はてなキーワード: 自尊心とは
答え:本当の事を言われて怒るんじゃなくて、雑なコントロールや攻撃に対して怒っている正常な反応である。
反証:1+1 = 2 を主張して怒る人間はほとんどいない。他にも恋人から「私は貴方のことが好き」と言われて、それが真実である場合に怒る人はあまりいないだろう
よって「正しい事」「本当の事」全てに対して怒る訳でない事は明らかである。
この問いが発せられるケースの「本当の事」「正しい事」というのは大抵の場合「相手に関する個人的な事」もしくは「組織に置ける通念的な事」である場合が多い。
そういった事をわざわざ言うというのは、相手を攻撃するか、コントロールする目的がある事が多い。
上司「Aさんは遅刻もなく、挨拶もしている。貴方は何度か遅刻もしているし、挨拶がない時もある」
母「貴方は昔からズボラで、いつも同じ失敗をしている、例えば受験もそれで失敗し、今度は就活も失敗した」
こういった言動は、本当の事を言うという建前の元、相手を弱らせるか、反論させないようにして、自分の言う事を聞かせようとするマウンティングに他ならない。
教師や親、上司といった相手に対して上位に立とうとする人たち等が使う傾向が多い。
ある程度こうしたコントロールに対して従う事は社会で生きていく上で必要であるが、過剰なコントロールや攻撃から身を守る事もまた必要であり、怒りは自然な防御反応と言える。
同じ事を言っていても、丁寧に言ったり上手く自尊心を煽てると従ってくれる場合がある。が、それはその人がバカなのではない。
人をコントロールする際にその人が不快にならないように制御できる配慮と経験がある人に従う方が、そうでない人に従うよりも良い場合が多い事を人は学ぶ。
想像してみてほしい、貴方の上司や家族が常に丁寧なオブラートを使ってくれる場合と全くそうでない場合の、長期的な不快さの度合いの違いを。
初めて同人誌を作っている。初めは楽しかったのに、だんだんとても不安になってきた。こんなの作ってどうするんだろう。書いているのは某大手ジャンルのマイナーカプ。ジャンルオンリーには1000以上のサークルが参加する中で1、2個あるかどうか。知り合いがいないので完全にぼっち参加。毎日少しずつ、土日はガッツリ時間を割いて作っていたけど、何の意味があるんだろうって虚無感に襲われている。多分同人向いてない。毎月のように何かを書いて新刊を出す人って本当すごい。そこまで自尊心とモチベーションがもたない。恐らく最初で最後の同人誌、とりあえずやると決めたからには頑張ります。
ドイツ在住フリーライターの雨宮さんの記事は以前から読んでいて、いつも楽しませてもらっている。彼女の文章はいろいろ突っ込みどころが多くて、普通の人が日常生活では出さないようにしている部分とかがもろに出てたりして、刺激的だ。その刺激ゆえに読むのをやめられない。いままでどういう突っ込みどころがあったかはこちらの増田に詳しいのでご覧いただきたい。この増田を書いた方も相当読み込んでいるようなので、私と同じように彼女の文章の刺激に魅せられたのだと思う。
さて、最近彼女が現代ビジネスに寄稿した記事が相変わらず素晴らしいクオリティだったので紹介したい。
「海外在住なら外国語ペラペラでしょ」に声を大にして反論したいこと
彼女の文章の素晴らしい点の一つは、論旨の基本的なところは納得できることが多いところにある。たとえば、
住んでいるだけでネイティブ並みになれるのであれば、こんなに海外で苦労なんかしない。「言葉の壁」なんて言葉も存在しないだろうし、それに泣かされたりもしない。言いたいことが伝わらない孤独感に耐え、自分だけが会話を理解できない劣等感に耐え、いくら勉強してもネイティブとは並べない虚無感に耐え、それでも継続的に勉強した結果の「語学力」だ。
私もいま米国に住んでいて、語学で苦労しているのでよく分かる。多少は英語ができるつもりで来たのが、全然相手の言っていることがわからないし、自分の発音は簡単な単語ですら(あるいはだからこそ)伝わらない。彼女の言う通り、孤独感と劣等感に耐えながら地道に努力してこそ得られる語学力、コミュニケーション能力なのは私も実感するところだ。
しかしこれだけで終わらないのが彼女の文章の醍醐味だ。論旨は「海外にいるだけで語学が身につくわけではない」という一言に尽きるのだが、それを伝えるために色々エキサイティングな装飾が付く。
これは、海外に住んだことがある人10人中9.9999……人がうなずいてくれるだろう。「海外に住んでたんだ〜。じゃあ英語ペラペラ?」という質問に、何度イラっとしたことか(そもそもドイツの公用語はドイツ語である)。
先日帰国した際に、私も知人からほぼ全く同じことを言われたが、別にイラっとはしません。自分も海外に住めば英語ができるようになると思っていたところがあるから、来てみないと分からないこともあるよね、で済む話である。しかしここで彼女はイラっとせざるを得ないのである。しかもこの文章が引き立つのは、その前に彼女自身が、
わたし自身も「海外生活」に強い憧れをもっていたし、「海外在住者」や「帰国子女」を特別な存在としていろいろと勝手なイメージを抱いていた。
と書いていることにある。読者はここでドキドキするはずだ。自分も勝手なイメージを抱いていたのに、立場が逆転したらイラっとするってどうなの、と。こうなるともう次のページボタンを押さずにはいられない。
加えて、そこここに散りばめられたマウント感もスパイスとして有効に機能している。
「今日ドイツ人の友だちと飲むけど来る?」と誘ってみたけれど、「日本人ほかに来ないの? その人たちは日本語話せないんでしょ? じゃあやめとく」と言われたことも記憶に残っている。
現地の学校に通ってはいるが、現地の友人とはほとんど会話をせず、日本の受験に向けた日本の勉強にもっとも時間を割き、日本人で固まって行動している。これで英語がまともに話せるはずもない。帰国して「帰国子女だから話せるよね?」と言われたとき、その子たちはどんな気持ちになるんだろうと心配していた。
語学を習得しようとする者の大敵は引っ込み思案、羞恥心であるのは間違いない。とにかく外に出てその言語を使うのが大切なのは、誰でも(おそらく彼女が言及している人達も)理解しているだろう。しかしそれができない人もいる。こういった例示からは「自分はそこを乗り越えて語学を身に着けたんだ、あいつらとは違うんだ」という自尊心がちらついて、何とも言えず良い。
また、ドイツでも「management」や「Game Boy」といった英語は英語の発音そのままで使うし、Brad PittやLeonardo DiCaprioもしっかり発音する。それに慣れていると、「ブラピ」やら「レオナルド・ディカプリオ」やら、カタカナとして発音するのがなんだか気恥ずかしくなってくる(わたしだけだろうか?)。
