はてなキーワード: 地区とは
P「ああ、驚いた、あそこまでの高いアイドル力をもった子がまだいたなんて。
圧倒的だった、去年見た時はあそこまでじゃなかった。
きっと、優れた…… いや言葉を選ばずにいうなら狂ったプロデューサーがついたんだろう。
愛海「……どうして?」
P「ここで無理することはない、ドロップアウトしても、ベスト4は確定してる。
愛海「体格も似通ってるし、女の子同士」
P「負けたくない気持ちはわかるでもな、ほらニュージェネレーションの卯月ちゃんも言ってただろ、
今が全てじゃない、って」
愛海「プロデューサー、卯月ちゃんの言葉は逃げの言葉じゃないよ。
アイドルを続けていく、ずっと続けていく覚悟があっての言葉なんだよ。
でも、あたしもようやくわかった。
同い年、同じ地区。
……それに、実業団。
あたしのアイドル人生が続く限り、きっと七海ちゃんとは一生やり合うことになる。
そんな予感がしてる。
だから、今日、ここで逃げたら、きっとあたしはもう一生アイドルと真摯に向き合えない。
P「棟方は十年後二十年後のこと、考えちょるがか」
愛海「こんな感動的な場面で、プロデューサーの好きなアニメ海がきこえるの名台詞を引用されても……」
P「あーいや、その、なんだ、この会場の中でも、愛海がきこえる、ということで、その、頼む」
愛海「なにそれ、相手も七『海』で海がついてるじゃん」
P「え? あ、ああ! 本当だ! すまん!」
愛海「大丈夫!
うん!
負けてくるよ!
P「あたりまえだ!!!!」
1.シリコンバレー
2.ニューヨーク
3.ロンドン
4.北京
5.ボストン
6.Tel Aviv(イスラエル)
7.ベルリン
8.上海
13.オースティン
14.ストックホルム
15.バンクーバー
16.トロント-ワッテルロー
18.シカゴ
http://thebridge.jp/2015/07/the-2015-global-startup-ecosystem-ranking-is-live
そう思った方もいらっしゃるはず。僕もそう思いました。
しかし、資料をよく読んでみると実はそもそも日本は調査対象に入っていません。
実は前回(2015)のランキングでも日本は調査対象に入っていませんでした。
このことについて、前回の資料では「日本,中国,韓国は言語の関係で今回は調査を見送りました」と明記がありました。
しかし、今回の調査では中国はもちろん、韓国(ソウル)も調査の対象に入っています。
日本が調査対象から外れていることについて、そしてその理由についての明記はありません。
考えられる可能性の一つとして
が思いつきます。
"この資料では日本、中国、台湾、韓国が含まれていません。(中略)
我々はこれらの国のエコシステムについて、次回には含めるつもりでいます"
【原文】
"Our index dose not currently include startup ecosystems from China, Taiwan ,Japan ,and South Korea.
We expect to have these eco-systems included in our index later this year."
この文章を読む限り日本は重要な場所とみなされているようです。
「次は日本も含めます。」と明言した限り、日本にも接触したでしょう。
それは、
です。
このランキングを発表するためには、いろいろな情報が必要です。
・企業価値
・売上
・M&A額
などの情報がそういった”表に出したくない”情報に当たります。
他にはスタートアップへのアンケート調査も必要になってきます。
調査に協力したからといって報酬がもらえるわけではありません。
忙しい中にこのような調査の対応をすることは正直言って面倒臭いでしょう。
と声をあげたい。
確かに、大事な情報を他人に渡すのは怖いし、アンケートは面倒臭い。
でも、もしこのランキングで良い結果を残すことができたとしたら・・・?
シンガポールを見て欲しい。
技術者不足で嘆いていたのだ。
しかし今年は?
シリコンバレーを抜いての「1位」だ!
2015年のランキングを真摯に受け止めた結果がこの結果を生んだのだと思う。
さらに言えば、2012年の18位からの反省も受け継いでいるはずだ。
日本がこのランキングに参加できていない理由、皆さんは気になりませんか?
今からでも遅くない。
http://anond.hatelabo.jp/20170309234833
あの発展途上国にイギリス・中国クラスの歴史遺産クラスの文化あったか?
日本文化がここまで落ちぶれたのは、日本人の韓国・台湾コンプレックスで落ちた日本国民の人間性の責任じゃないの?
