はてなキーワード: 生態系とは
おさらい
・短期的ゴール「レベル5まで上げて陣営を選んでジム戦に参加」
・長期的ゴール「レベルをキャップ到達まで上げて手持ちポケモンを最大強化してジムリーダーになる」
ゲームクリエイターや識者はこの中間に位置する「中期的ゴール」が無いのでポケモンGOはすぐに飽きられるだろうという。
7/30現在のレベルキャップは40。先行してた海外勢には到達している人もいるらしいが日本では今のところ「到達した!」という自発的報告は無い。
レベルは生態系やポケストップから得られるアイテムとも連動している。
ボールに限った話ならレベル12でスーパーボール、レベル20でハイパーボールが入手可能になる。
エージェントレベル8以上のIngress経験者ならば直ぐに気が付くと思うが、このゲームもレベルが上がると戦略的アプローチが変わってくる。
低レベル時は出てくるポケモンがほとんど図鑑に無いので捕まえるだけでボーナス経験値が手に入りレベル上げも簡単だ。
これが一定レベル以上になってくると出現するポケモンは代わり映えのしないいつものメンツになり捕まえてもボーナスは無い。
ポケストップと既に捕まえたポケモンを何度も捕獲して得られる経験値は微々たるもの。
一見するとバランスが悪そうに見えるが一部のポケモンには「進化」の可能性がある。
鬱陶しいドードーやポッポ、キャタピーやビードルは数匹捕まえれば進化させてボーナス経験値を入手できる。
ハイパーボールが使える頃に野良のポケモンに若干変化が起きている事に気付く。
そしてこの辺りは情報がキチンと伝わってないのも問題だが、実は三色の陣営のジム全てでバトルができる。
自陣のジムでは「トレーニング」という名目で一対一の対戦ができるのだ。
手持ちのポケモンで一番強い、もしくは相手と相性の良いポケモンを使ってバトルの練習ができる。
某有名公園にレアポケモン目当てで一日居座るような人たちには、其れが魅力的な中期的ゴールには見えないのだろう。
また、配信から一週間経過してレアポケモンの巣だった各所の公園に変化が現れていたり、特定のポケモンの強さが補正されたりしている。
ゲームバランスはナイアンティック社がリアルタイムで更新を掛けてくるので、いわゆるPCのオンラインゲームと同じ感覚だ。
これからも見えない所でゲームバランスの調整が行われ、アナウンスされているトレード機能や個人対戦も実装されるだろう。
レベル20辺りで飽きて辞めるのは個人の自由だが、ナイアンティック社はIngress時代にも常にルールやバランスに変化をつけてきた。
この2週間ほどの間、生物界隈ではとある話題で持ち切りとなっていた。
「犬鳴山納涼カーニバル(金魚の放流)」と題したイベントの話題である。
自然の川の中で金魚を放流するという行為に対し、生態系を破壊するのではという懸念から問題提訴が起こったのだ。
これは各所に飛び火し、インターネットメディアやテレビニュース等で報道されるに至った。
この際に、問題提訴に対してのカウンターで「環境保護は人間のエゴだ」という言葉が多く見られたので、
エゴ=エゴイズム、つまり「環境保護は利己主義者によるものだ」との弁であるが、
まず前提として、
自然環境の保護と動物愛護は別ものであるということをご理解頂きたい。
環境保護とは、生物が生育できる環境の維持が目的であり、その後の利用を含めるが、
環境がどうなろうがとにかく動物を傷つけないように苦しめないようにしよう、というものではない。
https://www.ted.com/talks/munir_virani_why_i_love_vultures?language=ja#t-283827
https://www.city.kasaoka.okayama.jp/site/kabutogani/ketueki.html
「ライ (ハンセン病)( Leprosy)」
http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~hoken/Shiori/91Lepra.htm
現段階では利用されていない生物も年月が経てば利用される可能性も十分にある。
失ってから、役に立った可能性があると言い出してももう遅いのである。
http://www.tokyo-hotaru.com/jiten/report12.html
ホタルはそれぞれの地域で光りかたが異なることが記されている。
これらのものは実際に変化があって初めて浮彫になったものである。
それまで運良く変化しなかっただけで、この先どうなるかは誰にもわからない。
環境保護はエゴであると豪語する者は、どれほど生態系に対する理解と知識があるのだろうか。
エゴだと叫ぶ人のほうが、自分に利益がなければ関わらず、利益があるなら動き出すような
自分の目先の利益の為だけに、人類全体が損をする可能性のある選択をする人こそが、
利己主義者ではないだろうか?
解明できていないからこそ、今あるものを残しておくことが人類全体の利益になるのである。
「絶滅は自然の営みなので問題ないはずだ」とする人はそもそも論点がズレている。
それによる不利益を「自然とはそういうもの」と正当化する人間は、
そのような人間の言い分を聞いていては全体が不幸になるだけだ。
文章として本当にいいものを書いたな、という手応えがあるときにいい反応は絶対にない。
マイナスかけるマイナスがわからない馬鹿にでもなったつもりで、趣旨も一貫しないような、主観をまき散らすだけの、「思う」連呼の小学生の作文みたいな稚拙な落書きを推敲一切無しで書き散らすと簡単につまらん説教がしたいアホが釣れる。
みんなただマウンティングがしたいだけなんだよね。
本当に興味があるとか感動したとかそういうものに対する反応を大きく取り上げるシステムになってないんだよ。
むしろ、誰にとってもクズでしかないものほど、クズを利用して相対的に自分を立派に見せたい承認欲求を吸い寄せる事で成立する仕組みになってる。
これはそもそもいいものを素直に褒める習慣のない日本人の性質の問題もあるのかも知れない、とは思う。
まあでもそれもたぶん程度問題だ。
自分は英語しか読めないが、英語話者の言論空間で繰り広げられる世界的なやりとりを眺めていても、多少の自制心は感じられるが、本当にしょうもないものほど無視出来ずに衆目が集まり、結果として逆にクズの存在感を高めてしまうだけという現象はそれなりに見られる。
日本の場合は、それをある意味で『薄める』効果を持った、「ほんの些細ないいものでもとにかく褒める」というカウンターの熱量が相対的に足りないだけだ。
他人に教えてあげたい新情報を盛り込み、読みやすさを考えてきちんと順を追って説明し、一読諒解でスッと頭に入って来るように文章を整えると、まあ、まず酔っぱらいの気まぐれくらいな無差別なクソレス以外は、トラバもブクマもつかない。
スッと読んでうむ、と納得して終われるように読者への配慮を怠らない事は、通常の作文技術で言えば必要不可欠の基礎技術に当たる。小学生の算数が覚束ない状態で高度な数学へ手を出そうとしても、計算間違いばかりで教科書を読み進めるのすら難しいのは誰にでも想像がつくことだ。
しかしこれがネットで発表するブログやSNSの記事となると、むしろそんなことをしない方が生存戦略としては正しいという現実になる。
読んですぐ、どころか読みながらすらすでに反論や混ぜっ返しを構想しつつ出しゃばる計画を企図し、吸った息を吐くようにそのままノータイムで書き込むなんてことは従来の文章の使い方としてなかったことだ。単なる口頭会話の置き換えのつもりで軽く見ている人もいるかも知れないが、文章には口から発する言葉と違って一息(一文章)で長々と演説が出来たり、本当のリアルタイムというにはタイムラグがあったり、それらに起因する割り込みや訂正の難しさがあったりして、現実としてこれらネット上の文字コミュニケーションは音声と文章、両方の悪いところだけを引き継いだような最悪のコミュニケーションツールになっている。
文章は、書き、読み、思い、反論でもそれを踏まえたまったく別の場所での言及や自説の開陳でも、それらステップの間にいくらでも考えを改めたり気づき直したりという猶予があるものだった。
だからこそ、文章術とはまずすんなりと理解させることに重点を置いていた。
スッと読んでうむと納得して、まとまった形で頭に残っているからこそ、検討も検証も出来る。わかりやすさとは頭に残り、こころに残り、読み手のその後の人生の中でじっくりと「対話」をしてもらうための絶対条件だったのだ。
感情や空気に流されがちな体面の問答と違い、ひとつの思想パッケージとして読み手の中に取り込み、そのあとでじっくりと自問自答という形で葛藤してもらうことこそが文章と言うメディアを用いた「対話」のやり方だった。
「逆に名文。」「むしろ名文。」?そんなありきたりの逆説は要らない。
後から折りに触れじんわりとその一行一行を噛み締めたり、何度も読み返したくなったりする深みがあるか?
