はてなキーワード: カレッジとは
母校のアメフト部は、数年前に部員の不祥事があった。大学側がかなり速やかに関わった学生を何十人もに罰を下した。後で聞いたらそういう不祥事は当然の常態化してたから生ぬるい処分だったらまた同じことやらかして部が空中分解しててもおかしくなかったという話だった。
フェニックスもPL学園ルートたどってもおかしくない。カレッジフットボール自体が関学の一強といっても差し支えがないしフェニックスは強豪とはいえ関東はどんぐりの背比べでしかないから、日大のナンバー系の附属から上がってくるはずの有能な選手がどんどん外に出て行くぞ。以前にもあったんだ。それでフェニックスは弱体化した時期があった。
自分はアメフト好きでNFLもそうだがカレッジやXリーグも見に行くし、当該の試合は自分は行かなかったが友人は現地で目撃してた程度の「コミュニティ」内ではないがファンだけど、つぶせという言葉から何を連想するか、ということ「だけ」なら限定的には同意できないこともない。
でも、フェニックスが久しぶりに甲子園ボウル取ったけど部内は割と大変らしいよ、とか、主力級の選手が何人か部を辞めた、部内で派閥争いがあるとか監督がしごき体質だとかパワハラがあるみたいだとか、そういう話が漏れ聞こえてきてたから、あの試合の当日も自分のツイッターのTLが凄いことになってたしその日のうちに「あーあそこ監督がパワハラっぽいって噂あったもんね」という感じになっていた。
とにかく経営能力が欠如しているという印象です。大学改革関係の記事やツイッターを調べると、「会議が増え、研究時間が削られている」という意見を目にしますが、見ていると仕事の段取りが悪い。
・ミーティングを定刻に始められない。平気で遅刻してくる。こっちはスーツ着用で、定刻の2時間前には現場に乗りこんで待機していたにも関わらず。
・プロジェクターの調子が不調だったのですが、そのプロジェクターを直すことを優先しようとしてくる。これも准教授。事前にプロジェクターの動作確認を済ませておくこと。プロジェクターの不調を理由にミーティングの時間を削らないこと。
・「先行研究を押さえていないのではないか」と指摘したところ、「どの本を読めばいいのか?」と質問してくる。特定の一冊だけをピンポイントで読むのではなく、アマゾンでその学者の名前で検索して、その人の本は全部読んでください。それがプロの仕事です。
・「〇〇さんが言っている批判に似ている」と、まるで既知の問題かのような言い方をされたんですが、批判されたことがあるなら一発で直してください。だらしない。
貴重な血税を毎年東京大学に800億円、学費として渡しているはずなんですが、コスパが悪い。
もともと受験エリートから選抜された集団なので、アンチョコを知ろうとか、できるだけ手抜きをしようと考える癖がついている人たちなんだと思う。
地道に足で稼ぐということをしない。でも本当の教養って、泥臭く手を動かさないと身につかない。
こちらは病人なのに、地元の図書館に通い、本を借りてきて、「ああ、この行に書いてあることは、あの現象と同じことか」と気づいて、そのたびにメモに起こすという地道な作業をしている。めちゃくちゃ負荷がかかる。
当事者研究というのは、プロフェッショナルである職業研究者や対人援助職が、アマチュアである当事者並みに手抜きをしていいということではない。
お給料を頂いて、何か仕事をするということは、職業倫理というのが発生する。その自覚が欠如している。大学改革はもっと積極的に既存人員の首を切っていく必要があると思う。
爆笑するしかないんですが、東大側に当事者意識がない。当事者意識がない=つまり東大話法なんです。私は、十代の時に哲学者からナンパされて、精神科医のまねごとをされて、その部分がPTSDになっていたので、その「哲学者に精神科医のまねごとをさせないでほしい」という教訓をフィードバックするために当事者カレッジに参加したんです。そうしたら、しょっぱなの第一回にまさに哲学者が精神科医のまねごとをした。
「それはやめてください、残りの科研費は国庫返納してください」と言ったんですが、「たいへんな人生を送ってこられましたね」とか「学校に共通の問題かなと思う」と東大話法で話す。爆笑なんですけど、主催した側が「精神保健の増進」という国民的課題に対していちばん当事者意識がなかった(笑)。
とにかく哲学者が使えないという印象。哲学者というのは本質的にファシストなのではないでしょうか? 一昨日もNPO法人アーダコーダが関わるイベントに参加したんですが、議論慣れしている人たちの間で議論したがる。そうすると議論に慣れていないライト層や、主催者の意見とは反対の意見を持っている人は発言できない。「内輪で居酒屋にでも行ってやれよ」と思った。
『幸色のワンルーム』についてさわりしか読んだことないし、ほうっておこうと思ってたんだけど、ドラマ化で叩きが再発というのが本当に残酷だと思ったので、書いてみる。
まず自分は小説家志望の人間で、クリエイター側に寄った意見になりがちになってしまうことは予め書いておく。
(なお自分の作風は『幸色のワンルーム』のような「危ない」ものではないため、作品へのバッシングについては正直に言うと他人事だった。ただ、だから「見捨てよう」と思ったとき、それは残酷なことではないかと考えなおした)
まず対象作品の発表またはドラマ化が悪である理由として挙げられそうなものを考えてみる。(この他にもあれば教えてほしい(⑤はほかの方に教えてもらって追記したものです))
①事件被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
②事件被害者以外の類似した事件の被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
③誘拐という犯罪を美化しており、誘拐を触発してしまう可能性がある
④誘拐という犯罪を美化しており、(家出している未成年など)被害者となりうる者の正当な警戒心を阻害する可能性がある
⑤事件に対するセカンドレイプを正当化するものと解釈されたり、助長するため
上記の可能性を検討する前に、まず罰について、確認しておきたい
確認する。
あなたがたは当該作品の発表またはドラマ化が悪であり、それを罰するために下記のような罰が適切と考えている。
