はてなキーワード: 御朱印とは
同大社は「御朱印をきっかけに信仰に興味を抱いてもらえれば」とするが、
中には御朱印帳ではなく大学ノートに御朱印をもらおうとするなど「スタンプラリー感覚」で集める参拝客もいるといい、戸惑いを隠せない。
あー、はいはい、博識アピールありがとう!『江戸時代の六十六部廻国巡礼が御朱印帳の起源』ね~、すごい知識だね~。でもさ、その豆知識、実生活で何か役に立つの?もしかして御朱印集めてる自分が文化人だとでも思ってる?
結局、江戸時代の人たちは信仰心でやってたけど、今は観光ついでのスタンプラリーじゃん。起源がどうとかドヤ顔で語ってる間に、せめて次の週末の予定くらい考えたほうが有意義じゃない?まあ、その豆知識で『おっ詳しいね!』って褒められたいのかもしれないけど、相手の顔が引きつってないか気をつけてね~。
私は特にどこの宗派が好きとか檀家であるわけではなく、主に御朱印や御首題をいただきにお寺巡りをしている。
そうなると様々なお寺の事情を垣間見れることがあるが、やはりお寺の厳しい状況を垣間見ることもある。
住職の高齢化も進み引退したりお亡くなりになったりするとそちらのお寺は他の同じ宗派のお寺の住職が兼務したり、後が見つからなければ廃寺になってしまうこともある。
私が知っている限りでもそのような事情で兼務されているご住職を知っているが、県を跨いでいたりすると双方の距離もそれなりにあり移動が大変で負担もかかる。
先日行ったお寺も元々は現在、そちらを管理されている方のお祖母様が始められたがお亡くなりになり遠くから同じ宗派のご住職を招いておられたそうだが残念ながら昨日でお寺じまいをされてしまった。
子どもなどがお寺を継ぐケースが多いがどこもなり手不足のようで、様々な事情で跡取りがいない場合がありそうなると前述の通り、他の住職が兼務したり廃寺となってしまう。
お寺の収入は主に檀家からのお布施であるが、最近は檀家離れが進んでいるようでそうなると収入も少なくなる。
懇意にさせていただいているお寺のご住職もお子様がいらっしゃり色々とお金がかかるとのことで、お義父様がオーナーをされているコンビニで週一でアルバイトされている。
また普段は一般企業に勤めながら住職の仕事をされていたり、自営業をされてそちらの収入で賄われている方もいらっしゃる。
お寺は幼稚園経営をされているところも多いが、近隣のお寺の幼稚園は少子化もあってか2年ほど前に休園(実質廃園)となり、一部の建物以外は取り壊して現在アパートを建設中である。
お寺は大きなところ以外はどこか近寄りがたい印象もあるが、それを払拭しようと御朱印に力を入れて凝ったデザインや限定のものを出したり婚活イベントや書展など様々な催しを行ったりと開かれたお寺を目指しているところもある。
御朱印をいただいたりご住職とお話をさせていただくと色々と勉強になることも多いので、まずは色々なお寺に訪れてほしいと思う。
私は数年前から地元の寺や神社を中心に御朱印をいただいている。
その中で気づいたことを書いていこうと思う。
まず御朱印には直書きと書き置きがある。
直書きは御朱印帳や順拝帳といった霊場や宗派専用のものにその場で直接書いてもらうこと、書き置きはあらかじめ紙に書いてあるものをいただいて御朱印帳に貼り付けたり
最近では書き置き専用のクリアファイルタイプの御朱印帳に入れたりする。
書き置きはご住職や書く人が不在だったり最初から直書きはやっていなかったり、(コロナ禍では感染対策で書き置きの所も多かった)切り絵や色がついた限定御朱印のものがある。
紙に直接書いてくださってある事が多いが印刷やコピーの場合もある。
直書きはお参りの際に書いてくれる方がいれば良いが、小さな所では不在だったりご住職がいない場合もありいただけない場合もあるので事前に問い合わせしたほうが無難である。
またご住職以外でもお弟子さんや奥様などに書いていただける場合もある。
