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2024-05-04

寺や神社での御朱印いただき

私は数年前から地元の寺や神社を中心に御朱印をいただいている。

その中で気づいたことを書いていこうと思う。

まず御朱印には直書きと書き置きがある。

直書きは御朱印帳や順拝帳といった霊場宗派専用のものにその場で直接書いてもらうこと、書き置きはあらかじめ紙に書いてあるものをいただいて御朱印帳に貼り付けたり

最近では書き置き専用のクリアファイルタイプ御朱印帳に入れたりする。

書き置きはご住職や書く人が不在だったり最初から直書きはやっていなかったり、(コロナ禍では感染対策で書き置きの所も多かった)切り絵や色がついた限定御朱印のものがある。

紙に直接書いてくださってある事が多いが印刷コピー場合もある。

直書きはお参りの際に書いてくれる方がいれば良いが、小さな所では不在だったりご住職がいない場合もありいただけない場合もあるので事前に問い合わせしたほうが無難である

またご住職以外でもお弟子さんや奥様などに書いていただける場合もある。

また時間がないということで御朱印拒否されるところもあり、ネット検索しても何度訪れても断られたというお寺もあるが私も一度目は断られ、その次に電話で問い合わせたら日時指定でいただけた。

とても細かく丁寧に書かれており、お寺のお手伝いの方も初めてそちらの御朱印を見たとおっしゃっていたので、面倒でなかなか書きたくないという人もいるようだ。

時と場合により書いていただける人が違う場合もあり字体が異なるのでその違いの面白さもある。

個人的にまだ遭遇したことはないが同じ御朱印帳に寺と神社のものが混ざっている場合は書いていただけなかったり、日蓮宗では御首題と呼ばれているが同じ御朱印帳に他のものと混ざって書く場合は「妙法」と書かれてしま場合がある。

先日、日蓮宗のお寺で頂いたとき神社や他の宗派が混ざっている御朱印帳にご住職に妙法と書いたものをいただいたが御首題いただきたかったので後日伺うとお弟子さんが同じ御朱印帳に御首題を書いていただいたので人によったり、同じ日蓮宗のお寺でも混ざっていても普通に首題を書いていただける場合もある。

御朱印の料金は一般的に300~500円である限定御朱印では手間やプレミアム等で1000円前後の所があったり、中には金額任意だったりお金をいただかないというところもある。

普通の書き置きの御首題で1000円の所もあったのでお参りの際には充分なお金を持っていった方が良い。

お寺の場合は土日祝は法事が多く、ご住職がいない場合もあるのでなるべく平日にお参りにしたほうがいただける可能性は高い。

またチャイムを鳴らしても誰も出てこないこともあるが電話をかけると応対していただけることもある。

御朱印帳は寺や神社、文具店やネット通販でも販売されており1000〜3000円台が中心だ。

またダイソーでも300円で販売されている事もあり3色のラインナップがあり私も使用していたが値段が値段なのでページ数が少なくすぐにいっぱいになってしまう。

在庫があまり無いようで地元店舗をいくつかあたったが1店舗のみしかなかった。

寺や神社販売されているものには最初から御朱印が書かれている場合もある。

2023-04-22

新興宗教宗教二世に生まれた話

首題のとおり。

知人になんて話せない悩み、葛藤、苦しみをこの場を借りて吐露させていただきたく。

皆さんご存知大規模新興宗教の創◯じゃない方(統一うんたらでもないしオウム関連でもない)の信者家庭の二世として生まれた。

外見はごくごく普通の家庭。

都市部に30年ローンで戸建てを購入し、両親共働き二人兄弟の、なんともありがちな家族像という感じ。

物心付いた頃から頻繁に“支部”に連れて行かれ、同年代の子どもたちと一緒に、時には“御法話”を聞いたり、時には遊んだりしていた。

教団の映画が公開されたら映画館に数回は連れて行かれた。

(もちろんそれ以外にも、一般的習い事をしたりという、一般的社会的生活も送っている。)

あるとき両親が離婚した。

教団では常日頃から人に優しく、人と仲良く、的なことを教わっていたので、子どもながらに離婚することって信者としてどうなのと思った記憶がある。(ちなみにその後しばらくして教祖離婚した。わけが分からん。)

無論子ども意思など関係なく両親は離れ離れになり、今でこそもう何とも思わないけれども、当時とても悲しかたことは覚えている。

ただ、幸い何不自由なく有名私大奨学金無しで通わせてもらい、誰もが知っている大企業就職することもできた。

両親の離婚はつらかったけど、何不自由ない、寧ろ人並み以上の生活をさせてもらったことにはとても感謝している。

さて、問題はここから

信者、それもいわゆる宗教二世は恐らく特に世間が思ってる以上に、新興宗教というもの世間から受け入れられないものであるということをよく理解しているし、世間から差別にも近い視線に恐怖し、あるいは肩身の狭い思いをしている。(と、思う。稀に堂々と周囲に信仰告白をする人もいるけれども、それはかなり信仰度合の高い一部の人だけだと思っている。)

