はてなキーワード: 思慮深いとは
小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員、部落解放同盟広島県連顧問
解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である。自分の政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。
上のニュースの人は、かつて解放同盟の事務方のトップだった方だ。昭和7年に広島県東部の被差別部落に生まれ、中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。
私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。
私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族や地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。
それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。
私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。
さて、表題の意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。
言葉どおりの意味だ。特に、伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。
企業ごとの組織率は低下し、労働者の組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋や希望(半強制)退職の蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というものが事実上消滅していてもおかしくはない。
また、高校や大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校のルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子どもが大人のいいなりになっている。
近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせを公共の場で告発することをいうようだ。
日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。
LGBTの社会運動も、社会の価値観を変革しつつある分野のひとつだ。
大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から、同性愛者としてのカミングアウトや文学活動、デモ行進や芸能界での活躍、自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾(一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。
以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイやレズビアンの人達を描けなくなっているだけかもしれないが。
これらの成功している政治(社会)運動には、共通する点がある。
相手の痛いところを突いていることだ。
この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。
特に、組合関係の団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。
意図的に給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場を社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。
それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。
話が逸れた。
相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。
高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師が教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味)
その教師は、部落に住んでいる人間を馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落で生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。
どれだけ悲惨な生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。
家族で食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。
さて、その男の言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。
その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。
このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかわからない。しかし、協力をしたかった。
また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。
次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。
さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。
翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区の解放委員会の役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利を確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたからである。
その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったことから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。
この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。
今度は、少し規模の大きい話をしよう。
それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落の生活・文化的な環境を改善するという一連の政策が国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。
K君の事件をきっかけにして、私は解放委員会に正式に加入し、高校で社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。
ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係の補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。
寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。
当時、私が所属していた団体の幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。
発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。
彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育、人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。
とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式な相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話から始まり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。
後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。
数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。
あの時のK君のように、各市町の教育委員会の庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識をもつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。
庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕と拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。
場所は関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所の入り口だろうと、学校の門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所は関係なかった。
かつて、私たちは基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。
議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。
これまでと同じように、これまでと同じだけの金額を子ども達への教育活動、個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。
私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。
それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。
「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。
さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。
相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟が必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。
上記の場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内の支部巡りに最も時間を要した。
人が集まり、相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察に通報されることだ。特に、要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。
今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対に暴力行為や脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。
私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動やオルグの最中に通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。
それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治(社会)運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。
時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間に政治運動はできない。それだけのことだった。
ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。
県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。
逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。
最後になる。
相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーのデモを挙げたい。
アウンサン・スー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?
武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。
経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的な思想や制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。
アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。
民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義をアピールする。
が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年のデモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。
民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体に危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念場である。世界各国からの評価が低下することを気にかけず、民主派の指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサンの自然死を狙うメリットの方が大きい。
もし日本が、ミャンマーのように危険な状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?
その問題に直面していたのが、私が生まれた時代よりもさらに昔、明治以降の被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?
多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的な意味に限っては)被差別部落問題が解決した現在に至る。
あなたの人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。
40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。
平均的にって話だし脳内ソースだけど。
なんか最近高学歴は環境のおかけだみたいな理屈を見る機会が多いんだが、普通に高学歴の方が低学歴より自分で頑張ったやつ多くね?
そら環境的起因で低学歴ってこともあることも認めるし家庭教師ブーストしまくった無能高学歴だっているだろうけど、やっぱ高学歴と話すと思慮深いし常に勉強してて感心させられることが多い。
「え、あなた東大なんすか?」みたいな人もいたが、色眼鏡はずせばそのレベルの人間他にも腐るほどいるしやっぱ確率は低い感じする。
で、高学歴は頑張ったのは認めるとして、力を持つものの宿命として雑魚の面倒は見てほしいと思う。それは人類が種としてやるべきことで、だからこそ高給を貰っていただきたい。その能力を世の中のために還元してくれ。ありがとな高学歴。たくさんふるさと納税してくれ。地方も潤うし。
ホッブスの言う「自然状態」を考えよう。これは自分も他人も倫理的な制約に縛られない状態で、誰を殺そうが誰に殺されようが文句は言えないという社会である。こんな状態では暮らしていくことが出来ないので、人々は「契約」を結んでお互いを拘束し合う。人々は「契約」によって自分が自由に行動する権利を一部放棄してお互いの権利を尊重しあい、権利を守り合うための制度や規則を共同で守ることにする。もちろん、このような「自然状態」と「契約」が本当にあったのか?という疑問はもっともなものなのだが、それはまた大きな話になるので、ここではとりあえず人々は何らかの「契約」をしたという立場から動物の権利を考えていくことにする。
さて、このような「契約」を結ぶためには、例えば自分の権利を認識したり、その権利を放棄/移譲したり、約束を責任持って守ったりなど、それなりの程度の能力(以下では契約能力と呼ぶ)が必要になる。大型類人猿などの研究が進み、それらがかなりの認知能力を有していることは確認されつつあるが、それでも上記のような契約能力を持っているとは言えないだろうし、ましてや牛や豚や鳥に契約能力を認める人はいないだろう。したがって、人間と動物との関係はいまだ「自然状態」であり、お互いを好きに殺して食べて良い関係だということになる。もちろん、「自然状態」だからといって牛や豚や鳥が人間を襲ってくるわけではないが、それは動物たちが「契約」を尊重しているからではない。
一方で、人間に契約能力があるといっても、その大きさは各人で異なるのは確かである。私のような凡人と、高潔で思慮深い偉人との間には契約能力に差があるはずであり、それでは我々が動物を好きにできるように、偉人は凡人である我々を好きにできるとも考えられる。この問題を解決するために、範囲性質(range property)という概念を導入する。これは、ある最小限の契約能力を有していれば、その差は考えずに同じだけの権利が認められるという考え方である。ここでいう最小限の契約能力がどのようなものかは議論があるだろうが、リバタリアンである私としては、「"個々人が別々に存在し、自分の人生は自分の責任で辿る"ということを認め、お互いの権利や判断を尊重し合う」能力としたい。この能力から、お互いの権利を尊重すること、そのために自分の自由の一部を放棄することなどが直接的に導かれる。また、個々人が別々に存在してお互いの権利や判断を尊重することから、そのような最低限の能力を有していればその差を考えずに同じだけの権利が認められるという範囲性質も満たすことができる。
しかし先にも書いたように、最低限の契約能力(それがどのようなものであれ)を持った人間だけがお互いの権利を尊重し合うという主張からは、上記のような最低限の契約能力を持たない限界事例の人たち(例えば乳児、重度痴呆症、ある種の知的障害者など)の権利を制限しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。この問に、私は「そのとおりである」と答えたい。
ここでは、限界事例の人たちから将来に契約能力を有すると見込むことができる相手(例えば子供)とできない相手(例えば重度の痴呆症、ある種の知的障害者、動物)とを区別する。
将来に契約能力を有すると見込まれる相手に対しては、相手が契約能力を有した将来のある時点から現在を見たときに、その権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲でのみ権利を制限することができる。これは別に現在日本でもおかしな話ではなく、例えば20歳になるまで飲酒喫煙は禁止されているし、18歳になるまで選挙権は無い。端的に言えば、嫌がる子供を押さえつけて歯を磨くことは許されても、レイプすることは許されないということである。このため、子供についてはたとえその子供が契約能力を有する人間(大人)が保護していないとしても子供本人に権利があり、契約能力を有する人間と同様の制限なしに殺したり人体実験に供したりすることは倫理的に許されない。
一方、将来に契約能力を有すると見込めない相手については、その相手を保護する契約能力を有する人間の"被保護者"としての従属的な権利しか有しないとするのが妥当だろう。つまり、本人の同意ではなく保護者の同意によって本人の"扱い"を決めてよいということである。この"扱い"には子供とは違い、「その権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲でのみ」という制限は無い。なぜなら、その判断をする将来が存在しないからである。したがってもちろん、殺して食べるという扱いでも構わないことになる。しかしながら、どんな動物も誰もが自由に殺すことができるわけではない。"被保護者"としての権利は有している以上、自由に扱ってよいのは"保護者"が居ない相手だけである。牛や豚や鳥を食べて良いと言っても、他人が保護している(ペットとして飼っている)動物を保護者の意見を無視して食べることは出来ない。また"被保護者"に対して殺すなどの本人に害のある何らかの重大な判断を下そうとする保護者は、自分の代わりに保護したいという契約能力を有する人間が居ないことを確認する倫理的な義務がある。もし、限界事例の人たちや動物たちが殺されそうになったなら、契約能力を有する人間(福祉団体なども含む)は誰でも、以後は自分が責任を持って保護すると約束して必要なら金銭的な保証なども含めて以前の保護者と合意することで、殺すことを止めることができる。(食べるために)殺してよいのはそのような保護者が名乗りでなかった相手だけである。
④認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)
ことを認めた上で、⑤を削除して肉食を擁護した。
限界事例の人たちや動物から、将来契約能力を有すると見込まれる子供とそれ以外を区別した。前者はその子ども自身が契約能力を有するようになった将来において権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲(判断するだろうと見込める範囲)でのみ権利制限が許されるとし、後者は契約能力を有する人間の"被保護者"としての従属的な権利しか有しないとした。ただし、"被保護者"としての権利しか有さないとしても保護者が自由に扱えるわけではない。"被保護者"に対して殺すなどの本人に害のある何らかの重大な判断を下そうとする保護者は、自分の代わりに保護したいという契約能力を有する人間が居ないことを確認する倫理的な義務があり、(食べるために)殺してよいのはそのような保護者が名乗りでなかった相手だけである。
最後に、この結論を受け入れた社会がどうなるかを現在との比較から想像してみたい。子供については、現在と変わらないことは説明した。それ以外の限界事例の人たちについては、現在広く受け入れられている「人権」よりも若干制限されることになる。しかし、実質的には扱いは変わらないだろう。現在でも彼らの扱いは最終的には保護者の意思で決められる。上記のような社会で誰も保護しようとしない限界事例の人たちが殺されたとしても、現在でも誰も保護しようとしない限界事例の人たちは死んでいるので同じである。上記のような社会では限界事例の人たちが捨てられることになり問題だと言う人が多いならば、その人達は積極的に保護するだろうし、少なくとも福祉団体に寄付をするだろう。介護疲れから無理心中が起こっているような現在に比べて、福祉団体に大きな人的・金銭的支援がなされる社会は、現在よりも限界事例の人たちにとって生きやすい社会と言える。
以上、倫理的な観点から肉食を擁護した。この結論について、私を差別主義者であり倫理的に許されないと批判したい方々はもちろん居るだろう。ただし、もしあなたが肉を食べているなら、私を差別主義者と批判しながら肉を食べることについて、その判断をどう倫理的に許容しているのか一度考えてみてほしい。
レンタル彼女の話盛り上がってるけどあの人って別に特別迷惑な行為を働いたわけではないじゃん。若くてきれいな女性に対する謎の信仰心とか工場労働者への思い込みとかがちょっとずれてて不愉快なだけ。犯罪者ではないしカウンセラーにかかって思考を矯正してこいなんて言われる筋合いはないっしょ。いいじゃん中年男性が若くてきれいな女の人と話してみたいと思ったって。優しくされたいと思ったって。無料でならともかく対価も払ってるんだし。金出したらそのへんの素人女性なりの対応じゃなくそれなりのコミュニケーションスキルを求めてしまうのは仕方ないじゃん。(サービスの利用者に提供者にもなったことないから増田の要求の妥当性についてはイマイチわからんが。)
若い女性に話しかけられたいという願望が叶わないからその代償として試してみることそれ自体までは別に責めなくていいじゃないの。