せいぜい「日本死ね」が大喜利的にバズワードになるだけじゃないか。
「日本死ね」はレトリックとして死なないものの死を願うという無常感、絶望感を含有した良い捨て台詞だと思うが、バズワードにはそういう文脈は考慮されない。ただ字面上同じであれば単に自分の気に入らない相手(普通に死ぬ、比喩になってない相手)を死ねと罵倒するのにも平気で使われる。
あくまでそれはただ大海原の表面が鳴動しているに過ぎない。船を転覆し浅瀬の生態系をかき乱す力はあるかも知れないが、人のこころの深いところを揺り動かし、大きな変化をもたらすような津波にはならない。…変な比喩だが。
自分のこころの深いところに入り込み、そこに不可逆な変化をもたらしてしまうようなものを読まなければ、書かなければ、知は停滞する。
まとまったものを読み、読み切った後に意識の中に残った断片あるいは芯のようなもの、それらの感触、反芻、自己言及的な葛藤を通して得られる新しい自分…
そういう一種のコース料理のようなひとつづきの体験が文章という表現に当たり前に付随するものとして認識されなくなっている。
いきなり俗な話になるが、これはエロゲーのシナリオを文章や物語として扱う層への違和感と似ている。
ひと文字いくらで量を書いてナンボなんて世界で書き増されるだけのテキストデータに芯や内容なんて生まれない。エロゲーのシナリオには「読み終わり」すらない。
ただカネを納得させる「量」と水増しを誤摩化すための「刺激」でエロシーンまでの間を前戯的に埋めているだけのものだ。さながら増田が、ネットでバズるブログやSNSの投稿が、文字として表された思想や人格を葛藤するよりもただ愉快な炎上を持続させるための刺激としての埋め草であるように。
ネットの言論空間というのは、本当に「脊髄反射」という言葉が相応しい。
文章の、言論の装いを纏ってはいるが、その実いっさい論者の芯の部分を経由していない、ごくごく皮相的な反発の応酬で成り立っている。
その場で読んで、その場で反発して、三日経てば何を読んだのか何が書いてあったのかその一節すら思い出せないようなインク(メモリ)のカスに右往左往して、白熱した議論かなにかを装いながらどんどん使われない脳味噌が退化していっている。
これがネットでだけならいいのかもしれない。使い分けが出来ているのなら良いのかも知れない。しかし実際のところ、刺激としての文字列に慣れた脳味噌はまとまりを、芯を感じる力を明らかに加速度的に低下させている。
1年半ぶりくらいに戻ってまいりました http://anond.hatelabo.jp/20141231004329 の増田です。
対戦格闘ゲームGuilty Gear Xrdシリーズの第2弾-REVELATOR-のコンシューマ版(PS3/PS4)が5月26日に発売され、およそ1ヶ月が経過したわけですが……あれだけ言ったのにまだ初心者向け施策の充実を謳うですか、もう許さんです!という気持ちでおります。
色々と言いたいことはありますが、この増田ではひとまず段位システムの問題について指摘したいと思います。
本題に入る前に、まず検討しておきたいのですが、もしライトユーザがオンライン対戦可能な格闘ゲームを購入するとして、そこにいったい何を期待するかと言うと、家に人を呼ばなくても対人戦ができるという魅力ですよね。しかしもう一歩踏み込んで考えると、それは誰が相手でもいいから対人戦ができれば満足というわけではないでしょう。できるかぎり自分と実力が近い相手と対戦して、勝ったり負けたりするのを楽しみたい、ということを漠然と期待しているはずで、自分よりも圧倒的に実力が上の相手との対戦ばかりやらされて「勝ちたければもっと練習しろ」とシゴかれることを期待するライトユーザなどほぼいないと思われます。
ここをまずきちんと肝に銘じないといけません。「練習のためのモードが充実してさえいれば、ライトユーザが対人戦において容赦なしに実力者にマッチングさせられてボコボコに負かされるようなシステムであっても、ライトユーザは自発的に練習するようになってついてきてくれるだろう」という考えは、完全に甘えです。
極端な言い方をすれば、ライトユーザは「上達することを主目的として格闘ゲームを買う」わけではないのです。対人戦で勝ったり負けたりするという楽しみがメインにありつつ、そこに付随する要素として、上達していくこと、上達のために練習すること、が位置付けられるはずで、つまり対人戦で負け続けることを当然視するようなマッチングシステムのゲームは、ライトユーザにとってメインたる楽しみが欠けたゲームとして認識されてしまうのです。
「勝つために必死に練習する気のないユーザはこっちから願い下げだよ、ウチのゲームは買わなくていいよ」と思うのであれば別に構わないのですが、わざわざ初心者向け施策を謳うぐらいなんだから、新規ユーザ層を開拓したいんでしょ?もっとライトユーザに購入してもらいたいんでしょ?
だったら「上達する気のないライトユーザでも、実力差の適正な相手とマッチングされて、勝率4~5割くらいで勝ったり負けたりを楽しめる」ようにゲームを作ることを第一に考えるべきでしょう。
前作について指摘(http://anond.hatelabo.jp/20141231155702)した中で提案した「入門の状態で10戦こなさせ、その勝率が悪ければ9~1級のどこかへと、良ければ初段以上のどこかへとスタート位置を割り当てる」という方式を採用したのはよかったのですが、それを帳消しにする改悪として「10段まで降格が発生しない」仕様になっていることが、ライトユーザを負け続けさせる極悪なマッチングシステムの原因になっています。
降格しない、ということは、どんなに勝率が悪くても対戦数を重ねていけば(10段までは)ジリジリと段位が上がっていってしまいますよね。つまり10段までの各段は、勝率がメチャクチャ高い人からメチャクチャ低い人までが混在する=実力差の大きい者どうしが同じ段位の中に詰め込まれている状況になっていて、段位が実力を全く反映していないことになるのです。例えば、入門で10連勝していきなり5段に入ってきたプレイヤーと、勝率1割程度ながら300戦以上してきたため5段まで上がってしまったプレイヤーが、マッチングシステム上は「同じくらいの強さ」とみなされマッチングされる、という現象が頻繁に起こります。
段位を功労賞か何かと勘違いした者がこのような仕様を策定したのかもしれませんが、このような仕様はライトユーザを喜ばせるどころか逆に苦しめる「名をとって実を捨てる」ものです。実際、低勝率のまま段位が上がってしまったプレイヤーは以下のような問題に直面します:
「自分と実力の近い相手と戦いために自分より低段位の相手に対戦を申し込む(そして拒否される)」のも「手を抜かずに戦ったつもりなのになまじ段位が高かったがために『手を抜かないでください』と相手からメッセされる」のも、とてもとても屈辱的ですよ。功労賞なんぞという犬のクソ以下の価値しかないもののために段位を維持されるくらいなら、負け数に応じてガンガン降格してもらった方がはるかにマシだと思えるくらい。
昇格したと思ったらすぐまた降格してしまってなかなか段位が上がらない、というのをもどかしく感じるライトユーザもいるのかもしれませんが、かといって実力不相応な段位まで上げてしまうのは上記のような問題を必ず起こします。であれば、ユーザ本人の希望とは裏腹に、実力と段位を一致させるべく降格もシビアに行うシステムのほうが(特にライトユーザにとっての)モチベーション維持に資するはずです。
まとめます。
どの段位のどのプレイヤーも勝率が4~5割程度に収束するような状態が理想ですが、現状は程遠いですね。
ある段位システム・あるマッチングシステムを採用した場合に、プレイヤーの動態がどうなるか・各段位の生態系がどうなるかはコンピュータシミュレーションでも検討が可能かと思いますが、そういう努力すらしてないのか、それともそういう検討をしたうえでなおライトユーザはシゴいてもかまわないというスパルタ体質なのか。
