はてなキーワード: 菊と刀とは
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
社会人大学生として、その大学で知りあった死刑廃止国出身の留学生とたまたま日本の政治の話になり、なぜか死刑の話までひろがったので。その際のメモ。
死刑廃止国では警察官や特殊部隊の人が現場判断で「射殺」することがあるという。
世間的に大きな事件、被害者が子ども、性犯罪、被害者家族が一生悲しい思いをする。
生きて逮捕してしまえば犯人は天寿を全うするのだからはっきり言ってクソだという。でも死刑廃止は賛成しているという。複雑な心境だそうだ。
そのため、現場が忖度して犯人が抵抗したとか、銃を持っていた、攻撃しようとしてきたというテイで射殺しておくそうだ。
なんとも言えない気持ちと本音と建前とはよく言ったものだ。菊と刀という本を読んだことのある留学生は日本のことがそれなりに好きなようで仇討ち制度はいつまであったんだというのも興味津々だった。
を本屋で冒頭数ページ読んだら、「『菊と刀』とは、一見繊細で芸術を愛するように見えるのに、ふとした局面に途端に暴力的で強権主義的になる日本人の、二面性の著しさの象徴である」(要約)と書いてあって、もうそれだけで「この人はわかってるなー」と思って買わずに帰ってきたんだけど。
この、70年前の戦争記録から日本人を分析した論文と、ほぼ同じような感想を、現代日本を観察する欧米人の多くも持っていることだろう。日本に生まれ育った俺でさえ、これがまったく不思議でしかたない。
多くの日本人は、俺やこの種の欧米人にとっては当然のように「あわせて備えているもの」と感じられる性質のセットの、どちらかが平気で欠けていたりする。たとえば理系や芸術分野に携わる人間の、社会的理想像の幼稚さ……なんて言うと文系はてなサヨクは小躍りしてそうだそうだと言いそうだが、逆に言えば、歴史や社会を興味対象にする連中の、創造的活動への関心の低さも異常なのである。
「生まれて初めて料理(ハンバーグ)をするために調理器具から小麦粉から買ってきたら1まんえん以上した!自炊は高い!」なんて、冗談としても発想が小学生レベルで稚拙な記事を、いつもは『吾輩は知的である』なんて顔をしてる連中が「そうだ自炊は高いんだ」と拡散したりする。
まず、こんな記事を書けるような年になるまで、本当に一回も料理をしたことがない人間なんて、その時点でただの教育の失敗とは思わないのだろうか。
良い年して現代史もまともに知らず、ネットで感化されて修正史観にハマってしまうネトウヨと、低レベルさにおいて何が違うんだそれは。
欧米の「リベラル」はこんな中庸に欠ける連中ではない。少なくとも、主流の「スタイル」はこれほど低レベルではない。
人権意識を持ち、環境に配慮をし、知的好奇心に溢れるインテリだからこそ、「自分でやる」ことへの情熱を失わない。下手でもDIYや自炊への憧憬を見せる。
一方で、アーティストや職人肌のギークたちが、社会や環境に配慮したものづくりを意識し、積極的にメッセージを発信することも、ごく当然のように行われる。ギーク系のニュースサイトやブログでも、人道/環境配慮や科学技術政策のあり方(政治議論)に、正面から切り込んでいく。
これらは日本ではほとんどみられないものだが、本当にその理想を追求したのなら、人を知ることはものを知ることであり、ものを知ることは人を知ることであるといずれ繋がるのは、このように論理的には必定に思える。欧米では「当然あわせて備えているべきもの」と(少なくとも至上の理想レベルでは)見なされているこの両輪に、何故日本ではこんな断絶があり続けるのだろう?
