「文化人類学」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 文化人類学とは

2022-01-27

anond:20220127214822

いけすかないブスは主観的には楽しく働いてるのでは

まり問題増田自身視点にあったのだ

文化人類学っぽい回答だろ?

2022-01-24

anond:20220124164836

スカトロジーという語は、

古代ギリシア語で糞便を意味する「スコール(σκωρ)」に由来する語幹 scat- と、

「〜学」を意味する 英語: -ology の合成語である

学問としてのスカトロジーには、

排泄という生物基本的機能に関して研究する生物学的研究のほか、

哲学心理学的な研究

糞便にまつわる文化芸術に関して研究する社会学研究

文化圏毎の糞便のあり方を研究する文化人類学や民俗学研究等が存在する。

2021-09-01

anond:20210828224231

そういうのを調べるというか研究している人っているんだろうか。やっぱり宗教学とか社会学とか文化人類学とか、そんなところ? 『菊と刀』くらいしか思いつかないよ。

2021-08-13

学術書の類を読むときプロによる書評も一緒に読め

ブレグマン(2021)『Humankind 希望歴史』を勝間さんがブログで紹介しているが、その記事ブコメ地獄と化している。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/katsumakazuyo.hatenablog.com/entry/2021/08/12/162845

「なんとなくだが俺はこう思う」「著者はチェリーピッキングしててクソ」みたいな主張がエビデンスなしに書かれており(そもそも君たち原書読んだ?)、それらにスターが当然であるかのように集まっている。これらは理性的議論でもなんでもなくただのエコーチェンバー現象である。やはり、ブコメという文字数制限があるメディアできちんとした議論を行うのは無理があることが分かる。

こういう学術書やそれに近いものを読むときに私が習慣としていることがある。本を読む前にプロによる書評を読め。

ここでのプロというのは、新聞でそういう書評をいっぱい書いているプロレビュワーのことではなく、プロ学者のことである

例えば、"Bregman Humankind book review"とかでgoogle scholarなどを調べると、文化人類学者によるこの書評がヒットする。

A Sceptical Review of Bregman’s 'Humankind: A Hopeful History'

https://www.newenglishreview.org/custpage.cfm?frm=190173&sec_id=190173

この書評によれば、「過去において狩猟採集生活住民同士が戦争ばかりして殺し合っていたというのは基本的には嘘」というブレグマンの主張は文化人類学的には嘘っぱちである

"As a journalist he not only knows very little anthropology but also has an irritating folksy style"(ジャーナリストのブレグマン文化人類学についてほとんど何も知らないだけでなく、イライラするほど垢抜けない文体を用いており)、"This is reminiscent of a very bad undergraduate essay"(これはとても下手な学部生のエッセイを思い出させるような主張だ)、などとやたら攻撃的な評がなされており、それはそれで大丈夫かという気持ちにはなるが、少なくとも一人の専門家視点から見た学術的な評としては参考になる。もちろんこの書評が真理で『Humankind』は読む価値なし、とここで主張したいわけではない(私は文化人類学者ではないのでその判断はできない)。

このような視点批判的に本を読解することは、当該分野の知的蓄積を持っていない素人には不可能である。誤った知識を盲信しないために第三者によるファクトチェックには目を通しておいた方がよい。逆に、その道の専門家が「よく書けた本である」と肯定的に評していれば、ある程度安心して読むことができる。

プロによる書評をどのように探すか

日本語書籍なら「(書名) 書評」でググる学者による書評に絞りたい時は「(書名) 書評 教授」でググったり「(書名) (著者名)」でGoogle scholarしたりするとよい。

英語書籍日本語翻訳された本を読むときもこれで原著の評判を調べる)なら「(書名) (著者名)」でGoogle scholarするのがおそらく一番よい。ある程度有名な本ならプロによって書かれた書評学術ジャーナルに載っており、それがだいたいヒットする。特にいわゆる文系学術ジャーナルには毎号Book reviewコーナーがよくあり、そこに載っている書評は「本の主張まとめ」→「本の批判検討」→「本の評価」というフォーマットで書かれていることが多いため大変読やすい。ただ一つ問題があり、これらのジャーナルはほぼ有料である研究機関所属するか金を払うことによりこの問題解決する。

また、twitterで「(書名)」で調べ、研究者っぽい人による短評ツイートを探して読むという方法もある。研究者のTwitterはだいたい実名かつ顔写真アイコンソース:私の印象)なので、それで目grepしてからプロフィールをチェックするとよい。ちなみに関心がある分野の研究者のtwitterアカウントは普段からフォローしておくとたのしい。

余談:近年のポップな人類歴史書の怪しさについて

冒頭で「ブコメがやべえ」と批判したが、こういう風呂敷を広げまくって人類史を俯瞰したぜと主張する売れ筋本に警戒心を抱いてしま気持ちはよく分かる。なぜなら、最近のそういう本に対しては「適当こくな」と専門家からツッコミが入ることが実際に多いから。

例えば、Humankindの書評として上に挙げたものを書いたC.R. Hallpike先生は、ハラリの『サピエンス全史』に対しても批判的な評を行なっている。

Review of Yuval Harari's Sapiens: A Brief History of Humankind.

https://aipavilion.github.io/docs/hallpike-review.pdf

ちなみにこのHallpike先生は、未開社会フィールドワークを行なった経験から最近のポップな歴史書は文化人類学デタラメばっか書きおって」と心底お怒りらしく、全員(チョムスキー含む)まとめてぶった切る本まで書いている。Hallpike先生過激な主張を好むことも踏まえると(参考: https://twitter.com/profdanhicks/status/1336981539893161984 )、この本に対するプロ書評が見つからないのは残念である

