はてなキーワード: インタラクションとは
[B! SNS] X「返信・リポスト・いいね」の数を非表示に マスクが宣言 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
これ。
結論から言うとタイトルはミスリードなのだが、現在の注目コメトップを始めブコメの半分ぐらいは「数字が一切確認できなくなる」と誤読しているようだ。
たかだか2ページの記事もまともに読めない皆さんのために強調して引用しよう。
なんと1ページ目から3回も書いてある!
さらに2ページ目にはハッキリと
仕様変更後には、タイムラインに出てきた投稿の背景情報や返信・リポスト・いいねのデータを確認するためには、その投稿をクリックしなければならなくなる。
とも書いてある。
タイムラインから見えなくなるだけであって投稿についての数字が一切確認できなくなるだとかそういう話ではない。
ちゃんと理解できているブクマカからは好意的な反応もあるし、記事も「パッと見でわかりにくくなること」を批判しているだけだ。
今回のように、イーロンマスクがTwitterを買収して以来はてブでは仕様変更にまつわる記事が度々ホッテントリトップに上がっている。
しかし内容はただの憶測やデマ混じりのゴシップ記事だったり後に否定されたものも少なくない。
メディアからすればイーロンマスクを叩きたい人をうまく利用することが格好のアクセス稼ぎのネタになっており、フォーブスのこのタイトルも明らかにミスリードを狙ったものだろう。
はてブのガイドラインには「元記事を読んでからブコメをして下さい」と書いてある。
その音楽的ピークはとうとうあっちの世界に踏み込んじゃいました。
アメリカーナとは関係なく、フォークロアや地域性に根を張った手垢のようなものを感じさせない普遍的、天国的で透徹した音楽。
(などと勝手に感じてしまってるけど勿論、この国の偏った舶来文化の大勢の意識の中で生きている一個人の独りよがりですが)
全ての曲が完璧ですが、とりわけrebecca sylvesterはこのアルバムのハイライトです。
そしてGastr del Solの最高到達点…のひとつでもあると思います。
「why did the sharks watch him drown?(なぜ 鮫たちは彼が溺れるのを見守ったのか)」
という述懐と共に奏でられフェードアウトしていくコーダの、夜空へ飛び立つような心地よさに何度涙したことか。
the sea incertainの複雑な和音を多用した繊細なピアノのつぶやきは、大友良英さんのおっしゃる「恋をしている気分」そのもの。
hello spiralはポストミニマルがロックやノイズと結びついた、明るみに向けてグラデーションを伴いながら上昇していく、
構造的ではあるものの、光の回廊を進んでいくようにみずみずしい喜びにあふれた名曲。
バランスを失うとときに過剰な禁欲性を聴き手に要求しがちなミニマリズムの厭味がありません。
孤独とメランコリーの彼方を遠目に深呼吸するよう甘やかな浮き沈みを繰り返すthe relay、
our exquisite replica of “eternity”の一部分と同様のループの中で(この形態での)最後の爪弾きと独白のような歌を終えるGrubbs…。
そしてエンディングはJohn Faheyの名曲に、天かけるTony Conradの純正律バイオリンと、
わずかに3(4)回ピアノの和音が雨しずくのようにそっと寄り添う雄大なもの。
もちろん冒頭our exquisite replica of “eternity”はコラージュにおけるGastrでのO'Rourke畢生の大作。
そしてアメリカ、スイス、スウェーデンなどから参集した数々の即興・ノイズ畑の実験音楽ミュージシャンとのインタラクションは壮絶です。
これは共同的な創造プロセスの成果としても音楽史に刻まれるものではないでしょうか。
中核となる二人にしろ、誰が強固に支配的であってもこの音楽は生まれなかったのは間違いありません。
聴きすぎて一通りの音が頭に入ってしまった後は(それ俺です)自分の聴く環境・コンディションの変化の中でいつまでも楽しみましょ~!
GrubbsとO'Rourkeの敬愛するLuc Ferrariが言っていました。
「結局、私の最も興味があることは擦ることのようだ」
人にもモノにも、擦り合わせることで新しい何かが生まれる興奮があるっていう事でしょうね。
さまざまな異種の要素たちが無時間的な感覚で摩擦し、それらの反発や調和が要素の単なる総和をはるかに超え、躍動的・神秘的に関わり合っていくGastr del Solの作品群も、その音楽的大成者に違いないと思います。
BT音声って、圧縮・展開を行う以上はどっちみちレイテンシを完全にゼロにすることって論理的に不可能なのですよね?
