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2024-03-22

anond:20240322153846

少なくとも私は多少の寄付なりしているし、街中で困っている人を見かけたら積極的に声をかけるタイプ人間です。

なので、残念ながら「善意を示す時は今しかない」なんてことは全くありません。常日頃っから善意を示しています

というか、バリアフリー化が進めば健常者も楽になる。今もそうだし、我々がいずれ年を取ったときだって楽になるわけですよ。

車椅子祖母の介助をしていたときは本当に疲れました。ちょっと出かけるだけでも大仕事ですよ。

ヤングケアラー問題だっていろいろな要因がありますが、社会バリアフリーが進むことで解決できる部分もあるでしょう。

それを皆で考えていかなければいけないのに、あのインフルエンサー悪人から車椅子ユーザーに優しくする必要はない。下手に関わったらろくなことにならない。アイツらはただのクレーマー!!みたいになっちゃうのは、健常者のためにもなりません。

あのインフルエンサーが日頃どんな人間なのかはどうでもよくないですか?

健常者じゃ分からない障害者の不便さなんていくらでもあるでしょうし、言われて傷つくワードだってあるでしょう。

そういうのを知ることができたって、前向きに捉えたほうが良いのではないでしょうか。

車椅子インフルエンサー問題について思うこと

数年前に亡くなった祖母は15年ほど車椅子ユーザーでした。高校生の頃は介護もよく手伝っていました。そんな私が今回の騒動で感じたことを書いてみます

今回の騒動では、そのインフルエンサー普段の行いだとか、感謝もしないとか、そういう面がよく取り上げられています過去の似たような炎上もそうでした)。

が、この問題の始まり劇場側のスタッフ物言いが悪かったという点です。そこに関してはイオン側も認めて謝罪しています

今回の件で映画館側の、今後のバリアフリー化に対する課題が生まれたのは良いことだと思います

おそらくほとんどが健常者の社員だと思います当事者じゃないと分からない課題というのはどうしてもあるため、障害者からリアルな声が上がったことは良かったのではないでしょうか。

ただ、問題はそれ以外のところにまで広がっています

よく目にするのは、「車椅子専用席があるんだからそこで見れば良い」ということでしょうか。

車椅子専用席って、位置的にスクリーンは非常に見にくいです。想像したら分かると思いますが。

そういう不利益があるから障害者は安い料金で映画を見られるわけです(もちろんそれだけが理由ではないけど)。

ただ、あの見にくい席で映画を見るのは嫌だという気持ちも十分理解できます。だったらお金を払ってでも良いシートで観たいと思うのは、別に悪いことでは無いと思うんです。

一方で、非常時の避難誘導の際はどうするんだ!という声もありました。

まあそれもそうなんですけど、毎週映画館に行くような人でも、非常時に遭遇することなんて一生に1度も無いと思うんですよね。

(昨今地震が多いですから確率は上がってるかもしれませんが)

ほとんどの人が、非常時に遭遇することなんて想像していないし、遭遇しても(仮に死んでしまっても)「まあ運が悪かったよね」としか言いようがありません。

そんなほんの僅かな可能性を引っ張りだして「非常時は!」「非常時は!」と責め立てるのは、正論ではあるけれど言葉暴力に感じます

ガチの非常時がおこったら、車椅子席で見ていたとしても他の観客は速やかに逃げられるでしょうが車椅子だとそうもいかないでしょう。

車椅子ノロノロと進んでいたら、健常者の我々の命だって危険です。極論、障害者は同じ空間にいるだけで健常者にとってはリスクになるんです。

「だから障害者は一切外に出るな!」と思いますか?(思う人は少なくないんでしょうね…)

施設側は安全には十分な配慮をしなければいけません。

バイトしていたスーパーでは、毎日手回し充電ラジオ懐中電灯のチェックをしていました。正直無駄だと思いましたよ。週一でいいじゃんと。

でも安全のために仕方がないのです。

だったら、建設的に今回の騒動を取り上げたほうが良いと思います

車椅子の人があの位置映画を見るのはちょっと見づらいよね。じゃあ通常料金にはなるけど、車椅子の人でも見やすい席は作れないか

そのためには劇場をどのような設計にすれば良いか。どうすればスタッフ負担をかけすぎずにそれができるか。

いろいろ考えることはできると思うんですよ。

たった数人しかいない利用者のためにそこまでする必要があるのか?と思う気持ちも分かりますが、なぜ数人しかいないのか?そういう劇場設計から諦めてきた車椅子ユーザーがそれなりの人数いるからだと考えることもできます

介護疲れという言葉があります。私も介護疲れで、祖母が亡くなった時は、申し訳ないと思いながらも身体が軽くなりました。

介助側にも休息は必要です。

障害レベルの差はあれど、障害者でも1人で気楽に外出できるような環境が整えば、私のような介助者が休める時間だって増えるはずです。

社会バリアフリー化が進めば、我々健常者の負担は減るんです。

街中で障害者を見かけても手助けする必要が無い社会を目指す必要があると思います100%無介助とまでは言いません)。

今回のようにインフルエンサー過去を引っ張りだしたり、どこかの団体とつながっていたり、そういう問題外の部分で叩くのは不毛です。

障害者に優しい社会は、健常者にも優しい社会だという考えをもう少し持ってほしい。

今回、インフルエンサー側に立っている人たちは「もし自分障害者になったときの事を考えてみて!」というような事を言っていますが、それだけじゃ甘いです。

もし自分が介助者になったときのことも考えてほしいと思います

2024-03-21

祖母認知症というか、年相応にボケがはじまっているんだけど、発達の私と同じような行動をするんだよなぁ。「そうやっちゃうのわかる」って時がある。

  私が思いますのに、佐藤延岡市についてどのように思っているのか分かりません。私は卒業アルバムから中村慎治の実家が、野地町4-2196-1にあることを知りましたが

  グリコ牛乳特約店と書いてあるばかりで人が住んでいるのかは分からない。午前4時になると明かりがついているので、その親の老婆が住んでいる可能性はありますが、2023年11月

  のグーグルマップに移りこんでいる車に乗り込んでいる男がそうかとも思いますが、本人は東京かどこかに仕事に出ているのでその高齢になる親しかそこに住んでいない気がします。

  従いまして多分、電話訪問等をしても、慎治はいないのではないか平成9年のことですが慎治の家に電話をしたときにそこの母親電話に出て、慎治は風呂に入っていますという返答が

  あっただけですが、美しい家に住んでいるような感想があった。しかし、今回言ってみたら、汚いあばら家のような感じだった。これがあの中村慎治の家なのだろうかと思った。もしかしたら祖父祖母