上記の罰は作者の人生を破壊するに充分なものであることはきちんと認識しておいてほしい。
小説は正直に言って仕事をやりながらでも書ける。けれど漫画は創作の手間から、兼業でやっていくのはかなり難しい。人生の時間のうち多大な時間を消費し、途中で別のルートを選ぶことも困難になる。
そういった覚悟はもちろん創作者の側で用意しておくべきことだろう。けれど作品の発表中止を求めるのであれば、それがどういった影響を他者の人生に及ぼすのか――特に同様の観点で作者や作品を批判するのであれば――認識しておくべきだろうと思う。
誰かの人生を破壊するから批判はやめろと言いたいのではない。逆だ。あなたには絶対に、「これはだれかの人生を破壊してでも中止させなければならない」と確信してもらいたいし、たぶんそうあるべきだ。でなければ、ほんとうに残酷すぎる。せめて覚悟をもってください。
さきに挙げた①、②はもっともな批判だと思う。そういう可能性は実際にあるし、そうやって被害者の方が傷付くのはまったく看過できない。
意外かもしれないけど、この点について少なくとも自分はまったく擁護の術を持たない。
(一点だけ気になる点があるとすれば、多くの場合、批判者自身はこの「被害者」に該当しないこと。被害者がセカンドレイプやバッシングを受ける可能性を考えると、こうした「代弁」は非常に重要なことであるのは確か。
けれど例えば(正直に言ってかなり考えにくいと思うが)当の「被害者」に該当する人が作品のファンであったり、または発表の中止までは求めない場合、こうした処罰の代行が被害者を苦しめてしまうことにならないか、ということが気にはなる。
ただ、「代弁」をしない場合のデメリットや上のような事態の可能性の多寡を考えると、やはり代弁をやめるべき理由にはおそらくならない)
というわけで、①、②の理由から作品の発表やドラマ化の中止を求めるのは不当だ、という結論は少なくとも自分は導けない。
ただしその場合、お願いしたいのは、絶対に①、②のような可能性を真剣に考えて、真剣に徹底してください、ということです。
当たり前のことですが、①、②は誘拐に限りません。あらゆる犯罪や災害の被害者にありうることです。そしてこの基準に触れている作品は世のなかにかなりあります。
もちろん時代もあります。いまほど創作物に求められる倫理的水準が高くなかった時代の作品には残念ながらこうした危険をはらむものが存在します。
そして注意してほしいのは「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というエスケープは後述する③、④には適用できても①、②には適用できないことです。
作品が悪として描いていようが、美化していなかろうが、フラッシュバックや、被害者が傷付く可能性はなくなったりしません。
お願いですから、①、②の理由で作品を批判するなら、ほかの作品に対しても(もちろんあなたの好きな作品に対しても)徹底してください。その方法はお任せします。作品をクズだと思うのでも、ゴミだと思うのでも、発表中止を求めるのでも。作品によって対応が変わることももちろんあるでしょう。けれどお願いですからあなた自身が絶対に正しいと思えるやり方で、徹底してください。あなたが正しいと思えない基準によって、ひとつの作品が消し去られ、作者の人生が崩れてしまうのが、いち創作者として本当に耐えがたいのです。
③、④の可能性についてはいわゆる「ゲーム脳」などの「創作物が犯罪を誘発する」タイプの言説を抜け切れていないと感じる。
ここでもう一度確認しておきたいのは、あなたがやろうとしているのはだれかの人生を破壊する可能性があるということ。推測によってだれかの人生を破壊して、あとで(あるいは永遠に結論はわからないのかもしれないが)「間違ってました」では済まないということ。
③、④についてはできれば科学的あるいは統計的な根拠があった方がいいと思います。作品の擁護のためではない、だれかの人生を破壊しうることを実行するなら、その根拠となる推測が正確であることを確かめてからやるべきだと思うからです。
不正確な推測を根拠にだれかの人生を破壊するというのは、残酷なことだと思います。
そしてもちろん、③、④についても①、②と同様、真剣に考えて、真剣に徹底してほしい。
「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というのも、ただ自分の好きな作品だけ免罪させるための言い訳として使うのはやめてほしい。それは不当なことです。なにかを罰するなら、お願いですから、その正しさを信じ抜いて、貫徹してください。お願いします。
⑤についてはほかの方(anond:20180324003900)から指摘を受けたので追記した。
ただし正直なところ、単純にディベート的な命題の強弱のみを考えるなら、⑤は①、②の下位互換でしかないように思える。
作品がセカンドレイプをエンカレッジしたり助長するものであるより、作品そのものがセカンドレイプであるほうが、より悪であるということになるだろうし、より強い批判ということになるだろうから。
加えて⑤の場合は①、②よりも批判者(つまりあなた)がより際どい位置に立たされることは意識しておいてほしい。
⑤の場合、作品そのものはあくまでセカンドレイプ的言説に利用・悪用されたに過ぎず、悪いのはあくまでセカンドレイプを行う者たちであり、作者はそこに含まれない可能性があります。
その場合、あなたは作者本人は悪くないにもかかわらず、人生を破壊しうる処刑をくだすことになります。わかりやすく言えば、あなたが逆に「加害者」となり、悪側の立場に立たされる可能性もあるということです。(もちろんこうした可能性は①~④にもあります)
もちろんこれは仮定の話です。だからこそ、何度もお願いしますが、絶対に正しいと確信して作品の発表中止等を求めてください。それはあなたが悪や加害者にならないために必要な努力であるし、同時に不当に消し去られる作品やだれかの人生をなくすための手順です。
そしてもちろん、その正しさを真剣に信じて、真剣に徹底してください。お願いです。
言いたいことはだいたい以上です。長くなってしまいました。すみません。
創作者あるいは創作者志望にとって、創作は往々にして、人生をまるごと賭け金にした、自分の人生そのものの価値を左右する重要なことです。(もちろんそうでない人もいますが)
