はてなキーワード: 文化人類学とは
職業柄、やはり職場には右寄りな考えの人々が一定の割合でいます。(息苦しくなるほどではないですが)
以下のような考えを持っている自分は少数派でしょう。
・日本人も韓国人も中国人も、見た目的には殆ど変わらない同じ黄色人種でしょう。
・日本人でも韓国人でも中国人でも、同じように沢山善人もいれば悪人もいるでしょう。
・日本で一部の人々が日本を称揚して他国を貶すのは、韓国で一部の人々が韓国を称揚して(同左)たり、中国で(以下略)というのと同じレベルだと思います。
・文化人類学的に各民族や国民の特性を調べたり分析するのは科学ですが、それらに優劣を付けようとしたり好き嫌いの話をするのは感情畑の議論です。(無用とまでは言ってない)
・優秀な頭脳であっても、理性的な思考と個人的な好き嫌いの感情を混同してしまい、上記のような思想に走る人も少なからずいます。
・本来それらは、数学と国語ぐらい(無いとはいえないけれど)関連性が低くて、多くの場合は区別して別々に考えるべきことだと思われます。
・よって、彼らの頭脳には到底追いつかない僕は、より沢山このことを戒めなければならない。
でも僕は、職場での人間関係をとても重要視しているので(ぶっちゃけそれだけで人生が天国にも地獄にもなりうる)、異論を唱えるような発言は絶対控えるようにしています。
家の最寄り駅から電車に乗って、車内を見渡したらほどほどに混んでいた。
ふと見ると優先席がひとり分空いていたので、座った。
数駅後に、老人夫婦が乗ってきた。
ドアが開いた瞬間から、奥さんが杖をついた夫に「大丈夫、ほら、ここ隙間があるから気をつけて」のように大声で説明しながら乗ってきた。
優先席の前に来たところで、わたしの横にいたおっさんが立った。
奥さんは「ああ、いいんですよ、一駅ですから」と言ったが、夫を座らせた。
すると、立ったおっさんがいきなり私に「立ちなさいよ!」と叫んだ。
えっと思いつつ立とうとすると、奥さんは「いいんです、いいんです、一駅ですから」と言ったので、また座った。
夫婦は次の駅で降りていき、空いた席には他の人が座った。
しばらくすると、立ったおっさん(Aとする)が大声で「最近の女は図々しいね〜、びっくりするよね〜!」と言い、そのおっさんの横に立ってた別のおっさん(Bとする。Aとは知り合いではない)が「ほんとだよね〜! なんなんだろうねえ!!」と言い始めた。
「は?」と私がAの顔を見ると、
B「スマホいじって」
B「書いてあるじゃねえか、そこに(顎で「マナーモード」云々のステッカーを指す)なんなんだよ、お前は…」
私「お前ってなんだよ」
B「お前はお前だよ。何様だよ!」
私「お前こそ何様だよ」
いきなり知らんじじいにお前呼ばわりされ、二人掛かりで攻撃されて、頭が真っ白になった。
あるいは、席を立てば良かったのか。
席を譲っていいですいいですと言われてまた座るという茶番もいやだった。
その一瞬の判断ミスのたために衆人環視のなかで罵倒されたことにショックを受け、私はさらなるミスを犯した。
B「なんで座ってんだよ」
に対し、
私「病気なんだよ!」
と言ってしまったのだ。
このときの心理を分析すると、一発逆転を狙ったというより、ぱっと見でわからない病人や障害を持つ人だっているんだ、そういう人にも言うのか、という気持ちが強かった。
というのも、職場で仲のいい人が見てわからない障害を持っていることもあり、勝手に代弁したような気になってしまったのだ。
また、車内にはそこそこ人がいたにも関わらずみな固唾をのんで成り行きを見守っており、こういう場合もあるんだと聞かせるつもりもあったかもしれない。
なにより「病気だ」といったからといって、今さらおっさんどもがひるむとはとても思えない。
すると、案の定Bは
と言い出した。
私「そんなの自由でしょ」
B「じゃあ、何の病気なんだよ、言ってみろよ!」
B(吊り革から身を乗り出し顔を近づけ)「嘘なんじゃねえの?????」
このときのBの顔は忘れられない。
口元は嘲笑したくてたまらないという感じに奇妙に歪み、目だけはターゲットを見つけて爛々と輝いていた。
ネットで見知らぬ人を延々と叩いているような人はパソコンやスマホの前でこういう表情をしているんだろうと思わせる、文化人類学的にも興味深い顔であった。
嘘なんじゃねえの、と言われれば嘘である。
しかし、この言葉を引き出したところでBは落ちるところまで落ちたな、と思った。
いや、冷静に考えると目くそ鼻くそではあるが、しかし自分のなかでこいつを相手にすると自分も落ちると気がついたきっかけになった。
A「育ちが悪いんだな」
B「頭も悪いw 頭が悪いんだよ、あれは」
A「どうしようもないよな」
などと5駅分くらい罵倒していた。
いったい、子供も孫もいるようなじじいが、しかも見知らぬじじい同士が、あそこまで結託して私を叩いたのはなんだったんだろうと考えると、おっさんAの「俺は立ったのにあの女は立たなかった」という気持ちではないかと思い当たった。
