はてなキーワード: 踏み込みとは
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
あーなんか「セックスを推奨してるように読める」だけじゃなくて全体的に話が印象ありきになってるな
こちらがそちらが一番聞きたい部分にちゃんと答えられていなかった、ってのは認めるけど
そちらの
あんたが具体的にあげた項目は性行為の作法以外全部現行の教育現場でやってるって言ってるじゃん。んでそれは流行りの同意のプロセスと似たような話だと思うんだけど、コミュ力ありきで察しろみたいな記事しかないけど教育現場でどう教えるつもりなのかが俺はしりたい。
このへんの発言も単なる主観の域を出てないよね。少なくとも「実践的な性教育は教育の範疇を超える」という増田の理屈は自分にはピンとこない。このまま話し合っても平行線になるし、自分の意見の論拠となるデータをちゃんと提示しあって「なにを拠り所にしてそう考えるか・そう主張するのか」を踏まえ直すべきでは?
- 2「性感染症も妊娠もリスクを0にはできません」 間違った知識から卒業しよう(BuzzFeed Japan): https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/sex-ed-week-hori?utm_term=.jsjvqJPaz#.dhGglvrwx
- 3性教育の欠落で失われる、子ども達の人生(ハフポスト日本版)http://www.huffingtonpost.jp/hiroki-komazaki/the-facts-of-life-children_b_14278952.html
自分が意見形成の過程で見聞きした情報、ないし見聞きした情報と同種の内容が掲載されているサイト。とくに「現状の性教育が不十分である」とする論拠、それから後で書く増田の「実践的な性教育=セックス講習ではない」の根拠ととなっているのは1と5。
1ははてブでもホッテントリに上がるくらいブクマがついていたからもしかすると増田も読んだかもしれないけれど、この記事の中に「1990年代は熱心だった日本の性教育」という項目があり、次のように書いている。
実は、日本の学校教育の現場でも性教育に熱心だった時期はあった。「性教育元年」と言われた1992年からの約10年間がそれだ。1980年代のエイズ・パニックをきっかけとして、「エイズ感染予防のためにも性教育が必要」と言われるようになり、学習指導要領も改訂。「理科」や新たに始まった「保健」を通じて小学校段階から「性」を本格的に教えるようになった。
きっかけは、厚生労働省所管の財団法人・母子衛生協会が中学3年生向けに作成した冊子「思春期のためのラブ・アンド・ボディBOOK」の回収騒動だ。冊子にはコンドームの装着方法やピルの紹介などもあり、2002年頃、国会で「中学生の性行動をあおっている」といった激しい批判を受けた。冊子は結局、全面回収されてしまう。
この当時、国会や地方議会、マスコミを主舞台として「過激な性教育が学校でまん延している」「教室で性交渉の方法を教えていいのか」といった批判が激しくなり、「性教育元年」と呼ばれた動きは教室から姿を消した。
ここを読めば、現在の性教育についての内容が行政の取り組みの段階から過去の教育と比べて後退的であるということが分かる。また3の記事でも00年代初頭の性教育へのバッシングについての言及があり、ここでも同様の見方を取ることが出来る。
「性教育の不十分さ」の可能性については増田も自分とそれほど意見が違っていないようだから、ここはそのまま承服してくれるだろうと思う。
次に5について。これは日本とオランダ、アメリカ、タイといった実践的教育を行っている国との教育内容の比較で、この中からオランダとアメリカの部分を引用する。
オランダでは~(中略)~思春期を迎える前の時期から、性は食事や睡眠と同じように日常生活の一部であり、ごく自然で当たり前のことだと教えられます。小学校によっては高学年でバナナを使って実際に避妊具を被せる実習を行うこともあるようです。
~(略)~
このように、オランダの若者は性に関する十分な知識を身につけているため、10代の出産率と中絶率が世界の中でも極めて低くなっています。
○「総合的性教育(セクシュアリティ教育)」…性を生物学・心理学・社会学など多角的にとらえて1人の責任ある人間としていかに行動するかを教え、避妊・妊娠中絶・同性愛は否定しません。
○「禁欲教育」…結婚まで性交せずに禁欲生活を送ることがいかに重要かを教える教育です。
これ以外のタイでも、これらと同様に単に性機能や避妊方法と言ったごく狭い範囲に教えるのではなく、対人関係、人権の視点と言った多角的な目線で“性”を捉えることを重視している、といったような記述が成されている。
それで、この1と5を踏まえて言えるのは、まず日本の性教育が世界はもちろんのこと“過去の日本にさえ”遅れているということ。また、これだけ行き遅れている状態で性教育についてのカリキュラムを多少なり進展させたところで、それが踏み込みすぎになることはあり得ない、とも言える。
また、コンドームの仮想利用まで教育にとり入れることを容認しているオランダの出産率、中絶率の低さから言っても「踏み込んだ性教育が、乱れた性風紀を生み出すことと直結することはない」というのも明らか。これで自分の
「セックスという行為の存在自体は肯定的に捉えつつ、それはそれとしてセックスする前に必要不可欠な知識はしっかり頭に入れてからやってね」
が単にセックスを推奨するものではない、ということを理解してもらえると思う。
そして最後に増田の言う性教育には限界がある、という主張に対する反論として、先に引用したアメリカの性教育についての文章(抜粋なのでできれば元サイトの文章も)を読んで欲しい。
アメリカの場合は特殊で、「同性愛・避妊・中絶」といった部分までひろく教えるところ、現状遅れているとされる日本さえ先進的に見えるくらいにガッチガチの「反中絶主義・禁欲主義」を掲げるところと、州によって性教育のカリキュラムに天と地ほどの差がある。つまりこれは「性教育の過程で教えるべき知識・教えるべきでない知識」「性教育の限界がどこにあるのか」というのは、単に教育者側・行政者側の主観によってしか取り決められていないってこと。
ともすれば、性教育限界説なんていうのは単なるまやかしで、本当に拠るべきは「性教育の限界がどこにあるのか」なんていう主観でいくらでも変わるものではなく、「実施した性教育が、実社会にどのような結果をもたらしたか」のはず。そしてその「踏み込んだ性教育を実施した結果」は、オランダのそれを見れば分かるように、充分に好意的に捉えていいものになってる。
はじめの増田の記事に自分含めたくさんのブクマが集まったのもこの増田のはじめに書いたように
っていう、主観でしかない「実践的な性教育はセックス講習と同義」「実践的な内容に踏み込むと教育とは違うものになる」という理屈立てをさも自明の理であるかのように書いたからなんだよね。
で、自分含めみんなその理屈立てがそもそもおかしいことに気づききれないまま
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
の部分に突っ込んで、「オーラルセックスの知識は必要」「オーラルセックスの話になる意味がわからない」といったように、概ね「踏み込んだ性教育をするべき」という意見にまとまっているはずなのに、各発言にばらつきが出てしまったわけだ。
それで、この辺の話を踏まえたうえで改めてトラバに言及するけど
元増田でも言ってるんだけど
実践的な性教育って教育の範疇超えちゃうよね。じゃあ、結局性教育ってどうすればいいんよ
ってのが俺の趣旨なんだけど、言いたいことだけ言ってる感すごくない?
