はてなキーワード: 力学とは
昔とある作品の製作委員会に身を置いていたことがあるので、思い出を書く。
製作委員会というのは「製作」をする人たちの集まりであって「制作」をする人の集まりではない。
私も最初ここの違いが全く分からなかったが、中に入ってようやく理解した。
つまり、「その作品を作るためにお金を出した人たちの集まり」であって
原作者や監督や声優や脚本家が集まっているところではないのである。
(このへんがネット上では未だにけっこう誤解されている気がする。)
これは良いとか悪いとかいう話ではなく、カネのために集まった組織なのだから当然の話である。
■どんな人がいるのか/どんなことを考えているのか
会議に出席するのは、出資社(出版社とか、TV局とか、広告代理店とか、製作費を出す会社)から送られてくる、各担当者だ。
いろんな会社から、いろんな人が出て来て、異業種交流会みたいで、けっこう面白い。
そして、ここがポイントだと思うのだけど、この会議に出席してくるのは、必ずしも映像業界に詳しい人間ばかりではない。
彼ら(そして私もそうだったが)のミッションは2つ。
1.出資金以上のリターンを持ち帰ってくること
2.本業へ良い影響があるように、動き回ること
1つ目は分かりやすいと思う。株買って儲けようとするのと同じだ。投資だ。
でも、それ以上に、各社担当者にとって大切なのは、2つ目なのである。
例えば、広告代理店。
彼らが委員会に出資するのは、「その作品の広告の仕事が欲しいから」 以外には無い。
仮にその作品が映画だったら、映画のTVCMだけで何億円という発注を獲得できるのである。
それ以外にも、新聞・雑誌・交通広告・ウェブ広告・・・いくらでも仕事は降ってくる。
例えば、出版社。
出版社が参加している場合は、原作の出版元であることがほとんどである。
彼らが委員会に出資するのは、「原作がバカみたいに売れまくる事」を期待すること以外に無い。
そのための宣伝費と思えば、映像化する際の出資なんて大したことは無い
そもそも作品性なんてものは、監督や制作側の担当領域なので、製作委員会の担当社員からすれば、自分たちでどうにかできるわけでもない。
だから、 2つ目の目的=自社の利益になりそうなこと の達成ばかりに力を入れ始める。
■どんどん仲が悪くなる
各社が2つ目の目的を達成しようとすると、どうしてもバラバラな動きになる。
それぞれ目指すところ(=自社の利益)が違うからだ。当たり前だけど。
2社だけなら良いが、委員会はたいてい5社6社は当たり前。
ということで、担当者の仕事は「複数社間の利害調整」がメインになる というカラクリである。
■個人的な思い出
自分の経験からすると、他社の担当者とケンカしていたか、ケンカの仲裁をしていた思い出しかない。
何がめんどいって、「みんな業界が違う」 ので、企業文化どころか、業界文化が違う。
「こんなこと当たり前だろ」が各社バラバラなので、話がとにかく合わない。
それが一番面倒だった。
まず共通言語を作るところから始めるのが正しいんだろうけど、正直そんな時間はないので
出版社と広告代理店とTV局(この3つは大抵どの作品にもいると思う)の人たちの文化がとにかく古すぎて、いっつもイライラしていた思い出がある。いわゆるギョーカイ人側の人たちですね。
会社の人と話せば5秒で終わる話が、なんやかんやで1か月かかるなんてザラである。
ただ、いろいろな業界のお作法などが垣間見れたのは面白かったと言えば面白かった。
普通の会社にいながら、ギョーカイ人と触れ合える経験なんてあまり無いし。
スキルとしては、複数社間の利害調整能力というものが身についたと思う。大抵のケンカは仲裁できるようになった。
当然のことながら、映像に関する知識はあんまり身についていない。
自分は下っ端だったし、作品が成功するかなんてのは比較的どうでもよくて、目の前の仕事をこなすのに精いっぱいだったのが正直なところ。
だから、ネットで製作委員会方式が諸悪の根源扱いされるのも無理はないな、とは思う。
でも、本当に映像を作ってる人たち(監督とか)は、こうした状況を理解した上で、うまく利用してやろうという人もたまにいて、そういう人はどんどん有名になっていった。
今は全く違う仕事をしているので、最近どうなっているのかも知らないけど、
ケモノなんとか の騒動があったので、思い出して書いてみました。
(ケモノなんとか は見てません)
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こんな糞記事にコメントしてくれた方、ありがとうございます。
>だけど「複雑な力学が働いてるから、たつきが善というわけでは無いぞ」と言いたいのかな、と思った。
もちろんたくさんの人に愛される作品を作った人という点では善だと思いますが、組織の中でどう見られるかは別の話なのですよね。悲しいかな・・・
>「いわゆるギョーカイ人側の人たち」の考え方が古いのは何が原因なんだろう?
やはり比較的、伝統的な手法を重視しますよね。これは別に製作委員会がどうこう、という話ではないと思いますが。
過去の成功体験に人間というのは縛られてしまうものなのだな、ということです。
立場も分かるので、ボロクソに叩くほどのことでもないと思っています。うまく操作してあげればそれでよいのです。ある意味わかりやすい人たちです。
まさに、ですね。普通こうした問題は事前に根回しがされるので、可視化されることは少ないと思うのですが、このパターンは珍しいですよね(だから騒がれているのだと思いますが)
ただ、その手前で十分に調整がなされたかどうかは分かりませんが、監督のツイートは説明不足過ぎるがゆえに事態を悪化させただけで、窮状を訴えるには良い手段ではなかった、と感じています。
いずれにせよ、調整がうまい人がいるかいないか は委員会運営には重要な要素ですね。
>これを敷衍すると、出版利権のカドカワが同人とか一枚絵とかウチ通さずに出してんじゃねーぞ、全部抜かせろって話?
そのへんは作品によって契約内容が違うので、外からはなんとも言えないところかと・・・
ただ、この業界頭悪い人しかいないので(汗)、契約なんてあってないようなものでして・・・今どうなのかは知りませんが。
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最近は、制作会社自身が出資するケースも増えてきていると聞きます。個人的には良い傾向かと思います。
ただ、最後は出資比率のパワーバランスになるので、常任理事国入りできなければあまり意味ない・・・というのもあるかも。
それこそディズニーじゃないけど、制作側でも札束で関係者を引っ叩ける存在が生まれると良いですね・・・
これはね、自分自身も含めてそうだと思っています。ほんと自分はバカなんで・・・残念ですが・・・!