だからこそ最初の言葉は「近頃の女は〜」になるのだろうし、「お前は何様だ」になるんだろう。
俺様は立ったのに、なんであの女は立たないんだ、というわけだ。
(思い返せば「お前こそ何様だよ」と言ったときだけ一瞬ひるんだ。さすがに「男様」「年長者様」とは言えなかったようだ)
自分の周りに露骨に女性蔑視の男性がいなかったために、この心理に思い当たるまでに一日かかった。
しかし、席を譲るのは善行だが、その行いのツケとして公然と女叩きをするって、なにがしたいんだよ。
この日は一日落ち込んで仕事にならなかった。
挑発に乗らずに黙っていればよかった。
なんで嘘を言ってしまったのか。
今後は優先席には座りません。
あと、「いいんですいいんです」を真に受けずに譲ります。
追記:これ5ちゃんの鬼女板だったら「その後」スレに「あの後、また会ってしまい暴力をふるわれたので今日警察に被害届を出しました」って書き込みするとこだけど、そんなことにはなってほしくないぞ。
でも、それくらい怖いよ。
身バレしたくなくて増田に書いたので路線名や駅名は書けませんが(毎日乗ってるので)、品川区、目黒区、大田区辺りの出来事だと思ってください。
ですが、こういう人はどこにでもいる気がします。
動物は人間のご飯でした。過去数千年も人間は狩猟採集で生きていました。
狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカやイノシシを食べて生き抜きました。私たちの祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜化しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育のノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。
色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端の料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージやベーコンや干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料でスパイシーに食べる民族もいます。食文化は、宗教やその土地の気候と密に絡み合いながら発展してきました。
文化は人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。
生物学的にも人間が動物を食べるのには意味があります。日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化したから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから。
連綿と続くこの歴史の中で、動物が可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。
しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から肉食文化を奪うことは文化の破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。
食文化は生活に根付いて始めて意味があります。レシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化を永久に手放してしまうことになります。日本の和食が文化遺産であるように、世界の肉食文化は和食よりもうんと重要な文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化も尊重されるべきです。
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?
はじめに書いておくと、『日本国紀』がデタラメの塊なのはかれの書くノンフィクションがデタラメだらけなのを見ていれば容易に予想がつくことで、『日本国紀』がデタラメだというその結論に異議を申し立てるつもりは毛頭ない。あんなデタラメ本をわざわざ読み込んで批判されている識者の方々には心から敬意を表する。
だけど、ちょっと待ってほしい。参考文献がないという話だ。いや、参考文献が大事なのはわかる。研究書に参考文献がないのは論外だ。そして『日本国紀』にも参考文献が書かれていないということで、こんなん歴史書としてありえないとかさんざん言われている。『日本国紀』がクソなのはよくわかるのだが、参考文献リストがないからクソとか言われてしまうと非常に困惑する。
なぜなら、現に「参考文献が書かれてないけど、良い一般向けの歴史入門書」というものも存在しているからだ。