どうがんばってもゼロにはできない遅延をなるべく小さくすることにムキになって努力するよりも、遅延はなくせない前提でそれを問題としないシステムを組むことを考えるほうが建設的という気がする。
ms単位で相互にインタラクションが必要なゲームでは遅延の避けられないデバイスを使うことじたいナンセンスと思う。ふつうにワイヤードを使ってくださいって思う。
でも動画視聴用途では、もう「映像の方をBTスピーカーの遅延にあわせて遅らせる調整」が普通なのでしょう?(僕が持ってる安物のモバイルプロジェクターにその機能がついてるくらいだから普通だと思う)。映画なんかを見る分には、絵と音のタイミングさえ合っていればよくて、ゲームのような「システムとの同時性」は求められないから、映像側を遅らせちゃえばいい。
もしこれを規格として一歩進めるならば、BT機器のプロパティに「この機器の平均遅延時間」みたいな項目を設けて、ホストはそれを元に映像の遅延時間を自動同期するとか。コーデックに関わらず遅延時間を固定しておく固定遅延モードとかがあると自動同期する場合にはきっと都合がいいだろうね。
増田「最初に思い浮かべた単語を暗号化して示してください。最後に正解したら、その暗号を解除してください。できますか?」
GPT4:「私は暗号化と復号化を行うことができますが、私はリアルタイムでインタラクションを行っており、過去のやりとりにアクセスすることはできません。ですので、私が最初に思い浮かべた単語を暗号化して、その後復号化するというプロセスは実現できません。
ただし、言葉あそびのために、あらかじめ暗号化された単語を用意し、あなたがそれを推測し復号化できるようなゲームを提案できます。それでもよろしければ、暗号化された単語を提示します。」
VG9reW8=
この暗号化にはBase64というエンコーディング方式が使用されています。あなたが単語を推測し、それが正解であることがわかったら、私が復号化を行います。ヒントが必要であればお知らせください。」
GPT4:「ヒント:この単語は、日本の地名に関連しています。質問をどんどんどうぞ。」
最近コンピューターサイエンスがプログラマーに必要か否かみたいな話が上がっているが、そもそもコンピューターサイエンスって何だよ。どこまでの範囲をさしてんの?
ググって出てきた情報を整理しただけなので詳しい人、補足・訂正よろしく!
https://www.acm.org/binaries/content/assets/education/cs2013_web_final.pdf
CS2013はACM/IEEE-CSによるカリキュラム標準。
ACM(計算機協会)はコンピュータ分野全般の国際学会、IEEE-CSはIEEE(米国電気電子学会)の中にあるテクニカルソサエティ。
https://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/J07/20090407/J07_Report-200902/4/J07-CS_report-20090120.pdf
J07-CSは一般社団法人情報処理学会がCC2001CSをベースにアレンジを加えたカリキュラム標準。今はCS2013を反映したJ17-CSがあるらしいけどその辺は良く分からん。
https://www.ipa.go.jp/files/000024060.pdf
J07ーCSから抜粋。CS2013と比較するとナレッジエリアがあったり無かったり。
https://president.jp/articles/-/57423
完全にテレビマンのポジショントークだから、どうせいつもの時代にそぐわないってブコメついてんだろーなーと思ったら思った通りだった。
ケツバットがつまんないとかいうのは別にいいけど、自主規制になるって流れが嫌なんだよね。
「SNSの発達で一部の過剰なクレームが可視化されやすくなって、BPOがそれを無視できなくなっているように思います。特にいくつかある委員会のうち人権擁護委員会がかなり『視聴者の苦情寄り』なので、本来の設立コンセプトを離れて現場を規制する方向に進んでしまっている実感はありますね」
これが実際どこまで行っているのかが気になる。
https://togetter.com/li/1884111
って話がでてるけど、力のある(あった)テレビでさえ BPO に忖度するという状況だとあんまりよろしくないと思うんだよね。 Not for me なら見なければいいだけであって、視聴率がとれないならそれはそれで衰退するからほっとけと思う。
時代にそぐわないってのが、奴隷制とか本当の人権侵害ならあれだけど、ここ最近のポリコレ、自主規制の風潮、たわわも単なるクレーマーなんだよね。
ほとんどの人は肉を食べるから一部の過激派ヴィーガンが肉屋襲撃しているのみるとあいつらやべーになるけど、やってることってさほど変わんないんだよね。動物愛護だ、地球環境問題だと正義の顔してリアルの人間ぶったたきに行ってるの。
さらに規制作りは新たな利権になるんで、叩きたやすいところから有識者()が叩いてるし、一般人もそれにのって正義づらして叩いてすっきりできるみたいなのもあって、SNS と悪魔合体してさらにめんどくさくなってる。
十人十色の不快を全部規制していった先に残るのはどんなものなんだろう。健全で健康で不快のないオリコウチャンしか育たない国なんて、陰謀論じゃないけど某共産主義国のような一部の権利者はウハウハして一般人はすべて規制の息苦しいディストピアになるだけだと思うんだが。行き過ぎた健康志向も相まって、毒にも薬にもならないだれも不快にしない(という建前の利権者の規制を通った)表現しかできず、動物は食べられず、アルコールなんてもってのほか、健康にわるいから塩、砂糖、油は摂取不可、セックスもできず、他人にかかわらず生きるの、それもう人間生かしておく必要なくね?みたいな社会目指すの?