彼女だけかどうかは分からないが、私は恥ずかしくはならない。日本語には余りに外国語から輸入した言葉が多いので、いちいち米国式の発音するわけにはいかない。さらに言うと、私は日本由来の単語を米国人との会話で出すとき、米国式の発音にする(SushiとかRamenとかね)。そのほうが伝わりやすいからだ。雨宮さんはドイツ人に日本の単語を紹介するとき、「気恥ずかしくなるから」日本語そのままの発音で言うのだろうか。私はその場の雰囲気と伝わりやすさを重視して発音を切り替えるし、周りの日本人も大体そのようにしている。外国語→日本人との会話のときだけこの現象が発生する(気恥ずかしくなる)のだとしたら、その理由が興味深いところだ。
2.しかしその表現には自己矛盾やマウント感が含まれており、読者を刺激する
ということになる。2だけではただの煽り記事になるし、1だけだと読み続けるには刺激が足りない。絶妙なバランスでこれらを調整することで、読者に「この人は素でこんな人なのかもしれない」とハラハラさせ、リピート読者として取り込んでいるのだ。自分にこんな高度な芸当ができるとも思わないが、文章を書く時に覚えておくと役に立つかもしれない。
昔、勝ち組といえば
皆に尊敬され社内のあの子と結ばれたイケてる会社の先輩、事業で一発あてた中学の同級生。
社長やたまに顔を出す元重役などの取締役。良くて請負元の中小企業の社長ぐらいしか認知できなかった。
上を見上げると、一生で稼ぐような額の金をばらまく前澤社長がいたり、
遠い世界の人のように感じた日本最大の権力を持つ安倍首相もTwitterで政治活動を発信している。
趣味の分野では神と呼ばれるような絵師は八百万の神並みにうじゃうじゃいるし、
天才エンジニア達は年中プログラムを組んでは毎日のようにOSSへプルリクエストを送っている。
本来一生目にすることはなかった、はるか上空にいる同じ時間軸を生きたとは思えない勝ち組たちを目の当たりにし、自尊心がぐずぐずになってしまった。
そこで、表題の通り負け組を観察して自尊心を保つことをすすめる。
上が宇宙のように果てしなく広がるなら、下はマリアナ海溝のように漆黒の闇が沈んでいる。
言わなくてもわかると思うが、負け犬がよく使っているSNSはもちろんTwitterだ。
実名で発信するFBなんかは現実の延長線としか使われていないし、
インスタはグラビアアイドルのエロい写真を見るためのアプリだし、
TikTokはフレッシュな若者がイケイケピュンピュン馬鹿やってて逆にダメージをもらってしまった。今すぐアンストしろ
負け組のアカウントを探すにはキーワードで「うつ病」「社交不安障害」「適応障害」なんかの精神病で検索すれば手っ取り早い。
プロフィールに恥ずかしもなくわざわざ病名を書き込んでるアカウントが見つかればビンゴ。奴らはすぐに自分の未熟な精神を理由に働くことを拒否する。
たいていフォロー数が500も満たないアカウントばかりなので目をつけられてしまう。
人によってはフォローした瞬間にブロックされる。奴らは虐待された犬並みにナーバス。「変な奴ブロックした」とか言ってやがる。変なのはお前だ
非公開リストを作成してそこにアカウントを追加すればフォローしなくても一方的に監視できる負け犬TLの完成だ。
また、奴らは弱者同士で傷をなめあうのが大好きなので相互フォローに同レベルの負が潜んでいる。まとめて追加
あとは会社のトイレや明日の仕事が憂鬱な今日のような夜の日にリストを眺めるだけだ。
みているとわかるが、奴らはとにかく社会のせいにする。
俺らが金が無いのは、自民党のせいだーアベのせいだー経営者による労働搾取のせいだー団塊世代の負の遺産だー
などとずーーーっといってる。もしくは自分病気つらいッスアピールのメンヘラツイートが9割を占めている。
働けバカ。生活保護もらって生き永らえさせてもらってるだけ社会に感謝しろ。弱者にやさしい日本に生まれたことを感謝しろ。
ひどいものだと、親に対して異常なまでの恨みをだれでも見られるパブリックなサイトに長々と書き連ねている。
いくら毒親だったとはいえその言い草はないだろうって思う。本当にひどい
個人的に心くすぐられるのは1万満たない出費をうじうじ呟いているのがたまらない。金がないと心が貧しくなるとはいうがあまりにも滑稽だ。
おそらく半匿名のブクマカには散々いわれるだろうが、人間誰しも優越をつけて自分より下がいる安心感がないと自己を保っていられない。
一部を除きほとんどの人が表立って言わないだけで、人間である以上避けられない本能だと思う。
経営者だって労基法すれすれブラックな手段で金を稼ぐから自分が他の誰よりも悪い人間なんじゃないかと思うあまりに、気まぐれで募金をしたり、ボランティアして他の人よりも善良な人間であろうとするし、
会社では温厚で優秀な技術者だって、入社したばかりの新入社員が藁をも掴む思いでteratailに投稿した拙い質問に、意味が分からないと一蹴し、初歩的な問題だからドキュメント読め、わかるだろ?などと大マウントとってくる。
勝ち組のマウンティングでプライドがずたずだになって自死を決断するぐらいなら一度試すのをすすめる。こいつらよりお前はずっとすごい
但し、もう十数年前の話で、しかも短期間(2ヶ月半くらいかな)しかしていない。
大体お金の為に働いていた(当たり前。
私は他の嬢とあまり顔を会わせないようにされていたので、他の嬢に会ったのはほんの数回だけだったが、こんな人達がいた。
店長は中卒で数々のバイトを経てデリヘル経営者になった人。女子を押し倒すのが得意。気がついたら天井が見えて床に転がされているしどこも痛くない、すごい。そこだけは感心した。
ドライバーさん達は大抵昼は何か別の仕事をしている、普通の人達。皆車持ってる。ワゴンかミニバン。
こんな人達。
すごく、気疲れした。
https://note.com/taisuke1972/n/n265987ff46e8
一時はベイコート倶楽部に通ってた俺が簡単に書く。面倒臭いから、細かいことに配慮せず、だだっと書く。
まず、言えるのは
危険がどうしたとか、悪い人がいるかもとかそんな話で止められるようなことじゃない。友達の中には安全にパパ活してる連中がたくさんいるわけだし、ある程度金額高めに設定して上客捕まえる、知り合ってしばらくは二人だけの空間に行くことを避けるとか、多少方法考えれば私もできるだろうと普通は考える。はじめて一人で海外旅行行くより危険度少ない程度の話。
で、実際買う側もそこそこ払う人はそんな変な奴いない。よく売る側の女の子のリスクばかりが指摘されるけど、買う側もめちゃめちゃリスクあるわけ。ちょっと前に政治家が買ってた女子大生に暴露されて週刊誌ざたになってたけど、映画レベルに5万とか出せる人になると、それなりに社会的地位もあるわけ。そういう人にとっては、20代なかば超えたプロ愛人なやつ(イベコンとか派遣と愛人掛け持ち系)に手出すよりも、遊び感覚の女子大生くらいが一番楽にノーリスクに遊べるわけよ。いざとなったら100万も払えばどうにかなるしね。あと玄人はなんだかんだいって病気のリスクもある。フェラでも感染るからな。荒れてる素人はもっと危ないというのは本当だけど、適当にパパ活してる程度の子ならなんだかんだ玄人よりは全然安全。