車社会コンプレックスとか、バイク乗りの高校生・大学生とか、ポルノを叱れない大人とか。行き過ぎた統制主義とか。
島尾敏雄の「死の棘」という小説を読んだ。浪人時代に予備校講師に勧められて買ったものの文庫で600ページと長く、ずっと読めずにいたが、春休みを使って読破することができた。簡単に紹介するなら、「死の棘」は作者の代表的私小説で、夫の浮気の発覚から始まる妻の不調と家族の崩壊を記録した作品である。
読み進めていくと、妻の精神異常を和らげるためにと、「私」はこんなようなことを考える。
『相馬に帰ろう』
紹介され偶然手に取ったこの本のこの文章を読んだ時、私は名状し難い不思議な感じに襲われた。
私は、相馬地区で生まれ育った。島尾敏雄も相馬地区がふるさとだったのだ。
正直言って、私はふるさとがあまり好きではなかった。自然はたくさんあって、野馬追という伝統も素晴らしいが、若者が志を高く持つには小さすぎる街だと思った。私はどうしたらなんとも言えない閉塞感を打破できるかを考えては、多分無理だろうなと半ば諦めの感情を胸に秘めていた。
東日本大震災が起きた。
私は生き残った。住んでいる地域は原発避難指示区域には入らなかったものの、鉄道などインフラは寸断され、私たちは転居した。都会に。
それからの私の生活は非常に充実したものとなった。幸い、福島出身と明かしても白い目で見られることはなく、田舎にありがちなデキる人の足を引っ張る風潮もなかった。意欲ある人が存分に学び体験できる施設があり、尊敬できる人がいた。若者がより広い世界へ飛び立とうとする意欲を持つには充分だった。
東日本大震災が起こって6年になる今、私は東京で高いレベルの教育を受けられている。あの地震でおぞましい数の人が亡くなり、今も苦しんでいる人が大勢いるが、私にとって6年前の地震は人生を大きく変えた分岐点であったように思える。あの地震がなければ、私はここにはいない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。嫌だったふるさとから、私は逃げるようにしていなくなってしまった。どうすればいいかわからなかった。何か違うのではないか、という気持ちが渦を巻いていたが、田舎を離れられる開放感でそれを押さえつけてしまった。大震災を美化してしまった私の思考が正常なものなのか、若さゆえの過ちなのかは未だにわからない。
小説の中で島尾敏雄が相馬に帰ったのは、崩壊してゆく家族とのギリギリの人生をやり直す力を、故郷に感じたからだと思う。多くの人が、故郷を自分の人生の原点にして、そこの原風景を大事にしているように。私が捨てた故郷のそばには、未だに立ち入りが禁じられ、人々が帰ることすらできない場所がある。彼の郷里も最近、立ち入りが許可されたばかりで、復旧・復興とは程遠い。故郷に帰ることさえ一生叶わない忸怩たる思い、悩み苦しんだ時に自分が生まれ育った場所が変わり果ててしまった悲しみ、いわれのない差別に苦しみ、福島出身ということに引け目を感じている子どもたちの心情にどうやって接したらいいか分からない。故郷を追われ苦しんでいる人に少しでも助けになるように日々研鑽を積んで、その人たちを助ける力、次に世界を揺るがす大事件が起きた時に多くの人を助けられるような力を養うことが、震災をチャンスと捉え故郷を捨て去った自分の贖罪だ。
自戒として、ここに記しておく。
私は日本大好きですがこれはどうかと思う。(BBC流あいさつ)
神戸と違って、いつまでも被災地なんだろうなぁ。70年たっても戦後とか言ってるのと同じように
the48the48のコメント 2017/03/06 15:35
http://b.hatena.ne.jp/entry/325623993/comment/the48
16.7メートルの津波は、ちょうどこの高さ―― ヤフーが出した防災広告に絶賛の声 - ねとらぼ
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1703/06/news092.html
この記事への衝撃のファーストブクッマでいきなり被災地ガーと言われて、ガツンと頭を殴られた思いがあります。
これじゃあ150万円おごりおごられでいじめではなく電気消したのに光らないとバカにされるのも世間では本音なんだろうな、と。
「もはや戦後ではない」(1956年)、終戦から11年。NYが9.11を克服したと言われた[要出展]『クローバーフィールド』(2008年)は7年。
短いようで長かった6年、楽しかった運動会。小学生も卒業しますわ。
被災地増田からちょうど広告で取り上げられている大船渡市の現在を報告しますと。
2011年の4月に小学校に入学した子が卒業間際の今年度(2016年)はじめて校庭を使うことができた(校庭に仮設住宅があり使用できなかった)。
災害公営住宅が全戸完成し、市内の仮設住宅が今年度末で全て撤去になる。
仮設商店街が借地期限を迎え取り壊しになる中、土地整備が終わった地区に本設の商店街施設を鋭意建設中。
JR大船渡線は鉄路での復旧は諦めてバス専用路線のBRTになり数年経過。
こういった状況です。
当初から10年単位での復興計画でしたが、広域の災害のため建築土木の資材とマンパワーが足りず、時間がかかるようです。
コンクリから人への流れで建設会社の廃業が進み人手が減っていたタイミングだったのもあります。
瓦礫で埋まった道路を最初に掘り出してくれたのはショベルカー持ってた地元の土建屋さんなので、
年度末で道路掘り返してんじゃねーぞ、とイライラする事も最近は少なくなりました。
義援金、支援物資、ボランティアはもちろん、直接的な支援をされていなくても、公共工事や被災者支援などには税金が使われており
