はてなキーワード: 安冨歩とは
最高やん
これは買いやね
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DC7H2H21
特集によせて トランスジェンダーの権利擁護と、開かれた議論のために 塩野谷恭輔
「焚書」のレトリックに踊らされないために 『トランスジェンダーになりたい少女たち』宣伝手法の問題について ベンジャミン・クリッツァー
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身体改変的性別越境主義について 「性別」破壊論・序章 阿部智恵
在りたい私、私が決める メタバースとトランスジェンダー 蘭茶みすみ
まさかマスコミが全く報道しない(というか腐り切っている)ので懲戒免職にシナイノデしょうか。
ありえない。
学生にはネットで誹謗中傷はやめましょうとか公金チューチュースキーム団体が言ってます。
だったら裁判で名誉毀損が確定した安富歩は懲戒免職しないと説明がつかない。
厳しい制裁を課して名誉毀損にをすればニド学者に慣れないということを示すべきです。
でなければ高いかねを学生から貰って嘘ばっかり訓えていることになる。
橋本久美🌿あなたのまちのカウンセラー豊島区都民ファーストの会
@hashimotokumi
安冨歩教授が名誉毀損で30万円払えとなり、これまで女性スペースを守る会や滝本弁護士を何も知らずに「差別者」扱いをした政治家たちもいたような。今頃恐れおののいているかも。もし知らないで誰かにそそのかされたのなら早く謝ったほうがいいとお伝えしたい。
@takitaro2
本日、判決でしたあ。東京地裁は安冨歩東大教授に対し、滝本への名誉毀損で30万円払えと命令しました。
https://note.com/sws_jp/n/n6078a197c900
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というか公金チューチューの都民ファーストが言うのも変だが、裁判でまけて鍵垢で逃亡とかありえないです。
もう安富歩は終わり。
人生終了ですわ。
>プロフィール画像の背景は、 http://twitpic.com/81moa2 福島原発事故の危険性について(個人的考察): http://bit.ly/hPeUyF 物性理論の研究者@東京大学物性研究所
韓国やイタリアなどは、軽症あるいは無症状の感染者も最大限捕捉して、そこから感染が広がるのを抑えようとしています。専門家会議は、そのような努力は日本では非現実的として既に放棄したわけです。もはや全国的な蔓延は諦めており、ピークを抑えられるかどうかの「瀬戸際」を論じています。 https://t.co/vukyBWqFec— Masaki Oshikawa (押川 正毅) (@MasakiOshikawa) 2020年2月24日
>大学教員。専門はこの世。Literature, Culture, and Society. Kunitachi, Tokyo.著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)など。 講談社現代新書ウェブサイトにて「イギリス階級物語」を連載中。ご連絡はs_kono400あっとhttp://yahoo.co.jp まで。
テレビではイタリアや韓国の徹底的に見えるウイルス対策を報道してて、明らかに日本の無策が浮き彫りになっているのだけど、それは言わないのね。— 河野真太郎/Shintaro Kono (@shintak400) 2020年2月24日
>東京大学 東洋文化研究所 教授 (マイケル・ジャクソンのブログはこちら http://ameblo.jp/anmintei/ )平智之氏より、二代目「とんち博士」を襲名。
イタリアがやってるんだから、日本もやるべき。 https://t.co/zKAGocQqHR— 安冨歩(やすとみ あゆみ) (@anmintei) 2020年2月24日
この記事は29歳独身男性が正月に帰省して、家族とのやりとりから自分の生き方の癖の原点と、自分の慢性的な渇望を自覚した話を淡々と描くものです。過度な期待はしないでください。あと、部屋は明るくして、ディスプレイから3メートルは離れて読みやがってください。