ただしそうしたある種ヒロイックな比喩でもってして、だれかを傷付けることを正当化することはもちろんできません。
けれど、そうした重みをもっている物事を、そうと知らずに軽い気持ちでゴミ箱に捨て去られるのは、正直にいって、耐えがたいです。
現在ある『幸色のワンルーム』への批判がそうした軽々しいものであるというわけではありません。ただせめて、「そうでない」ことを確認させてほしいと、思いました。
ドラマ化というのは、作者の方にとって本当に嬉しい知らせだったと思います。そうしたときにやはりまたバッシングを受ける。
ならせめて、そのバッシングだけは正しいものであってください。お願いです。本当にお願いです。正しくないバッシングによって、ドラマ化の知らせを受けた矢先に中止になるなんて残酷なことは(ありがちなことなのかもしれませんが)本当に起こってほしくないんです。
まずひとつ、私は個人的な考えとして、あらゆる創作物に対して、その客観的な価値をだれかが決められるとは思っていません。
したがって anond:20180321152456 の方の下記の記述は正当ではないし、余計だったと思っています。
まずこの方は上記の文に続いて作品の欠点を挙げられていますが、作品の欠点を列挙することが作品の「レベル」の判断になるとは自分は考えません。作品の欠点を美点が凌駕することは往々にあることだし、その美点は「自分にはわからない部分にある」のかもしれないと常に感じるからです。
またご本人が「持て囃された理由」として「「家族からの逃避と二人だけの世界への耽溺」というテーマが、思春期の少年少女や一部の人間に心地よいものだったから」を挙げられています。程度の低い理由として挙げられたのかもしれませんが、個人的な意見を申し上げれば、これは充分にすごいことですよ。
蛇足ふたつめ、
私はどこかで『幸色のワンルーム』の作者の方が女性で、若い方だと見たような気がします。(今回その情報を探してみましたが、見つかりませんでした。正確な情報ではないかもしれません)
そうした先入見が本件への自分の姿勢に影響を与えた可能性は否定できません。当然ですが、そういうことはあるべきではありません。もしそうだとしたら、反省点です。
女性が守られるべきであるとかいった考えは、フェミニズム的でないというよりその正反対だと考えるべきでしょう。もちろんそれはわかっているのですが、若い女性が漫画家としてデビューし、その後バッシングによって漫画家をやめることを余儀なくされた場合、その後の困難さが男性の場合と比してより困難であるというような「想像」が、今回の筆致に影響を与えなかった確信が持てず、そしてそれを隠すのは誠実な態度ではないと考えたため、蛇足ながら書いておきます。
「精神健康の増進」という国民的課題に対して、いちばん当事者意識がないのは東京大学でしょ。
初回のオリエンテーションからひどかった。フィンランドの精神療法のリフレクティングというのやらされました。
こちらは援助職じゃないんです、当事者なんです。当事者に精神療法をやらせる。無茶振りもいいところです。
回りくどいことをやらせずに、ストレートに話をさせ、来たことを褒めてくれれば、いちばん精神衛生にいい。
協働というのは、来ただけでエラいので。自腹で来ているだけでえらいんですから。
ミルグラム実験を思い出しました。閉鎖的な環境下での学者の心理実験には要注意。
非人道的だと思ったら外部に助けを求めること。ぜったい密室にさせないこと。
向こうは「場の安全」とか言いますけど、いちばん危ないのは君たちでしょ。
倫理委員会に「一般から募集した障害者に対して、ミルグラム実験のようなことをやらないでほしい」と相談しました。
しかし倫理委員会によれば、監視対象は研究(主に医学部で行われる)なので、学習は対象外との回答。これはおかしいと思う。
一般から募集した障害者というのはいちばんストレス脆弱性が高い層なので、注意深くあるべき。
第二回からは冒頭で「気分が悪くなったら休んでください」というアナウンスが入るようになったので、多少は気合が入った様子でした。
本当は保健所とか、労基署とか、独立した外部機関が入った方が、ガバナンスとしては正常だと思う。
精神障害者から身体障害者まで、あらゆる障害者を募集しちゃった。
小学校でも、普通の小学校と特別支援学校とでは必要な教員免許がちがうわけですが。
受講生が生物学的に耐えられるかどうかではなく、自分たちの都合(政治的な正しさとか)を最優先した。
いつもの駒場の論理で盛りだくさんのカリキュラムを組み、つめこみ教育をやった。
自分たちは日本でいちばんの大学の教員だから、指導力があるはずと奢っていたんじゃないですか。
一流大学の教員に指導力なんて求められない。応募してきた学生を振るい落とすのが仕事だから、誰だってできる仕事。
生徒ひとりひとりの個性を見抜いて、褒めて伸ばすなんていうことはできない。
受講生同士の横の人間関係を育てるという視点が欠落。ホームルームや学級会に相当する時間をまったく設けなかった。
エビデンスを認めない。文科省の報告書でも「実証」という言葉で叱責されていますが、理屈にこだわる。
建前を向こうは並べ立ててくるんですけど、こっちは体でストレスを感じている。エビデンスベースドで話が進まない。
安冨歩さんの『原発機器と東大話法』を読んでいるんですが、この本は東大人の行動を理解する上で示唆に富んでいると思う。
「対人操作をやる」というのは納得。
交渉力が高い。雄弁・多弁で、すごいしゃべります(文科省は「対話」という言葉で叱責)。感受性は低いです。
それってパワハラなのよ。
「都合のいい福島県民」を見つけてきて、自分たちは東大話法でちゃっかり傍観者を装う。
ただでさえややこしい福島に、ややこしい東大文系が近づき、もっとややこしくする。
そうやって生成された摩訶不思議な「哲学論文」とやらを英訳して海外に発信。
中身を少し読んだが、自己満足の作文って感じだったので、そっ閉じした。
私たちの税金は社会の中でこんなふうに「有効に」生かされているっていうわけ。
昨年11月から始まって、あと2回あるんですけど、私は離脱します。
私は「学者の社会的責任」の当事者。10代のときに年上の学者と関わり、精神科医のまねごとをされて、PTSDを負いました。
「哲学者に精神科医のまねごとをさせないでほしい」という大切な教訓を教えるために東京大学に足を運んでいる。