自分のことはさておき、頭が良いことがアドバンテージになりにくいんです。
頭が良いかは二の次で(もちろん良いにこしたことはないですが)、そんなことよりとにかく「運がいい奴」が残る場所だなー、と個人的には思います。
逆に言うと、みんながディスりがちな「学歴社会」ではないので、それはそれで居心地が良い人もいるかも?
半分ぐらい当たってます笑
というか、逆に言うと「制作」の領域が神格化されすぎていて、現場の忙しい人は業務上何もタッチできないんですよね・・・
良く言えば分業化、なのかもしれませんが。
だから、よっぽど個人的に好きじゃない限り、興味もなかったです。
実際にものづくりにも参加できていたら、全然違ったんじゃないかな、と思いますが。どうなんでしょうか。
>ケンカ
ケンカ と書きましたが、ケンカするほど仲が良い というのは全くその通りで、意外と「現場に近い者同士」は、会社が違っても強い連帯感が生まれがちだと思います笑
会社同士はケンカしてても、現場の担当者同士はちゃーんと仲良くしています。
ある意味、「なんか知らんけど偉いっぽい人達」という共通敵が生まれるので、超連帯しやすいです!
だから、仕事で嫌なことも納得いかないことも沢山あったけど、それ以上に楽しいこともたくさんありましたよ!
[1] この文書はもっぱらグーグルのマウンテンビューキャンパスでの視点から書かれている。私は他のオフィスや国について語ることはできない。
[2] もちろん、私にもバイアスがあるかもしれないし、自分の視点を支持する証拠だけを見ているのかもしれない。政治的バイアスの観点からは、私は古典的自由主義者であり、個人主義と理性に強く価値を置いていると思う。私はこの文書について喜んでさらなる議論を行いたいし、例証を挙げたい。
[3] 私は、この文書を通じて”技術職”を、ほぼソフトウェアエンジニアリングという意味で使っている。
[4] ロマンチックな男女関係において、男性はより強く地位によって値踏みされ、女性は美貌によって値踏みされる。さらにこれには生物学的な起源があり、文化的に普遍性がある。
[5] Stretch、BOLD、CSSI、Engineering Practicum(ある程度は)、それと特定ジェンダー及び人種のためのいくつかの他のグーグル提供の内部、外部プログラム。
[6] 代わりにある特定層のための潜在的なGooglegeistのOKR設定。私たちは、特定のグループにとっての環境を良くすること(それはサーベイスコアによって確認できる。)によっても、保護された地位に基づく差別化(それは違法であり、すでになされていると私は見ている。)によっても、組織レベルでの登用を増進させられる。登用増進OKRは後者のインセンティブとなりうるし、組織間でのゼロサム闘争を作り出しかねない。
[7] 共産主義は資本主義より道徳的にも経済的にも優れていることを約束する。しかし、その試みは全て道徳的には堕落し経済的には失敗している。自由民主主義社会の労働者階級が”資本主義の抑圧者”を倒そうとしていないことが明らかになったとき、マルクス主義知識人は階級闘争からジェンダーと人種の政治へと移行した。抑圧者-被抑圧者の中核的な力学は残り、今や抑圧者は”白人で、ストレートで、シスジェンダーの家父長制”である。
[8] 皮肉にも、IQテストは当初能力主義が貴族政治の犠牲者を助けとなることを意味していた時代に左派によって擁護された。
[9] もちろん、全国的な総計において、女性はさまざな理由で男性より賃金が低い。ただ同じ職業につく限り、女性は男性と同じだけの賃金を得ている。女性が男性よりお金を使い、給与というものが従業員がどれだけのものを犠牲にしたか(例えば、より多くの時間とストレスと危険)の指標であることを思えば、権力に関わるステレオタイプを考え直す必要がある。
[10] 伝統的なジェンダーのシステムは支援が必要な男性というアイデアをうまく扱えない。男性は強く、不平を言わず、自ら問題に対処することを期待される。男性の問題は、ジェンダーによる行為主体性の考え方によって、しばしば犠牲者というよりは個人的な失敗とみなされる。これは泣き言、不平、弱さの現れとみなされることを恐れて、男性が男性の問題(それが個人的なものにせよ集団的なものにせよ)に注意を払うことを妨げている。
[11] 政治的正しさは、”社会的に恵まれない人たちや差別されている人たちの集団を排除し、軽んじ、侮辱すると受け取られるような表現と行動を避けること”と定義される。それでなぜそれが左派の現象であり、権威主義者の道具であるのか明らかだろう。
概ねどの記事でもそうだが、「この世は弱肉強食である」とか書くと「適応云々~」だの「人間社会はああだこうだ~」というマウンティングをよく見かける(本人はこれで論破した気になってるのでマウンティングということにしておく)
しかし、現今社会、アベ政治であろうがミンス政治であろうが、そこにあるのは強きものが弱きものを搾取して成立する社会であり、これを弱肉強食と言わないでなんと呼べばよいのか、低偏差値の私にはわからぬ。
そもそもの話、所得層のピラミッドを建てれば少なき富裕層が多き貧困層から回収するシステムで経済システムは出来上がっており、これ自身が既に格差社会や弱肉強食を産まんとする力学が働くだろう。
そうでないとして、これを上流から下流へ流さんとする力は明らかに弱い。なぜか。
企業の内部留保はよく批判されるが、これは言ってしまえば企業の貯金である。
これを切り崩すなり他からなんとかするとして個人に分配するとしよう。個人は消費するだろうか?
消費せず、貯蓄するのは想像に難くない。
結局、法人対個人という枠で、どっちが貯金するんですか、というのが今の働き方改革含めての日本社会の問題なのだ。
では新たな問題だが、バランスのよい(良さは解釈によるが)社会に弱肉強食は成立し得ないのか。
これは世界的な食糧問題とも直結するが、総量の少ない中でバランスを求めてもそこにあるのは全貧困という絶望だけである。
倹しい暮らしなどと綺麗事はいくらでも吐けよう。しかし我々は、我々自身が、資本主義の門弟であり、快楽主義の権化であり、自由主義の体現である。
これを否定して誰が満足しようか。しない。
満足を求めて、争う未来が待っている。
総量を増やさぬ未来に平等な、あるいはそれに近しい幸福などありえない。
では総量を増やすにはどうすればよいのか?
