子供のころから、良い大学に入って大企業に努めるのが幸せのロールモデルだって思ってきた。
大学受験のとき、「実際人生、学歴や企業だけじゃないっしょww」とか言いながらも、やっぱり頑張って勉強して私大の雄と言われる大学に入学した。
だけど、大学入ってみて、自分が夢中になれる勉強なんてどこにもなかった。
マーケティングだって、プログラミングだって、いま流行りのデータサイエンスだって、どれも手をつけたし、今も続いてるものはあるけど、それが楽しいってわけじゃない。
ただ、大学で用意された知識・技術の中で将来性がありそうだからってだけで選んだ。
入学してから、自分が夢中になれるものを探してきたけど、どれも楽しくないんだよ。
来年から、就活って言ったけど、今年の6月から18卒向けの就活サイトも公開されて、実際にはもう始まってる。
結局、これっていうものがないから、高学歴・高収入っていうそこそこの一般家庭に与えられたお決まりのレールの上の人生に抗うしかないんだよな。
大企業に入った先に幸せが待ってる約束されているわけじゃないことは、大学生活を通してわかってるのにさ。
今の自分に、一日の大半を捧げなくてはいけない仕事に夢中になれる自信なんてない。
つまらなかったら、転職すれば良いとか言うけど、そのトライアンドエラーみたいなことを続けたって夢中になれる仕事に出会える保証なんてないだろ。
社会の諸先輩方、教えてくれ。
いま、夢中になれるほどの仕事に就いているのか?
幸せだとしたら、その要因は何なんだ。
どうしたら、夢中になれたんだ。
1 まず最初に断言しておこうか。
パチスロを(習慣的に)「打つ」ことと「打たない」ことを比較したら、
「打たない」方がより良い。
そんなことはわかっている?
うん、そうだろう。
そんな義務はない。
道徳的にも、法律的にもパチスロを打ってはいけない義務があるとは思えない。
誰も決して打つなと俺に強制していない。
3 パチンコ、パチスロを打たない人が打つ人に対して言うセリフの代表的なもの。
「パチンコ、パチスロは必ず客が負けるようになっている。わざわざ金を失いにいくようなものだ。
打ちに行っているやつはバカだ。」
これ自体は確かに正しい主張ではある。
だが、これをスロ打ちの人間への批判の論拠にする奴は救いようの無いバカだ(俺もお前も思ってるよな?)。
「必ず客が負ける」というのはあくまでも最終的な収支の話だ。
一回一回の勝負では当然勝つこともある。
たとえ設定が1であったとしてもだ。
そして俺自身を含めスロを打つやつのほとんどは直前の勝負の勝敗しか頭に無い。
パチスロを打つかどうかは、「打ってはいけない」という決まりを守るかどうかと言う問題じゃない。
勝つ可能性も負ける可能性もあるが、「打つ」と「打たない」どちらを選ぶかの「選択」の問題だ。
曲がり角を左に行くか、右に行くかという選択と同じだ。
打たない方が良い理由は、「どんなに勝っても意味がない」こと。
スロで勝ちまくって、あぶく銭が増えまくっても俺自身を取り巻く現実はほとんど変わらない。
パチスロでどんなに勝ちまくったとしても、結局手に入るのは金だけ。
それも「あぶく銭」、重みを感じられない金だ。
だが、それが何だろう。
出来ることは物を買うことだけだ。
自分自身の人格、周囲の人間の人格、嫌な社会、自分の過去、未来、職業を直接変えられない。
クソみたいな現実を変える力は、自分自身の行動にはあるが、スロで得るあぶく銭にはない。
あぶく銭は現実を変えない。変えてくれない。
5 お前はスロット打ちの習慣を断ち切ることができるはずだ。
お前は過去にスロットを打ってはやめる、また打つを繰り返してきた。
年単位で打たなかったこともあれば、数ヶ月だけのこともあった。
やめるために重要なことは今日一日、その日一日だけに着目することだ。
明日、あさって、来月、来年、スロを打つかどうかはその時期が来た時に自分にしか「選択」できない。
とりあえず今日だけは打たないを積み重ねれば良い、というかそれしか出来んやろ。
パチスロという博打に対する自分自身の感情、考え方をもっともっと理解すれば、