それはすなわち国民の血税でありますから、国民の皆さんに足を向けては寝られません。太平洋に足を向けています。
海外からの支援も多く、市役所の車両とか三陸鉄道の車両とか、○○国の支援と表示されています。
復興工事の方や、公務員の応援職員も全国から継続的に来ていただいています。
神戸の「希望の灯り」は分灯されて隣市、奇跡の一本松の陸前高田市にともされています。
直接、間接のご支援本当にありがとうございます。
衰退地域である三陸沿岸への税金投入のコスパについては自分でも疑問に思う面はあるのですが、それはそれとして。
「かもめの玉子」さいとう製菓の専務がビデオカメラ回して発災時の事務所内から高台に逃げて街が飲まれるまでを撮った映像。
https://www.youtube.com/watch?v=jbvBsgoEAe0
チリ地震津波もあったので大丈夫です、再建しましょう。の旅館経営おじいさん。
http://www9.nhk.or.jp/311shogen/
http://www.nhk.or.jp/morioka/archives/anohiArchives.html
NHK仙台局の津田アナは自身も被災して「被災地からの声」(東北地域で放送)のキャスターを努めています。
岩手局に一時居て今は東京あたりに行った魚住アナは浅野温子の息子。支援物資で貰ったレンズ豆は火が通りやすく美味しいけど、
レンズの形だからレンズ豆じゃなくて、レンズ豆が先にありレンズ豆型だからガラスレンズがレンズという名になったんですって。(豆知識)
(br)
結論としては、避難場所とそこまでの経路を確認しましょう。防災用品を確認しましょう。
おじさんのうちの何人かの、【止まれ】と【ありがとう】の合図の区別がつかないんですよね。
多くの地域では通勤と登校の時刻が重なるだろうから、交差点などに旗振りのボランティアが立ってくれていると思う。
自分の地区は、子ども会の当番制で順番に回ってくるのだが、働いている人が多いので、みんな当番の日は少し遅れて出社するなどしている。
さらに、昨年の熊本地震の影響で幹線道路が通行止めとなっているため、その代替道路が通っているため交通量が激増している。
それで立ち上がってくれたのがお年寄りの方々だ。「少し遅めの朝の散歩みたいなものだから」と快く旗振りを引き受けてくれて、雨の日も休まずに立ってくれている。
それでも敢えて、ですよ。もしも「どうしても何か一つ改善点を挙げてほしい」と言われたらですよ。
おじさんのうちの何人かの、【止まれ】と【ありがとう】の合図の区別がつかないんですよね。
手を顔の位置くらいまで上げて、手の平をこちらに見せるの。
過去の反映とリフレクションやら侵入的想起とよいとまけやらを表すのは労苦でこのくらいのことは歌唱に継起を感じたところで磨り減る度に変質するどうしようもなさでしょうがないに慰められたことも頑張れに芯が通ることも現在に沈潜し鬼籍2017
家族の集合写真は数多くのタイトルで単位をどうせ忘れてしまうピー地区パー地区シリア2017
こぼれる中身のこぼれるながめよ、外傷虚血が私なのです、と嘘もいってられない2017
見せなければよかった見せなければこんなことにはならなかった2009、2011~2017、
確かにそのとおりでおたがいさまにしかならない反省と発展系の罪と系統だてない罠と馬鹿でしかなかった自分と鹿の死2012と動物園の青い鳥の死が2017
岡山理科大(加計学園)が愛媛県今治市に獣医学部開設へ 土地の入手方法について 高嶌さん解説(2017.3.1作成) - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1086386
別に市政にツテなんてない、しがない一市民だけど、モニョった。一市民としてはモニョった。
https://twitter.com/uchida_kawasaki/status/837255423824543744
3月議会で上程が重要って言ってるけど、なんで重要なんだろう。そこんとこよくわからんなあと思う。
獣医学部新設予定地は https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E6%96%B0%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%96%8B%E7%99%BA ここに記載のある第2地区。しまなみ海道開通を契機に計画されたんだから、まあ気の長い話だよ。解説がついてるけど、長年大学を誘致するっていうものの果たせずにいた土地やんね。
そもそも地元民的には少子高齢化モロに食らってる今治で新都心計画大丈夫なのって気持ちもずっとあったし、第1地区のイオンモールなんか、立派な4車線道路の交差点に隣接する造営地に数年来「イオンモール建設予定地」の看板と、ぽつんと置かれた動かないショベルカーだけが野晒しになってるという寂しい状態で。なんだったんだよあのショベルカー。一応計画死んでませんよってアリバイ作りかっての。「イオンは来るのか来ないのか」は長年今治市民の鉄板世間話ネタだったもんねえ。
それがここ数年、ついにイオンモールも建設され無事開店、なんだかんだ地元企業や消防署の移転なんかも始まり、第2地区もだいぶ住宅地らしくなり、無駄に広いアースランドもだんだん認知され始めて、って、ようやく新都心計画も根付いてきたかな、ってことの果ての今回の獣医学部新設決定。長年、獣医学部誘致してるらしいよって話はぼんやり市民の間に流れてたけど、大方夢物語扱いやったもんね……特区が取れた報道にはびっくりしたよ。
http://lite-ra.com/i/2017/03/post-2957-entry_3.html