初心者向けを謳ってライトユーザを集めておきながら、上述したような屈辱を味わわせるのは意図してのことなのでしょうか。そうやってシゴいて去っていくライトユーザは捨て置き、生き残ったユーザだけ取り込めればいいなどと考えているのであれば、かなり極悪・性悪と言わざるをえません。あるいは、少数精鋭を自称するあたり格闘ゲーム熟練者のみで構成される集団なのかもしれず、ゆえにライトユーザの心理を全く理解できないのかもしれませんが、格闘ゲーム熟練者の視点から脱却できないままゲームを作り続けていることに疑問を感じないなら、それは趣味のゲーム制作であって、商業活動としては失格ですよね。前作からの繰り返しになりますが、初心者向けを謳うのはさっさとやめて、玄人だけを相手に商売してください。
世界中どこを探しても、はてなみたいな独自の文化圏を形成するサービス群ってないよな。
韓国とか中国はアングラ系のサービスが独特な文化圏を形成しているけど、メジャー系はほとんど勢いがなくなった。
はてなは何で創業当時からの独特な文化圏が維持され続けているんだろう。
2chやニコ動すら死にかけてる。はてなは爆発力こそないものの、ずっとこの調子で独自の文化圏を維持し続けている。
そもそも、日本のネット企業って米国発ベンチャーのパクりみたいなものばっかり。
http://anond.hatelabo.jp/20160512181640
ずいぶん色々なMMOを試したようだね。とりあえず乙です(`・ω・´)
今のところ、このゲーム続けるか!っていうのにまだ出会っていない感じ。まず探してみてびっくりしたのが、今のMMOが大体どれも3Dになってること。すげーな。すげーんだけど俺にはちょっとしんどい。三人称視点のWASD移動なり仮想パッド移動なりがこんなにかったるいとは思わなかった。
自分と他人が1画面でテーンって並んでる感じのカメラ位置が落ち着くなーって思った時点で、思いのほか自分がクォータービュー向きの人間だったことに気付いたけど、そんなこといっても世の中の流れはそうじゃないみたいだからしょうがない。
色々触ってみて、自分がMMOに求めるのは適度なガヤガヤ感(あんまり過疎ってない)と、着せ替えたり装備を変えたりしたのが見た目に反映されて、ひとりで眺めて満足したり、入手した達成感を得られる程度のアバターの量。
できれば3Dでもめっちゃリアルなやつよりはちょっと等身が低めの方がいいのかもしれない。でも多分2Dの方が好きそうだ。後は本格MMOみたいなやつがどれも難しく感じたので、あんまり戦闘重視じゃない方がいいかなー?とか、ダンジョン生成して数人で潜るのがメインループになるゲームは、狩りを楽しめなくてあんまり向いてないっぽいなーといったところか。
クォータービューで2Dキャラを見下ろして、まったり出来て、それでて過疎っていないゲームは、ブコメでも指摘されている通りやはりRO(ラグナロクオンライン)だね。それにしてもROは古い。というか、あのROの世界が未だに続いている事は、凄い、を通り越して狂気すら感じるよ。サービス開始は2002年。もう誕生して15年に近い。
君のように色々やった人なら、ROは10年前にプレイ済みだろうね。実はラグナロクオンラインやメイプルストーリーなどの古参ゲームは未だにアップデートを続けている。世界は未だ拡張され、変わっていってる。3年離れたら別ゲームだと思って良い。カムバックキャンペーンもよくやっているし、昔作ったアカウントがあるなら、ログインしてみるといいよ。刑務所から出所した感覚になる。すげー世界、こんなに変わってたんだ!って感動するよ。いや、おれ、お勤めしたことないけど。想像ね、想像。
さて、上記条件とはちょっとズレるが、あなたには黒い砂漠がオススメだ。
すまん嘘ついた。
最近おれは誰にでも勧めてるんだ、黒い砂漠。要するに信者である!
あ、ちょ、ちょっと待って、すいません、ブラウザバックしないで、おねーさん。
黒い砂漠とは、2015年にはじまったMMO RPGだ。アクション性が高い戦闘や、マネーゲームを楽しめる。そして見える所はすべて探索できるオープンワールドである。
グラフィックが綺麗。なんてレベルじゃない。開発チームには天才がいるとしか思えないレベルの凄さで、一線を画している。インタビューで「MMOに最適な描画エンジンがないから、自作した」とか語ってる。実際、ギルド戦なんかで100人くらいグリグリ操作しても、ちゃんと表示されてる。すげーよ!こえーよ!作ったやつナニモンだよ!!最新グラボであるnVidia GTX 980を使って、ようやく最高グラフィックが見えるが、動きの速いキャラを使うと、それでもFPS30を切る。最近nVidia GTX 1080が発表されたが、ゲーム内ではいつ乗り換えようって話が毎日飛び交ってる。ゲームグラフィックの最先端がここにあり、それを体験したいユーザが集まっている。いちおう描画設定をLOWにすれば、2010年製PCでもギリギリ動くかな。とはいえ、一度プレイしたら、新しいPCが欲しくなる禁断症状が現れるだろう。
なんだこれは格ゲーか!? って次元でアクション性が高い。対人戦になるとコマンド入力の巧さで勝負が決まる。当たり判定もシビアで、コンボの奥も深い。アクションゲーム好きならば、文句なしにオススメできる。スキルの組み合わせだけで多彩な戦術がある。ギルド戦やPvPも定石パターンが存在せず、頭も指先も駆使して挑むバトルは能汁あふれまくりんぐ。
反面、初心者はポチポチとスキルぶっぱなして楽しむ事も出来る。Lv50まではシンプルなキー入力で楽しめるので、アクションが苦手なオジイチャンでもついていけるゲームデザインになっている。よくできているよ、ホント。
実は一切戦闘しなくても、どっぷり楽しめる。農場経営とか、釣りとか、探索とか、料理に一生を費やしても、ホイホイとレベルが上がっていくんだ。実際に非戦闘ギルドも存在し、彼らは毎日釣りやら捕鯨をしてる。漁船も捕鯨もあまりにリアルなので、グリーンピースに絡まれないか心配だよ。
ところで「黒い砂漠は経済ゲームの一面がある」と評されるくらい、札束で殴り合う世界も存在していて、これがまた魅力的なんだな。まずプレイヤーはモンスターを狩って、ドロップしたアイテムを街中で売るわけだが、じつは街ごとに25%くらいの税金が定められている。アイテムの売買に消費税が課せられるわけだね。で、その税金は、街を支配するギルドに渡る。ギルドは攻城戦を通して街を奪い合い、より多くの税収を稼ぐことを目論む。ギルド戦に必要な攻城兵器は高額で、その素材として初心者が採取するアイテムが含まれる。初心者が販売したアイテムを上級者が買い占めるので、お金が循環する。経済の輪廻を延々と繰り返し、多くの富を支配した者が真の強者となる。あまりに複雑でリアルな生態系なんだけど、RMT業者がいない(もしくは、目に付かない程度に少ない)のが素晴らしい。運営の監視が行き届いているのだろうね。
そんなこんなで、戦闘苦手でも交易や釣りを駆使して、マネーゲームに参加する楽しさがある。
いろいろな事ができる黒い砂漠だが、序盤はチュートリアルクエストをこなして、ゲームの全貌をつかんでいく事になる。膨大なシステムのせいもあって、正直とっつきにくさは否めない。しかし、最初の学習曲線を超えたら、あとは自由の時間といえるね。事実、Lv20あたりでクエストがパタリと止まるタイミングが発生する。そこでプレイヤーは「はてさて、なんかやる事なくなったけど、なにしようか」と考え、海を見るとたくさんの釣り人が、砂漠を見るとたくさんの狩人が、平野を見ると「ブフォォ、馬速スギィイイ、チビルゥウウウ」とか駆け抜ける、たくさんの変態がいる。
そんなこんなを目の当たりにして、プレイヤーは考える。「ぼくは、なにをやろう、この世界で。」
この感覚は多くのMMO RPGで共通のものだろうけれど、黒い砂漠では職業システム的な思想がゆるい。ほかのMMOでは明確な攻略法が存在し、実質的に一本道のゲームだった。って事があるのだけれど、この世界にそれはない。経済ゲームに参加しようが、戦闘に興じようが、どういう選択をしても後戻り可能で、正攻法というものが存在しない。これで成り立つゲームバランスは凄すぎる。
要するにプレイヤーは自分のやりたい事をやってれば、勝手にレベルは上がるし、そこそこ楽しめるという訳なんだ。