C.R. Hallpike(2018). "Ship of Fools: An Anthology of Learned Nonsense About Primitive Society".

https://www.amazon.com/Ship-Fools-Anthology-Nonsense-Primitive-ebook/dp/B07HX4188K

また、このような人類歴史スキャンダルとして最近話題になったのが、スティーブン・ピンカー(2019)『21世紀啓蒙』における「学術ルール違反事件である

ピンカーが書中で「科学史家による主張」として紹介していた言説が、脚注をたどると科学史家でなく社会心理学者によるものであったことが分かり、さらピンカーによって引用されていた文章は実際には同じ論文内の別部分の文章を継ぎ接ぎしてピンカーにとって都合の良いように捻じ曲げられていた、という事件である。詳しくは以下のツイートを参照。

https://twitter.com/mccormick_ted/status/1419672144368308225

もちろん『21世紀啓蒙』におけるピンカーの主張自体に対するプロからの異議申し立て存在する。

https://www.abc.net.au/religion/the-enlightenment-of-steven-pinker/10094966

というわけで、売れている学術書を無邪気に読むことすら危うさを孕む行為であるメディアリテラシーだいじ。

2021-05-12

anond:20210510224030

別に教えてもいいけど、この中から有用チャンネルを掘り出すのは結構シンドいと思うよ

本当ならジャンル別に整理したいところだけど、面倒すぎる

更新止まってるチャンネルとかも応援意味登録してる

はてな的には、徳丸浩のウェブセキュリティ講座 を実は知らない人も多いか

あと どうぶつ奇想天外 と さまーず は自力検索してて発見したので、このあたりも知らない人多いと思う

2021-04-28

30歳以上の女性に向けてなんか色々言ってる増田いるじゃん、あれ本人どんな人物なんだろうね。

文化人類学的な興味が湧く。

2021-04-06

キャンセルカルチャー

フーコー児童買春で「キャンセル」されるべきか否かで盛り上がっているけど、それは絶対おかしいと思う。だって文系学者は、みんなハイデガーとかシュミット(それを継承しているアガンベンなど)とか、ナチスを絶賛支持した人たちですら、熱心に読んで勉強して何冊も分厚い研究書になっているのに。フーコーダメなら、日記原住民小馬鹿にして、少女と性行為したマリノフスキーはもっとだめなはずだけど、彼の名前文化人類学教科書から排除されていないし、されるべきでもない。フーコー倫理的に厳格な人物であるかのような幻想を持っている人が多かったのだろう。

2021-02-08

anond:20210208192538

文化人類学とか社会系の学問だと未開の社会現代先進国思考能力

文化レベルはかわらないっていうのがレヴィストロース以降の基本的な考で、

ムルンギン族の婚姻ルール近代ヨーロッパ発見された代数学と同じってことを発見して以降そこに賢さの違いはないって言うのが現代文系学問の到達点の一つでしょ。

史学だとアナール学派以降そういった傾向が強まってるでしょ?

例えば、中世ヨーロッパ治療法で「武器軟膏」っていう治療法があったんだけど、

これがどういう治療法かという武器に軟膏を塗って患部は治療しないという現代から見ると意味不明治療法だけど、

当時の公衆衛生基準だと、下手に治療するより患部をほっといたほうが感染症を起こさないのでちゃん合理性があったんだね。

当時と現代だと社会の違いによって現代から見ると非合理的な行動をしているように見えるけど、そこにはどんな理由があったか研究するって言うのが現代史学なんだよね。

2021-02-06

ーーーーーー

再配分(さいはいぶん)は、文化人類学経済学社会学などにおいて用いられる概念人類学においては、再配分は権力の中心に対する義務的な支払いと、中心からの払い戻しを指す。

ーーーーーー

2020-12-28

食費月1万円の増田に「身体壊しそう」とかいうやつ、貴様らの食事のほうがよっぽど身体壊しそうなンだわ。俺が本物の科学的で合理的健康的な食事ってもんを見せてやります

anond:20201227223731

元増田disってたやつ来てください

俺が本物の科学的で合理的健康的な食事ってもんを見せてやります



大学に進学して一人暮らしを始めた19歳(一浪)の俺は貧乏学生で、外食しようにも金がねンだわだった。

まり自炊をしなければ飢え死ぬ

しか家庭科では非実用的なおままごとしか習っておらず、米を炊くことすらできない。

そこで俺は「食事」を学ぶところから始めた。

図書館栄養学についての本を読み、古今東西人間がどのような食事を行っていたか文化人類学から学んだ。

遠回りすぎるかもしれないが、なにか調べたい際には、地球常識文化について何も知らない宇宙人が一から調査するようにロールプレイングすると楽しい


これまではその場の気分でなんとなくウマそうなものを食うという猿畜生のようなことをしていたが、この調査のおかげで一日の栄養から逆算して何を食べるか考えるようになった。

そこで基準値として参考にするのが厚生労働省が5年ごとに改定する「日本人食事摂取基準」だ。

日本中専門家が集まり、喧々囂々と議論して作られた叡智の結晶がなんとタダで読める。正確には我々の税金で作られている。読まなければ損である

食事摂取基準学校給食病院実施される栄養指導根拠となる科学データであり、今年2020年はちょうど改定される年だったため一部界隈では4年ごとの祭典オリンピックのように盛り上がった。