確かに、この話読むと、なんらかあったのかなあって疑う余地があるのはわかる。わかるよ。でも、
https://matome.naver.jp/m/odai/2148838721932102801
https://twitter.com/takashima724/status/837188198883176448
市民が訴訟……するかなあ……。36億7千万の土地を無償譲渡って言われたらそりゃヤバく聞こえるけど、2003年に松山大学に蹴られてからずーーーーっと塩漬けで早14年の土地って聞かされたらどうよ。無償譲渡って聞いても、まあしゃーねーんじゃね〜建ててくれるだけありがたくねーーーくらいの気持ちにはなったよ。
獣医学部そのものの規模がやけに大きくて、それ日本全体の需給規模的に大丈夫なん? は思ったし、記事でもボロクソ書かれてて、だよなーーとは思った。ただ、四国に獣医学部が本当に不要なのかは、四国の畜産周りの人に聞いてみんとわからんのじゃないかなあ。四国、出て行ったら戻ってこんもんね……。
まあ疑惑がガチで、獣医学部が誘致できなくなったら、それはそれでもう仕方ないんやろうけど。ただ、異常な土地の譲渡って話を森友学園と同レベルに受け取られるとなんか違うと思うわ。今治から比べたらあんな大都会の、あんな立派な立地と同列で語られるとか勘弁してほしい。確かに広くて日当たりは良いけど、次の買い手なんてまず現れんだろうなーーー………。
流れを追い始めたら面白くなったので、経緯と疑問点をまとめておく。
*年 | *月日 | *出来事 |
1974年 | 昭和49年度(1974)から平成元年度(1989)にかけ、航空機騒音対策の一環として移転補償による買収 | |
1995年 | ※宅地状態の航空写真確認(宅地もしくは小規模な業務施設?) | |
この期間不明 | ||
2004年 | ※緑化状態の航空写真確認 | |
2005年 | 豊中市、野田地区土地区画整理事業により移転補償跡地を集約換地 | |
2009年 | 年度内 | 大阪航空局調査により地下に埋設物があることを確認 |
2011年 | 11月 | 土地の一部に基準値を超える鉛、ヒ素の土壌汚染を確認 |
大阪航空局より近畿財務局に当該国有地の処分依頼 | ||
2013年 | 6月 | 6月から3か月間、公的な利用要望を確認する公募開催 |
森友学園、小学校新設に向け取得要望 | ||
2014年 | 10月31日 | 大阪府私学審議会に認可申請書提出 |
12月18日 | 大阪府私学審議会において認可審議するも継続審議 | |
認可申請について、「申請内容等において確認すべき点があるため、継続案件とする。臨時の審議会で審議する。」 | ||
2015年 | 1月27日 | 大阪府私学審議会(臨時)において付帯条件付きで認可適当の答申 |
※本来であれば、申請段階で土地所有または借用、相当程度の確実性を持ったその見込み が必要。 | ||
答申内容「慎重審議の結果、上記の件について以下の条件を附して認可適当と認める。小学校建設に係る工事請負契約の締結状況、寄付金の受入れ状況、詳細なカリキュラム及び入学志願者の出願状況等、開校に向けた進捗状況を、次回以降の当審議会定例会において報告すること」 | ||
※なお、その後の定例会で報告があった形跡は、議事録上無い。 | ||
2月10日 | 当該国有地を小学校敷地として処理する事案を国有財産近畿地方審議会で審議 | |
森友学園、学校経営安定まで借地にしたいと申し出 | ||
10年間の事業用定期借地契約による時価貸付 | ||
10年以内の売買予約による時価売り払いとする | ||
2016年 | 3月10日 | 3月31日までの期限を1年伸ばしてほしいとする変更合意書を締結 |
3月11日 | 森友学園、近畿財務局に想定以上の深さに埋設物が多いと主張始める | |
3月14日 | 近畿財務局が大阪航空局に埋設物除去費用積算を指示 | |
3月24日 | 森友学園、土地を買い取りたいと申し出 | |
3月30日 | 森友学園、大阪航空局間で、地下3mまでの埋設物及び土壌汚染除去費用の支払いについて合意書を作成 | |
3月31日 | 取得期限? | |
4月1日 | 当初(少なくとも2015年2月10日の国有財産近畿地方審議会時点)における開校予定日 | |
※大阪府私学審議会で開校予定日の変更について審議された形跡は無い | ||
4月6日 | 森友学園、埋設物撤去費用として1億3176万円を大阪航空局から受領 | |
4月14日 | 大阪航空局より埋設物除去費用は8億1900万円と積算し、近畿財務局に提示 | |
6月20日 | 森友学園が当該国有地を1億3400万円で購入、支払いは10年間分割で延納利息1% | |
9月 | 豊中市議が契約内容について情報公開請求するも黒塗り | |
2017年 | 2月8日 | 豊中市議らが売却額公表を求め提訴 |
2月10日 | 非公表だった売却額を一転して開示 |
国会審議については以下を参照
https://togetter.com/li/1081605
他の出典は以下の通り。上の表に収めようとしたが、すると投稿できなかった。すまん。
http://kinki.mof.go.jp/content/000115032.pdf
http://www.pref.osaka.lg.jp/shigaku/shinngikai/h26012teireikai.html
http://www.pref.osaka.lg.jp/shigaku/shinngikai/270127rinjikai.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-02-16/2017021615_01_1.html