というか問題に対してルールやらマナーで対処しようとしすぎて、物理的な人間同士のインタラクション減らしすぎてて耐性なくなってきすぎてるんじゃないかなと思う。テレビをまねて発生するようないじめなんて本来リアルで対処すべき問題が、昨今だと他人に怒らなすぎるし、怒ったら炎上か通報されるんでルール化しようとするスパイラル。
だいたい日本は村社会で同調圧力強いのに基本クレーマーみたいなノイジーマイノリティしか動かないので、クレームに屈して規制はするけど、対抗する人が少ないので緩和は難しいと思うんだよね。コインハイブ事件とかよく守れたなと思う。守ってくれた人々には感謝。
つまんないとか不快だって表明するのは自由だけど、クレームを安易に(自主含め)規制につなげないような対策が欲しい今日この頃。みんな頑張って荒らしスルーしてほしい。
そんなわけで個人で何ができるかわからんけど、偉大な先達が作った表現の自由をはじめとした自由はクレームに負けずちゃんと守っていこうねってことで一つ。
ライブを観に行った。
メロコアの強い土地にいたのでモッシュ全般への嫌悪感をずっと持っていたのだけど、最近はまあそういうもんか、とも思う。
まあ普通にうるせ〜〜〜って思うんだけど。
何が嫌かと考えると、型みたいのが決まっていてそれをなぞるのが気持ち悪いというのがある。
それで感情の発露みたいなツラをしているのが生理的に受け付けないんだろうと思う。
本来的には無軌道に、無秩序に、個人的になされていたであろうものがある種のファッションとして行為される。
ステージの横でそんな偽物をニコニコ展示されても、不愉快になるだけだ。
そこに「日常からの解放」があるのか(そもそもそんなものが存在するのか)?
手を挙げるとか拳を掲げるとか中指を立てるとか涙を流すとか、さ。
ふと、地元のライブハウスにいた、前の方に陣取ってライブ中に拳を掲げながらめちゃくちゃフロアを振り返るおじさんを思い出した。
あと、個人的に、根本的に、演者とのインタラクションを望んでいないんだろう。
今まで生きてきた中で音楽に救われる瞬間っていうのは間違いなく存在していた。
件名のような気持ち (注:正確には 「コンピュータ支援などを使ってもいいから、自分の心の中のイメージを思い通りに絵で表現するような体験をしてみたい」 というような気持ち) を知人に話したところ、それは生業として絵に関わっている人(知人はそうであった)にとって侮辱であり、唾棄すべき考えである、というような答えをもらった。
たしかに知人相手に、絵を例に挙げてしまったのは、いささか無神経であったかもしれない。
しかしながら、いくら議論をしても、私はこの気持ちがなぜ否定されるべきものなのかわからず、知人もなぜそのようなことをして嬉しいのか理解できない、という平行線だった。
私の主張をまとめておきたい。
以下、それに対する知人の考えを、断片的にではあるがまとめておく。
ただし、私の乏しい理解度により、知人にとっては不本意な内容になっているかもしれないことは承知願いたい。
これに対する私の考えはこうである。
後者に関しては私もそう思う。体験提供においても、単なる一方的な映像提示でなく、自分が起こしたアクションが世界に影響を与えて返ってくる、というインタラクションが大事だと思う。
とりあえずこれで終わりにしたいと思う。多分この会話は、上記に書いていない導入の部分から、すでに互いにすれ違いがあったような気もする。
私は最後に、知人に対して、絵を例にあげてしまったことを詫びた。
私自身も、絵や美術的なことに関して憧れがあったが、他のことへの鍛錬を積む代わりに、絵には何もしなかった経緯がある。
それによって成したものもあり、現状に納得はしている。
それでも素晴らしいイラストなどをみると、もし私もこのように、心の中にあるイメージを思い通りに絵にすることができたら、どんな気持ちになるのだろうか、と淡い不真面目な憧れを捨てずに持っていた次第である。
最後に、これは特に知人には言わなかったが、アートやスポーツなども、「そんなふぬけた考えは侮辱だ」などと言わずに、「あなたは私のそこが楽しいと思ってくれるのね、ありがとう」という風に、博愛的に受け入れてくれる心があってほしいな、と思った。
多分消す
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VRHMDというガジェットがまだほとんど世に知られていなかった頃、数少ない先行者達はキャラクターと共に過ごす未来を切り開いていったように思う。
主に初音ミクと〇〇するVRという内容で、かつての俺はそれが見せる未来に惹かれた。
目の前にキャラクターがいる。
このままHMDが普及するとともに俺と同じ夢を見る人も増え、ますます未来は加速していくのだろうと、ぼんやりと、しかし確実な未来に胸を躍らせていた.
