プロイセンは倍する敵に勝利した。その後も、イギリス以外のすべての国を敵に回した状況で、フリードリヒ大王は粘り強く戦い抜き、七年戦争はプロイセン優位に終わった。 |
1781 | ヨークタウンの戦い | アメリカ独立戦争。チェサピーク湾の海戦でフランス海軍に敗れたことにより、ヨークタウンに篭もるイギリス軍に支援は届かず、彼らはアメリカ軍に包囲された。イギリス軍は幾度かの抵抗の後に降伏し、この戦いが事実上の終戦となった。勝利の立役者となった総司令官のワシントンは、のちに初代大統領に選ばれた。 |
1805 | トラファルガーの海戦 | 欧州を支配し、イギリス本土へ侵攻せんとするナポレオンと、名提督ネルソン率いるイギリス海軍の戦い。敵列の側面に縦列で突入する「ネルソン・タッチ」によりイギリスが勝利、ナポレオンの計画は頓挫した。勝利したネルソンは、しかし狙撃により重傷を負い、「私は義務を果たした」と言い残して亡くなった。 |
1805 | アウステルリッツの戦い | フランス皇帝ナポレオンと、オーストリア皇帝・ロシア皇帝が戦ったために、「三帝会戦」の異名がある。ナポレオンの正確な洞察と完璧な機動により、数で劣るフランス軍が大勝利を収めた。あえて要地を明け渡し、機を見て奪回することで敵を分断する、その華麗な用兵は「戦争芸術」と讃えられた。 |
1819 | ボヤカの戦い | 南米を植民地とするスペイン軍と、それからの独立を目指すシモン・ボリバル率いる革命軍との戦い。わずか三時間で革命軍の勝利に終わったが、南アメリカ諸国の独立を決定づける重要な戦いとなった。敗れたスペインは彼らの独立を承認し、ボリバルを大統領とした大コロンビアが誕生することになる。 |
1863 | ゲティスバーグの戦い | 「鉄道と電信の戦い」となったアメリカ南北戦争、最大の決戦。鉄道と街道が集まる要衝ゲティスバーグを巡り、偵察部隊の小競り合いが発生。増援を送りあって戦闘はみるみる拡大、両軍に多大な損害を出して終わった。国力に劣る南軍にとっては、より大きなダメージとなり、名将リーが計画した北部侵攻も頓挫した。 |
1870 | セダンの戦い | 国民皆兵制と鉄道による大規模かつ迅速な動員、参謀幕僚制と電信による戦略レベルでの分進合撃戦術により、参謀総長モルトケの指揮するプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン3世と十万のフランス兵を捕虜とした戦い。これにより邪魔者を排除したプロイセンは、「鉄血宰相」ビスマルクのもとでドイツ統一を成し遂げる。 |
ジョルジュ・サルマナザールはフランス生まれの白人だったが、ウィリアム・イネスという牧師の協力を得て「キリスト教に改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖は日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメな風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾のことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあいだ台湾の専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。
数学教授ロデリックと図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルやミミズの化石、彗星や太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれた化石などを作り出し、ベリンガーが化石を採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかしな化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。
コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアム・ケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分がケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しかし調査の結果、パーソンズが自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。
ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けでチェスを指し、しかもほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンやナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ケンペレンの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年に火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。
宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。伯爵夫人は、ルイ・ド・ロアン枢機卿を巧みに騙して首飾りの代理購入をさせ、王妃に渡すと言って受け取った首飾りをばらばらにして売りさばいてしまった。その後、事件が発覚して伯爵夫人は逮捕された。かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。また「王妃はラ・モット伯爵夫人と同性愛関係にあった」「この事件は王妃の陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。