コレを否定するならば、たとえば一極に富を集めるなどして集積することで、見かけ上の平等を実現するのが適当であろう。
私たちは「手を繋いでもいい?」「繋ぎたいなら」で手を繋ぎ、「遊びに行きたい」「行きたいならどこかに行こうか」で遊びに行き、
「したいならいいよ?」でキスをして、「したいならいいよ?」でセックスをして、
「私たちって付き合ってるの?」「付き合ってることにしたいならいいよ。」で付き合い始めた。
「結婚したいならしようか。」で結婚して、子供が欲しいならそれ自体に反対はしないけれど、
経済的に自分は今以上に稼ぐのは厳しいだろうし、どう考えても苦しくなるがその覚悟はある?といったことを答えた。
一緒に生活するうちに精神を病んで体調を崩した妻が一時別居して実家に身を寄せることを提案してきたとき、
「君の体調にとってそれがベストだと君が判断するならそうすればいいと思う。」と言った。
しばらく経って、「電話してもいい?」「したいならいいよ」といったやり取りを経てかかってきた電話で、
住民票を実家に移したいと言われた時に、税金や保健料などの心配事をいくつか並べ、
「君にとっていくらか金銭的な不利益が発生すると思うけれど、私の方も体調を崩していて金銭的に苦しいのであまり支援はできない。それでいいなら構わないよ。」と返事をした。
「それだけなの?」と電話口で突然泣かれたので、
吃驚して「君が体調面を重視して考えた結果を尊重して、見落としている可能性のあった金銭面の心配をして、他に何があるの?」と尋ねてしまった。
「寂しいとか!一緒に暮らしたいとか!!」と泣き喚かれた。
私には残念ながら、なぜそこでそういった言葉が出てくるのか理解できなかった。
理解できなかったのでかなり混乱したが、自分にわからない力学が働いて彼女の機嫌が変化するマズい流れであることだけはわかった。
これまでの経験から、彼女が何を考えているのかを必死に想像した。理由はわからないが恐らく彼女は寂しくないという答えは望んでいない。
「もちろん一緒にいられないことは寂しいが、それは私の気持ちの問題なので今は何の関係もない。大丈夫だ。」
「(私の精神状態を)心配してくれているのなら、今のところこちらは一人でもなんとかやっている、本当にダメそうならSOSを出すから安心して欲しい。」
「それよりも君に早く心身ともに健康になって幸福になってほしい。そのための別居なのだろう?」
結局、自分の気持ちを上記のように率直に伝えることしかできなかった。
納得していない様子の彼女はしばらく黙って泣いていたが、私はそれ以上言うべき言葉も見つからなかったので黙って待った。
彼女の求めているもの、彼女が重要だと感じていること、なぜそれを大切だと感じるのか、
その辺りの事が私にはまるでわかっていないようだという雰囲気だけはわかったが、それがどういった感情の動きによるものなのかはまだよくわからない。
刑務所とか自衛隊宿舎とか男子校とか、そういった閉鎖的な空間で男だけで過ごしてると、次第に同性を性的な視線で見るようになる。そういう話があります。
はっきりいって、全然信じてませんでした。そんなわけないと思ってました。都市伝説みたいなもんだろうと。
でも今は完全に認識が変わりました。
男はいとも簡単に男に欲情します。環境次第で簡単にぐらぐらになっちゃう生物です。それを僕は身をもって体験しました。
3月末まで夜勤のデータ入力のバイトをしてたんですが、そこがまさに男の園みたいな職場でした。ビルの一室にスーツ姿の男が50人以上集まり、ひたすらパソコンに向かってデータを打ち込む。そういう環境でした。女性はひとりもいませんでした。
働き始めて数週間すると、どうも周囲の僕に対する接し方が不自然になっていることに気付きました。異様に冷たい人、あからさまに避ける人がいる一方で、照れくさそうに顔を赤らめながら近づいてくる人や、舐めるように全身を眺め回まわす人が現れ始めたんです。
どうも距離感がおかしい。今までの職場と明らかに違う。どういうことだろうと不審に思っていると、ある日、帰りの電車で一緒になった同僚に言われました。
同僚は顔を赤らめていました。若干鼻息も荒かったようが気がします。
これはもしや....。
僕は職場で感じている違和感の正体が掴めるかもしれないと思い、彼を夜勤明けの朝マックに誘って色々と話を聞きました。
驚きました。なんと僕は職場でゲイだと噂されていたのです。「立ち居振舞いが女っぽい」「股間をじっと見られた」「手が触れた時に女みたいにビクッとした」デタラメな噂が色々と飛び交っていました。
さらに「フェラだったらさせてやってもいい」「今度みんなでカラオケに誘ってガンガン飲ませてみよう」などという話も出ているようでした。
マジでびびりました。100歩譲って僕が若い美少年とかだったらまだわかります。全然そんなことないのです。ごく普通の男で、当たり前ですが女装もメイクもしてません。年齢は30才。完全にただのおっさんです。強いていえば、痩せて顔がつるんとしてる。その程度です。それだって人目を引くようなところは一切ありません。これまでに同性から性的な目で見られるようなことは一度もありませんでした。
全ては環境のせいだと思います。閉鎖的でストレスフルな状況の中、妙な力学が働き、なぜか僕が集団的な性の対象になってしまったんでしょう。深夜、朦朧としながらデータ入力をしているうちに、みんながちょっとずつおかしくなっていったんだと思います。イジメの力学や悪ノリに近い要素もあったかもしれません。
マックで話をしてくれた同僚は、僕がハラスメントの被害者になることを危ぶんでいました。もし不愉快なことがあったらいつでも相談に乗ると真顔で言ってくれました。顔を赤らめながら。すでに彼も集団の力学に感染していました。
驚きはしたものの、僕は事態を冷静に受け止めました。ショックで仕事に行けなくなるというようなことはありませんでした。特に実害はなかったし、毅然としていれば何の問題も無いだろうと思いました。刑務所の中で同じような状況に陥ったら恐怖におののいたと思いますが、夜勤のバイトなら問題ない。契約期間も決まっています。むしろアカデミックな興味が湧いてきたほどです。どうせならこの特殊な状況を仔細に観察してやろうかと思いました。結局、奇妙な思い出になっただけでしたが。
それから僕は数ヵ月ほど、集団の中で歪なセックスシンボルとして過ごしました。大勢のスーツ姿の男達が毎晩僕にジトッとした眼差しを向けてきました。僕はそれを不思議な気分でやり過ごし、そのまま契約期間を終えました。
特に酷い目に遭ったりはしませんでした。彼らも自らの「性のゆらぎ」に脅えていたのかもしれません。大胆な暴走に至る人間はいませんでした。