まず自分に質問をする前に、増田は自分でさんざん挙げている「教育の範疇」というものについて定義する必要がある。明確な定義付けがなされなければ増田の意見は単なる主観の域を出ないし、主観ありきの出発点で話を始めている以上、そのレールに乗ったまま自分が何か意見を挙げても増田が「それは教育の範疇じゃない」と言えばそういうことになってしまう。これはこれまでのトラバで増田が「どう読んでもお前の意見はセックスを推奨しているとしか読めない」と主張した、またそう主張し続けることができたことから言っても明らかだ。
しかしながらそこで「教育の範疇とは何か」を定義づけするにしても、先に挙げたアメリカ、オランダといった他国の性教育の例を見れば明白なように、教育者・行政者側の視点でいくらでも変わり得る「教育の範疇」に絶対的な基準などないし、もし絶対的な基準というものがあるのだとすれば、その基準にもとづいて性教育のカリキュラムを制定すればいいわけで、増田の「性教育には限界がある」という主張は成立しなくなる。
ただ、こう書いて「煙に巻いただけで、さんざん自分が質問したことには答えてくれていない」と言われるのは嫌だから元増田の
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
自分の主観と、これまでに引用した記事の知見に拠るなら、妊娠リスクを回避しつつ性的快感を互いに感じ合うというのは未成年に依らず性的機能を保持しているあらゆる男女で行われていることだし、別に自分はオーラルセックスの存在を例示するのは何も問題があるとも思わないし、自分はそれが「教育ではない」とは思わない。
ただ、オーラルセックスでも性病の感染リスクはあるわけで、「そうするようにしましょう」とまで言うべきだとも思わない。原則として「妊娠したくない(させたくない)、妊娠しても出産できない状況下では、妊娠リスクを伴う性交渉は最大限避けるように努めるべきだ」としつつ、避妊手段や口淫などの性器同士を直接触れ合わせずに性的快感を感じ合う手段を例示する(実際にそういった手段を行うかの判断は生徒側に任せる)のが理想的だと考える。
どうだろう、増田の意見に沿うかはさておいて、ひとまず確かな一意見の提示として読んでもらえたなら幸いだけど。
2017-08-16 14:29追記: 全体的にタイプミスや意見として明瞭でない部分があったので、論旨は維持しつつ一部文章を手直しした。なんか返信もらえなかったけど、それはそれとしてひとまず読んでくれたのならよかった。
https://anond.hatelabo.jp/20170710234008
この手の回答者の立場・文脈によって受け止め方が違う質問に踏み込む時は、簡便のためにまず自分の立場を明らかにすることが必要だと思うので、
まず自分がどの立場の人間なのかを示してから質問に踏み込みたいと思う。
だからアマチュアの絵描き(いわゆるインターネットお絵描きマンってやつ)の立場から答えたいと思う。
アマチュアの絵描きの俺の立場からすると、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の表紙はやや過激だと感じた。
ただ、やや過激であったりPTAの方々に怒られないギリギリの表現をするというチキンレースは
少年ジャンプに限らず多くの雑誌においても古くから行われてきたことだと思うので、
表紙が大きいお子様ではない方の少年達にとっては、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の表紙はやや過激と受け止められるのではないかと思う。
ただ重ねて言うように、セーフとアウトの間のギリギリの表現を模索するというのも、創作の醍醐味の一つだと思うので、
そういうチキンレースを楽しむ余裕のある肥えた漫画読者からすれば、『ゆらぎ荘の幽奈さん』は何の問題もないように
映ることも確かだと思う。
以上で俺の意見は終わり。
それで、だ。
『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題の不可解さは、やっぱり批判している人達の内の「一部の人間」のロジックの不可解さに起因すると思う。
わかりやすくいうとこんな感じ。
①『ゆらぎ荘の幽奈さん』はスケベすぎて悪影響!だから修正すべき!→まあわかる(従来の典型的な批判側の意見)
②『ゆらぎ荘の幽奈さん』は女性の裸を売り物にしている!だから修正すべき!→わからなくはない(でもつい最近までフェミニスト界隈を除きほぼ見られなかった意見)
③『ゆらぎ荘の幽奈さん』は女性蔑視の作品だ!こんな作品は問題だ!だから修正すべき!→わからない(少年誌に掲載されている作品を「女性蔑視の作品」と
受け取るのははっきり言って被害妄想の類でしかないのではないか。それにそもそも『ゆらぎ荘の幽奈さん』は女性蔑視を目的として描かれている作品では
ないのではないか)
④『ゆらぎ荘の幽奈さん』は投票結果のページで嫌がる女性達を無理矢理裸にさせている!『ゆらぎ荘の幽奈さん』は問題がある作品だ!