我々のような非専門家凡夫どもはテレビ流れる「〇〇が身体に良い!」だとか本屋で並ぶクソみたいな「〇〇は絶対食べてはいけない!」といった情報右往左往せず、これに基づいて食事を行えば良い。

専門家無償で公開してくれる科学データに基づいた食事はしないのに、やれ農薬が、添加物が、化学調味料が、と言うやつ。まずは毎日野菜350gを摂ってくれ。


俺はさらなる情報を得るべくインターネット検索した。しかしその時代インターネットはすでに書き散らされたゴミ汚染されていたため、英語食事に関する疫学研究を漁った。

さらに住んでいた寮の部屋にはキッチンがなく、火を使うにはいちいち材料を持ってエレベーターで降りて共用部に行かなければならなかった。そのため、料理工程を極力少なくする必要性があった。

そのような中で生み出され、適時改良されてきたコストお金、手間)が極力かからパフォーマンス(味、栄養素)が高い最強の食事を教えよう。



精製されていない炭水化物オートミール 100g コスパと手軽さ

炭水化物パスタ100~180g GI値考慮したkcal/¥当たりのコスパでは最強 

緑黄色野菜ニンジン60g 業務スーパー冷凍野菜

野菜たまねぎ1/4 トマト缶1/2

魚:サバ缶1/2 気分に応じてイワシサンマ缶等で代替

肉:鶏肉 調理が面倒な場合プロテイン代替可 牛肉豚肉などの赤身肉は月一程度に控える 

果物バナナ1本 キウイ1個 冷凍ブルーベリー20g等 一日の果物摂取200g推奨 

飲み物水道水1.5L 牛乳200ml コーヒー週一

その他:無塩ミックスナッツ28g ヨーグルト100g キムチ30g 納豆一パック オリーブオイル15g 焼海苔1枚  オートミール用に乾燥ワカメ乾燥シイタケ、卵


まるで栄養摂取するためだけのエサのようだと思ったかもしれない。


その通りだ。

しかし、人間毎日ごちそうを食っていた時代なんてここ数十年だけだ。残りの数千年は毎日同じような質素食事を生きるために食い、行事のようなハレの日にだけ特別ものを食べていた。

良妻賢母教育を受けた専業主婦料理する近代都市部上級国民限定文化に過ぎない。

しかも、厚労省食事摂取基準世界保健機関が定める一日の塩分摂取推奨量5gを満たす食事は、プロ栄養士が設計し、給食のおばちゃん部隊大量生産を実行してようやく実現可能な代物であり、一般家庭料理では到底不可能だ。

だいたい、普段質素食事をして、たまに力を入れて作るごちそうやジャンクフードが身に染みて美味いのであって、毎日それらを食っていたら限界効用逓減の法則しかり、快楽は段々と小さくなっていくのに、デメリットだけは増えていくのでコスパが悪い。

こういうドケチ人間でも、旅行では外食中食をするが、最初快楽が大きくても長期の旅行場合はどんどん小さくなって最終的に残るのは胃もたれ脂肪だけだった。

そんな状態我が家に帰ってきて食うゲロみたいなオートミール安心感

学生時代毎日この食事で月1万円台後半、就職してからは白米を食べたり野菜の種類を増やしたり週一のごちそうを自炊、月一の外食をしたりしても月2万円前半でまかなえた。



毎日同じものを食べるのはいやだ?

人間は慣れるものだ。

毎日酒池肉林をしている富豪から見たら一般国民の食事は惨めでとても耐えきれないものに見えるだろう。

しかし、あなた毎日惨めで耐えきれないと思いながら食事をしているだろうか?

もし快楽を数値化できるとすれば両者は大して変わらないかもしれない。


それにパターン化は素晴らしい。毎日ゼロからレシピデッキを構築するよりも、構築済みの「型」を基準とし、調味料材料の一部を季節や気分、体調、割引に応じてカスタマイズしていくことで、献立を考える思考コストが大幅に削減される。お金時間、体力と同じように脳で計算する力は有限であり、できるだけ日常生活での消耗を減らし、浮いた分を自分にとって重要タスクに振り分けると良い。

一人暮らし自炊がめんどくさいという主張において根拠とされるのは、

・適切な材料を腐らすことなく常に冷蔵庫に補充し続けること、

・それらをいか調理するか考えること、

・そして実際に調理すること

の3つがめんどくさいというものだ。

この合理的食事においては日持ちする材料一定のペースで食べ続けるので補充も規則的になり、スーパーで何を買うか迷うことなくカゴにいれてすぐに終わる。

レシピも型に基づいて行えば良いので考える必要はなく、調理はタッパーに材料をぶち込んでレンジで蒸すだけだ。調理工程単純化されたことで、洗い物も僅かしかでない。

焼いたり茹でたりすると過程栄養が減ってしまう。蒸すのが手間でも栄養でも最強。



お菓子ジュース、酒といった嗜好品がないのはいやだ?