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
昨年沖縄で女性が暴行され殺された事件で、ケネス・シンザト被告の言い分を琉球新聞、朝日新聞の二紙(のみ)が伝えている。
まあ、二紙と言っても電子版だし、Googleニュース検索にひっかったのがこれだというだけなのだが。
これはまあ、どうしようもない生来の犯罪者思考としか言いようがない。
「日本では女性は暴行されても泣き寝入りするから、逮捕されることはないと思った」
まずい。ひどい、ではなく、まずい。完全に韓国と勘違いされている。
今回の事件で、この誤解が完全に解けてくれればいいのだが、韓国のとばっちりだ。
10年位前、私が大手の企業で働いていた時、海外安全情報なるメールが月イチくらいで来ていた。
どの地区は十分注意してくださいとか、不要不急の入国は避けましょうとか、そういう公式のものだ。
もうひとつは民間の調査会社のもの。会社が調査会社と契約していたみたいで、そのレポートもついていた。
ある月のレポートはアジア編で、各国の文化背景なども含めた安全情報が記されていた。
韓国では、テロの可能性や凶悪犯罪の発生率は比較的少ないですが、子女帯同の際は性犯罪に注意してください。
公式の性犯罪率は他の国よりいくぶん多いといった程度ですが、実際にはかなり高いと推察されています。
韓国では、警察や裁判所が性犯罪に対して「寛容」なため、被害届が受け取られなかったり、
裁判所によって訴えを取り下げるように説得されることが多いことから、泣き寝入りが非常に多いと見られます。
そんな内容。シンザト被告の言い分を見てこのことを思い出した。
もう10年も前のことだから、韓国の文化も変わってくれていたらいいのだけど。
そうじゃなきゃ、
と声を大にして世界に訴えなければならない。
生活がきつい。
正確には私の病気が原因で子ども2人の面倒を1日見るのが大変になってしまったので夫に時短勤務(9〜16時)お願いした。
会社は快く了承してくれたんだけど、1ヶ月すぎて給料明細見て倒れそうになった...。
手取り3割減。
正直給料より家賃の方が高くなってしまってもうほんとどうしたらいいんだ。
貯金がどんどん溶けてく。
親にも金銭面以外で少し頼ってるけど、どちらの両親にもあまり負担はかけられない状況。
私も4月から育休から復帰予定だったけど今回の病気の進行状況と保育園の結果次第でクビが飛ぶかもしれない。
あー今度は胃に穴があきそう。
もうどうしたらいいんだ。
結局世の中全ては金。
金なんだよ、給料全然あがらないのに景気が良くなってきたとかいうのやめてくれ。
一生懸命働いたり子育てしたりしてんのになんの罰ゲームだよ。真っ当に働いてんのに家すら維持できないの笑える。
夫に通常勤務に戻ってもらっても、私がまた倒れたら本末転倒だし。
真綿で首を絞められてるというのはこういう状況のことをいうのか、マジでつらい。
金がないのがこんなに惨めだなんて!
大抵の県がそうじゃね?
ターミナルとなる駅がそういくつもあるような県の方がごく一部の大都会かと
田舎だとむしろ郊外の分譲地あたりに家建てるのが勝ち組なんだよなあ
あくまで
駅チカとかなんの価値もない
駅前のマンションなんて買おうものなら「何故あんな値段だけ高くて『不便な』ところに…」と思われる
(余談だが俺の地元は「駅前」という言葉で一つの駅のどちら側の地区かまで特定できるような県だ)
郊外の国道沿い大型ショッピングセンターへのアクセスが優先される
駅まで徒歩5分都心()の一等地でショッピングセンターまで車で30分と山奥で駅まで徒歩一時間でもショッピングセンターまで車で10分なら後者のが選ばれるだろう
まあ、学区を考えなければだが
とにかく車以外の手段でのアクセスなんてほとんど考えられてない
子供の通学?
(駅or学校まで)車で送迎に決まってんだろ
「ガイジン」扱いで役員とかはスルーされてたし、実際子供は浮いてたけど、どうせ短期滞在駐在族だったのでそんなのどうでもよかったってだけ。
あとあちらはPTAの手伝い要員として働くなら犯罪歴がない事を示した誓約書みたいなのを書く必要があるんだよね。
全員強制参加ってのが無いのはそれもあるかと。
更に別に強制参加ではなく自由参加でもボランティアが多数来るってのもある。
概ね裕福で教育熱心な人が多い学校だとそういう傾向で、PTAも自ら役員やりたがる人がいるし、行事手伝いも有志だけで確保出来たりする。
逆に全員強制参加、貧困家庭だろうがシンママだろうが免除一切無しなんてのは、そこまでしないと誰もやらないようなアレな学校なわけで。
(アメリカでも貧困地区の公立校は悲惨らしいが、そもそも銃犯罪だの薬物だのが横行している世界なのでPTAどころではない)
因みに、州とか地域によっても違うんだろうけど
子供が行ってたアメリカの学校はPTAの会合というと夕方五時半くらいからで、それでも大多数の親が来ていた。
つまりその時間には学校に来られる働き方をしている人が大多数ってこと。
(学童もそれくらいの時間に終わるし、子供だけで放置したら違法だから当然だけど。シッターを雇える家庭ばかりではない)
日本はPTAを変えるよりまず働き方を変えた方がいいんじゃないかな。
両親共に朝から晩まで子供を放置して社畜として働いてたら育児なんかそもそもまともに出来ねえよ。
なんかトラバしてた増田(「アメリカのPTAに関する話は伝聞な上に(ry」ってやつ)
が消されたので、ここにぶら下げとこっと。
31歳、WEB博物館の学芸員。大学の専攻はソフトウェア考古学。
行ったことのない人のために説明しておくと、WEB博物館はWEB150年周年を記念して設立された博物館で、WEBの歴史を振り返るとともに