→わからない。
①のロジックはわかる。でも②③④に関しては、従来ではほぼ見られなかった意見だ。
また②③④に関しては実のある批判というよりは、「悪質なクレーム・言いがかり」のようでないかとさえ思う。
というか④に関して言及するなら、そもそも投票結果のページをそのような文脈として捉えている人達は、男性向け漫画における漫画の文法を知らないのではないだろうか。
だけど今の日本社会だと①に加えて②③④の意見も出てくるのが「普通」なのかもしれない。
「無知と無理解にプロジェクトが殺されそうだ」の元増田です。
みなさんのトラックバックを読みました。やはり「つける薬はない」「うまく逃げおおせるべし」ということですよね……。
昨日の夕方、喧嘩も辞さない覚悟で、しかしあくまでも対話重視でレビューに臨みました。
Redmine に書いたキャッシュの仕組みの解説を事前にちゃんと読んでいたのは PM の V さんと、その程度の知識は当然ある W さんだけでした。いちばん理解していない PL の Z さんに至っては見てもいない。予想どおりとはいえ、徒労感が募ります。
PM の V さん曰く、「誤解しているかもしれないけれど、増田さんの提案するキャッシュバスターを入れたくないとは言っていないんですよ。ただ、リリース直前だったので時間との兼ね合いを考えて、とりあえずいちばん工数のかからない方法を採りたかったんです」。いやいや、ほかの方法では効果がないと何度も何度も伝えたでしょう。私の主張するちゃんとした対応を取るのに必要な時間の数倍かけて、無意味な「影響範囲の調査」をして「ほかの方法」を模索していたのですよ。そう言いたかったのですが、もうあまり事を荒立てたくなかったので、「対策を考える時には必ず技術者を含めた話し合いをしてほしい。そうでないと、結論が明後日の方向に進んでプロジェクトの費用をドブに捨てることになりかねません」と伝えるに留めました。でも分かってもらえないんだろうな。
作業方針となぜその方針で解決するのかという説明に留まらず、実装方法まで聞いてくるので、「率直に申し上げて、ここ最近、技術者の作業領分に踏み込みすぎだと思います。必要以上に説明を求められ、毎回こうして 6 人の時間を拘束して説明会を開くのは時間と予算の無駄ですし、作業のスピード感を落とします」と言ったところ、今回のレビューでは珍しく無口だった PL の Z さんが「そこまで言うなら、バグを出さずにきちっと作りなさいということです」とひとこと。ムッときてバトルを始めようかと思ったのですが、早く切り上げてトイレに行きたかったのでスルーしましたw
「増田さんはバグが多い」と言われている話は「無知と無理解にプロジェクトが殺されそうだ おまけ」のエントリーに書いたとおりです。
W さんが時折助け船を出してくれたり、私の説明に無言でうなずいてくれたりしたおかげで、理性を失わずに済みました。
レビュー中はみなさんのトラックバックを思い出し、「もうどうしようもないんだ、あまりやり合うなよ」と自分に言い聞かせていました。本当に感謝します。ありがとうございました。
うちも結婚して5年目で病院行って検査して、やっぱりふたりとも異常なしでした。
年齢的にそろそろ厳しくなってきたこともあり、少しでも可能性が上がるならと、思い切って治療に踏み込みました。
排卵促進剤の注射を数ヶ月続けて、タイミングを取ってたけど結果が出なかったので、人工授精に切り替えたところで成功しました。
不妊治療はお金もかかるし、続ければ確実にできるというものでもないし、とくに女性の心身への負担がどうしても大きくなるので、なかなか決断しづらいとは思います。
ただうちと似た境遇で、不妊治療を始める前ほぼ同じことを思ってたもので(みんなどうやって妊娠してんの?月何回してんの?そんな何回もできねえ!と思ってました)、病院に頼るのもひとつの手ですよとはお伝えしておきたく。
例のジャンプ編集部のトイレマークだが、あれを見たときに「よくできているが、まずいだろ」と思ったわけだ。
単なるセクハラ案件というわけではないと思っているので、どうしてそう思ったのか、こんなところにしか書けないので書いてみる。
まず「女性用トイレ」のイメージとしてはよくできている(ピクトグラムとしてのできは知らぬ)。
あのデザインは下着をおろしているように見えるわけだが、下着だけをおろす場所なんてトイレが第一で他は考えにくい。
また、男性だと履いたまま派もそこそこいるだろうから、女性を意味するというのが、第一印象となる。
女性でおろさない派もいるだろうが、女性だからスカート履かせてしまえ的な通常のトイレマークの大雑把さと比べたら問題にならないだろう(デザイン自体が女性物にみえるしな)。
下着を出すことが問題だとする向きもいるだろうが、ピーチジョンとかは駅広告で堂々と下着モデルを出しているわけで、下着が悪いわけではないことは明らかである。
というわけで「女性用トイレ」をイメージさせるデザインとしてはよくできているといえる。
では、何が問題だったか。簡単に言うと「トイレ」までイメージに入れなくていいのではということになる。
通常のトイレマークは男性用か女性用か、多目的用かといった程度のイメージしか持たず、トイレという意味合いは別の場所で理解できるようにになっている。
理由として、あえてトイレマークまでイメージに含めること意味がなかったということも大きいだろうが、別の意味合いも含まれているように思われる。
それは、トイレってあまり表立ってみせるものではないよ、ということだ。
世の中トイレの呼び方は色々あるが「便所」はそのものずばりな言い方なのにわりと下品な言い方とされている。
そうした直接的な表現ではなく「お手洗い」「化粧室」「手水場」「W.C.」等々、ごまかした言い方が使われている。行為自体も「お花摘み」等のオブラートに包んだ言い方が存在する。
つまり「老廃物を排出する」ことはあまり大っぴらにいうことではないとされ、あけすけに話すとデリカシーに欠けると思われる行為であると、一般的には捉えられている。
それなのに例のマークは「トイレはここ、下着おろしてくださーい」とあまりにもあけっぴろげに表現に出してしまっている。
「女性はこちら」ならともかく「尿したい女性はこちら」という表現は、そこまで言うなや踏み込み過ぎ、となるわけで、セクハラと受け止められても仕方ないねーとなる。
「女性用」「トイレ」という意匠を上手く入れ込んだためにセクハラ表現となってしまったわけで、なんともかんとも難しいねと。
まあ、セクシャル方面でも表現に問題がないわけではないんだが、これをきちんとセクハラにつながるよう説明しようとすると