欲しくなるようなストレス下の環境に置かれていることが問題なのではないだろうか。

日常的に嗜好品ストレス解消しなければやっていけないというのはもはや依存である

健全環境下では月一、自分クリスマスケーキを食う程度のイベント毎で十分だ。



カフェイン毎日摂取しているとすぐに耐性がつき、ほとんど効果がなくなるので週一程度で十分だ。

タバコのように、最初は確かに効果があったのかもしれないが常用することで耐性が付きデバフだけは多くなる。ニコチン中毒者がタバコを吸って一時的デバフがなくなった最高の状態が、健常者の平常の状態となっているようなものだ。

丁度いい機会なので正月休みにはカフェイン断ちすることを勧めたい。数日は離脱症状頭痛吐き気で苦しむことになるだろうが、それに耐えきった後に飲む久しぶりのコーヒーの効き目に驚くはずだ。



これは娯楽においても同様で、大金を使ってもドーパミンの耐性が付き、同じものでは満足できなくなる。前回よりもっと高価なもの、刺激的なものを求めるようになるだけとなってしまう。

元増田に対して消費や浪費ができない生活なんてつまらなそうという意見があるが本当にそうだろうか。

人間なんて毎日最低5分から30分朝日を浴びてセロトニンを分泌させ、中強度の有酸素運動をするだけで楽しく過ごせる単純な生き物だ。最近コロナステイホームしているのでFitbit心拍数を計測しながらOculus Quest2でアニソンに乗ってビートセイバーしたり卓球したりして昔の王侯貴族なんかよりよっぽど快適に暮らせてる。地位財を追い求めるのを控え、非地位財を求めるとよい。

一生かかっても図書館の本は読み終わらないし、ネットでは世界中音楽が聞けるし、アマプラ映画ドラマアニメもまだまだ見ていないのがたくさんある。


幸せについて科学的に追求したい場合はWell-being studyを調べると良い。俺みたいな匿名個人説教体験談なんかよりよっぽど参考になるだろう。

有酸素運動の強度については、「今日は頑張ったなー」というような曖昧感覚ではなく、心拍数に基づいて行うとよい。数値化されることでゲーミフィケーションの仕組みが働き、やる気に繋がる。個人によるが中強度の運動心拍数120~140程度を中心に、高強度の運動心拍数140~170程度を全体時間の30%行うとさらに良い。

・このように自己定量化(Quantified Self)し管理することは、RPGゲームのようで楽しい。酒を飲んだ日の睡眠スコアが著しく低くなっていたりすると人体実験のようで面白く、たまに不摂生をしても「まぁよい。貴重なデータが取れたから今回は大目に見てやろう」ゴッコをしてポジティブに受け止められる。

有酸素運動時間についてはアメリカ身体活動ガイドラインは一日20分程度推奨、JAMA Internal Medicineの論文によると最大1日64分

https://jamanetwork.com/journals/jamainternalmedicine/fullarticle/2212267



人間の尽きることのない欲望を煽って儲けてる産業お金を費やしても満たされることはないんよ


元増田を「資本家が考える理想労働者奴隷」と評価する意見があるが、本当にそうだろうか。

労働ですり減った精神塩分油分糖分と消費浪費で脳内麻薬キメて、効き目がなくなればもっと稼ぐためにバリバリ労働に励む労働者のほうがよっぽど資本家にとっては理想存在なのではないか



イギリス食文化がマズいと言われているのは、産業革命により都市移住した労働者たちが、伝統的な食文化から断絶されたせいという説がある。

日本大学生(私大)への仕送り額は1994年12万5000円から毎年下がり続け、今では8万3000円。

これから一人暮らし貧乏大学生が外食牛丼屋等)やコンビニ弁当カップ麺をかっ食らうというステレオタイプも廃れていき、自炊を強いられるようになるだろう。


家庭科が男女必修になってからも未だに良妻賢母教育時代のまま、手間暇かかるコスパの悪い塩分過多の家庭料理の作り方を教えている。おそらく多くの生徒が初めて生きるために料理することになる一人暮らし生活に適合した知識ではなく、使えない。

今ではメタアナリシスを中心としたエビデンスに基づく最適な食事についての情報簡単に手に入るようになった。昔は食材栄養素を知りたくなったら辞典を引かなければならなかったが今ではGoogle検索すればすぐに出てくるし食事摂取基準目標としてアプリで個々の栄養別に計算することができる。


現在社会状況に適合できていない近代食文化ではなく、これから上記に類するような”科学的で合理的健康的な新しい食文化”がゆっくりと普及することになるかもしれない。多くの人たちにとっては食に対する冒涜であり、貧困がもたらした退廃のように見えるだろう。

しかし、少なくとも現代金銭時間知識的に余裕がなくまともな食事を行えない者たちにとっては一つの選択肢として十分に検討価値のあるものであり、精神の安定を助け、健康寿命を伸ばすことに役立ち、高齢化に伴う医療費問題人手不足解決にも寄与することになるだろう。

事情でこのような食事をする必要に迫られている人間面白そうだからやってみたいという奇特人間日常で得られる快楽パフォーマンスを最大化したい人間などは、ぜひ実践してその過程の中で見つけた苦痛なところ、改善できるところをアレンジしてほしい。そうした人々の営みを経て”食文化”が洗練されるとよい。

2020-12-06

anond:20201206184931

自然の摂理やで。動物の生態に詳しくないみたいだ。ついでに、普遍的や。文化人類学っていう学問があるから勉強してみたらどうだ?日本の文化史でもいいかもしれんな。

anond:20201206184559

君の主張はどうでもええが、自然の摂理ではないで。動物の生態に詳しくないみたいだ。ついでに、普遍的でもない。文化人類学っていう学問があるから勉強してみたらどうだ?日本の文化史でもいいかもしれんな。