各時代のサイトのデザインやインタラクションを体験できる日本唯一の博物館。古くは平面ディスプレイでのWEBページから、主流の空間型3次元MRの流れを体験できることが売りなんだけど、
まだ2010年~2020年代の展示が用意できていない。暫定的に、展示パネルでスクリーンショットを展示している。
この展示の担当者は俺。正直な所、ちゃんとした展示が開始できる見込みは立っていない。というのも、ソースコードはあるけれど、当時の技術背景がはっきりしないため、サイトを動かすことが全くできないためだ。
今時、平面ディスプレイなんて骨董品屋に行かないとお目にかかれないが、なぜか自宅の地下に眠っていた。
りんごのマークが描かれた物理キーボード搭載の、所謂ノートパソコンってやつ。金属ボディでかつ核シェルターに入ってたので、核戦争の時のEMPにやられずにかろうじて残っていたみたい。これを高校生の時に見つけて以来、徐々に二次元派になっていった。レトロPCマニアという区分の人間だ。
当時のソフトウェアを発掘、解析していくうちに、古い技術のソースコードを集めるのが趣味となり、大学ではソフトウェア考古学を専攻した。
大学時代にやってたことは、未処理地区に入ってストレージを発掘、残っている当時のソフトウェアを解析、当時のものを修復・復元などだ。
ここでは研究員がそれぞれの時代のWEB技術で作られた製作物を復元するプロジェクトに携わっていた。
で、俺の担当が暗黒の時代と言われた2010年~2020年代だった。
ソースコードは、骨董家から譲ってもらった。当時のサーバーやクラウドサービスは核戦争でほぼデータ消失しており、100年以上前のソースコードなんて絶望的だったが、ある企業が当時の中国のハッカー集団に抜かれたソースコードを保存していたストレージがたまたま現存していた。
開発に使われたJavaScriptという言語は、AIの解析によってバージョンが判明し、なんとか仕様が分かった。大学で近代プログラミング言語史の授業を取っておいてよかった。
とにかく、この時代はフロントエンドの開発環境の移り変わりが激しく、それぞれのパッケージが使われていた期間がとても短く、バージョンも多様に渡ることから、正解のパッケージが現存していない。
この時代は、まだIT教育がほとんどされていなかった時代でもあり、ソフトウェアエンジニアはほとんど独学で技術を身につけるのが普通で、そのためソフトウェアに対する価値観が多様であった。どんどん新しいパッケージが開発、公開され、そのため開発環境の移り変わりはとても激しく、特にフロントエンドは1~2年でガラリと変わっていたようだ。
すると、1~2年しか使われなかったパッケージなんて入っているピンポイントな生存ストレージなんか見つかるはずもなく、全然開発環境の復元が進まない。
別バージョンのパッケージが見つかることもたまにはあるので、それで代用を試みるけど、エラー文が多すぎてほとんど使えない。
1月1日 - イスラエル中部テルアビブで銃乱射が発生、9人が死傷
1月12日 - トルコ・イスタンブールで爆発、10人が死亡、トルコ政府はISILによる自爆テロとの見解
1月14日 - インドネシア・ジャカルタのテロ・銃撃戦、被疑者はISILと関連
1月16日 - 2016年中華民国総統選挙、民進党の蔡英文が当選
1月30日 - シリアの首都ダマスカスで爆発、45人が死亡、100人以上が負傷、ISILが犯行声明
2月20日 - アメリカミシガン州で無差別発砲の銃撃事件、5人が死亡
3月20日 - アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがキューバを訪問
5月9日 - フィリピン大統領選挙、ドゥテルテ当選(→麻薬戦争、8月までに1000人以上死亡)
5月27日 - バラク・オバマが現職アメリカ合衆国大統領として初めて広島市を訪問
6月12日 - アメリカ・フロリダ州で銃乱射事件、50人が死亡、ISIL系のサイトで犯行声明
6月23日 - イギリスで欧州連合離脱是非の国民投票、欧州連合 (EU) 離脱支持票が過半数を占める結果
6月25日 - アジアインフラ投資銀行の第1回年次総会
6月28日 - トルコ・イスタンブールの空港でテロ、死者36名、負傷者140名
7月1日 - バングラデシュの首都ダッカにて、武装集団による襲撃・人質立てこもり事件、死者28人、負傷者50人、ISIL系のメディアが犯行を認める声明
7月3日 - バグダードのカッラーダ地区の繁華街で爆弾を積んだ冷蔵トラックが爆発、200人以上の犠牲者
7月7日 - アメリカで5日と6日、警官に黒人男性が射殺されるケースが相次ぎ、全米で抗議活動が広がる中、テキサス州ダラスで7日夜、デモ警戒中の警察官5人が射殺される事件が発生
7月10日 - 日本で第24回参議院議員通常選挙、自公連立与党は合計70議席を獲得し勝利
7月12日 - (南シナ海に関して)フィリピンが「中国の主張は国際法違反」と訴えた仲裁裁判で違反判決(→中国はそれに従わず)
7月14日 - フランスの南部・ニーストラックテロ事件、84人が死亡、202人の負傷者、ISILの関連性
7月15日〜16日 - トルコで軍の一部によるクーデターが発生、未遂ながら200人を超える死者
7月17日 - アメリカルイジアナ州バトンルージュで警察官が銃撃を受け3人が死亡、3人が負傷
7月22日 - ドイツ・ミュンヘン銃撃事件が発生。犯人を含み10人が死亡
7月26日 - 日本で相模原障害者施設殺傷事件が発生。19人が死亡
8月8日 - 日本の天皇が生前退位問題に対してのお気持ちをビデオメッセージで発表