矢吹健太朗氏の「いかに少年・青年誌のコードで(成年誌にならないように)ギリギリの表現をするか」という表現上の挑戦から語る必要が出てくるのでとりあえずはここまで。
猜疑心が強すぎるのでは。そういう乱れた場もあるのかもしれないが、
おそらく実際としては、現役コスプレの子たちの言っているような健全な場の方がはるかに多いのだと思う。
往々にして、外部の風評というのは特別醜悪な部分だけ抜き出し、誇張され、時に捏造されたものなので、
それをベースに現役の子たちに聞くと、その聞き方によっては自分たちを愚弄していると捉えられ、頑なに反発されるのは当たり前のことだ。それを隠蔽と受け止めてしまったのでは。
というより、そのコスプレイヤーたちもあなたの友達だったくらいだから、概ねあなたと同じくらいの知性や倫理観の世界で生きてきた人だ。あなたの憂慮するような事に遭遇したなら辞めていたはず。
続けているということはそういう乱れた層の人間とは遭遇していないか、したとしても距離を置いて、真っ当にやっているのだろうと汲んであげ、配慮した上で訊いてほしかった。
このような、内側の人と外側の人との乖離を、私も別の件で感じたことがある。
私自身、ラブライブという作品のファンで、その作品性に、キャラクターたちの関係性に、演じる人たちの熱意に、心動かされ感動することしきりだった。今も作品を大切に思っているし、ファンも大半は悪い人ではないと思っている。
なにしろ内容が、多様性を尊び、拙さにも寛容で、思いやりにあふれた優しい世界観でありながらパワフルなベンチャー精神を鼓舞するような内容だからだ。
けれども、偏見の目でみられやすい美少女ものかつアイドルものでもある。大ヒットしファンを大量に抱える中で、やはり外部の人からは「気持ち悪い」と思われる部分が、ことあるごとに抜き出され続けてきた。
全身にキャラ缶バッチをつけた人や特攻服を来た人が徒党を組んで街を闊歩しているだとか、ファンが聖地の甘味処で騒いだだとか、あるいは殺人事件を犯した学生がファンだったとか。
そういう悪評に繋がりそうなことを、ネットの暇人たちは目ざとくみつけてきて、そのたびに作品のファンの呼称であった「ラブライバー」は、ネット上においては蔑称として認知されていった。
実際にそれ単体で迷惑を掛けているとは言い難い「痛ファッション」などについては、私自身はいい歳のおっさんでありグッズ収集欲も見せびらかし欲もないとはいえ、
あまりに叩かれるのが不憫で擁護していたりもした。もっと生暖かい目で見られるくらいでいいとは思うのだが、やはり外部の人は弾圧の対象にしたいくらい気持ち悪がるものだ。
ネットを見ていると、非ファンの人が触れる情報は、そういう「ラブライバー」を揶揄するものばかりだから、「あの作品はクズのキモオタ・ヤンキーの集まりなんだな」という印象になってしまっているだろう。
けれども、私が街や劇場などで目にし、触れてきたファンの若者たちは、平均的な若者たちと大差なく、基本的に礼儀正しく、親切で、真っ当なバランス感覚を持っている人が多かった(あとカップルが多すぎ)。
その乖離は、私が運良くファンの一員として内側に居たからこそ気づけたようなもの。
もし2013年のあの時、偶然スクフェスをDLせず、ネットに篭ってゆるいアニオタを続けていたら、ラブライバーにいい印象は持っていなかったと思う。
それほどまでに、「理解しがたい奴ら」への「嫌悪感」は容易に人の心へ侵入してくるものだと言うこと。
2ちゃんのファンが集う板でも、「前は『ラブライバーwww』って見下してたけど…」という人はよく見かける。
けれどもそうした人は、ラブライバーdisで溢れているメジャーなまとめブログのコメ欄などには行かなくなるし、可視化されない。
結果として、他人の醜態を嘲る卑小な感性の人々の持論ばかりが、ネットの総意になりやすい。
同じようなことは、もちろん他作品でもある。○国嫌悪だとか、著名な人、政治家・芸能人・経営者への態度でも起こりうる。
そういえば私はその前に、堀江貴文さんに関しても同じことを経験していた。
彼がなぜ罪に問われたのかについて興味をもって、ニートで暇はいくらでもあったので、日本の司法や経済についてWebコラムや本を読み漁った。
いろんな方面の有識者の彼に対する見方を総合した結果、彼は過剰に批判されていると私は判断した。
そして、むしろ彼の才能や考え方は尊敬に値するものが多いと感じてファンになった。もともと自分の思想傾向が彼同様リバタリアンに近かったせいもあるだろう。
もちろん世間の感覚とは真逆だ。いつまで経っても彼を「でも犯罪者でしょ」と思考停止して評する人が多いのは、息苦しいがどうしようもない。
ただ、彼が他と違うのは、今でも著名な大学に招かるなど、風評と切り離して是々非々で評価する人たちからは求められていること。
彼に限らず、歯に衣着せぬ物言いをする人は、どうしたって悪印象を持たれ、する事なす事マイナス補正が掛けられる。
それでもやってる事が保守的な職人キャラなら好かれることもあるが、破壊的急進的な行動様式の持ち主であれば、多くの日本人は嫌う。
私は「叩かれまくっている人から良さを汲み取れるオレカッコイイフェチ」になっているのかもしれない。
ほかにも、極論ばかりと叩かれる池田信夫だが、氏のブログは普通に勉強になることが多い。感化されて『資本主義と自由』や丸山真男を読むようになったり。
一種の中二病と笑わば笑え、それでも「安易に悪意に染まらない」心という得難いタレントを得たと自分では思っている。
話を戻すと、増田が難儀なのは、コスプレの世界に踏み込みそうなのが彼女だと言う所。
これが自分自身であれば、まだ傷つくのを恐れず飛び込んできちんと判断してやろう、という良い選択肢があるのだが、そうは行かない分、慎重になるのは分かる。
もし、増田があげた彼女のくだりが虚構で、コスプレへの嫌悪感を表明するための方便だったとしたら、この下衆がと罵倒してやりたい所だが、本当にそういう事なら、提案がある。
彼氏彼女の仲なのだから、二人そろってコスプレに参戦してみたらどうか。
彼女を守りつつ虫除けもできるし、彼女にとってもその方が嬉しいし楽しめるだろう。
コスプレの元ネタ作品を一緒に鑑賞する機会などもつくれるし、一石三鳥だ。
それをせずに、彼女にコスプレの醜悪な部分ばかり語って忌避するように仕向けるのも手としてはある。
それも彼女が保守的な性格ならいいが、そうでなければ「了見の狭い男」と取られる可能性もある。
おもむろにシュークリームを配りはじめた。
コージコーナーの、ジャンボシュークリーム。
「みんな今期すごくがんばってくれてるから、たまにはね!