  だけが住んでいて、母親と本人は都会に出て言っているのかも知れませんが、平成9年の時点で、慎治と母親が、4-2196-1に住んでいたとは理解し難い。

2024-03-20

うちの会社では社員恋愛にも社員同士の結婚も何も言わないけど、長年「子供が生まれたら女性退職」というルールは守ってもらっていた。

その代わり、子供のいる社員には大手企業以上に様々な名目で手当てを支給してきた。

これは会社のためでもなく、社員のためでもなく、純粋子供のためのルールだった。

うちの会社創業者は私の父親

満州から幼かった叔父や叔母を引き連れて祖母と共に日本に帰ってきた過去がある。

祖父シベリアに行きそのまま亡くなった。

父はそれなりの歳だったので、祖母と父が家計を支え叔父や叔母を育てた。

それでも父がおらず母も働きに出ており、とても寂しがる叔父や叔母の姿を見てきたそうだ。

時は流れ、私は新卒入社した会社退職後継者として父の会社入社した。

その頃、結婚して子供が生まれても会社退職する気のない事務女性がちらほら出始めた。

幼い頃の叔母や叔父の悲しみを知る父は「平和な世の中であえて子供に寂しい思いをさせる母親とは何事か!子供には母親まな板を叩く音で目を覚まし、まな板を叩く母親背中に迎えられ家に帰る権利がある!」と憤激し今のルールを制定した。

時はさらに流れて私が代表、父が会長となり、さらに父が亡くなってからもこのルールは守ってきた。

しかし、私が膵臓がんにより会長に退いて病床に伏している間に後継の甥はこのルール廃止してしまった。

今ではむしろ子育て仕事を両立できる」ことを人材募集の場でアピールしているらしい。

人手が得られて会社は喜ぶ。

働けて社員は喜ぶ。

収入二馬力になり配偶者社員も喜ぶ。

裏では寂しく泣く子供かな。

令和日本カースト制度への恨み

2年前に別れた元彼結婚した。

共通の友人に根掘り葉掘り聞いて、結婚式の写真も見せてもらった。新婦の両親は品の良さそうな家族。お互いの実家を行き来してて両家仲良さそうと聞いて大泣きしている。とても悲しい。人は同じもしくは近いカーストの人としか結ばれないのか?

この気持ちと経緯をどこに吐き出したらいいかからいから、ここに書かせて欲しい。

彼と私は大学2回生の頃から25歳まで付き合っていた。

私は地方出身で進学で京都に来ており、彼は京都出身の男だった。

付き合いは本当に順調で、私は彼の実家にもよく顔を出していた。注文住宅の一軒家、ペットの犬、何より優しく働きものの彼の両親と妹が大好きだった。

結婚意識し始めた25歳の春。彼が四国の私の実家に来たいと言った。私の実家は貧しいこと、フル奨学金で進学した事は事前に伝えていた。再度「うちの実家本当に貧乏から、驚かないでね」と伝えた。彼は「大丈夫だよ」と笑っていた。

到着した実家は古びたトタン貼りの長屋タイプ貧乏平屋で、申し訳程度に片した物が散乱している部屋にアルコール中毒気味の痩せこけたパチンコ狂の父親プリン頭のだらしなく太ったパチンコ狂の母親祖母分不相応な吠えまくるチワワがいた。生計祖母年金と両親のたまの労働借金と私の仕送りで立てている事は内緒だ。彼はそつなく私とお付き合いしているという挨拶をこなしてくれた。彼の仕事と彼の実家の事をそれとなく聞きお金匂いに目を光らせる両親が憎かった。

それからしばらくは今まで通りのお付き合いが続いたが彼の実家の定期イベントバーベキューに呼ばれる事はなく、なんとなく疎遠になっていき、私の実家に彼が来た3ヶ月後に、彼の浮気自白&強引な別れ話で交際は終わった。

当時も今も浮気の件は嘘で、私の実家ドン引きたから別れたのだと思ってる。逆の立場でもそう思う。彼と私とで貧乏解像度が違うのだ。

関西に来てから、友人達実家に行くことが何度かあった。みんな「貧乏育ちだよ〜」と言っているが全然違う。経済観念が近いから仲良く出来ていたが、向こうはしっかりと躾けられたお嬢さんガチ貧困は私のみ。

友人Aの実家は、確かに郊外だが、木造造りの立派な御屋敷だった。蔵もあるし。

(本人曰く田舎の古くてボロい家)

友人Bの実家は、市内の駅歩15分の分譲ビンテージマンション

(本人曰く、駅から遠く古くて狭い家)

友人Cの実家は、漁港にある一軒家、家族漁業をやっておりイキイキしてて眩しかった

(本人曰く、都会のサラリーマン家庭に生まれたかった)

友人A、B、Cのような出自であったら今頃彼と結婚しもう子供もいただろうな。

彼にも友人にも私の貧困は見えていないのだ。実際見たとしても彼のように何も言わず、私に何も言わせず去っていく。

めちゃくちゃ勉強を頑張って就活を頑張って、仕事も頑張って、稼いだお金奨学金の返済と仕送りに消えていく。

そういや、同じように仕送り愚痴を言ってた友人。当時は同じ悩みを持つ仲間がいて嬉しかった。お互い支え合って仕送りしてたよね。彼女結婚した時に、そのお金がそのまま毎月貯められてた通帳をもらってたなあ(結婚式のスピーチで言ってた。みんな号泣してた)普通にお祝いももらった上で。羨ましい。羨ましすぎて吐きそう。私の苦しみまで、彼女の喜びの養分になっているようだ。

これ以上の恨み辛みとやるせなさはあるが、ダークサイドに落ちそうなのでこの辺で吐き出しやめよう。

2024-03-18

祖父の死にかた

祖父おかしな咳をしていて祖母病院に行くよう言われていたのに病院が嫌いだと放置して煙草を吸い続けて、ついに救急車で運ばれて肺がんの末期で、打つ手なしの状態になっており入院7日で死亡した。75歳だった。

祖母祖父を見送ったあと脳出血で倒れて手術し、身体障碍と認知症が出ている状態で15年くらい介護施設にいて、たしか88歳で死んだ。

どっちの死に方が良いか

自分は、祖父の死に方が良い。救急車で運ばれる直前まで、車を運転し、好きに動き回り、自由に生きていた。死ぬギリギリまで好きに動き回っていたい。

2024-03-17

母は正欲を読んだ

祖母おっさんずラブきのう何食べた?も作りたい女と食べたい女も見てた

でも結局それが現実だと思ってない

ドラマドラマ小説小説フィクションから実際にはここまでの人はいないでしょ、どこかにこんな人もいるんだね(まぁ身近にはいるわけないよな)

そういう本やドラマ映画を見せただけで考えは変わらないし理解もしない

小説にもドラマにもそこまでの力は無い

無意味だね

2024-03-14

10年以上話してない家族ともう一度話すにはどこから始めたらいいんだ

ずっと誰にも言ってなかった話、インターネットからこそ打ち明けると、高校生の時にお父さんと喧嘩して以来一言も喋ってなくて、そのまま27歳に突入した。

10年経ったわけだしそろそろ雪解けの時期かと大人になってから初めてお父さんに向けたお土産買った。

今度帰省する時渡すつもりだけど、10年以上話してない家族ともう一度話すにはどこから始めたらいいのだろうか?