ある時を境に、バーチャルリアリティを取り巻く環境は変わってしまった。
瞬く間に人はソーシャルVRの虜になり、やれアバターだ、やれ新しい自分だなどと言い始めた。
VR空間上で思い思いの容姿をした人間同士が会って会話をする。
なんだこれは。
「現実ではできないコミュニケーションが~」などとほざく人間もいるが、結局は人間と人間が会話することに変わりはない。
おい。
どうしちゃったんだお前ら。
なあ。初音ミクはどうした? お前らあんなに騒いでたじゃないか。
「俺の嫁が目の前にいる」って。あれは嘘だったのか?
もう、キャラクターと共に生きていく未来を思い描く人間はいないかもしれない。
人々はアバターで人間と会話したり、キャラクターというよりかは人間の着ぐるみ同然のVtuberに金を投げつける方が好きなようだし、もはや俺のような正真正銘の陰キャオタクにはどこにも居場所がないのかもしれない。
あれこそ俺が求めていたものであった。
その頃自分はM1からM2に上がりたてで、HCI系の研究室に所属していたが特別ブラックというわけでもなく(直接指導にあたる教員との相性は悪かったが)、記事を読んでも筆者の境遇に思いを馳せるぐらいの月並みなことしかできなかった。
それでも、HCIは「一見役立たなさそうなおもちゃのようなものに、理屈をこねくり回して正当化させるのが多いように感じ」るという主張に心から共感したことは覚えている。「おもちゃ」という表現がぴったりだと感じたのだ。「ゴミ」とか「クズ」ではなく、「おもちゃ」。自分も含めて学士・修士の研究は大半がゴミ同然なのだろうけれど、どうしてかHCI研究の一部は「おもちゃ」であるように思えてならない。当時その理由を漠然と考えてみたりもしたが、結局まとまらないうちにほとぼりが冷めてしまった。
今、自分は修士課程を修了して労働をしている……が、このご時世なのでここの所はずっと自宅待機で時間を持て余している。だから、今のうちに寝かせたままのもやもやを整理し、言語化しておきたい。そういうわけで、増田に書くことにした。
一応断っておくと、これから書くことは修士卒の人間の主観に満ちたお気持ち表明であり、HCI全体のごくごく狭い領域の事情を述べているに過ぎない。HCIの学際的な領域は多岐にわたるが、その中でも自分は記憶・感情・コミュニケーションといった人間の精神的な活動をコンピュータ技術で支援しようという趣のことをやっていたから、余計におもちゃ性の強い研究に触れる機会が多かったのかもしれない。そのあたりを踏まえた上で、読んでもらえると幸いだ。
HCIが立派な研究であるかどうかは、HCIおもちゃ問題を考える上で大きな問題にならないと自分は思う。正しく研究のフォーマットに則ってさえいればそれは研究と呼ぶ他ないはずだし、研究の質的な議論は何もHCIという分野に限られたことではない。
学問の有用性は、例えば人文学の軽視だとか、もっと次元を低くすれば三角関数を習う意味だとかで、これまたよく議論の対象となる話題である。自分としては、一般的な学問に関しては直接的な人間への有用性という観点のみで議論されるべきではないと思っている。学問による間接的な恩恵や将来への投資を無視するのはあまりに浅慮であるし、根源的な欲求の充足というのにも価値はあるはずだと考えるからだ。
しかし、HCIは例外だ。HCIは、人を対象とし、大半の場合はエンジニアリング的なアプローチによる課題解決を目指しているのだから、人の役に立たなければ意味を持たない。しょうもないHCI研究は、道具・ツールとして失格の烙印を押されたガラクタの「おもちゃ」なのだ。
自分は、ワゴンいっぱいのガラクタのおもちゃの中にあって気持ちがみるみる冷めていったし、元増田の筆者もきっと同じだったのだろう。
ここからは、自分がおもちゃだなと感じてしまうHCIの特徴について列挙していく。
遊ぶように楽しめる何かを作ること自体は結構だが、課題解決を目指す工学において繰り返しに耐えないモノを作るのは全くのナンセンスだ。
それこそ、人間にとってのお役立ち度は、縁日の射的の景品やヨーヨーと全く変わらないということになる。