ぶっちゃけて言うと岩波新書で出た入門書の類である。中公新書や講談社現代新書は最近「もう選書でやれよ」と言いたくなるくらいに参考文献リストを充実させており最近だと本文中での典拠明示もバッチリやっていたりするが、岩波新書は参考文献を載せていない一般向けの歴史の本というものを継続的に現在に至るまで出し続けており、その内容がデタラメというならともかく出版から時間が経っても良質な入門書として評価され得るようなものだったりする。
百田を批判したいあまりに「参考文献がないなんてありえない!」と言われると、過去に岩波新書で出版され私を現在の研究分野に導いてくれた良書の数々が肩身の狭い思いをするので、もうちょっとこうなんというか、手心というか……。
参考文献は、当たり前だけどあった方がいいに決まっている。仮に知り合いが「これから一般書を書くんだけど、編集さんから参考文献は削ってって言われちゃった。どう思う?」って言い出したら「いや編集とバトルしてでも参考文献載せろよ」って言うだろう。だがもう出ちゃった本に対しては「良い本だけど、参考文献があればもっと良かった」としか言いようがなく、百田の本を叩きたいあまりに参考文献リストがないなんてありえないとか無価値だとかそんな言い方をされると、気持ちはわかるんですがそれはちょっと賛同できないっすね……とボソボソ呟くことしかできなくなってしまう感があり、あれだ、みんなもっと色んな本読もう……
本論とは違うが、ちょっとだけ言いたいこと。
参考文献は必要だが、「巻末参考文献リスト」はなくてもよい。あった方が便利なのは確かだが、本文中に典拠が明示されていれば、紙幅を気にして削ってしまってもよい。文系の場合、参考文献を示すのに色々な表記方法が有り得るが(MLA styleとか)、脚注に書誌情報を記すやり方もあり(具体的にはシカゴ・スタイル見てもらった方が早いか→ https://www.chicagomanualofstyle.org/tools_citationguide/citation-guide-1.html )、この方式の場合参考文献リストは「あれば便利」という位置づけに過ぎず「必須」ではない。いやもちろんあった方が便利ですよあった方が。でも脚注だけでも「典拠を示す」という最低限の役割を果たし得る以上、紙幅が足りないねじゃあどこ削るとなったときに真っ先に参考文献リストを削るだろうなと思う。別にこれは日本語圏のみのルールではなく、英文査読誌でも脚注で典拠を示させるスタイルの場合は参考文献リストをつけない場合が多いんじゃないかな(author-date方式の場合は当たり前だけど参考文献リストが絶対必要です)。たとえばこの雑誌→ https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=fnep20 は脚注スタイルなので参考文献リストはつけません。甚だしい場合は書籍からも参考文献リストを抜くことがある。いやほんと参考文献リストをつけてほしいのだが、しかし出典表記の義務はきちんと果たしているので、問題は単に「チェックしづらい」というだけだ。なのでめんどくせーと思いながらも注を丹念に辿って出典チェックをしたものです。ちなみに日本で出た一般書の話ではなくハーバード大学出版会から出た英書の話なので誤解なきように。出典注とfurther readingはついてるけど引用文献リストはついてない、というのも見るな(MazowerのDark Continentとか)。
「巻末に参考文献リストを置いていない」ことと「いっさいの出典表示をしていない」は文系においてはまるっきり別の事柄であり、「参考文献がないのは駄目」という言説が後者の意味で言われているならいいのだが前者の意味で言われているのならそれは明白に間違いなので勉強し直してほしい。いやだって文系の研究書を乱読していれば絶対に「注で参考文献を表示しているけど、巻末に文献リストはない」本に一定数行き当たるでしょ……?(あー、社会学や文化人類学のばっかり読んでたらそういう本には当たらないかも。文学とか歴史学とかだと稀によくあるんだよなー)
あと、新書とかエンタメ路線に振った本とかで注がないのは許せるのだが、ほぼ研究書並の分厚い本を書いておいて注を省くのは本当にやめてほしい。自分の専門からは遠いから名指ししておくと最近出たやつだと『アイルランド革命1913-23』とか『ドイツ植民地研究』とかですね。新書とかは学識の折り詰めやエッセンスのようなものなので厳密な出典注を省いても別にいいというか対象読者が違うし……感もあるのだが、この厚みでこの内容で出典注ないのは勿体ないし価値を下げてしまっている。いやもちろん両方ともきちんと緻密な参考文献リストをつけてくれているのである程度は出典の見当がついたりするのだが、このボリューム、この内容で注なしは流石に……これなら、注をつけて文献リストを省いた方が100倍マシだと思う。だってどこを参照してるかわかんないじゃん……いちおう言っておくと英語圏でもこういう「なんで! この厚みで! この内容で! ちゃんと注をつけないの!」という本は存在するので日本の文系はガラパゴスだとかそういう話を始めないようにね。でも注を省いてこのお値段なら注をつけたらいったいおいくら万円になっちゃうの……? というのも一方で思ったりするので難しいところなんだよな。ただでさえ日本語でも英語でも学術書は高いのにねえ……