自分は、自分がこの宗教信者であるということを死ぬまで他の人には話せないし、話すつもりも全くない。

墓場まで持っていく、とはまさにこのことだと思う。

しかし一方で、この宗教の“教え”については、そんなに間違っていないと思うし、自分価値観オリジンとなっていることは認めざるを得ない。

教義としては「愛・知・反省・発展」という4つの要素を常に実践せよということを教え込まれたが、それ自体はまったくもって正しいことだと思うし、そのためか、教団の信者さんたちは皆、優しく、誠実で正直な人ばかりだった。

世間一般的な水準に照らし合わせると、皆がいわゆるいい人だった。

手前味噌ではあるが、自分自身もその要素をある程度は持ち合わせた人間に育ったと思っている。

まり何が言いたいかというと、信仰のことは一生教団以外の人にカミングアウトすることはできないが、一方で教団を悪く思っているかというと、必ずしもそうではない、ということ。

神の存在(それが教祖かどうかはさておき)や輪廻転生は信じているし、誰も見ていなくとも善い行いを重ねることで死後天国に戻れる、ということも信じている。

かといって教団に積極的コミットしたいわけでもないので、社会人になってからは教団とはだいぶ疎遠になっているし、いわゆるお布施も直近数年は全くしていない。

でもこんなだから信者以外の人とは結婚は難しいし(相手方迷惑をかけるのではないかと思ってしまう)、かといって信者とは結婚したくない。

その結果人生恋人を作った経験なし。

この先もできる見込みなどない。

自己責任論を突き詰めた結果、自己肯定感が皆無(寧ろマイナス)で奥手な人間が出来上がってしまった。

人生詰んでいる。

いい大学出ていい企業に勤めても、宗教二世という事実が全てを差し引く。

この先何を糧に生きていけばいいのだろうか。

先行きが見えない。

そんな中、先日教祖様が他界した。

最近教祖様の実子が次々と破門され、しか教祖様は二回り以上も年下の女性再婚してたし、教団も組織としてはきな臭くなってきてしまったので、ここいらが潮時なのだろうか。

(ちなみにYouTuberをやっている長男も、破門前はノリノリで教団の映画とか音楽とかやっていたので、破門後の諸言動もあまり信用していない。)

この先どのように自分人生を全うしていくのか、真剣再考しなければいけない。

願わくば伝統宗教(できれば神道)の宗教二世に生まれたかった。

酔っ払って記した文章につき、とりとめのない記載である旨、ご容赦いただきたく。

2017-07-26

日蓮宗について

日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、

天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、

大聖人様の御教示ではないのです。

また、天台の「不思議一」との意味は、

迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、

法華経開会の法門を説き示したものであり、

決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。

大聖人様は『治病大小権実違目』に、

「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、

また『妙一女御返事』には「迹門は理具の即身成仏

本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています

日蓮宗はその区別がついていない邪宗教です。

法華経本迹二門は、

久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、

その説かれる法体においても勝劣があり、

その相違は水火・天地のごとくであると言えます

しか日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手解釈を加え、

「本迹一致」の邪義を主張していますが、

これらは宗祖の御教示にはないものであり、

宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。

仏像本尊は、宗祖の本意にあらず」

日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、

未だに宗祖の正意が何であるかが理解出来ず、

本尊に関する御書を集めて候補を選び、

その中から適当形式相談して決めるという、

極めて杜撰見解を発表しています

それを要約すれば、

御書に現れた本尊形式は、

一、首題本尊 

二、釈迦一体仏 

三、大曼荼羅 

四、一尊四士 

五、二尊四士があり、

このうち一、と三、を法本尊

二、四、五、を仏本尊とし、

その中心は三、の大曼荼羅と、

四、の一尊四士であるが、

祖書の教示等に照らし、

一尊四士を日蓮宗本尊と定めるのが至当である

(趣意・大崎学報)というものです。

日蓮宗では、本尊の依文として「観心本尊抄」の、

『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。

末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、

仏像出現」の語句によって本尊仏像が正意であるとしています

しかし「仏像出現」の御文意味は、

文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、

末法仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。

「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、

後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、

仏像の造立」という意味ではなく、

あくま現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。

すなわち、この御文真意は、

末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする

未曾有の本尊を顕わすことを明かされたものです。

また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、

「此の時地涌千界出現して、

本門の釈尊を脇士と為す閻浮提第一本尊

此の国に立つべし」との御文について、

「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、

一尊四士が正意であるとしている。

しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、

観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、

との御教示ではありません。

それは日蓮大聖人様が佐渡以後、

本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅文字は五字七字にて候へども、

三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅仏滅後二千二百二十余年の間、

一閻浮提の内には未だひろまらせ給わず(妙法曼陀羅供養事)」

法華経題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦大日総じて

十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」

これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝する時、

日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、

まさしく大聖人様が顕された大曼荼羅こそ、

正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかなのです。

【補足】

(一、)首題本尊題目のみを書いたもの

(二、)釈迦一体仏

(三、)大漫荼羅(宗祖日蓮大聖人様が紙幅に御図顕された御本尊様)

(四、)一尊四士(釈迦一体仏と上行菩薩等の四菩薩像)

(五、)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像四菩薩像)

※この記事未完成です。続きはいつか。

 
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