・5万で映画だけなんて嘘だろうという指摘
これも嘘じゃない。みんな5万で映画だけなんてあり得ない、と言ってるけど、それがもう違うのよ。平のサラリーマンには無理でもたとえば年収1000万以上あれば、そんな大した金額じゃない。別に毎週遊ぶわけじゃなし、キャバとか風俗にいくらか使ってれば、そんな変わらない。お前らの感覚であり得なくても毎月の2,30万自由に使える人なんて世の中ゴロゴロいるよ。はてブみてオナニーばっかりしてるお前らの周りにいないだけ。普段意識の高いマイノリティを自負してる連中がこういう「苦手な分野」の話になると、とたんに自分の感覚を一般化して否定しはじめる行動パターンに誰か名前をつけてくれ。
「五万だせばそこそこのソープいけるぞ」みたいな話も全然的を得てない。ソープとかじゃないのよ。やりたいのは。90分玄人に相手してもらいたいわけじゃないのよ。じゃあキャバは?となるけど、キャバなんてしばらく遊べば普通に飽きる。所詮玄人だからどこまでいっても商売関係だし、毎度出勤狙って指名して、とかいちいち面倒臭い。じゃあなんで映画と食事程度に5万も払うのかといえば、玄人じゃない、普通に可愛い子と、疑似恋愛みたいな食事とかしたいから。
聞き上手のキャバと違って、パパ活が一番違うのはこっちが聞き手になることがあること。普段自分が知らない世界(大学生の流行とか、くだらない悩みとか)とか聞くのもそれなりに楽しいわけ。IT系の仕事なら今時の女の子がどう言う風にSNSアプリ使ってるとかマーケティング的な発見もあったりなw。ちょっと年上目線で人生訓垂れたりすると、すぐ尊敬されたり、何なら逆に好かれちゃったりするし。大学生の頃だったら相手にもされないような子を、リードしながら話せたりもする。そうしてキャバとは逆の形で自尊心が満たされるわけ。自分がこんな可愛い子に必要とされてるんだ、みたいなね。こんなこと書くとブコメで一斉に「くだらない」とか「モテなかったやつの遅咲き」とか言うんだろうけど、まあその通りだと思うよ。
・じゃあどうやって辞めさせるのか
理屈じゃないから、気持ちに訴えるしかない。その子が金欲しさに好きでもない男と食事したり、なんなら手を繋いだり、旅行いったり、場合によっては体の関係ももったりして、つまり若さを金で買われていることを知ったら、死ぬほど悲しい思いをする誰かがいる、ということをただ伝えること。それは自分(この場合は父親か)だし、将来の彼氏だし、将来の子供かもしれない、ということを真剣に伝えること。結局、それしかない。
つまり言いたいのは、理屈とか、合理性に訴えて止められることじゃないっていうこと。気持ちにただ訴えるしかないのよ。それで響く子は普段からちゃんと愛されてる子だし、それで止められない場合はもう根本的に普段の付き合い(親子関係だったり、彼氏彼女だったり、なんでも)に問題があるし、もうその子だけの問題じゃない。
ついでに言うと、一番パパ活にハマるタイプの子は「まあまあ可愛い普通の子」。化粧で盛ると美人なんだけどすっぴんだと普通、みたいな子が一番多い。微妙に自己愛が満たせてないからね。本当に可愛い子はなんだかんだ少なくともアプリレベルじゃでてこない。これマメな。
最近ADHDと診断された30代東大卒男だが、わかる。問題はバックレるかどうかじゃなくて、「成功する可能性」だけで満足できてしまうこと。
実際に成功するかどうかは本人の幸福にとって問題じゃないんだよ。だからといって、一般の人が思う「失敗を怖がっている」とか「プライドが高い」とかも完全に的外れの大間違い。
「まだチャンスがあると思える」事の方が、実際にチャンスを生かして成功することよりも、自分の幸福にとって、ずっと重要なんだよ。
失敗しまくっているから、失敗しても自分の人生がそこまでは悪くならないと知っている。成功体験がないのが問題でもなく、何回も成功した経験はあるが、大して嬉しくなかった。ADHDは報酬系にも問題があるから、成功時の「得した」感が普通より低い。だから、実際に成功したか失敗したかよりも、「成功する希望があるか」「成功する可能性があるか」といった期待感を持てるかどうかの方が、本人にとって生きる上でずっとずっと重要なんだ。「成功する可能性」の期待感だけあれば、希望を持って生きられる。「成功する可能性」が生きる希望なので、「成功する可能性」の期待感の喪失を避けることが最優先になる。
バックレれば、「バックレなければ成功したかどうか」は誰にも永久にわからない。だから、「成功した可能性」は残る。「バックレなければ成功したかも」と思える。「バックレた」のは自分の行動だから、自分で決められる。
つまり、「バックレる」ことによって、「成功したかどうかの決定権は自分が持っていたんだ」と思うことができる。「やれば自分も成功したかも」と思える。繰り返しになるが、「失敗を怖がっている」のとは全く違う。「自分にもチャンスがある」と思えなくなることを避けているのであって、たとえ失敗しても「またチャンスがある」と思えるのであれば全く問題ない。
たぶん、君が努力して手に入れようとしたものを手に入れる直前で手放してしまうのは、こういう理由だ。努力すると、同時に、「同程度の努力をもう一度行うのは不可能」という感覚も増す。最後の最後で、成功をつかみかけて万一失敗したら、「同程度の努力をもう一度行うのは不可能」と知っているので、「自分も成功したかも」とは思えなくなる。期待感を持って生きられなくなる。本人の幸福にとって重要なのは、結果ではなく期待感。なので、期待感の方が優先され、直前でバックレる。そうすれば、「もう二度手に入れる事が不可能なものを失った」とは思わなくて済む。自分の人生に不可逆的なダメージを負った、とは思わなくて済む。「自分がバックレていなければ手に入れられたはず」と思えるし、「人生に不可逆なことはない、未だ何も失っていない」と思い続けたまま生きられる。
で、どうすればいいか?わからん。結局、「幸福の感じ方」の問題、感性の問題。成功すること自体よりも、チャンスがあると思えることの方がはるかに重要。
自分の場合は、バックレる直前まで何もせずにいて、直前から努力して当たって砕ける…というタイプだったので、現実世界でも最低限の幸福は手に入れられた。
若いうちはそれで何とかなる。20代まではね。一般の、普通の「失敗した人」に紛れて暮らしていける。多分、元増田より年上だからアドバイスするとしたら、一般向けの「失敗を怖がるな」とか、その手の自己啓発のようなアドバイスは基本、役に立たないと思った方がいい。直すなら自問自答したり、ちょっとでも成功したら贅沢したりしてよいとかルールを作ったりして、「成功すること自体による幸福」の方を、「チャンスがあると思える期待感による幸福」より重要に感じられるようにするしかないと思う。それは、一般の人が行うやり方とは似て非なるものになると思う。