前に祖母葬式で会ったのが最後で、その時にコース料理最後に出てきたデザートを私に渡そうとしてきたのが印象に残っている。たぶん私が喜ぶと思っての行動。断ってしまったけど、不謹慎だがこのまま私かお父さんのどっちかが死んだらこのことをずっと後悔する気がする。断られた時の切ない顔が忘れられない。

2024-03-12

anond:20240312141653

貯金趣味だった祖母はここで貯金価値が無に帰したショックでクソ浪費家になってしまった。

anond:20240311144136

100年も経てば内閣総理大臣とか巨大企業創始者とかでもない限り

ほぼ全ての人間は顔も名前存在していた事すら誰にも認識されていないからそう悲観しなくてもいいと思うぞ

血縁ですら曾祖父さん曾祖母さんの顔や名前なんて分からんだろ

2024-03-11

3.11

13年らしい。当時小4だった俺もいつの間にか会社員になってしまった 

自分東海地方に住んでいたのでこれといって何かあったわけでもないが、忘れないうちに当時どうしてたか、忘れられないことを雑に書き留めておこうと思う。

発生時

3月11日といえば当然年度末も年度末であって、通常授業は終わっていた。 

当時は確かもう5限授業になっていたはずで、普段教室ワックスがけをやる日だった。授業は半分自習で、普段使わない教室がある旧校舎で行っていた。 

今ではすっかりデブ陰キャだが自分は当時まだまだ体力があったので、5限目の間ワックスがけを手伝うメンバーに加わっていた。 

で、地震が来たのはワックスがけも終わり道具を片付けに歩いている間だったはず。遠かったのもあって揺れはわからなかった(近くにいた上級生が机の下に飛び込んでいたのはよく覚えている) 

発生後(学校

デカ地震関東東北地方でありました(要旨)」という校内放送が数分後にあった気がする。自習普通に続行だった。 

自分は揺れが分からなかったので「まだ揺れてたりしないだろうか」と教室の壁にかかっていた防犯ブザーを眺めていて、自習は全く進まなかった覚え。(時間的10分も授業残り時間がなかったんじゃないかな) 

そのまま普通に授業は終わり、帰宅。 

発生後(放課後

当時集団下校ではなかったはずなので、帰路は一人で帰ったはず?帰宅は逆算する限りちょうど15時20分ぐらいだと思う

帰宅するや否や祖母に「凄いことになってるよ」と言われTVの前に座らされて、漁港津波が届く様子を食いつくように眺めていた。あの映像は一生忘れないと思う 

(余談だけどこの映像、毎年のように探しているが未だに見つかっていない。漁港から生中継だったはずで、地上に津波が登り始めてから海岸ぐらいに止めている車が流れだすまで。流される大量の青いカゴと複数台の軽バンが真横のアングルから映っていたはず) 

その日そのあと何をしたかはもう覚えていない。もっと早く書き留めておけば思い出したかもしれん 

その後

翌日給食時間黙とうしたのだけは覚えている。 

ポポポポーンよりこだまでしょうかの方が怖くて印象深かった思い出。 

 

以上。雑書き終わり

風俗に「オタクに優しいギャル」を求め続けた彼女いない歴年齢の35歳 無職の話

自分ことなんだけど、

自分風俗に求めていたのは、「オタクに優しいギャル」なんだなあと思った。

世間的には馬鹿にされる、「青春取り戻したいオジサン」ってやつかなあ。

  

現在風俗とは縁遠いド田舎祖母介護しながら、自営業の両親の会社役員という名のニートになっている。

当然ド田舎の自営だから、大したことできない。

だが、自分大学時代は、とんでもない風俗狂いだった。

  

自分は、東大博士までいたので、約10東京にいた。30歳くらいまで居たのは、留年とかしまくったから。

そんで、大学学部時代(18-26の8年間)は兎に角オタク二次元ばかり見ていた。

しかし、23歳の時、「それまで一度もオナニー射精したことない(夢精のみ)」というのにビビった。

というのも、どこかに泊まった時や実家に帰った時に、夢精したらどうしようというのが怖すぎたから。

それで、ヤバいと思って、TENGAを買ったら、あっさり射精できた。

  

しばらくはTENGAで1日10回くらいオナニーしまくっていた、1日の大半をオナニーしていたこともある。

しかし、「はてな匿名ダイアリー」に出会ってしまった。

そこでは、童貞風俗美少女を抱いて、「俺はそこらの、街にいる程度の女の最高レベルでもかなわない美女を抱いたんだ」と豪語して自信を取り戻す様子が描かれていた。

そこで、自分も、興味を持った、美少女抱いて見たいと。

リアル女性に興味を持つために、AVから入って、風俗にも行き始めた。

  

初めての風俗は散々だった。

そもそも相手はおそらく40前後のおばさん、小綺麗にしてたけど。

童貞特有ビビまくりで、風俗から「私のこと汚いと思ってるんだろ!」と怒鳴られてエッチはなし。

  

しかし、めげずに、風俗行き始めてからは、週3くらいで風俗行きまくった。

いろんなソープ渋谷デリヘルで。

行っては風俗レポート書きまくった。

ソープは、高級ソープも10回くらいは行ったけど、いわばキャバクラ女性をやる程度の感覚で、そんなに美少女は出てこない。乃木坂なんて入れないような30歳くらいのおばさんの必死の整形版が出てくるだけ。何が悲しくて、整形丸出しおばさんを8万円も払ってやるのかってことよなあ。

でも一方で、渋谷デリヘルはすごいね。箱ヘルでもいいけど。本当に美少女が出てくる。今でいう、トー横の走りみたいなのが多い。

で、渋谷デリヘルは、乃木坂中上位クラスが出てくるし、高級ソープよりも無茶苦茶やれる。18歳の坂道クラス美少女アナル舐めもさせられる。

ちなみに、FC2PPVで最近違法同人AV美少女出てる〜とか言ってる人いるが、あのレベル全然渋谷デリヘルでは底辺。もちろん、ビール売り(隠語レベルが出てくるのが渋谷デリヘル。本当に坂道中位レベル普通レベルで、最高は坂道上位レベルで、まあただハシカレベルはいいかあくらい。