お前はもうずっと増田で、「査読がないことは論文の質を決定する要素ではない」と言っているだけ。それに対して、高いレベルの査読が行われていなければ再検証の対象としての優先度は下がるし、再検証されない論文は被参照数が増えず、論文としての価値が低いと言っているわけだ。査読は優れた研究であることを同業者に認められるための条件の一つになるが、査読されていなければ再検証も行われず優れた研究と認められることは稀である。ゆえに査読されない事は、論文の価値を実質決定する。
被引用数にやたらこだわる人が多いと思ったらそういう理由があるのね。当たり前だけど、マイナー事象を扱っていればメジャー事象を扱ったものより被引用数は少なくなるから、それは直接価値を測る尺度にはならんよねって話をしてるわけ(この問題はとうぜん査読誌にも存在するよ。英語圏でも日本語圏でも、ナチスについての歴史研究とそのへんの小国の歴史研究、読まれる頻度が高いのは研究者人口からいって前者なわけで。まあ当の小国で出た論文に限れば頻度は逆転するわけだけど)。あと、論文の中でダメダメな研究を引用した上で批判する、なんてのもよくやるよな(まさかやらんのか?)。このような研究分野において、被引用数は文字通りどれだけ多くの人に引用されたかという尺度に過ぎず、引用の多寡は直接的には論文の価値とリンクしない……というのは流石に理性があればわかってくれるよね? まあ実質的にリンクしている分野があるのは理解したけれど、他分野においてもリンクしている、あるいはリンクさせるべきだという主張はまったくもって理解に苦しむ。
そして、社会学においては、偉い先生が書いた査読もされない招待論文が価値があるとみなされる構造に問題があると言っている。当初から査読の有無は問題視されていない、論文のクオリティを担保する仕組みについて社会学での在り方が、社会学者内でも文科省でも疑問視されている事を指摘されている。
偉い先生が書いた良い査読なし論文には、そのへんの若手が書いた微妙な出来の査読論文よりも価値がある、という話なので。そしてもちろん近年は査読重視にシフトしている、という話もさんざんなされているわな。同じ社会学でも世代とか環境によって「格」の考え方には差があるわけで、1人の学者の放言に基づいて構造を云々してしまうのは到底科学的な態度とはいえない。まして、社会学に限定するのではなく、「文系」というより広いくくりでの議論をしようとするならば。要するにきちんとリサーチしろと言っている。ろくに対象について調べずに的外れなこと言ってんじゃねーよバーカ、って言えばわかりやすい?
お気持ち表明学問とは違って、理工学は先行研究との間の比較実験をして、実験結果について先行研究との比較を解析的に行う。先行研究との比較には、同様の実験を再度行う場合や、同じシステムを構築しなおす手間を含む。時には、予算も時間も考えられない程かかる。
先行研究との比較ねえ。まず文系といっても色々あるので一概に言えないわけだが、たとえば歴史学なら先行研究で引用されている史料はチェックするよな。文学なら、まあ文学といっても多種多彩だけど、刊本が容易に手に入る小説の内容についての分析なら手元か図書館に同じ本があるはずなんだから再検証は容易にできる。のでみんなやってるはず。逆に文化人類学なんかはフィールドワークのデータに依拠する以上原理的に完全な再現が不可能だけれど、そこは天文現象についての研究と同じだと思ってもらえれば。一回性の振る舞いを膨大に集めて理論を構築していくという意味で。社会学も、フィールドワークに基づいたやつなら文化人類学と同様だし、統計に基づいているなら統計に基づいた議論ができるよな。法学は、まあ、条文が目の前にあって、それをどう解釈すべきか、あるいは個別の事件がまずあって、そこに条文をどう当てはめるべきか、という議論だから、再現性とかあんまり関係ないと思う。とまあこんなふうに、分野によって「再検証」のあり方というのは実に多種多様なのね。理系とひとくくりにされてはいても、工学と天文学と生物学と理論物理学と数学じゃあ「再検証」のあり方は違うっしょ? 理工系がスタンダードな研究のあり方、ということではまるでないわけで、そうなんですか理工系ではそうなんですね勉強になります、以上のことは言えない。
逆を言えば、文系の場合は、査読の有無にかかわらずただ読むだけでいいという事だろう。論文の良しあしに関わらず、ゴミの山に埋もれるのは空しいな。そして競争もない。