また時間がないということで御朱印を拒否されるところもあり、ネットで検索しても何度訪れても断られたというお寺もあるが私も一度目は断られ、その次に電話で問い合わせたら日時指定でいただけた。
とても細かく丁寧に書かれており、お寺のお手伝いの方も初めてそちらの御朱印を見たとおっしゃっていたので、面倒でなかなか書きたくないという人もいるようだ。
時と場合により書いていただける人が違う場合もあり字体が異なるのでその違いの面白さもある。
個人的にまだ遭遇したことはないが同じ御朱印帳に寺と神社のものが混ざっている場合は書いていただけなかったり、日蓮宗では御首題と呼ばれているが同じ御朱印帳に他のものと混ざって書く場合は「妙法」と書かれてしまう場合がある。
先日、日蓮宗のお寺で頂いたときは神社や他の宗派が混ざっている御朱印帳にご住職に妙法と書いたものをいただいたが御首題もいただきたかったので後日伺うとお弟子さんが同じ御朱印帳に御首題を書いていただいたので人によったり、同じ日蓮宗のお寺でも混ざっていても普通に御首題を書いていただける場合もある。
御朱印の料金は一般的に300~500円であるが限定御朱印では手間やプレミアム等で1000円前後の所があったり、中には金額は任意だったりお金をいただかないというところもある。
普通の書き置きの御首題で1000円の所もあったのでお参りの際には充分なお金を持っていった方が良い。
お寺の場合は土日祝は法事が多く、ご住職がいない場合もあるのでなるべく平日にお参りにしたほうがいただける可能性は高い。
またチャイムを鳴らしても誰も出てこないこともあるが電話をかけると応対していただけることもある。
御朱印帳は寺や神社、文具店やネット通販でも販売されており1000〜3000円台が中心だ。
またダイソーでも300円で販売されている事もあり3色のラインナップがあり私も使用していたが値段が値段なのでページ数が少なくすぐにいっぱいになってしまう。
新西国霊場会「霊場巡拝(おまいり)いこか」というのが2019年にやってる。
新西国霊場90周年記念で、ギャグマンガ日和とのコラボ迷路とかと合わせて、
”新西国霊場の札所38ヶ寺が一堂に会するのは40年ぶりという貴重な機会。
回廊には38ヶ寺の御朱印所がずらりと並び、各札所の御朱印を一気にいただけます。”
というわけで自前の御朱印帳にコンプできたし、記念法要もあったりした。
50周年、90周年でやってるから、100周年の2029でもなんかあってもおかしくないかも。
四天王寺公式ブログ:https://www.shitennoji.or.jp/report/%E6%96%B0%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E9%9C%8A%E5%A0%B4-%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E5%B7%A1%E6%8B%9D%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E5%92%8C%E3%81%A8%E3%82%B3/
俺もこれまで糞対応を何回もされてきた
遠くからわざわざてめーらのとこまで行って御朱印もらおうとしたらいねーとかさ
桜の綺麗な時期だった。
神社やお寺が好きなので旅行に行くと必ずと言っていいくらい一つは神社仏閣を参拝している。
列に並んで賽銭を入れて鈴を鳴らして手を鳴らしてお参りをして、神社を出ようとして、そういえば御朱印はどこで貰えるのだろうと思った。
当時、私は御朱印を集めていた。周囲を見回すと拝殿のすぐ横辺りに列ができているのを見つけた。小さな社務所のような場所。なんだあんなすぐ横にあったのかと、引き返して列に並んだ。
私の番になって、さあ御朱印をと思ったその時、神社の人が開口一番、
