はてなキーワード: 自尊心とは
https://note.com/moaikids/n/n8d1d1813ee08
会社への満足感が低かったらブリリアントジャークみたいに振る舞っちゃうよね、ということを書く。
人間は社会でしか生きられないので、他者を攻撃することは通常マイナスにしか働かないんだけど、特定の条件下では「ブリリアントジャーク」のように振る舞ってしまうことがある。その特定の条件っていうことに私は心当たりがあって、自己肯定感などの満足度が不足している、または他人から軽視されていると感じた時だ。例えば、組織が大きくなる時に管理職が増えた時に、新人管理職はメンバーのパーソナリティへの理解が浅いので、古株の尊厳を無視した人事変更が行われることはよくあって、世渡りが下手な人はそのような出来事に対して態度を硬直してしまう。そして、自分の能力を誇示するために攻撃的な発言が増えてしまう。これってブリリアントジャークやん。
まあ、その心当たりは私が最近体験したことです。かなりつらいです。自分の心は能力をわかってもらえていないというフラストレーションで満たされている。自尊心が邪魔をして自己開示できずに、リーダーに対して建前でしかコミュニケーションができない。誰も自分の味方がいないような感覚。管理職との1on1はやっているけど硬直してしまった態度をほぐして欲しいというサインに気が付けない管理職に責任転嫁する自分。私はもっと仲良く楽しく仕事がしたいけど同僚が距離をあけてくるので会社に行きたくない。当然ならがら攻撃的で協調性が低くなってしまった私の評価を下げる管理職。LANケーブルを首に巻いておけって話なのは承知しています。さよなら。
しばらく津波に流された後、私は運良く瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると、釘や木が刺さり足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが、私1人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。あっという間で、そして、とても長い4年間でした。家族を想って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが今もまだ夢のようです。
https://logmi.jp/business/articles/43361
迷惑じゃなくて感謝しかない母親であっても、いざ自分がピンチになれば俺もお前も結局は肉親を見捨てて逃げるのだ
それが俺もお前も日本人の全員
彼女はちやほやしてほしいわけではなく
ちやほやされることに悩む程度の余裕がほしいんだと思う。
なんに対しての余裕かと言えば、「ある能力において自分は人並み以上で、その面で劣等だと言えない」という自尊心があるかどうか。
もしかすると彼女は異性から好意的なアプローチを受けること自体、体感としてどんなものか理解していないし、理解しようがなかったかもしれない。
僕は元増田を読んで「体の構造から生まれながらに女性として扱われる」という「普通の女性」の人生に憧れているんだと思った。
実体験に乏しい彼女の欲求が誇大妄想のように読み取れたとしても、それをあたかも高慢と言いたげな態度であげつらうのは、それこそ見た目の悪い彼女への蔑みではないだろうか。
悩みも喜びも全てひっくるめて普通の人のように生きてみたいという憧れがあったとして、それを叶えることは特別扱いを要求することになるのだろうか。
なぜこういう言葉を聞くたびにびみょ〜な気分になるかというと、セットで男性への批判が行われているからだ
批判されて、応援したいと思うだろうか?そりゃ綺麗事で応援してるふりは出来るけど、素直に応援したいとは思えない
ビジネス社会で日々頑張っている男性は素晴らしい、でもこれからはそんな男性を追い越す勢いで女性も経済的に社会に貢献したいから理解してほしい協力してほしいと言えば、それで良いのに
何か自身に嫌なことがあって反発的に主張せざるを得ないのかもしれないけど、それは逆効果
男は自尊心が高いので、そこをくすぐったほうがいい
敵にするんじゃなくて味方にするという戦略を取るべき
