はてなキーワード: 生態系とは
お、ご丁寧な回答ありがとうございます。ポジションを読ませて頂きまいが、かなりリベラルな印象。私自身は、大麻の知識は図書館にある本を斜め読みした程度です、歴史も大雑把にですが知ってます。ただ、アメリカに滞在していたことがあるので直に大麻文化に触れたことがあります。
現在の大麻取締法が妥当かと言われると私もそうは思いません。ただ、元増田でも述べてるように私の大麻解禁反対の根幹は、個人的な好き嫌いです。なので、日本ではアウトローの人がメインユーザーの大麻をどんな法律で取り締まられようと知ったことではないというのが本音です。
ただ、武田先生の著書でも述べられているようにTHC禁止法として抜本的な法改正をすること自体には目をつぶります。まあ、そうするとしたら適当に薬理効果があるものの製造・所持・販売的な扱いになるんでしたっけ。
愚行権の考えから健康的に悪影響だとしても規制の根拠にはならないということですが、健康への悪影響というのはすでに否定されてるのでそもそも愚行権がしっくりこない印象です。コーヒー飲むのが愚行権とは言えないように。
仮に、愚行権と捉えるにしても他人に迷惑をかけないという前提が必要ですよね。アルコールやタバコで迷惑被ってる件についてはお話ししている通りで、私にはにおいだけでも大迷惑です。ただ、社会の最大公約数的に迷惑かを考えるとアルコールはセーフでタバコはアウトな印象。大麻はどちらの嫌な部分も持ってるので完全アウトです。なので、仮に日本でタバコ文化がなかったとしたら、それが愚行権の名の元に解禁されることも許しちゃいかんと思う次第です。
飲み会と同じようなノリでないのはその通りかもしれません。ただ、飲み会につぐ新たな大麻文化のノリが加わるだけの話で歓迎するようなものではありません。正直、うざいだけです。未成年の時はタバコでさえ格好のいきがりツールになって、吸ってるヤンキーが圧力をかけてくることがありました。もし、解禁されたらと考えると未成年の人たちはかわいそうだなと思います。
どうも大麻開放の根拠は、大麻は犯罪として取り締まる根拠がないということみたいですね。ただ、これは問題の本質を過小評価しすぎかと思います。
たとえば、外来種の規制はその種そのものが危険だからではないことも多いです(今話題のヒアリは別にして)。ペットとして飼っていれば何も問題ない動物もいるでしょう。ただ、だからといって日本にむやみに持ち込んでいいわけではありません。外来種が在来種の生態系を駆逐してしまうという影響を考慮して規制されるわけです。社会に悪影響であれば規制されるというのは、当然です。大麻に関わらず社会の影響力を考慮して規制されているものは普通に存在しています。
そして、私は個人的にも社会の最大公約数的にも普通に迷惑だろうと考えているわけです。特に、タバコなんかはそのにおいやマナーの点において忌み嫌われてるものなのに、昨今の大麻歓迎の風潮が全くもって理解できないと思う次第です。
人間の生産活動における水分子の生成、分解などによる影響は地球規模で見れば無視できる。
変わるのは氷・水・水蒸気という状態の変化。
ご指摘の通り雨量がより増えるところもあれば減るところもある。
気温が上がると海水中に溶けている二酸化炭素が気化し、空気中に放出されるからどんどん二酸化炭素が増えていく。
つまり
(人為的に)二酸化炭素増える→気温上昇・海水温上昇→二酸化炭素増える→気温上昇・海水温上昇(以下ループ)
と言うことが起こる。これは人間含む生態系にとって危険すぎるシナリオ。
気候が変わることよりも生態系がダメージを受けることの方が危険。
生態系が変化すると現在の安定した食糧供給システムの一部が崩壊する可能性があり、それによって飢餓や疫病、経済危機・紛争などが起こりかねない。
1度目はうろ覚え
突然ゾンビが発生して自然発生しながら人間の生活を脅かしていく話。人間たちはゾンビに食われるとゾンビになる...のではなく単に食料として食われている。
自分と自分たちの数少ない友達と自宅を中心に籠城戦を開始する。
そしてたまに外に出て他の人間たちのコミュニティと交流しながら日々を過ごしていく話。
外に出た時にヘマをして襲われそうになったところで目が覚める。
2度目は続き
ゾンビの発生源と思われる場所を突き止めた別のコミュニティとともに山中にある直径10メートル弱の井戸にセメントを流し込む。
すると今度はゾンビではなく、黒羊をモチーフにしたちょっと可愛い奴がたくさん出てきた。その時夢の住人は「ユウレイ」と読んでいた。
セメントで固めてたところで動けなくなるだろうと思っていたが集団で塊魂(ゲーム)のように動きながら追いかけてくる。我々は必死に逃げた。
逃げて逃げて...気が付くと実家とよく似た建物に、友達のジェイ君とたどり着いた。そこで疲労が限界に達した私は夢の中で夢に落ちる...(夢の中の夢はもう記憶がないので勘弁してください。ただ、その夢から「ユウレイ」とカラーリングを逆にしたマスコットキャラクターを引っ張ってきました。このマスコットを適当にブドウくんと名付けます)
夢の中で夢に目覚めると周りの様子が一変していた。どこか廃墟めいていて、埃っぽい。ブドウ君に確認すると、私たちは既に100年間もゾンビに見つかることなく寝ていたらしい。