あとみゆさんは別に思慮深い女性でもないよ。みゆさんと増田が友達でこれを言ってるなら普通にクソバイス罪で逮捕案件なんです。「自分の周りのアレな人にも務まってるし増田さんも工場ならいけるんじゃない」のノリで話されたら増田だってこいつ俺のこと馬鹿にしてんのかと思うわ。
増田も、文系オタクの俺に工場は合わない…というわけわからん不安を抱いているが、(これは工場にはヤンキーがたくさんいて俺のようなオタクなど狩られてしまうのではという不安?知らんけど。オタクの工場勤務者はたくさんいるって。)体力的な面で不安を持ってしまうことそれ自体はそんなにおかしいことではないと思う。
本文とかブコメとか流し見だけど言いたいことそれだけ。
一通り書き連ねて気づきましたがポエムです。読みたくなければ便所に流せ。
昨日数年ぶりに恋人ができた。多分。
お互いに探り探りだったが好意はあるのでお試しで付き合ってみる?というかんじに。
自分は創造的な事が好きだ。相手は表現者を目指しているが創造的な事は苦手らしい。
自分は理屈っぽい自覚があるので考え込んでしまわないように気を付けながら己の感覚に従ってその時その時の人生を生きている。ノリで生きる人生は楽しいと学生の時に気づけた。
相手は誠実で、まじめで、良く言えば思慮深い。理屈っぽく成りたがっている。
自分は傷つくことを言われても寝れば忘れられる&基本的に気にしないので過去を引きずる発言をしない。気に入らないことを言われたらその時に言い返すなり反応を返す。根に持っていてもよっぽどのことがなければ表に出さない。言わない。
相手は自分が前に言った発言をよく覚えていてこちらに伝えてくる。その時に何も言わないで、相手の中に一度しまい込んでじっくり考えて時間が経ってから「あの時こう思った」を伝えてくる。
自分は自覚のある無神経だ。相手がこう言われたら嫌だろうな、とか、試すような発言を意識してできる。自衛の為でもある。それで離れていくなら最初からそれまでの人間関係だな、といつも覚悟の上だ。
相手は円滑な人間関係にしたいから、といってそういうことはしないと言っていた。人が離れていくような、試すような言動をする自分を狡いと言った。
自分は自分の考えをはっきり主張する人間だ。要望も口に出すし、上司相手でもNOと言える日本人だ。
相手は主張をあまりしない。どうしたい?と聞いてもこうしたい、ではなく選択肢を並べてくる。恐らくこうしたいのだろうな、と受け取った自分がじゃあこうしようか?と問えば嬉しそうに同調する。イニシアチブを握りたくないのだろう。余談だがイニシアチブを握りたがらない人間は有事の際に責任から逃れようとするというのが個人的見解だ。先ほどと観点がことなるものの、さて狡いのはどちらなのだろうか。
自分達は同い年。自分は社会人だ。相手は夢を追う学生フリーターだ。
自分はどれだけ親しくとも血縁以外の人間と会うのはそれぞれ多くても月1で十分だ。満足できる。
相手は週1回・少なくとも隔週で会いたいそうだ。
自分は人間不信だ。相手はそうではないが恐らく自己完結型のケがある。
まだ出会って日が浅いが、決定的に価値観が違うところがあると感じる。
付き合うことになって嬉しいのに、嬉しいはずなのにもやもやする。
自分はあの人とこの先長く付き合っていけるのだろうか。
昨日、帰り道にうっすらと一日を振り返っていて、これからのことを考えて、もやもやして、不安になって、自分では処理しきれないさみしさと悲しさ、遣る瀬無さに襲われてしまい、つい友人に電話をかけてしまった。
他愛のない話しかしていないけれど、家に着くまでの10分間話しただけで安心した。
嫌いなはずの電話を頻繁に連絡を取り合ってるわけでもない(でも長い付き合いだ)友人に掛けて、はじめて自分の情緒が不安定になっていると自覚した。友人に何度もいきなり掛けたことを謝罪して、感謝して、何も聞かずに取り留めない話をしてくれる優しさに救われた。
けれど、昨晩少しましになった虚しさをいまも引きずっている。
この言い表しようのない虚しさは何なんだろうか。答えを探している。
討論会で質問されても具体的な話がスラスラ出てくる。他の2人とは格が違う。
うがった見方をするこちらを先回りして良識的な回答をするのも好感。
こんなにマトモなこと言ってるのに、2012年の自民党改憲草案を持ち出すのは不気味にもほどがある。
とても思慮深い話しぶりなのに、一方で「グレートリセット」とか物騒なこと言ってる。
3人の中では一番有能で、一番良識があり、一番危険人物かもしれない。
おじいちゃん。
ブコメでも結構言われているように、想像以上にアドリブが効かない。
立場もあるのか、全然中身のあることが言えてない。回答もピントがズレてる。
所信表明も昔の思い出話ばかり。
1.5倍速で再生しないと話がトロすぎて聞いててイライラしてくる。
ただ具体的な自分の実績を言えていたのは、政権の中にいただけある。
普通。
変なことは言ってない。受け答えもしっかりしてる。
まぁ良いんじゃないの。
よってここで吐き出させてほしい。
コロナの影響で自粛が推奨され、家で過ごすことの増えた母が、Youtubeに嵌ってしまった。
しかも、Youtuberがまことしやかに陰謀論・極論を語る動画を、毎日長時間漁るように見続けている。
5月頃はまだ、コロナに関連してWHOが~中国が~というレベルではあったが、ここ数か月は「ビル・ゲ〇ツがワクチンにマイクロマシンを入れて、裕福層以外の人口を減らそうとしている!」などの、突っ込み所の多すぎる陰謀論を固く信じてしまうようになってしまった。
なぜそこまで確固として信じてしまったのかというと、例えばAというYoutuberがある切り口で陰謀論を展開する、そして別のBというYoutuberが、Aとは別の切り口で陰謀論を展開する。
このAとBの結論が同じ、または関連・類似していると、「この陰謀論は真実だ!」という結論を容易に導き出してしまうからだ。
また知識欲も刺激されているのだろう。
今まで表面的にしか知らなかった「ケネディ暗殺」「秘密結社」などなど、女性にとっては名前くらいしか知らぬ謎が、陰謀論により全景を明らかにされる(ように見える)のが楽しいようだ。
加えて、本人の素因もあるが、今までの家族関係にも起因しているだろう。
今まで父は、自分のやりたいこと以外の家庭のことを、母に任せすぎていた。
なにかを相談しても「~~すればいいじゃん」と、相談の背景も、求める対応や答えも汲まず、日々スポーツクラブや趣味通いに明け暮れていた。
そんな父に対し、母が信頼を失い孤独を感じていたのは明らかだった。
その流れで自粛。
外との関係は絶たれ、子は巣立ち、父は関心事以外には短絡的反応に終始。
ふとYoutubeを見ると、父とは違い、物事を一つ一つわかりやすく雄弁に話す男性。
逆に「極論だけど…」と明言を避けつつ、視聴者を一つの結論に徐々に導いていく、一見思慮深い男性。
母がそういった人達の話を魅力的に感じてしまうのは仕方ないだろう。
しかし、内容に関してはあまりにトンデモすぎる上に、家の外でも、家人に以外でも、陰謀論に触れ力説してしまうので、私はつい反論し、あまりの馬鹿さ加減に怒ってしまう。
上のワクチンを例にすると、何故かオーバーテクノロジーなマシンが秘密裏に何十億と大量生産され、何故か誰にも見つからず指摘されずワクチンにラブ注入され、邪魔者は消されるはずなのに、何故かどのYoutuberもピンピンギラギラ今日も素敵に陰謀論を暴いちゃうぞ☆、そんなご都合主義ファンタジー極まれり。
でも実際、その陰謀を実現させることは、とんでもなく困難だと容易に想像つく。
世の中はそう単純ではないことを一つ一つ反論しても、母は「でも!」と、反論を別の陰謀論で被せてくる。
過去に1をやった組織なら1000もやる!ついでにあれもこれもやるに違いない!と、全てが針小棒大、妄想のスパイスをトッピング。
あれ…これどこかで見た流れ。
カルト宗教でもそうだが、母は自分が皆の知らぬ知識や真実をたくさん得ており、自分が誰かにそれを伝えなければ相手を救えない!という旨の発言をする。
きっと私のことも家族のことも、何も知らずに悪の結社に騙されている可哀そうな人と思っていることだろう。
長年連れ添った家族の話よりYoutuberの話の方を固く信じ、家族より世界を憂いている現状に、悲しさしかない。
そんな母への対応に、正直どうしたら良いのか悩んでいる。
一番の悪手は反論だろう、それはわかっている。
例えば病気や痴呆などで人格や考え方が変わってしまった場合、時間はかかるが仕方ないと思えるだろう。
実際、以前母に薬の影響で一時的に強い痴呆様症状が出たことがあった。
その時の私はかなりショックを受けたが、すぐ仕方ないと気持ちが切り替えられた。
けれども今回、陰謀論以外は正常な状態なので、私が陰謀論についておかしいと説得し母がそれに気づくことで、陰謀論から離れられるのではないかとズルズル期待してしまう。
2.周りの人が母とは違う考えであることを母が感じてほしいから
YoutubeやTwitterなどでは、同じ陰謀論を信じる者たちが集まっており、周りが賛同者だらけのように感じてしまうが、現実はそうではない。
どんなに母が力説しようと、家族は賛同しないし、母の友人は言葉を濁している。
人間関係において、自分の意見が周囲の大多数の人間と大きく異なった時、「あれ?もしかして自分の意見はおかしいのかな?」と気づき是正することを繰り返していたと思う。
母に於いても、同じ状況を体験することで、現実とネットとの反応の乖離に疑問を持つきっかけになればと思ってしまう。
まあこれは望み薄な気がするが。
恐らく、この話を読んでいて「ごちゃごちゃうるせーな、適当にスルーすりゃいいだろが」と感じた方は少なくないと思う。
しかし私見だが、今の母を作ったのが、上にも書いたように父の「~~すればいいじゃん」という短絡的な問題解決法や先送りスルーが一つの原因となっており、根深い問題と感じている。
少なくとも、突き放したり適当にあしらうことは、孤独を強めてしまいそうで、肯定やスルーをしたくない気持ちがある。
また、私にはアレルギー体質の子があり、ワクチンの副反応に戦々恐々としながら予防接種をすすめている。
できるならしたくないが、子のためでも社会のためでもあるので、毎回祈りながらの予防接種だ。
そういった事情を踏まえてなお、母は「マイクロマシンが入っているからワクチンはしない方がいいわよ」と言ってのける。
上はごく一例なのだが、もうデリケートな話題でもなんでもお構いなしに、自分の陰謀論をもとに他人の行動を変えようと試みてくる。
そういった行動を繰り返しているので母の友人関係や信頼関係を壊す可能性が高い。
更に、盲信の矛先が変わってカルトや高額な詐欺などに合う危険性も考えられる。
そのような警告をすると「私はきちんと情報を取捨選択しているから」と自信満々。
今の母を見ていると、母と似た性格傾向を持つ自分もいつか、子が巣立ち、孤独になった時、同じような状況になってしまうのでは、という不安が募る。
過去の、自分の見える事が全てに思えたような、狭い世界にいた中二病の自分も彷彿とさせる。
↑↑以上のような内容をグダグダと書き連ねていたのだが、肉親の悪口を長々と書いている自分に嫌気が差し、ブーメランな部分もあり、恥ずかしく途中で筆を置いてしまっていた。
後日、考えられる解決策や家族の対応とかを書き足して、増田で良い対応は無いかと伺おうかと思っていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0adbd66b8fd3fffa0472e6fc18dd08dd0f32c5d
???と思い尋ねると、どうも母を含むQアノンの活動のおかげで、コロナワクチンによるマイクロマシンの拡散を一歩止められた!やっぱり私の言う事は正しいのよ!という意味らしい。
ウンソウダネ、トテモスバラシイコトダネ、ワタシモウレシイヨ。
もう私はあきらめた。
昔
私の友人Aは神だった。
同じく私の友人であるBにとって
彼女はまさしく神だった。
BはAを神と崇め
信じ
なのに恋慕し性的な欲も向けていた。
私にはそれがわからなかった。
趣味は合うし
会話していて楽しい。
私と二人の関係は友人であった。
神と信者だったようだ。
不思議だ。
神は神と慕われることを
好きにさせることで受け入れていた。
神なのか尋ねた時
そうらしいと笑っていたので
B発信なのであろう。
ABと複数で会話していると
神は
「私神らしいからさ、ねB」
などとネタにしていた。
神と私二人で話していることが多かった。
私が一人の時
Bが
「Aとあなたは友人ということはわかっているが
それでも嫉妬する」
とこっそり告げてきた。
Aにも同様のことを伝えたらしい。
恋情の方が大きいのかなと思った。
やはりわからなかった。
信仰と恋い慕うことが両立する?