より楽にやめられるだろう。
6 パチスロを打ちたがっている自分へするべき問いかけは「負けたらどうするの?」もしくは「負けるかもしれないぞ?」
ではない。
「勝ったとしてメリットがあるか?」、「あぶく銭を得る必要があるか?」だ。
あぶく銭を得て、それを使って買いたいと思っているものの価値を見極めることだ。
俺自身を含め博打をする人間は往々にして、本当は必要ないものを得ることを博打をすることの言い訳にする。
理由があるからパチスロを打つのではなく、パチスロを打ちたいから無理やりあぶく銭を得なければならない理由をでっち上げ、
自分を納得させようとする。
7 「勝ったとして、このクソみたいな現実が少しでも直接変わるだろうか?」でも良い。
今現在の自分はもう既に必要なものを十分に持っていることを思い出せるはずだ。
8 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、
「パチスロを打つことをしないようにしよう、我慢しよう」という考え方をしてはいけない。
「しないようにしよう」と考えているつもりでも、結局パチスロという博打に意識を向けている。
最初は距離を置くために考えていたつもりが、結局打つべき理由を考えてしまう。
当たり前だ。
パチスロをやめても、今までパチスロで埋めてきた「暇な時間」というものは消えない。
何らかのことでそこは埋めなけれならない。
ほぼ一年中、さらに一日中営業しているパチンコ屋は手っ取り早くその暇を埋めさせてくれる。
そこが罠なのだ。
「パチスロをやめる」=パチスロを「しない」ではなく、パチスロ以外のことを「する」ということに意識を向けなければならない。
これは必ずしも言うほど簡単じゃない。
パチスロ打ちにとって、パチスロは色鮮やかで華やかな映像で映し出され、パチスロ以外のことは灰色で塗りつぶされた廃墟の映像に映る。
機械の前で延々とボタンを押しながら不毛な博打をする自分は理想じゃない。
それこそが、パチスロをやめるべき理由の最たるものかもしれない。
ウチの部署はデザイン系ということもあって、滅多に部署全員(と言っても10人前後)で飲みに行くことはない。
俺は中途採用ということもあり、部署全員と飲みに行くのは初めての機会だった。
さて、宴会も盛り上がってきて、たまたま恋愛トーク的なノリになったとき、
俺は軽い自己開示のつもりで三十路過ぎても彼女いないよ、という(男同士ならそこそこウケる)鉄板ネタを開示してみた。
すると、どうだろう。会社の同僚女性がよってたかって俺を精神的に叩きまくる。
切なくなるから言われた台詞をいちいち書くつもりはないが、端的に言って人格否定のオンパレードだった。
挙げ句の果てに「お前みたいのが犯罪起こすんだろ!痴漢!ロリコン!警察突き出すぞ!」って、酔い過ぎだろ(汗)
別に変にフォローが欲しかったわけじゃなくて、単に話のネタを振っただけのつもりだった。
男同士なら「マジか! じゃあ今度誰か紹介するわ。まあ飲め!」的な流れで終わる話だと思う。
それが俺の人生人格を微に入り細に入り批判、避難、罵倒の繰り返し。まさにサンドバッグだった。
俺が軽く涙目になったのを察して、優しくてダンディな上司(男)が止めに入ってくれたお陰で、
少なくとも同僚全員の前で号泣するハプニングだけは避けることができた。マジ感謝しますm(_ _)m
女性にとってモテない男性というのが相当アレな存在ということは勉強になったが、
正直、酔いが入っているとはいえ、そこまで徹底的に相手をこき下ろすのはどうかと思う。
女性諸君、逆の立場で、モテない女性に対して同僚男性が集団で罵倒し倒す様を想像してみてくれ。
思考の幅が狭まっているというのもあるだろうが、辛いことがあったときに酒を飲むと、前向きになれる気がする。元がのんきな性格で、お酒が好きで、辛いことがあるとそればっかり考えてしまう性格だからというのもあるかもしれないけど。
気が進まない飲み会の時も、前もって酒を飲んでおけばいつもよりテンション高めで臨めている気もするし、「なんで飲んでんだよw」と突っ込まれた時も「お酒楽しみだったから~~~!!」って具合でうまい感じに言い訳ができて、なんとかなる。