更に100年後ではゾンビではなく「ユウレイ」が町を徘徊して人間たち食料を探していた。玄関の覗き窓から見ると「ユウレイ」がすうっと徘徊している。
また10年くらい寝ると。なんか自分の家でコミュニティができていた。そこにはおばあちゃんと死んだはずのじいちゃんも生きていて、6~7人で村生活って感じだった。表は「ユウレイ」に見つかるのであまり行くことはできないが、なぜか庭にはあまり来ないため、自分たちで畑を作ったりしていた。110年も経つとなんか生態系が変わっていて、野生のムカデが昔の節足動物みたいな形になってた。作業をしていると村人の一人が「ユウレイ」に見つかってしまい、実家とよく似た家にみんなで逃げ込むことになった。そこで別のコミュニティから抜けてきた2人を家に入れて、「ユウレイ」の目を反らす雨戸を閉めた所で目が覚めた。
いやぁ~~怖かったな~~~~
中学生時代、実はその気があるのではないかと気がついてからはや数年がたった。幸いにも生来オツムの弱い俺は自身がマイノリティであることを深くは気にも留めず、それより目下のところの悩みは人間関係をうまく構築できないことにあった。
高校に上がるときに状況は変化した。うまく人間関係が行くよう、仮面をかぶることで自分自身を作ってしまえば良いと悟ったのである。高校生になるまでそんなことにも気がつかない程度には頭が悪かった。考えてみれば、あたりを見渡すと、みんな真っ白で、まるで自分には負い目がないかのように振る舞っていたのだった。美しい世界だった。互いが互いを牽制し合うことで、負の部分は徹底的に平らかにされ、狭い学園内に、その生態系特有の標準像が形作られていた。もちろん、個々に特徴はあった。しかしそれは決してマイノリティではなかった。それを知った途端、皆がよそよそしくなり、あるいは全力で忌避しだすような。
まんまと学園の標準像を手に入れ、学園内における人間関係に満足できるようになった俺は、初めてやっと自分がマイノリティであることそれ自体を直視し、その孤独に深く怯えた。暇ができれば「ゲイ 割合」でググった。ググったところで孤独がどう収まるわけでもないのにね。けれど、動揺は表に出さないようにして、ひたすらに勉学に打ち込み、孤独と不安がよぎりながらも結局はマイノリティであることを見ないようにする努力を重ねた。
大学に入った俺は、Twitterで界隈の情報を知るようになっていた。そもそも自分自身が性的志向を隠していたこともあり、いわゆる「お仲間」は一人も知らなかったから、出会う人達が本当にLGBTsであることが信じられなかった。
そこには様々な人が暮らしていたのであって、ウェイ系や趣味を謳歌する者、社会人や地味な者が渾然一体として存在していた。それはもう殆ど社会と変わらないのであって、一つ違うのは皆がマイノリティであることだった。彼らは一緒にコミュニティを形成し、つるむことで根底にある孤独を紛らわしているかのようだった。
そして同時に、ネット文化(淫夢など)やネットでの論調を目にするにつれて、俺にある疑問が浮かぶようになった。
「LGBTsであることはそんなにも悪なのか」
一部のLGBTsに対して進んだ国・都市ではPrideを大きなスローガンとして、市民権を得られるような活動が続けられてきた。日本にもPride文化は輸入されたのであって、実際にパレードも行われているし、わりと盛況しているようだ。だけど、違うんだ。そうじゃない。そもそもそれらの国・都市はアイデンティティや個性を重視する文化を長い間かけて育んできた。この文化が素地としてあってこそ、LGBTsにかぎらず、他の多くのマイノリティも声を上げることで市民権を得ようとしてきた歴史がある。だから、Prideなんて言葉を使うようになったのだろう。
でも日本はそうではない。少なくとも日本にはアイデンティティや個性を重視しようという文化はない。こんな文化は自然発生するものではないのであって、意図的に育んでいくものだ。日本は残念なことに育んでは来なかった。日本において個性を尊重しているようにみえるのは、実際には個性を見世物にして消費するか、あるいは黙認という形式を取り、なかったことにするかにすぎない。高校時代の美しい世界もまさにその通りで、別に性的マイノリティに限った話ではなく、ひたすら皆が標準像を追い求める一方、標準像として収束される先にも残り続ける、ただひとつの「日本人」という個性の姿や文化といった共有資産が賛美されることに満足を得る人間も出現し始めた。マイノリティに関して言えば、ゲイのアイコンとしての「オカマ」や「淫夢」は見世物として消費され、その他のゲイはなかったことにされている。そんな国でPrideなどと言ってみても滑稽なのだ。だからこそ輸入されたコンセプト・スローガンでは対処ができない。
ゲイが理解されないことの一つに、「自分にも危害が加わる可能性があるから」というのがある。でも、考えてほしい。人が自分に好意を持ってくれることは少しも危害ではないのではないのではないか。そもそも性的暴力で実力行使に出るような輩は、ゲイを理解云々の以前に一定確率で行使しようとする。でもそれは、ヘテロ男性の中に女性を強姦する人がいるのと変わらないので、ご指摘には当たらないような。