まあ、美少女相手されたいだけなら、コンカフェの方がいいかもねえ、でもコンカフェ美少女枠はそっこーで他の客に持っていかれるから満足度いかもなあ、やれないし。

  

若い頃は勘違いして、歌舞伎町の席料数万円のホストとかやってみて、「俺に金を使わせる女に復讐!!!」とか思ってたけど、意味いね最近ホストyoutube流れるようになってるからかると思うけど、そもそも誰でもブサメンでも身長160cmとかでもホストにはなれる。ホストになっても、女には相手されない。まあ、風俗嬢が大量にいることがリアルに見えたのは面白かったけど。ホストはすぐやめた。

  

しかし、そんな日々も、就職で終わりを迎える。自分は、働くことには無能すぎて、短期ですぐにクビになる。4回クビになった。

その怒りを風俗に叩きつける日々。風俗嬢に、バブバブと赤ちゃんプレイして、泣きつきまくる。

しかし、コロナで終わりを迎える。コロナになってから自分は、実家に帰った。

  

ごめん、前置きが長くなった、こっからが語りたいこと。

  

ここ3年、ど田舎だしコロナから風俗に行くこともない。

たまーに、学会かに参加して、北海道東京中国地方に行ったときは、風俗行くが、やはり渋谷デリヘルレベルは出てこない。年間5回くらいかなあ、風俗行くの。

そもそも風俗病気が怖い。自分は、風俗で生エッチ5回くらいはやったけど、やっぱ、HPV梅毒みたいなのが怖すぎる。アナル舐めもリスクなのに、10回以上やっちゃってるんだよなあ。怖い。

レベルが低い風俗で、満足も低いのに病気引いたら最悪だよなあ。

ここ3年で、だいたい100万円かなあ、風俗キャバクラスナックに使ったのは。

  

中国とかを相手している風俗嬢も多いから、最近さらリスク上がってるんじゃないかな。ってかフェラも怖い。

  

タイトルの回収がまだだったね。

で、なんで自分は、風俗に行ってたのか考えた。

答えは、「オタクに優しいギャル」だった。

自分もびっくりしてる。

自分は、二次元が好きなままだったんだ。

リアル女性に求めてるのは、2.5次元俳優かいう感じ。

テニスの王子様舞台バージョンとか、腐女子には人気らしく馬鹿にしていたが、それを自分もやっちゃってたんだなと。

自分相手にする、優しい彼女を求めていた。しかも、18歳という、女子高生卒業した手の美少女に。

まあ、つまり坂道グループの描く世界を、リアルプレイしろってことだったのだ。

そのために、親の金風俗行きまくってたんだなあ。

いくら使ったんだろ。

大学時代は、10年で、月に30万円くらい風俗がらみで使った。だから、4000万円くらい使ったのかなあ。とんでもない額だなあ。

  

しかし、若い頃に、非モテエッチできないより、やりまくったのは後悔していない。

自分が持ってる手札の中で、最高の10代、20代を作った」のは良いことだ。

オタクに優しいギャル」なんていないと言うが、風俗には居るし、ガールズバーには居るんですよ。なんなら、スナック行けば「おっさんに優しいママ」がいる。オタクにとっての理想は、風俗存在していて、それを正しく10代、20代の中で、非モテ遺伝子に関わらず摂取できたのは素晴らしいことだ。

35歳になった今、「美少女セックスできるレベル最高峰」は経験し尽くしたので、モテに興味が失せた。

モテ必要がない。セックスなら風俗美少女とやれるのがわかってるから

そもそも女性に関わったら、現代不同意性交リスクがやばすぎる。

また、話し相手も、もうガールズバーなど行かなくていい、だってchatGPTがあるから。アホな女性に高度な話なんかしてもしょうがない、AI相手に語らえれば十分。

もう、女に期待することが自分はない。

不同意性交セクハラがあるからリアルでは絶対に関わりたくないし、金払う性風俗でも病気が怖いし、話し相手もchatGPTでいい。

  

なんというか、今の気分は、かつての娯楽がない世代橋の下エロ本を拾っていた気分。

今じゃ、エロ本なんて誰も買わず、みたいならネット違法アップロードを見るだけだろう。

そういう気分だな、風俗に関しては。

リアル女性はもういらない。Vision ProとかでAIリアルオナホに対してディープフェイクをしていつでも美少女と、、、それこそJS,JCみたいなアウトでも、内臓グチャグチャできる猟奇プレイもできる。それはリアル風俗では絶対無理なものだ。