過干渉の父親に見えるので卒業して就職したら、すぐに家を出たほうがいいです。
うちもそうだったけど何でも先回りをして、なにかやってるとこっちのやり方のほうがいいと勝手に割り込んでくる親はこどもの可能性をどんどん詰むだけ。親から叱責されるならなおさら。今の環境だと自尊心が損なわれたまま生きることになるから辛いと思う。
親なので愛もあるのはわかるし、それは普通な感情だけど適切な距離を置かないと、父親が死ぬまで父親に先回りされて怒られる、あなた本来の人生は歩めないと思います。
物心ついた時から周りより頭ひとつ分以上背が高く、小学6年生で170センチを超えていた。
小さな頃は年相応にセーラームーンやキティちゃんなど可愛いものが好きで、よく身につけていた。
だが、自分が可愛いものが似合わないのではないか、と気づき始めたのは幼稚園の時。
発表会で笠地蔵をやることになったのだが、その中に狐の役があった。
黄色いふりふりの衣装がとても可愛らしく見え、私はその役に立候補した。
だが、他にも複数候補者がおり、1人狐役を諦めなければいけない。
本来ならジャンケンなどで決めるのだが、そのとき私にはそれすら選択にはなかった。
なぜなら当時の担任直々に「狐役は諦めて欲しい」と言われたからだ。
衣装のサイズの問題や、おばあさん役の方がぴったりだからと言われた。
そのとき、ふと目の端に見えた狐役の子たちは皆平均身長でとても可愛らしく見えた。
そのとき私は「背が高いと可愛いものは選べないんだな」と思うようになった。
幼稚園児が考えることなのであまりにも極端だと今は思うが、己の顔立ちやそもそもの体型なども、幼いながら人より劣っていると気づいていたのだと思う。
それから少しずつ可愛いものに興味を示さなくなった。だって、似合わないものを身につけてもダサいだけだし、と。
気付いたら女らしさ皆無な子供に育っていた。
うぜぇ、だまれ、カスなど口走るなんとも可愛げのないクソでかい女の子が誕生していた。
また、中学でスポーツ系の部活に入ったことにより、髪の毛もベリーショートに切り、服のサイズもメンズ物しかなかったため、見た目はどこからどう見ても男にしか見えなくなった。
デパートなどの女子トイレに入ればすれ違うひとに驚かれトイレマークを確認されることは毎回のことなので慣れた。
最初は気のせいだと思っても、それは気のせいではなかった。
友達から「今あの人あなたなのとみてたよ、すごくびっくりしてた」と毎回報告されていたからだ。
(中途半端な田舎だからっていうのも1つの理由だったのかなと思う)
恋愛対象で見られることは皆無だったが友人としては仲良くやれていたので特に気にはしなかった。
少女漫画も少年漫画と同じくらい読んでいたし、こっそりと片思いもしていた。
けど、振り向かれることはないとわかっていたので告白も何もしなかったけれど。
そんなこんなで大学生になったある日。
見た目さえわからなければみんな私を1人の女の子として接してくれることにとても感動した。
それからは毎晩寝る前にいろんな人と話をした。
みんな優しくしてくれたし、声を少し高めに話すと可愛いと褒めてくれた。
今まで体験できなかったことが沢山体験でき、自尊心が満たされた。
今まで相手には身長のことすら言えなかったのにその人には話せた。
それでも引かれることはなく、魅力の1つと言ってくれた。
大学生になっても、私の服装は相変わらずでダボっとしたパンツにTシャツやパーカーばかり着ていた。
そのことを話すと、彼は
「なんで女に生まれたのに女を捨ててるの?」
と質問してきた。
「好きでその格好ならいいけど、女らしい服装をしたって良いんだよ」
「似合う似合わないじゃなくて、似合わせようとするんだよ」
と。
あ、と思った。
本当にあ、と。
可愛い格好してもいいんだ。
面長で重たい一重。
鼻も高くない。
その身長があるならモデルになりなよとみんな言うけど、頭身もないし腕も足も短い。
だから、女の子らしいは似合わないから、みんな変に思うから、楽なメンズ服に逃げていた。
そうなんだ、別にいいんだ。
それから少しずつ女らしさを取り戻していった。
といっても、完全に女として生きていけるようになったのは社会人になってからなんだけど。