追記:
「合格しているのに手続きしない話はこれでは説明できない」という意見があった。また、「回避性パーソナリティ障害」というのがあるというのも初めて知った。
「回避性パーソナリティ障害」については読んだけど、要するに人から批判されることを徹底的に避けるという話で、「合格しているのに手続きしない場合」を説明できないことについては回避性パーソナリティ障害説も同様だと思う。
「合格しているのに手続きしない話」は、おそらく、「合格そのもの」が成功なのではなく、「合格したことによって他人からの自分の評価が上がる/幸せになる」ところまでを「成功」だと無意識に認識しているのだと思う。そう考えれば、上と同じ「成功する可能性を維持したい」説で説明できる。元増田の資格(危険物取扱者乙4種?)は、自分は分野外なので正確には知らないが、少なくとも弁護士や公認会計士のような難関資格の類ではないことは確かだろう。つまり、合格して手続きしたところで自分の評価が上がったり、自分の生活がよくなるとは限らない。せっかく合格して手続きしても、「成功」と思えるような外的評価が得られないかもしれない。そうなると、やはり、「成功する可能性」は失われる可能性がある。「手続き」しなければ、「成功する可能性がある」状態は保持できる。だから、元増田にとって、「手続きする」のは億劫だからやらないのではなく、そもそも「損するかもしれない行為」、自分が幸せに生きるために必要な「成功する可能性」を不可逆的に毀損するかもしれない行為。だから、無意識のうちに手続きしたくない、そんなのありえない、と思ってしまう。例えて言えば、近視の人がレーシック手術を受けるのと同じだと思う。高い確率で目がよくなるが、低い確率で疲れ目のような症状が出るかもしれず、角膜削るので一度手術すると絶対に元には戻れない。だから、近視の人でも皆がレーシック受けるという選択をするわけではないことは理解できる。これと同じ。
追記2:
別に元増田の原因が「これだ」と決めつけているわけでもなく、元増田自身がこの仮説で納得するかどうかもわからない。そもそも、元増田がADHDかどうかもわからないし、発達障害かどうかすらわからない。ADHDだが、この話は自分に全く当てはまっていないと思う読者もいるだろう。ただ、結局のところ、発達障害かどうかはキレイに分けられるわけではなく、中間段階があるもので濃淡のある連続的なもので、万人が少しはもっている傾向が極端に現れて生活に支障をきたすのが発達障害、というのは、おそらく学術的にも正しい言説だと思う。
元増田と自分の症状の両方を説明できる、現時点で一番合理的な仮説と自分が思えるのが「可能性を実現より重視してしまう」説だというだけ。自分も一年前は全然違う仮説を持っていたし、単に「失敗を恐れているだけ」なのではないかと思って自分を追い込んでみたこともあるが、どれも、自分の先延ばしにして直前になってやり始める症状をうまく説明できなかった。別に失敗してもクビになるとかキャリアに大きな影響を及ぼさない場面でも、「できるだけ良いものを」と思うと先延ばし癖が出るのが自分の症状。
この「可能性による期待感を結果より重視する」説だと、選択肢が多いければ多いほど幸せになるはずだが、そうはならない。多分、選択肢が増えすぎることを忌避する傾向(選択選好)も、普通の人と同様、同時に持っていて、これも考慮しないといけないのだと思う。スーパーで同じ「プリン」というカテゴリのものを、様々な種類のものをたくさん仕入れすぎると、結局迷って買う人が少なくなるというアレだ。自分の場合は、選択肢が少なくても、場合によっては選択肢が1通りしかなくて、それを行うか行わないか選ぶだけでも、「その選択肢を実現するか実現しないかを自分の好きに決められる状態を維持したい」ということになり、結局最後の最後まで決定権を行使しない。なんにせよ、何かが実現してしまうと、その何かが「実現しなかった」という可能性は0になってしまうわけで…実現しないことが後々プラスに働く可能性もあるような場合、なるべく、実現しない選択肢に後から切り替えられるように、最後の最後まで決定をしない傾向がある。自分の場合ね。多分、元増田も、そのあたりまでちゃんと考慮して、「可能性による期待感を結果より重視」以外に、もう1つ2つ仮説を立てないと、ちゃんと現象をうまくモデル化できないと思う。
追記3:
ブコメにいくつか返信。
ある。元増田がその一人になるかどうかはわからないが、「先延ばし」症状に真剣に悩んでいて、この記事を読むことで症状が緩和される人が一人でもが出てくるなら喜ばしい。
音楽と同じで、何が刺さるかは人それぞれなので、合わない人が人がいることは想定内。だが、読んでもらわないと仕方がない。注目度を上げるためには、「東大卒」を出した方がよい。
それが鼻について気に食わない人も出てくるだろうが、そういう人は自分の「先延ばし」症状で真剣に悩んだ経験がないのだと思う。
本当に先延ばし症状に苦しんでいるのであれば、書き手が東大卒だろうが高卒だろうがそんなことはどうでもよくて、自分の症状の一部に当てはまる部分があるかどうかを必死に考えるはずだから。
>それを世間一般に「失敗が怖い」「プライドが高い」と言うのだ…
そうそう、この手の分析を開陳すると、「それを失敗が怖いというのだ」という反論をする人が必ず出てくる。結論から言えば、この手の発言は単なるマウンティングだと思っている。
1)仮に、世間の一部に「失敗が怖い」=「可能性からくる期待感を結果より重視すること」を常識だと思っている人たちがいたとしても、これほど「腑に落ちた」というブコメがつくということは、明らかのその常識は一部の限られた人たちの常識であることは否めないだろう。自分の常識が皆にとっても常識だと思うのは間違いだ。
2)「失敗が怖い」から、「バックレ」までの間を説明してくれ。先延ばしにしたりバックレたりしたら確実に失敗するのだから、「失敗が怖い」とその時点で矛盾するだろう。
3)「プライドが高い」の「プライド」とは何か、定義したうえで、「プライドが高い」となぜ先延ばしやバックレにつながるのか、説明してくれ。
4)少なくとも自分は、「失敗が怖い」とも「プライドが高い」も、自分の先延ばし症状を改善するうえで役に立たなかった。真剣に「失敗が怖いのだろうか」と思って、失敗したらどれぐらい損をするのか多少強引にでも金額に換算し、失敗しても大した損にはならないと分かっている場面でも、先延ばしは発生した。「プライドが高いのだろうか」と考えて、実際に自尊心を低く保つように努力してみたこともあるが、先延ばし症状の改善には全く役立たなかった。「失敗が怖い」も「プライドが高い」も、結局、本人の症状改善につながらないなら分析として意味がないんじゃないか?