『菊と刀』の奇妙な同居は、結局のところ、ものごとを薄っぺらな表層レベルでしか装えない、日本人の精神性の貧しさの現れでしかないのではないだろうか。
仕事がいやなのではない。怒られるのが嫌なのだ。隠さずに言えば、今年で48であるし、一課の長ではあるが、毎日怒られる。社外、社内を問わず怒られるのだ。いい年して、とは思わない。年を取れば怒られなくなる時代は終わったように思う。人は一生怒られ続けるのだろうか。多分、これから生きる人たちはそうなるのだろう。団塊の世代はとにかく怒るように思う。団塊の世代の前の世代がとにかく怒ったからだろうとみている。かといって、私は怒らない。怒られるのとおなじくらい怒るのは嫌いだからだ。私は怒って問題が解決した経験がないからだ。
多分、昔はみんなして怒って、そして、問題を解決していたのだろう。怒りが問題解決手法だったのではないだろうか。だから団塊の世代は、いま、社会の主たる構成員でないとしても、とにかく怒るのだろうと思っている。
最近になって、やっとアンガーマネジメントという言葉が使われ始めた。日本語ではないのだから、非常に格好悪く感じる。私は日本以外ではたらいた経験がないのだが、ほかの国で生まれ育った人間は、日本人ほど怒るのだろうか。また、日本人ほど、とにかく体裁もなく、怒りに身を任せるのだろうか。ネットでいろいろ調べてみたのだが、やはり日本人というか、中華文明の影響が強い国の人は怒りっぽいようだ。
とりわけ日本人は怒りっぽいのではないだろうか。「菊と刀」に言う、恥は死とする文化のため、いったん怒ることで恥を避けているのだろうと今は思っている。
自分は温厚だと思っている人でも、十分に怒ってばかりなので、基本的に自分は短気で怒りっぽくって、プライドが高くて度し難いと思って生きている。でも、怒られるのは嫌だし、仕事は怒りの交換ばかりなので、本当に嫌だ。
痛いニュース(ノ∀`) : 冷蔵庫に入りバイト先を閉店に追い込んだ学生S君 人生に悩み中 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1773273.html
このページを読んだんだけど、S君に同情する意見があまりにも少ないような気がするので愚痴を兼ねて書く
自分にはどうしてもこのスレの雰囲気がS君に対する集団いじめに見えてならない
「こういうやつはロリコン事件起こしていたかも」「幼稚園児冷蔵庫に入れてたかも」
S君みたいなDQNっぽい子はきっと仲間内では良い奴で、優しい奴だったんだと思うよ
ただ、馬鹿だっただけで。
こういうスレに書き込んでる人は、きっとある程度常識と教養があって頭もそこそこいいんだろう
でも、そういう奴こそ、自分より上の存在を知ってるから、自分より弱いやつを見つけるといじめるんだよな
たしかにそうだ
けど、「店や同僚に迷惑をかけた」ことに繋がる最終的なトリガーは、バイトテロ行為そのものではなく、「バイトテロ行為を“拡散”すること」だったんじゃないか……?
こういうことを従兄弟と話していたら、「でも、法律的に拡散することは全く問題ないし、冷蔵庫に入ることは社会通念上良くないじゃん」と言われた
ごもっとも。
でも、どうしてもこの拡散したり通報したりしてる奴って、この「法律」や「社会通念」とやらを隠れ蓑にして、標的を叩いてストレス解消してるようにしか見えないんだよ
たしかに「法律上」はS君を追い詰めることは問題ないかも知れないけどさ
「法律上」問題なかったら何してもいいのか?
そういうことをしている自分のなかに、なにか違和感を感じないのか?
俺はカントの本も『菊と刀』も読んだことないけど、そういう「自分の中で善悪の基準を決めてそれにしたがう」っていう発想はやっぱり大事だなと思った
バレなかったら何してもいいのか?
でもバレたらちょっと恥ずかしいって思うんじゃないのか?