もちろんフィクションですので実際の人物団体とは関係ありませんし一部フェイクいれてます。
今回帰省で1日目は母方の祖母の、2日目は父方の祖父を訪ねる日程だった。実家と祖母、祖父が住んでいる家はすべて関東圏内で、車で1時間程度の距離である。
今回祖父母の家を訪ねるにあたり、大学生の妹が練習のために運転して父が助手席で監督するというかたちだったのだが、運転席の後ろに座っている母が運転中に車間距離や運転速度、歩行者について大声で責めるような口調で口出しをするのがとてもいたたまれなく、つらかった。5分に1回以上のペースで「あぶない!!(どこに歩行者がいるのかなど具体性なし)」「(車間距離が)近すぎ!」「もっとスピード落とすようにしっかり指示しないと!(父に向かって)」と叫ぶのを聞くのが耐え切れなくなり、母に対しかなり強い口調で運転中に別々の人間から指示を出されるのは運転手にとってフラストレーションだし危険である、ということを伝えた。そうすると母はやや不満げにわかった、といいしばらくは黙っているのだが10分も我慢できなかったようで、またすぐに口を出すようになった。私が運転に慣れてなかった頃も同じように父に監督してもらったが、そのときも後ろに母が乗ると必ず口を出してくるためやめてほしい、と何度も伝えたのだったのが思い出された。
そこで私は、あぁ、母は本当に私や妹がどう思ってるか興味はなくて、自分の子が自分の思い描いた通りに動くかどうかに1番の関心があるんだな、と諦めがついた。この車のエピソード自体はまあ大したことではないのだけれども、私にとってコップから水があふれる最後の一滴だった。私は自分の感情や欲望というものに蓋をするのが非常に上手で、他人の顔色を伺い、自分の気持ちを表明せずに飲み込めば場がうまくいく予感がする場合、ほぼ必ず飲み込んでしまう。その原点のひとつがこの情緒不安定で話を聞き入れない母で、その対策として私の性格が形成されたんだろうな、と納得した。とても寂しいけど、とても腑に落ちる納得だった。
母は非常に心配性であるとともに、自分が正しいと思ったことは絶対に曲げない性格である。そして気分の波が激しく子供のころはそのことで随分苦しんだ。父は御三家中高→東大→大手銀行、母も御三家中高→名門私立大学首席と大変立派な学歴であり私が中学受験するのは生まれる前から決まっていた。(私が生まれる前の時点でマンションを購入するときの判断材料のひとつが御三家に私が合格した場合に通学しやすい駅であることだった、というエピソードから色々察してほしい)。3、4歳から公文を習っていて、宿題の計算プリントが終わらなくて家で泣きながらやっていたら強い腹痛を感じたため母にそのことを伝えたら嘘をつきなさい!と睨まれたのは今でも忘れない。自分のつらさを伝えても無視される無力感はいまだに生々しい。カリキュラムテストや公開模試の結果が返ってくることがとても憂鬱であったこともよく覚えている。専業主婦だった母にとって、私の中学受験、そして大学受験は一大プロジェクトだったのだろう、母のエネルギーと執着は私に注がれ続けた。
母の狂気、そして父の経済力のおかけで私は予定通り御三家に進み、国立医学部に進学、卒業し現在某県で四六時中働いている。普段はそこまで意識しないのだが、毎年年末年始はとくに情緒が不安定になる。愛し、愛されていますか?と周りから問いかけられているような被害妄想にかられてしまう。別に目の前で夕飯の具材を和気藹々と選んでいるカップルは私を追い詰めて孤独感をつのらせようとしているわけではないし、スーパーに鳴り響くクリスマスソングは今年も恋人と過ごせない私に意地悪して惨めな気持ちにするためにかかっている訳ではない。勿論そんなことはわかっている、わかっているが胸が締め付けられるし深呼吸できなくなるし、少しでも油断すると愛されない自分と、愛し合ってる幸福な関係を呪いたくなってしまう。こんなにも愛されたいのになんでこんな愛されにくい性格なのか、どうして愛されるのは私じゃなくてお前なんだ、と。