2020-12-05

男性はぶつかってくる」は本当か

当方20代女性である

先日ついうっかり足を捻挫してしまい、しばらく松葉杖生活となった。

その際に気付いたことがあるので書き留めておこうと思う。

男性はぶつかってくる」

男性は駅や街の雑踏でぶつかってくる。それは女性無意識に見下していて、避けないからだ。

これは女性なら多かれ少なかれ心のなかに共有された理解であると思う。私もそう思っていた。

もちろんわざわざぶつかってくる一種変態もいる。彼らを置いておいて、男性一般に関しての話だ。

あくまでも個人ではなく集団としてである

日本人は酒が弱い」「日本人は清潔を好む」

これらは集団としては成立するが、これを個人個人還元しようとするのはナンセンスだろう。あくまでもマクロな話であると念を押しておく。

私が気付いたのは、「女性はぶつかってくる」ということである

私は定期の関係新宿秋葉原でよく下車するため、コロナ禍の中でも雑踏を通る機会は多い。

それらの街は動線がグチャグチャだが、周囲に注意しつつ動けばなんとか動ける。そんな感じだ。

松葉杖生活を始めた頃は、雑踏の中で移動するのが困難だった。

性別わず誰も彼もぶつかってくるように見えたし、実際何度もぶつかりかけた。

ただ注意していたこともあり、致命的な事故回避できた。

結局どうしても動けず電話で友人を頼って一緒に助けてもらうこともあったが。

何日か経つと、なんとなく動けるようになった。

人の動きに意識を向けていると、なんとなく今まで意識していなかった法則性がつかめてくる。

ほぼ完治した今、更に検証を重ね、それを書いておくのである

データ松葉杖が取れて以降の話である



真正から人が歩いてくる。このままではぶつかる。

ぶつからないためにはどうすればいいか。避ければいい。

真正から来る人を避けるには、二人合わせて1人分の幅を譲り合えばいい。簡単のため、これを「人幅」という単位で表すことにする。

まずは男性男性比較的早い段階、10メートルほど前方から回避を始めている。これは意外だった。

男性は平均して0.7人幅ほど回避してくれる。(松葉杖をしているときはほぼ1人幅避けてくれていた)

あとの0.3人幅はあなたが避けてくださいね、ということだろう。

会計女性に少額だけ出させて貸し借りにしないというのと同種の心遣いであろうか。(もちろんそこまで深く考えてのことではないだろうが。)

こちらも少しだけ避ければ回避できる。これは実にスマートなやり方である

これはたまたまだが、検証の段階でわざとぶつかってくる男性とは遭遇しなかった。




一方、女性

女性はあと数歩という段になって、ようやくこちらを認識し、迷惑そうな顔をしてきっかり0.5人幅回避する。

繰り返すが、平均である。きちんと回避する女性もいるのは当たり前である

しかしその数歩、1.5メートル前後回避できるのは運が良い時だけ。

他の通行人や互いの相対速度など、他の要素が入れば容易にその安全距離は消え、ぶつかってしまう。

こちらが検証ということで十全に注意していたから良かったものの、普段ならぶつかってしまうようなインシデントは多くあった。



ここまでが実験第一段階である

ここから導き出されるのは以下の仮説だ。

1.男性男性は互いに0.7人幅ずつずれているので、ぶつからない。

2.男性女性は、男性が0.7人幅ずれている状態で、残りの0.3をずれるかどうかでぶつかるかが決まる。

3.女性同士は相対速度が小さいため、ぶつかりにくい。




さらなる検証必要である自分に加え、同僚の男性A氏の協力(意識と記録をしながら一週間通勤してもらった)もとりつけて実験を続行した。



1は、新宿中央通路での観察の結果、おそらく正しいという結論に至った。A氏の経験と観察からも、恐らく正しいということだった。




2は女性である私が実験するのは難しい。

A氏は検証のため何度もぶつかりかけながら、正しいと結論付けた。

体感として「あと数歩で女性が0.3人幅避けるパターン」は4割、「女性が避けないため自分が避ける」のが6割ということだった。

6割のうち、男性が避けないことがあれば、それが「ぶつかった」ということであり、女性からすれば「男性がぶつかってきた」ということになるのだろう。

実際は男性が0.7避けてくれていて、大体の場合1.0人幅を丸々回避させてしまっているだけなのにも関わらずである

自分でも観察したが、恐らくこれは正しい。もっとも、私の観察する限り男性が避けるパターンが8割ほどだった。



観察している中で、二回ほど男性女性がぶつかっていた。

女性が0.3人幅避けない」パターンだった。男性はきちんと避けていた。女性が全く避けなかったのだ。

男性不快そうな顔をしただけで行ってしまったが、女性は痛そうにしていた。体格が違いすぎるのだ。私は自分の苦い思い出と重ね合わせつつ同情した。

男性の方も少しくらい心配しても良いではないか、と怒りが込み上げてきたが、彼からすれば「自分は0.7も避けてやったのにぶつかってきた」ということになるのだろう。これは客観的に見て正しいし、彼は道理としては被害者ではある。が、やはり痛そうにしている人のことを放っておくのは見ていて忍びない。

女性にとっては「男性がぶつかってきた」という記憶となって残ることだろう。誰も得をしていない。




3は、間違っていた。

女性同士は軽度の接触事故を多々起こしている。ニアミスもこのパターンが最も多い。

女性は、男性よりもむしろ女性にぶつかられている。

しか運動エネルギーE=1/2mv^2の、mもvも互いに小さいために痛くない。(威力に握力は関係ない)