自分も経験したが、結局、この手の発言は、先延ばし症状を持っていない人間が、極端な先延ばし症状を持っている人間を一般的な「弱さ」と結び付け、自分より格下に位置づけると同時に、惑わせて先延ばし症状の改善を遅らせる効果しかない。極めて悪質で卑怯な類のマウンティングだと思う。例えていえば、食べ物のアレルギーのない人間が、食べ物のアレルギーを持っている人間に対して、アレルギーの存在自体を知ろうともせずに、「そういうのを、世間一般には食わず嫌いというのだ」と言って、歪んだ善意で説教するのと同じ。赤ん坊に蜂蜜与えて殺しておいて、「自分は悪くない」というジジババと同じだよ。何もいいことがない。
先延ばし症状に10年以上苦しんできて、いろんな人からいろんな事を言われたが、結局、アレルギーと同じで、症状を持っている人間がそれぞれ対処法を見つけて対処するしかないのだよ。
医者の反応もアレルギーと比較すると分かりやすい。重篤で生死にかかわるようなアレルギーには医者は真剣になって対応してくれるが、軽度なら医者は一般的な注意をするだけ。
精神科医も同じで、今にも自殺しそうな患者をたくさん抱えている中で、先延ばし症状で困っている人間なんて、軽度の話だから大して真剣に対応してくれない。だから、本人が自分で対処法を考えるしかないのだよ。
追記4:
「見通しが立たないこと自体、不確実性自体を避けていると考えた方が説明がつきやすいのでは?」という意見があった。その可能性は自分でも考えたし、確かにその傾向はあるが、その仮説だと、そもそも成功するかどうかわからない資格試験とか大学受験とかスポーツ大会とか、そういうものに参加すること自体を極力避けようとするはずなので、何かに挑戦することそのものを避けないとおかしくなる。元増田も自分も、何かに挑戦すること自体、挑戦への入り口自体は、特に精神的葛藤なしに行えている。また、不確実性を忌避する傾向は普通の人にもある程度ある話なので(大学受験で滑り止めを受けるとか)、不確実性を避ける話は関係していると思うが、「不確実性を避ける」だけでは説明できないと思う。
追記5:
「不成功防衛」のキーワードも何回か見た。要するに、「成功しないことで自分を守る」という話のようだけど、結局、何をしたら「自分を守る」ことになるのかよくわからないし、自分の何を守っているのかも人それぞれ。なので、何にでも当てはまってしまうように見える。フロイトをひいて解説しているものもあるが、フロイトは今日のような統計科学としての心理学が発達する前の人だし、あんまり信用できない。
人間が何を幸福と思うのか、リスク回避の傾向がどの程度あるのか、などは、統計が発達した後、行動経済学で心理実験を通じたよく調べられている話。この記事に書いたことも、その辺の書店に売っている、プロスペクト理論の話にヒントを得て書いた。ちゃんと考えれば、意思決定の仕組みが定型発達と先延ばし症状のある人で、意思決定の仕組みがどのように違うのか、少数の器質的なハイパーパラメタの値の違いで説明できるように思う。
追記6:
「では、どうすればいいか?」については、言及すると、「自分にはそれが合わなかった」という人がワラワラ出てくるだろうから、意図的に放り投げて最初から言及しなかった。とりあえず、自分自身について書くと、今のところ一番有効だったのがスマホのマルチタイマーアプリ。5分とか7分とか、そのレベルまでやることを細分化して、とりあえず目先のことを1つ終わらせる。
ただ、現状の不満は、どのタイマーアプリも「時間を測っていない瞬間」が存在すること。これによって、すぐにタイマーを回し忘れて、気が付いたら膨大な時間が過ぎている。とりあえず、「何かタスクをやっている」「休憩している」の2つでいいから、ボタンを押すとタイマーが切り替わると同時に時間計測を始めて、「時間を測っていない瞬間」が存在しないようなタイマーアプリを誰か開発してほしい。ストップウォッチより、何も入れないとデフォルトで5分とか15分とか計測時間が自動的に設定されるタイプのタイマーの方が自分には効果的だった。あとは、スマホのある場所が職場か自宅かぐらいはスマホなら取れるので、その辺も考慮してくれるとなおうれしい。
追記7:
「東大卒と名乗らなかったら、こんなにコメントつかなかったのでは」は、自分もそう思う。増田は、「東大」の名前を効果的に出せるので良い。ハンドルネームでも本名でも、名前を出している状況で東大卒と名乗ると、必ず反感を持って個人的に粘着してくる人が現れるので、自分から東大卒を名乗ることは基本的には難しい。
『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンドが、新著『危機と人類』(小川敏子・川上純子訳、日本経済新聞出版社)の下巻第八章で現代日本について語っている。その中で、日本人に問題と捉えられていない問題点が三つ指摘されていて、興味深かったのでまとめる。
日本は「移民を歓迎せず、移住を望んでも移住するのは難しいし、移住できた人が日本で永住権や国籍を得るのはさらに難しい。」「難民が庇護を求めた場合、スウェーデンは92%、ドイツは70%、カナダは48%を受け入れるが、日本が受け入れるのはわずか0.2%である。」日本政府は移民反対の態度を貫いており、その態度は「国民が示した移民に対する否定的な意見を反映している。」「日本人の63%は外国人居住者を増やすことに反対であり、72%は移民が犯罪率を増加させるという見解に同意する。アメリカやカナダ、オーストラリアでは国民の57-75%が移民が新しい考え方をもたらし社会を改善すると考えているのに対し、日本人の80%は…否定している。」(「私は移民に対する日本人の抵抗は『間違っている』とか変えるべきだといっているのではない」)
日本は「他国が移民によって緩和してきたことが広く知られているいくつもの問題に苦しみながら、移民に頼らずにそれを解決する方法を見つけられずにいる。」「これらのうち最大の問題は…少子化と高齢化、その結果として…増え続ける年金生活者の年金と医療費を、減り続ける健康で若い納税者が負担するということだ。」
日本では「働いていない母親たちをもっと雇用することで労働力不足を解消するという策が取れない」。アメリカでは「移民女性を保育サービス提供者として個人で雇っ」たり、移民が「高齢者の介護者や病院の看護師やスタッフとしてサービスを提供し」たりするが、これらは日本では不可能だからだ。
また、日本では「研究開発費の大きさから期待されるほどには画期的なイノベーションが生まれていない。」「それは、日本人科学者のノーベル賞受賞者数が相対的に見て少ない点にも表れている。アメリカのノーベル賞受賞者の多くは移民第一世代かその子孫である。しかし日本人科学者には移民やその子孫はほとんどいないし、日本全体でもそうだ。外国に移民するにせよ高度なイノベーションに取り組むにせよ、進んでリスクを取り、非常に新しいことに挑戦する点が共通するので、移民とノーベル賞に関連性があるのは驚くべきことではない。」
「もし日本が移民を再評価すると決めるなら、カナダの政策がいい手本となるだろう。カナダでは移民申請者を評価する際、自国にとって潜在的価値があるかどうかという基準を重視している。」
(「近年、移民受け入れ拡大を求めた大臣が数人いる。たとえば、地方創生担当大臣だった石破茂は『かつて日本人は、南米に、あるいは北米に多くの人々が移民し、困難な状況の中で、日本人の誇りを持ちながら、そこの国民に溶け込み、役割をはたしてきた。日本人が外国に行ってやってきたのに、外国人が日本に来るのはだめだというのは、おかしいと思う』と述べた。」)
「第二次世界大戦前と大戦中に、日本はアジア諸国、とりわけ中国と朝鮮半島に対して非道なおこないをした。」「今日、日本ではこれらの虐殺を否定する言説が広まっているが、当時の状況は中国人のみならず中国にいた外国人や日本人兵士自身が撮影した写真にしっかりと記録されている。」
「その結果、今日の中国および韓国には反日感情が蔓延している。中国人や韓国人から見れば、日本人は戦時中の残虐行為について適切に認識することも謝罪することも遺憾の意を表明することもしていない。」「中国、北朝鮮、韓国はいずれも装備の行き届いた大規模な軍隊を保有しているが、日本の自衛隊はアメリカが押し付けた現行憲法と今日の日本に広がった平和主義のおかげで小規模だ。」「これらの事実を重ね合わせると、長期的には日本にとって大きな危険を招きかねないと私には思える。」