私は他者に従順で、他者の顔色を伺うのがうまく、自己主張は激しくない。他の人が面倒がってやらない仕事もするため上の先生受けは悪くない(はず)し、患者や病棟スタッフからは優しい先生だとどこの病院に勤めても言われる。病院を移るときに泣いて感謝されて別れを惜しまれたことも数回ある。それは大変、大変ありがたいし私の数少ない生きる支えになっている。本当に感謝している。単に便利な駒と思われてるだけかもしれないけど、それでも身が粉になるまで働くね。が、一方で私の利他的な言動の根幹に自己嫌悪と人間不信が深く深く根付いていることに最近気づいた。
人を信じていないため、相手の利益になることをしないと自分に価値はないからすぐに捨てられるだろうという確信、強迫観念がある。素の自分に価値はないから勉強すべきだし、素の自分に価値はないから他の人がやりたがらないことをやるべきだし、素の自分に価値はないから他人のために生きるべきしそのために自分の感情や欲望に蓋をするのは当然だ、と。見せかけの自分を偽装することが年々上手くなり、幸か不幸かその評判が職場では悪くなく、ただ自分の気持ちに厳重に蓋をして他人軸で生きているため満たされなさ、慢性的な空虚感、欠乏感がある。正直今なにかの拍子に即死したらお、ラッキーじゃん?と思う気がする。この欠乏感はどういうときになくなるか自分の気持ちを必死で感じてみると、心を許せる人と時間を過ごしているときだけはこの胸の裏をカリカリ引っ掻かれるような気持ちがなくなることに気づいた。ただ一人に誰よりも愛されたい、受け入れてほしい、という普遍的な、しかし切実な気持ちである。
私はとにかく異性に縁がなく、人生唯一の交際していた期間は24歳のときの1年間で、それ以外は凪である。そのときの相手には今でも深く深く心から感謝していて、あの未熟でどうしようもなかった当時の私をいっときでも受け入れてくれたことは生涯忘れない。幸せにしてあげられなくてごめんね、幸せになってほしいといつだって祈ってるよ。その後職場や婚活で何人かに好意を示したが、私の空虚がバレるのか交際まで至ったことはない。みなさん大変見る目がある。おそらく私にとっては2人の時間のおかげで心が安定するが、相手にとってはそうではなかったのだろう。包容力、余裕のなさよ。私は貯金もあるし料理もするし水回りの掃除は好きで家事機能付きATMとしてはそれなりに機能するのだがそれを差し引いてもお断りされるのだから笑ってしまう。私がなぜ愛への羨望、渇望があるのかと考えると、無条件に愛されているという実感を感じたことがなかったからではないかと思い至った。父も母も私を愛し育ててくれたが、それは条件付きの愛ではなかったか。従順で手のかからない優等生"だから"愛していたのではないか。だからこそ勉強をやめようとするとじゃあ中卒でいいんだな、今すぐ家を出ていけと言われたのではないか。患者やスタッフから好意的に受け入れてもらえてるだけで本来は幸せであるべきなのにそれでは全く足りず穴が空いたバケツに水を入れるような状態になっているのではないか。
私の魂の深いところに自己嫌悪と人間不信があり、他人軸な生き方をしてきている。そのため満たされなさ、空虚さがあるがいままで自分の気持ちに蓋をしすぎて、自分の気持ちの詳細がわからなくなっている。様々なひとが私にうっすら好意的だが、私を誰よりも深く愛してくれる人はこの世界に1人もいない。親は私を愛してくれてはいるが、それは条件付きである。愛への強い渇望感があるが、渇望感があるため愛されない。
このデッドロックを言葉にできただけでもこの正月に意味はあったはずである。いくつかの本(※)を読むと愛されるのを目指すのではなく愛せ、自分を愛せない人は他人を愛せない、と書いてあった。さすがに交際している人全員が交際前から自愛できているとは思えないのでそうであったほうがより幸せだよね、と解釈しているが… …突破点として自愛が鍵になりそうな予感はある。自分を愛せるようになるにはまず自分の気持ちや欲望を言語化すること、自分の身体感覚を取り戻し快不快を自覚することだろうと信じてこの記事を書いた。書いている最中はやや気が滅入っていたが、書き終わった今、かなりすっきりした気持ちでいる。
あと以前親からは酷く嫌がられたので諦めていたが、内緒ではてブで有名な某結婚相談所に申し込んだ。万が一出会ってしまったら何卒よろしくお願いします。
いつかこの記事を笑って読み返せる日がくることを願って、そして自分だけじゃなく他の誰かの心の整理の一助になれたら。
※「愛する意味」上田紀行、「生きる技法」安冨歩、「アダルトチャイルドが人生を変えていく本」アスク・ヒューマンケア相談室 など。どれもよい本でした。