理解できない。
年月が経った。
Aは神では無くなった。
私は彼女に
いわゆるリア垢をブロックされた。
確認していないが
私はもうAを友人だと思っていない。
Bは信者では無くなった。
時々怖いとまで思っていた
そんなBと
今でも交流を続けている。
勝手に書いてごめん。
信者でも
Aを慕う人でも無くなったのち
深く考えて
彼女のこういう
思慮深いところがやはり好ましい。
人に戻ってくれて嬉しい。
ある日突然
友人が神になって
友人が信者になって
その衝撃はもう
こびりついてしまっている。
それでも
そうなる前の二人は友人だった。
Bとは
やり直していけたらいい。
勝手な私の望みだが
https://twitter.com/CqaNaRn0ipKsKHS/status/1294222634368946176
女性の方々には、「もしあなたの身体がある日突然男性の身体に変えられてしまったら、あなたが男湯に入らされることに納得できますか」ということを考えてほしいです。
なぜ当事者である女性たちより、男性である自分の方が思慮深いとでも考えてるような物言いなのか。
「僕のこの問いかけで女性たちが何かハッと気づいてくれるに違いない」みたいな空気感を出してるけど、どこまで浅はかなのだろう。
当然男湯に行くでしょ。他に選択肢はない。
というか私、ある日突然男の身体になってたら、その状況を面白がって「おっさんである自分」を楽しんでしまうんじゃないかという気がするんだよね。それくらいいい加減な人間だから性自認なんて本当にあるのどうか疑わしいと思っている。
はっきり言うけど、非トランス・トランスを問わず、男性身体者の女性専用スペースに対する執着って相当に異常だと思う。たぶんドラえもんの風呂覗きとか少年ジャンプのラッキースケベとかも全部同じ文脈に乗ってるんだろうね。
逆に、身体女性だけど男湯に入りたいという声がほとんど聞かれないのはなぜなのか考えてみた方がいい。女性専用スペースって特権的な場所でも何でもなくて安全を確保するためのシェルターみたいなものなんだよね。
そんなもの。男湯にゆくに決まってるだろう。女として生まれ育ったなら、男の体で女湯に入ることの恐ろしい暴力性は骨の髄から理解している。
そんな許しがたい犯罪を犯すくらいなら入浴自体諦めるか男湯にゆく。男の体で女湯に入ろうとするのはあらゆる意味で女ではない。
間違ってor親に連れられて男湯に入った時の恐ろしさ(や他の性犯罪の理不尽さ)を知る女性にこんな質問する?
突然男の体になれば男湯に行く。
突然なったわけではないなら変換した側の気持ちがわかるでしょ。
分からないなら心は前の性のまま。
等々、他にも女性からも男性からも「普通に男湯に入る、もしくは銭湯に行かないのが当たり前だろう」という意見が多数寄せられていた
多くの意見に共通したのは「女性しか居ない空間に男の体をした人間が入ってくる事自体が恐怖であり女性を傷付ける」という物だった
女性にとってトランス女性は「自分の性自認は女性である」と主張する男性であり、いつ自分に加害してくるか分からない恐ろしい存在なのだ
女性はこれまで長い間が男性から虐げられてきた被害者としての歴史があり、男性は過去と現在の加害者であり未来においても潜在的加害者なのだ
性自認が女性である自称「トランス女性」も女性からすれば、男性の中で育ち男性の価値観に染まった男性の体を持つ存在でありそれはもう「男性」以外の何者でもない
彼女らにとって「トランス女性」とは自分を女性であると偽り女性専用のスペースに押し入り女性の権利を侵害しようとする悪質な加害者男性でしかなく、
トランスジェンダーの社会運動は女性から自衛の権利すら奪う差別に他ならず、自称心が女性の男性のために心身ともに女性である存在の権利が害される事があってはならないのだろう…
ここを女オタクのお気持ち表明ツールにしてしまって大変に申し訳ないですが、他に発散できる場所がなかったので、スルーしていただけるとありがたいです。
以下はゴスマリで公式と解釈がずれた女の愚痴です。お気持ち表明です。
ゴスマリを楽しくプレイした人は見ないで、ぜひその感性を大事にしてください。
まじで滑稽だなって思う。公式から出されたものが解釈違いとかウケるよね。
ライターさんがいつもと違う可能性があるっぽいから、そのせいだって思いたい。
今回こんな気持ち悪いお気持ち表明を書いてる理由は、ついったでめっちゃ馬鹿にされてウザかったから。
ストレス発散がこれです。
あとバカにしてきた奴に言わせてほしい。
たかがイベストで課金してきたこのアプリを辞めるかよ!!!黙ってろこの無課金勢が!!!
あと推しもいるし、今回のイベストに推しはあんまり関係なかったし続けるつもりです。
次から本題に入るけど、私はストーリーの全てに引っかかったというよりも、21話の「キスコール」だけが駄目だった。
他にもモヤモヤしたけど別にスルー出来た。ただ「キスコール」、お前はダメだ。
プレイしている人は分かると思うし、特に誰かに伝えたいわけではないので詳細は省くけど、基本はギャグ調のストーリーで普通に楽しめた。基本は。
全体的に一人のキャラが若干sageられている印象はあったものの、正直あの彼の言動だったらこうなっても仕方ないかな~とは思う。
とは言え「ああいう宣伝をしたのにこのシナリオ」という点は、彼を推している人が不満を抱いても不思議ではない。
こんな感じで上記の点は引っかかっていたものの私はスルー出来たのだが、それでも21話だけは許せなかった。
それも一人に対して複数が
なんてこった……
いじめにしか見えなくて単純に不愉快だった。あとノリが小中学生のいじめっ子のノリで、よもや名門校の生徒のノリとは思えない。
あと普通にセクハラだよ……セクハラをギャグとして書かないでほしいよ……
もちろん助けに来てもらった側の彼が助けに来てくれた人たちを散々ぼろくそ言ってたので、苛立ってしまったことが間接的な原因になってるっていうのは分かるんだけど……
それでもキスしたら死ぬ場面で「キスしろ」って言ったら、それ「死ね」って言ってんのと同義じゃん。
誰かが言ってたけど屋上で飛び降りようとしてるいじめられっ子を、いじめっ子が囲んで「死ーねっ」って言ってんのと同じ。
しかも彼を助けて姫を成仏させないと500年動けないままだろうし、助けに来てくれるかもわからない状況だっていうのに「暇だからキスコール」?