本を読まない人って、ツマラナイ人間が多いです。正直見下しています。
話がツマラナイ、語彙が少ない、「〜だ」と断定するのがクセ、それなのに話の裏付けがない。こんなヤツと一緒に働きたくなんかありません。その上、文章を書かせても全くダメ。報告書もまともに書けない。
本を読まない人の特徴として、私が最も問題だと思うのは、彼ら彼女らはモノの見方が1つじゃないことが分かっていないのです。世の中には、色々な考え方があって、人の立場や状況によってモノの見方が変わるということを理解できないことが多いです。おそらく想像力の欠如が主な原因でしょう。
言い方を変えれば、価値観の相違を認めない人が多い。
国際化が進む社会において、価値観の相違を認めるということは、コミュニケーションの基礎です。それが出来ないのだから、正直言ってバカとしか思えません。
最近ネットを見ていると、批判されている人は本を読む人。批判している人は、本を読まないバカ。そんな構図が多いような気がします。
批判といっても建設的なものならいいけれど(それは色々なモノの見方があることが分かっている人がすること)、誹謗中傷の類をしているのは確実に本を読まないバカ。「自分が正しい、こいつが間違っている」そう思い込んでいるんでしょうね。
こんなことを書くとステマとか言われるけれど、ちきりんもイケダハヤトも本を読んで自分なりの理論を作り上げているのだからすごいと思います。でも、本を読めばあれくらいのことは誰にでもできるのです。
本を読まない人が、イケダハヤト信者、ちきりん信者になったり、誹謗中傷をする人になるのです。
本を読む人は、イケダハヤトやちきりんの言っていることを批判的に見て、いいところだけを自分の中に取り入れていけるでしょう。
つまり、信者と誹謗中傷している人は、本を読め。ただし、ちきりんが勧めている本を読むだけなら、それはちきりんを読んでいるだけだ。みんなが読んでいるから読むのではなく、読みたい本を読んで、自分なりの考えをまとめるクセを持ち、想像力を豊かにしていくことで、価値観の相違への理解もできるようになる。
逆説的ですが、自分の考えがある人は、価値観の相違への理解が深いです。
本を読め。
こんなことを書くと、本を読まない人はダメみたいな言い方をするのだからモノの見方が1つではないことが分かっていないとの批判を受けると思います。私もそう思います。ですが、本を読む以外にいい方法が見つかりません。なにかいい方法があれば、教えてください。
では今日はこの辺りで、ほなさいなら。
誤解されているようなので追記します。
もちろん私は、本を読まない人を理解しようとしていますし、本を読まない人との価値観の相違についても理解を深めようとしています。
しかし、次の点について誰か説明してほしいのですよ。
「本を読む以外にどう学ぶのか」
ということを。
私が思うに、学ぶ方法は、本を読む、人の話を聞く、旅をするの3つしかないと思います。ちなみに、実践するは、学ぶの次の段階だと思います。
この中で、人の話を聞くと旅をするは限界があります。しかし本なら、物理的な制約も、時間的な制約も受けずに学ぶことができます。最高の学びじゃないですか。
その最高の学びを放棄していることを実感しているのでしょうか?
私は、本を読まない人がこの点についてどう思うのか知りたいです。本を読まない人の価値観を知りたいのです。
その説明がないので、見下しています。正直言ってね。
ほな、さいなら。
そうだ、ひとつ忘れてた。
遊んですみません。本当の追記です。
「じゃあ、何を読めばいいの?」「あなたは何を読んでいるの?」との質問が多いので、お答えいたします。
そもそもこの質問を一度に答えることはできません。つまり、私が読んでいる本はあなたが読むべき本とは限らないのです。
あなたが読むべき本とは、あなたが読みたい本です。何でもいいと思います。好きな本を読みましょう。
一例として、私が今日読み終えた本は、『逝きし世の面影 』というものです。その理由は、外国人が日本をどう見ているのか、またはどう見ていたのかということに非常に興味があるからです。
ですので、私はここ最近ドナルド・キーンさんの本や『菊と刀』『日本における近代国家の成立』などを読みました。