恐らく記憶に残りにくいのであろう。




ここまでの実験で「女性はぶつかってくる」ということがある程度立証できたと思う。

では何故ぶつかってくるのか。私は生物学にも文化人類学にも社会学にも明るくないため、門外漢(門外女?)の適当妄想ではあるが考えてみた。



仮説1: 女性は動体視力空間認識力がよくないため、相手動線を上手く認識できない。

これは女性運転が苦手な理由としてインターネットで見たものを流用した。狩猟を行っていたために動体視力が発達した男性に対し、女性採集をしていたため静物を見るのが得意なのだ、という主張だ。が、これはいくらなんでもおかしい。現に私はきちんと認識できたし、人間の歩行速度なんてたかが知れている。トンデモ説として却下した。



仮説2: 女性歩きスマホをしがちであるから、ぶつかる。

これは若干迷ったが、却下した。確かに女性の方が歩きスマホ率は高かった。しかも見ていて気付いたのは、男性歩きスマホをしていても前をこまめにチラチラと見ている場合が多いのに対し、女性は前を見る周期が低いかあるいは全く前を見ていない場合が多いということである。全く前を見ない女性は今までよくもまあ無事に生きてきたものだと感心してしまった。が、これも論拠としては弱いように思われる。スマホをしていなくてもぶつかってくる女性は多い。



仮説3: 女性は避ける気がない/避けるという選択肢をハナから持っていない

これだろうという気がした。

相手が避けてくれるだろう、自分が避ける必要はない。何故自分が避けなければならない? こういう意識で歩いているのではないかという気がする。そうすれば最もうまく説明がつく。上の危険歩きスマホもこれが根底にあると思われる。考えてみれば口喧嘩でもなんでも、女性の方が自説を曲げることが少ないような気がする。

これがポジティブ女性が胸を張って歩ける社会が来たと見るのか、ネガティブ女性社会的に甘やかされているためだと見るのか、女性本能的に傲慢からと見るのか、どれが正しいのかは分からない。

同じ女性として、なんだか複雑な気持ちになってしまう。



ただ一つの事実として、「女性はぶつかってくる」。

これだけは言える。

そして世の女性諸氏に、ぶつかっているのは男性ではなく自分自身なのだと気付いてほしい。

そうすれば自分被害者にも加害者にもならなくて済むだろう。

ただ、男性には申し訳ないがもう少し避けてくれることをお願いしたい。あなたがたが避けてくれていることはよく分かった。でもあなた方はぶつかってもなんともないだろうが、女性との体重差は2倍近い。ぶつかられた方は、ものすごく痛い。少しだけ進行方向を変えるだけで救える命があります



長くなったが、このささやか研究に協力してくれた同僚のA氏、同居猫のB太、それから勝手に観察させてもらった新宿駅の通行人の皆様に感謝を伝えたい。

2020-12-03

anond:20201203124942

偏った・環境的に・生物学的に・文化人類学的に

みて、日本は稲作を続ける政策を組んでいくべきだと思ってる

2020-11-16

でもおまえホームレス支援してないじゃん

問題になっているcakes/noteホームレス記事

批判されている問題点はよくわかる。大学文化人類学の授業も受けたので、筆者の視線いか差別的であり、フィールドワーク手法問題があることも分かる。

だがその上で、「でもおまえホームレス支援してないじゃん」と言われた時、私には返す言葉がない。

きっとネットで「ツーリズム批判」「オリエンタリズム批判」をしている誰よりも、彼はずっとホームレスの人をすくっているはずなのだ

あの文章なかにある厳然とした「差別性」と、あのひとが実際に貧困者を支援している「事実」の前に、何と言っていいのかわからなくなってしまう。

我々があの記事をぶっ叩くことで、もし彼らがホームレス支援をやめたら、結局困るのはホームレスの方たちなのではないか

ホームレス支援自分の名声欲と好奇心を満たすなんてけしからんしかホームレス支援は続くけてね」なんて傲慢ではないのか。

本来であれば、編集部であるcakesが、もうちょっと見られる文章に整えるべきだった。というのはもちろんあるんだけど、それって絶対に殴ってこない相手に矛先をそらしている行為のような気もするのだ。

あの文章問題がある。しかし私は、批判者の多くは、あのひとよりも絶対ホームレスの方たちの役に立ってない。

どうしたらいいんだろうか。

2020-10-10

SNS時代手紙を書いて送るということ

先月、恩師に手紙をしたため、ポスト投函した。

私は20代後半女性。恩師であるE先生は今は50代になるだろうか、親より少し下の世代女性私立女子校保健室先生で、私の進路決定に大きく影響を与えた存在である

私がその学校で生徒だったのは10年ほど前のこと。中学受験で入った学校に1時間かけて通学したものの他の生徒と馬が合わずクラス部活で馴染めないどころか「場面寡黙」のような状態になってしまった。気は強かったので、そんなことで不登校になってたまるか、と踏ん張っていたが遂に中学2年の初夏に心が折れてしまい、保健室に入り浸るようになった。

そのとき様々な声かけをし心理的ケアをしてくれたのがE先生で、私は彼女に憧れて看護学部受験し、現在看護師をしている。


看護師を数年したら養護教員(保健室先生)になるだろうと高校時代は思っていたものだが、大学時代就活をするときには一度そのことは消し去ってみた。だけど一度夢にまでみたこと、資格は“一応“持っているので、叶えてみるのが過去自分のためだと思い転職活動を開始したのがここ1年のことである。そして新型コロナウイルス流行があり、学校保健においては大変なことであろうと思い、E先生のことが思い浮かび、お元気だろうか、と様子伺いを兼ねて近況報告を送ることにした。