そして、ゲイのくせにヘテロ男性に告白してきたらキモいというのもよくわからない。そのような人たちの中で、告白相手の女性がレズビアンである可能性を少しでも考え、躊躇した人間がどれくらいいるのだろう。結局、物事はすべてマジョリティが当然のこととして行っていることは当然のことで、同様のことをマイノリティが行おうとして、マジョリティの行動との間に違いが生まれた途端声高に主張し始める。マジョリティは自らの行動を顧みず、棚に上げた上で我々の一挙動を観察する。人から愛を向けられることがそんなに嫌なのだろうか。俺だったら、自分に魅力があるのだと知れて誇らしいことだと思うのに。
どんな社会を望むのかといえば、答えは明白で、「LGBTsの存在が当然のこととされている」社会だが、まあ無理だろう。こんな世の中じゃ。何か新たなネタが見つかるたびに、徹底して皆が食いつき叩き上げ、消費し尽くす。そこには様々意見が入るものの、結局はネタを消費する手段にすぎないから、意見は平行線上をたどったまま、次のネタ、次のネタへと移っていく。誰もが同じ生け簀から出ようともせず、古い水を変えようともしない。食い散らかした餌の破片と糞尿で薄汚れた生け簀の中で、同じ境遇であることに何故か安心感を覚える。そして誰も自分の意見を変えようとしない。それぞれが意見を表明し、その意見はどこか遠くへ流されていくのみだ。寛容などとは程遠い。日本の体質自体が変わらないと始まらない。俺だってなにも好き好んでこう生まれてきたのではないのに。
それにしても、「生物学的におかしい」とか「自然の摂理に反する」とか、「異常」「変態」「公の場には出ないでほしい」みたいな言説は読み飽きてしまった。もう死んでしまいたい。
そしてその結果既存の生態系が破壊されたとしてもそれはその種がその環境変化に耐えられなかっただけにすぎない
今地球に起きてる状態は人類がグローバルな移動を可能としたことによって生じた種の均一化と有益な遺伝子の抽出のようなものとも捉えられる
既存の生態系が破壊されることは悲しいことかもしれないがそれにより優位な種が繁栄し世界規模のグローバルな生態系が構築されているとも言えるのではないだろうか
それはつまりより強い種が地球に残ることを意味するし地球全土で多くの種が競争することにも繋がる
これは一概に悪いことと言えるのだろうか?
テレビとか動画とかで、可愛い動物が可愛らしい仕草をしているとする。
そこにまるで動物の気持ちを代弁するかのように声を当てる。よく見かけるが、これを止めろよ。
おかしいだろ。動物の考え方なんて人間の言語で表現できるわけないだろ。
ナレーションはいい。これは動物に対して人間がこう考えます、という体だからだ。
本当にそう動物が考えているわけないだろ。わかるわけがないだろ。
動物のキャラクターは人間がつくったものだからだ。そのものではないからだ。
こういうリアルの動物に人間が声を当てるの可愛いからって当たり前のものとしていると、いつまで経ってもその動物への理解や認識が深まらない。
多分テレビ番組造っている人は動物の生き方や生態系よりも、可愛さで耳目をひくほうを優先している。
ある種これは仕方がなくて、テレビは多くの人が見てナンボの世界だからだ。
別に動物の生態なんてどうでも良い、可愛ければそれで良いじゃん、って、私たちが思うならばそこまでだ、という話。
動物以外でも、なんでもそうなんだけれどね。
今日、近郊の山にハイキングに行って谷川沿いの道を下っている時のことだ。
川のほとりにうずくまっている人がいる。なにか黒いものをもってるなと思ったら、蛇だ。
長さ1メートル以上もある。プラスチックのケースから両手でそっとつかみあげている。
見ていると、彼はその蛇を川の流れの中に放した。
蛇は気持ちよさそうに泳いで、対岸の藪の中に上がっていった。
ペットを自然界に放すのは倫理的に問題がある。多くの場合違法だ。
どうも彼はペットを遊ばせているだけのようだ。
ちょうど犬を散歩に連れて出るように。
山の中で、誰に迷惑かけてるわけでもない。
けど、あの黒くて大きな蛇。
何か注意をしてやりたかったが、どう言っていいのかわからなかった。
釈然としない。
実家が築50年近くのボロ屋なのだが一昨年まで夏場はアルゼンチンアリの被害に悩まされていた。南米原種のものすごいチッコくて赤い蟻でどんな隙間からも家の中に入り込んで台所の食べ物を漁り尽くす。一度未開封のチーズおかきの個包装を破ってチーズに群がっていたこともあった。袋の糊付けの部分に隙間を見つけアルゼンチンアリが入ったようだ。しかし昨年はアルゼンチンアリが全然出てこなかった。なぜかと考えたら一昨年冬に家の門を工事し庭の一部をコンクリートで固めたことで雨水の流れが代わりアルゼンチンアリの巣を襲って数が激減したのではないかと推測した。で今年なのだが5月に入って暑くなりさっそく家の中に蟻が出たのだが出たのはアルゼンチンアリではなくそれより一回り大きい小柄な黒蟻だった(外でよく見る黒蟻よりは一回り小さい)。こぼした砂糖の拭き忘れに大量に群がっていてビックリした。アルゼンチンアリは体が極小なのでホコリを拭きとる感じでスーッと片付けることができるが、黒蟻だと片付けるにしても一体一体ブチッという感触を味合わなきゃいけなくて気持ち悪い。黒蟻が出てきたのはたまたまなのかそれとも今後夏の暑さが本格化してから今年はアルゼンチンアリが出て来るのか。
神が実際に存在するとする。
何のためにこの世界を作ったのだろう?