19歳のウィリアム・ヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピアの手紙や文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人の聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアムは戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨な出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアムの父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。
イギリスで異国の言葉を話す身元不明の女性が保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女はインド洋の島国の王女カラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女は地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画は新聞に掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女はメアリー・ベイカーという家政婦で、架空の言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。
イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者を募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地や役職、通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーはフランスに高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらにベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。
アメリカの冒険家だったジョシュア・ヒルは、ハワイへ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分はイギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりのイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。
イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年に南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリアで肉屋を営む男が「自分がロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリスの庶民からも大いに人気を集めた。しかし未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。
ジョージ・ハルは進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人の実在について口論となり、それがきっかけで巨人の化石を捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見したかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラー・バーナムが同様に巨人の化石を見世物にしはじめたことで、ハルはバーナムを訴えるが、その裁判を取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハルも観念して偽造を認めてしまった。
ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服や軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍の大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長や秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎を占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい、新聞記者からの取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。
イギリスのピルトダウンでチャールズ・ドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国の繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しかし1949年、フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石が捏造されたものだと断定された。捏造の犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイルが真犯人だという説まである。
後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピアの皇帝が艦隊を見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから、変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざいな変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語やギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当なものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。
ドイツの曲芸師オットー・ヴィッテは、アルバニア公国の独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットーの証言は疑わしいものとされていたが、オットーはドイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。
コティングリー村に住む少女、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家のアーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。
オーストラリアの現代詩誌『アングリー・ペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるエセルから送られてきた。『アングリー・ペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派の詩人であるジェームズ・マコーリーとハロルド・スチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメなものだった。この事件によりオーストラリアの現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品はシュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。
フィリピンのミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的な暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界中から多額の寄付が集まり、居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピンの環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。
評論雑誌『ソーシャル・テキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論の特集に、アラン・ソーカルから寄せられた『境界を侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文を掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダンの哲学者たちが科学用語を濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。
やれ、世界陸上やオリンピックで、メダル獲得か!?という男子マラソン選手が入賞すると、入賞どまりかーとみんなそれを称えず惜しがり、
陸連が悪い、箱根駅伝、あるいは駅伝自体が悪いと帰着しがちなのだけれど、そもそもメダル獲得か!?がとんでもなくおかしいという話。
まぁ、とりあえずこのデータをみよう。
1 2時間02分57秒 デニス・キプルト・キメット ケニア ベルリン 2014年9月28日
2 2時間03分13秒 エマニュエル・ムタイ ケニア ベルリン 2014年9月28日
3 2時間03分23秒 ウィルソン・キプサング・キプロティチ ケニア ベルリン 2013年9月29日
4 2時間03分38秒 パトリック・マカウ ケニア ベルリン 2011年9月25日
5 2時間03分59秒 ハイレ・ゲブレセラシェ エチオピア ベルリン 2008年9月28日
6 2時間04分05秒 エリウド・キプチョゲ ケニア ベルリン 2013年9月29日
7 2時間04分15秒 ジョフリー・ムタイ ケニア ベルリン 2012年9月30日
8 2時間04分23秒 アエレ・アブシェロ エチオピア ドバイ 2012年1月27日
9 2時間04分27秒 ダンカン・キベト ケニア ロッテルダム 2009年4月5日
ジェームス・キプサング・クワンバイ ケニア ロッテルダム 2009年4月5日
エリア記録
アフリカ 2時間02分57秒 デニス・キプルト・キメット ケニア ベルリン 2014年9月28日
アジア 2時間06分16秒 高岡寿成 日本 シカゴ 2002年10月13日
ヨーロッパ 2時間06分36秒 アントニオ・ピント ポルトガル ロンドン 2000年4月16日
ベノワ・ズウェジュヒエフスキ フランス パリ 2003年4月6日
北アメリカ 2時間05分38秒 ハーリド・ハヌーシ アメリカ合衆国 ロンドン 2002年4月14日
南アメリカ 2時間06分05秒 ロナウド・ダ・コスタ ブラジル ベルリン 1998年9月20日
オセアニア 2時間07分51秒 ロバート・ド・キャステラ オーストラリア ボストン 1986年4月21日
お分かりいただけたと思うが、アフリカ勢(正確にはケニア・エチオピア勢)というのは、もはや、他地域の選手がいくら努力しても太刀打ちできない高みにいる。
これは、果たして、陸連や駅伝を改革したところで追いつけるような話なのだろうか。
そもそも、箱根駅伝が悪いと言い出したら、瀬古はともかく、世界陸上派遣選手の大多数は箱根を目指した選手であること(市民ランナー川内すら)や
サムエル・ワンジルは何だったのかという話になる。
結局、男子マラソンで起こったことは、10kmで勝てる選手がマラソンに本格的に参加してスピードレース化したってことであり、