E先生クールな方だけど、内面はとても豊かな人だったと思う。

ただ、さっぱりしすぎていてなのか、仕事上(教科・学級担任と異なり全校生徒を相手にする)致し方ないのか、年賀状を送りたいだとかEメールアドレスを教えてほしいだとかお願いしても、全く個人的な連絡先を教えてくださらなかった。

学校に送ればいいわよ」とか「学校に来れば私はいつでもいるわよ」とか仰っていた。他の教師たちはというと、携帯SNS禁止の古風な学校のくせに、数年前に訪問してみるとLINE交換を迫ってきた、なんてこともあった。


そういうわけで、E先生宛に手紙を書いた。もちろん個人的な連絡先を知らないので、宛先の住所は学校にした。私学だから転勤もないし、ほかの先生から消息は伺っている。

同じ県内に住んでいるので、1日もあれば届くだろう。

お返事は週明けには来るだろうか?

そんなことを考えた。


が、1週間経っても、2週間経っても、シルバーウィークを挟んでも、返事は来ない。



前述の通り、クールなお方だから、と思って、松任谷由実の「返事はいらないさながら、返事は期待せずに手紙を書いたし、ポスト投函した。

だけども、どうしても、返事がこないとソワソワしてしまう。

私は平成1桁生まれとはいえジャストデジタルネイティブ世代で、物心がついたときにはダイヤル回線ポストペットがメールを運んでくれるような環境だった。

大学に入って最初の数ヶ月こそ「メーリス」を多用したが、だんだんLINEが普及しはじめ、LINEが主流の通信手段である

仕事を始めれば職場ではメールを使うが、いま私の周囲で即時性のないやりとりはその程度。


から、待つのが苦手なんだ、と思った。

別件で、他の恩師からコロナ禍で病院で働く私の身を案じるお手紙をいただいた時には、速攻でお返事を書いて出したくらいの即レス魔なのである


E先生から返事が来ず悶々とし、私はインターネット大海から「手紙」の返事を「待つ」という行為についての記事を探しまくった。スマホに穴が開くほど、といいたいところだが実際には私はかなりの睡眠時間犠牲にした。

LINETwitter、4G通信メールですら「センターに問い合わせ」をしなくても届く時代

即時的な現代でわざわざ手紙を送るという行為は、待つ時間をも味わい、愉しむ必要があるようだ。

そして、手紙というものは、一方通行であることをある程度覚悟する必要があるらしい。

こういう話は、文化人類学にでもなるのだろうか?


毎日ポストを、封筒が入っているのを十分想像しながら開ける。そんなことをして早1ヶ月。

そういえば、E先生お勧めの本でミヒャエルエンデの「モモ」を紹介していたっけ。時間の大切さを題材にした物語だったと思う。

E先生が返事を送ってこないのは、メッセージがあってかどうかは知らない。が、もう少し待ちながら、自分のことをまた一生懸命やってみようではないか

増田たちは、最近手紙を書いてお返事を待つという行為したことがあるだろうか?

返事がこないのはモヤッとするが、このデジタル時代必要時間を与えてくれる行為だと思う。

2020-08-27

コロナウイルスがもたらす日本人文学危機

コロナ人文学ヤバい

といっても哲学とかそういうのじゃなく、歴史学とかがヤバい

もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問ヤバい

今はまだ大丈夫だけど、じきに破綻する。

なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要資料アクセスできないからだ。

歴史学根本は、オリジナル資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。

そして公文書館というのは行政機関なので、日本国立公文書館外務省外交史料館東京にあるように、あるいはイギリス国立公文書館キューにありアメリカ国立公文書記録管理局ワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。

そう、公文書館に行けないである

コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!

でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券ヨーロッパ渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料アクセスできなくなるかもしれない。

明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学日本に持ち込まれた。だが初期の日本歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。

オリジナル史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語フランス語ドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。

けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本歴史学が独り立ちするためには。

やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナル史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行安価になるにつれ、国外文書館アクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本歴史学レベルはどんどん上がっていった。

2000年代から2010年代にかけての日本歴史学界で生み出された外国研究レベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナル面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。

そこをCOVID-19パンデミックが直撃したのだ。

留学の予定も史料収集計画も、すべてが白紙になってしまった。

分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程博士課程で留学をする。これは現地で史料収集したり、現地で言葉勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要プロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。

COVID-19直撃世代は、この留学経験を持てない。彼らは外国研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。

2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することな博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることな任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振研究費のかなりの割合出張費に充てている)。

けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査ハードルものすごく高くなってしまっていたら、日本外国研究は大きな打撃を受けるだろう。

そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在史料たっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国研究者とオンライン会議すればいい。

でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。

もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料ウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達ドイツ語学術書kindle版で引用していた。

から研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。

ただし、その方向性限定される。

どのような種類の史料必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージ歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツ政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館史料を見なければお話にならない。

現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相メディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料全然違う。前者は新聞ネットを見ればそれでいいが、後者情報公開請求必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。

そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり研究のために文書館史料必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国研究において、思想史文化史古代史の割合が高くなるかもしれない。

(いやでも、ガチ思想史文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代知識人留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料ほとんど翻刻されてたりするし……)

逆に、先行世代よりも悲惨な点は何か。

それは研究レベルが上がってしまたことだ。

ネット上で読める範囲古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究レベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベルいね」と一蹴されてしまう。論文英訳なり独訳なりして海外ジャーナル投稿しても、それなりのレベル雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)

ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代研究水準には戻れないのだ。

ハードルを下げる?