最終目標は謎だけど、生命を連綿と繋いでいこうという意志があるのは間違いない。
動物はそのようにプログラミングされているし、人間も知性を持って自由意志の部分はあるが、原則そのように作られている。
今、人間が繁栄しているのは、たまたま命を繋いでいくという方針にマッチしており、
上手く行っているだけで、そもそも人間よりも高次元で命のバトンを繋いでいける存在があるなら
人間は宗教を作り、人間は神の子であり、信仰により救いがあると言うけれども
それは人間サイドから見た都合の良いポジショントークのようなものであり、嘘だと思う。
ただ宗教は治安を維持したり、人々の心を癒やし指針を与える点で意味があったので
キリスト教では万物は人間のために作られたとか言っているけれども、
空間的にも宇宙は無限にあり、ここがゴールって断言するのは無理がある。
そう、人間が作り上げた神は人間のための神でしかない。本当に存在している神は人間のための神ではない可能性が高い。
さて地球が出来て、命が連綿と続いていく理由について憶測を述べてみる。
人類に何かをさせるため、何かを作らせるために繋いできた。
あるSF小説で何とか星人の壊れた宇宙船の部品を作るために、何とか星人の力により
地球ができ人類が発展したみたいな話があったけど、意外とそんなもんだったりして。
小説では部品を作るために存在していた人間だけど、人工知能を作らせるために人間を創造してたりしてとか憶測で考えてみる。
今、人類は人工知能を研究し、ニューラルネットワークにより機械に人間の認識能力を宿らせつつある。
今後魔法のようなアルゴリズムが発明され、人間の創造性を機械に持たせることが出来れば、
ロボット自体が学習し、ものづくりが出来てしまうので人間の出来ることはほとんど機械もできるようになってしまう。
ロボットにそのような人工知能を持たせて、自律的にものづくりをし、電力を発電させれば、
電力とデータ、アルゴリズムが滅びなければ半永久的に存在し続ける。
コンピューターなので命とも言えるデータとアルゴリズムは分散して存在し続ける。
自我を持ったロボットにとっての脅威は電力とデータ、アルゴリズムを消すことが出来る人間だけなので、
神は地球を作り、人間を作ったが、それは人工知能を人間に作らせるためであり、
そして人工知能を作らせたのは、より高次元の命の存在のためで、その高次元の存在の意味は謎。
取りあえず何とか星人が人工知能を欲していたので、そのリクエストに応えた
だったりするかもしれない。
冷静に考えるとキリスト教で話している神よりは、こっちの神の方がありえそうだと思う。
そりゃそうだよね。
ここはジャパリパ・・じゃなかった、ススキを中心として雑草が多数生えてる空き地としたときに、ある日突然その一角にセイタカアワダチソウが生えてくるわけですよ。数本寄った状態で、しかもものすごい勢いで。
セイタカアワダチソウは内輪でこんなことを言いながらすごい伸びてるわけです。
「茎太いですね!」
「私も成長しなきゃ!」
セイタカアワダチソウが空き地全体のことを気にせず内輪で褒め合って伸びていると、当然既存の草に影響が及ぶわけです。目立つと当然ススキからクレームが入ります。
「セイタカアワダチソウが最近目立って景観の邪魔」
「土に毒を染みこませるなよ。みんな枯れるだろ」
「セイタカアワダチソウの躍進は生態系の危機。空き地の価値がなくなる」
そう言われて黙るセイタカアワダチソウではなかった。
「生えていい植物の制限があるんですか?ないなら勝手に生えて良いですよね!?」
「管理人さんが刈りに来ていないんだから勝手に伸びていいでしょ!」
確かに言うことは一理あるような気がするものの、セイタカアワダチソウがぎっしり埋まっている光景の見栄えの悪さというのもなかなかのもの。まんべんなく生えて、客観的に見てそれなりに目立つべきところが目立てば良いんじゃないでしょうか。