アップデート速度がすごい。私もいままで両手両足では収まらないくらいゲームをしてきたけれど、黒い砂漠のアップデート頻度は尋常ではない。どんだけ広がるの、この世界。Wikiの情報は光の速さで古くなり、いつのまにか間違いデータになってたりする。ユーザ数の問題かもしれないが、検証班の速度がおいついていない。広大な砂漠はどんどん広がっていくし、その情報は公式に流れないので、開拓するモチベーションに繋がる。いつのまにかNPCに会話が追加されてたり、新しいアイテムが追加されてて、それが恐ろしい量となっていて、ワクワクが持続する。
アイテム課金とは、光と闇の表裏一体。ゲームバランスを傾けたり、ユーザ同士のいざこざの要因になりうる最大要素だね。しかし、黒い砂漠では、最強の課金アイテムってのはないんだ。確かにアイテムボックス増加やアバター追加など、ゲームを有利で楽しく進める課金アイテム要素はあるが、バランスブレイカーとは程遠い。ゲームバランスに影響を与えるようなガチャシステムは一切存在せず、ゲーマーにとって嬉しい秩序が保たれているね。
とはいえ課金とは開発チームや運営会社の胸先三寸なので、いつ変化するか分からない。でも、私には黒の砂漠運営チームは、課金とゲームバランスについて、独特のスタンスを保っているように感じられるよ。
まるでSAOのような小世界がここにある。いや、それは誤りだった。小世界ではなく、黒い砂漠は、世界そのものとすら錯覚するよ。
……なんて超説絶賛しちゃった信者な私だけど、やっぱり長年ゲーマーやってるので、自分の飽きる感覚も想像がつく。でも、そこそこシビアに考えて、あと1年くらいはやってると思う。それくらいの魅力があるゲームが、黒い砂漠だ。
退職から一年が経過し、新しい職場(WEBベンチャー企業)での仕事に慣れたこと、
また、富士通の同期入社の友人から頻繁に転職の相談を受けるようになったこともあり、本エントリを執筆する。
はじめに、筆者の退職理由を簡単に述べると、富士通という会社に未来を感じなかったことと、やりたい仕事はできないだろうと判断したためである。
参考までに、筆者は公共機関向けのシステム開発部門に所属していた。
担当していた業務は様々で、小規模なシステム開発や、子会社・下請企業の管理であった。
富士通には、人材キャリアフレームワークという社員評価制度があり、現場には、入社何年目はこのレベルの仕事、といった暗黙の了解がある。
本人の能力や意欲とは全く無関係に、入社後の経過年数で、仕事の裁量の幅が大きく制限される。
このことはいわば、学習指導要領ならぬ、業務指導要領があるようなものだ。
このような枠組みや暗黙の了解が存在すること自体が問題なのではなく、その枠組から逸脱した人材を想定しない・評価しないことが問題なのである。
筆者がお世話になった優秀な先輩方は、この業務指導要領の要件を満たして手に余った人、
いわば天井にぶつかった人から先に、より大きな仕事がしたいという理由で辞めていった。
筆者もその一人である。
既存産業の大きな成長が望めなく、社員個々の多様性が重要視される昨今の経済情勢において、
高度成長期における横並び思想をもとの作られたやり方が未だに社内を謳歌しているのは時代錯誤というほかない。
富士通への提言として、これからの時代は、年齢も在籍年数も関係ない人材評価制度を作っていくべきである。
そして重要なのは、会社の既存事業でいかに利益を上げたかについての評価ウェイトを下げ、
いかに新しい発想で新しい事業を提案したか・実現したかという評価項目を設立するべきである。
なお、富士通には社内ベンチャー制度があるが、これはうまくいかない可能性が高い。
なぜなら、社内ベンチャーを承認するのは旧式の人材の典型例である高齢な経営層であるからだ。
いままで数十の社内ベンチャーの審査結果を見てきたが、彼ら経営層に事業の将来性を判断する能力はないと痛感した。
また、他の理由としては、富士通の既存事業と衝突すると社内ベンチャーが潰されるということがある。
将来性のない既存事業を残して、将来を託すべき社内ベンチャーを潰すという企業風土なのだ。
富士通という会社には多数の既得権益集団がいる。そして、社内のルールは彼らが決して不利にならないように作られている。
なぜなら、ルールを作る権限は、先頭を走る集団、1980年代に大成功を収めた既得権益層がガッチリ握っているからだ。
いわば、前を走る人を抜かしてはいけないレースのようなものだ。
このような出来レースで若手社員のモチベーションが続くはずはないことは明らかだ。
筆者は、決して年功序列主義を批判したいのではない。
既得権益層が年功序列を悪用して、部下の手柄を自分の手柄にし、部下の失敗を部下に押し付けている実態に対する批判である。
ノブレスオブリージュ、権利を有するものには義務がある、という思想がある。
富士通の既得権益集団には会社の技術力や社員を率先することで、企業としての地位を向上させていく義務がある。
実態は、社内の後進に抜かされることを恐れるあまり、後進の他社に抜かされている。
ちなみに、この既得権益集団に有利なルールが生み出した現状については、
同じく富士通OBである城繁幸氏の著書「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(光文社新書)が詳しい。
経営学において「ヴィジョナリーカンパニー」という名著がある。
この本によると、会社が永続的に成長・発展していくためには企業理念(ビジョン)を社員ひとりひとりが持つことが必要不可欠であると指摘している。
富士通の企業理念は、変革に挑戦し続ける姿勢や、よりよいICT社会づくりに貢献することを掲げている。
しかし、富士通という会社の現状として、このヴィジョンを失っている社員、とくに管理職がとても多い。
30代を過ぎて会社に定住することを決めた社員に変革に挑戦しようという熱意ある人物はひとりもいなかった、
そういう人々にとってICTで社会づくりなどどうでもいいのだ。
ただ顧客の要求を聞いて、それを子会社や下請けに作らせて予算や利益を達成することにしか興味がない管理職が大半であった。
元GEのCEOであるジャック・ウェルチ氏は、たとえ成果を出していようと企業ビジョンを共有しないものはクビにしろと自著で語っている。
このポリシーを導入したら、富士通の管理職の80%はクビになるであろう。そのくらいに富士通の管理職は夢や熱意のない人物ばかりであった。
そのような人材が将来的に会社を破壊する、というウェルチ氏の指摘の正当性を、富士通という会社の惨状が示しているのは皮肉という他ない。
富士通への提言として、ウェルチ氏のやり方を実行すればよいのだ。
成果によって管理職のクビを決めるのではなく、ヴィジョンを共有できているかでクビを決めるのだ。
このやり方を実行すると既得権益を握って離さない経営層や管理職が一掃される。
既得権益にしがみつくだけの人物こそ、ヴィジョンを持たない人物である割合がとても多かったことを付け加えておく。
経営コンサルタントの大前研一氏は、日本の生産性がアメリカの半分しかなく、もはや発展途上国にすら負けていると指摘している。
その原因について、日本では業務標準化が全く進んでいないためであると述べている。
自分の住む自治体と異なる自治体のマイナンバーのITシステムを比較してみてほしい。
ここで、自治体が異なればITシステムも異なることに気づくはずである。
はたして自治体ごとに個別のマイナンバーシステムを作る必要があるのだろうか?
答えはもちろんノーである。全国どこでも一律の業務であるべきであり、同じITシステムを導入するべきである。
自治体ごとに業務フローが異なるために、別のITシステムを使用した時に業務がこなせないという事態が発生する。
そのため各自治体が個別にITシステムをITベンダーに発注することになる。
そこでITベンダーは各自治体ごとに個別のITシステムを作ることになる。
ITベンダー側からすると一度作ったことがあるものをカスタマイズして、業務の順番を入れ替えたり、扱うデータを多少変更するだけで済む。
それなのに膨大な金額を請求するわけだ、ITベンダーとしてはボロ儲けである。
(なお、主要ITベンダー決算書を見ていただくとわかるが、ITベンダーの利益率が高いわけではない)
特に自治体のITシステムは国民の税金で作られているわけである。
各自治体は、このような現状を放置していて、国民に申し訳ないと思わないのであろうか?