「学ぶことはすばらしい」みたいな価値観を吹き込んでいるが、モンスター高齢者・モンスター障害者を育てない。国民の義務は勤労(憲法27条)と納税(30条)。
振り返って、全員が勉強すべき内容は何だったか?…憲法と経済学。
沖縄の子どもの貧困率は29.8%。子どもが貧困にあえいでいるのに、都市部の高齢者が東大の先生の話を何度も聞いている。
原発と同じで世代間倫理の問題。年寄世代が作った放射性廃棄物を若い世代が押しつけられる。
必要なのは合理化。やたら「変われ変われ」と言われるんだけど、国立大学法人改革つーのは「お前らが変われ」ということ。お前らが変われ。
文科省科学技術・学術審議会 平成21年1月20日『人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道』
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/attach/1246379.htm
(1)独創的な研究成果の創出…独創的じゃないって
(2)歴史や社会に根ざした研究活動の展開−日本で創造された知への関心…浮世離れしてるって。海外のマネばっかりだって
単純にこれは、男性女性の問題でなく作品の解釈の取違いというだけでないだろうかというのが私の主張である。
いやアナ雪見てないんだけどさ。
というかヤバミ漂う3人を「男」としてとらえた記事を書いておきながら、女性専用車両等のジェンダー問題において述べられる男性性が「男」のすべてを述べているわけでない、というのはちょっとどうなのか。つーか、規範化だとかそういうの、ちょっと男性に適用されないのかなとか思っちゃう。被害性がそうであるように加害性も規範化されうるものだと思うけど。
ちなみに、男性には加害性が含まれるという前提で書かれた記事やブコメは存在する。ググれば出てくるでしょ?実は嫌われ者のはてこがそれに反駁する記事を書いていたりするのを私は知っているんだ、ググったから。
さてまあ、記事中の重箱の隅をつつくのはマナー違反として、そこにさらに他人の解釈にケチをつけるという逸脱を重ねるのもあれだが、私なりのアナ雪の解釈を述べたいと思う。いや、見ていないんだけど。
アナ雪の特徴として、前半で提示された聞こえのいいことが、どんどんと覆され、結局、前提とされていたコアな部分。つまり、例えば女性が女性を肯定し、女性性を肯定する関係性についてや、好きなものに従事するということが肯定されるという仕組みを持っている。
例えば、えーっとハンスだっけ?あれは悪者なんでしょ、あいつが。それで、アナだよね?茶髪のほう。あれと共通点を歌う曲があるわけだけど、あれは、恋愛工学者だったりナンパ野郎だったりが使う手法だよね。聞こえはいいんだ。歌詞を考えると、うわー胡散臭いってなるけど、それを補う程度に曲が明るくていいんだ。そして同時に、でも、やっぱり胡散臭いよねってわかるような塩梅になっている。
この曲は構成上、ありのままの奴よりも先に流れるんだと思うんだけど、なぜかっていうと、ありのままのの曲も同じように『聞こえがいい曲』だからだ。
ありのままのをうたったエルザは、その時点において問題役を引き受けている。それは、エルザが最初に引きこもっていたときと同じ。問題役というのが自分の本質ならば、ありのままでいようというのがあの歌の内容であり、これは作品世界で常に否定され続ける考え方である。
しかしながら、なぜかこの映画は、その“ありのまま”という部分だけが評価され続けていて、それってつまり、ディズニーが用意した聞こえの良い胡散臭い歌に対して共鳴し、その先について考えないという態度に思えてくるのだが、これに文句を言い続けてもしかたがない。
そして、くだんの問題である。この映画は何を悪とし、何を問題とし、何を解決法とするか。
よくある、というか件の3人と元増田はそうと解釈しているのだが、悪はハンスのような態度であり、問題はエルザを閉じ込める機構であり、解決法はそのドアを開けることである、というものである。これは間違っている。
また、ハンスのような人物が否定されるのを今更議論するのもどうなのよ、と思ってしまう。それって美女と野獣で語られたことじゃない?というかディズニーには定期的にそういった悪役が登場する。つまりマッチョイムズ全開の男で悪役で、しかし、根っからの悪役とは言えない奴のこと。それは男女に依存しない。実のところ、そうやって物語を重層的にするのは、一般的な脚本の手法であるのだが、この映画はどうも“ディズニー映画の中でも特にフェミニズム”を意識した映画なので、彼は悪役である、という、まあそうだろうな、というところばかりに着目される。
そうなると、この映画の問題点とされている部分が浮かび上がってくる。それはつまり、否定されたハンスに対してクリストフは肯定されていないんじゃないか。これが、くだんの3人の胡散臭いゴミが語った内容と思われる。読んでないけど。で、元増田もそういった役割は終わりと書いている。前半しか読んでないけど。
ここにすれ違いがある。そもそも、この映画はフェミニズム的な要素があるものの、それは経済的な事情により付随したものであり、この映画が語ったのは別の問題なのではないだろうか。
加害性といわれるような力を持つ存在が、その力の使い方が下手だったりわからなかったり、あるいは、そういう加害性こそが素晴らしいという世界に育った人間の力の使い方についてこそが問題というのが私の解釈だ。ハンスもエルザも悪役や、問題にとらわれた存在でなく、彼らの力の使い道が問題なのだ。問題の持ち主が、悪役、というわけでないのに死ぬ映画は、割とよくある。純粋悪であることがすがすがしいといわれるほどありふれたテーマだ。にも拘わらず、この映画については特別にハンスのような態度が悪であると曲解される。それは結局のところ男性性は悪である。性に奔放であったり、あるいは、性を利用して利益を得ようとすることは悪であるという聞こえの良い言葉に騙されているからにすぎない。この映画でハンスが死んだのは紛れもない、私たちは女性をエンカレッジするという意思表明でしかなく。実際の映画の内容としては、女性と男性、問題と解決、というマトリクスに適用された結果なのだ。ちなみにハンスが死んでなかった場合は劇中にて改心して去ったか、あるいは改心することなく物語を終えるの2パターン考えることができるが、結局のところ死んだも同じなので議論しない。