日本、中国、韓国とその指導者をよく知る、元シンガポール首相のリー・クアンユーは、「ドイツ人と異なり、日本人は自分たちのシステムの中にある毒を浄化することも取り除くこともしていない。彼らは過去の過ちについて自国の若者に教えていない。橋本龍太郎首相は…中国や韓国の国民が日本の指導者に臨むような謝罪は行わなかった。…どういうわけか日本人は謝りたがらないのである。…日本人は南京大虐殺が起こったことを否定し…満州において…捕虜を生きたまま残酷な人体実験に使ったことを否定した。いずれの事例においても、日本人自身の記録から反論の余地のない証拠が出てきてようやく、彼らは不承不承ながら事実を認めた。今日の日本人の態度は将来の行動を暗示している。もし彼らが過去を恥じるなら、それを繰り返す可能性は低くなるだろう」と評価している。
「私の日本人の学生の数人は、そして多くの日本人が、日本の政治家がこれまで述べた数々の謝罪の言葉を挙げ『日本はすでに十分に謝ったのではないか?』という疑問を述べる。短い答えは『ノー』だ。なぜならそれらの謝罪には真実味がなく、日本の責任を最小化、あるいは否定する言葉が混ぜられているからだ。」
「自国の最近の歴史がもたらしたものへの対応について、…ドイツの手法がかつての敵国をおおむね納得させているのに対して、日本の手法は主要な犠牲者である中国と韓国を納得させ損ねているのはなぜだろうか」。日本もドイツが実際に行ったように「首相が南京を訪れ、中国人が見守る中でひざまずき、戦時中の日本軍による虐殺行為への許しを乞うてはどうだろうか。日本の児童が国内および南京、サンダカン、バターンなど海外のこうした場所を修学旅行や遠足で定期的に訪れるようにしてはどうだろうか。あるいは、戦争の犠牲者としての日本よりも、戦時中に日本の残虐行為の犠牲となった非日本人を描くことにもっと力を入れてはどうだろうか」
森林資源、水産資源の縮小は「世界最大の自然資源輸入国」である日本にとって喫緊の問題だ。資源が「世界中で枯渇すれば、日本は真っ先にその影響を被る国になるだろう。また、日本は食糧輸入依存度の高い大国でもある。」となれば「自己利益の追求から、世界に先駆けて持続可能な資源活用国を目指すはずだと期待する向きもあるだろう。」
「奇妙なことに、現実は逆である。」「日本は海外の持続的な資源政策に対して、指示はもっとも小さく、反対はもっとも大きい先進国であるようだ。」
「遠洋漁業や捕鯨に関するまっとうな規制についても日本は反対勢力の先頭に立っている。」例えば、持続可能なクロマグロの漁獲のために「クロマグロのワシントン条約の対象種リストに載せる提案が2010年におこなわれたとき、日本は提案の主唱者ではなかった。それどころか、この提案が見送られたとき、日本はそれを外交的勝利とみなした」。また、日本は「世界最大かつ強硬な捕鯨推進国であ」り、国際捕鯨調査会の割り当て数を大きく超えて捕鯨を行っている。しかも、「鯨肉は人間用というよりむしろドッグフードや肥料に無駄遣いされ」、捕鯨への大きな補助金のために「捕鯨の維持は日本にとって経済的損失」であるにもかかわらずだ。
「なぜ日本はこのような立場を取るのだろうか?日本人の友人たちが述べる三つの説明は以下の通りだ。第一に、日本人は自然と調和して暮らしているという自己イメージを大切にしており、伝統的に国内の林業や漁業においては持続的に管理してきたが、現在搾取している海外の森林や漁業資源についてはその限りではない。第二に、日本人の国民的自尊心は国際的圧力に屈することを嫌う。とくにグリーンピースやシー・シェパード…に屈したと見られたくないのだ。日本は捕鯨推進というより『反・反捕鯨』だといえるかもしれない。最後に、日本には国内資源に限りがあるという強い意識があるために、過去百四十年にわたって…世界の自然資源を無制限に利用する権利を主張してきた。」
「日本人ではないが日本を愛する私のような人間にとっては、海外資源の持続可能な利用に反対する日本の態度は悲しく、自己破滅的にみえる。」
「もし私が日本を憎み、戦争以外の方法で破滅させたいと思う国の邪悪な独裁者だったなら、いま日本がみずからおこなっているとおりのことをするだろう。つまり、日本が依存している海外資源を破壊するのである。」
学生の頃は自分の気持ちばかりが先行し、自分がいかに相手を好きかアピールし、そこから恋愛が始まっていった。
中には逆に相手がいかに私を好きかアピールしてくれ、そこから始まった恋愛もあった。
狙ったわけではないが、結果的にはバランスがとれていたし、自然とバランスがとれるものなのだとなんとなく思っていた。
社会人になってからも基本的なスタンスは変わることはなかった。
というか、社会人になったからということだけを理由に急に恋愛的スタンスを変える人っているのだろうか。
しかし社会人になってからは、それまでと同様に自分がいかに相手を好きかアピールすることは求められるものの、自分の気持ちばかりが先行していては「重い」「ウザイ」「独りよがり」などと非難され恋愛が始まらないことも増えてくるので、気持ちの加減など様々な「調整」を入れることを求められるようになった。
自分なりに「調整」をかけるも、抑えが足りなくて結局うまくいかなかったり、抑えすぎて相手に伝わらなかったり。
うまくいくかいかないかは当事者以外の要因もあるだろうが、とにかく私はここで(自分の気持ちを伝えてそれが受け入れられるという)「成功体験」を得られないままアラフォーに突入してしまった。
進んでも戻っても地獄。
こじらせるには十分すぎた。
受け入れられない、拒絶されることによって自分の自尊心が著しく傷つけられるのが何よりもおそろしいから。
こんな価値のない自分が露呈してしまうことそのものがおそろしいのである。
自己肯定感を高め自信をもて?
私は比較的好奇心が強い子供だったと思う.小さい頃から親になんでなんでと訪ねては疲れさせていた.小学生の頃,調べ学習が大好きだった.調べ学習の時間では,その時間が始まるといてもたっても居られなくなり,先生の言うことを聞かずに行動して怒られたりしていた.
中学生の頃は,物になぜ色がついて見えるかを調べた.それを調べている時はとても楽しかった.階段状に並んだタイルの総数を考えたり,N次元空間に置かれた立方体がある視点から見える最大の面数は何か疑問に思ったりしていたこともあったっけ.
母親は欲しい本はなんでも買ってくれた.ラノベや宇宙の本を買ってもらった.雑学の本も好きだった.ブラックホールが発生してから蒸発するまでの話に私はとてもワクワクした.
私が友達なんていらないと思うようになったのは,中学生の頃,同じクラスの女子が原因だった.彼女は手下にできそうな私を見つけて,私を支配下に置いた.私はそれ以来人間不信のような状態になった.
私が自尊心がないのは両親の不仲が影響しているようにも思う.父親が帰ってくるたび毎日家がピリピリしていた.母親は私が中学3年生の頃家出してしまった.その時は毎日泣いていた.学校も休みがちになった.父親は料理ができないから,コンビニ弁当ばかりだった.その頃,母親も浮気していたと思う.私はとても寂しかった.人生は結局一人なのだと思った.
けれど,母親は結局,私を別居先のアパートにいさせてくれた.学校をサボって,会社をサボっている母親と映画を見た.映画のシーンでセックスの描写があったときに後ろから目隠しをされた.母の手は暖かくて,なんだか嬉しかった.
高校受験の時は,親に経済的な負担をさせるまいと,確実に合格できる公立の商業高校の情報処理科を受験した.
高校では友達を作らないようにしようと自分の殻にこもった.入学直後,女の子がお弁当を一緒に食べようと誘ってくれたが断った.友達になろうとしてくれた人の誘いはほとんど断っていた.
けれど,部活には入部した.商業高校だったものの科学への興味があったため科学研究部に入ったのだ.
生物のドクターを出た先生が顧問だった.高校2,3年生の頃は水生生物の調査が主な活動だった.部活の顧問は「お前はドクターまで進学した方がいい」と助言してくれていた.
この頃も,宇宙の本を読んでいた.その本は量子力学に関する奇説を扱う本だった.この宇宙は,あらゆる状態の分岐に応じて,並行して無数に存在しているという説もあった.今生きている私というのも,無数に存在する宇宙のうちの一つの認識している自我でしかないのかもしれないと思った.宇宙にとって私とはエネルギーの濃淡の揺らぎ,またはセルオートマトンの点滅.私が生きていようが死んでいようがどちらも美しくなりたつ宇宙に思いを馳せた.