と睨むように言ってきた。かなり不機嫌そうだった。
私はお参りした。間違いなく、やった。やったので「しました」と答えた。神社の人は全然信用していないようだった。
何故そんなことを聞かれるのか分からない。それでも「御朱印書いてほしいんですけど」と言ったら、
「書いてません。ハンコ押すだけです」
と言われた。
なんだそりゃと思った。どこでも大体ハンコ推して日付書くぐらいだろ。あらかじめ用意してある紙を貼るだけのところもある。
その時点でかなり嫌な気分になっていたが、じゃあ要らないですと引き下がることもできずに「それでもいいです」とお願いした。
神社の人はずっと不機嫌そうだった。
なんであんな対応されなきゃいけないのか分からず呆然としたまま隣の神社に行った。すぐ隣にも神社があった。
御朱印を貰うかどうか迷った。さっきの人が頭に残っていたからだ。
とても感じの良いにこやかな巫女さんが対応してくれた。ものすごくホッとした。
それから段々に怒りが込み上げてきた。
さっきの人のあの態度はなんだろう。
もしかしたら、と考えたのは、私がお参りした後、一度神社を出かけたことだ。小さな神社で、入り口から敷地の外に出るまでかなり距離が短い。出るか出ないかのところで引き返したせいで、お参りもしないで御朱印だけを貰いにきた不届き者と思われたのではないか。
だが私は間違いなくお参りした。
列に並んで賽銭を入れて鈴を鳴らして手を鳴らして、ちゃんとやった。誓っていい。やった。やり方が間違ってたとかなら仕方ないがそれならあんな言い方にはならないだろう。
誤解を与える行動をとったのは申し訳ない。だが、もし神社の人が参拝者を一人一人チェックしていたのだとしたら、私がお参りしたのも見ていたはずだ。しかし、あんなことを言ってきたということは見てないのだ。見てもいないのに私がお参りしていないと決めつけてきた。とにかくそれが腹立たしかった。
それとも神社を出かけた時点でもう一度お参りをやりなおさなければいけなかったのだろうか。賽銭を二回払わなければいけなかったのだろうか。
どうするのが正しかったのだろう。
今でも分からない。
なにより、あの時言い返せなかった自分にも腹が立っている。
「ちゃんとお参りしたのにその言い草はなんだ!ふざけんな!」と怒れば良かった。そうしていれば、もう少し、このもやもやした気持ちは小さくて済んだのではないかと思う。
あれ以来、なんとく御朱印を集めるのが嫌になって止めてしまった。
別の神社へ行ったとき、神社へ続く道の途中の店で見つけた、とても可愛い表紙の御朱印帳。とても気に入っていて、色んな神社の御朱印で全ページが埋まる日を楽しみにしていた。
捨ててしまおうかと思ったが、そのままゴミ袋に捨てるのもダメな気がして押し入れに突っ込んだままになっている。
処分の仕方を知っている方がいたら、是非、教えてほしい。
お母ちゃんは60代半ば。
コロナが始まったら頃から今日に至るまで、少しずつおかしくなっている。
昨年、お母ちゃんにとっての義姉がなくなってからもっとおかしくなった。
四十九日までは外食も外出もしない。楽しいことはしちゃダメと言って行動を制限した。
あれやこれやとマナーを調べては「あれはダメ、これはダメ、これもダメ、それもダメ」と、Yahoo知恵袋とかアクセス稼ぎの謎いサイトとかに書かれた謎ルールを見つけてきては制限をつけまくる。
「自分がそうすることで楽になるなら止めはしないけど、私たちにそれを強いちゃダメだよ」と言ったら私たちに外食をするななどと強いることはなかったけど、家族が外食しても自分だけはいかないとか。
どんどんひどくなって、書こうにも書ききれないほどお母ちゃんの謎のこだわりは強くなっている。
「お母ちゃんは、お母ちゃん教に入信してしまった」。それがいちばんしっくりくる。清潔を求めて手が荒れるまで手を洗って、1日分の洗濯をするのに数時間かけている。干した洗濯物が乾いたか乾いてないかを自分で判断できなくて、3日くらい干し続けて、乾いた洗濯物が床や絨毯に少しでもつくのをものすごく嫌がる。