さて、問題なのはクリストフである。この映画の最大の欠点であり、もっともセクシーなキャラクターである。ちょっと想像してほしい。例えば、あなたの知り合いが、仮に自分に興味のないことだとしても、目を輝かせて熱く語ったら、それはキュンとするだろう。私はする。しかしながら、彼は劇中で、どうも評価されないようである。それは元増田や、例のno.1、no.2に続く子供言葉として使われていくであろうno.3の三人組の共通の解釈だ。これはとても、大きく間違っているし、製作者もそれくらい誤解されることを意識しとけよな、という感じ。彼は、そのままでいいという態度が終盤で評価されているわけでない。彼は作中で延々と評価され続けている。ただ勇気ある行動の称賛として―おそらく、彼の価値観のなかでうれしい出来事が起こるのだろうが―彼にうれしいことが起こるのだ。
この延々と評価され続けることこそが、何が正しいのかを不明慮にさせるという点で、あってはならないことなのだが、アナ雪では、女性をエンカレッジするために、男性がないがしろにされてしまったのだ。その点では、解釈は違えども、あのくそ雑魚3人に同意する。
つまり、女性と女性の問題解決は成立したにもかかわらず、男性と男性の問題解決は提示こそされたものの成立しなかった。こんなもん当然誤解を生むだろうに、ディズニーは気づけなかった。愚かさ若しくは経済的な理由でだ。
クリストフはとても魅力的なキャラクターで、彼にその気があればお付き合いしたいくらいだ。抱き心地もよさそうだし、なによりあったかそうだ。彼の目は車について語る硬派なヤンキー張りにキラキラしていて魅力的だ。いやーときめいちゃうよね。
だけれども、そういった輝きを作中で表現できていただろうか。おそらくできていない。彼はこの物語で元増田にさえ“脇役”としか見られていない。それは、彼がハンスを救えなかったということにつきるのではないだろうか。
この物語では、問題点こそあるものの悪そのものは存在しない。救えるという物語であるのに、彼はハンスを救えなかった。この物語の文脈上、彼は悪役か脇役にしかなれないのだ。彼の輝きは、彼を悪役でなく脇役として持ち上げる程度にしか役立たず、決して主役に持ち上げることはなかった。決定的な欠陥である。
ただし、それはクリストフを悪役に貶めようとしたわけではない、ということを最後に語りたい。例えば、パトレイバーの重さんや、ノアはオタクでそれぞれ男女であるが魅力的なキャラクターに仕上がっているし、重さんを脇役と思いこそすれ、クリストフと同じような悪役にならずに済んだ脇役と解釈するものはいないだろう。それはパトレイバーがお仕事物で、お仕事に熱中するものを肯定する前提があるからだ。なんにしてもオタクは素晴らしい。熱中は熱とともに光を発する。だから、クリストフはそう描かれ続けたことによって、制作者は“肯定した”と思い込んだし、実際、否定されているわけではないので、客観的に見ればそう解釈することは可能なのだ。
とはいえ、男目線からみれば、当然、男らしい提示された男は死に、男らしさのない自分もその陰となる男らしい自分を救えないという絶望的な内容で、アナ雪は男女に切り分けると当然残酷な物語になる。
ちなみにスコットピルグリムの漫画ではこれをかなり直接的な内容で描いていてとてもよい。
さて、まとめるとディズニーの失敗は3点で、
1.男女それぞれに、問題役と解決薬を用意した(安直な解決法による分断をしてしまった)
3.男女それぞれの問題役、解決役の最後をゆがませてしまった。
というあたりだろう。もろちん、ちゃんと観てみれば問題点をより精査できるのであろうが、観ると胃袋がもたれそうなのでこれが限界である。
ともかく、女性が女性を救うだとか、男性が男性を救う、というのは、ある程度の不都合を棚に上げ団結しやすいから、でそれ以上の意味はない。当然、女性が女性らしさを捨てるだとか、男性が男性をすてるだとかも同じようで、都合がいいだけなのだ。どうも元増田はTEDのあれのリンクをはっているが、あれだって、利益があるという、不都合を棚に上げた、聞こえの良い話だ。仕事を休みたいときに休んだり、ちょっと将来に心配な貯金額で仕事をやめ畑にいそしむものを落伍者というように、われわれは、本来の望み通りに動いているものを評価することができない。むしろ否定したりする。男性被害者のことを考えず痴漢をしない男性をも犯罪者として疑う機構の女性専用車両だってそうだ。痴漢でなくとも、例えば、優先席に座らない健常者をどう思うだろうか。普通?当たり前?当然?別に評価する必要はない?
我々はわかりやすさに支配されている。優先席に座らず立つ人間より、優先席に座っていたが譲る人間を評価する。そうであるより、そうなるほうを評価しがちだ。
ただし、私としてはそういった都合の良い傾向を否定したい、というわけではない。
下記はKSKカレッジを辞めてすぐに怒りに任せて書いた、そこの感想。
「kskカレッジ 評判」、「kskテクノサポート 採用」、「kskテクノサポート 研修」とかググっても良いことばかり書かれている記事しか見つからない。
それはおかしいので、あの地獄の真実についてネットの隅にでも記録を残して置くことにした。
kskテクノサポートの研修が、本当に地獄であるということについて。
感情を抜いて綺麗な文章にしようと何度かリライトしたが、どうもそれは無理みたいだったので、そのままの形で投稿することにした。
最終的にwebエンジニアになってIT業界にいるから、ここの異常さが本当によくわかる。
第二新卒ナビ経由とかでここに売られようとしているなら、やめたほうがいい。
SESの大半は、エンジニアを派遣して企業からもらう契約金の大半を中間搾取するというもの。
あなたが働いて稼いだお金は、月に1回帰るだけの会社の施設や人格に問題のある講師たちを養うために使われる。
あとはエンジニアは本当に人手不足なので、未経験でも自社開発の会社に入れたりもする。
僕はそんな感じで今はフルフレックス、リモートワーク可の会社で働いてる。
頭のおかしい講師たちに「社会人として」を押し付けられて、ネズミ男から人間力(笑)を養ってもらうか、自由な環境で楽しく働くか。
UZUZに格安で売られそうになってるみなさん〜
面接練習では「不況でもエンジニアは安定して」みたいなこと言う練習はしてるかな?