ただ読むだけでいいというのが何のことなのかはわからないけれど、普通に競争はある。考古学なら新しい遺物が発見されたとか、歴史学なら新史料を見つけたとか、そういうマテリアルな新規性もあるし、独創的な理論や解釈を提唱したという意味での新規性もあるわな。そして同じ事象を研究するにしても出来のいい研究と悪い研究とでは当然与えられる評価も異なってくるし、違う事象について研究していても同じディシプリンの中にいる以上出来の良し悪しというのはわかってしまうわけで(だから被引用数を重視する文化が存在しない。たとえどれだけナチス研究の方がそのへんの小国研究より注目されていようと、出来の悪いナチス研究と良く出来た小国研究なら後者の方に価値があるから)。
残念ながら出版することは誰でもできるんだ、金さえあれば。
たとえば適当な査読誌をでっち上げて査読してますと謳って実質無査読の論文を垂れ流すことは同じく金があれば誰でもできますが、そうやって出来上がったものが研究者コミュニティにおいて信用を得られるか、というとまた別の問題。
著者がこれまでアカデミックキャリアを積んでこなかった人だったりしたら、「あっ……(察し)」となって黙殺ルート一直線でしょうね。アカデミックキャリアを持つ人が書いたダメな本だったら、どこかの書評でフルボッコにされた後になかったこと認定かな。学術誌って書評欄ありますよね? あそこ見るといいですよ。雑誌によるけど、権威のある雑誌だったらあれが足りないこれが欠けてる○○語も読めねえのかとか言いたい放題してます。もちろん後発の論文や本の中で批判されまくることもあるでしょうね。当たり前ですけど先行研究の批判はちゃんとやるわけで。
出版社だって、長年良質な学術書を出版してきた、ある分野での定評のある出版社、みたいなやつがあるわけですよ(cf. anond:20180828185404)。日本語圏でも英語圏でもそうです。そういうとこは慣れた編集さんがきちんとチェックするし、まあたまに事故ることはありますが基本的に変なものを学術書であるかのように装って出したりはしないわけで。あと最近は科研費の出版助成とかもあるんで、あんまりにもダメな研究は助成されないし、単著の出版に際して査読を科す出版社さんも出てきてますね。
まー、こういう評価の仕方は数量化しにくいですねえ。権威主義とか職人芸とか言われても仕方ないかもしれない。
ただ、こんな当たり前のことを説明しなければいけないのかと若干徒労感があるのですが、文系にも研究の出来不出来による評価軸というものはあり、また信頼性を重み付けしようというインセンティブも存在するわけですよ。
査読論文なら盲目的に信奉する理系の人なんていないでしょ? それと同じですよ。単著だからって無条件でありがたがったりはしない。だいたい単著ほどのボリュームのものを書く以上はどこかに土台となるような論文(群)が存在し、それは何らかの形で人目にさらされていることが多いわけで(もちろんなんの予兆もなしに単著出しちゃう化物がいないわけじゃないですけど。あとはドイツとか特殊事情がある国もあるので、まあ……)、信頼に値する業績を挙げてきた著者なら「おっ! ついにアイツが単著を出すのか!」「あの研究ようやく本になったのか!」みたいに迎えられるでしょうし、怪しい著者はその段階でお察しな扱いを受けるんじゃないですか。実際に出来上がったものの出来は、それまでの研究の出来からある程度予想つくのはわかっていただけますよね。
もしもこれが日本だけの慣行なら、あるいは社会学だけの話なら、ガラパゴスと非難されても仕方ないかもしれない。けれど実際には、アカデミックな単著を業績にカウントするのは英語圏もロシア語圏も同じです。フランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが、単著や学術的論集の1章は立派な研究業績。私の本棚には英仏独語で出た外国人の著書が並んでますが、どれもそれぞれの国で研究業績として立派に通用しています。私は社会学だけじゃなく歴史学や文化人類学や政治学の学術書も読んだことがありますが、どれもちゃんと研究業績として扱われていますし、内容もまっとうな研究でしたよ(ハズレがないとは言いませんが)。
文系の出版したがりになんの問題もないかというとそれは違って、文系の中でも色々議論はあります。そしてその議論は非「文系」にも開かれているべきでしょう。ただ、そもそも論として、このへんの文系事情をろくに知らない人が自分野のローカルルールを振りかざして口を出してるのはほんとムカつきますね。文系の研究書を1冊でも読んだことがあるのかと。外国語の文系の論文を手に取ったことがあるのかと。文系の論文を読みもせず、英語やその他の言語での学術書を触ったこともない人たちに、文系の慣行をジャッジする資格なんてあるはずがない。
id:yuimoke ふむ。文系の論文の質的担保について。
id:n314 えっと、内容の正しさの保証は、つまりどういうこと?著書、どこかの書評、定評のある出版社、編集さん、出版助成、査読、土台の論文群、過去の業績、これらから総合的に判断するということかな?