少し前は、日本文化についての本を読みあさりました。その結果、禅についての理解が必要だと感じたため、それについての本を読みました。禅について知ると、仏教全体や他の宗教についても知りたくなったので、それに関する本を読みました。その後は、イスラム教に興味を持ち、何冊かそれに関する本を読みました。そして、次はまた日本に戻って来たわけです。
私は、ニーチェを読めとか、プラトンを読めなんて言うつもりもありません。読みたければ読めばいいと思います。
みなさんも興味のある分野があるはずです。例えば、ニュースを聞いていてアベノミクスについて気になったなら、それに関する本を読めばいいと思います。その上で、経済学について興味が出てきたら、更に掘り下げていけばいいと思います。
※ネトウヨの妄言なので、ネトウヨが嫌いなら読まない方が良いと思います。
(追記:当初、私自身が認識していたより、酷いことをいっているようです。ですので、読むと不快になる可能性が高いです。
基本的に、読まないことをお勧めします。削除しても、逃げたということで非難されそうなので、残しておきたいと思いますが)
連中の場合は、"情"が絡んでくるから厄介なんだと思う。
特に韓国人なんかは、"情"によって団結して、日本人を超えるみたいな考えもあるみたいだけど、事実は全く逆だと思う。
韓国人には"恨(ハン)"という概念があるんだけど、単に、"恨み"とかそういう次元を超えているらしい。彼ら曰く。
何が言いたいかというと、彼らは呪縛されている。つまり、呪われている。
具体的には、例えば、朝鮮半島は"半島"という地形が大元ではないかと思う。
三方を海に囲まれ、残りの一方が大陸につながっている。朝鮮半島の場合、日本に海上封鎖され、大陸から攻められたら終了。
同じような例として、スペイン内戦がある。スペインは、自国のあるイベリア半島につながっているフランスから攻撃を受け、イギリスに海上封鎖されるという逃げ道のない状態だった。その結果、血で血を洗う内戦。かなりのトラウマもの。ピカソがゲルニカを描いたり、ヘミングウェイが参戦したりしている訳だが。今だにそのトラウマは残っていて、最近だと、映画のパンズラビリンスはスペイン内戦を扱っていたのではないかな。
だから、"半島"というのは、基本的に呪われた地であり、韓国人は文字通り、DNAレベルで呪われている。<丶`∀´>←2ちゃんねるなんかで使われているこの顔が、その証拠で、大陸人(モンゴル系)に支配された証拠をDNAレベルで刻みつけられた。そう考えると、少し、背筋がゾッとするのではないだろうか。
(追記。上の記述は、一応、撤回しておきます。デリケートな問題ですし。ご不快になられた方、すみません)
ヨーロッパ大陸も、ユーラシア大陸から突き出た"半島"という見方も出来る。シベリアの遊牧民がたびたび攻めてきて、その結果、白人達はおかしくなってしまったという話もある。
映画の300(スリーハンドレッド)なども、白人対ペルシャで、ペルシャを禍々しく、妖怪かなんかみたいに描いている。アレは、白人のトラウマそのものだと思う(アラブ人はそれに反発したみたいだけど)。
それが、大航海時代の悲劇につながった。
300(スリーハンドレッド)に限らず、指輪物語(ロードオブザリング)も、スタ-シップトゥル-パ-ズも、バックトゥザフューチャーも、ロッキーも、白人は、"我々"と"彼ら"に分けたがる。
"我々"とは、キリスト教徒の白人、"彼ら"とは、宇宙人、未来人、ちょうの・・・いや、でも遠からずで、"自分たちとは違うもの"、滅ぼすべき敵、我々を支配するもの、我々が支配するものだったりする。
その役を、例えば、宇宙人や妖怪やロボットや、日本人なんかがやる。だから、白人が描く"彼ら"は醜く、異質で、おかしな存在だ。
(もっとも、"敵"を自分たちの写し鏡だとして考えると、白人はそのことを無意識的にも感じていると思う)
だから、日本人は、本当の意味での異世界、"ファンタジー"が描けないし、日本のファンタジー作品の住人は、容姿はどうあれ、中身は日本人ということになる。
白人の場合は、クトゥルー神話がその代表例だと思うけれど、本当に異質に描こうとする。