人財開発部(笑)の財津さんに詰められて「辞退した」けど、今では大企業の新規事業チームで毎日楽しく働きながら、同時に起業もしたりしてるよ〜
インフラなんてつまんないしここは最悪だし、UZUZもしょうもないから、「自分がなにをしたいのか」を考えて行動しな
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
かつて僕は2014年10月16日入校として、株式会社KSKテクノサポートという特定派遣の会社で研修を受けたことがあります。
でもその研修を受けている時点では、
アルバイトなどで働けるわけでもない。
稼ぎないのにどうやって生活しようか…?
そんな心配は無用です。なんと慈悲深き株式会社KSKが、住居と食事を提供してくれるというのです。なんてありがたい!
しかし、実際はそんな上手い話もなく…
タダで住める寮は、めちゃくちゃ汚い。マジで。
僕は築25年のマンションに住んでますが、そこと比べてもずっと汚い。古い家の匂いがして、そこにいるだけで気持ち悪くなるレベル。これなら定期を買って通勤した方がマシですが、残念ならがらそれは許されません。
ご飯はというと、豚の餌。
くっそ脂っこい揚げ物だらけの弁当を昼と版に支給して頂けます。
向こう側としては「食べさせてやってる」という意識なのですが、恩着せがましいにも程がある。
あれなら自分でお金払ってでも自分で買って食べた方がずっとマシなレベル。
その豚の餌(昼食)はプレハブ小屋みたいなとこで食べさせられます。
そこに入る際は「○月○日から研修を受けさせて頂いております、○○と申します」とか言って入らなきゃいけません。
さて、そんなKSKカレッジですが、特に素晴らしいのはあそこにいたとても立派(笑)な社会人としての先輩であられる講師の方たち。
ここの講師には嫌な奴しかいません、こっちが反論出来ないことをいいことに。
その最初の一言は私は転職経験は一度もありません」という言葉。
これを誇らしげに言うんです。今の時代、転職経験なしを誇らしげに語るのか…。
もうこの時点で僕はこの先、自分はここで楽しい思いを一切出来ないことを悟ったね。そしてその先生のありがたい自己紹介は続いて
「今の携帯電話の5000分の1は私が作ったものだと思ってます」とのたまいました。
他社に売られることによって生計を経ててきた派遣エンジニアの哀愁を感じたね。「ここにいたらいけない」とかなり強く感じた。
この先生の格言はまだいくつかありますが、特に彼が気に入っていた言葉は
「挨拶を出来ない子が中身を私の見てくださいとか言うことがあります。でも、切ったところで肉しかないんだから」というもの。
これは彼の決め台詞みたいなもので、短い滞在中、何度も聞かされました。
他にもKSKカレッジでは人間を家畜化するありがたい、ねずみ男みたいなチビによる人間力講座なんかもあるよ!
僕には到底、彼に人間力があると思えませんでした。「こいつを反面教師にしなさい」という意図なんでしょうか。
ちなみにこの授業で使う教材はあの名著「生き方」。この時点でお察し。
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第五回の講師の向谷地生良さんは、その当事者研究の第一人者みたいだから、その人に連絡してみたら?
http://bethel-net.jp/?page_id=20
https://twitter.com/bethelnoie
この記事に出てくる株式会社scovilleという会社名に聞き覚えがあったのでLINEグループで聞いてみたところ、エンカレッジという就活団体を運営している企業だった。
うちの大学でもイベントをやったりしているらしい。そう言えば勧誘してくる人がいたな。
更に色々聞いていくと、小学館のサイトだけでなく自社でも学生を使ったキュレーションサイトを運営しているという話が出てきた。
ところが、今回の件で察したのか既にメンテナンス中。Googleのキャッシュを見ると...なんだろうこの既視感のあるサイト...
サイトの運営者情報が一切書かれていないので、どこが運営しているのか分からないようにしている。"Reineについて"という部分もリンクされていない。
キュレーションサイトと言えばクラウドワークスだと思い見てみると、こちらも慌てて取り下げたようだが同じようにGoogleのキャッシュが残っていた。
キャッシュでは名前がhoosooiとなっているのに、今はyamadahanakoに変更されている。最終アクセスが4日前という事は例の記事が出た日だ。対応が早い。
https://coubic.com/intern_scoville/185191
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:j86n_BcRO_QJ:https://coubic.com/intern_scoville/185191+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp (念のためGoogleのキャッシュ)
こういったサイトが見つかった。安直な名前の付け方だったようだ。
情報科の友人が言うには上記のキュレーションサイトの特徴から他にもscoville社が運営しているのではないかと思われるサイトがいくつか見つかったそうだ。
ただ、reineというサイト以外は言質が取れていないので掲載は控えておく。
就活する中で、IT系の大手やスタートアップの人と話す機会は何度かあったが、社会的責任という観点があまり無い方が多い印象だった。
キュレーションサイトやメディアサイトを何のために作成するのかと言えば、ページビューを集めて広告やアフィリエイトで儲けるみたいな話ばかりで、
そのサイトに掲載する情報が誰の何に役立つのかという観点で熱く語る人は誰も居なかった。
クラウドワークスで集めた有象無象の人達や学生インターンに1文字1円以下で書かせた記事に何かを求めるのは酷なのかもしれないが。
IT系スタートアップで事業創造する!みたいな事を言う人が周りにもちらほらいるが、入る会社を間違えると貴重な20代前半を失う事を知ったほうが良いと思う。
少なくとも上記のようなキュレーションサイトを事業創造というのであれば、それが何の課題を解決していて、誰の役にたっていて、人に誇れる仕事なのかを聞いてみたい。
ラーメン大学、麻雀大学、キャバクラ大学などの大学を名乗る違法な教育施設は後を絶ちません。このたび、違法な教育施設シリーズに新しい仲間が加わったようです。
第一条 この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。
第二条 学校は、国(国立大学法人法 (平成十五年法律第百十二号)第二条第一項 に規定する国立大学法人及び独立行政法人国立高等専門学校機構を含む。以下同じ。)、地方公共団体(地方独立行政法人法 (平成十五年法律第百十八号)第六十八条第一項 に規定する公立大学法人を含む。次項において同じ。)及び私立学校法第三条 に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)のみが、これを設置することができる。
○2 この法律で、国立学校とは、国の設置する学校を、公立学校とは、地方公共団体の設置する学校を、私立学校とは、学校法人の設置する学校をいう。
第三条 学校を設置しようとする者は、学校の種類に応じ、文部科学大臣の定める設備、編制その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない。
第百三十五条 専修学校、各種学校その他第一条に掲げるもの以外の教育施設は、同条に掲げる学校の名称又は大学院の名称を用いてはならない。
○2 高等課程を置く専修学校以外の教育施設は高等専修学校の名称を、専門課程を置く専修学校以外の教育施設は専門学校の名称を、専修学校以外の教育施設は専修学校の名称を用いてはならない。
○○○○○カレッジ、○○○○○キャンパス、○○○○○学園、○○○○○塾、○○○○○学院、○○○○○教室などにしておけば、学校教育法に抵触せずに「法令遵守」できるかと思います。学位の取れない専門学校さんは、注意深く一条校に該当する校名をさけています。
金曜日に、ホッテントリに↓の記事が上がってて、読んだ人は多いと思う。
4ヶ月で大学を中退し起業します。レールに沿ったつまらない人生はもう嫌だ。
http://www.ishidanohanashi.com/entry/2016/09/15/193000
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.ishidanohanashi.com/entry/2016/09/15/193000
40年前ならヒッピー、30年前なら新興宗教、20年前ならマルチ商法、10年前ならバックパッカーやってたような層が2016年にやるのがブログで起業なんだろな
「おかしなセミナーにハマった息子が起業するとか言って大学を辞めてしまいました」 そろそろ被害者の会が結成されそうな予感(ワクワク)
おいおい。楽な方に楽な方に流されてるだけじゃん。挑戦でも何でもない。ただの逃避だ。あと書いてる事が全てポエムでしかない事に気付いてるんだろうか。
煽りブロガーにいいように洗脳されてるように見えて、個人的にはモヤモヤするなあ。皆似たようなこと言って同じようなことやってるから区別がつかない。
意識高い高いし過ぎて、胡散臭い人脈にハマってしまったようだな。なぜ起業と中退がワンセットなのか、学生のまま起業すれば良いじゃ無いか・・・
まあ俺も、この人が成功しそうには思えないし、痛々しいなぁって思うよ。
レールに乗りたくないっていうけど、名前もきいたことない大学に入ってる時点でこいつはまずレールに乗れてないからな。
それに、「挫折」体験とかいうのが高校の部活の話で萎えた。しかも何が挫折なのかよくわからんし。企業の就職面接における自己PRで「サークル」の話をしても、じつは採用担当には全くウケないわけだけど(とはいえサークルとバイトぐらいしかネタがない学生が大半なんだけど)、多くの大学生は世間を知らなくて、その話題が社会人にとっていかにつまらんかを想像できてない。そこへきて高校の部活かよ、と・・・。
他にも言ってることがいちいち、凡庸そのものなわけ。ブログカレッジ()界隈の定番クオリティって感じ。
それでブコメで叩かれるのはよくわかるんだ。
でもよく考えたら、俺だって18歳の頃は似たような感じで迷走してたわ。
高校はけっこう偏差値が高かったんだけど、大学いくのダルかったから、卒業後は微妙なIT系の専門学校にいって時間つぶしてた。
IT系っつっても、俺は起業とかはまったく目指してなくて(今みたいにWebサービスとかスマホゲームのベンチャーみたいなわかりやすいモデルもなかったし)、言うのも恥ずかしいんだけど、漠然とゲーム関係のクリエイターのようなものか、つながりが変なんだけど作家みたいなものを目指してた。今は自分でもバカだなって思うし、むしろ意味分かんないぐらいなんだけど、とにかくそんな感じだった。
でも大した努力はしてなかったね。要は、面倒なことから逃げてただけ。そして努力から逃げるための言い訳として、「他のやつと同じように無難に大学行って就職するなんてダサい」みたいな妙な美学が自分のなかにあったんだよね。
その時のマインドは、けっこう↑のやつと似てるかもww
まあ似てないかも知れないけど、安易に↑のやつをバカにできない程度には痛々しい若者だった。
違うところがあるとすれば、もともと勉強はできるほうだったことと、周囲に埋もれるタイプではなかったことかなぁ。
ただそれも俺の場合は悪い方に出てたね。タチが悪いと自分でも思うんだけど、それなりに偏差値の高い高校を出てるから、心のどこかで専門学校の周りのやつらを見下してるところがあった。地元の専門学校だったから、俺の高校名を聞くとだいたいみんな知ってて、「えっ、その学校からなんでここに?」みたいなことを言われる状態。しょうもないけど、ちょっと数学っぽい話になったときとか、難しい漢字が出てきたときとか、俺しか分かる奴がいないみたいな場面がたまにある感じ。
そうすると自分がなんとなく、選ばれた人間みたいな感覚を持ってしまうんだよね。しかも、もともと小さい頃から「あいつは変わってる」みたいに言われることが多くて、要は個性的な少年だったこともあり、「俺はとにかく、何かで成功するはず」みたいなイメージを持っていた。
高校の同級生は、旧帝〜駅弁ぐらいまで幅はあったけど、まあふつうに大学に行ってて、たまに集まると俺は何をしてるんだという話になるわけだけど、「変な道に進んでるけど、俺はこれでいいんだ」みたいなことを語ってた気がする。
しかしその学校に入ってしばらく経つと、自分には特に目立った才能がないことがだんだんわかってきたのと、「努力から逃げているだけ」ってことにも気付いてきて、焦りを感じ始めたな。あの頃は苦しかった。同じ学校の、バカにしてた同級生がなんかのコンテストに入賞したというのを知ったり、同じくバカにしてた先輩がけっこういい会社に就職したと聞いたり。
それで俺の場合は、↑のブロガーのように起業とかをするのではなく、色々考えた結果、レールに乗り直す方向に行きました。
学校は中退して、受験勉強して大学に行くことに。さすがに私学に行くのは親に悪いと思って、実家から通える国立に行ったんだけど、専門学校の入学金とか授業料ってけっこう高かったから、親のスネはかなりかじった感がある。
↑のブロガーは大学がつまらんと言ってるけど、俺の想像ではそれは偏差値の低いところに楽して入ったからであって、ほんとは大学ってけっこう凄いところなんだよね。いろんな専門の人がいるし、教授の中にはその分野では世界的に有名な人とかもいるわけ。
それに勉強って、やり始める前はダルいんだけど、やってみるとどんどん視界が広がってきて、あれも知りたいこれも知りたいってなるんだよね。
「レールに乗る」とかいうけど、一回乗ったら終わりじゃなくて、案外「乗り換え」のタイミングが何度もあるんだよ。そして大学に入った後のレールって、1番線から3番線みたいな狭い範囲じゃなくって、100本、1000本って単位であるから、ほんと自由だし、自分自身の工夫や努力やリスクテイクが試される世界だと思う。
さっき偏差値が低い大学をバカにしたけど、偏差値が低いところでもある程度以上まじめにやれば、似たようなもんだと思うわ。
それで俺は結局、親のスネをさらにかじる方向、つまり大学院にも行くことにした。修士で就職するかどうかは迷ったけど、結局博士課程まで出て、今はそこそこの大企業で材料系の研究職についてます。博士課程ぐらいまでいくと、レールに乗っても電車は勝手に動いてはくれないというか、レールが途中で切れているような世界だから、もはやレールに乗るとか乗らないとかいう概念はどうでもよくなって、努力するしかない。
就職したときもさ、そりゃ起業する人に比べれば安全な選択肢だったかもしれんけど、レールに乗ったまま楽に進んできたとか、レールに沿って決められた行き先に流されるように辿りついたという感覚はなかったなぁ。そして今も今後もけっこう競争があるから、気を緩められない。
振り返ると、高校卒業時に「レールに乗りたくない」と思って大学受験を回避し、これはまずいと思って「レールに乗りなおそう」と大学に行き、行ってみたら「レールが多すぎてカオス」な状態を経験し、しかも自分で選んだレールを少し進んでみたら「レールに乗ってても電車が進まない」、そして「レールが途中で切れている」みたいな世界に至って、ぜんぜん安易ではないところに来てしまったわけです。
なんていうかさ、冒頭のブログ主がいうような「レールに沿ったつまらない人生」って、どこにあるんだよって感じがするわ。
冒頭のブログとそのブコメを読んで、俺がまずブログ主に言いたいと思ったのは、「レールに沿った人生」ってそんなわかりやすいものはどこにもねーよってこと。
このブログ主は、大学に行って企業や役所に就職する人たちを「レールに沿ったつまらない人生」とか言ってバカにしてるかもしれんけど、それは視野が狭い。大学に行って就職するのって、そんな単純なものではなくて、いろいろな自由や不安や試練があるものなんだよ。俺は研究職だけど、事務職でも営業職でも、付き合いのある範囲で聞いてると、同じように自由や多様性があるように思える。
それでブコメの人たちに言いたいのは、「べつに18歳ぐらいなら血迷っててもいいでしょ」ってこと。俺は↑のブログ主が、起業で成功するとは思えんよ。まぁよく知らない人だから、ひょっとしたら成功するかもしれんけど、直観的にいえばこいつはダメだろう。
だけどまだ18歳だぜ。このぐらいの年齢で多少血迷ったことを考えるのはむしろ健全なことだと思うし、俺みたいに後からレールに乗り直す道だってあるんだよ。社会人になってから大学や大学院に行く人だってけっこういるでしょ。
ブログ主を叩いてる人たちだって、多かれ少なかれ若い頃に迷走してるんじゃないかと思うし、むしろ迷走した経験のないやつの人生なんて厚みが足りないとすら思うよ俺は(半分は自己正当化だけど)。
双方に言えるのは、キャリアって今の日本でもけっこう多様なんだということをあまり認識してないってことかな。それを認識してたら、こんなブログを書くことも、こんなブログに過剰反応することもないはずだ。
(追記)
あと↑のブログへのブコメを見てて気になったのは、「好きにすればいいけど、親に頼るなよ」とかいうコメがチラホラあったことかな。
べつに、頼れるなら親に頼ったっていいでしょ。経済力があるなら。
それに、外野がいくら「親に頼るな」「自己責任」なんて言ったって、親はなんだかんだで、子どものサポートは最大限したいと思うもんだと思うよ。
俺はまだ子どもが小さいけど、こいつが大きくなって血迷った選択肢に走ったら、「おいおい落ち着け」と一応は言うものの、心のどこかで、「俺の財布が尽きるまではセーフティネットになってやろう」って考えると思う。
俺は自分の親のスネをかじりまくっていて、けっこう負担をかけたと思うけど、どっちかというと親は息子の成長ぶりに満足げに見える。だから俺はその恩を、親に返すというよりは、むしろ自分の子どものわがままを聞いてやるという形で返していきたいと思う。
気づいたら総合トップにいて、本エントリへもブクマがたくさんついていた。まとめると、
というのが主な反応。なるほど。
彼のブログの続きをみると、一応、Webサービスの開発に挑戦しているみたいなので、「起業」という名の「アフィブログと有料サロン」みたいなビジネスモデルに走らないことを祈る。
素直ないい子ちゃんやって勉強もまじめにやってきたのにド底辺の大学にしか行けなくてさ、
凡人どころか凡人の中でも落ちこぼれの部類なのにそれでも何者かになりたいと思っててさ、
(自分よりは)能力や学歴や経歴のある(ように見える)人たちが、(自分よりも)ちゃんとしたビジョンや目標を持ってブログに取り組んで(るように見え)てさ、
ここでは落ちこぼれたくない、注目を集めたいと思ったんじゃないかね。
落ちこぼれがみんなの気を引きたくてバカやるってのはあれだ、ナルトの第一話みたいなもんだ。
あれは結果的にイルカ先生がちゃんと見ていてくれたから救われたけど、彼にイルカ先生はいるのかね。
少なくともヤギはイルカじゃないよなあ。