これが女子マラソンで起こっているのを、高橋・野口フィーバー後に日本人は目にしてきていると思う。
つまり、日本人離れしたランナーが現れない限り、もはやマラソンすら日本人にメダルは無理だろう。
入賞出来れば御の字というか、入賞はマストでなく、奇跡であることを認識しなければならない。
その上で、とんでもない才能が現れるまで、駅伝等で盛り上がって、金が回るようにしておいて、それに備えるというのがベストなんじゃないだろうか。
アルバイトをはじめた
スカイダイビングをした
一人暮らしをはじめた
スキューバダイビングサークルに入った
サラリーマンになった
転勤した
トライアスロンに参加した
転職した
ニートになった
10年間男は自分を変えるためにさまざまな経験をしたり環境を変えたり
人と出会ったりしたがそこからは何も得るものがなく少しの成長もできなかった
自分は何をしても何も変わらない
何も自分に影響を与えることはできない
男は自分を変えることをあきらめた
何をしてもどこへ行っても誰と出会っても自分は何も変わらないのだから
何をやってもいいんだということに
ついに我が社にも国際化の波が押し寄せてきた。
英語を学べ、欧米流のマナーを学んで日頃から実践しろと言ってるお偉いさんに対する嫌がらせで「納会の飲酒も禁止ですね、イスラム圈では飲酒はダメなので」と言ったところ、予想通りひんしゅくを買った。
ここは日本だしイスラム教の国じゃないんだから飲酒してもいいと。じゃあここは日本なので欧米流のマナーを実践する必要もないですよねと。
あの人たち国際化とか言ってるけど意味を考えて発言してるんだろうか? 英語が出来れば国際化、欧米マナーがなっていれば国際化というなら社員全員アメリカで採用すれば国際化達成じゃないか。
彼らの地図にはアジアもアフリカも南アメリカも無いんだろうか。キリスト教以外の宗教は無いんだろうか。取引先にはトルコの企業もあるのに、彼らの中にはトルコは存在しないらしい。
ブコメだとネタにマジレスとか言われたり賛否があるんだけど、自分はすごく感動した。自分も「こんなこと勉強して何の役に立つの?」とか聞いちゃう子どもだったから、妙に心に刺った。
それは小学生とか中学生のころの話じゃなくて、高校生にもなってそんなことを聞いてた。個人面談で先生に聞いてた。その時の答えは、
「今はそんなことを考えて立ち止まってる場合じゃないだろ。勉強の意味なんて勉強すればわかることだ。いまはとにかく勉強しなさい」
というものだった。
で、自分はその答えに全然納得がいかなかった。わかってるなら、どういう意味があるのか言えよ!と思った。だから上のエントリが刺さった。あのとき先生がそうしてくれたらよかったのにって思った。コメントとかに勉強は役に立たつ必要はないっていう意見もあったけど、これも違うと思う。役に立つと思ってやったことの方が身につくし、楽しい。実際に、知識がお金に化ける場合もある、人を助ける場合もある。役に立たないより立つ方いいに決まってる。
上記エントリによると『大人は「知識はどんな風に生きてくるのか」ということを力説し、また「役に立つこと」を実感させてあげないといけない。』らしい。まったくもってそのとおりだ。自分は高校時代に「勉強が何の役に立つか」を本気で考えていたから、普通の人よりこの質問により多くの解答を出せる。だから、今度はこの質問に答える側になってやろうと思った。
『多くの子どもに、「将来」という言葉は刺さらない』らしいが、勉強が最も直接的に役に立つフィールドは仕事だと思う。だから、勉強が役に立つ職業の説明から入る。職業という点で考えると、教科ごとに役に立つ職業は異なる。
建築家(どのような構造が壊れにくいのか計算するのに必要)、研究者(物理、化学、工学、情報系などは直接的に使うが、その他、心理学、経済学、生物学などほぼすべての研究に統計は必要)、ゲームプログラマ(3DのCGなどは特に計算が難しい)、その他のシステムエンジニア、プログラマ(どうやったら計算量が少なくできるか考えたり、負荷を分散できるか考えたり色々)、機械の設計をする人間(船、飛行機、車、エレベーターなどなど動くものの設計には計算が欠かせない)、弁理士(特許の手続き等を行う人。こういう文章http://kantan.nexp.jp/%E7%89%B9%E8%A8%B1/a2007272629/を書いたり読んだり)。
ガソリンスタンドの店員(危険物を取り扱うため)、研究者(主に化学と生物学。医学、薬品や農薬の開発、試験、コンピュータ、発電、蓄電、建築などに応用できるような新素材の開発)、官僚(農林水産省や経済産業省など。農薬、食品添加物、産業廃棄物の基準をきめたり色々)、医者、看護師、獣医、畜産家、農家、栄養士、薬剤師、保健師、衛生管理者(食品工場など)、水道局員。警察(科学捜査系)。
海外に行く人。外国人がいる職場で働いているひと。英語の資料を読まなきゃいけない人。論文とか書く人。
翻訳家、記者、作家、漫画家、企画職、コピーライター、検事,裁判官,弁護士,政治家,官僚(法律の難解な文章を読んだり、条文を作る際により正確にものを伝える)、システムエンジニア,プログラマ(ソフトウェアの利用規約はだいたい難解、仕様を作る際もわかりやすく伝えないといけない)。
自分が思いつくもので、わかりやすく役に立つ職業はこんな感じだ。自分が理系だし、理系の方が役に立ってることが分かりやすいので理系科目に力を入れている。国語とか社会科とかは広く薄く役に立ってる気がするのでこの仕事で役に立っているというのが少しわかりづらい。
さて、この職業のリストを見て自分はこの職業につかないから関係ないやと思ってる人も多いんじゃないかと思う。しかし、実際にはこのような職業を評価する側の人間も同様の知識が必要となる。たとえば、雇用主、人事、取引先の人間。このような人は上記に挙げた職の人間を評価しなければならない。その人の態度や風貌で評価をするのはあまりよろしくない。それ相応の専門的な知識が必要だ。上記に挙げた職の人と取引のある人間というとその範囲は一気に広がる。そして、取引先には消費者も含まれる。