もちろん読者は第三陣が助けに行ってることを知っているし、イベストでキャラが死ぬわけないっていうメタ的な視点も持ち合わせているから、悠長なことを言っている彼らにそこまで違和感は感じないかもしれない。
でもキャラクターたちはそこの時空軸で生きていて第三陣がどうとか知る由もない。なんでそんな楽観的なの?
彼らはヴィランなので、自分だったら他者を助けにわざわざ行かないだろうから、自分が頑張んないと500年動けないかもしれないって感じると思ってた。
だからこそ人が死ぬかもしれないのに学園長が脅すまで助けに行かないし、女王の法律がうんたらかんたらだから、みたいな理由がないと本気を出さない。
「自分のピンチに誰かが助けに来てくれるという他者に対する信頼」なんてそんなものは、一部を除いて持ち合わせていないだろうキャラクターたちだと思わせる描写はちょこちょこあった。
だから自分が500年動けないかもしれないってなったら自分でどうにかしなきゃって躍起になるキャラクターたちだと思ってたし、実際一部のキャラクターたちは躍起になってた。
なのにかなりの人数が悠長に「キスコール」に参加してたんだよう……
正直言い出しっぺのあの子は分かる。飽きたらもう後先考えず新しいことしたくなる、そんなキャラっぽい。
でも他の子は?
思慮深いあのキャラクターは予言者ポジみたいな感じで先を見通してたのかもしれない。
でもあのキャラクターは無益な戦争が起きないこと願っているキャラクターで、めちゃくちゃ長寿だから10代の子を赤子呼びしてて、しかも親代わりみたいに子どもを育てた経験のあるキャラクターだ。
正直そんなキャラクターの口から死ねと同義の言葉とか聞きたくなかった。
こんなことをギャグとして言う人にご高説垂れ流されても滑稽じゃん(笑)
あとどうにかしないと次期王の顔に泥を塗りかねないんでは?
なんでぇ……?
正直彼はいじめられてたからって他者をいじめないようなキャラクターではないと言われたら、同意できる。
彼は基本冷めてるし共感力とかあんまり高くないキャラっぽい。だから3章みたいなことをしでかすんだろうし。
でも、あのキャラクターの中で一番他人に頼らなそうな人で、「キスコール」なんかしないでどうにかしようって躍起になりそう。
やりたいこと・やらなきゃいけないこと、そういうのを一杯抱えてそうだし、それに振られっぱなしなことが嫌でどうにか仕返ししてやろうって思いそう。
あとキースッて言って盛り上がるようなキャラじゃなくて、むしろそういうノリをバカにして斜に構えてそうなんだよな。
なんでぇ……?
映えを重視してるあの子。
映えるために他者を平気で利用しているキャラだけど、目の前で死ぬかもしれない人を見捨てて茶化すようなことをしない良識的なキャラクターとして描かれてたように感じていた。
だからこそ一章で寮長と一年生の板挟みになって、すごく悩んでいるような表情を浮かべてたんじゃないの。
確かに闇は抱えていそうな描写もあるけど、助けるどころか寧ろ死を強要するようなキャラクターなのか?
なんでぇ……?
正直彼は面白いと感じればノリそうだけど、キースッて言って盛り上がるようなキャラではなくない?
なんか……ごめん……
全編を通して彼自身の意思より最年長のあのキャラに付き従って肯定している感じだった。
もちろんパソストとかでも勿論上二人を褒め称えてはいたけれど、ここまで自分の意思がない子だったっけ……?
寧ろめっちゃ我が強かった印象なんだけど、年長二人がいるとこうなるのか……?
なんかごめん……
もうなんか自分の読んできたストーリーに出てきたキャラとまるで違う人なのではって思っちゃった。
シンプルにダサいいじめだし、何が面白いのかよく分かんないし、キャラも迷子になっているし……あの空間はなんだったんだろう。
しかも挙句の果てについったで疑問を呈しただけでギャーギャー言ってくるし、なんなの。
公式の何もかもを受け入れられるような度量を持ち合わせてなくてごめんね!!!!!!
以上、単純に勝手に妄想してたキャラと公式がずれたってだけの、滑稽でダサい同人女の愚痴でした。
ここまで読んでくれた人がいたら、なんか時間取っちゃってごめんなさいと言わせてください。
今頃ネタバレもないだろ 知識がほとんどなくネットで調べながらやったから間違ってるところあったら指摘してほしい
シロディールというタムリエル大陸の中央に位置する地域はアイレイドというエルフ族が治めていた。
そこでは人間は完全に家畜扱いだったのでそれを哀れんだアカトシュ(多分主神?)がアイレイドの支配に負けないように
を与えてドラゴンボーン(皇帝)がアミュレットを携えルビーの玉座に座り、アイレイドの本拠地白金の塔を堕とすことでアイレイドの支配から解放された。
何代目の皇帝「ヴァレン」はドラゴンボーンじゃなかったのでコンプこじらせる。
4人の仲間と共にドラゴンボーンになれるという秘術を実行するも、エルフ族の仲間「マニマルコ」に裏切られ、ドラゴンボーンになるどころかデイドラ(邪神)の一人モラグ・バルの領域「コールドハーバー(地獄A)」と次元融合してしまう。デイドラの軍勢がニルン(惑星)に容易に攻めたり、いろいろできるようになってしまう。
モラグ・バルは支配とかそういう概念を司るのでニルンの奴ら全員支配したいと思って準備を進める。
ヴァレンは超ショックだったのでエルダースクロール(星霜の書)を読むために僧侶になる。そしてエルダースクロールを読んで無事失明する。
リリス:バカで素直で情に厚い 巨人の娘と呼ばれるほど背の高い女性(実際巨人の血が混ざってるらしい)
アブナー:思慮深い冷血漢 自分が大事というより自分の身内とか家柄が大事 ある意味一番わかり易い人間
主人公とヴァレンの仲間「リリス」はなぜかコールドハーバーに捉えられていた。
なぜかそこにはヴァレンも捉えられていた。シロディールは皇帝を失ったからか三国の戦争地になっている。
リリスに助けてもらう主人公。コールドハーバーを脱出するため進むと捉えられてるヴァレンを見つける。
リリスはヴァレンを逃がす代わりに囚われの身になる。ヴァレンは自分がコンプこじらせて皆に迷惑かけたことを後悔しており主人公に助けを乞う。
また次元融合を終わらせるために王者のアミュレットを使いもう一度同じ儀式をしたいが王者のアミュレットがないからそれも探してほしいという。
まずはリリスを解放することとするために主人公は今一度コールドハーバーに向かう。
リリスは対魔忍のように様々な精神干渉を受けたためまるっきりかわっていた。
主人公はリリスに自信を取り戻させるためにコールドハーバーを進む。
サイが王者のアミュレットもっていったような気がするので次はサイを探し出そうとするがサイはどうやらマニマルコにアミュレットの居場所を吐くように拷問受けている。
リリスを無事解放した主人公にヴァレンは「次、サイな まぁサイのことだから拷問でゲロっちゃうことないやろ」とかいう。
サイが囚われているところは検討がつかないのでアブナーに接触して教えてもらおうとする。
アブナーに会うがアブナーは総合的にロジカルしたところマニマルコについたほうがよさそうなのでマニマルコに付いてるだけでヴァレンがやるなら俺もやるでと寝返る。
リリスはそれが気に食わない。アブナーもリリスみたいな脳筋美少女を許せないので悪態付きまくる。俺は「お似合いですね」と思ってみてたけどアブナーが相当お年を召しているのでやっぱなしだ(てかリリスが明らかに他の四人と比べて若い)
アブナーは総合的にロジカルするとサイはここにいると推測する。見事的中。
マニマルコとサイのプレイを見ながら救出するがサイはリリスにホの字の様子。リリスもまんざらではない。
アブナーは気に入らないのでずっと嫌味言ってる、拗ねんなよ。
王者のアミュレットの隠し場所に向かうとマニマルコ(幻影)の姿が!マニマルコは「王者のアミュレット手に入れた暁にはモラグ・バルなんて余裕で倒せる。倒したらモラグ・バルに成り代わりマニマルコがおまえらの支配の概念となる。」「こんなのバレたらモラグ・バルの配下人生終わるナリ…そうだ!サイがはったデイドラ不干渉の結界で企みをかき消すナリ!」とか思い上がりべらべら喋ってしまう。
モラグ・バルは当然そんなのお見通しで「マ、マニマルコくんどうしたんだ、いきなり大声出して」とマニマルコを捕まえて一生拷問することにする。
そんなことをよそ目に主人公は王者のアミュレットを手に入れる。
主人公はコールドハーバーに攻め込んでモラグ・バルを倒すだけとなるが、それにはコールドハーバーを攻め込む人手が必要。
そこで3国に話をつけて軍を各国からだしてもらう会議をする事を魔術師ギルド(全国魔法使い組合)の長の協力を経て達成する。
だが当然3国は「モラグ・バル?しるか。俺にとってはシロディールが一番優先!」とかいい出して会議が纏まらない。
そこにモラグ・バルが現れて「俺のこと無視すんなカス」と喧嘩を売りに来る。各国の代表もその恐ろしさを目の当たりにするがそれでも「いやぁでもな…」という様子。
魔術師ギルドの長と戦士ギルド(全国傭兵組合)のそこそこ腕の立つ奴は「じゃぁもう組合でいくから」と主人公についてコールドハーバーについてきてくれることに。
ホロウシティという拠点の管理人に「アイレイド王と魔術師ギルドの長を連れてきてついでにこの街復興せんことにはモラグ・バルとか無理wあとメリディアの光ってしってる?メリディア様のありがたい光。それを手に入れなさい定命の者」とかいい出すので各地を走り回り探し回りなんとか連れてくる。
アイレイド王は統率者のいない戦士ギルドの連中を集め見事にまとめあげる。
魔術師ギルドはわりとデイドラ空間になれているのかいろいろ推察して次元融合でニルンを攻撃している兵器を探り当てて壊すことに。
モラグ・バルも当然気づいていたが時既に遅し、兵器は壊されるわ、管理人は実はメリディア(邪神だけど不浄とか嫌い モラグ・バルと犬猿の中)で邪魔されるわで散々。もー、おこ!