9月4日 - 香港にて第六回立法会議員総選挙、親中派は40議席、非親中派は30議席
9月14日 - 内戦が続くシリアで、米国とロシアの仲介によって、アサド政権と反体制派の停戦が発効
9月15日 - 4ヶ月で大学を中退し起業します。レールに沿ったつまらない人生はもう嫌だ。
9月17日 - 2016年マンハッタン爆発事件が発生、負傷者25人
10月17日 - イラクのハイダル・アル=アバーディ首相はISILに占拠された北部の都市モスルの奪還作戦を開始と発表
11月9日 - アメリカ合衆国大統領選挙、共和党のドナルド・トランプが民主党のヒラリー・クリントンを退けて当選
12月15日 - 日本の安倍晋三首相とロシアのウラジーミル・プーチン大統領が、山口県長門市で日露首脳会談
12月18日 - ヨルダンで武装集団が警官襲撃 観光客ら10人死亡
12月19日 - ドイツのベルリンで行われていたクリスマスマーケットにトラックが突入、多数の死傷者
12月19日 - ロシアの駐トルコ大使がアンカラでトルコ人警察官に銃撃され死亡
12月19日 - スイス・チューリヒでイスラム教関連設備に侵入した男が機関銃を発砲し3人が負傷
12月22日 - シリア政権は反体制派が拠点としてきた要衝アレッポを完全制圧したと発表
過不足の指摘などいただければ。
父親が死んだとき、生命保険金の半分を母親の額面にすることになった。兄弟の総意だしそれは問題ない。
受取人が俺になっていたから、俺が管理して毎月母親に送金することにした。月20万。でも10年も持たずに使い切ってしまう。
ところが母親は20万では足りないと言ってくる。ペットの病気だの何だの。
だから月22万送金するようになった。減りは早くなった。
でも働ける体じゃないし、大変そうだから、俺が地元に帰って家でも買って生活費用を抑えようと提案してみた。
家を探そうとしたけど、なかなか良いのが見つからない。1700万円ほどの家を見つけたら、そこは部落地区だから止めろと言ってくる。
場所とのバランスを考えて母親が気に入ったのは2700万円ほどする場所。まあ、でもそれは俺のためもあって言ってるんだろう。だから怒るということはなかった。
他の地区と色々検討しているときに、「もし結婚したとして、子供のことを考えるなら、荒れていると評判の地区は困るなあ」と俺が言うと一言。
あのさあ…。俺の金を何だと思ってるんだ?
俺は中学生の時、公立の2番手校に行きたがった。それを言ったら1番手校じゃないなら学費は出さない、と怒鳴ってきた。これは完全に見栄だけの理由。後から公立高校の学費なんて高校生自身でも全然問題なく払えるレベルだと知ったことは置いておく。
結局、私立の特待生で学費免除になったんだけど、それでも俺の教育費が高いと文句を常に言われた。バスの定期代が高いとも言われたから学期の途中から自転車で通うことにした。片道40分。
それだけなら普通だろうけど、小遣い1円もくれないからバイトもして、特待生を切られないために勉強もして、成績は学年トップ5には常に入っていた。
浪人はしたけど(浪人中の生活費や受験に関する金は母親も父親も一切払っていない)、良い大学に入って名のしれた場所で働いている。
俺は間違いなく努力して、悪くない結果を出していると思う。
「勉強なんかしても何の役にも立たない。勉強しか取り柄のないお前は人間としての魅力がない。運動出来ないノロマ。運動が出来る従兄弟は格好良いな。本当にお前は格好悪いな」
ずっと言われてきた。でも勉強を続けてきた。
やっと手に入れた俺の結果を、かつて俺を馬鹿にし続けてきた母親は当てにしている。
家でも買って、なんて言ったのが間違いだった。家を買った後の生活費は俺が中心で出すことになるだろうけど、そもそも現状の生活費の切り詰めからからしておかしいから、いくら持っていかれるか検討もつかない。
母親は「生活が苦しくて、おかゆだけの日が続く」とか言ってるんだけど、ウォーターサーバーをもう何年も置いている。解約を提案したら絶対に逆上して会話にならないから言わないけど。
この間なんか、携帯電話ショップに言われて家にWi-Fi接続を導入したらしい(俺は見ていない)。でも実家はパソコン置いてないんだよ。通信機器は母親のスマホだけ。そのスマホはちゃんと回線繋がってる。Wi-Fi要りますか?
Wi-Fiの解約を提案したら「解約手数料がかかる」ってさ。Wi-Fiに金を2年払い続けるのとその解約手数料今すぐ払うのと、額面計算して比べてくれよ。
こういうのをポンポンと契約されかねない。その解約の度に金がかかって、所得に対して支出が馬鹿みたいになりそうだ。
逆に、前にトイレの換気扇を俺が付けっぱなしにしていたら(俺は自分の家でもずっと付けている)、凄く文句を言ってきた。付けないことによって節約しているらしい。それで一ヶ月の電気代いくら浮くんだよ。付けっぱなしでも300円程度だろ。こういうところで自分は節約上手の生き方上手であるかのように振る舞ってくるのも疲れる。
で、月20万円で過ごせないのが信じられないから、月の支出を見せてくれ、削れるところを見直していこう、と言うと「何でプライベートなことをお前らに教えないといけないんだ」とキレる。
一緒に暮らしてやっていける気がしないよ。
育ててくれた恩は感じているけどさ、俺が母親から受け取ったのって、一般的な家庭からすれば遥かに少ないんだよ。それもありえないレベルで。
暴力・暴言の虐待は日常茶飯事だったしな。夫婦喧嘩の仲裁を子供たちでやったことなんて数え切れない。
すねて飯を食わないと言い出した母親におかゆを作ったら、「しつこいんじゃ!!!」と怒鳴ってお椀をゴミ箱に突っ込まれたこともある。
それなのに俺が、一般的な家庭における息子が親に渡すものよりも遥かに大きな世話をする必要ってあるんですかね?