これほんと私好きで、いろいろ他の店も食べたけど、やっぱこれがいちばん美味しいと思う。しかもSEIYUで売ってるし」
SEIYUで……
先輩が糖質制限中で、私はダイエット中で、後輩が甘いもの嫌いであることは、
職場の皆が知るところではあるけれど、いまこのとき、上司はそれをすっきりと忘れてる。
この笑顔、本気ですっきり忘れてるよこの人、と思った瞬間、
暴力だ。
先輩も私も、自分が狂おしいほど食べたいものをさんざん我慢して
目標を達成しようとしている。3ヶ月ほどずっと。
ジャンボシュークリームを食べなければならない。
あとで食べることも許されない、一瞬で250Kcalを摂取できる
すてきな食べもの。
業務ならしかたない。しかし労いだなんて、これはまぎれもなく暴力だ。
しかし「これは暴力です!!!」と言ったら確実にこっちが気違いだ。
どうしよう。どうすればいい?とあいまいに微笑んでいたら
後輩(27歳男)が「おれ甘いの苦手なんでいいっす!」と言って私によこしてきたので
とりあえずそいつにキレて、上司がいなして、結局上司が3つ食べた。
上司はやっぱ、えらいなあ。
何年か前にパンツについてはクロッチの位置が実は重要だという話が出回った記憶があり、そっちは大体直ってきているようではあるが、ここでもう一歩踏み込みたい。
男性絵師はブラ、というか乳の形状についてもう少し真面目に理解するべきである。
ブラについて、大まかに、背中に回すバンドがあって、カップを吊る肩紐があって…という次元でしか理解していないんだろうという絵をよく見かける。
それ、違うから。それは補正効果を期待しない三角水着の構造だから。
もちろん水着のつもりで描くのならそれでもいい。ブラが必ず同じ形状であるという訳もない。
しかしながらそういうブラを描く絵師はその大きさの乳がそのブラで押さえられるかどうかという部分に無頓着であることが殆どだ。
まず背中に回すバンドがある。これは乳を持ち上げるためのものなので、カップの大きさに従ってより太く頑丈になる。
そのバンドに支えられるようにカップがある。
そのカップを持ち上げて支えるようにストラップが伸びる。ここに錯誤が多い。三角水着(や、補正を期待しないもの)はただ覆うだけなのでカップの真上から伸びる。補正機能のあるブラはカップの脇から伸びるのである。
少なくとも衣服の下から出てくる日用のブラは、乳を覆うものでも、押さえるものでもなく、支え、成形するものなのである。
男性絵師でも既婚者など、日常的に女性下着を見ている人はこの辺りを正確に描くことが多い。
女性絵師は流石普段から使っているためか、正確な形状をきちんと理解している。
去年ごろ互助会という言葉ができて散々もめたもんだが、山本一郎こそ互助会だろうという話をする
いいですね^ ^参考になりますみたいな最近のくだらない互助とは違う、昔から居ついてる互助だ
「なるほど隊長はあの出来事をそうみますか」みたいな「その視点その踏み込みさすがですね」的なコメントが並ぶ
あと特徴的なのが小池百合子関連だろう
なにが気に入らないんだからんが小池百合子が都知事になると山本一郎は急に彼女への批判を始めた
ふーやれやれ、まいっちゃうよこの女史(山本一郎はなぜか女性を女史といいたがる)
みたいな一歩引いた俺の立場からみた冷静な小池百合子批評なんてものを好んで載せるようになった
わざわざ町にまで出向いて色んな人に尋ねたのに知的好奇心をなんら満たせず、それでも持ち帰ったお土産は妙に鬱屈とした疑念くらいしかない。
もちろん、真実があの町から得られなくても、『あいつ』についてのアテはまだ残っている。
タケモトさんがいる、というより位しかいない。
弟もそれを感じたのか、ずっと黙りっぱなしだ。
タケモトさんが『あいつ』かもしれない、その可能性を知ってしまった今となっては、『あいつ』について尋ねるなんて俺には心苦しくて無理だった。
他人の過去に、人生にあまりにも踏み込みすぎた、弟を無理やりにでも止めるべきだった、と俺は後悔していた。
だが突如、意を決したかのように弟は立ち上がり、俺に向かって声高に言う。
「タケモトさんに聞いてみよう」
やっぱり、そうくるのか。
「分かっているのか。俺たちの求める答えなんて、そこにはないかもしれない。場合によっては、後戻りもできない」
「兄貴。今のこの状態で、夜ぐっすり寝て、明日の朝気持ちよく起きれるのかよ」
「……」
「今日、寝れるのかよ!」
「……寝れない」
俺たちは『あいつ』について、既に片足どころか半身が浸かっている状態だった。
出ようと思えば出れるだろう、だが向こう岸にはたどり着けないし、半身はビショビショになったまま。
俺たちはたとえ全身がズブ濡れになろうと、向こう岸にたどり着けるか分からなくても進む道を選んだのだ。
俺たちはタケモトさんに、『あいつ』のいた町に行ったこと、そして『あいつ』について調べようとしたことを話した。
その行為を多少は諌めると思いきや、タケモトさんは黙って俺たちの話を聞いていた。
「タケモトさんは……タケモトさんが『あいつ』なんですか?」
「はあ? どういう理屈で、そういう発想になるんだ?」
さすがのタケモトさんでも、その言葉は予想外だったような反応だった。
そして、その反応で俺の不安はひとまず解消された。
「何をどうしてそんな結論になったか分からんが、オレとあいつは別人だ」
「あの、『昔のオレとは別人だぜ』みたいなことでもなく?」
タケモトさんにここまで言われて、弟もやっと納得したようである。
冷静に考えてみれば、俺たちの劇的発想はフィクションに触れすぎた結果導き出されたもので、大したエビデンスもなかったんだ。
疑惑が晴れたところで、タケモトさんは町に行って得た情報について尋ねだした。
「その町の連中は、あいつについて何て言ってた?」
「いや、大したことは何も」
「えーと、『よく知らない』とか、『いい人』だとか……」
「ふ、そんなとこだろうな」
タケモトさんの口ぶりから、答えは何となく分かっていたってことなんだろう。
「仕方ねえ。意味の分からんことを吹聴されても困るから、ちゃんと語ってやる」
「まず、あいつの現在についてだ。ヒントは、その町の連中が言っていた『いい人』だ」
「今は改心して『いい人』になっているってことですか?」
「トーヘンボクが。改心なんかしなくても、『いい人』になれる方法がもう一つあるだろ」
そこまで言われて、俺はやっと気づいた。
それと同時に、俺は『あいつ』に関する話は、予想以上に不味いものだとも分かり始めたんだ。
「……『あいつ』は、もう死んでるんですね」
私は「母」がテーマになっている曲が苦手だった。
理由は世間で言われる「母」という存在に対する感情に共感できないから。
そんな私が宇多田のfantômeを聴いて、少し母と自分について書いてみたいと思った。
私の母は私が甘えることや泣くことを嫌った。
今でも「私のび太みたいなのが大嫌い」とドラえもんを見ている私に言っていたことを覚えている。
小さい頃の思い出に祖父母や父に甘えた記憶はあっても母に甘えた記憶がない。
その頃の母の記憶にはさみしくて構ってほしくて泣いている私が常にセットだ。
あと母親は私が何をしても褒めてくれなかった。
成績が良くても、何かで賞をとっても。
純粋にそれ以上のことをやってきたであろう彼女にとって褒めるべきことではなかっただけのことなのか。
それとも身近で私そのものを観ていて、表向きなそういう評価に意味を感じなかったのか。
そういう諸々のせいなのか多分母が死んでも私は泣かないんじゃないか、悲しまないんじゃないか、と考えてきた。
物語や現実の中で見かける「母が死んで悲しむ」ということが頭では理解できても感情的に理解できない。
ハンターハンターの最初のほうで「恋人と母親どっちを助ける?」みたいなクイズがあったけど、選択の余地なんてない、どう考えても恋人一択。
更に言うと、介護しなくて済むようにぽっくり逝ってくれたらありがたい、くらいに素で思っている。
かといって、私は母が嫌いなわけではない。むしろ好きだし尊敬している。
母の好きなところ、尊敬しているところを挙げればキリがない。
逆なことを書くようだけれど決して私に冷たかったわけでもなく、放任主義でどちらかと言えば甘かった。
私が選ぶことは基本的に肯定してくれるし、途中必要があれば金銭面でも助けてくれた。
今でも年に一回くらい「今度そっち行くからご飯どう?」と連絡が来て二人で食事に行くくらいの仲でもある。
ただし、「母」として私は母を感じきれていない、とでも言えばいいのか。そんな感覚。
こういうことを30を過ぎてからよく考えるようになったのは、私という人間の諸々が色々な経験を通して少しずつ見えてきたときに、
母という存在を抜きに考えることができなかったからだろうと思う。
まあ、アダルトチルドレンとかパーソナリティ障害とか私なりに調べてみて論理的に思うところは色々あるけど、ここでは省く。
そんな私が宇多田のアルバムを聴いたとき、やはり最初は彼女の歌う言葉には共感できず、サウンド面だけをとって「いいアルバムだなぁ」と思って聴いていた。
それが何度か聴いているうちに少しずつ変わってきた。
アルバムの中の母に対する愛を表現した歌詞のところで私は何とも言えない感情を持っていることに気づいた。
その感情を考えたとき、私がどうしても感じられなかった「母」という存在を少し感じられたように思えた。
それは多分、彼女の歌う「母」への愛が私にとって、純度の高い、人それぞれの「母」に対する想いの皮を捲っていった先にある「母」という存在を理解させるものだったから。
私が、母が、お互いをどう感じ考えていようが、変わらないことがあって、それを30年以上生きてきてやっと素直に受け入れられた。
そう気づいて母の姿を思い浮かべると、私が踏み込み切れない何かがあることに気づく。
多分その先が「母」なのだろう。
その「母」は母自身の快活な笑顔が壁になっていて、どうしても私には踏み込むことができそうにない。
ただ、その笑顔が消えたとき、その壁も一緒に消えて、私は「母」に会えるように思えた。
そして、そのとき私は「母」を亡くしたことを悲しんでいいのだと思った。
でも、そのとき私は私側にある壁を自ら壊せるだろうか。
初めてのますだで吐かせてください。今とても辛く混乱しています。
自分には妹と姉がいる。
姉は小さな頃は母にべったりのお母さんっ子。
妹は末っ子だから一番可愛がられていて、まあ少々わがままな人間に育った。
中間子の自分は親から見ると多少グレたこともあったが、今では母にはまあまあ頼られているといった感じ。
そんな関係なので、お互いのプライベートに踏み込み合い、お互いに傷つけあうことも多くなった。
それはいい。
だが、姉は母を「毒親」と決めつけ、母からの連絡を断絶し(メールや電話を拒否する、引っ越し先を伝えない)、
妹は「そうだよねー」などと同調していた。そりゃそうだろう。
本人のいないところで上から目線で批判することはとても気持ちがいいものだ。
だが、私は母の気持ちを察するととても聞いていられなかった。聞くに堪えなかった。
母は姉が連絡を拒んでいる理由もよくわかっていない。
私は最初、母とも姉とも連絡を取っていたが、両方に良い顔をするのが耐えがたく、姉との連絡を絶った。
「両方に良い顔をできないので」と理由を言って、姉に連絡をすることをしなくなった。
結果的にそれは良かったんだと思ってる。
苦しんでおらず、穏やかな様子で、自分が死に対面しているということを父は理解できない。
それが本当に救いだと思ってる。
そして今回よくわかった。
xevra先生が、高齢メンヘラカップルのブログに、薬が合ってないのか、とブコメされておられるが、
ブログを読む限り、主治医への相談が必要で薬を変えなければいけないほどのうつ症状がある感じはしない(あのブログの精神的リスカは通常営業だ)し、
そもそもパーソナリティ障害自体は、神経や脳器質などの生化学的なものというより、他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人、というだけのことなので、
薬じゃあ治らないし、根気よくカウンセリングなどを続けたところで、あまり効果がない(何しろ著しく性格が悪い人を相手にカウンセリングしなきゃいけないから)ことが多い。
パーソナリティ障害には多くの種類があるが、これは、様々なベクトルの性格の悪さを、大まかにカテゴリー分けしているだけ、という側面もある。
実体験数が少なく、それに反して情報量が多い今時の若者には、多かれ少なかれパーソナリティ障害的な心の動きが見られる人もいて、それほど珍しいことでもない。
まだ若い人であれば、良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていくことで、カウンセリング的な効果を得て、成長と共に
「他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人」から、「ちょっと個性的だけど面白い子だよ」ぐらいまで改善することも少なくない。
まぁ、当該の高齢メンヘラカップルは、もう既にどっちも高齢者で、今までの道のりで見つけられたであろう性格の改善ヒントをすべてスルーしてきたという実績に加えて、
道端に落ちてたメンヘラを拾って隙間を埋めてみたけど合わなかったから捨てました、みたいな、
いい年した人間ならとっくに卒業したような(おまけにそれをSNSで告白したり、サブイボ級のポエムタッチなブログで公表したりの)破壊的な行動を繰り返している輩どもなので、
パーソナリティ障害に係る各種の「生きづらさ」の改善は、期待できないだろう。
「うつ」は心の風邪だから休養がいちばん、という例えに倣うなら(これは本当によくできている例えだと思う。複合原因または原因不明、放置・反復が過ぎると死を招くところまで特徴をよく表してる)、
パーソナリティ障害は「子供の頃からの生活習慣ですっかり太った精神的デブ」みたいな感じだと思っている。これは自分が勝手に定義していることではあるが。
彼らのような、パーソナリティ障害に苦しんでいる人たちの持つ共通の原因は「肥大化した自意識」。他者の存在を受け入れずに生きてきた結果「自」のフィールドだけが肥大化している。心の内臓脂肪が理由。
これは、遺伝的な体質ももちろんあるけれど、どちらかと言うと、生育環境なども含む生活習慣由来の問題なので、投薬やおざなりのカウンセリングなどでは、根本を改善するのは難しい。
例えば、長年の運動不足で肥満症から糖尿を発症した人に対して、糖尿への投薬治療はできるけれど、運動不足由来の肥満を解消させて原因を改善させるのが本当に大変なのと同じような感じ。
そして「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」習慣が身に付けば、収まってしまう(糖尿発症しちゃうと収まっちゃうと簡単には言えないけど…)ようなものでもある。
パーソナリティ障害で精神科を受診すると抗うつ剤を処方されることがあるが、肥満が理由の糖尿と、メンヘラ理由のうつは、似ていると思う。
そして、肥大した自意識=過剰な内臓脂肪、と例えると、他者=筋肉量、という感じである。
上の方に記した「良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていく」というのが、「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」にあたる部分で、とても大切なことだったりする。
職業カウンセラーでは、そこまで対象者に踏み込み、「適切な距離を取った他者」であり続けるのは、時間的にも精神的にも難しいのが現実。
一方で、メンヘラではない多くの人は、自分の近くにいる人と適切にコミットしたいと願うのがふつうだ。その方が人生を楽しみやすいし人間関係の安全性を確保しやすいから。
ましてや、近づいた意図が友情や恋愛などの「好意」に基づくものであれば、時間や労力を厭わずに、その相手との適切なコミュニケーション、コミットメントの方法を模索しようと試みる。
「メンヘラ傾向があったが色々あって落ち着いた人」というのは、このような友情や愛情という機会を、きちんととらえることができた人。
若いうちのメンヘラは恋すれば治る、みたいな側面もあって、良い人と巡り合えば、ケロッと、それこそ憑き物が落ちたかのように普通になっていたりする。
一方で、当該の高齢メンヘラのブログを読むと、今まで、改善の可能性を感じる「他者」と向き合わうべきタイミングで常に逃避行動を取って生きてきたのだろうということが分かる。
な、著しく性格が悪いだろう。
ちなみに、他者と向き合わなくても、結婚だって離婚だって浮気だってセックスだって、するのは簡単。というか、むしろ他者ときちんと向き合わない方がどれも簡単だったりする。
相手のこと考えずにいる方が、照れや逡巡や羞恥心やプライドなんかの、恋愛やセックスにまつわる精神的なハードルは超えやすいから。
ただし、他者ときちんと向き合った付き合いの上で行う、結婚生活やセックスは、向き合わないまま行う結婚やセックスの何千倍も多幸感が強い。まぁ当然の話だが。
「彼ら・彼女ら」が、あれだけ行動的で、発信意欲が強くても、ちーとも幸せそうに見えないのは、これが理由。
パズルの合わないパーツを、手前勝手に合わせようとして癇癪起こしてる子供と一緒。
他者と向き合わず精神的な成長を否定して、というのは、大昔は「ピーターパンシンドローム」なんつって流行ったんだ。
まぁあれはあれで、この文章と同様に偏狭な側面が強いものではあったが(なんで男性に限定したんだろうなあれ、時代性だろうか)。
まぁ、そんな通俗心理本が出る程度には、一山幾らの、凡庸で特に特徴も魅力もないような、特に珍しくもないような、ただの性格の悪さでしかないんだよな。
小学生の時野球が大好きで、でも私は女で、女の子の友達に野球の話をしてもドラマが潰れるから嫌いだしわかんないと言われた。
そのうち女の子たちには「男ウケを狙ってる」として全員にハブられ&いじめられ、男の子たちには「野球が好きだって言うけど野球部じゃないし、一緒に野球で遊べるわけじゃない」と仲間にはしてもらえなかった。
野球が好きだけどひとりだった。パワプロで対戦してくれるのはコンピューターだけ。
女だから浮いていた。
成人して、今でも野球が大好きなので野球好きな人に一緒に野球を観に行こうと誘ったら断られた。
「彼女の許可が降りないと思うので、あなたとは行けない」という返事だった。
至極まっとうだ。正論だ。そのとおりだ。そして誠実だ。彼はひとりの男性で、私はひとりの女性だった。
だけど、私はただ野球友達が欲しかっただけだ。そんなこと通用しないというのは分かるが本心だ。
私は野球友達とこのバッテリーのインコースの攻め方が好きだとか打者の足の踏み込み方が良いとか最近この選手が好きだとかそういう話をしたかった。
もし男だったら?
恐らく何の困難もなく約束を取り付けられていただろう。
またひとりで観戦するしかないのだ。
雑な書き溜め。乱文ご容赦。そして、フィクションであってほしかったノンフィクション。
イヤホンを耳に突っ込み、スマホに入っている音楽を全シャッフルでぶん回す。ぐるぐる回る思考を落ち着ける事、5分。
震えなくなった手でおもむろにメモアプリを開き、文字を打ち込んでいく。
以下、回想という名のまとめ。
雨降る朝。
あらん限りの罵詈雑言を投げつけまくった挙句、僕のマンガを破棄すると言い出した。
ああまたか。久しいな。2年ぶり何回目かは忘れた。幸か不幸か出勤前で時間も無い上に、下手にモーションかけると他のモノまで被害行くから、バレるとまずいあの3冊だけ絶対隠そう。それとマンガって言っても、マンガ保管箱の下のラノベ保管箱も含んでんのか?見たら一緒くたにはされそうだが、それ逃がすと目標を上の棚の雑誌群に切り替えそうだし、雑誌群の方がずっとレア度が高い。半分ほどは確実に買い戻せないし、ダメージがでかい。この際、ラノベも犠牲はやむなし。すまん。
上記の宣告から、わずか5秒で判断。絶対宣告が出された際に、この思考回路へと切り替えるのも前より早くなった。嬉しくない。
一応現状この場で打てる手として、涙目でひたすら謝罪と宣告拒否だけはしておこうか。土下座もオプションつけた方がいいかな。多分意味ないけど。
ある程度やったら、例の3冊だけを隠し場所に放り込み、出勤。
近所の皆さん、朝っぱらからすみませんと思いながら、雨の中を小走りで急ぐ。
今に至る。回想終わり。
別に僕自身に対して何言ってくれても構わないし、気が済むまで殴る蹴るしていただいてもて痛いなーぐらいしか思わない(思わなくなったとも言う)。体丈夫だとこの辺有り難い。
ただ、僕の世界を壊すのはやめてくれ。僕のモノを壊すのだけは勘弁してくれ。
こずかいで買おうが、給料で集めようが、それらは僕の意思と価値観に基づいて選び得たモノだ。それら全ては肉体以外で僕自身を構成する、無機物でできた体そのものだ。
それを否定し捨てられる行為はどんな暴言や暴力よりも、大きく身を削られる、抉られる。
この喪失感は何度味わっても、決して慣れることはない。
ただただ苦しい。
そして、この感覚は母には多分一生伝わらない。
……捨てられてはいないのな、保管箱に水入れられただけならワンチャンあるか?、と一瞬冷静に判断してしまった自分が居たことに、悲しさとたくましさを覚える。でも、そのたくましさは本来いらなかったはずのものだ。
……そもそも家、入れるか……?
メール初見時には平静を保っていたが、確認して数分後に歩きながら叫び泣き出しそうになった(20代男性)
なんとか耐えて、仕事開始。今に至る
よく耐えたよく耐えたよ自分
大丈夫だメールの文面からするに漫画箱に水ぶちまけたぐらいだから多分
捨てたなら捨てたって書くかならいつも
わざわざ部屋から運んで水かけて捨てる手間はしない
とは断言出来ないが多少はマシだ
幸いにも限定版やらは入ってなかったし薄い本にも気づいてはない
CDも入ってたけど、CDの文字文面にないからホントに水かけただけだろう
来月のボーナス使って買ってやれ
朝よりはだいぶ落ち着いてきた
本がどんな状態かによってまた変わってはくるだろうが、今の所一番マシなのを考えている、考えるようにしている
これはメンタルが強いのか弱いのか……弱いな弱いよ見事なチキンハート
まぁ、傷ついたメンタルにパテ塗り込んで修復、耐久力を上昇させてきた感はある
元のヤツはもう面影もない
このたび、今回の件はネタとして扱うことにする
ブログにぶち上げて、同情・顰蹙・喧嘩・アフィでマンガをかう方が精神衛生上よっぽどいい
なにより自分の精神状態を文字にして、時間をおいて見直すことで結構楽になった
被害が小さい(推測もとい願望)事もあるだろうけど、これのお蔭か回復がいつもより幾分早い気がしなくもない
……それか今読んでる、混沌としたとある方のブログの色々と自分を比較して、マシに見えてくる現象が起きているだけかもしれないが
ネットは広大だわ……
家帰りたいけど、帰りたくねぇ
雑なリアルタイムログを書いてみて雑感
今回初めて"書く"という行為で、救ったとまではいかないが自分自身に浮き輪を投げる事ぐらいはできたのではないかなと思う。思った書くこと自体は何度かやっていたが、吐き出すために書いたことは無かった。飲みすぎて人前で吐くときの心情もこんな感じなのだろうか。吐いたことがないのでわからない。
こうして自分で膨らませた浮き輪が今回得られたものである。失ったモノと釣り合わないが、何もないよりずっとマシだ。
最初ブログに載せようと思ったが、改めて見るとアクセル踏み込み過ぎている感が物凄い。ブレーキ効いてない。途中から効かせる気がなくなっている。
そこで増田に落とすことにした。ここまで書いてこのまま消して無かった事にするのが嫌だったのと、匿名でも残せるならばその方が自分の感情の供養になるかと思ったからだ。
アレから着信が入っていた
メールは無い
ので、取りあえず初回は無視
と同時に、他のモノまで被害が行ってはいまいか心配になり始める
気が向いたら(余力があったら)、帰宅編。
いや俺はあるシーンについて「例えばこうすべきだ」まで言ってるだろ
俺のこと気に入らない奴は突っ込み放題だぞ
突っ込む能力があるならだが
それはお前が日本読めなくて具体的な指摘を全部読み飛ばしてるからだよ
相手できない
「自分は~良いと思ったけどなあ」といっている人に対してその「良いと思っている感覚」それ自信を否定しにかかっても不毛である。
「自分は~良いと思ったけどなあ」にそう思う理由の説明が無いから
「そうかいtwitterでつぶやいてろ」って返してるだけだろ
だって会話にならねえじゃん
たとえばmirunaは具体的に言ってきた部分があったからちゃんと具体的に再反論しただろ
mirunaが納得できないなら再々反論すりゃいい
これが会話だ
俺は一応具体的に「これこれこうだからダメ」って具体的に述べてるんだ。
それに対して「んあ~ ぼ、ぼ、ぼくはいいとおもったけどなあ」なんてのは反論じゃないから相手はしない。
なんかアンフェアか?これ
我々がアニメを視聴する理由はこれこれであり、それはこれこれの理由から多分正しいだろうと推測できる。
更にアニメにおける脚本の位置づけとはこういうものであり、上述の目標を鑑みて良い脚本と言うのは~という条件を満たしている。
そして岡田麿里の脚本は例えばいくつか例を挙げると~という点で上記の条件を満たしておらず、その傾向は主要作品に関してほぼ当てはまる。
「嫌いじゃばーか!」ぐらいの短い愚痴を垂れ流すならまだしもそれなりの分量でグチグチいうのならこれぐらいのスケルトンは埋めてほしい。
はあ。
どこの我々だよ。アニメ視聴者にそんな括りが可能だと思うのか。馬鹿かお前は。
更にアニメにおける脚本の位置づけとはこういうものであり、上述の目標を鑑みて良い脚本と言うのは~という条件を満たしている。
お前がアニメ論したいならお前がやってろよ。
そもそも俺の突っ込みは極論キズナイーバーがアニメであってもドラマであっても成立する。舞台ならまたちょっと違うがな。
そして岡田麿里の脚本は例えばいくつか例を挙げると~という点で上記の条件を満たしておらず、その傾向は主要作品に関してほぼ当てはまる。
人の話ちゃんと読んでから絡んで来い
「嫌いじゃばーか!」ぐらいの短い愚痴を垂れ流すならまだしもそれなりの分量でグチグチいうのならこれぐらいのスケルトンは埋めてほしい。
お前のいい分に沿うなら
金田一くんは毎回閉鎖環境の中で限られた面子の中で密室殺人が起きるけど
あれだって「実は面子の中にいない奴がその環境に潜んでました」はありえるよね
1週間交通絶たれた雪山の中でもガッチリ準備してて根性があれば洋館の外の山の中で隠れてキャンプできるしね
それは出来るよ?
やろうと思えば
何でやらんと思う?
それをやっていいなら「絶対犯人を予測できないミステリ」つくりまくれるし
「予想も出来ない展開」を量産できるよ
読者に情報を与えてないところから犯人をニュニュッと出してこれるからね
読者からすると、俺達がワイドショーで通り魔事件の報道を見てる以上に「犯人を予測し辛い」
通り魔事件の報道で犯人の名前当てられる奴なんかいないのと一緒
で、そのワイドショー見てるのと同じ程度の踏み込みしか出来ない・推理できないミステリって楽しい?
でも多分楽しくは出来ないと思うんだよね
何事でもいえるけど、そういう必要があって形成された決まりや縛りを
「不自由なルールだ」「こんなルール意味ない」って言い出していきがるの
お前等が俳句に絡むなら
「なんで575になってるんだ、頭が固い」とか言い出すだろ
それで自由詩ですごいの作れるならジャンルを破壊するだけの力と資格のある天才と認められるけど
実際はそんな力があるわけでもなくただいきがってるだけでしょ