アブナー「ワシが儀式の方法しってるけど 総合的にロジカルするとヴァレンかリリスかサイを生贄にせんといかん」
主人公「俺とおまえは?」
アブナー「ワシは儀式せんといかんから無理だろロジカル的に考えて… 主人公は魂ないから無理」
ヴァレン「元はと言えば全部俺が原因 俺にけじめつかせてくれ」
リリス「私は死んでもソブンガルデ(※)にいくだけ だから私でいい」
という感じの話をして「主人公が選べ、な?」と圧をかけられる。これなんかのハラスメントでしょ。
※ソブンガルデ…リリスの種族「ノルド(北欧人)」が信じている死後行く世界。勇気があるノルドだけが行ける。逆にノルド以外や他の邪神の祝福を受けたものは例外(直に干渉してくるもの)を除き一切受け入れない。概念とか死の救済とかじゃなく実在する。
コールドハーバーについた主人公一味 なんやかんやあって拷問されてるマニマルコを見つける
「まぁワイらの仲間やし…まぁでも主人公が解放したいっていうんならなー(チラッ」と主人公に決めさせる。こいつら主人公に重い決断させすぎだろ。決断ハラスメント(ケツハラ)だぞ。
ちょうどいいところをみつけたので儀式を執り行う。
俺は選べなかったのでくじ引きサイトに名前いれてやったところリリスが選ばれる。まぁリリスは死んでもソブンガルデいくだけだし…。
サイはドMだが最愛のリリスが死んでご褒美をいただけなかったことで主人公を恨む。やっぱドMを崩すときはドMに親しい人間を責めるに限る。
リリスの生贄のおかげでスーパーパワーを得た主人公はバッタバッタと敵をなぎ倒しモラグ・バルも圧倒する。
モラグ・バルもこりゃたまらんとなり「まぁ、今日のところは引き分けな。ちょっとしばらくニルン攻めるのやめるわ。ちげーって重傷負ったとかじゃねーって、おまえに敬意を評してだって」というところをメリディアが笑いにくるので涙目敗走する。
かなり楽しかった。
DMM版の日本語吹き替えでやったので声優も豪華だったしストーリーも王道でわかりやすい。
仲間の4人も性格がわかりやすい。自分はアブナー推し。人間らしさというか英雄らしくない(人間離れしていない)ところがかなり好き。
多分現代にいたらTwitterでクソリプ一つ一つに「はい論破」と言わん勢いでリプ返しつつ引用RTで人を小馬鹿にしてそう。
野良猫は害獣だと思ってる派なのであれのせいでキャラに好感を持つどころかマイナスポイントだったけど
お気持ち表明したってネット民のほとんどは野良猫肯定派の猫キチだしそもそも拡散力ないから人の目に留まらないだろうし
嫌だなーって思ってたまに5chで
もし自分が権力者でそのゲームに介入できるなら登場する猫は室内飼いのものだけにするように指示しているし
数千数万のフォロワーを抱えているならツイッターで不満を漏らして信者ファンネル飛ばして着火していた
表立って文句を言わないのは思慮深いからじゃなくてできないから
そのソシャゲには小さい子どもに暴言を吐く奴がいたり選民思想のきつい奴がいたり
人の恐怖症や命に関わるアレルギーを面白がって焚き付けるような描写があったり諸々重なってやめてしまったが
黙ってやめたのは自分が人間ができている奴だからではなく着火する力がないから
私の親は少なくとも世間で言われているような毒親、ではなかったように思う
かと言って不満はたくさんあるし家庭環境としては悪いほうではあったはずである
長子でさえ義務教育を受けていた頃にどこにいくとも言わずお金だけ置いて突然母がいなくなったとき、父も含めた家族のご飯は子どもの役目だった
当時の家は地獄だったから母の気持ちは痛いくらいに感じていた 正直なところ、倫理的にはアウトだが駆け落ちであってくれたほうが当時の自分にとってはマシだったかもしれない
父はひとつひとつのエピソードは大きくないのかもしれないが、幼い頃悪いことをすると閉じ込めや締め出しの形で怒る人だった
高校生になったとき一度今思っても私自身は絶対に悪くないことで殴られた
それ以来父に対する僅かにあった父親としての信頼というものはなくなったのかもしれない
ただ両親の悪いところをきいてほしいというわけではない
二人ともいわゆる虐待のようなことは恐らくたぶんしてきていないはずだし(上のことがそうかもしれないけれどそういうことが言いたいわけじゃない)教育にはとにかくお金をかけてくれる親だった
それも「いい大学に入りなさい」ではなく、「あなたが生きたい人生にとっていちばんいい道を考えなさい」という立場だった
そのおかげで今があると思ってるしその点は本当に心の底から感謝している
ただ、ただ、本当に
今は地元を出て一人暮らしをしているので、自分の家族とは物理的に距離が出来た
離れてみると特に母の真面目で思慮深いのに奔放で思い切りの良い性格は人として面白く結構好きだと思え、人生の先輩系飲み友達のような関係にさえなれた
父に対しても、深い話は出来ないが以前のような気持ちを抱くことはなくなった
ここでもやっぱり「別にそんなにひどい家族じゃなかったじゃん」などと思う
ただ考えてしまうのだ
中学生や高校生の子どもを見ると「いいなあ」と思ってしまうことばかりだった
それなりな金額のする店だったので子どもの頃から高いご飯が食べられて羨ましいと思っているのだと思っていたが、たぶんちょっと違った
もちろんそれもあるが家族で予定を立てて美味しいご飯を食べることが自然に起こることが羨ましかった
自分のお金でその店にいくことはこれからの人生別にいくらでも可能だし
彼氏や、極端な話奢ってくれるおじさん(笑)を捕まえたっていいんだろうけど
羨ましい
こんなことを大人になってまで考える自分も嫌いだし、それと同時に大人ぶって諦めているような態度をとろうとする自分も嫌いだ
わかる。
男女ともにモテる女友達もこんな感じ。思慮深いのもそうだし、なんか視界が広いよね。
私は努力して気を使うタイプだから、人にやさしくするとHPが削れる感じがする。
自分がそういう感覚がするんで他人にもこの友達にも自分のせいでHP削れることがあるんじゃないかなー?って得意なことは先回りしたりするんだけど、お礼の言い方もスマートだよな。
次からも先回りしようとか率先しようって思うもん。
男女ともに結局これだなと思う
一度、顔もよし体系も細マッチョ、専門職で金もある、いつもにこにこおだやかな同僚(仮にA男)と仲良くなった
自分はコミュ障のチビデブで、色々失敗してもそいつはいつも「大丈夫だよ〜」なんてフォローしてくれてた
割といじめられっ子な歴史を歩んでいた自分としては、こんなイケメンが自分に優しくしてくれるなんて、と
A男ともう一人、B男という自分と似たような鈍臭い同僚と三人で仲良くなった