田舎町から都会へ引っ越して、人の視線を感じることが少なくなったのも1つの要因だった。
ヒールの靴も痛いからあまり履かないけど、6センチのヒールを履いて出掛けたこともある。
少しずつ、少しずつ。
気付いたら前よりも女の子扱いされることが多くなった。
性の対象にすらみられてなかったのにそういう目で見られるようになる。
可愛いと言ってくれる。
髪の毛長い方が似合うよと言ってくれる。
もちろん、モテているわけではなくて基本的には友人としてしかみられないこともあるし、この身長にドン引きされることも多々ある。
けれども私は女になった。
ずっと女になりたかった。
ここまで拗らせるには他にもいろんな要因があって、自分に自信をなくして、自分を男に見立てることに逃げていたけど、もうそんな自分にはならないだろう。
今みたいに
いろいろ盛れない頃に充分需要はあったし、
なにもチートしてないのでそれなりに自分そんなにひどいもんじゃないと思ってるし
かといって真剣勝負の自分ガチャして磨いてる人とのバトルする意味感じないのね。
見苦しく流行りを追うくらいならダサくてもにあわない格好するの嫌。
自分が大好きで、いろいろ自尊心の高い人はしょっちゅうイメチェン、髪型変えるよね。
きっとそれは似合ってるし、これまでよりも素敵なんだよ。
小学生の頃は頭がよかった。暇つぶしに塾に通って、自分の実力相応の学校を受験、いわゆる御三家の中高一貫校に入学したけど病気して通えなくなり仕方なく中退。ちなみに中高では成績全然よくなかったし格好よくもなかった。
で、自分はそこから拗ねてしまった。どうせバカだし、高校さえ卒業できないし。
どうにか大検とって現役の歳で大学受験しようとしたけど、あの環境にいれば自然とするであろう努力も病んだ身体でひとりだとできない。結果、MARCHさえ受からなかった。そこで折れた。
今思えば試験受ける体力がなくて受験中に朦朧としてほとんど試験受けてないから当然なんだけど。出願したから受かったボーダーフリーのいわゆるFランにとりあえず入学したんだけど、ガラの悪いやつや勉強に興味のない品の悪いやつが多くてショックを受けてやめてしまった。大学は勉強するところだと信じてたのに違ったんだよな。
中高の同窓生は仲良かったし、みんなと違う道を歩いてきたよ人生ネタだよって話してた。少しずつ自己肯定感も吐く具まれてきた。
でも最近思うんだ。みんなそこそこいい学校出て大手でバシバシに先進的なことをやっている。俺は手取20弱で旧体制の誰も名前知らない中小企業。
手取として金に変換された瞬間にまた折れてしまった。病気さえしなければ、諦めさえしなければ。最近は自分の人生が恥ずかしい、きっと誰もバカにしないんだけれど。自分が仕事をまじめにやっていないツケでもあるんだろうな。胸が張れない。
自分語りが長くなった。
それで、とにかく俺はプライドをズタズタにしてしまったんだよ。頭よかったなんて過去の話に過ぎない。元増田が守り続けたプライド、俺は傷つけ続けてしまった。だから俺は元増田のことすごく格好いいと思うよ。残るものが空疎かもしれないけれど、枠を作ることは大切だから。その枠が元増田を守ることはあるよ。
いつか元増田が躓いて、自尊心がやせ細ったとき。かわいいと言われなくなったとき。もう何もないじゃんって喚き散らしたくなることあると思うんだけどさ、枠さえありゃいくらでもキラキラしたもの詰めていけるから。
こういうのは割とある。ネットが成熟しつつあった2000年代後期あたりに沢山いた。
俺も匿名掲示板のあるコテにぞっこんで、その人の喋り方、考え方、全てトレースして
物事を斜に構えて、尊大な態度で、豊富な語彙とウェットに富んだ表現で中傷して回る様は、学校でもネットでもうまくいかず、
目の前の事にちゃんと向き合えば自尊心が粉々に壊れてしまいそうだった自分にとって、あこがれの存在だった。
実際彼は当時の自分にとって救いだったし、彼の考えの根底は自分には流れてるし、おそらく彼に出会わなければ中途半端な正義として
極左になるか、極右になるかでみっともない人生を送っていたと思う。彼のお陰で、目の前の自称を一歩引いてみる姿を学んだ。
自分の人生というものを考える機会を貰ったし、人生の暗い時期を救ってくれた事には感謝してる。