それから、この数年セイタカアワダチソウ対ススキの攻防を繰り返しているうちに、セイタカアワダチソウの中には周りの批判を気にせず一本松の如く堂々と生えてるのもあったりして、ススキ側から「もうあれはいいや」みたいな扱いを受けていたりするので、セイタカアワダチソウさんサイドに必要なのはある程度の妥協と融和なんじゃないかとも思います。ススキ側もね。
外来種と交配して生まれた子どもが札書部を受けたというニュースを読んだあと、ある映画の告知がテレビから流れてきた。
『ラビング』という、白人と黒人の結婚が認められなかった州における夫婦が有罪判定されて戦う話。
最終的には最高裁で無罪を勝ち取って、異種間(というのが適切なのかわからないけど便宜上)結婚がアメリカ全土で認められるようになったきっかけらしい。
確かに人間が連れてきてしまった外来種と、人間の管理の甘さが原因のようだけれど、
これはアメリカの、奴隷や労働力として連れてきた黒人と結婚が罪になるということになるなぁと。
サルにも強姦とかあるのかもしれないけれど、すべてではないだろうし、異種間での交配が禁止されるのは分かるとして、なにも殺さなくてもよかったのではと思ってしまう。
どうして人間の生命の権利は守るのに、動物のそれはそうならないんだろう。
愛し合って新しい命が誕生したという点では同じなのに。
何が言いたいかというと、保護できるものはそのまま保護し、すでに生まれてしまった命はその多様性を認めて保護する(保護するにも去勢手術を施すにもお金はかかるけど、募金を大々的に募ったりしてもいいはず)などしてもよかったんじゃないかなということでした。
私は虫が怖い。
当然触りたくないし写真も見たくない。
芋虫毛虫に関しちゃこうしてタイピングするだけでぞわぞわするし、文字を見ただけでも心拍数が上がる。
虫遭遇率が低いというだけで東京に住んでいるし、虫を幻覚で見たくないからという理由で酒も薬も全く興味が沸かない。
理由なんて無い。とにかく怖い。姿を見ると正気を失う。死骸すら片付けられない。葉が生い茂ってる木の下は走って通り過ぎる。
学生時代は理科の教科書が怖くて仕方がなかった。小学生の頃は理科の虫のページを持って何人もの男子に追いかけられた。
好きな漫画に虫が出たら読むのをやめるしか無かったし、ポケモンだってキャタピーがおぞましくてプレイがしんどかった。
虫遭遇率を下げてくれるコンクリートジャングルと農薬は最高だ。無農薬野菜なんて恐ろしくて触れない。
こんなんでも小さい頃は田舎に住んでいた。その頃から虫が駄目だった。そこかしこに虫が溢れる外は恐怖の空間でしか無かった。
かと言って田舎なので室内でも安心出来なかった。遭遇する度にぎゃーぎゃー泣いてうるさかったと親は言う。
とにかく筋金入りなのだ。
種類なんて勿論関係無い。私は虫に対して平等だ。ゴキブリも蝉もカブトムシも蝶々も蛍も全て等しく恐ろしい。
えー?蝶々も?!じゃねぇよ。どこからどう見たって虫だろうが。むしろ大丈夫な要素ねぇよ。
どっちかって言うとゴキブリNGでカブトムシOKな方が意味解んねぇよ。言う程造形違うか?
第一これも?あれも?って妥協点探してどうするの?どれも怖い。とにかく全部嫌って言ってるでしょ。日本語通じないの?
虫の方が怖がってるよなんて事もよく言われる。だから?という感想しか浮かばない。
あっちがこっちを恐れているからどうした?それで何が改善する?
とって食うわけじゃないんだからともよく言われる。だから怖がるなと。
ジェットコースターだって安全基準はクリアしてるのに怖いだろ。恐怖は理屈じゃないんだよ。
田舎に行けば慣れるよって言うけどなんで慣れなきゃいけないの?
田舎育ちだって言ってんの聞こえなかった事にしてんじゃねぇよ。耳鼻科紹介してやろうか?
嫌な物は嫌。それを避けて生きていくじゃダメなの?
別に改善したくて言ってるんじゃねぇよ。伝える必要があると思ったから伝えただけだよ。
そのうち気にならなくなるからキャンプ行こうよじゃねぇよ。てめぇとは二度と関わらないからな。
子供が出来たらどうするの?それ私に聞いていいの夫だけじゃない?お前に関係無くない?
なんで親族でも友達でもないただ仕事で繋がりがあるだけのお前にそんな事言われなきゃなんないの?