「消費増税賛成vs反対」じゃなくて、「消費増税vs別の財源」だったら別の財源の実現性次第でそっちに入れたかも。
もっというと「軽減税率あり消費増税vs軽減税率なし消費増税」だったらたぶん後者に入れた。
経営者や投資家に代表される富裕層に厳しい政策にすると、結局末端の賃金や就職率が割を食うので、嫌だけど富裕層には優しくして経済を回してほしいと思ってる。
就職率って就職できたかどうかだけじゃなくて、おなじスキルでもよりホワイトでより好待遇の仕事を得られるってことだから。
れいわは荒いながらも問題意識の筋が良いと思ってたので、ビハイア問題でブラック企業側に立った安冨歩さえいなければ入れてた。
ここ数年の与党の経済政策はさほどうまくいっているとも思えないけど大失敗ともいえず、対抗勢力はもしわれわれが舵取りしていたらこれだけ成長していたという緻密なシミュレーションを示してほしい。
「精神健康の増進」という国民的課題に対して、いちばん当事者意識がないのは東京大学でしょ。
初回のオリエンテーションからひどかった。フィンランドの精神療法のリフレクティングというのやらされました。
こちらは援助職じゃないんです、当事者なんです。当事者に精神療法をやらせる。無茶振りもいいところです。
回りくどいことをやらせずに、ストレートに話をさせ、来たことを褒めてくれれば、いちばん精神衛生にいい。
協働というのは、来ただけでエラいので。自腹で来ているだけでえらいんですから。
ミルグラム実験を思い出しました。閉鎖的な環境下での学者の心理実験には要注意。
非人道的だと思ったら外部に助けを求めること。ぜったい密室にさせないこと。
向こうは「場の安全」とか言いますけど、いちばん危ないのは君たちでしょ。
倫理委員会に「一般から募集した障害者に対して、ミルグラム実験のようなことをやらないでほしい」と相談しました。
しかし倫理委員会によれば、監視対象は研究(主に医学部で行われる)なので、学習は対象外との回答。これはおかしいと思う。
一般から募集した障害者というのはいちばんストレス脆弱性が高い層なので、注意深くあるべき。
第二回からは冒頭で「気分が悪くなったら休んでください」というアナウンスが入るようになったので、多少は気合が入った様子でした。
本当は保健所とか、労基署とか、独立した外部機関が入った方が、ガバナンスとしては正常だと思う。
精神障害者から身体障害者まで、あらゆる障害者を募集しちゃった。
小学校でも、普通の小学校と特別支援学校とでは必要な教員免許がちがうわけですが。
受講生が生物学的に耐えられるかどうかではなく、自分たちの都合(政治的な正しさとか)を最優先した。
いつもの駒場の論理で盛りだくさんのカリキュラムを組み、つめこみ教育をやった。
自分たちは日本でいちばんの大学の教員だから、指導力があるはずと奢っていたんじゃないですか。
一流大学の教員に指導力なんて求められない。応募してきた学生を振るい落とすのが仕事だから、誰だってできる仕事。
生徒ひとりひとりの個性を見抜いて、褒めて伸ばすなんていうことはできない。
受講生同士の横の人間関係を育てるという視点が欠落。ホームルームや学級会に相当する時間をまったく設けなかった。
エビデンスを認めない。文科省の報告書でも「実証」という言葉で叱責されていますが、理屈にこだわる。
建前を向こうは並べ立ててくるんですけど、こっちは体でストレスを感じている。エビデンスベースドで話が進まない。
安冨歩さんの『原発機器と東大話法』を読んでいるんですが、この本は東大人の行動を理解する上で示唆に富んでいると思う。
「対人操作をやる」というのは納得。
交渉力が高い。雄弁・多弁で、すごいしゃべります(文科省は「対話」という言葉で叱責)。感受性は低いです。
それってパワハラなのよ。
「都合のいい福島県民」を見つけてきて、自分たちは東大話法でちゃっかり傍観者を装う。
ただでさえややこしい福島に、ややこしい東大文系が近づき、もっとややこしくする。
そうやって生成された摩訶不思議な「哲学論文」とやらを英訳して海外に発信。
中身を少し読んだが、自己満足の作文って感じだったので、そっ閉じした。
私たちの税金は社会の中でこんなふうに「有効に」生かされているっていうわけ。