自分で読んで判断しましょうよ……理系だって、査読を通ったんだから正しいに違いない! なんて思わず、批判的検討するっしょ? それともそういうプロセスをサボって無批判に論文の内容を受け売りしてたひとたちが文系の慣行にケチつけてるってことなんですか?
文系基準でも出版社の編集によるチェックは査読とは呼ばないです(査読をする出版社もあります。たとえば→https://twitter.com/saisenreiha/status/1049653174045270021)。一度もそのプロセスを査読とは呼んでいないでしょ? 頼むからきちんと読んでください……
id:napsucks でも批判的な観点でチェックされてるかは疑問かな。堂々と立派なところから本出してた旧石器捏造みたいな例だってあるし。
そんなこと言ったら理系の査読だって小保方晴子や黄禹錫やヘンドリック・シェーンを見抜けなかったんだから、たいした意味ないんじゃないの? って話になりませんか。この3人、NatureやScienceに堂々と載ってたんですが。
id:junmk2 金だけで動く会社から出版し専門家からフルボッコにされても、そんな情報に一般人はアクセスしないので、論文があります単著があります権威は十分通用する。「まともな」専門家と形式的には変わらない。
たとえばJournal of Nutritional and Environmental Medicineみたいに?(cf. http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20150220#p1)
id:himakao この出版不況の中、論文の中身まで編集がしっかりチェックする余裕があるようにはとても思えないんだけど、文系研究者の論文本って界隈で質が高いと評価されるとそんなに売れるもんなのか?
売れるわけないでしょ(涙)……とだけ言うのはアレなので補足すると、もちろんこれは本の内容によります。現代思想とか戦国時代とか、一般の読書家にもファンが多いテーマならひょっとしたらワンチャンあるかもしれませんが、マニアックな文化人類学研究とかだったらまあまず売れないです。だから出版助成もらうわけですけど。著者にも金銭的負担が生じることは結構あると思いますよ。
id:Dragoonriders なるほど。徒労感はあろうかと思われるけど、畑が違えば、みんなよく知らないんですよ。
徒労感があるのは、文系の評価基準を知らない人が多いことに対してじゃなくて、文系の中にも研究の出来不出来があり論文や著書の信頼性を重み付けするメカニズムはある……という至極当然のことに思い至らない人が多いことに対してです。査読が重視されないならあらゆる研究がフラットということになりその中で優良な研究を見分ける作業に時間を取られるのだから非効率だ! みたいな論を立ててる人とかね。人間社会なんだから何らかの形で評価のシステムが生まれてくる、ってことくらい、別に具体的な事情を知らなくてもちょっと想像力があればわかりそうなもんだけどなぁ。
id:hisawooo その「お前らはよく調べて論文読んでからじゃないとジャッジしちゃいけないけど俺たちは見た目だけで判断して良い」という奢りはどっからくるの?
あのなー! 俺はキズナアイの服装なんて公共の場に出して全然オッケーな露出度だと思ってるわ! 特設サイトだけじゃなくてNHKの夜のニュースに出てても批判せんわ! ラノベの表紙におっぱいを強調したチャンネーがいて何が悪いって思ってるわ! 社会学全体や文系全般を叩くやつがいたから反論してるだけ!