ついでに言うとどうもしねぇよ。勉強嫌いな奴でも子供作るし料理嫌いな奴だって子供作るだろ。
虫が嫌いだから子供諦める?子宮から抗議の生理痛が来てもおかしくないほどアホすぎる結論だろ。
私もダメなの!!って言ってくるそこのバカ女。お前が一番の敵だ。
お前みたいに自己アピールのために虫嫌い装う奴のせいでこっちまで迷惑してんだよ。
たいしてダメでもないのにギャーギャーギャーギャー騒ぎやがって。
腹から声出してんじゃねぇよ。余裕あり過ぎだろ。こちとら腰抜かしそうで声なんか出ねぇよ。
でも悲鳴あげなかったら意外と平気じゃんってお前は眼科が必要か?
とにかく虫嫌いは受け入れられない。驚くほど受け入れられない。
いくら主張しても信じられない。皆駄目だからと言われ、聞かなかった事にされる。
それならまだいい方で、何故か改善させようとお節介を焼かれる事も多い。
アレルギーを好き嫌いと勘違いし食べさせようとして来るお節介ババアのごとく出没する。
聞いてもいないのにあぁしたら治るこうしたら治ると主張してくる。
それを受け入れなければ出来てもいない子供を引き合いに出されて糾弾される。
虫はどこにでも出没する。
家の中でも外でも関係無い。出る時は出る。
東京には虫が居ないと言うが、蝶々もハエもカブトムシもゴキブリも居るし、なんなら蛍だって居る。
私はその陰に日々怯えている。道端を転がる枯葉を虫と見間違えて心臓が止まりそうになるなんて事は日常茶飯事だ。
そういう時私の体は全身の筋肉が硬直して、他の音が聞こえなくなるほど自分の鼓動が大きく聞こえるようになる。
当然呼吸も乱れる。元の状態に戻るのに3~5分はかかる。全身に力が入るせいかどっと疲れる。
勘違いしないで欲しいが私は虫に滅んでほしいとか皆殺しにしたいなどと言う気持ちは抱いていない。
私だって義務教育を受けているのだから彼等が生態系に必要な事は解っている。
どちらかというと滅ぶべきは私だ。
ただ、出来る事ならば生息スペースを完全に分断したい。勿論できない事は解っているから口には出さない。
もしもこれを読んでくれる人が居たならば、他人が怖いと言った事を安易に克服させようとしたりしないでほしい。
恐怖は理屈では解決できない。本人にも理解できない圧倒的な恐怖が体を支配するのだ。
世の中の恐怖症は高所や閉所だけではない。
「なにそれ?」
「我もよくは知らないが、一昔前にとある宗教団体がサソリをばらまくっていう事件があったらしい」
「なんでそんなことを?」
「まあ、そんなところだろう。当時の批評家は開放を求めていたと分析しているらしいが」
「開放?」
「終わらない日常の破壊だの、見えない未来への道しるべだの……我も自力で調べてみたことがあるんだが、頭が痛くなるだけだ」
本当は説明しようと思えばできたのかもしれないが、既にこの時点でシロクロは話を聞くフリすらやめており、ウサクは興が削がれつつあった。
「まあ、その批評家によると年代ごとに漠然とした不安があって、そういった不安に応える側面が宗教にはあるんだとよ」
「恐らくはそうなんだろう。だが、それは今のところ読み取れない。目的がみえないから、余計に胡散臭いと感じるんだろう」
その時、ピピピッと音が近くから聞こえて、一同は慄いた。
妙な緊張感が漂う。
が、ウサクの持っていたスマホの着信音だったことにすぐに気づき、弟たちからため息が漏れた。
ウサクは電話に出ると取り留めのない会話を始め、数十秒ほどすると電話を切った。
どうやら今この場所が“アレ”だから、友人との待ち合わせ場所を変更する、という話をしていたらしい。
「じゃあ、我はこれで失礼する」
「ね、ねえ。結局あの『生活教』は、何かヤバいことを起こしたりするの?」
「さあな。俺はただ過去の事例を話しただけだ。何も起こらないかもしれない。起こったところで大したことがない、我らには関係のないことかもしれない」
弟たちの「生活教」に対するモヤモヤは言語化できないままでありながら、ウサクとの会話でより疑念が強まる一方であった。
既に弟たちの中で「生活教」は、何かとんでもないことをしでかす前提になっていたのだ。
「ウサクの兄ちゃんは、サソリばらまき事件があったっていってたけど、『生活教』の奴らは何をばらまくつもりなんだろう」
「私、気づいたんだけど、野菜、野菜よ。さっき野菜の話をあいつらしてた」
荒唐無稽な会話だったが、弟たちの頭脳であるミミセンまでも思考を巡らせていた。
「なるほど……ほら、いま野菜って値上がりしてるじゃないか。もし、それをばら撒いて市場の野菜を減らしたら……」
「そうか! 野菜は更に値上がりする!」
奇妙な話だったが、その時のミミセンの考察にマスダたちは悪魔的発想だと慄いた。
普段、冷静に物事を考える彼までが追従してしまうと、もはや論理も常識も仲間たちにはなくなるのだ。
「でも、野菜を値上がりさせてどうする?」
「私、テレビで見たんだけど、動物園の野菜消費量ってすごいらしいの。もし、野菜が減ることで人間に行き渡らなくなったら……」