けど改めて彼の当時の書き込みを見ると、ただの斜に構えた幼稚な発言の数々で、何故こんなのに憧れていたのだろうと思うことがある。
でも過去の自分を否定する人は前に進めないように、「当時の自分は幼稚だった」って一言で片付けられる事ではないと思う。
確かにあの時僕は彼に憧れて、彼を理解しようと努めた日々は、間違いなく今の自分を形作ってるし、そんな彼を僕は今でも尊敬している。
ニートのときから「生きるのつらいなー」と思っていたが、これは働いてないことへ罪悪感だろうなと思っていた。
けれど、実際(まあフルタイムで仕事をしている人たちに比べれば、自分の労働なんて働いてないと同じなんだろうけど)働き始めて、幾ばくかの給料が出た。
だけれどこんな給料じゃまったく生活ができないし、自立なんてもっと先のことだということを思うと涙がでてきてしかたがない。
30も手前でこんなことに悩んでいるなんて、小中のころの自分に申し訳がたたないし定年を迎える両親にただただ情けないという気持ちしかわかない
救いだと思っていた労働もまともに働けないという事実を浮き立たさせるだけで、結局救いではなかったのだ
自分はもともと自分を信頼しておらず、尊大な自尊心を飼いならせず破滅的な行動を良くしてしまう。
どうせまもなく働いているバイトを考えもなしに急に辞めるのだろうという直感めいた予感がとてもしている。
もう誰にも助けてもらいたくないこの状況どうにかしたいという為に働き始めたのだが、これから何か仕事になるようなことなんてできないのだろう
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20191201/1575181566
俺はこの件について最近よく考える。
きっかけは増田なんかで「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」というようなことを言うと、激しい人格攻撃を受けることが数度あったことだ。
それはどう言うことなんだろう、と考えていて、全く別件の個人的かつ趣味的な勉強で、自己効力理論と動機付け研究の本を読んで、ある程度「こうではないだろうか」「こうとらえ直したほうが、自己の人生をやや豊かにできるのではないだろうか」という自分なりの捉え方をできたので言ってみる。
自己効力理論というのは、ある行為に当たる際に、「できるかもしれない」と漠然と思う感覚、「自己効力感」についての理論だ。
まずある行為が失敗におよんだとき、あらかじめ自己効力感が高い人と低い人では、「何に原因があったか」に対する捉え方が違いがちだという。
高い人は概ね「努力が足りなかった」「思慮が足りなかった」「状況が悪かった」など、「その時点の自己の選択」や「自分の外」に結果を求める。
対して、低い人は「自分に能力がなかった」「才能がなかった」と、「自分の本質」や「自己の内側」に結果を求めがちだ。
大きく違うのは、高い人の理解というのは、「自己が違う選択をしたり、違う状況なら結果は変わる」と考えていることで、低い人の理解は「自己が自己である限り簡単に結果は変わらない」と考えているということだ。
思わしくない結果に直面した時、自己の自尊心を守るために状況に働きかけることが「一時コントロール」、自己の捉え方を変えて受け入れるのが「二時コントロール」という。
「自己の内側」に結果を求め、「仕方ない」と自尊心を守るのは「二時コントロール」戦略といえる。
さて、動機付け研究においては、自分が状況に働きかけて、状況を変えうるというのは「有能感」とよばれ、この「有能感」に関連して、有能さがどのようなものかの信念に個人差があるとされている。
知能に関してある信念である「暗黙の知能観」での個人差が「固定理論」と「増大理論」と呼ばれるもので、「固定理論」が「知能や有能さというのは生まれつきのもので、一生を通じて大きく変わらない」という信念で、「増大理論」が「知能や有能さというのは個人の選択で変わりうる」というものだ。
「大人になって人間は大きくは成長しないし性格も変わらない」と何度も何度もいうような人は「固定理論」をかなり強固に信じていると言える。