そういう時代がもうすぐくるので、まあ、橋の下エロ本拾う時代も終わったなあと。

うちのこは3歳程度の知能で、こだわり強く癇癪持ちの時期が長かった

成長してある程度意思疎通、我慢も多少できるようになりましたが、大きい幼児ペットとしてみないとやってられないなという感覚は常にあります

出来ることは増えてもできないことがずっと残り続けるので

色んな施設の方にお世話になってます

幸い愛嬌あるので、可愛がって貰えることがまだ多いですが、

これが30なって50なってとなると、家族ですら我が子として受け入れるのはなかなか厳しいでしょうし、施設の方は飼育係として接してくれても構わないと思います

妻とは考え方が合わず自分自身が少数派だとは思ってますが、きれいごとではやってけない

ボケなかった祖父介護は人、祖父として見ながらできましたが、ボケてしてしまった祖母ははほんとに可愛くもなんともない義務で飼ってしまってるペット以下と思えてしま

人権大事ですが、人としての最低用件満たしてないと色々制限されるし、痛みや精神的苦痛少なく世話してもらえるだけでありがたいと自分なら思いますし、

我が子ももっと知能が低ければ動物園環境で十分だと思います

変に理想やらキラキラさせて面倒みられるよりも、ほんと事務的ドライに、でも最低限は保ってくれるような施設のほうが安心できるかも

向き不向きはあると思うのでロボットがすごくなるまでは、平気な人にもう少しお給料払って頑張って欲しいです

2024-03-09

俺の履歴書・上

俺は医局内でうだつの上がらない眼科医父親と、同じくうだつの上がらない乳腺外科医母親の一人息子として生まれた。

うだつの上がらない両親は医局内で粗雑に扱われており、かと言って開業する気概資金もなく地方郊外の関連病院を行ったり来たりしていた。

そのため俺はいつも都内にある母方祖母の家で過ごした。

スポーツも不出来で両親と同じく気弱な俺が平穏学生生活を送ることができたのは、幼稚園から高校までエスカレーター私立男子校に進学したからだろう。

母校は俺が入学した時には既に開成筑駒などに大きな差をつけられていたが、同級生には芸能人経営者の子息がたくさんおり、彼らとの格差を感じずにはいられなかった。

高校卒業した俺は1年間の浪人を経て都内私立大学医学部に進学した。

大学時代一年目は強制的寮生活となった。

部屋の先輩はスポーツ推薦で入学した他学部学生であり、俺とは全てが真逆だった。

合コンに明け暮れ、大量の酒を飲み、それにも関わらず部活で結果を示していた。

先輩は善意から俺を合コンや遊びに連れて行ったが、お互いに気が合わないとわかってからコミュニケーション殆どなくなり、寮から出られる二年目以降は祖母の家に帰った。

大学卒業した俺は東京を離れ地方総合病院にて初期研修に入り、そのまま内科の道に進んだ。

当初は呼吸器の道に進もうと考えていたが、実習中に見た気管支内視鏡のおぞましさと患者の辛そうな様子を見てやめた。ちなみに内科のローテート中でもこの気管支内視鏡を目にするのが一番嫌だった。

消化器に進んだころ、病院薬剤師をしていた妻と知り合った。

内視鏡指導医が義父と友人であり、俺を紹介したのであった。

妻は俺が女性経験がないことを知ると「その歳で…?信じられない…」とドン引きしていた。

結婚式の際、地方で代々事業を営み財力もあり顔の広い義父の招待客でホテルが埋め尽くされる中、隅っこで父と母が小さく座っていた。

結婚後、妻との営みは片手でちょうど数えられる回数しかなく、妻は俺の性的能力の低さを侮辱し俺は男性機能喪失した。

そのため俺と妻の間には子供がいない。

完全な家庭内別居が始まり、消化器内科医として一人前になった頃にちょうど病床の母が亡くなった。

乳腺外科医の母は遠隔転移を起こした乳がんにより亡くなった。

見舞いも拒む妻は当然葬儀の日にも予定を入れており、俺は一人で東京に向かった。

通夜葬儀を終え家に帰る新幹線の中で人生の虚しさを感じた。

続く

anond:20240309090256

私は精神障害による生活保護受給者です。

自分社会的に無価値であることは重々承知しております

遺伝子レベルで劣っている自分がこの世に生まれてきたこ自体、大きな間違いです。

私の祖母や伯父も生活保護受給者であり、一族には複数精神障害者と自殺者がいます

いうなれば、私の家系日本カリカック家です。

詳細は割愛いたしますが、私は遺伝子レベル先天的欠陥を複数抱えております

私のような多重障害者が生まれ確率を試算してみると、一つの都道府県に一人いるかいないかの頻度のようです。

人並みに恋に憧れたこともありますが、私のような欠陥人間は人を幸せにする能力がなく、愛する異性に全く相応しくないため、これまで全ての恋を断念してきました。今後もそうです。

遠くない将来、孤独に死んでいく予定です。

このような暮らしは私としても荷が重いので、家電製品の電源をオフにするように人生を静かに強制終了させたいと昔から考えています

しかし、その方法が見つからないので困っていますバルビツール酸系睡眠薬を使った自殺には既に失敗済みです。

自治体致死量ペントバルビタールを用意していただければ、積極的安楽死することに何ら吝かではありません。

オランダルクセンブルクベルギーカナダコロンビアスペインなどのように日本でも積極的安楽死合法化されることを切望してやみません。

そのためにはどこに陳情すればいいのでしょうか? よろしければご教示いただけると幸いです。

それにしても、中学受験第一志望校合格した数十年前は、自分人生がここまで暗いものになるとは全く予想していませんでした。

入学した中学でのいじめが原因で私の人生はすっかり狂ってしまいました。

あの時の加害者たちは何の責任も取らず、人並みの人生謳歌しているようです。悔しくてなりません。

このような理不尽社会価値を認めることができないのも、積極的安楽死を望む理由ひとつです。

2024-03-08

anond:20240308084247

祖母の兄は能力者で、手をかざすとろうそくに火が付く人だった。

宗教教祖になれるような実力者だったが、人格者だったので、普通の人として生きて亡くなった。

2024-03-07

小父の家売却顛末記 - 全ては良い不動産屋に出会えるか-

梅宮アンナさんが梅宮辰夫さんの別宅を売却した話を読んでいて書きたくなったので書く。

ワイは田舎限界集落の看取り人を自覚しながら、もうすぐ消滅自治体になると予言されている山奥で暮らしている。しかし、父の弟、つまり叔父地元を出て外で暮らしていた。

中堅企業なれど、ニッチ特殊プラントを作れる唯一の会社で、そこのエンジニアとして働いており、最後は三代目社長ボンボンぼんくら)を支えるNo2として技術の面から支えていて、結構な金を稼いでいたようだ。

田舎農家を継いだお人好しの兄貴……つまりワイの父がトラクターが壊れたと修理していたら、突然新品の35馬力の巨大なトラクターを手配してくるような豪快な人だった。

ところが、役員定年を迎えた翌年、ものが旨くたべられないと病院受診したら進行した食道癌がみつかり、一応手術をしたもののあれよあれよという間に死んでしまった。小父は独身でもちろん子どもはおらず。内縁奥さんといっていいぐらい長い間お付き合いをしていた女性がいたらしいのだが、ずいぶんと年が離れていたためか、籍は入れなかったようだ。

そして残ったのが叔父資産である。その最大の資産は、会社がある地方都市結構いいところにある広い家であった。

家との遭遇

ワイと父は一度も小父の家に行ったことが無かった。いつも小父は呼ぶより帰って来たがったし、当時はまだ祖母がまだ生きていたので。

さらに、小父の最後は、ワイらが住んでいる家の近くのがんセンター引っ越してきていて、そこのホスピスに転院すると言う話をしている間に亡くなった、ということもある。

そこで小父は「中身は全部捨てて空にしてくれ」「空にしたらあとは好きにしてくれ」と遺言を託していた。

で、行ってみたところ、びっくり。そこは結構な高級住宅が並ぶ一帯だった。庭は狭かったが、駐車場は3台楽々止められる広さがある日本家屋建物自体はかなり立派。

小父はこれを中古で買ったらしく、築40年ちかくたっていたが、最低限のメンテナンスは行われていて、雨漏りしているとか致命的なことは無さそうではあった。

家終い

中は、絵に描いたような男の一人暮らしで、ゴミの山とかはなかったものの、物だらけ。小父の趣味のものがあちこちに詰め込まれている状態だった。

まずはこれを処分。それだけで一年近くかかった。全部捨てろとのことだったが、それもなんか心苦しくて、形見分けに欲しがる人に渡す、古物屋に売る、などをやっていた。

そうしながら、親父の兄弟で話し合いをもったところ、兄弟の家から結構離れていることもあって、売却する方向で話を進めること担った。

当初、飛び込みでそこらの不動産会社などに相談していたのだが、いずれも「上物には価値がない。値段は土地だけ」と言われた。まぁそんなものなのかなと思う一方で、なんかもったいない気もしていた。