家電を買うにしたって食品を買うにしたって知識は必要だ。これまでマイナスイオンのような科学的に根拠のないものがブームを生んだ例もあるし、健康食品だってそういうものがあふれている。これからも第2、第3マイナスイオンが生まれるかもしれない。どういう理論で効果があると主張されているのか、実験は正しい条件で行われているのか。そういうことを判断するのには科学の知識が必要になる。
答えはNOだと思う。具体的に、勉強嫌いな高校生S君を想像してみると、すぐに反論されてしまうのが目に浮かぶ。
学力を必要とする職業は多いが、あまり必要でない職業も一定数存在する。土木作業員、コンビニ店員、居酒屋店員、服屋の店員、料理人、バス,タクシー,トラックの運転手、芸人、音楽家、デバッガー、清掃員。もちろんこれらもある程度の学力がいるが、せいぜい中卒レベルの学力があれば学校の勉強よりももっと役に立つことをするべきだというのも筋が通る。そして、それが学力が必須でない職業につくのが、学力が必須の仕事に就くのより大変かといわれるとそうとも言えない。学力が必須でない職業に就いた人は幸せになれないわけでもない。学力が必須の仕事についたからといって幸せだとは限らない。医者は多忙だし、貧困な生活を送るポスドクの研究者もいる。社長や政治家より、責任のない立場の人間のほうが気が楽かもしれない。
マイナスイオンの話にしたって、科学に詳しい友人が一人いれば済む部分が大きい。高校時代にやるべきことは勉強よりも友達作りなのかもしれない。
簡単だ。ほぼすべての仕事が仕事として成立しなくなる。ほとんどの日本人が生きていけなくなる。
そもそも、学校の勉強というのは「ある人が勉強をしたとき、その人が得をする」ようにではなく、「みんなが勉強をしたとき、みんなが得をする」ように作られているはずだ。例えば、騙されやすい人間が増えれば騙す人間も増えやすい。集団の中にいる知識を持った人間がガセや嘘がはびこるのを防いでいる。日本人全体の語彙が増えれば、説明のとき使える言葉も増える。先進的な科学技術がみんなの生活を支えている。ある人の勉強によって、周りの人が得をする例と言うのは山のようにある。
このことがいわゆる『囚人のジレンマ』の状態を作っているので、ひとりの人間を勉強させるように説得するのは難しい。自分で手間をかけて勉強するより、他の人にやってもらったほうがはるかにお得だ。
勉強が自分でやるより他人にやらせるほうが得なことを踏まえると、自分は勉強しないけど人には「勉強をしろ」と言う人間や、「理由は言えないけどとにかく勉強しろ」という人間の多さにも納得がいく。自覚のあるなしに関わらず、周りの人間が勉強しないことへの危機感をもって行動ができている。つくづく人間って賢いと思う。生命の神秘すら感じる。
自分でやるより他人にやらせるのが得なら、子どもがやるべきは「たくさん勉強する」ことよりは「周りに勉強をさせられるような人間になる」ことなんじゃないかと思う。だから、どうすれば人に勉強をさせることができるかを考えてみる。
子どもには勉強をしろと言いつつ、官僚を馬鹿にしたり、科学者に「お前の研究は役に立ってない」と言ったりする人がいる。こういうのは明らかにダメだろう。これでは子どもが「なぜ勉強をするの?」と思うのは当然だ。勉強をたくさんしてそれを生かしている人たちは褒めなきゃいけない。これこれこういうところがすばらしいということを具体的に言えれば、子どもが勉強と尊敬される人間になることを関連付けられて、勉強への意欲がわきやすい。
また、たくさん勉強をしている人間を「がり勉」などといって馬鹿にするのも良くない。これは大人より子どもがしてしまう。あまりそういう人間を馬鹿にして減らしてしまうと結局は自分が損をすることになる。
人は同調圧力に弱い。周りに勉強している人が増えれば、勉強は楽しくなるし。自分が勉強していることに対する疑問も持ちにくい。
誰かが勉強している時はその質を上げられるといい。楽しく勉強できるようにするとか、短時間でもより多くのことが身に着くように勉強法やテキストを改善してやったりするといい。どうゆう勉強が役に立つかを教えてあげるのもいいと思う。勉強は役に立つほうが面白い。
志の高い人にとって、役に立つ勉強はたくさんある。簡単ものでもプログラミングができれば、何時間もかかる作業を一瞬で終わらせられたりする。デザインについて学ぶのもいい、デザインは人に伝えるためのものなので人に物事を伝える手助けになる。こういうのhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6やこういうのhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81を知るのもいい。学校の授業でも英語、理系科目、地理、政治・経済などは役に立つ場面が分かりやすい。
勉強にも大学受験では評価はされないものがある。役に立つ勉強をしてきた人間をしっかり評価するということも重要だ。役に立たない勉強がもてはやされれば勉強はつまらなくなる。
給料が高い方がやる気が出るし、そうなりたい人が増える。雇用主だけが考える話じゃない。消費者がしっかり価値のある技術にお金を払うのも大切だ。消費者がキャッチコピーや広告に流されてその製品に使われている技術が見れないと、会社はキャッチコピーや広告の制作に熱心になって技術者に対する対価が増えない。お金に余裕のある人が、大学研究、素晴らしいオープンソースソフトウェアの開発、政党に寄付をするのもいいと思う、なかなかそんな人はいないかもしれないが。でも、科学雑誌なんかを読んだり最新の技術研究に注目する人が増えるだけでも、その研究が陽の目を見る可能性は増す。