春からは別の職場で正規雇用で働いています。オフィスには女性もたくさんいます。僕に「ジトっとした眼差し」を向ける男はひとりもいません。そのギャップに軽い目眩をおぼえるほどです。
あの数ヵ月を振り返ると、シュールでグロテスクな夢を見ていたような気分になります。おそらくあの職場にいた男達も、どうかしていたと首を傾げていることでしょう。
大前提として、2016年紅白は近年まれに見る失敗回であり、大敗北だった。「いやいつもつまんないでしょ。今回だけとか騒ぐのセンス悪すぎ」というあなたは正論だがフシ穴だ。
ここ数年、マンネリ紅白は、それでもなにがしかの爪痕を残していた。「千の風」など販売面での掘り起こし、サザン、長渕などのサプライズ、Perfume、金爆、ももクロに代表される抜擢人事、あまちゃんオールスターズなどNHKならではの組閣などなど。
で、2016のこの無風具合はなんだ。
なんだといえばこれは、会社組織でもストーブリーグでもなんでもいいんだけど、典型的な「世代交代の失敗」である。
高報酬の高年齢層をリストラし、未知数の若年層登用を止め、見た目の効率のいい中年層とコネ人事で固めた結果、全員が自分の数字と派閥の力学しか見ない「無責任モード」になってしかもそれが悪い方向にしか働かなかった。
よく見すぎる失敗。
北島三郎、鳥羽一郎、和田アキ子、小林幸子、美輪明宏そしてSMAP! こういったハイレイヤーのいわゆる「精神的支柱」機能を甘く見積もりすぎ。
サブちゃん祭りしかり、ジャニ勢だって「最後はSMAPさんが」という心づもりがあってこその馴れ合いが可能だった。
高年齢層のリストラは必然だし粛々と進めるべきなのは確かだが、それにしたって0にするのは急すぎた。
五木はAKB喜び組で満足しちゃってるし、美輪明宏代役の大竹しのぶにしても、幸子代役の三森にしてもアッコ2.0のAIにしてもまだカリスマにはほど遠かった。
そして「新しい血」登用の停止だ。
お気づきだろうか。今年アニソン/声優枠は0、ネット枠も0、V系枠も0、アイドル新規も0だ(RADとXは勘定に入れづらい)。
近年の紅白の下がり続ける価値を、辛うじて上げ方向に下支えしてきたのが彼らだ。「他人が憧れるものに人は憧れる」。「紅白」を「オーヴァーグラウンド」の象徴としてとらえ、いまどき珍奇なことに「紅白に対する憧れ」を冗談でも口にし、紅白出場をフリでも盛り上げてきた彼らの功績を全切り捨てした罪は、単純に「驚きと喜びの低下」として番組に表れた。
後に個別に触れるので、軽くにとどめるが高中堅層のプロモっぷりはひどかった。低中堅層のフレッシュ、冒険の少なさっぷりも。
巷間ささやかれる「リハ不足」はいつものことだ。これはさらに大元の、個別の企画力の低さが原因だ。
前半出番のぶった切り編集演出は大成功だった。新曲初披露というフリを経ての「期待の裏切り」「紅白という『枠』のメタ視」「フレッシュさ」で群を抜いており、TVギャグとしても定番が故の爆笑があった。
そして圧巻は後半のPPAPフロイデremixだ。前半の原曲で「いかんせん大舞台には音薄すぎで向かないよね」との印象をすべて覆す音圧。
そして前半のアッちゃん絡み、タモリ絡み、ゴジラ絡みと、2016紅白の演出側ストーリー全てを引き受けたカタルシス(大したものでなかったとしてもストーリーは必ずカタルシスを生む)。
フレッシュさ、裏切り、時代感、引き受け具合、芸としての確かさ、音楽の喜び、笑い、めでたさ、我々がNHK紅白に求めるすべてがそこにあった。
文句なしの「今年の顔」。
ワンショットがMVPを取ってしまうのは、チームとしての紅白にとってもちろん悲劇でしかない。
サプライズという意味ではあれだけガッキーに振っておいてあの体たらくは、座組み側の失策。きっちりガッキーをキャスティングできていればMVPだった(あの恥じらいながらしょうがなくやらされるのがタマラン!というご意見は共感するが、マニアの見立てだ)
芸の確かさを見せた。
AKB五木以来、近年紅白演出が気に入り始めている「ソロ+応援出演」とかいうクソ手法を、本物の芸と華で打ち返し、格の違いを見せた。
子役とかソロダンサーの人は残念な見栄えだったが演出側が悪い。
周りが凹みまくる中、アンセムを堂々とやりきった。
This is 歌番組というセット、演出、選曲で、この中では逆にフレッシュだった。
ライブパフォーマンス単体として見れば2016紅白最高水準。でもそれ紅白ちゃうよね。
歌舞伎町の女王が西新宿の政治家になりました、という何の面白みもない追認劇。
かろうじて演出はフレッシュさがあったが、楽曲パワーなし。そして演出も結果TOKIOと二回まわしするという貧乏くささで台なし。
いやこれは東宝も新海も悪くないし、庵野組に至っては大変仕事したと思う。NHKなに考えてんの感。
「歌合戦」にワンフレーズもなし、来日ツアー告知だけのケータイ動画とかなめてんのマジで。
毎年なので言うに及ばず。とくに嵐の「政治だねえ」感は周囲の状況もあっての結果だがひどかった。新王誕生の祝賀とは到底見えない。
よりによって「メドレー」と称してデビュー2曲だけかよ。hi hiとかサンライズとかいくらでもあったろ若番なのに引き受け過ぎ。その後も何もないし。
LEDダンサー自体もう数年前の技術だし、「人数ふやしました!」と言われても…
キメの2階席同期ロトスコープ演出もカメラが追えてないという体たらく。
あと満島出すとこまでがんばれよNHK。
映像出しそんなにもったいつけてひっぱらなくてもよくね。新海がサボったのか、バンドが嫌がったのか、いずれにしろエゴの匂い。
無料投票で40万とかヤバくない? 票の実数を出したことで凋落が見える化された。
天人五衰。圧のなさがすごかった。
魔法も何度も見せられれば慣れる、とはいえ今回は福山林檎にすらアイディアで負けててライゾマ何やってんの弾幕薄いよ!ってなった。
そして有村架純は今さらのあまちゃん演出でのん(能年玲奈)代役だったことが判明。地獄。
秋にNHKであれだけ圧巻のステージ見せたのにまさかの中森明菜枠。地獄。
コメント切りのタイミングで「マジか」顔してたのがさらにつらみ。
もちろんSMAPという政治劇に巻き込まれた結果、目論見が外れたというのもあるでしょう。2016紅白は新帝王SMAPの戴冠式になるはずだったのは明白でした。それにしたってリカバリの仕方は他にあったし、それ以外の面でも粗だらけ。
結果、ゆく年くる年後に東京国際フォーラムから放送した生さだのほうが生放送音楽ショーとして5万倍良かったというすばらしい皮肉。さだまさし×岩崎宏美、生バンドバックの「夢で逢いましょう」の多幸感、スペシャル感、客席との一体感たるや、「ああ、年初から思いがけずいいもん見たな」と思えました。