B男は30半ばで素人童貞、婚活中で「どうしたらモテるか」の話になった
自分としてはまずB男の謎に伸びてる髪を切ったらどうかという提案をした
でもB男は頑なに「伸ばしたい」「ロン毛に憧れてるんだよね笑」と自分の提案を拒んできた
頑固な奴だなーと思って流したけど、A男は「いいんだよ、少し長めも似合うもんね〜」なんてにこにこしていた
いや婚活でロン毛はかなり厳しいんじゃないかと思いながら話題は変わったんだけど
その帰り道A男とふたりになったとき、「B男の横と後ろ、円形脱毛してるんだよ」と言った
A男曰く、B男はそれを隠すために髪を伸ばしてるんじゃないか、だから髪型に言及するのは止そう、というわけだった
A男にはそんな「思慮の深いエピソード」がたくさんある
とにかくあいつは人を傷つけない。
無神経に人をいじって笑ったり、晒し者になんかしない。
そういう安心感がある。
そりゃ女だってA男みたいな男に惚れるわな、と思う。
ダイエットも頑張るけど、優しい人になりたい。
ヒプノシスマイク オオサカディビジョン「どついたれ本舗」の白膠木簓が好き。
10・30のCDリリースからずっと曲を聴き続けて聴き続けて、やっと胸を張って好きと言えるようになった。
なんでかというと多分、架空の白膠木簓の残像に囚われていたから。
白膠木簓を白膠木簓としてではなく、顔のイメージから派生する何かに当てはめて勝手にハマる筈もないキャラクターとしてカテゴライズしていたから。
というのも私は10/30に曲が完全リリースされるまで曲の試聴をしていないのだ。
だって、全然ハマりそうにないキャラクターしかいないんだもん。オオサカディビジョン。
どれもハマらないビジュアルだったし、勿論白膠木簓くんもそうだった。
どうせ東京の人間に関西弁で軽薄そうにうざったく絡む三枚目ポジションのキャラで、彼女欲しいといいながらモテない(ような言動をする)。
ケラケラと乾いた笑いを零し心の中では世界中見下していて、裏表が激しい。
何かにつけて文末に(暗黒微笑)が入り、何かにつけて真顔で開眼しされた相手がビクッとなる。
裏で糸も引く。開いたハリセンに隠れて悪い顔をする。
ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか!!!!
白膠木簓くんをそんな目で見るな!!!
白膠木簓くんが暗黒微笑なんてするかボケ!
「アッハッハッハ!!──(突然の真顔・開眼)死んだらどうや?」
とかすると思ったか?!
「アッハッハッハ!!ヒー!やめろ、やっぱお前おもろいな盧笙(にこにこ!)」
もしくは
「アッハッハッハ!!ヒーやめろ、おもろいやんけ(まあおもろないけど、ここは合わしとこ)」
の二択!!!やった!!白膠木簓くん、めちゃめちゃ人当たりもいいし思慮深い、人間関係の形成が上手!元相方の躑躅森盧笙がだいすき!
さよならの挨拶は「ほなさいなら」でもなく「せいぜい気を付けや」でもなく「ほなね~♡」なんだよ。
白膠木簓くん、白膠木簓くん、白膠木簓くん、好き。
https://anond.hatelabo.jp/20191029132449 の補記
このまとめが私の言いたかったことに非常に近い。私自身が4ページ目で「線引き」という言葉を安易に使ったのは失敗であった。後述するが、線引きは必ずしも必要ない。
- id:Yagokoro バッカじゃねえのか。それこそ赤十字社が判断すればいい話。
まさしくそのとおりである。これは1ページ目に書いたとおり、赤十字には表現の自由があり、何を表現するかは赤十字が判断をすればいい。最終的には、赤十字にとってのコストパフォーマンスにより決定されるであろうと考えている。
- id:racebyrace 線引なんて出来ません。最終的には、違法かどうかしか無いのです。
- id:tomoya_edw 規制しようとしている側が規制の根拠を示せ。何かをやめさせようとするのに、無限に出てくる性嫌悪者のために配慮してとりやめるのかって話だよ。やるなら法のラインで全然いい。規制と反規制の落としどころなどない
- id:jun_cham その線引きはすでに終わっていて、法律で猥褻物という定義がすでにある。猥褻物にあたらないのであれば、公共の場で目にすることはあるものとして、正しく対処できるよう生きていくべき
- id:arrack 猥褻の基準はある(局部露出の有無等)けど、それを超えて過度に性的だの言ってるから、(どういう基準でそう言っているのかと)叩いているわけで。ゼロベースではないのに、増田含めて勝手にゼロベースに戻すな。
- id:ite 日本において猥褻の基準はしっかりとあって、裁判でも判例が積み重ねられている。それらを無視して思いつきで一方的に規制したがるやつらが馬鹿。
- id:meganeya3 「ポリティカルコレクトネス」ならきちんと法律にしろ。自主規制ってのはムラの掟なんだよ。そんなものを押し付けるな。説明は真摯でも結論がそんなところに着地されては困る
私は、表現の自主規制を行う上で、法律上の「わいせつ性」を基準とすることは不適切であると考えている。
世の中にはいわゆる「成人指定」あるいは「R-18指定」という仕組みがあるが、これらの規制は自主的に行われている。法的な「わいせつ物」はそもそも流通が不可能であり、一般に流通している「成人向け」コンテンツはすべて法的に「わいせつ物」ではない。では、どのようにして成人向けコンテンツのレーティングが行われているかというと、業界団体による自主規制ルールによる。もちろん、各都道府県系には青少年健全育成条例のようなものがあり、レーティングとゾーニングの実施を要求している。しかし、レーティングの主体は、あくまでも表現者である業界団体側に委ねられている。言い換えると、現在の日本においては、法的にわいせつ物であるかどうかを基準とした運用は、成人向けコンテンツに対してすら行われていない。
以上の理由より、私は、法律をベースラインと置く言説には説得力が乏しいと考えている。もちろん、「法律で認められているものはOK」と強弁すること自体は可能であるが、周囲の同意が得られるかどうかは別である。私自身はむしろ、件のポスターを擁護する上では、このような極端な言説を用いるのは悪手であると考えている。
- id:hanyan0401 R18以外で実際に運用されている基準なら、CEROのレイティングがあります。CERO-A(全年齢)の一つ上がCERO-B(12歳以上)で、ソフトの一例はこちらです。http://bit.ly/2JyAgbx 件のポスターってこのレベルで「性的」なんですか?