このことは、決してITベンダーにのみ責任があるわけではない。
総務省が陣頭指揮をとって各自治体の業務標準化・統一化を進めなくてはいけないのに、それが全くなされていないのは監督官庁としての責任放棄である。
このように業務標準化が全く進んでいない現状は自治体に限らず、民間企業においても同様である。
会計パッケージにおいて、世界のデファクトスタンダードになりつつあるSAP導入に失敗する事例を数多く見てきた。
失敗する理由は、個々の企業の業務に合わせてSAPをカスタマイズしており、そのカスタマイズでは対応できない業務フローが存在するからである。
問題なのは、そのような業務フローは、決して必然的な業務ではなく、過去の慣習から存在しているだけであることがとても多い。
ここにおいて、ITシステムが業務に合わせるのではなく、ITシステムに合わせて業務の方を変えていかなくてはいけないのだ。
このことは、サービス・流通業の顧客からSAPのカスタマイズで無理難題があがってくることが特に多いことと無関係ではないであろう。
富士通は、既存顧客の業務標準化およびデファクト・スタンダードとなるITシステムの開発の陣頭指揮をとる役割を果たすべきだが、その望みは期待できない。
なぜなら関係が深い企業において、業務が効率化すると大量の社内失業者を出すことになるからだ。
そのような"顧客との良い関係"を崩すようなことはやらない会社である。
日本という国のあるべき姿を長期的に考えた際に必然的なことであるにもかかわらずである。
富士通の企業理念である、よりよい社会づくりに貢献するとは、まさにこの業務標準化を推し進めることなのではないのか。
富士通には外国籍の社員が相当数在籍している。しかし、彼らに求められる日本人への"帰化圧力"がとても強い。
同期入社の中国籍の友人は、対外発表会のために完璧な日本語の発音の練習をさせられていた。
完璧な日本語の発音は日本人に任せるべきで、中国に精通しているというメリットを活かせる部署に配置転換するべきである。
なお、残った外国籍社員をみると、小学生から日本にいるなど、生まれたのが海外というだけのほぼ日本人だったりする。
外国籍社員の離職率が高いことに対して、本部長が提示した対策が、
長く働きたい会社とはどのような会社か、というテーマで外国籍社員を集めランチタイムにディスカッションさせるというものだった。
この席で「無能な人が本部長にならない会社で長く働きたい」という大喜利でもすればいいのだろうか。
富士通はグローバル企業を表明しているが、このような組織で海外進出などできるはずもない。
なぜならば富士通の利益構造では、海外において利益を上げられないからだ。
このカラクリの解説は大前研一氏が詳解されているので、参考にしていただきたい。※1
6.富士通の良いところ
ここまで富士通に対する批判と改善の提言を述べてきたが、富士通の良いところについても触れておきたい。
まず、個々の社員の仕事力や組織力といった点では、他の大企業と比較して遜色ない。ただし、富士通の主要グループ企業に限るが。
数十を超える大企業および中小企業と仕事をしたが、やはり大企業は個々の社員のレベルが高く、組織力も高い傾向にある。
顧客として他社と仕事を進めていくうえで、大企業の方が優秀な担当者に遭遇することが多く、仕事がとても進みやすかった。
この理由について、大企業の社員育成能力が高いことはもちろん、社内チェック体制が整っているからではないかと思う。
社内で質の悪いものは弾いており、社外に出さないようにしているのだろう。
また、富士通は顧客主義がきちんと徹底されている会社であると感じた。
筆者と富士通の顧客主義が異なっていた点はあるものの、顧客起点に立つという考え方は大事なことである。
柔らかい人が多く、職場の雰囲気はとても良かった。お世話になった直属の上司や先輩方は、優しく丁寧なご指導をいただいたことに感謝している。
7.おわりに
最後に、立花隆氏の著書「東大生はバカになったか」(文春文庫)から名文を引用したい。※2
「いま、この辞めたい気持ちを逃したら、この会社に骨を埋めて、あそこにいる連中と同じになってしまうと思った。」
結局、筆者の退職理由は、偉そうな顔をしているがロクなビジョンも打ち出せない富士通の上層部のような人間になりたくなかったからである。
富士通という会社に必要なのは、優秀な若手の育成などではなく、無用な老害の排除である。
筆者には、富士通という会社は、沈みゆく泥船にしか思えなかった。
※1「産業突然死」の時代の人生論、第44回 談合をなくす二つの妙案-"便利なゼネコン"はいじめの温床
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/46/
(この記事のゼネコンをITゼネコン(ITベンダー)に置き換えていただきたい。)
※2 引用にあたり、語尾を改めた。
補足1.城繁幸氏の著書「内側から見た富士通」(光文社)についてのコメント
この本は富士通が先んじて導入した成果主義が、名ばかりで社員のやる気を奪う結果に終わったという実態を告発した本である。
この本について、いくつか述べたい。
まず、本題である、成果主義が経営層のご都合で導入されて、社員のモチベーションを奪うという最悪の結果に終わったという指摘はまさにその通りである。
また、この本が出版されてから10年以上経つが、実態は改善されていないし、する気もないのだろう。
(そもそも経営者のご都合成果主義の導入を失敗だと気づく能力が欠如しているのかも知れない)
管理職の仕事は、部下の成果を評価することではなく、予算内におさまるように部下の評価を調整することであった。
なお、成果主義の導入を評価している現場社員は誰もいなかった。
(成果主義を批判する幹部社員はいなかった。おそらく批判すると何らかのペナルティがあるのではないかと邪推している。)
補足2.転職について
筆者の転職について、考慮したことをいくつか述べる。
まず、次の会社・仕事の選び方および交渉の進め方については、山崎元氏の著書「会社は二年で辞めていい」(幻冬舎新書)を大いに参考にした。
転職は考えていなくとも、今の時代を働く考え方、人材価値のセルフマネジメントなどは一読の価値がある。
富士通という大手を辞めたはいいが、次の会社で苦労している人が多いという意見についてコメントしたい。
筆者に言わせれば、それは転職のツメが甘いのだ。
現職のどこに不満を持っていて、そのうち、どこが改善の余地があり、妥協するべきであり、次の職で改善を期待するのか、についての思慮が浅い。
社会のルールをわかっていないで転職したとしか思えないケースもある。
そもそも富士通という会社に勤めているにもかかわらずITゼネコンの生態系を理解していない社員がとても多い。
下請け企業にいけばもっとやりがいのある仕事ができる、などという浅い考えで転職する人はいる。
ITゼネコンの下請けを生業とする会社の社長は、中間管理職と何一つ違いはない。
上の指示(元請けの発注)を受けて下に伝達するだけであって、自身で新しい事業を生み出す能力のない企業である。
新しい会社は、自社で新しい事業を生み出す能力があり、きちんと利益を上げている。
転職において改善したかったこと、専門的な業務ができること、自分のアイディアを事業に活かすことができること、それらがすべて達成できた。
無論、5年前の震災のせいだ。中通りに住んでいたので大事には至らなかった(それでも死んだと思った)が、テレビで見た津波の映像には流石にヘタった。
その日から現在に至るまで、原発も含め様々なニュースがひっきりなし。
当然、その日を題材にドキュメンタリーも多く制作された。地震のメカニズムやその日とった行動だったり、ただ単に原発に近づいてみたものだったりと多岐にわたる。
その中で、今でも色濃く覚えているドキュメンタリーがある。が、肝心のタイトルがスッポリ抜けてしまい、
津波によって破壊された砂浜に、新たな堤防を作る。それに待ったをかける人の話だ。
堤防工事に反対などどうかしてる、と思っていたが、なるほどと唸らせる理由があった。
覚えている範囲ではあるけど、その内容を書いていこうと思う。
「それ」を見たのは多分2012年の夏。大学の夏休み、午前11時ぐらい。
堤防工事に対する住民説明会にて、一人、工事に反対する男性がいた。
当然、反対しているのは彼だけだ。大怪我をしても絆創膏すら貼らないのと一緒だ。なのに反対を申し出た。
理由が2つあったのを覚えている。
理由は忘れてしまったが、堤防を作ることで将来そこに砂浜を失うことになる。
北海道(室蘭~苫小牧あたり?)で作られた堤防が紹介されていた。
実際、さらさらとした砂がなくなり、岩だらけになっていた。海で遊ぶ人もいない。
道民の人は言う。「自分達が子供のころは海で遊ぶこともあったが、今ではその文化も失われてしまった」と。
しかし奪っていっただけではない。津波の被害にあった場所に、干潟が生まれ、新たな生命が息吹いていた。
失ったものがあるのも事実だ。しかし、生まれたものがあるのも事実だった。
もしそこに安直に堤防を作ってしまったら?文化は無くなり、誕生した生物もなかったことになってしまう。