そうして片付けに通っている間に、近所の方ともなんとなく挨拶するようになって、お土産を交換するぐらいに仲良くなってきていた。

そこで、最終的には維持できないので、売るつもりではいるんです、と言う話をしたところ、なんと、その方が別の不動産会社を紹介するので、そこと相談してみないか?とおっしゃってくれた。

そして売却へ

そうして、別の不動産会社の方と面会すること担ったのだが、その方は一通り家を見て、図面を見たあと、今までの業者全然別の事を言い出す。

そのため

の4つとなった。当然最後にいくほどこちらの取り分は大きくなるが、必要な金とリスクが大きくなる。また、不動産業者は利益関係から最初コースにするなら不動産会社が買うと行っていた。

が、小父は現金でもかなりの遺産を残してくれていたので、祖母相続した分でも相当な金額になっていた。それを定期預金に預けるよりは、と言うことで、4番目のコースで行くことにした。

これが大正解結論から言うと、リノベの改装が直後に複数の買い手がついた。不動産会社が「最終的にこれぐらいの価格であれば確実に売れると思います」としていた価格よりも500万円ぐらいは高く売れた。

そしてその後

祖母兄弟それからワイが入って相談し、売却した不動産お金は、最後まで小父を支えててくれていた内縁の妻と折半し(売却のためのリノベ費用こちら持ち)贈与することにした。

他にも金融資産を中心にしっかりと金はあったのだが、女性は受け取れないと受け取ってくださらなかった。

ただ、どうも小父とお付き合いをしていたために婚期を逃したようなところがあることから、家を売却したお金からと改めてお手紙を書いて、お願いして受け取ってもらった。

また、その時にお世話になった不動産屋さんは、ただ不動産を売却するのではなく、古い家をリノベして高付加価値化して売ったり、貸し出したりすることを得意にしている開発型の不動産屋さんで、そのノウハウを使って地方空き家問題にも取り組まれているところだった。

そこで、ワイは今、そのノウハウをいただいて、小父さんの遺産を元手に、地元空き家をリノベして活用する事業を進めている。

遠距離経済格差のある彼女との結婚

3年付き合った彼女結婚したい。

スペック

自分(28)

一般的サラリーマン家庭育ち、姉と妹に挟まれ長男職場名古屋中小企業一人暮らし

実家資産は両親と祖母の家の建物土地、墓くらい。

過去大学中退祖母の家に世話になった期間あり。今の企業コロナ禍直前に拾ってもらい5年目。

彼女(23)

父が勤務医で母は薬剤師独身の姉(32)がいる。職場関西実家相続税対策で父名義と祖母名義の小規模マンションが計6-7軒。

SNSを通じて知り合い、付き合ってからは月に1-2回のペースで会って現在3年目。

そろそろ結婚と言わずともはやく同棲をしたいと彼女が言っており、私も同意見ですが遠距離なので拠点をどちらに置くかが問題に。

大学中退からやっと経済基盤が落ち着いたところであり、学歴高卒資格もないため転職スムーズに行くとは考えにくい。名古屋に来てほしいと言うのが当初の私の意見

若いうちは名古屋拠点でも良いが祖母や父が死ねマンションを継ぐことになる。その管理を考えると結局関西に戻ることになり、それならば今から関西に住んだ方が良いのではないかというのが彼女意見

であるならば10-20年後転職するよりも、30歳手前の今の方が転職やすいのではないか?と考え、話し合いの結果私が関西に行った方が合理的だという結論に。

しかしこれをまず母に伝えたところ、以下の懸念事項を挙げて「反対ではないがかなり心配」と難色を示された。

彼女と上手くいけば良いが、病気事故破局など上手くいかなかった時に失うものがあまりにも大きい選択ではないか

・その条件では私の立場婿養子に等しくとても弱い、彼女義実家に対しモノが言えなくならないか

結婚するにあたり私ばかりが譲歩しているように見えるが関係は対等か?大丈夫か?

大学中退したとき祖母に助けてもらって持ち直した人生の重みをわかっているか

・親の老後の面倒を見ろとかは言わないし継ぐものもあまりないが、とにかく上記のことが心配

親の言うこともわかるし、今まで心配をかけてきた自覚もあるが私もも28。心は関西に行くと既に決めている。気持ちよく送り出してもらうにはどうすれば良いのか……。

追記

早速コメントがついていて少し驚いている。

マンションは数棟あるものの、修繕や建て替え費用を考えると大家業だけで暮らしていける収入には意外と(?)ならないようだ。

同棲タイミングについては私の転職タイミングにもなるが来年4月がキリが良いのでは?という話で、結婚すること自体はお互い決めている。同棲後にいい日付で籍を入れようかと話している。

相手の親は姉も独身のまま放任しているし、彼女に関しても基本的放任主義のようだ。

ちなみに私の父はリスク提示はするがそれでもいいなら好きにしろという方針。まあ今どき許可を得なきゃいけないものでもないと思うが実家との円滑な関係は維持しておきたい……。

覚書

2月の半ばにあなたが咳をし始めてから、それとなく「死」の一文字を思い浮かべることが多くなった。

それ以前、あなた散歩を厭うようになったのを感じ始めてから、考えていたことが明確に姿を見せたともいえる。

日に日に食欲が失せていき、妙におなかが膨らんだのを見て、なにとはなく「あぁ」と思った。

2月14日まではたしかに芋を食べていたが、以降はそれも徐々に食べなくなって、それから一週間ほどでほとんどなにも食べなくなっていたと思う。

26日に薬を飲み出してからも、あまり改善したような様子はなく、そればかりかとうとう水も飲まなくなった。

それからというもの、いつものようにそのつもりはなくソファで夜を明かした私が朝方することといえば、あなたの部屋のドアを開けてあなたが出てくるのを確認することになった。