男はみんな精巧にできたシステムや機械が大好きである。特に非日常的なものはロマンを感じる。
非日常的で大掛かりな装置や仕組みに惹かれた場合、宇宙開発関連や軍事設備に興味を持つ。そしてアニメ等で戦闘行為に対するかっこよさが刷り込まれているのでミリタリーに入り込む。
非日常的で大掛かりな装置や仕組みに惹かれたが、より身近な物に興味を持った場合、それが鉄道だ。鉄道は身近ではあるが大掛かりな装置で技術の固まりである車両が緻密な運行技術の元で運用されている。子供やオタクなど好奇心旺盛な人種はホームから発着する宇宙船に乗ってるようなわくわく感がするだろう。
非日常的でちょっと大掛かりな装置に惹かれた場合、車が好きになる。車のどこが非日常的なのかと思うかもしれないが、ボンネットを開けるとそこには機械の小宇宙が広がっている。また乗り込むと自らの力で機械を操り、生身では不可能な走行体験ができる。ロボットのコックピットに乗ったかのように。
非日常的で複雑精巧な装置に惹かれた場合、コンピューターに興味を持つ。まさに現代のカラクリである。歯車が半導体になり、力学的な力が電子の移動になり、複雑さがとてつもなくなった。ガラスエポキシ板上の小宇宙に思いを馳せて、命令を与えると結果が帰ってくるこのやり取りに夢中になる。そして奥の深さに気づくだろう。
人間、特に男は生身の生活から離れた精巧で非生物的な仕掛けに惹かれるものだ。その精巧な部分がブラックボックス化され、感覚が麻痺してしまった人々も多い中、好奇心のある人々が惹かれ続ける。
昔は休日を楽しみにしていたが今は休日になっても楽しいことがない
やることがない
それも飽きてきた
そうするとやる事がなくなる
interestingがない
興味深いと思う知的好奇心の刺激とかがない
恋人もいない
欲しいと思ったときもあったが話を聞くだけ疑似体験するだけで大体どういう気持ちが満たされるのかがわかる
寂しいとか満たされたいとかそういう感情への薬みたいなもんだなと思った
自分はそういうのにこたえられる人間でもないし恐らく本心ではどうでもいいと思っている
3回告白されたが嬉しいというよりどう答えたらいいのか分からないので避けて引いただけだった
物心ついたときからこんな調子だから生まれた時からおかしいんだと思う
唯一の救いは身近で痛いとか苦しいとかいう人をみると心の中がザワザワして穏やかでいられない
何か助けてやりたいと思う
この間も見ず知らずの酔っ払い?の人が自転車でこけてたから起こしてあげた
周りは知らんぷり
別にお礼が欲しいわけでもなく、挨拶するくらいのノリで人助けだ
何の感動もない
これが共感性というやつかは分からないがモヤモヤするから行動する
でも愛してるとか大事にしたいとか独占したいとかを人に向けたことがない
そんな興味持てない
いっしょにいて楽しい人もいっつもいれるわけじゃない
誘ってくれると嬉しいけどずっといられないのが分かってるから希望しない
死ぬのが分かってて別れるのが辛くなるだけだろう
とにかく何のために生きてるのかそれを探さないといけないのだが
それを見つけるまでこのままだと電池が持ちそうにない
別に電池が切れたら死ぬわけではないが精神的虚無感と戦い続けなければならない
常に半裸で秋空のしたでいるような感じだ
勘弁して欲しい
自殺も考えてない
自殺したところで本当に解放されるのかどこにも確証がないからだ
でも俺には信じる神がいない
正確には信じている神はいる
神と呼んでいいか分からないがとにかくこの世界の一番最初の始まりを神としている
それが人のように意志を持つとか持たないとかはどうでもいい
それがなければ始まらなかったモノ、インフレーションの前の本当の始まりを神としている
でもそいつのせいでできた宇宙は俺にとってたいそうつまらない世界だった
なんで死ななければいけないのか、栄枯盛衰でなければならないのか
永遠の命が前提だとしたらそんなもの存在すら考えられさえしなかっただろう
最初のやつがそういうシステムがいいってんで作ったんだろうけど俺にはクソゲーにしか思えない
本当にこんな考え方してるやつがこの世界にきてしまって不幸だと思う
心理的に充足感を得ることができるようになったとしてもそれが何だっていうんだろうか
単に脳内麻薬がでたり伝達物質の分量さで心境の変化がおきてそれに一喜一憂する
虚しいと思う
これを糧にして人生エンジョイしてくれと言われてもできるだろうが死ぬときの慰めになるのか果たして怪しい
いっその事どこかの国で殺し合いの中で洗脳されてとっとと死んだ方がマシだったのかもしれない
どこに向かいたいのかを探すだけの体力が年々なくなっていく
体験版にしたって長すぎる
この世界に無抵抗に生かされ続ける存在させ続けられるすべての物質に対して神は不公平だと思う
その世界の物に世界のルールを操作する権利を一方的にはく奪して自分の条件下で圧倒的な力量差でルールを隠したり難しくしたりしている
不公平だと思う
こんなんを売れば即クソゲー扱いですよ
よくこんなもん売ろうと思ったな神よ
そやね。
たとえばスピード違反を誘うような「150キロで一般道走行してうっはー気持ちいいぜ!」みたいなまっすぐな欲望が表出された絵や写真(何度見返しても皮肉でもなんでもない)を、公共の機関が主導で書いてもらったとなったら、やっぱりそれがあるだけで反発喰らうとおもう。車体の空気力学的美しさや美しく流れる背景のボケ感とかは表現の本質だから当然関係あるけどしかし表現手段に過ぎないのでそのうち関係なくなってくる。ほんとうにそうなったとき先頭に立つのは交通事故遺○の会あたりだろうけど、それは「民衆にいわされてる」部分もある。
長谷川豊さんのも「憎悪感情」がすべての病気経験者に突き刺さって、結果「透析患者の会」が先頭に立たされてただけ。表現がまずかったなんて謝罪じゃ足りない。
ぼんやりとした「みんなの意見」とか「マナー」とか「空気」とか「経験則」でも相当効率よく回っちゃう日本だから、科学なんてある意味過剰投資に頼らなくてもなんとかやってけてる部分があるとおもうよ。ただ行き過ぎると衆愚政治になるおそれもあるから、豊洲地下は多少金かけてでもちゃんとした科学者がやってほしいとおもってるけどね。感情アセスなんていくら金かけても無理無理、教育科学とおなじ。ニブくて人の痛みのわからん奴らを「敏感にする方法」などなく(体罰は当然禁止ね)、担当者に多少専門知識とセンスのあるもの、できれば男女半々で、を選ぶしかない。
いまだに十戒や二十則を「踏むべき手順」として持ち出してくるって、うみねこでミステリ知識止まってる人か?