そのような想いで勝ち目のない戦いを挑んでいた。ほかの住民や業者からは「いい加減にしろ」「もう決まったことだ」のような声も飛んでいた。
それでも彼は最後まで異を唱えていた。
盲目的になるし、そこに堤防がある、という安心感が欲しいからだ。
その時もっとちゃんと新聞のテレビ欄とか見ておくんだった。直接その人に会いに行くべきだった。
最近になってオンデマンドでも調べたが、そもそも震災に関する番組自体多いこと・検索キーワードがうまく出てこないこと・実際の番組放映時期が定かではないことで諦めた。
ググっても上記番組のことは出てこず...(検索が下手クソなだけか)
仕事をしていないものが、自己を正当化する為に、よく「働きアリ」の話をするのだけど、
つまり、今、働いているアリが死んでくれたら、自分たちが次に働くと言いたいのだろうけど、それはない。
今、仕事の2極化が起こっているのは、誰かから与えられる仕事を待っている人間と、
自分で自ら仕事を発見し、(問題をキャッチし)、解決している人間の間で2極化が起こっている。
つまり、仕事は膨大(処理しきれないほどの問題が膨大に)に横たわっているけれど、それを見れない人間と、見れる人間がいるのであって、
仕事があることを見れない人間は、見れる人間が死んでも、一生見れない。
見る事のできない仕事をするのは難易度が高いので、それよりも低い難易度でも出来ていない。
つまり、仕事が来てるのに、拒否して、「なんで、私がしないといけないの?」というのが口癖の人も多い。
そんな人間(今働けていない人間)が、現在、働きアリの後釜になれるかというとなれない。
現在働きアリの残した成果を食いつぶすタダ乗りライダーになるだけ。
そして今、膨大にある仕事というのは、人類が食いつぶしてしまった蓄えを1から積み上げなくてはいけないような仕事なので、無償労働も多く割に合わない。
つまり、100の仕事をして、100の収入が入るのではなく、100の仕事をして、1の収入しか入らない仕事ばかりしかないののだ。
アリの生態系を例えに持ち出しても、質が違う。
いわく
等々上げればきりがない。
こういう人達に共通しているのは、知識の根っこにある方が上だと思っていることだ。
プリミティブなことをやれば数学の公式のごとく、下流にあるすべてを把握できると思っている。
もうやめませんか、そういうのは。
知識がツリーになっていることは純然たる事実だ。新しく見える知識でも昔の知識をちょっと変えたものだったりするのは確かだ。
だけど、そんなのは当たり前の話なのだ。それぞれの知識はレイヤーで重なっていて、それぞれの役目を果たしている。
知識のツリーというは一種の生態系なのだ。シマウマはライオンに食べられるが、動物的にライオンのほうが優れているということはない(←(`・ω・´)お前それサバンナでも同じ事言えんの?)。
生態系と違うのはそれがものすごいスピードで起こるということ。だから時間が経てば今ある最上位のレイヤーの上にも更にレイヤーがどんどん重なっていく。
javascriptがいい例だと思う。
昔はブラウザでさえまともに動かせなかったが、node.jsやbowerやgrunt,gulpができて、javascriptというレイヤーの上に積み重なっていった好例だと思う。
つまりそういうことなのだ。あるレイヤーで満足してしまうと、いつの間にか最上位のレイヤーがはるか上の方にあって浦島太郎になっていたりする。
今の話題についていけずに、若者をひがんだりする。今お前らがやっていることはワシが育てたと言いたくなる。かっこ悪い大人の完成。
でもそれはしょうがない面もある。
おじさん達が若い奴らと一緒に知識を追いかけるのは無理があるからだ。走り続けるのには体力がいる。背負わなければならないものも増えてくる。
生物として、自分がやっていることが無意味だと言われないように、追い抜かれないように、必死なのだ。
だから知識のツリーを優劣と混同して、たとえ追いぬかれても自分の存在価値を示せるように攻撃を行うのだと思う。本来は全く逆なのに。
(※すべてのおじさんがこうだとは言いません。最後尾から安々と追い抜いていくすごいおじさんは確かに存在します。)
話を元に戻す。新しい知識の話を聞いたらどうか偏見を持たないで聞いてほしい。それはもう自分ではどうしようもなく、手が届かないかもしれないけど。
少なくともそれは優劣の問題ではない。別のレイヤー、次元の話なのだ。
そしてもし自分が持っている知識のさらに上にあるレイヤーの話をされたら喜ぶべきなのだ。
どんなレイヤーの知識も一つ下のレイヤーに依存していることは確かなのだから。
---ーー
ここ数ヶ月、密林奥地にて怪奇生物「クソ雑魚ナメクジ」の大量発生が確認されている。我々、増田探検隊の調査したところでは「クソ雑魚ナメクジ」を含むエントリーは128件。このまま放置すると、やがて増田はクソ雑魚ナメクジで埋め尽くされてしまう恐れがあり、早期の駆除を急ぐべきである。
このように、さまざまな種が生息するが、最も数が多いのがヤフー属のクソ雑魚ナメクジで、圧倒的である。次点で小町属が多い。
http://anond.hatelabo.jp/20160115195137
上記の目撃情報によると、クソ雑魚ナメクジは普段は温厚な性格であり、人間社会の平和と安全のために活動しているようである。
また、言及元への罵倒に聞こえる「クソ雑魚ナメクジ」のフレーズは、ソレ自身の鳴き声であると論じる生物学者もいる。
http://anond.hatelabo.jp/20160115223832
上のエントリーによると、ピカチュウが「ピカチュウ♪」と鳴くように、クソ雑魚ナメクジも「クソ雑魚ナメクジ♪」と鳴くらしい。
ちなみにニコニコ大百科では「クソザコナメクジ」と検索すると「淫夢くん」のページに飛ばされる。淫夢くんはリスザルのような生物でナメクジとはかけ離れているのだが、どういうわけかそのひとつに「クソザコナメクジ」の別称がある。
トラックバックが荒れるのならば、同じ生き物でも「増田ネコ」や「増田ヘビ」がいた時代は良かった。今の増田はナメクジで埋め尽くされており、ネコは帰ってこない。ヘビはノアの方舟に乗って、彼の地へと逃げてしまったと聞く。(増田ネコの鳴き声は「にゃあ!」 増田ヘビの鳴き声は「にょろ~」だった)
結局何が悪かったのかわかるようでわからんようで、まだ正直気持ちの整理もできていないが、落ち着かせる意味で増田に書かせてもらう。
今度、35年つとめた会社を退職することになった。いや、正確には一応は役員になっているから、解任か。
解任理由は簡単、
会社人生ではいろいろやった。自分なりに会社に貢献してきたつもりだったし、事実、苦しいときには俺がやった事業が会社の新しい展開をやれたとは思う。
ただ、その事実そのものを、専務の奴は気にくわなかったんだと思う。
もういい加減、愛想が尽きた。今は、あんな会社は徐々に腐っていけばいいと思う。
入社したときは、企画職でも営業でもなく事務職だった。ただ、ちょうどその頃会社はその頃の看板商品が大ヒットしていて、人手が足りなくなってた。
そこで、他の部署に応援に回される事になって、いろいろな部署の応援をやった。
人海戦術のDM発送、苦情受け付けに倉庫整理、制服の繕い物、展示会の売り子から営業の補助まで、何でもやったよ。その中で、最終的にある製品企画のプロジェクトに回された事が転機になった。
そのプロジェクトは全然注目されて無くて、一応商品化は済ませていたものの、社長や専務の覚えも悪く全然売れてなかった。
ただ会社の景気だけは良かったからお取りつぶしにされる事無く済んでいた。
こんな、他にもいくつかあったプロジェクトの一つだった。一応は責任者という立場だったが部下はいなかった。
会社はどこまで行っても同族企業で、その上社長や専務が強力なコネクションを持って仕事を取ってくるような所があった。
だから、社長や専務の覚えがめでたけりゃ予算をもらえてそれだけである程度売れる。
ただ、そういう所はひたすら専務の言うことを聞いてなきゃだめ、言いなりになってないと駄目と言う感じだった。
一方で、そうではないところは完全に日陰。だから俺がやる事になった所は、商売としてはさっぱりだったが、その代わり注目もされないので専務に横やりを入れられることもなく、自由にやる事ができた。とにかく当時は看板商品が売れに売れてお取りつぶしにするような手間すら惜しかったのだろ。
どうせつぶれるのだろうし、いろいろな場所でいろいろな手伝いをして歩いてずっと考えてたビジネスプランを実行してみることにした。
それが、当たった。ビジネスプランには自信が無いわけじゃないが、時代に当たった運もある。
もちろん、始めはいろいろと難しかったけど、取り組み初めて数年で軌道に乗り始めた。
バブルの残り香が消え始め、酔いが覚めるように人々はだんだんともうバブルは終わったんだと言う空気感になり始めた頃。そんな時代が切り替わるタイミングというのはいろいろと古い商売と新しい商売が入れ替わっていく。