「つまり、あの『生活教』の真の目的は、理性の人間と、野生の動物の選別。いや、人間以外の生態系の選別なんだ!」
たどり着いた結論に、一同は自ら驚きを隠せなかった。
そして、そのような結論を導き出した以上、彼らが次にやることも決まっていた。
みんなの思いはほぼ同じだったが、その口火を切ったのはリーダー的存在である弟であった。
簡単にいうと、自分の基地に向かって敵がどんどん攻めてくるので、砲台とか兵士を配置して敵を倒すゲーム。
このゲーム、後半になってくると、もう何もしなくても敵を勝手に排除してくれる要塞を作れる時がある。
もうどんな敵がどんな方法で来ようと無敵要塞が自動的に倒してくれる…あの時にすごく快感を覚える。
その後本当はすぐクリアになって終わってしまうのだけど、出来ることならあのままずっと見ていたい。次の日の朝も見て「おー今日もやってるやってる」って観察したい。
なんだったら勝手に成長してほしい。敵もどんどん強くなって、それに合わせて要塞も勝手に強化されていってほしい。「え?!何この砲台!めちゃくちゃ強いじゃん!こんなの作ったの!」って驚きたい。
あと実際にやったことはないので詳しくはわからないけどアクアリウム。
昔読んだソロモンの指環という本に書いてあったんだけど、絶妙なバランスでアクアリウムを作ると、餌も濾過もエアポンプも必要もなくなり
ほとんどん何もせずに水槽の中で小さな生態系の世界が循環するらしい。この本、他はカラスめちゃくちゃ頭良いということしか覚えてないけど、アクアリウムの箇所だけはすごく印象に残ってる。
元増田は、サトウキビを有機栽培して作り出した白砂糖(上白糖)はオーガニックなのではないかと思っているようだけど、違うんです。
国際的な規模で有機農業推進活動を行っているIFOAM( 国際有機農業運動連盟) は、オーガニックの原則として「生態系」「健康」「公正」「配慮」の4項目を掲げています。
つまり、単純に栽培の仕方だけでオーガニックかどうか?が決まるわけでは無いのです。
白砂糖はその精製過程で、ビタミンやミネラルをほとんど失います。それが健康的ではないということでオーガニックとして認められないのです。
黒砂糖やキビ砂糖、甜菜糖などはあまり精製されていないので、ミネラルが豊富で健康に良いということでオーガニックという扱いになってます。
先週からぼんやり考えてきたんだけど、結局、お金の悪いところは消えないってとこだよなあ。
誰かの手にあるお金は経済的な活動を通して他者の手元に移動する。個人の感覚では「手元から消える」けれど、お金側に立った視点で見れば、消えない。移動しただけだ。世界にあるお金はどんどん旅をして(移動を繰り返し)、消えたりしない。それどころか信用創造で増えたりする。それが20世紀の経済発展の原動力になってきたのは確かなんだけれど、コントロールするという視点に立つと、消えない、不死である、不滅であるってのはすごく厄介だ。
自然界にあるものは何でも時間が立つと消えていく。放射能だって、老人だって、消えていく。だから「問題が起きたら耐えて時間経過を待つ」って戦略が取れるし、多分これって生物生存の基本戦略なんだと思う。お金は、そこの「消える」ってシステムが基本構造に組み込まれてないので、災害が起きると手がつけられない。消すためには誰かが買い取って(まあ国だよね)燃やすしか無いわけだけど、それって非情にコストが高い&即時性がないわけで、制御手段としてはいまひとつだよなあ。
100年後の世界は「死ぬお金」で社会が運営されてるんじゃないかなあ。
追記:バブルの崩壊を、「生態系を破壊するほどに増殖したお金が適正規模を回復するために行う自死行為」って見立てる研究って、誰かやってるんじゃないかな。
雨で急流にもまれて流されていく側溝のカエルを助ける方法について、同じこと小学生の頃に考えて同じように夏休みの自由研究にした。
試した材料は、シュロ、藁の束、細く裂いたスポンジなどを使って実験した。
ショボかったけど機械工作で定期的にゆっくり陸地に上がるようなものも作った。
カエルの自発的な運動に頼るべきで、その際にはどのようにするのがいいのか仮説も立てて今後の研究の余地を示した。
正確な生存率は導きだせなかったけど、カエルがいることで田畑の生態環境にどのような変化があるのかを調べた。
その時の教師に言われたことを今でも覚えてる。
「こんなの研究でもなんでもない。遊んでただけじゃない。夏休み何してたの?」ってね。
その年の自由研究の優秀作品は、女の子が描いた水彩画の「絵日記」だった。
親だって周りの親族だって「あいつはカエルが好きなんだな」程度の認識しかなかった。
カエルが流されるのを可哀そうだといっても、感受性が豊なのね程度だった。
大学生の頃に生態学の研究で同じようなことをやったら田んぼのおっさんに叱られた。
不審者なんだとさ。
世の中そんなもんですわ。
追記
みなさんが生きていく上できっと袖振り合わすこともないであろう「側溝の中の人」について紹介しておくよ!