というか、俺がいるから母親は俺の金を当てにしてくるんだよな。元々俺は家の中で存在するはずのなかった子供なんだし、いなくていいよな。
残額800万に俺の取り分を加えた1000万を全部送信して、バックレようか。
【追記】
予想以上の反響で驚いています。応援の言葉をくださった方にお礼を申し上げます。ありがとうございます。
いくつか補足をしておきます。
・他の兄弟
兄弟も手伝ってはくれています。帰省のときに小遣いを母親に渡したりしているそうです。自分は小遣いは渡していません。
本文からも退場したわけではなく、見直しを提案したときには同席してくれていました。母のセリフが「お前らに」となっていたのはそのためです。
ただ、結婚していたり、正社員ではなかったり、ということで面倒を見るのは自分以上に困難と思われます。精神的にどうかは知りません。
・年金
評価は受けていたと思いますが、受取人が自分だったのは評価されていたからではなく、母を受取人に出来ない理由があったからです。(法的にどうなのか分からないので書きません。役所からはこの回避方法で問題がないという回答をもらっています。)
だから母は自分が本来の受取人であり、「管理してもらっているのではなく、預けているだけ、本来は自分の金である」ことを主張します。
贈与税がかかるから一度には渡せない、ということで自分の扶養に入れて、生活費を送っています。(ここは法に触れたら金を没収されるものなので母もすぐに言うことを聞いた)
税金の話をするまでは、「私が正当な所有者なのに、あいつは私に金を渡さない。100万ぐらい持ってくるのが筋だ!」と兄弟に愚痴を言っていたそうです。これは傷つきました。
・文章力
ごめんなさい。元々上手い方ではないのですが、それに加えて感情が爆発しそうになっていたので、何を書けば自分の感情が読み手に伝わるのかよく分かっていませんでした。
思い出したエピソードを詰め込んだ感じです。
10日ほど前に、やはり腹が煮えくり返って書いたものがありますので貼っておきます。ただ、一部ノイズをかけようとして情報に齟齬があります。両方にリンクを書き加えたのを以て本人だと見なして下さい。
自分語り。かいつまんだつもりですが長くなりました。ごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20161204200529
・「生んで~」
自分は母親に生んでもらっていません。兄弟は母親の実子ですが。自分は母親と養子縁組をして母親を扶養に入れています。ちなみに実母は実母で嫌いです。
http://anond.hatelabo.jp/20161219005939
【追記2】
騒動の最中に、母に「それなら増田じゃなくて姉と一緒に住むっていうことを考えてみても良いんじゃない?」と言ってみた。
母の回答は「それは私も考えたけど、すぐに良い人見つかったらって思うとなあ……(だから住むなら増田)」であった。
姉が母と一緒に住んだとして、再婚すれば母から再び独立する未来が見えている。
前回の地方統一選挙以降、当選した議員のツイッターやブログを定期的にみている。
若手の議員は、SNSを利用して市政を積極的に伝えていくと言っていたにもかかわらず、週に2,3回呟くだけで、FBの更新もほとんどしていない。
たまに写真を上げるのだが、地区の運動会や公民会での挨拶の写真ばかり。
そんな中、50代の市議会議員(当選1回)のツイッターが地味ながら面白い。
ちゃんとその日の活動を報告し、事実と評価をしっかり分けて伝えようとする努力が見える。
毎朝地元の写真を上げ、スポーツの結果に一喜一憂し、健康に配慮しつつも時に羽目を外して大酒飲んでは二日酔い。
そのおっさんは、10年先の市のヴィジョンみたいな未来のことはあまり考えていないように見える。
どこどこの道路が劣化して危険だ、イノシシが酷い、保育園のための駐車場が欲しいといった感じで、今市民が困っていることを地道に解決しようとしている。
先の若手の議員は、若者の政治参加や人口減少対策といったデカい仕事に熱心である。
いや、まぁしっかりやってくれているし、若手の議員がダメってわけじゃないんだけどね。
ドイツ軍のソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組織的殺戮作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人の絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。
「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパのドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決』遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段の計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」
この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議を召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民局ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。
「ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。
1941年12月11日、日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツはアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦の様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツを戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界の世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。
ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録はニュルンベルク国際軍事法廷に証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分がゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。
「総統の意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方に追放し、その跡地に対して行われることになった…
ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」
ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域のユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツの占領国や同盟国とは別にイギリス、ソ連のヨーロッパ地域、また中立国のポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランド、トルコといった、ドイツが占領する予定だった国も含まれていた。
ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後の証言で「ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実、東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害—特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務に対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所を対応させる必要があった」。
この会談の直後、アイヒマンはアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。
ガスを使った殺害はナチ・ドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画は1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式な組織として医師を擁する医療関係の諸機関(大学・研究所・病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。
かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体は特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会側から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。
しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである。
絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍の戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間で捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車か冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊なパイプが排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。
「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連のドイツ占領地域では1941年の12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。
1941年12月8日。占領下ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初の絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれた区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」
「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれた場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年春から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティ(ヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。
1941年11月。ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議でハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人である。ハイドリヒは1942年5月にチェコのレジスタンスに暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファースト・ネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官兼警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツの東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者のウクライナ兵部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近の住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。
ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室へ直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人が 処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。
ルブリン近郊のマイダネク収容所はユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。
強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国領ポーランド南部、シレジア地方に建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランド名オシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎の敷地に強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校と政治犯を収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍需工業に囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所、アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所の建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体はガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム=火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体はガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所へ移送された。他に子ども、双生児、脊髄に障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。
生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。
厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓にさらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道な所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人用バラックからは毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。