そんなタイミングにあっても、出た芽は小さくて、昔からの商売をしている人にすれば、たまに生まれてすぐに消えるようなものに見えていたと思う。だからそう言う新しいことをやろうとしている人は、今の商売でうまくいっている人々に相手にされていなかった。
そこに俺は、今の商売でうまくっている所の看板を使って乗り込むことで、一気に市場で存在感を出すことができた。今流で言うと社内ベンチャーということになるのだろうか。最初は小さかった商売もだんだんとうまく行き始めた。
ただ、うまくいきすぎた。いや、違うか、本当に時代が変わっていた。これは悪い事に、これは看板商品の方がだんだん時代に通用しなくなってきたことも意味してた。前の看板商品はだんだんと売れ行きが鈍っていく。一方で俺の商品は売れていく。
そうして、あるとき有力な取引先が3つも相次いで路線変更をし、うちの商品のそれまでの看板製品の扱いを大幅に絞った。その代わり採用されたのが俺がやってた路線の商品。
うれしいと思うよりも、もう必死だったよ。気楽にやってたのにいつの間にか主流の落ちた売上を俺が支えなきゃならない立場になってしまった。必死で必死で会社を守るために働いた。幸いにして努力は報われてどんどん売上は伸びたが、主流派の商品はどんどん駄目になっていった。
よく覚えている、阪神淡路大震災があり、オウム真理教事件があった頃だ。
専務が関わっていた主流派の方は、既存の設備が無理がたたって主力品が販売できなくなった。
一方で、同系統の代替品を用意はしていたが、売れない。それはそうだ。時代の変化について行けなくなったから。前と全く同じ商品だったから売れていただけで、時代に合わない違う新製品を出しても売れなくなっていた。
一方で俺の方の商品は順調に売れていた。そこで、俺はよかれと思って、俺の方の商品に、主流派の商品をセット販売を少しずつ始めていた。どうも専務たちはそれを本当はやりたくないような雰囲気が合ったが、当時は完全に俺の商品以外は赤字になっていたからだ。
また、この新しい商品のノウハウは社内にも公開した。当然だ、秘密にする理由がない。
ただ、ここまで来ても俺がやっていた方のラインは、メインのラインと完全に交わることはなかった。ただ、スタッフの交流は行われていたし、現場レベルでは別に完全に分離されているわけじゃなかった。
社長や専務が主流の方に力を入れていて、こちらに何も言ってこないのは以前からだったし、何よりもそう言う体制があったからこそ、時代の流れの変化に会社として対応ができたから、それはそれで好ましいと思って、特に気にしなかったんだ。
ただ、今思うと、だんだんとひずみが蓄積していったのだと思う。
いくつか時代を象徴する出来事というのがあるが、オウム真理教事件が以前の時代の節目を象徴したものなら、俺にとってのその次は、リーマンショックだったと思う。
この頃から市場環境が再び大きく変化し始めた。商売の環境が再び変化し、90年代に確立しつつあったやり方が再び通用しなくなった。顧客の予算配分が大幅に変わり、そもそも市場が縮小し始めた。これにより売上が頭打ちになり始めた。当然手は打っている。手を打ったから大幅な売上減少にまでは至らなかったが、このままではじり貧なのは間違いが無い。
そして時代が回るうちに、うちの会社で主流派の社長や専務がやってきていた古いスタイルが再び受けるようになってきた。主流派は、こちらが作り上げ、提供したやり方と、80年代からやっている古いやり方両方を知っているため、堅調に伸び続けた。
当然、我々も後を追おうと考えた。
この二つのうち、どちらかを認めてくれるのならば、まだ耐えられた。ただ、両方とも封じられてしまったら、もう手も足も出ずに、座して沈んでいくのを待つしか無い。
しかし、もう問題は俺だけの問題でも、俺の部下だけの問題でもなく、供給者責任として商品を届ける取引先や、それに連なる経済の生態系に対して責任が及ぶようになってしまった。
そこで俺は、ここへ来て明確な指示への違反をした。いろいろと問題にならないように配慮をしつつ、せめて影響が小さくなるように、できる限りの手配をし、できる限りの手を打った。
専務からは何度も話は合った。そのたびにできる限り社の方針に従いながらも、しかし責任は果たすように新しい方向に舵を切っていった。
専務からの締付は強くなってきてはいたが、専務はそもそも会社愛が非常に強い人間でもある。ある程度の自制は効いていたのか、俺や幹部には強く当たるが、実際に決まった業務に影響が出るようなことはなかった。関係性は冷え込んで、それは取引先にまでしれるような状況になっていたが。
均衡状態が一気に動いたのは、ある噂だった。
タイミングとしては最悪だった。社長や専務はもう高齢で、後継者の話がでて、専務の娘が会社に入り、次期社長に決まっていた。そこでいろいろな整理が始まっていた頃だった。
もちろん、俺にはそんな気は全くなかった。弁解もした。ただ、これが「とどめ」になった。
専務からの指示はどんどん強くなっていった。それは俺に言うだけではなく、従来は現場レベルではある程度協業できていた末端の業務にも影響が出始めた。
そして去年の1月、専務に呼び出された。慌てて向かうとそこには専務の他に取引先の人間と、会社の顧問弁護士がいた。専務は取引先の人間に、独立する気も社長の座をねらってもいないと直接説明するように求めた。
俺は求められたように、何度も繰り返していた同じ話をした。そんなつもりは全くない、これからもやっていくつもりだと。事実として、社長や専務が戦後直後から作り上げた偉大なブランド力と、会社の巨大なシステムがなければ商売は続けられないし、それを辞めるメリットはどこにもなかった。冷静になれば誰にでもわかることだ。
ただ、専務はその取引先がいる席上で、そういった説明だけではなく、俺がやっている商品がいかに駄目か、いくらやっても会社の主流は専務の商品であり、劣った亜流であるかを演説し始めた。顧客まで馬鹿にするような発言。はっきり言って事実じゃない。そうして言ったのだ。主流になっているラインと、俺がやっているラインが分かれて摩擦がある事そのものが存在せず、もし存在しているとしたら刃を向けているのと同じだから、辞めてもらうと。
話はあっという間に広まった。
わかっている。いくらやっても主流になれないことは。
だが、会社が問題になったときに、古いやり方に固執して市場変化に対応できず、それでも売ろうとして製品を壊してしまったの誰なのか、収益を上げて会社を支えたのは誰なのか、それぐらいは人気視していると思っていた。
専務が後生大事に掲げる理想ははっきり言って利益になってない。それは我々が作り上げた売れ筋の土壌の上にしか存在できないものだ。それを認めろとは言わないが、否定するということはどういうことなのか。
主流になりたいと思ったことがないと言ったら事実ではないが、主流にしてくれと言ったことはないではないか。それでも何故、敵視してくるのか。
専務の言い分、それがすべてでたらめとは言わない。もっともな指摘はあるだろう。古い伝統や理想を掲げることは大事だ。
しかし、古い理想を古いやり方が再び流行が回るように時代の流れになったからと言って、それは合っていたとは言わない。
止まっている時計は必ず一日に一度は正確な時間を示す、しかしそれは時を動かしているものがいるからだ。止まっていることと動いている事は全く違う。
正直愛想が尽きた。
この方針は続けることになるだろう。少なくとも社長と専務がいる限りは。その娘がいる限りは。ただ、誰の目にもその方針でいつかは行き詰まることはわかりきっている。消えてしまうことはないだろうが、市場は大幅に縮小することになるだろう。
専務は取引先がいる席上でこう言った。「辞めろ」と。本流と一緒にやろうとしたとき、それを拒否し壁を決定的にした本人が、摩擦が存在するならば、辞めろと。ならば辞めてやろうと思う。
ただ、そう決めたからと言って、いきなり出社しないとかではなく、いなくなっても問題が無くなるまで引き継ぎをするあたり、結局俺は小物なのだと思う。
あいつが勝手に辞めたから会社が駄目になったとか言われるのも癪に触る。部下が困るのも本意では無い。結局一年かかってしまった。
希望を言うならば、ただ、進行の遅い癌のようにじわじわと会社をむしばんでいって、最後どうにもならなくなった時に、あのときあいつが残っていれば違ったのだろうなと言わせたいと言う程度の希望はある。(これは呪いでもある)
金なら十分すぎるほどあるし、仕事しかしてこなかったから養わなきゃならん家族もいない。これからは気楽にやろうと思っている。
悩み事としては、俺が辞めるではなく独立して新しい会社を興そうと考えてると勘違いして、ついて行きますと言ってる部下をなだめるのに苦労している。
俺も、それなりに人望はあると思ったが、そこまでとは、正直感動した。
感動したが、部下たちもあんな会社でそんなことを言ったら会社での立場が完全に駄目になることはわかりきっているのに言ってしまった。だからといって本当に会社を興してうまくいくとは思っていないので彼らを拾うこともできない。
もう噂になっていると言う所で頭が痛いが、最後の奉公だと思って(会社はどうでもいいが、部下や取引先は大切だ)各方面にこの下げなれた軽い頭を下げに行ってくるつもりだ。