これらを振り返って「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」と言ったら激しい攻撃を受けるというのはどういうことなのだろうと考える。
仮説はこうだ。
この言葉にカウンターの一撃を食らわせたい人は、いつかかけられるかもしれない、この言葉を自己への脅威だと感じている。
なぜ自尊心が傷つくのか、かつてうまく状況をコントロールできなかったからだ。
状況をコントロールできなかったのは、自分が努力できなかったという認識と記憶があるからだ。
ではなぜ努力できなかったのか。
この言葉に傷つく人は、「固定理論」を信じ、「自己効力感」も低い状態にあり、失敗した原因を「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない自分が故に失敗した」と思っているからだ。
そこに「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」という奴が実際にあらわれる。
その言葉をかけてきた人は、自分の中にある「固定理論」に基づき、「努力がもともとできた人」「努力の才能を与えられた人」だ。
そして、「自分が勝ち取ったわけでもない与えられたギフトの結果で成功しているのに、それを無自覚で、ギフトを与えられてない自分に対して無理を強いてくる、そしていつか平気で自分の尊厳を踏みつけるだろう」「与えられたものであるお前にはその資格がない」「そんな不公平な言説がはびこる世は正義に反する」と考える。
ここで話を変えて、俺が「固定理論」と「増大理論」のどちらを信じているかというのをいうと、IQなんかは遺伝の性質が大きいことは知っている。
性格もある程度遺伝しやすく、性格の一つの「誠実性」というのは、「物事をコツコツやるのを好む性質」をさしていて、となると、ある程度「固定理論」も信じていると言える。
でも、行動を積み上げることで自己の知能や誠実性はもっと引き出せる、まだ自分の知らない自分はたくさんあると考えており、「増大理論」も信じていると言える。
でさあ、「努力」に対してどういう態度でのほうがいい気分でいられるかなんだけどさあ、「努力の才能」ってことをあんまり「間違いない世界観」として捉えるってさあ、まああると思うよ、そういうやついるもん。
でもね、それってもし状況が整わずに自分が努力できずに失敗した時に、「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない努力できない自分が故に失敗した」「そんな自分だからこれから先も努力不足故に失敗する」ってことになるじゃん。
あんま気分よくなくない?それ?
それに「努力の才能」っていう「固定理論」をあまりに強固に信じてると、失敗も怖くなんのよ。
なんでかっていうとさ、失敗しちゃった時その失敗をどう捉えるかでさ、「自分の能力も性質も大きく変わらない」って思うと、「失敗は自分が失敗してしまうことを知った」「自分の無能が証明された」ってことになんのね。
そうすると、誰でも自尊心は守りたいからさ、やんなくなんのね、いろんなこと。
そうすると、自分の生活ってあんまり変わらない、外の状況が変わる以外で自分の人生変わんないってなるじゃん。
状況の力は強いけど、自分が動くことどんどん少なくなっていったら、変わる可能性減るじゃん。
そこは「増大理論」だと失敗しても「今日は失敗したな、失敗するやり方がわかったから成功にちょっと近づいたかもな」ってなるのよ。
別に「努力の才能」が実際あっても構わないけどさ、それはそれとして、「今日は結果が出なかったけど、まあ別の方法ならいけるかもな」って思ってさ、ちょっとの1日5分とかの努力ならしてみようぜ、ちょっとだけ明日の自分の生活がよくなるかもしれないじゃん。
失敗しても、そういう時もあるしさ、だいたい、隣の奴が努力の才能に恵まれてて、自分がそうじゃなかったとして、他人が努力で成功してもお前の人生が下がるわけじゃないじゃん、他人の成功なんかどうでもいいよ、お前はお前の人生だけちょっとよくすること考えればいいじゃん。
ってね、そう思うの。
だから、「努力の才能」って言葉、あんま使いすぎるの自分を追い詰めるんじゃないの?
って、思うよ、俺。