外国最先端研究成果がワンクリックで手に入るこの時代に?

つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?

コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。

それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史ハードルが高いから、表象歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。

ともかく、これまで日本歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。

日本外国研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。

まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在レベル渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニア島国アフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国舞台にした文化人類学記述言語学は消滅し、国内対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……

(まあ、国内伝統文化方言を保存するために、一度外国文化言語記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学修行する若手研究者が離島山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)

ブコメにお返事

日本だけの問題では無さそうなのでよりデジタル化したりオンラインで閲覧する仕組みが出来そうだけど

デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。

第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだマトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベル文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマ研究しようと思ったらそれでは困る。

第2に、困るのは外国研究者だけで、本国研究者はそんなに困らないのだ。

日本人がイギリスドイツ調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館アクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国研究者の姿が消えたとして、いったい日本研究者になんの不都合があるのだろう?

(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本大学で教鞭を執っている中国人日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米大学就職しちゃった日本研究者は大変だ。また、日本研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係歴史研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府公文書管理がザルすぎるせいで重要史料日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)

まり世界的に、自国研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国研究者への配慮が、果たして自国公的施設デジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。

資料を集めたり読んだりするのはその国の研究者に依頼する、というのはダメなの?現地に行く必要性がよくわからなかっった。

第1に、それ本国研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど…

第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書形式の違い」みたいなのも当然論文テーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。

ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録面白そうな史料があったか地方文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人コピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語しかない。

第3に、そもそも論としてなんで自分研究オリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)

日本史であっても一次史料海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスハードルが以前から言及されていたのを思い出した。

なおアジアアフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史研究する日本人の歴史家は日本国内研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリス(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……

そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?

それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンロナルド・ドーアケネス・ポメランツイアン・ニッシュJ・ヴィクター・コシュマンブレット・ウォーカーにも言ってきて!

2020-08-10

一人一派歴史的経緯

元増田ブコメもなぜこう言われるようになったのかの部分を知らなそうなので、すごくかいつまんで説明してみる。

フェミニズム弱者である女性を救おうという運動である

弱者の声は届きにくい。特にそれが少数であればあるほど届きにくい。

一人一派は、そのようなマイノリティの中のマイノリティでも否定せずにその人の経験を受け入れようとする考え方で生まれた。

ブコメとかは言葉意味の正誤にはうるさいくせにこういう由来には全く無頓着なのダサいと思っている)

さらに、フェミニズム運動学問のどちらの側面を持つことにも由来する。

その学問的な側面からまれ言葉でもある。

学問であるとは意見のぶつけ合いが起こり、論理的であることを目指す側面があることは致し方ない。

ただ、本当にそのアプローチしかないのだろうか?と考えた人たちがいた。

女性的な側面である、その人の経験に基づく知識を集めることにより学問とできないかというアプローチである

今までの学問のあり方を男性であるとし、新しいアプローチ模索しようとした実験的な側面からできた言葉でもある。

(と言う割には社会学哲学文化人類学方面の影響だけモロに受けすぎていると思うし、それは社会運動と相性良いように見えて目の前の問題解決するにはすごく相性悪いと思うのだが)

以下、さら個人的意見である一人一派のそのもの否定する今の空気は良くないと思っている。

マイノリティの中のさらに少数派の意見を潰される様というのは、以前あった女性というマイノリティの中で性転換済みの女性言葉を潰すことまさにそのものである

ちなみにアカデミックフェミニズムの人たちは、この件ではツイフェミの人たちにめちゃくちゃ怒っていた。

一人一派をすべて否定することは、この人たちのやっていることと結局同じようなことなのだ。

ただ、負の側面もある。めっちゃある。

暴走する人たちの経験否定できないことだ。

私はこの負の側面だけで一人一派は無理じゃんって思っている。

からと言って全て否定することはできない。さらに、どうすれば良いのかは全く分からない。

ただ、分からないものは分からないと丁寧に扱っておきたい。安易全否定はしたくない。

ブコメでただ単にそれを標語攻撃する人たちを見ると危うさを感じる。

否定するのは別に良い。ただそれは丁寧に負の側面を否定しないとまずい。

そもそも熱狂するワードがあれば、いったん落ち着いてそれは暴走の始まりと思ったほうが良い。

追記

一人一派であってもフェミニズムであってもそうでなくても、明らかに読み間違えしてたり論点ズレてたり詭弁使ってたらそれは指摘しろよっていうのはその通り。

否定じゃなくてそれ以前。

個人経験以前の、否定をするしないのレベルでなく議論として成り立つかどうかのレベルだよね。

フェミニズムに限らずどの話もこレベルに全くなってないと思うけど。

ただ、フェミニズム自称する人たちが顕著にこの過ちをするし指摘もしないのはその通りだと思う。

https://anond.hatelabo.jp/20200810122723

2020-08-02

anond:20200801125822

増田文化人類学を学んだ方がいいんじゃないかね。

特に異文化理解方法論を学ぶといいよ。

SNS一見訳の分からないことを言っている人に直面しても、違う文化的背景を持った人だと思えば、その言動真意理解する方法はある。

相手意見に賛成までは別しなくていいけど、相手が本当に言いたいことを把握するのは大切だよ。

2020-07-11

anond:20200711133211

文化人類学で言えば、部族社会の頃から女>>>>>男なのは明らかなんよね

価値の高い女を消費して男と土地を手に入れてもしょうがいから、男同士で戦わせて土地と女を奪い合う。

合理的

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん