決して人生を舐めていたわけではないが常に私は風の吹く方向、水の行く方向へとただ流されるように、受動的に生きてきた。高校も大学も就職も、ただ落ちた繰り返しの果てに拾って貰えただけだ。
日本の教育機関は手厚い。中学も2年の頃には将来のことを考えさせ、受験を意識させてくれる(実際に本気で考えるかは別問題)。高校も同じだ。大学だとご丁寧に就職セミナーを開き、また支援センターが微力ながら協力してくれる。ただ受動的に生きるだけの人間にも、次に何をすれば良いかの指針を示してくれる。
次に降りるべき駅と向かう方向を知ることで、私は安心できた。ランクの上下はあれど、その線路を走ることができたなら安泰な"人並みの人生"という車窓が見えるのだと思っていた。
しかしどれほど手厚い教育機関でも、教えてくれないことが一つだけあったのだ。それは広い意味でいえば友達の作り方、狭い意味でいえば恋人の作り方。社会に横たわる人間関係の力学に関しては、教育機関は集団生活を営む上での最低レベルの支援までしかしない。それ以上はプライベートの範疇として個々人が解決すべき課題とされ、ここに最初の格差が生じてしまう。
無論誰もが薔薇色の青春時代を謳歌できる訳では無いが、ただ与えられたことのみを為すことしかできない受動的な人間にとってこのハンデはあまりにも大きい。色気付いた頃合いに「彼女が欲しい」と思えるのは能動的な人間であり、受動的な人間は半ば本気で「よくわからないが、いつか多分そういう時期が来たら勝手に結婚するんだろう」と思考停止、或いは思考放棄している。そんなことはあるはずが無いのに、その程度の摂理にすら気付けないほど瞳を曇らせていた。
そして僅かばかりの知り合いや職場の同僚が、みな結婚し子を産み育てていることを認識してようやく気付くのだ。ただ希っていた、安泰で"人並みの人生"というレールから自分が外れていたことに。そしてその先に待つのが孤独と絶望しかないことに。
人生も朱夏を越えれば、染みついた性格、行動様式を変えるのは難しい。なにせ今まで何一つとして、能動的に行動を起こしたことのない人間だ。やれ婚活だ何だと行動できる能力と度胸があるなら、もっと早くに気付き無駄に人生を燻らせる事も無かっただろう。
何かの間違いで、本気で活動したらまた何か違う結果に至ることもあるのかも知れないが、それ以上に未知に対する不信と不安が足を留まらせる。常に受動的で、他人とは上っ面でしか付き合わず、本気で誰かを慮ったことのない人間が今から人間関係の力学を学ぶのは重く、またその練習をさせられる人はさぞ不幸だろう。やはり私は、流されるようにしか生きていけないのだと思う。
生活保護というものがあるが、あれは最低限度の文化的な生活を保証してくれるらしい。私はそんなものよりも、最低限度の"人並みの人生"を保証してくれる人生保護が欲しかった。特別になんてなる気は無い。自分を産み育ててくれた両親のように、ただ"人並みの人生"というものを送りたかっただけだった。
受動的に生きてきた人間の最期もまた、受動的なものなのだろう。せめて、誰かの朝食を不味くするような死に方だけはしないことを願っている。
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いつの時代だって、大体の人がそんな感じで生きてると思うぞ。 人並みの人生ってやつの定義も昔とは変わってきてるから 少子化とか晩婚化とか問題になってきているわけで、 お前の...