それは自分が勉強をすることだ。周りに勉強している人を増やすには、自分が勉強するのが手っ取り早い。勉強している人間をほめるのも、対価を増やすのも、勉強している人を見分けられる必要がある。十分な学力がなければ、支持している人間が似非科学者であってもそれを見抜くことができない。勉強をしなければ、勉強の質を高める方法もわからない。
「勉強って何の役に立つの?」は答えるのが難しいが、「勉強を役に立てたいのですがどうすればいいですか?」という質問なら少し話が変わる。幸い、今はインターネットがあり勉強を役に立てる方法は身近になっていると思う。単純なものだと、学習サイトでも作ればいい。上でも言ったとおり職業上、勉強を必要としている人がいるし、昔習ったことを復習したいという人もいる。そういう職業になりたいという人もいる。そういう人に向けてサイトを作ればある程度需要はあると思う。 楽しいものが好きならばゲームを作ることもできる。高度なものとなると少し難しいが、ミニゲームであれば中学レベルの数学で通用する。ブロック崩しあたりだとちょうど中学の座標やグラフの交点とかの知識が役に立つ。ブロック崩しなんて作ってもぱっとしないかもしれない。それは、もうすでにあるものだからなんだと思う。重要なのはちゃんとした知識があれば、今はまだないものもできるということだ。
勉強の役にたつすばらしい場面というのは今はないものを生み出せる、新しい勉強の役立て方を見つけた時だと思う。印刷機だって、テレビだって、洗濯機だって、パソコンだって、FaceBookだって、スマートフォンだって、十分な知識があったから生まれた。それが生まれる以前は勉強がそんなことに役立つことは知られていなかった。
有名な動画Did you knowによると2010年の需要のある仕事Top10は2004にはなかった仕事らしい。
勉強がどう役に立つのかは時代ごとに変わっていくし、勉強の新しい役立て方というのは次々と見つかっている。勉強の新しい役立て方が見つかると、世の中の仕組みが爆発的に改善されることだってある。勉強にははそういう夢がある。見つけるのは多少むずかしいかもしれないが、それをできた人はたくさんいる。勉強を役に立てたいのならその方法を探してみるといいと思う。
これを読んでも勉強に乗り気にならないという人はいると思う。人にやらされる勉強っていうのはどうしてもやる気がわかない。
正直、学校の勉強の質はさほど高くないと思う。歴史はもっと現代史に力を入れるべきだろう。カエサルが死に際に「ブルータス、お前もか」と言ったなんて話は何の役にも立たない。フランス革命のころにナポレオンがどうこうしたという話ですらも大して役には立たない。南アメリカ、アフリカ、東南アジアなども含めて、ここ100年の歴史を詳細に学んだほうが役に立つ。昔の人間より今の人間の方が身近だ。より正確な記録もあるので嘘も少ない。古代の話は教訓を学ぶには記録が少なくて曖昧すぎる。また、古文は考古学者か歴史作家にでもならないと役に立たない。もっと役に立つ勉強をするべきだと思う。小説は人の気持ちを考えるのにあまり適してないと思うし、教科書に取り上げられる論説文は論理的に穴だらけの文章も多い。
それでも、詰め込み教育、ゆとり教育を経てだんだん良いものになっていると思う。テキストも改善され、勉強はより楽しくなっているようにみえる。
自分は詰め込み教育からゆとり教育への変遷は改善だったと思っている。円周率を3.14で計算することは小数の筆算の能力を高めるが、現在では紙とペンより計算機の方が身近にある。筆算よりは、およそ3として暗算で計算できる能力のほうが有用だ。総合的な学習は調べ学習や、クラス内の発表練習、英語の学習などに割り当てられた。時代の変化に学習指導要領が追いつくまでにはラグがあるが現場の人間が内容を決められる授業がそのラグをうまく埋められるようになっている。初めて、パソコンに触れたのも、検索エンジンに触れたのも(当時使ったのはgooだった、なつかしい)、htmlに触ったのも総合の時間だったと思う。この勉強は間違いなく役に立っている。そして楽しかった。
学問も進歩してるし、教育も進歩しているんだと思う。でも、まだ無駄は多い。それは、これからもっと改善されていくんだと思う。
個人的な意見だけど、学校の勉強にやる気のわかない人は別のことをやってみるのもありだと思う。いま目の前にある勉強よりもっと役に立つことがあると思うなら、それをやればいいと思う。学校の勉強よりも役に立つことを見つけたいと思ったらそれを探してみればいいと思う。自分は学校の勉強より、プログラミングの勉強してゲームとかつくってた。それは学校の勉強よりももっと役に立つことだと思ったから。そういうことを続けていたら、IT系の会社に就職することが決まった。自分で役に立つと考えてやったことを評価してくれる人はいた。
ちょっと長くなったのでまとめる。
自分が考えた勉強の意味はこんな感じだ。勉強の意味は考える人ごとに多少違うものになるんだと思う。勉強には他にもこんな意味があるんだという人がいたら、ぜひその意見も聞いてみたい。勉強の意味は多い方がいい。一人の人が勉強の意味をたくさん感じられるようになったらそれだけ勉強をする人は増えるはずだ。
これは私も思っていたこと。
日本がこれだけ発展したのは、日本人の資質に要因があるというよりも、日本の立場がたまたま世界の潮流に合致していたせいなのではないか、と。
アメリカだって、陸続きな上下を比較的マトモな国家に挟まれているから発展できたともいえ、もしもメキシコの国家運営が100年前に完全に破綻していたとたら、防御壁の役割を果たさず、南アメリカから難民が次々に押し寄せて、アメリカ国内が大混乱をしていなかったかも知れない。
発展する国家というのは、何かしらの好条件に恵まれているもの。
ただし、それを利用できるかどうかは、その国家の構成員の決意や努力にかかっているのも確か。
同じように資本主義社会での発展のチャンスをつかんだアフガニスタンやイラクでは、人々にその意思がないために、そのチャンスを生かせず、混乱が続いている。