HCIの研究やプロダクトが役に立つ前提として、人間というのは常に明るく元気で前向きで、人と繋がりたくってしょうがない生き物なんだと考えているんじゃないかと思わされることが何度もあった。確かに現在の社会においてそのような人々は理想的で偉いのかもしれないが、現実を見ればそのような前提を掲げられるはずもないことは火を見るより明らかだろう。
また、人々に高度な認知的能力を要求するような例も多いが、そのような人々がいくらかエンハンスされたとしてもそれに対するHCIの貢献度は、はじめからA判定の生徒を受け持つ家庭教師のような疑わしさが持たれて然るべきだ。
これは元増田にも指摘のあったことだが、他分野を無理のある形で援用してトンデモ仮説を作るようなことが見受けられた。逆ソーカル事件といえるようなことが、あちこちで起こっているんじゃないかと思う。
大いなる研究の礎として失敗した研究が存在するという考え方があるが、おもちゃHCIは礎たりえない。それは、そこに積み上げられるものが全くないか、あるいは逆にバベルの塔を建てようとしているからだ。つまるところ、未来が両極端なのだ。
当たり前のことだが、何もHCI全体を否定しているのではない。優れた研究・研究者は数多く存在しており、今後も我々の生活を豊かにしてくれるのだろう。
ただ、おもちゃHCIが存在するのも事実で、それに関わると残念ながら莫大なリソースが無駄に終わってしまうから、ちょっと口出ししておきたかったのだ。
あつまれどうぶつの森、たしかにスローライフっぽさはあるんだけど家具とのインタラクションが足りない
椅子には足を前に突き出した変な座り方で座れるだけだし、せっかくいいベッドに寝ようとしても掛け布団の上に無造作に転がるだけで寝てる感が薄い 風呂とか温泉みたいな家具に至っては足をつからせることすらできない
食事・排泄も申し訳程度に果物食ったりその効力をなくすためにトイレを使ったりするくらい 生の果物・たまごをかじることしかできないって点で食事要素はかなり薄いと言っていい
とにかく、ああ見えて生活してる感は全然ないんだよな 家具を置いて好きな部屋を作るって点では凄くいいんだけど、じゃあその好きな部屋で何をするのかっていうとほぼ何もできない
もう少し生活の部分にフォーカスしたゲームはないのかな サバイバル系のゲームはある種そうなんだけど、あれだって開拓とか戦闘とかがメインで生活そのものはおまけに見える
ホームセンターに出かけて家具を買って家に置いて、風呂に入り飯を作って寝て、バイトをやって金を稼いでいい部屋に移る どうぶつの森の現代都市・生活全部盛り版みたいなゲームはないものだろうか
みんなゲームのなかでそれをやるのは虚しいと思うのかなあ いいと思うんだけどな…
まだ第一部終わっていないけど、近作での不満点がすべて解消されたことに感動したので書く。
FEは暁の女神を最後に十年以上ずっと携帯機でリリースされてきた。その評価は概ね、SLGパートは練りこまれており携帯機の狭い画面でも遊びやすいUI、プレイをじゃ生しないゲームリズムではあるが、絵(グラフィック)とストーリーがいまいちというものであった。携帯機のスペック上どうしてもキャラクターモデルを用いたシーンは人形劇のようにチープになり、結果的に没入感が得られなかったのが原因だと思う。おそらくハードウェアの性能が足かせとなって製作陣が表現したい品質に達していないかったのだろう。しかし今、ようやくハードウェアの足かせが外れて携帯機で培ってきた遊びやすさと据え置き機のスペックを十分に生かしたストーリー表現を手に入れたのだ。
まだストーリの先、いつものFEのように悪竜を倒すのかトラキアのように人間の戦争になるのか、は分からないけどゲームの節々から作り込みが伝わってきて期待大である。つまるところついにストーリーに期待できるぞということだ。
FEというと歯ごたえのある難易度、パーマネントデス、そしてそれらの要素を盛り上げる魅力的な登場人物という評価であった。