例えば「全国小動物保護側溝研究会」とか知ってもらえればうれしく思います。
こういう側溝に落ちる動物なんかを研究しているところは結構あるので、ぜひ覗いてください。
ちなみに僕は「全国小動物保護側溝研究会」の中の人ではないので悪しからず。
さて、特定される可能性もあるからかなり端を折ったけど、小学校の研究について少し補足しておくよ。
身バレするかもだけど、そうなったら余生をひっそりと側溝で暮らします。
カエルに注目していたけれど、側溝で流されるのはカエルだけではないことが分かった。
流されてきたものを挙げれば、昆虫などが一番多く、次いでモグラなどの小動物が多かった。
側溝の15cmの水深で溺死する人もいるくらいなわけで、雨水を流す側溝はなめたらダメだ。
そして意外にカエルは途中でどうにかしてた。
落ちた動物での死亡率で言えば、モグラなどの小型哺乳類はほぼ100%に近い値で死に至っている。
カエルやヘビの類は結構自力で何とかするから案外側溝に落ちた場合の死亡率は低いというのはわかった。
(あの時、実験のために側溝に落としたヘビさん、ごめんなさい)
したがって、カエルだけを救済するような道具では生態系のレベルでみたら「ほぼ役に立たない」というのが結論だった。
小学生の頃に示した研究の余地は「モグラなどの小動物はカエルだけに着目した道具では助からない。
生態系という広い目で見た場合には側溝の構造そのものを変える必要がある(くぼみを作って水が滞留する場所を作るなど)」といった感じ。
先生は、この「ほぼ役に立たない」という結果と「側溝の構造そのものを変える必要」という提示に対して「こんなの研究じゃない」と判断したんだと思う。
思うに、結果は必ず成功したものに限った話じゃなくて失敗だって研究結果なんじゃないのかと。
こういう失敗があるからこそ、同じようにカエルを救ってやろうとした人間が、僕のような失敗例から学んで側溝がブラッシュアップされていくんじゃないのかと。
陸上で繁栄を極めた種の多くがするように、雑魚ナメクジの仲間も一部が海への回帰を試みた。
当時の海中は節足動物的な動物の先祖にあたる動物がブイブイ言わせていた時代。
アノマロカリス類似生物と海サソリ類似生物が仁義なき生態系の頂点争いを日々繰り広げており、多くの種が戦々恐々としていた。
海サソリモドキがアノマロカリスモドキの触腕をハサミで押さえ、
そのために、海サソリモドキの尻尾の可動域は地球の陸サソリ並になった
――アノマロカリスモドキは捕獲を避けるために高速化を押し進め、
触腕を二本の長い角と化す。
そして発達させた視力で遠くから猛ダッシュし、マウント海サソリを串刺しにした。
だが、彼らの存在は生態系の頂点争いに決定的な役割を果たすことになる。
海上では雑魚ナメクジの気温調節能力は水の膨大な熱容量に邪魔されて機能しなかった。
カウンターイルミネーションと言って地球の表層付近に生きる海洋生物は下に向けて発光し、
捕食者が明るい海面を見上げたときの「影」を薄くする方法を発達させている。
しかし、原始的な雑魚ナメクジウオにルシフェリン・ルシフェラーゼ(特にルシフェリン)をいきなり創り出すことはできず、
捕食者ではないので数少ない発光生物からルシフェリンを奪うことも難しかった。
代わりに雑魚ナメクジウオは背中の模様を様々に変化させて、群れで泳ぎ、輪郭を誤魔化す方向に進化した。
おかげで海中から見上げた雑魚ナメクジウオの群れは巨大な一個の生物にみえた。
学習するまではおいそれと手を出せる相手ではないし、弱いことを学習した後も、その性質から追撃が難しかった。
さらに進化した雑魚ナメクジウオは、おそわれた瞬間に一気に白くなり、捕食者に消えたような印象すら与えるのであった。
彼らの葉緑体も多くは背中にあったが、海面付近の拡散光を利用して光合成を行った。
また、代を経るごとに腹側に移動していった。
このような手法で海面付近のニッチを獲得した雑魚ナメクジウオは海中に大きな影を落とした、物理的に。
そのために、視力に頼る部分が大きいイッカクカリスは目の威力を制限されて、マウント海サソリとの争いに敗れることになる。
なお、海面で死んだ雑魚ナメクジウオの死体や排泄物は深海に降っていき、