- id:yas-mal 過去の議論を無視してゼロから議論するのもアホらしいので、「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」あたりを前提にすれば良いんじゃ無いでしょうか。日本赤十字社はどの程度公的広報に準ずるべきかも含めて。
- id:kumaponta 新しい価値観を提示したいなら何らかの基準を示さなければならないのは変化を求める側。具体的にはホワイトリストとブラックリストを併用したR12に近いレーティングを批判側が用意し検討の要望を出すのが筋だろうね。
これらのコメントは、現実的な自主規制ルールについての言及である。
「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」は、多くの機関にとって最低限満たすべき基準となるであろうが、一方で、非常に概念的な内容にとどまっており、個別の表現に対する評価には使いづらいように思われる。そういう意味では、CEROのレイティングは、個別の表現を評価する上では、より有用かもしれない。ここで重要となるのが、CERO(や映論やビデ論など)のレーティング基準は、これまでの議論や社会的な情勢を踏まえて策定されており、ある程度の社会通念上の合意が得られたものとして運用されているということである。コメントには「落とし所など無い」という意見が散見されたが、多くのコンテンツは、すでに「落とし所」すなわちレーティングに基づいて運用されている。そして、想像ではあるが、このようなレーティング基準の背後では、規制強化派と規制緩和派の綱引きが常に行われているのではないだろうか。
赤十字がどのようなレーティング基準を採用するかは、赤十字の自由である。しかし、「法的にわいせつ物でなければOK」といった基準を採用しないであろうことは、かなりの確度をもって確実だと言えるであろう。
後半の指摘に注目されたい。いわゆる「レーティング基準」というほど明確なものではなくても、赤十字が内部的に表現基準を作ることは十分に有り得る(むしろ、すでにあるのではないかと思う)。このような内部基準は、過去の事例へのフィードバックを基に更新されていくであろうし、性的要素以外にも、ブランディングや多様性への配慮なども含めて運用されていくだろう。そして、内部の表現基準は曖昧に定義されることも予想できる。「各要素を勘案して、不要に性的に映らないようにすること」といった基準は、組織内部では問題なく運用される。担当部署で感覚が共有されていればよいだけなので、肌の露出割合といった、客観的な基準は必要とされない。言ってしまえば、まさに「ムラの掟」ならぬ「日赤広報部の掟」があれば十分である。
繰り返しになるが、このような内部基準は、表現の自由の問題とは直接的に関係がない。赤十字には、当然ながら表現の自由が存在する。しかし、赤十字が実際にどのような表現基準をつくり、どのような表現を外部に対して行うかは、赤十字の裁量に委ねられている。表現の自由を前提として、それをどのように行使するかの話である。
前述のような前提に立つ場合、この問題は「ポスター批判派 v.s.ポスター擁護派」の構図ではない。この問題は、「ポスター批判派 v.s. 赤十字」と「ポスター擁護派 v.s. 赤十字」という、個別の2つの問題である。両陣営とも、赤十字が自分の好みに合う表現基準を設定するように、赤十字にロビイングをするだけである。ここで赤十字に対して「あなたには表現の自由がある」と言ったところで、赤十字からすればそのようなことは既に自明であろう。赤十字にとっては、自由を前提として、どのような配慮を行うべきかこそが課題であり、「表現の自由」や「法的なわいせつ物」の話を引き合いに出されたとしても、あまり参考にはなりそうもない。また、ポスター批判派の言論を「お気持ち」と揶揄したとしても、赤十字が「我々はなるべく多くの人の気持に寄り添いたい」と方針付ければそこまでである(そして、赤十字の役割を考えれば、そうなる可能性はかなり高い)。「批判派は明確な基準を示せ」という意見も、赤十字には届かないであろう。赤十字の立場は、「皆さんの意見を参考にして、基準は自分たちで作ります」でしかないと予想されるからだ。
私自身は、ポスター擁護派である。しかし、一方で、ポスター擁護派の言論が非常に脆弱であるという危機感を持っている。わいせつ性の有無や表現の自由を銀の弾丸扱いしたり、「お気持ち」を軽んじる方向性は、現実世界において他者に響くであろうか。私にはあまりそう思えない。むしろ、そのような極端とも取られかねない言動は、単に無視されるか、悪印象とすらならないだろうか。もしも、わいせつ性の有無や表現の自由が議論において有効な武器であり、「お気持ち」を簡単に潰せるほどの威力があるのならば、ビールのポスターから水着の女性が消えたり、レーティングによる自主規制が行われているのは何故だろうか。私が、敬意をもって落とし所を(なるべく自分の好みになるように)模索するべきだと考えているのは、そういう理由である。銀の弾丸を持たない以上、100%自分の思い通りにはならないだろうが、「お気持ち案件」などと言って対話を打ち切ってしまえば、最終的にこちらが譲歩する度合いはさらに大きくなるであろう。
繰り返すが、件のポスターの是非において、表現の自由はあまり関係がない。もし仮に、ポスター批判派の要求が、政府による規制を求めることを主体としているのであれば、話は別である。しかし、今回の議論に置いて、そのような意見はポスター批判派からもほとんど出ていないように観測される。
この視点はとても参考になった。確かに、公共の場で公的、あるいは公的に準ずる機関が二次元キャラクターを用いるようになったのは最近のことである。漫画やアニメに馴染みのない人にとっては、自分が知っている世界が、なにか別のものに侵食されていると感じられるのかもしれない。とはいえ、表現の自由を前提にすると、そのような状況を拒絶することは難しいように思われる。「あの手の絵」に過度に性的な要素が含まれていない場合、二次元キャラクターであるというだけで拒絶することは難しいであろう。この部分は、なんとかして各自が折り合いをつける必要がありそうに思われる。
残酷ではあるが、あえて言うならば現時点で「声が集まっている」のはあなたの周囲だけなのかもしれない。実際に、私の妻に今回の件の感想を聞いてみたところ「別にこれぐらいいいのでは」というものであった。女性であっても、人によってはこのような反応である。他の人から見ると、あなた(達)の声は、まだ小さいのかもしれない。
しかし、どうか絶望しないで欲しい。私は、あなたの立場を完全に理解することはできないし、今時点であなたのために提示できるものもない。それでも私は、あなたにとって、今回の件が重大な問題であることは理解するし、それを馬鹿にしようとは思わない。私にはあなたを助けることはできないかもしれないが、あなたが声を上げ続けることは尊重するし、あなたの仲間がどんどん増えてあなたの声が多くの人に届くといいなと思っている。もちろん、声を上げ続けること自体が容易でないし、辛いこともあると思う。大変ですが、お互いがんばりましょう。
- id:viperbjpn 人それぞれっていうと、多分ほぼいろんな表現はできない
- id:chintaro3 そうなんだよな。溜まってる時は女性の手を見ただけで勃起するもんな。
- id:kloud 黒タイツでもドキドキする人がいるんだぞ!
一部はふざけているようにも見えるが、重要な指摘である。性癖というのは個々人でバラバラであり、実際に私からすると極端に感じる性癖を持つ人もいるであろう。では、個々人で性癖がバラバラであるから、手も黒タイツも、あれもこれも表現として認められない世界になるかというと、少なくとも現在の日本においては、そうはならないであろう。これは単純に、社会通念上の合意が簡単には得られないからである。これらのコメントは、「だれかの気持ちのために1つでも譲歩したら、結局はあれもこれも譲歩することになる」という危機感を述べているのだと考える。1ページ目で述べたとおり、このような危機感には一定の妥当性がある。一方で、現在の日本において、そのような自体が実際に発生するかというと、そのようなことも無さそうである。実際に、既に存在している様々な自主規制ルールは、多かれ少なかれ問題はあるにせよ、先鋭化することもなく、案外まともに運用されている。ルールを正常に保つためには、各陣営の不断の努力が求められるだろうが、極端に悲観する必要は無いと考えている。
補記が続くのかよ