でもしばらくしてあなたは部屋の中だと苦しそうに呼吸するようになったので、私は一度部屋に入ったあなた独断で出すことにした。

そうしたらあなたはいもの場所で伏せて、静かに寝息を立てたので、私は安心してその日はベッドで寝た。

翌朝、部屋にいるはずのあなたが出ていたことを両親が驚いたと言っていたので、昨夜のことを話した。狭い場所がいけないのだろうとみんななんとなく思ったのでしょう。その日からは、夜になってもあなたを部屋に入れなくなった。

しかそのころは夜が妙に眠かったので、私はたいてい日が回るより先に眠っていたと思う。

けれど3月1日から3月2日の夜中、私はたしか3時くらいまで起きてリビングにいた。1時頃にソファタブレットをいじっていたら、こたつの向こうであなたが吐いた音がした。黄色いドロドロした吐しゃ物で、幸い敷いたペットシーツから漏れはいなかった。あなたの足にもかかっていたのでウェットシートで拭いたけれど、だいぶしつこくて5枚は使った。空腹由来の嘔吐だったので、注射器ミルクを飲ませた。ほんの雀の涙程度だっただろうけど。

3月2日から3月3日にかけての夜中、その日はちゃんとベッドで寝ようと思って、夜中の2時に一度布団に入った。けれど、眠気が強くなる前にリビングに降りた。いつも父が明かりを点けたまま寝落ちているので、そうであれば明かりを消さないといけないと思ったし、前日の夜中にそうだったように、あなたがまた吐いていたらいけないと思ったからだ。

そうしてみたら、案の定明かりは点いていたけれど、予想と違って父は起きていて、リビングのドアの近く、あなたがいつもいる場所(それよりは少しドアに近かった)にあなたがいて、突然降りてきた私を見ていましたね。

事情はわからなかったが、あなたを父が構っていて、でも危惧していたことはなかったので、私はあなたの頭を撫でてベッドに戻った。

そうして翌朝の8時ごろに私は目を覚まして、すぐには起き上がれずにいたら、8時24分に一階から大声で母が私を呼んだ。

私はそのとき、至極冷静に「逝っちゃったかな」と思った。そんな気がした。そうだった。20分に逝ったらしかった。すぐに起きていればよかったかとも思ったが、そのおかげで私が記憶している最後あなたは穏やかだった。

あとひとつなにか悔いがあるならば、兄に伝えなかったことだ。母はそう思っていなかったようだけれど、私は正直なところ、死ぬのだろうと思っていた。積極的には思っていなくて、痩せて骨の浮いた背を撫でて「そのうち戻るかな?」と考える頭もあった。けれど、意識的に先のことを考えたときは、やはり死ぬのだろうと考えていたように思う。

命日の約一週間前が私の誕生日だったので、兄は実家を訪れていた。そのころはまだなにかしら食べていたころだったと思うので、ある意味ではまだ元気なころだったと思う。それを良しと捉えるか悪しと捉えるかは人によるだろう。

離れて暮らしていることを思えば、命日の一週間ほど前に会っていたのはよかったといえるのかもしれないが、なんにしても私が決めることではない。ただ、それらを自己決定に委ねるのであれば、一緒に暮らす者の所見としてその可能性を事前に提示すべきだったとも思う。

からきっと、あなたが近く亡くなることを高い可能性として最も想定していたのは、実のところ私だったんじゃないかと思う。あなたが息を止めたとき、私はその場にいてもあなた蘇生しようとはしなかったでしょう。あなたが咳をし始めてから二週間と少し、あなたものを口にしなくなってから一週間弱、それだけ続いた苦しみがようやく終わったんだと安堵した。死んでほしくはなかったが、それ以上に苦しんでほしくなかった。

そう、3月2日の午後に、母があなたに薬を飲ませようとしたときあなたはそれをいつも喉に押し込むようにして与えられていたので、それを嫌がったのか、やや機敏に立ち上がって逃げようとしましたね。でも窓を向いていたの180度回って、ドア側に歩こうとして失敗して、こたつの布団に倒れ込み、再度立ち上がってカーペットを降りて、けれど結局テレビの前で伏せましたね。

それを見て、たしか私は先が短いことの確信を得たんだ。次の日とは思わなかったけれど、日曜の特に用事がない日の朝8時に、母が私を一階から大声で呼んだ、ただそれだけであなたの死を覚る程度には。

犬の寿命だとかを思えば覚悟をするべきだと思って、この数年、特にこの一年間はあなたをすぐに撮るようになっていた。そのおかげで、写真動画は私が2018年あたりから撮ったもので800個以上ある。

ただ、私が一番好きだったのは、あなたがあったかくて、重くて(12kg~13kg程度だった)、大きかったことだ(体長はきっと85cm~95cmほどあった)。けれど不思議なことに、あなた寝床を用意して、そこに入ったあなた身体が敷き詰めた氷のように冷たくなったのを、私は良いことだと思った。亡くなったのは8時20分、兄が来たのは昼ごろ、それから寝床に入るまで、あなたの腹はあたたかかった。あなたが朝まで生きていたことの証明で、あなたがこのままでは傷む一方であることの証左だった。

そのほうがらしいからといって、あなたの舌を少し出しておくことになった。はじめ1時間くらいはいものピンク色だったけれど、それ以降は紫色になった。目は昼ごろになってようやく閉じた。鼻が乾くのは早かった。散歩中、エチケット袋が開かないときによく借りていた鼻だった。

きっとそのうち、こういう些細なことは思い出せなくなる。思い出さなくなる。人間脳みそはそういうふうにできていて、当たり前のことだから、悪いこととは思わない。ただ、残しておきたかったのでそうする。

命日当日中には兄のほかに父方の叔母と祖母が来た。近くに住んでいる近親者が全員来たということだ。叔母は手紙を残してくれた。住所を書いたそうなので、一緒に燃して、あっちで読んだら来てもらうそうだ。

3月4日の19時に火葬することになった。祖母祖父の看病が終わり、さら退職して自由時間を持て余しているようで、参加してくれた(たとえそうでなくともきっとそうしてくれたと思う)。義姉も参加してくれた。叔母は仕事が空けられないので参加できなかったが、予期しておくことなどできないのだから仕方がないという外にない。

車の店でもらったひざ掛けのサイズがちょうどよかったのであなたの冬のブランケットにしていたが、最期までこうも役立つとは思わなかった。あなた身体寝床に入れたり、火葬のための設備に収めたりするときに、担架のように使った。焼かずに残っているが、なにかにリメイクでもしたほうが良いのだろうか。

あなたの骨は思っていたよりも丈夫だった。納骨袋の側面に小さな遺影を入れられるスペースがあって、けれど遺影ではなく、火葬の直前に切り取った遺毛を入れることになった。アクセサリを入れるための小さなジップつきクリアポーチに入れたが、サイズがちょうどよかった。桐の箱などに入れたほうが保管状態としては良いそうだ。検討したほうがいいかもしれない。