大学受験では,文系の高校から理系の大学への進学は難しかったが,やはり理学への興味が尽きなかった私は,理系へ進学することを決断した.高校では数学はIとIIしかやっていなかったため数学の受験勉強は独学で行なった.私はひどく頭が悪いわけではないけど,かといって大して頭がいいわけではないから,低い偏差値の大学の推薦入学だったけど,それでも苦労した.
何回か,母の前で自殺するふりをした.反抗期だからか,勉強ができないストレスか.ある日,母に他の男の気配を感じた.当時の私はそれがたまらなく許せなかった.死んでやる,といって包丁を持ち出して,自分の首に突き立てたりした.本当は死ぬつもりはなかったけど,別に死んでも構わないとも思っていた.
高校で,中学生の頃いたような人間には出会わなかったので,大学では友達を作ろうと思った.
また,研究に対して大きな憧れを持っていた私は,すぐに研究室に配属を希望した.その教員は快く迎え入れてくれた.3年生の頃には,先輩の卒論を手伝うほど知識がついていた.今思えば,あの頃が最も楽しく知識を身につけていたと思う.授業でも良い点を取ろうとか考えてなかったので,授業を聞かずにオリジナル(?)のアルゴリズムを使って手書きでボロノイ図を書いたりして自由に楽しんでいた.外部発表もしたし,卒業論文も特に苦労もなく書き終えた.この頃,「ゲーデル,エッシャー,バッハ」という本に出会って,その本に魅了された.
いつからか,「論文を出さなければならない」,「自分は周りと比べて劣っている」,という考えにとらわれるようになった.体調的にも良くなかった.学部の頃からのカフェインの大量摂取,昼夜逆転の生活,慢性的な睡眠不足・運動不足・栄養不足などが祟ったのである.締切前になっても全く焦りが働かなくなった自分に気付き,おかしいと思って心療内科に通院し始めた.修士論文も提出しなければいけないのに全く取りかかれなかった.学部の頃からお世話になっていた指導教員ではないO先生がそんな私を見かねて,一緒にLaTeXを書いてくれた.一応提出はできたけど,修論発表を終えた後は悔しさで泣いた.
それでも私は博士へ進学してしまった.修士の頃からドクターは進学しようと決めていたし,エネルギーの低くかった私は,判断を変えるほどの力がなかったのかもしれない.正直,そんな覚悟で博士をやっているのは日本でも私ぐらいなのだろうと時々思う.幸い,修士からの学費や生活費は奨学金や授業料免除,アルバイトで何とかして親に頼らずにいられた.
博士の間はずっと,健康を取り戻すために時間を使ってしまった.カフェインを断ち,夜更かしを辞め,休日は一切休むことにして,睡眠を十分にとり,運動もして,という生活を送った.論文よりも睡眠や運動を優先した.O先生は博士の間もずっとメンタリングしたりしてくれた.なんとか学会論文を2本書いたが,卒業要件でもあるジャーナルの論文が完成しない.とうとう何もできないまま3年生になってしまった.
O先生に,成果という葉にとらわれず自分という根を大切にしなさいと教えられた.成果にばかり気を取られていると自分のエネルギーが朽ちてしまうというのだ.確かに思い当たると思った.そもそも自分ってなんだっけ?と思った.ドクターには,「自分」が必要なのだ.でも私はそれがなかったのだ.目の前の成果だけしか考えていなかった.
自分はなんのためにドクターをやるのだろう?一瞬,救済を必要とする人や弱い立場の人のためになりたい,と思ったけど,本心からそう思っているか自信がない.ひとまずそう思うことで安心したいと思っているだけかもしれない.自分とは,ちょっとした好奇心を満たすのが好き,それだけだった.
私はなんのために生きているのだろう?私は高校生の頃から,セルオートマトンの瞬きにしか過ぎない人生などに,意味を見出すことはできなかった.
死の淵に立てば,生きる意味が見出せるかもしれないと思った.服薬自殺は病院巡りをして薬が準備できるのに時間がかかりそうだし,飛び降りは失敗した時が怖いと思った.死ぬときは失血死か,首吊りかどちらかにしようと思った.結局,なんとなく気が進まなくて,自殺の手筈を整えるのはできなかった.
人文系の先生に生きる意味を相談したところ,その先生は四諦八正道の考えを教えてくれた.確かに考えても意味はないのかもしれないが,考えるのをやめることは難しかった.
哲学科の先生にも訪ねた.私の考えはニヒリズムに分類されることがわかった.達成することに意味がある,後世に何か残すことに意味があると見出すのはナチュラリズム と呼ばれるものらしい.私はどうもその考えはしっくりこなかった.その先生にニヒリズムの考えを持つ中島 義道という哲学者を教えてもらったので,後でその人の本を読んでみようと思う.また,哲学の入門として,図書館にある,哲学の雑誌の現代思想を読んでみることを勧められた.
現代思想12月号は巨大数の特集だった.2chの「一番でかい数を書いたやつが優勝」スレから始まった日本の巨大数ブームの歴史や,ふぃっしゅ数,小林銅蟲(パルの人)の漫画が載っていた.11月号は確か,反出生主義についてがテーマだったと思う.
まだちゃんと読んでないけれど,あぁ,私はこういうものを読みたかったのだ,と幸せを感じた.
私は毎日,贅沢ではないけれど,質素に暮らしていけるだけのお金があって,現代思想とかを読めればそれだけで幸せなのだと悟ったのだ.
諦めずにドクターを取得するのか,ドクターをやめて就職活動をするのか,決断しなければならない.