あと、白人でも、キリストを信じない共産主義者は、"彼ら"な訳で、80年代のハリウッドには腐るほど例がある。
(あっさり書きすぎたので、追記。多分、魂の存在を信じない唯物論者ということだからだろうか?日本人でも、唯物論者を理解出来ない人が多いかも)
それで、最初の話に戻ると、中国人は、儒教に呪縛されている。共産党全盛期に、共産党員が父親に笑ってしまうほど頭が上がらなかったという目撃談もある。
中韓人がなぜ、"情"に頼り出すかというと、彼らは彼らの世界しか持って無くて(中華思想。韓国も小中華思想)、主観(自分たち)しか存在しないから、他人の目を意識するということがあまりないので、構造と一体化してしまい、呪いに人格そのものが乗っ取られてしまうからだと思う。その結果、彼らは物事がよく見えなくなり、直情的になる。
でも、そんなに悲観的になる必要もなくて、最近は、中韓人も欧米の目を気にするようになってきたから、少しずつ状況は改善しているんでは無かろうか。
(中国のソース開示要請なんかを見ると、恨みはまだかなり残っているようだけど)
追記:
REV えさの付け方が甘め
反応早いッスね(笑)どの辺がそうだったか、ご指摘いただけると助かるんですが。
(もっとも、REVさんはいけずな方なので、教えていただけないとは思いますがw)
(再追記:ご返答、ありがとうございます。確かに、"支配された証拠"というのは誤解を生みそうですね。
結果的には、元々、朝鮮半島に住んでいた民族とは違う証拠にはなると思いますが)
yukitanuki ネトウヨの人なら賛同するのだろうか
どうでしょうね。私の個人的な発言なので、賛同する人もいるし、賛同しない人もいるでしょう。
私をレイシスト呼ばわりするひともいるだろうな、と思って書きましたし。
でも、呪いの構造を自覚しないと、不幸からは脱出できないと思うんですよ。これも個人的な経験ですが。
呪いと一体化して、人格を乗っ取られ、周囲に不幸をまき散らす例を何度も見てきましたし。
もっとも、日本語で書いた訳だから、彼らに私の考えを強制している訳でもないですし、する気もないです。
物知らずの面汚しでサーセンwwwww
私の妄言は、mobanamaさんの正論で粉砕していただけると嬉しいです。
なんとなく、語感がかっこよかったので使ってしまった面はあります。
ご指摘、ありがとうございます。
(以下、再追記)
サーセンwwwwww
これからも、みっともなく生きていきますよ!
comzoo 「日本人の性格」も「天皇」「武士道」「菊と刀」「敗戦」「戦後民主主義教育」とやらの呪いにまみれておるではないか。
その通りだと思います。
でも、日本人が、日本人のことばかり研究している現状に問題があるとは思いませんか?
外の文化と比較することによって、ある程度、相対的で、客観的な視点が得られると思います。
我々のどこが特殊でどこが外の人種と一緒なのか、それを考える必要があると思います。
(さらに再追記)
念のため書きますが、「呪いにかかっていること」と「不幸であること」は別です。
私の使っている「呪いにかかっている」というのは、「構造的に呪縛されている」ということであり、「不幸である」とは、自身の主観的な問題です。
ですので、「呪いにかかっている」からと言って、「不幸である」とは限りません。
相対的/客観的に、自分が/他者が「構造的にどう呪縛されているか」を認識することによることで、対処方法やその呪縛から逃れる方法も考えることが出来ると思います。
「菊と刀」戦時中、捕虜への尋問を通してルースベネディクトによって
描かれた日本人像。菊と刀には「静かさと激しさ」「天皇と侍」二つの意味が込められている。
さて現代の「菊と刀」を見てみよう。
全日本剣道選手権大会を見て思ったこと。
・試合中の猛々しさ。
試合を見ての通り、洗練された獣同士の戦いである。
・試合前後の丁寧さ。
試合上には互いに一礼して入り、試合後は一礼して去る。
彼らは胴衣や防具をまとうことにより、身にまとった質実な肉体より
内に秘めた獣の本能を引き出すのである。
アニメを見て、エロゲをやってみて思ったこと。
・イデアへの激情