火葬した日の夜中に、私は遺骨ペンダントを注文した。驚いたことに翌日には届いたので、あなたのおそらく爪と目の周りの骨を少しもらった。由来のわかる(想定できる)骨のほうがなんとなく良い気がした。目の周りの骨は大きかったので少し砕いた。あなたに私が行く先を見ていてほしかったので、目の周りの骨にした。

これを書いているのは3月7日の夜1時だ。あなたが逝ってもうすぐ4日になる。私は泣くとき、いつも喉になにか手のひら大の球が詰まったように痛くなる。けれど、あなたを惟て泣くときは、喉は痛くならずにただ熱い涙が出る。理由はわからない。悲しいわけではないと思う。どうなんだろう、あなたがいないことを考えるとそうなる。これを悲しいというのかもしれない。

書いているそばから嘘になったかもしれない。今は少し喉が痛い。けれどそれでも息ができないほどではないから、やはりなにか違うらしい。

こたつの中で足先になにか触れると、一瞬あなたかと思う。私はいつも発作的にあなたに飛びついて構い倒す癖があったので、今もふとした瞬間に無意識あなた名前を言いそうになる(すんでで止まる)。私がいつもの椅子に座っていたり、廊下洗面所キッチンでしゃがみこんでタブレットをいじっていたりすると、いつの間にかあなたが足元にいましたね。あれがとっても好きだった。あなたは私によくついてきてくれた。

これからは私があなたを連れまわす。一緒に行けなかった旅先にも連れて行くし、3月いっぱいで契約満了を迎える今の出向先にもひっそり連れていってみよう。遺骨ペンダントは失くしてしまいそうで怖いが、そうなったときあなたがきっとそこを気に入ったということなのでしょう。そもそもあなたは昔から衣服やらカバンやらに毛として引っ付いてきていたので、今さら真新しいことはなにもないのかもしれないけれど。

2024-03-05

anond:20240305174011

それはひどいな。

俺も母親と叔母がひどい介護をしていて、その結果祖母

骨折して入院したんだけど、老人って環境変化に弱いか

様態が急変して亡くなったんだ。

母と叔母は一生許さないと決めている。

怒り続けるのをやめたい

親戚にずっと怒っている。

施設に手を回して祖母との面会をさせなかったこと。

亡くなっても知らせず、葬式にも呼ばなかったこと。

3ヶ月くらい怒っているがまだまだ怒りが収まらない。

でも向こうは気にせずへらへら生きてるんだろうな〜!悔しい!!怒りでこっちばっかり神経すり減らしてるのも馬鹿みたいだからいい加減怒るのやめたい。親戚のことなんか最初からいなかったみたいに忘れたい。あん人間この世に存在しなきゃ良かったのにな

anond:20240305121805

元増田一人暮らししている

祖母急逝したので帰省した

実家ゴミ屋敷になっていた

・父母も妹も臭い

ニートの弟は失踪しており警察は弟の居場所を知っている、妹もニート

一家揃って精神疾患持ち父母(掃除できない障害持ち)・ニート弟(パニック障害の疑い)・ニート妹(不安障害の疑い)

これ弟さんはどういう状態なんだろうな

家族辟易して独立してて肉親との連絡を断ってる状態なんかな?

10年ぶりに帰った実家ゴミ屋敷だった

帰ったと言っても10分くらいだけど

 

 

祖母急逝したと朝イチで電話たからあわてて葬儀のため帰って

田舎に帰ったの10年ぶり 親戚と会うのはそれ以上ぶりなんだけど

まさかの弟が行方不明祖母葬儀の話も知らんらしい

警察行方を知ってるらしいが場所聞かせてくれんらしい

どういうことよと思ってたんだけど、通夜の前に荷物取りに行く母について行って絶望したしなんとなく理解した

 

 

ゴミ屋敷●ートナーズでいうLv4くらいな感じだった

ドア開けた瞬間カビの匂いがお出迎え 玄関からすぐ見える弟の部屋はゴミか服かわからんもの入口雪崩起こしてる

最後に寝泊まりした10年くらい前の時点で夜響くGの音にストレスMAXだったのにいらん方向にメガシンカ

何がひどいってそんな環境の中で犬2匹飼ってるところだよ 虐待だよほんま

葬儀場で会った妹から異臭がしたから嫌な予感はしてたんだけどさ いや父母から異臭しなかったから妹が単品でヤバかったのかもしれん

 

 

どうやら祖母の供養が一段落したらその祖母宅に移り住むらしいのであの家を見ることはもうないんだろうけど

ソシャゲ親の金使い込んだからとすべての娯楽を取り上げられたニート妹(不安障害らしい)

警察しか行方を知らないニート弟(パニック障害らしい)

そんな弟に「自分はあれよりマシ」とか言われたらしい自分(双極Ⅱ型)

 

 

親になにかあったら地獄じゃねえか

百歩譲って親に何かあった時の葬儀関係は手伝わんでもないが、それ以外ではもう心の底から関わりたくない

少なくとも弟のことは許さな

自分家族愛猫だけだと思ってこれから生きていくことにする ある程度事情は濁して恋人とも別れようと思う

 

 

帰りの飛行機待ちが長いから吐き出し

明日出社して慶弔休暇申請しないといけないのだるすぎるが、同僚と部下に詫びの土産渡したいしな

あと生活リズム変に崩して躁転鬱転しても困るしな

 

 

シッターから届く愛猫写真が一番の癒やし

率直な意見欲しいんだが俺冷たい?

片道5時かかる遠方に住んでる祖母が亡くなったんだが、俺は葬式がすごい嫌いで、親戚と会うのも酷く疲弊するし、疲弊しすぎたのがトラウマぶっちゃけ葬式に行きたくなかった。

だが祖母の顔は最後に拝みたく、別れの挨拶はしたかったので、通夜前の弔問にいってお別れをしてきた。

葬式に行くと周りがガヤガヤしててひどく疲れるので、弔問できてよかったと思った。落ち着いてお別れが出来た。葬儀には参列しないので、相場より多めに包み、香典を渡した。俺は静かに祖母とお別れ出来てとても満足だった。

が、葬式が終わったあと、孫の俺が不参加だったので、親戚からは「冷たい」、「世話になったのに恩知らずだ」と非難があった。

親戚がそう思うなら、祖母もそう思ってるのかな。って思った。やっぱり個人の納得よりも、冠婚葬祭ぐらきでしかあわない、親戚付き合いを優先させるべきなんだろうか。

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