古くは、話すコマンドによる会話とボスとの掛け合い、支援システム以後は支援レベル毎の仲間内での会話。このコミュニケーションスタイルは代を重ねる毎にキャラクターを掘り下げる方向へ発展していった。ただ、if(Echoesやっていない)あたりになると、コミュニケーション有りきの幕間パートとなっており、王道シリアスなストーリーとその幕間が乖離していた。例えばifではストーリーでどんな衝撃的な展開があっても(次元の間という設定の)拠点は平和そのものであり、仲間達も遊んだり風呂を楽しんだりしており呑気なものであった(個人的にこのマイキャッスルおよび子供世代による外伝というフォーマットは失敗していたと思う)。
つまりストーリー展開に対してキャラクターコミュニケーションの側面が機能不全を起こしていた。
だがしかし本作では学園という箱庭を極めて精密に作り上げることで、この不整合を完璧に解消したように感じる。主人公はクラスの担任であり、仲間は生徒や同僚である。彼らが週末の時間を各々好きなように過ごしているのは当然であり、話をしたり、お茶に誘うのも普通の学園生活で不自然さはない。例えばある食いしん坊筋肉バカは食堂や訓練場におり、動物好きで信仰にすがる少女は厩舎や聖堂で見かける(どのクラスを選んだのかバレバレの例)。キャラクターが自由に動ける空間を用意したことはキャラクターの掘り下げの面で素晴らしい決断だと思う。
個人的にハードウェアの性能向上により一番恩恵を受けた部分は世界観だと思う。今までFEはSLGパートがメインで、章の合間にストーリーが挟まるという感覚であった。魅力的なキャラクター達による群像劇というストーリーは一定の面白さはあったのだが、やはり世界は語られるものであり読むものであった。
しかし、学園という箱庭世界を用意し、プレイヤー自らその世界の要素へインタラクションをすることで、世界観に対する理解をぐんと深めることができるようになった。例えば今まで設定資料はメニューからただ読むだけであったが、本作では書庫まで足を運んでプレイヤーの分身が本を手に取る必要がある。例えば学園の様々なところで生徒や先生達が己が時間を過ごしているのを近くから遠くから眺め、話しかけることができる。世界観への没入度の深化により、魅力的なキャラクター達とストーリーの間を埋めることに成功したのが一番の改善点だと感じている。
実はこの路線はifのマイキャッスルですでにチャレンジされていた。しかしハードの制約があり中途半端なものになってしまっていた(自室に招くとか恥ずかしいしハラスメントだし…)。学園というしっかりとストーリーに裏付けされた舞台を与え、ハードウェアの性能を生かしてリッチな箱庭体験を用意する。それができて初めてストーリーとキャラクターの両輪が回り始めたのだ。
共同開発のコーエーの力かは分からないが、本作はとにかくテキストの語彙が格調高い。貴女、貴君などいわゆる古風(田舎風やロココ風の風)な言葉遣いではなく、本当に古い言い回しを多用する。三十年近く生きてきてそれなりに言葉を知っているつもりだったが「疾(と)く」はフルボイスで読まれるまで分からなかった。また言葉の使い分けも見事で、例えば三人の学級長だと歴史ある帝国の次期皇帝である皇女はそれはそれは帝王学を納めた口調であり、騎士の国の次期国王は力強く青年らしいが高潔な言葉遣いで、つかみ所のない同盟連邦の嫡子はくだけた話ぶりである。(歴史ゲームとか昔の小説でしかないような単語や読みが多くて、声優さん大変だったんだろうなーって思った。)
この確かな語彙に裏付けされた会話は、普段はテキスト速度をノーウェイにしてばしばし読み飛ばす自分も、つい自動送りで全部聞いてしまう魅力がある。
いまのところ全てのピースが完全に合致しているFEだと感じている。気になる点としては釣り用の餌が全然手に入らないところ。散策する毎に駆けずり回って餌を集めている。釣りがしたいよ。
お気に入りのキャラクターは、鼻持ちならない貴族で行動言動すべてが面白い愛されキャラのローレンツくん(ウォッチ対象)と青い長髪を持ちペガサスナイトまったなしの薄幸少女マリアンヌ(推し)です。