友、愛、正義。真実を追い求めるパトスが肉体の根幹より発せられる。
・現実への忌避
真実から歪んだ様相に、世の喪に服し歩くのである。
彼らは世に忌まれる姿容をまとうことにより、求道者たることを世に示し
その悪寒をもってパトスに昇華させるのである。
なんかただ「さみー」ってうずくまってるってより凄く辛そうなかんじで。なんかものすご痛いんですってかんじで。
唸ってるし。「うぅ……うぅうう」とかいってる。
「やべえ…」
と思った。
これあれじゃないの。私は声かけるべきなんじゃないのかと。
で、周り見るけど、やっぱ皆、知らん振りなわけよ。
えぇー、どうしよう…えぇーって思ってさ。
いやいやいや。これさ。友達とかといたらさ。まだ声かけられるんだけどさ。一人だと……難しい。ものすご難しい。
でも、なんで難しいんだろ?って考えてみたら、結局、それは「恥」が根底にあるんだよね、「声かけてもし全然問題なかったり迷惑だったらどうしよう…」っていう恥ずかしさね。あぁ…菊と刀…恥の文化…悲しきかなニッポンジンとか一人ぼーっと読んだこともない菊と刀の本の装丁を思い浮かべてたらふっと、
「でも冷静に考えると、別に恥かいたって何か減るもんでもないんだし、そうたいした恥じゃないし、そんなちっぽけな恥を怖がって辛そうな人を放っておくってどうなんよ?ていうか別に恥だったら例のあの「よかった…辛そうな人はいなかったのね」になるだけじゃん?」
というところに至った。
「声かけたけどスルーされる・全然関係なかった・迷惑だったときの私の恥」:「その人がガチだったときの辛さ」を天秤にかけると同考えても恥の方が軽いだろ。
ってここまではっきりしてんのにでもなかなか言う勇気がなくて、あーどうしよどうしよう…って考えた挙句、
「あれっ?今気付きましたよ」みたいな演技(誰も見てねーっつーのな)をして「今まで声かけられずに葛藤してたわけじゃないよ?」みたいな感じを卑しくもアピールしつつ
「あのー大丈夫ですか」
って聞いた
聞いたつもりだったけど多分実際には「アノダイジョブですか」みたいに片言チックになってた
この時点で恥だろ逆に…
恥を気にするあまり恥かいてる
で、「大丈夫ですか」って言った直後に(こういうのってなんでだかしらんけど絶対直後に気付くんだよなあ、テストで終了のチャイムがなった直後に、かけなかった漢字思い出す、見たいな感じで)「ていうか、マジに辛いなら、答えるのもキツいんじゃないの?余計なお世話なんじゃないの?」って思って「あやっぱ今のなしで」ってよっぽど言いたかったけどまあいえるはずもなく
そうしたら
「……だっ……大丈夫です……」
……。
やはり……余計なお世話コースだった……
「そそうですか」とキョドりながらいかにも「あっ今メールがきました…友達から」っていう素振りで携帯を見た。
そして更に「全然気にしてないよ?よかった……辛い人はいなかったんだねって思ってるけど?」みたいな感じで平然を装う。しかし頭の中は「ぁあああああやっちまったあああああああああああああ」
これで相手が「実はおなかが物凄く痛くて…」「なんだって!それはいけない。待っててください!私が今救急車をよびますよ!」「なんて優しい人!どうかお礼を…」「いやただの通りすがりのしがない女子高生ですよ」「若いのに見上げた子だ!<救急士さん」みたいな展開だったら、家でおかんや友達に「いやぁ実は人助けしちゃってさぁ(花輪君ポーズ)」とかいえたものを、実に中途半端な結果となってしまった。
やっぱ現実そうそううまくいかねぇな……
それにしても、本当、自分は「駅とかでケンカしてる人とかがいたら駅員に通報するくらいできるよ」なんて思ってたけど、いざとなると、全然できないことが、ショックだった。「え?え?ちょっとまって。心の準備が……ソノ……」みたいな感じになるのな。うずくまってる人に声かけるのですでにいっぱいっぱいな私がケンカしてる人がいたら本当に駅員に通報できるんだろうか。なんか難しい気がする。せめて日頃から駅員の近くにいようと思った。すぐ近くにいればまだ声かけやすいかもしれない。遠いとそれだけ「駅員さん慌てて探し回って、通報して、駅員さん飛んできたらもういなかったとかマジ恥ずかしいよ」とか思う事が目にみえとるかんね……