もうほんとふざけんな。どっち側もクソすぎて付き合ってられねえわ。
社会学者は査読も受けず、適当な作文が業績になり、同じく査読を受けてない作文を業績にしてきた、いい加減な人間の集まりである教授会で、承認されたら教授になれるとか言う、クソ教員の量産をしている態勢が問題だと言われている。
もうほんとこのレベルの難癖に応答するの疲れるんだけど、『社会学評論』にも『ソシオロゴス』にも査読あるわ。有名どころの社会学の学術雑誌にはたいてい査読あるわ。
私は社会学者じゃないけど、私の分野(人文系)でも有名で評判のいい学術誌にはたいてい査読があるわ。フェミニズムなら『女性学』、文化人類学なら『文化人類学』、他にも詳しくは書かんが色々な分野で出てる学術誌に査読があるわ(つーか院生向け紀要にも査読があるわ)。私の周囲で採用された教授や准教授はたいてい査読論文持ってるわ。私も含めて若手の多くは査読で落ちてるわ。
主だった雑誌のことも知らないくせに、目立った1人あるいは数人の社会学者の言動と業績を取り上げて社会学や文系全体を無価値と断罪するの、リテラシー()とやらを持ち合わせている人間のやることとは思えんね。文系をdisるときだけ調査もしないエビデンスも重視しない理系()様って多いよな。ずいぶん気楽な商売だ。私はこれを書く前に主だった雑誌の投稿規定を一応チェックして、周りの評判を聞くに査読をしているはずなんだが投稿規定に査読をすると明記してない雑誌は抜いたりしたんだが、理系()様はどうせどういう雑誌があるかも知らなかったんだろうな。ろくずっぽその分野を知りもせず思い込みでdisる自称理系()の皆様、どうすればそんな馬鹿になれるのか教えてもらっていいですか? 理工学部とかに進めばそういう馬鹿になれますか?
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
私は君たちが豊かな文系教養科目を受講できていることを羨ましく思う。
自分たちまでの世代は文系教養科目というと、オーソドックスで最高の座学か、“学士号しかないのに都の西北で教授になった金髪の胡散臭いインターネット昔話”くらいしかなかった。
ああ、悪魔祓いの話をしてくれるオタク蔑視のクレイジージャーニーもいた。
彼は文化人類学が専門らしいが、弊学のオタクたちの情緒は理解できなかったのかな。
あれほどまでに他者と向き合ってきた学者もオタクとなると未成熟なヒトとしか捉えられないらしい。
さて2016年以降入学の聡明な学生諸氏においては、最近の立看板や張り紙など学費値上げに関連した様々な活動を展開されているようで大いに結構である。
しかし2016年以降入学の学生がリベラルアーツ教育で無限の教養を手に入れているというのは自分の誤解であったのか、もしくはあの素晴らしいリベラルアーツ教育ではあまり社会学に触れる機会がなかったのか、はっきりとはわからないが、ここはひとつ「景観」という概念について述べたい。
学生諸氏が知らないのはNHKニュースおじさんが教えてくれなかったのが悪いのだが、「景観」というのは社会的に共有される財産の一つである。
景観とは誰もが参加しうる実体に関わる価値であるために、スワンボートやまことちゃんハウスは批判されていたのだ。
そもそも大学のキャンパスというのは実際には難しい公共的な立場にある。
完全に公共に開かれた場所ではなく、指定国立大学法人の管理する土地である。
しかしその法人の性質上、ある程度まで公共に開かれて地域に貢献することが望ましい。
また近隣住民が銀杏を拾っているだけで烈火のごとく怒り出す理学部の教授と、自転車走行禁止区域の傘さし子連れ自転車マダムを調停するのも大学法人の責任ではないかと思うが、その問題自体はここでは無関係である。
ここで大学のキャンパスには上記のような公共性が求められているということがわかるだろうか。
つまり学内だから地域社会とは独立である、もしく国立大学なので自由に市民が利用できる、という言説はどちらも間違っていて、端的に不寛容な価値観だと言わざるを得ない。
このような状況の中で「景観」について考えると、大学の中にあってもその景観を破壊することが何を意味するのか。
ここから明らかなように、景観を破壊することはそれを共有する全ての人々の財産を破壊しているということになる。
もちろん大学のキャンパスの中では大学の許可があれば自由に看板を建てられるし、百年記念館の素晴らしい扉にポエムを書きつけることだってできる。
しかしそのような行為によって景観を破壊することは高等教育を受けているような知性の持ち主に要求される倫理において当然許されることではない。
そもそもあの立看板は無許可であったのだが、それは今回述べたこととはあまり関係ない上に、この大学で学生による自治の概念が絶望的に欠落していることと文化的に京都大学を経由していることによって私の語りうるところではない。