こんなところに書ききれないほど、お母ちゃんの謎ルールは毎日増え続けている。
四十九日が終わるまでにと言っていた謎ルールは、いつのまにか義姉の次の命日(一年後)までに延長されていた。
喪中の間は寺はいいが神社に行ってはいけない。洗濯の仕方やら何やらをなんでもメーカーに電話しては「これで正しいか」「自分は間違っていないか」を確認するので、「神社の人にも聞いてみたら?喪中の間は行っちゃいけないんですか?って」と言ったら「神社の人はいいって言う。これは私の気持ちの問題だから神社の人には聞かない」だと。
どこかの知恵袋や謎サイトに書いてることを信じて、神社には問い合わせない。お母ちゃんは、前なら私が「〇〇の神社に行こうよ」と行ったらどこにだっていつだって喜んでついてきてくれた。私がご朱印帳をプレゼントしてからは、自分一人でもいろんな神社寺に行っては御朱印を集めていたのに。
今は、どれだけ言っても来てくれない。
お母ちゃんの楽しい思い出をたくさんつくりたいのに、お母ちゃんは「喪中だから楽しいことはしない」と言って家の中で汚いものを探してはそれに取り憑かれる生活をしてる。
もちろん、精神障害の自覚は本人も家族もある。私は新幹線を乗らなきゃたどりつかない距離で離れて暮らしているけど、父は実家に、兄妹は地元にいるので母は一人ではない。父は衛生観念死んでるので母のストレスの根源でもあるのだけど。
病院も「口コミがいいところがいい」と、なかなか行かないので、つい先日、私が付き添っていってよつやく抗うつ剤を処方してもらった。
これでよくなればいいが、本人も心配していたが薬に依存性してしまわなかも不安はある。ただ、もう自分では治せない域にいるので病院にかかるほかない。
そんな中、夢を見た。
お母ちゃんが、何かをしている。
私は浴衣を着付けてもらいたいらしいのだけど、お母ちゃんは自分のマイルールを済ますのに忙しくて私の浴衣を着付けてくれない。
「早くしないとお祭りに間に合わないよ」と私は困ってしまうのだけど、お母ちゃんは私の方なんて見向きもしないで「この汚れを取らなきゃ」とか「この床を磨かなきゃ」と言ってるばかりだ。
私が持ってる浴衣は、学生の頃にお母ちゃんが着付けてくれたものだった。お母ちゃんはお祭りのときはいつも必ず「着物はできないけどね」と言いながら、積極的に浴衣を着付けてくれた。
お母ちゃん、浴衣着せておくれよ。私は自分では浴衣着られないんだよ。お母ちゃんって、お母ちゃんの背中に向かって言うのにお母ちゃんは全然こっちを見てくれない。そんなところで目が覚めた。
いつだって、私たち子供のこといちばんに考えてくれて、人生で何よりも優先してきてくれたお母ちゃん。お金がなくても、どれだけ貧乏でも、それだけはずっと伝わっていた。
もう私も中年なので、子どもの頃と同じように甘えようとは思わない。お母ちゃんが子どもよりも夢中になれるものがあるなら、それを優先すればいいと思う。
でも、そんなに手を荒らして、ストレスと向き合いって、辛そうに辛そうにするものを見るくらいなら、私を見てほしい。一緒にお出かけしたいし、神社に行くときに「私入れないから外で待ってるね」なんて言わないでほしいし、浴衣をまた前のように着付けて欲しい。
大好きなお母ちゃん。
お母ちゃん教に取り憑かれてしまったお母ちゃん。笑っててほしいのに、なんでこうなってしまったんだろうな。
もちろん、これが私たち家族の介護の始まりかもしれないという気持ちもある。お母ちゃんは、もう自分を自分で元気にする力がないんだろう。薬を飲んで、少しでも良くなってくれたらいいけれど。
このままじゃ、お母ちゃんはあの世に行っても汚いものを探し続けて彷徨ってしまう。
私が死んであの世で再開しても、私の方なんて見向きもしないかもしれない。
悲しい。