それはともかくファンタジーとミステリの相性が悪いというのはあながち間違ってないし、
ループもの×ミステリはミステリ史的には「SFミステリ」に分類されるものだったと思う。
ミステリ読者には事件や探偵の前に「厳格なルールづくり」にプライオリティを置く人が多くて
そういう人たちが「ファンタジーミステリはなんでもありだからダメなんだ」と言う
こういう人たちの主張にも一理ある
ファンタジーとミステリをかけ合わせた作品には「ルール設定」をぼかしているものが多い
あんまりその世界独自のルールをカチカチに固めちゃうと読んでる読者の方が「お前の決めたルールやんけ」と白けてきちゃうし
じゃあ逆に現実世界の物理法則やロジックにそった解決へもっていくと「ファンタジーの世界観にした理由がわからない」と文句がつく。
どっちにしろ、負け戦なわけだ。
しかしその困難を乗り越えてファンタジーミステリを書いてる人は多いわけで
魔法が発達してヴィクトリア朝以前の宮廷文化が保持された並行世界のイギリスで密室殺人が起きる。
当然「犯人は魔法を使って殺したのでは?」みたいな疑惑が持ち上がるわけだけれど……。
このミステリで使われた「魔法世界でミステリをやるときのメソッド」は良くも悪くもその後のファンタジー・ミステリの規範になった。
西澤保彦『七回死んだ男』
主人公である少年の偏屈な金持ちの祖父が殺された……と思ったら次の日に何事もなかったかように殺害日の朝に逆戻り。
少年はなんとか祖父を助けようとするんだけどその度にバリエーション豊かに殺されていく。
どうやったら殺人を防ぐことができるのか? そもそもなぜループするのか。
魔法使い版『11人いる!』というか『そして誰もいなくなった』というか
魔法世界で起こる殺人を扱った作品としては『魔術師が多すぎる』を彷彿とさせるが
アニメ化もされたんだっけ?
割合「剣と魔法」系ファンタジーミステリとしては最高傑作の部類に入るとおもう
特筆すべきは「その世界でのロジック」にちゃんと拘っているにもかかわらず
ちゃんと読んでて納得させられるというか、「お前の決めたルールやんけ」感が少ないこと
物理法則をファンタジー寄りに、ロジックを現実世界よりに構築したのが成功の原因ではないかな
いわゆるスチームパンクの世界観でミステリやるやつで分類的にはSFミステリでもある
「おまえの胸先三寸やんけ」にやや傾きがちなところもあって、それで批判されがちだけど
『人間の顔は食べづらい』は『ソイレント・グリーン』、『東京結合人間』は『ムカデ人間』と
みもふたもない……もとい親しみのあるホラー設定の世界でガチ本格を作る若手随一の実力派。
異世界本格のロジックは今後、この人の作品を基礎にしていくとおもう。
設定のセンセーショナルさに反していまいち弾けきれない部分があったが、最近刊『人間の顔は食べづらい』でネクストステージへ到達
「剣と魔法」でもホラーでもSFでもない、童話ファンタジー風の世界観を基礎にしたガチ本格が特徴。
みためはかわいらしいが、倫理のタガが外れたヤバいキャラや話が多い
マストリードは『スノーホワイト』。『白雪姫』に出てくる鏡がもし現実に存在したら……を天のはてまで突き詰めた傑作だ。
吸血鬼や狼男の存在する20世紀初頭のイギリスで繰り広げられる大活劇
ミステリとファンタジーとアクションのバランスがとれていて、わりあい読みやすい
残りの190数冊はどこかって?