いや、どう考えても宇宙じゃないだろ!?っていうツッコミが速攻で来ると思うのだけれど、舞台の構造がスペースオペラ(スペオペ)であるという話で、狭い意味でとらえずに広い心をもって少し話を聞いてほしい。
周囲の友人には以前からこの説を披露しているのだけれども、なかなか賛同を得られないので増田で書く。
ジャンルの定義論になると すげーややこしい議論に発展してしまうし、そこまで詳しくないのでざっくりと説明するとスペースオペラは1960年代ごろから定着した小説のスタイルで、名前の通り舞台が宇宙なのが特徴。
人類はワープ技術や超光速航法を得て宇宙に版図を広げ、恒星間交流どころか銀河を渡り、異星人とも親交を深めたり、ときには争ったりもする。未開の惑星に不時着してそこで未知の怪物と出会ったり、宇宙船の中で殺人事件が起きて容疑者の異星人たちの特徴から犯人を捜しあてたり、など様々な内容の小説がある。
こう説明すると、SF(サイエンスフィクション)とスペースオペラってどう違うの?と疑問に思うかもしれない。
そこには明確な違いは無いのけど、敢えて線引きするならスペースオペラは通俗的なんだよね。舞台こそ宇宙船や惑星が出てくるけれど、科学的な考証なんてそんなに重要じゃあない。とりあえずレーザー銃を撃って、悪い奴を倒して、美人を助けて物語は終了!めでたしめでたし、っていうのが大事。
それというのも、スペースオペラは背景が宇宙になっただけの西部劇、と言われるくらいで なにせ低俗的な雑誌に連載されていたから、SFファンからするとちょっと下に見られている。
西部劇というとイメージしにくいから、言い換えると宇宙を舞台にした水戸黄門と思ってもらっても良い。諸国を漫遊するんじゃなくて、惑星を渡り歩いて悪事を働く敵を成敗していく定番パターンの要素はさして変わらない。
前段のスペースオペラは西部劇、って見方は間違いではないけれど、もう一つの要素としては冒険小説のエッセンスを取り入れたのが大きい、というのが個人的な意見。
冒険小説って言うのは歴史が深く、中世の騎士物語とか英雄譚とかが源流のジャンルで、主人公が様々な苦難を経て色々なところを冒険する、というもの。
とある東の国では怖ろしい牙を持った30フィートを超える獰猛な虎と闘い
とある南の国では毒矢を操る部族と捕まりそうになるが隙をついて逃げ
とある海の国ではいかだを組み合わせた住居で一生陸に上がることのない一族と出会う
などなど。
とりあえず妙なところを旅して、変なことが起きて主人公は翻弄されるものの、結果的に知恵と勇気で危機を脱出する、というのが基本パターン。もちろん実際に旅をして書いた書物もあるものの、読者がそこに行って確かめることなんてない時代だから、適当に書いたものがほとんど。
なにより、このジャンルは大航海時代以降になって一気に花開いた。
史実でも南米や、さらには南太平洋諸島には独特の風習を持った部族や文化遺産、また珍しい動物がたくさんいたので小説の題材としてはやりやすかった。
見上げるほど大きな猛獣との遭遇したり、人を食べるという部族に捕えられしまい大ピンチに!とか。
18世紀に発表されたガリバー旅行記も含め、19世紀くらいまではこのジャンルは盛り上がったのだけれども、20世紀にもなると下火になってしまう。
なぜなら、もうその頃には人類未踏の秘境というのもなくなってしまったから。
不思議な動物もジャングルの奥地に住む謎の部族も調べ尽くして、冒険のロマンは地上には残っていない。
そこで宇宙なわけ。
スペースオペラは作者が惑星ごとに好きなように自然環境を作れるのが大きな利点で、重力が少ししかない衛星があったり、昼が一ヶ月続く惑星も設定できたり、生態系でも、異星人でも、文化や風習、宗教や法律など様々な要素を自由に設定できる。
そして一つの話が終了すれば主人公たちはそのままで、次の星でまた新しい物語を構築できる。それぞれの星で不思議な出会いがあり、軋轢があり、その問題を主人公たちが苦難を乗り越えて解決していき、そしてまた次の星へ。
ここまで説明してみると分かると思うのだけど、ワンピースの「島」も似たような構造にあるんだよね。
グランドラインに浮かぶ島々には様々な国々があり、翼の生えた種族が居たり、動物のような容貌の人々がいたり、奇妙な動植物があったり、冒険小説のような要素が満載で、それでいて一つの物語を解決すると次の島へ旅立ちそこで新たな出会いが……というパターンは惑星を旅するスペースオペラとも共通の面が大きいと気がつくはず。
舞台こそ地上ではあるけれども「島」という設定は「惑星」に近く、もうこれはスペースオペラ物と言っても過言ではないだろう。
『いや、でも宇宙じゃないじゃん!』
と友人たちに一蹴されてしまうだけれども……。
賛同してくれる人が少しでもいるといいな。
そろそろスペオペなラノベがくるんじゃない? - WINDBIRD
この記事を読んで書きはじめてみたものの、書いてみたら全然違うところに話が進んでしまった。
あらかじめ補足しておくと
『ひょっこりひょうたん島』も『キノの旅』もスペオペである派です。
増田さんは「働かないアリ」ってご存知ですかあ?
そのイメージは一般的には正しくて、ほとんどのアリは巣に餌を運んだり、幼虫の世話をしたりとアクセク働いています。
ところがどっこいアリの中に約2割ほど働いて無いアリがいるそうなんですね。
あっちをうろうろこっちをうろうろ、動いてはいるけれど何も仕事はしていない、なんだか忙しそうなフリをしているだけなんだそうです。
この2割を取り出して、働く8割だけにしちゃうと、その働く8割の中からまた2割働かない奴らが出てくるそうなんです~
あ~数が減ったし、俺がサボっても問題ないわいって~???みんな働きたくないんですね~
それでね、何が言いたいかっていうと、メンヘラちゃんを斎藤ハウスで一網打尽にして焼いちゃっても、きっと新しくメンヘラちゃんがでてきてその席を埋めちゃうんですね~
ところでその発見以降、働かないアリの存在の重要性というのが議論されてます。
偶発的な事故で大量のエサや働きアリが欠けたときのための補助要員だとか、新しい餌場や仕事を見つけるためのノイズとしての存在だとか・・・
これは鋭い指摘ですね
だけど長文で上がってくる互助会は数えるほどじゃないかな
お堅い内容もアゲられるのはすごい価値だったと思うんですね
ファッファッとつくられた記事がたくさんのブクマつけて上がってきたら
余波としてライターが書いたような正統なオウンドメディアの記事は読まれなくなるんじゃないかな
ブログやおもしろコンテンツなんかはウェイ系との相性がいいからブクマつくけど
グルメ系のオウンドメディアはよっぽど興味を引く記事じゃないと
なかなかブクマが増えない傾向があるよ
読んでみたらちゃんと取材もしてあって知らない情報も書いてあるんだけどね
これはウェーイ系の弊害ではないかと思う
ゆりかもめ、あの浮世離れした感じがいいよね。でもあの感じがあるのは豊洲側の半分だけで、新橋側は建物も多いし乗ってる人も多くてそこまでの風情はない。それでもレインボーブリッジのループ(考えてもみろ、都内にループ線あるんだぜ)とか第六台場(独自の生態系が発達しているらしいぞ)とか三角ビル(一番上の三角のところのフロア想像すると涼しい)とかセメント工場(高架だからパイプが間近に見れてちょうかっこいいぜ)とか竹芝桟橋(伊豆諸島行きの船が出てるらしい!)とか四季劇場(いつ通ってもライオンキングやってるんだよ、信じられるか?)とか見所はたくさんあるので、退屈はしないと思うけど。機会があったら一度端から端まで乗ってみるといいと思う。
呼んだ?呼ばれた気がしてここに降臨
路側帯に車を停めて、ウンコをすることか?それは緊急事態なので許そう。しかしビニール袋に入れて持ち帰るのがマナーだ。
山歩きでウンコがしたくなったとき。当然近くにトイレな無いな。これも仕方がないので許そう。野・糞と書くだけに野の中でウンコの仕方
登山中のウンコは自然現象。英語でウンコがしたくなったことを「自然が呼んでいる」という
登山用語で「雉撃ち(きじうち)」か「お花摘み」と言われるくらい。ちなみに「お花摘み」は女性の方ね。メルヘンだね。これならアイドルでも許せるね
さて、ウンコをする前に穴を掘れ。なぜかというと、しゃがむと肛門*と地面のクリアランスは拳1個程度だ
そこでウンコをすると、ウンコが地面に当たる。そのときの感触はまるでバックから掘られたウホォって感じになる。ああ、肛門*に異物が入って来る新しい感触
新しい感触に浸るのもいいが、単純にウンコが地面につかえているだけだ
そして用が済んだら穴を埋めるのだ。その時、紙は燃やすこと。紙はトイレには流せるが自然の中では溶けて無くならない。これがマナーだ
しかし標高が2500メートルを超えると、穴を掘ってウンコを埋めても自然分解されない。土壌が痩せているのだ。さらに生態系を破壊しかねない
高山に登るときは携帯トイレを持って行く、これはマナー以前に山の掟、義務だ
さて、路上でウンコをすることになったら、拭いた紙はウンコの上に置いて良し。そこにウンコがあるな、踏んではいけないな、という目印になる