むしゃくしゃぉじさん
むしゃくしゃぉじさん
会社で怒られ
娘に嫌われ
むしゃくしゃむしゃくしゃ
気の弱そうな若者
ながらスマホしてるおんなのこ
わざとぶつかり自尊心を満たす
おなじおじさんとして恥ずかしい
むしゃくしゃむしゃくしゃ
母の事を思いだした。
母は専業主婦だけど家事苦手で、父は仕事でも出世して家事超得意。
眠れなかった。
必要に迫られやむなく数ヶ月ぶりに生理を呼び起こしたら、その空いた期間分一切の減退なく蓄積圧縮されていたのではないかというくらいのPMS的症状が襲いかかってきた。その威力を何かに例えようとしたが、「国盗り」と恐らく発声したこともないようなワードが浮かんだ。
心身が融けた金属のように熱が籠もり重怠く、会社を早退した。家で眠ろうとしても動悸と涙が止まらない。こんなときこその料理ですら無我の境地は到底遠く。完成物である牛肉とピーマンのオイスター炒めの味はいけていたけれど。
挙句帰宅したパートナーにその後一切の家事を任せ、いつもはしない添い寝まで頼んだがそれでも全く心のぞわぞわが治まらない。「森林火災」というワードも浮かぶが心理状況を絶対何かに例えたいわけではないのだが。
発狂しそうなほどのネガティブな感情の熾烈さに耐えること数時間。焦燥感は次第に薄れ、次の一手をくっきりと閃く。
「とあるクラウドサービスに保存されている10年前の写真を見返す」
どうしてなの。理由が自分でも分からない。いつもなら精神が劣悪なときには見る気にすらならない。でも見た。
デジタル一眼を購入した10年前から、スマホで撮る写真だけになるまでの数年間。余計な感情たちが一様に黙っていくのが自分で分かる。
「自分は誰にも愛されていない、愛されたことなどない」という誤認にまた支配されそうになっていた。それに打ち勝つのは凄く大変だったのに。今のパートナーひとりに押し付けるのは憚られるほど膨れ上がった重圧に潰されて苦しくて、早く破裂してと心中で絶叫するほど痛かった。
その写真に残されていた記憶は、実のところその間の恋愛遍歴がメインの記録だった。友人や旅、生活のこともあった。
柄ではなく恥ずかしいのと、引きで見るとその思い出はあまりに醜いのと、一般的にその結論は望ましくなさそうなのとで向き合うことが少なかったが、どうも自分は主に恋愛沙汰によって自尊心を培い成長したらしい。
誰に向けた文でもないが誤解を招かないよう補足すると、自分のことを絶え間なく豊かにし、しなやかな振る舞いを身に付けさせてくれたのは(特に付き合いの長い)友人たちであることは疑いようがない。
growthと言うべきか、pump upと言うべきか、そのあたりの根幹っぽいことを恋愛沙汰が担ってくれたようだった。
写真の中の歴代彼氏は皆屈託のない笑顔をこちらに向けていた。全身でおどけていたり、無防備な呆け顔を晒していたりした。風景の一部と化すほど遠くから撮ったものも、肌荒れが分かるほど至近距離で撮ったものもあった。
思い出は全部上書く派の自分にとってもはや他人であるその人たちの表情は、どの写真も客観的に見た上で、とても魅力的だった。
この人たちがこんな顔をしているのなら、たぶん当時の自分もこういう顔をしていただろう。
それはつまりそういうことだ。
でもこれで過去からの歪みを整えられたから、ようやく今に向き合える。
明日も朝、叩き起こされる。それで私が布団に引き入れて、ふたりして遅刻する。
今のいつもを取り戻せる。
https://this.kiji.is/581526968514757729
さすがブクマカの皆さんはリベラルで、人権講師に「この中にも○○がいる」と言われても動じない方ばかりなんだな。
皆さんには信じられないかもしれないが、世間はそこまで同性愛を理解していない。
同性愛を、同和地区の人、在日外国人など、見た目でわからない被差別者に言い換えてもいい。世間はブクマカの皆さんほど理解していない。
私の友人に、性的マイノリティ人権講師をやっている人がいて、私はそのサポートをしている。講演のあと、アンケートをまとめたりする。(以下アンケートの回答は原文のままではありません)
アンケートでは、児童生徒が否定的な回答をすることはまずない。記名で先生が読むアンケートだからということもあろう、模範的に答えようとする子供がほとんどだ。
・かわいそうだと思いました
講演の中で、「クラスメイトの皆さんと変わらず仲良くしていたいと思っているのに、ゲイかもしれないと疑われた時点でよそよそしくされる。それはとても辛いのです」と伝えているにもかかわらず、だ。「自分たちはカミングアウトをしなくても、皆さんと一緒に普通に生活しています。多くの当事者は、特別扱いされたいとは思っていません」と伝えているにもかかわらず、だ。
子供たちの多くは友達に優しくあろうとしているので、アンケートの答えが点数稼ぎばかりとは思わない。きっと本心でそう思ったのだろう。
でも、そんな、腫れ物に触るような対応を誰が望む?
ブクマを読んでると、子供たちが何らかの手口で当事者を燻り出していじめる場面を思い浮かべたのかな? と思えるものが結構目についた。子供がそんなことやるのはどう考えても悪だし絶対ダメだ。
実際の現場でおきることは違う。
「このクラスにもいるかもしれないんだって」「もしいたらどうする?」「あの人"そう"っぽくない?」「かわいそうだし、優しくしてあげる」
そんなような会話が、数名の仲のいいグループ内でなされる。そのグループの中に当事者がいる可能性に気づきもしないで。
これまで隠してきた当事者は、ますます「言えないな」となる。隠さなきゃいけないなら友達じゃないって? 誰だってすっごく仲いい人にだって打ち明けない秘密の一つや二つ持ってるでしょ?
あるいは、クネクネと「実はおれ、ゲイなのよん。差別しないでね〜ん」なんてウケを取ろうとする子がいる。その場に当事者がいる可能性に気づきもしないで。助長される「いじめ」はこんなふうに、特定個人相手ではなく自覚なく行われる。諫めると自分が疑われるかも、と思って、周りも笑う。当事者ならなおさら、怖くて抗議できない。
何クラスもを一度に集めた講演会で、数分から数時間程度のお話を聞いただけで深く考えることができる子って、実際すごく少ないんですよ。上っ面の理解で、インパクトのある「この中にもいます」だけが印象に残る。当事者探しは教室で「お前か?それともお前か?」なんてわかりやすい方法じゃなく、それこそ LINE のグループなんかでヒソヒソやられるんだ。クローズドの当事者がそのグループにいたら? 自分が疑われなかったとしても、「この中にだけは当事者はいないだろう」を前提にされている空気にすり潰される思いをする。
(すり潰される経験があまりに多すぎて諦めている人もいる。すり潰されているのは自尊心で、人生を大きく左右するのに。)
性的マイノリティ人権講演は、自治体や教育者対象のものも多い。児童生徒よりも、講演後アンケートの回答はばらける。大人は自分の部下や子供からカミングアウトされたら? ということを現実的に想像して答える。
・うちの生徒にはいないが、今後の参考に
とても現実的だと思う。自分は理解していても周囲はそうじゃなく、変えていく力はないと思っていたり、自分の偏見が拭えないことに悩んだり、どこか他所ごとだと思ったり。社会の現実はこうなんだ。
実際、近しい人が当事者だと気づいたときに戸惑わないと言える人はどのくらいいるのか?
(戸惑ったら「戸惑った」ってリアクションしてもいいと思うけど。なかったことにされるよりずっといい)
世の中はまだまだこんなふうで、子供たちはそんな世の中で成長しているのだ。
理解の浅い段階で「この中にも同性愛者がいる」って言葉を投げかけられると、当事者が不安とショックに囚われる。当事者でなくても立場の弱い子供にも、しばらく友達との会話が恐怖になる可能性がある。
しっかりとした性的マイノリティ教育(その他人権教育)が行われていれば、子供たちは、自分の周りにも当事者がいるかも、という前提で人と付き合うことができる。「この中にも同性愛者がいる」とわざわざ言う必要がない。
児童生徒向けで、全体講演のあと、クラス単位や希望者のみなど、もう少し少人数で距離も近くして講義を行うことがある。質疑応答の時間も設ける。子供たちの姿勢が違って、上っ面だけじゃなくしっかり理解しよう、受け止めようとして聞いてくれる。その後、アンケートよりもずっと長文のレポートを送ってくれる。
・もし友達にカミングアウトされたらどうすればいいかって考えていたけど、その人にいつもしてるみたいに言葉をかければいいんだなと思いました
・将来自分が同性を好きになることもあるかもしれないから、今はそうじゃなくてもふざけてネタにするのはやめようと思った
・性的マイノリティの人がその場にいたら言えないようなことは、誰の前でも言ってはいけないと思いました
講師は「この中にも同性愛者がいる」とは絶対に言わない。「同性愛者にはこう接しなさい」と言うわけでもない。人と人との関係の、答えのない問いを、一緒に考えていこうね、と伝えただけだ。