ふふ、それは君たちの頭のなかに眠っているのさ。。。
決して人生を舐めていたわけではないが常に私は風の吹く方向、水の行く方向へとただ流されるように、受動的に生きてきた。高校も大学も就職も、ただ落ちた繰り返しの果てに拾って貰えただけだ。
日本の教育機関は手厚い。中学も2年の頃には将来のことを考えさせ、受験を意識させてくれる(実際に本気で考えるかは別問題)。高校も同じだ。大学だとご丁寧に就職セミナーを開き、また支援センターが微力ながら協力してくれる。ただ受動的に生きるだけの人間にも、次に何をすれば良いかの指針を示してくれる。
次に降りるべき駅と向かう方向を知ることで、私は安心できた。ランクの上下はあれど、その線路を走ることができたなら安泰な"人並みの人生"という車窓が見えるのだと思っていた。
しかしどれほど手厚い教育機関でも、教えてくれないことが一つだけあったのだ。それは広い意味でいえば友達の作り方、狭い意味でいえば恋人の作り方。社会に横たわる人間関係の力学に関しては、教育機関は集団生活を営む上での最低レベルの支援までしかしない。それ以上はプライベートの範疇として個々人が解決すべき課題とされ、ここに最初の格差が生じてしまう。
無論誰もが薔薇色の青春時代を謳歌できる訳では無いが、ただ与えられたことのみを為すことしかできない受動的な人間にとってこのハンデはあまりにも大きい。色気付いた頃合いに「彼女が欲しい」と思えるのは能動的な人間であり、受動的な人間は半ば本気で「よくわからないが、いつか多分そういう時期が来たら勝手に結婚するんだろう」と思考停止、或いは思考放棄している。そんなことはあるはずが無いのに、その程度の摂理にすら気付けないほど瞳を曇らせていた。
そして僅かばかりの知り合いや職場の同僚が、みな結婚し子を産み育てていることを認識してようやく気付くのだ。ただ希っていた、安泰で"人並みの人生"というレールから自分が外れていたことに。そしてその先に待つのが孤独と絶望しかないことに。
人生も朱夏を越えれば、染みついた性格、行動様式を変えるのは難しい。なにせ今まで何一つとして、能動的に行動を起こしたことのない人間だ。やれ婚活だ何だと行動できる能力と度胸があるなら、もっと早くに気付き無駄に人生を燻らせる事も無かっただろう。
何かの間違いで、本気で活動したらまた何か違う結果に至ることもあるのかも知れないが、それ以上に未知に対する不信と不安が足を留まらせる。常に受動的で、他人とは上っ面でしか付き合わず、本気で誰かを慮ったことのない人間が今から人間関係の力学を学ぶのは重く、またその練習をさせられる人はさぞ不幸だろう。やはり私は、流されるようにしか生きていけないのだと思う。
生活保護というものがあるが、あれは最低限度の文化的な生活を保証してくれるらしい。私はそんなものよりも、最低限度の"人並みの人生"を保証してくれる人生保護が欲しかった。特別になんてなる気は無い。自分を産み育ててくれた両親のように、ただ"人並みの人生"というものを送りたかっただけだった。
受動的に生きてきた人間の最期もまた、受動的なものなのだろう。せめて、誰かの朝食を不味くするような死に方だけはしないことを願っている。
「全てのセックスは性差別」とフェミニズムの一部が主張している、と俗に言われる。これは半分正しいが、半分間違いだ。
正確には、「マチズモが強く機能している社会においては」という条件下にのみ「全てのセックスは性差別になる」という主張である。
この条件さえ付ければ、「全てのセックスは性差別」という主張は決して間違いではない。
しかし、だからと言って「セックスを滅ぼせ」という主張は、大半の人にとって受け入れられないものだろう。
現にフェミニストの大多数はそのような主張に与していない。
そもそも、そんな主張は受け入れる必要すらないのだ。
仮にある作品が差別的だとしても、あくまで特定の社会状況下で差別的力学を発揮する、ということにすぎないのだ。
だから「性差別表現を含むフィクションを好むこと」と「性差別を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「性差別を含む表現」を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
別の例で言い換えてみよう。
「(ミステリー小説など)殺人表現を含むフィクションを好むこと」と「殺人を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「殺人表現」を好むからこそ、殺人表現が現実の殺人へと結びつかないために、現実での殺人を批判するとも言えるのではないか?
いずれもまったく同じ構図だろう。
それゆえ、性差別に抗議する人が「性差別を含む表現」を愛好しても何ら問題はないのだ。
言うまでもないことだが、上手く書かれたフェミニズム批評は、正当な批評である。
分析の仕方が卓抜で、深く作品を読みこんでいる批評であれば、それは正当に評価されるべきだろう。
しかしその批評の正しさを認めることは、決して批評された表現自体が悪であると認めることではない。
現に古典文学に対するフェミニズム批評は以前から行われており、たとえば『源氏物語』をフェミニズム的に読解する批評などはすでに存在している(興味がある人は探してみてほしい)。
しかし当たり前のことだが、これは決して『源氏物語』が劣悪で評価に値しない作品だということを意味しない。
批評理論は、「ジャンル批評」や「読者反応批評」や「精神分析批評」や「マルクス主義批評」や「文体論的批評」など、数多く存在する。
「フェミニズム的な批判を認める」=「批判された表現をなくさなければならない」
だからオタクは、別にフェミニズム的批判の正しさを認めても構わないのである。
(もちろん他の批評と同じく、低レベルなフェミニズム批評まで認める必要はない)。
そしてこれはフェミニズム側についても同じことが言える。
「性差別的である」ことを理由としてただちに「表現を取り下げよ」と主張するのは、基本的には不当な要求である。
(もっとも、厳密に言えば「表現を取り下げよ」と発話すること自体は自由である。しかしその発話内容が不当である以上、当然批判が殺到するであろう。
不当な主張をすることは自由だが、その主張に対する「評価」は本人が責任を負わなければならない)
あたかも「オタクとフェミニズムが対立している」かのような構図をでっち上げることこそが、議論の妨げとなるのである。
そういった点も踏まえて、後述するように「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張は退けなければならない。
●結論
辛辣な批評、伸びない人気、そういったことをすべて作者自身が引き受けることである(もちろん、低レベルで無意味な批評は無視すればよい)。
フェミニズム的な批判を、何か特殊な批判だと考えない方が良いだろう。基本的に、それは批評である。
フェミニズム批評もまた一つの評価軸であり、その軸上における評価もまた、作者自身が引き受けなければならない。
そして表現者の責任とは、「評価」を引き受けることがすべてだ。
(もちろん、プライバシー侵害など個別具体的な人権侵害等は例外だが)
酷評に耐えかねて、自ら作品を非公開にすることは、確かに一つの選択肢ではある。
仮に「ある作品が性差別的な効果を発揮する」としても、その効果を止める方法は「表現を取り下げること」だけではないだろう。
「その作品は性差別的な効果を発揮している」と論理的に指摘できれば、それだけで性差別的効果を止めるには充分である。
「この作品における○○○○な描写は、性差別的意味を持っている」と評すれば、充分に、現実世界で○○○○することが悪いと告発する効果を発揮できるから。
批判的言説を生産することによって、ある表現が発揮しうる性差別的効果を止めること。これは充分に可能である。