ちなみに社会工学科の人は、川喜田二郎によって弊学の学生運動が懐柔させられたという噂の真偽をコメントしてほしい。
話が脱線したが、大学において求められる景観について十分に説明できただろうか。
私は景観とは都市的な文脈の中で位置付けられるものであると考えており、そのため京都大学に立看板を立てることを問題視する立場にはない。
この大学の景観を良いとは言えないが周辺の住宅地は幾分マシな方である。
端的に言おう。
特に百年記念館の扉にダサいポエムを貼ったり、80周年記念館の壁に「ここは80周年記念館です」などと意味不明のダサい案内を貼るのはやめてほしい。
ダサさが問題なのではない。
それがどれだけ格好良くとも、周囲と調和が取れておらず景観を破壊しているのが問題なのである。
施設管理課の人間がどれほどの教育を受けた人間なのかは知る由もないが、おおよそ高等教育を受けた人間のすべきことではないので中卒だと思う。
意図せず大学批判になってしまったが、この日記の目的は2016年以降入学の聡明な学生に景観について考えてほしいということである。
今や街にアニメキャラクターの巨大な広告があってもそれほど問題にはならなくなったことや秋葉原ではそもそも問題ではなかったことを思い出してほしい。
大学教育というものについてよく理解できていない人間が多いようだが、大学は教育を受ける機会を与えるのみである。
「〜を教えてくれないのはおかしい」や「〜を教えるな」など批判にもならないような意味をなさないヒステリーをtwitterに書き殴るのも本当はやめたほうがいい。
そもそも現在行われているようなリベラルアーツ教育が意味をなしていないのは学生に教養が足りていないからである。
高等学校までで教わるような基礎的な知識をロクに覚えてもいないから、議論をしても無が展開されるのみであるのだ。
文系科目を雑に批判して自らの無教養を醜く晒すのではなく高校の教科書などを読むとよろしいかと思う。
確かにクレイジージャーニーやNHKニュースおじさんの施策は最悪だが、大学という場所は自分で勉強することができる場所でもある。
「もし街中で突然性欲が溜まって変な気を起こしそうになったら、急いで家に帰ってクジラックス先生の本でオナニーしなさい」
彼の語る『二次元性欲発散法』によって今までに救われてきた患者は1人も居ない。
「三次元に性欲を向けるから、犯罪行為が選択肢に入る。二次元で抜けば犯罪者になるのは防げる」
彼がそう主張すると決まって
『知るかバカうどんのような作品を読むから変態性癖が蓄積して暴走する』
と反論される。
「こんな社会で論文を余に出せば、私の文化人類学者としての人生は終わってしまう」
そう語りながらスケベ・ニンゲン氏はぷにあなDX(オナホール)をろくろのようにグルグルと回していた。
「今はオナホールやラブドールのクオリティも上がっている。肉体的な欲求をぶつける手段として生身の人間を選ぶ必要も無くなってきている。二次元で抜くのにはとても都合が良い環境が整っている」
「わざわざ犯罪のリスクを犯し、刑務所で禁欲的な生活を送るよりも、自分の部屋で安心して二次元でオナニーするほうが幸せであるという事を多くの性犯罪者に理解して欲しい」
「性犯罪者の社会復帰において一番必要なのは、性犯罪をしないほうがメリットの大きい生活がこの社会に既に用意されている事に気づかせること」
「二次元でオナニーをさせてみて、それで満足できるという事を教えて上げる必要がある。性欲は三次元で発散するものだという思い込みが人を性犯罪に走らせる」
彼の語る理想が実現する日は、彼の理論の正しさが証明される日は来るのだろうか。
「エロ漫画の社会的立ち位置はとても弱い。緋鍵龍彦の代表作が断裁分離のクライムエッジ だと言われているのが何よりの証拠だ」
全てのロリコンと子供が安心して幸せに生きられる時代を目指し、今日も彼は誰にも発表することが出来ない理論について研究を進めている
元々ブルマ競技の選手で社会人になったら維持に手間かかるからできなくなったが
それでもなんか似たようなのあるだろと思ってパンティーに行き着いた
英語の文献を漁り、ベトナムやラオスに住むモン族のパンティーやパンティーの歴史に至るまでを調べて真似て、卒論書くとき以外で使ったことのないCiniiから中国の怒族やリス族の文化人類学の論文を探し出し(原始的な弩を昔から使ってる少数民族だから)ホームセンターで材料を集めて制作して試着をする
1500円もあれば、鉄鍋の底やステンレスのパットを紙切れみたいにぶち抜くパンティーを作れるようになったけど
このあまねく知的探求の成果を世に出したいけど、そんなの研究したり発表できる学会や学部なんてないんだよね、多分この分野にかけては日本で一番の知識を持ってると断言できるのに