批判的言説では飽き足らず、表現自体の取り下げ等を要求することは、(性差別解消につながるかも疑問だが)性差別以外の領域において不合理を引き起こす
(この点については、また別の機会に述べようと思う)。
そして、(あえて厳しい言い方をするが)表現の取り下げを要求することは、批評の力を、言論の力を、見くびる所業でもある。
だけど忘れてはいけない。
フェミニズム的解釈が妥当性を持つのは、作品外の社会的文脈があるからだと。
そして、これも再度強調しておかなければならない。
「(現在の社会的状況において)性差別(と位置づけられるような)表現を好むこと」と「性差別を批判すること」は両立する。
どころか、前者を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
しかし、そのことだけを理由に表現の取り下げや禁止を要求することは不当である。
同様に、そのことだけを理由に「フェミニストが表現の取り下げや禁止を要求している」と早とちりすることもまた不当である。
●最後に補足を二点
もちろん私は、「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張には与しない。
たとえば大城房美が指摘するように、「日本の少女マンガは、女性が周縁化されてきた20世紀後半のアメリカのコミックスの状況を変える一因となった」という側面を見落としてはならない
(大城房美編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』青弓社 2015 p.25)。
日本においては、マンガによって女性が表現する場所が確保されてきたのである。
そして少女マンガは女性表現の源流であると同時に、いわゆる男性オタク向け表現の源流の一つでもある。
以上の指摘を受けて、なお「男性向けオタク表現については性差別である」と強弁する方がいれば、
たとえば佐倉智美先生によるこちらの記事などをご覧いただけると、その主張が極めて一面的で乱雑であることが理解いただけるかと思う。
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5(「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]」)
アンサイクロペディアのネタバレテンプレートでも読んどけクソ雑魚ナメクジ
警告:以下の文章にはネタバレ、いわゆるスポイラーが含まれています。これにより記事はより空気力学的に洗練され、その結果としてより高速で疾走できるようになります。
もしあなたが、セブルス・スネイプは二重スパイであり裏切っていないことや、綾波レイは何人もいることや、流子の父を殺したのは皐月ではなく針目縫であることや、ブリーフがイケメンであることや、ウォーフがディープスペースナインに転属されることや、サーヴァント・セイバーの正体はアーサー王であることや、花菱薫には同じ名前の弟がいることや、大空寺あゆは大財閥のご令嬢であることや、キース・ブライアンはナイトレーベンに挟まっちまうことや、イリッチはマルコフの親友で敵側のスパイであることや、魔王アロウンは13番目の使徒であり自ら地上に堕ちたことや、黒の組織の正式名称を言うと「あの御方」が誰だか分かってしまうことや、バトルホッパーは破壊されることや、紅渡の母親はファンガイアのクイーンだったことや、ナカジマ姉妹は戦闘機人「タイプ・ゼロ」であることや、バロータ軍の兵士の正体が地球統合軍の兵士であることや、ダイスリーはバルトアンデルスというファルシで人間を道具としてしか見ていないことや、カシムは詐欺師であることや、ゼクス・シンジケートのアジトはドームの外に存在することや、シュウジとちせだけが生き残ることや、ヴァン・ホーエンハイムは人の形をした賢者の石であることや、テフェリーはプレインズウォーカーでは無くなることや、ファウードは暴走することや、旗立颯太は神竜として覚醒し自分がいた仮想世界の管理者権限を得ることや、ウォルター・オディムは深紅の王の部下であることや、マリア・カデンツァヴナ・イヴにはフィーネの魂が宿らないことや、アンサイクロペディアはウィキペディアのパロディであることを知らないのであれば、充分注意して、救急箱を手放さないようにしてください。
<12:26追記・変更>
肛門を通過する粘性率が一定のうんこや、非圧縮性のうんこの流れを計算することができるようになった。
おかげで、痔に苦しむ人や下痢便気味の人の便通が改善され、おおいに支持された。
一方、彼は高いところからうんこをする性癖があり、よく屋根の上からうんこをして怒られていた。
アナル・スカトロスはより高いところを求め、近所にある山の崖からうんこをすることを試みた。
彼がひりだしたうんこは崖の上から落下し、重力により加速するが、いずれ速度は一定になった。
これはうんこの空気の抵抗力および浮力と重力とが釣り合ったためにおこる。
このときの速度は、週末チンコ速度と呼ばれる(週末のチンコのように一定の精子を放出するというのが由来だと言われているが、諸説ある)。
しかし、スカトロスが何度もうんこをしていると、この週末チンコ速度はうんこの形状によって変わることが分かった。
スカトロスには正確にうんこの落下速度を計算しなければならない理由があった。
彼が屋根の上からうんこをするときに落下速度が分からなければ、通行人にうんこが当たってしまうのだ。
近所からものすごい勢いでクレームが来ていたスカトロスには死活問題であった。
うんこの形を球だと仮定した場合、そのうんこは半径 x の球と同じ週末チンコ速度を持つ。
この仮定した球の半径を、スカトロスはスカトロ半径と名付けた。
このスカトロ半径はアナルの半径と一致するのでは?と考えたスカトロスであったが、
あまり精度はよくなく、アナル量子力学とボーアナルという人物の登場まで待たなければならなかった。
次回はアナルの半径を物理的に計算し、アナル開発に尽力を注いだ偉大なるアナル物理学者アーヌス・ボーアナルについて語ります。
*参考文献
Scatolos A. et al., (1852) the Journal of anal science 142:156-85, 'Terminal velocity of the Unko',
Twitterで見かけたのだけど、単に経験値が足りないだけではなくて壁として聳え立つから詰んでしまうのだなと納得した。
「年齢に応じた経験」を積んできた人々は徐々に階段を上がっているのでゴールへ辿り着きやすい。
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「年齢に応じた経験」ができなかった人々は高い壁にぶち当たり、ロックライミングすることになるので多くの脱落者が発生する。
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※ブコメで一段ずつ上がっていくしか無いとあったけど、これ横軸は年齢(或いは時間)なんだよね。残念ながら何事にも適切な時期と始めるには遅すぎる時期がある。感性豊かな10代の頃に学び、20代で理解していった人達が得られたものを30代が20年かけて得られるなんて事は決して無い。もはや一段ずつ上がっていく時間など無いからこそ、高い壁に挑み絶望していくのではないか。
童貞だって結婚できるんだからお前らもっと頑張れよ!!って既婚者が書いてたのだけど、彼らの言う頑張りの「中身」が全く分からない。
これまで一切、恋愛という人間関係の力学にリソースを割いてこなかった人間には、異性との出会いも、会話の仕方も、好まれる容姿すらも他者からの情報を探るしかなく、経験による「実」を全く持っておらず、まず何を頑張るのかすら理解できない、ということをどうして分かって貰えないのだろう。