だけどこれじゃ依存しそうだ。辛いことから逃げるためにお酒を飲むといつもより饒舌になって普段陰湿な雰囲気を醸し出している俺でもみんなとワイワイして周囲の雰囲気に乗れるのは最高で耐え難いものなんだけど、これが素面になるともうだめになってしまう。
酒に強いほうだとは思うんだけど、どこかで自制しないと。どっかで心も体も壊れてしまいそうだ。
二股かけて同時に肉体関係も持っていたのだけど、先日、二人目の彼女としていたときに1人めの彼女がちょうど家に入ってきて行為中に鉢合わせてしまった。なんというエロゲ展開。
単純に自分の知識量の不足から来る文章材料不足によるものなのだろうか。
起・承・転・結に与太話を挟んだものをいくら引き延ばそうとしても500文字を超えることが出来ない。
正確に言うと蛇足に当たる文章を書こうとすると体が震え始めて書くことができなくなる。
きっとこのネットの世界で読む価値の無い長文を見続けてきたせいだろう。
中身の無い文章、当初のテーマと違う話が始まること、そういった類の文字列を自分が書くことは許せないのだ。
さて、話は戻るが私はあまり長い文章を書くことが出来ない人間になってしまった。
小中学校の日本的国語教育で培われた何の価値もないただ文字数を増やすだけの言葉を紡ぐことが出来なくなっているのだ。
その上で自分自身から見て価値があると判断できる文章を1つのテーマで書けるのはせいぜい500文字が限界なのである。
それならば2つのテーマを一度に取り扱えば良いのではないだろうか?と疑問に思った人もいるだろう。
テーマが2つあるならばその文章にはどんなタイトルが付くのだろうか?
たとえば3分クッキングのレシピで「カレーライスとハヤシライス」だの「ハンバーグと豆腐ハンバーグ」だのといった題名がついたものがあったら思わず何を言いたいのだコイツは思うに違いない。
一見関係の有りそうな、いや実際に関係性の深いテーマであっても、1つ1つのテーマは1つの記事にまとめるべきのだ。
もしもその2つの関係性を描きたいならそれだけをテーマをにするか、先にその2のテーマについて1つずつ記事を作り合計3つの記事を作るべきだ。
そう考えてしまうのだ。
だから私は500文字を超える文章を書くことが出来なくなった。
それとも退化か。
いや対価か。
へいへいほーε==================((((´ー`)
女で集まって観戦行ったりする奴いるぜ?
仮想現実に対する驚嘆は第二の現実の誕生を祝う言葉ではなくテクスチャやレンダリングへの賞賛以上の意味を持たない。
そこでプログラミングが予測不能の行動を起こすのはそこに人の手を離れた力が介在するのではなくただ人間の見落としによってメモリに格納された数値に以上が発生しているだけだ。
インターネットの向こう側には第二の現実が誕生することはなく。
常に現実の延長線上の物語と事象があり、極めて不特定多数と回線を共有したテレビ電話の拡張版以上の存在であることはなかった。
仮想現実もそこは変わらないのだ。
我々は新しい現実を手にすることはない。
23歳の学生(院生)だが、生まれてこの方彼女ができたことがない。
気になる女の子に声をかけて、デートに誘って、一緒にご飯を食べるといった経験はある。だけどそれがいつも次のステップへと続かない。
行った後は「ありがとう!また会いたいね!」と相手方は言ってくれるのだけど、実際次に誘うと「ごめん、予定が合わない。」と拒否されてしまう。
社交辞令を真に受けてしまっているのだろうか。それとも、自分に何か足りないのだろうか。
考えられるものとしては、俺は年上の人が好きで、そうした人たちにアプローチをし続けてきたということがあるかもしれない。
選んでいるつもりはないのだけど、年下の女の子には今まで手を出したことがなくて、これまでに誘ってデートに行った女性は、サークルの先輩だったり、就職した同級生だったりである。
時間はいくらでも工面できるけれど、定職に就かず、いまだに学生をやっている自分と比べたら、社会人でちゃんとお金を稼いで、大人のお付き合いができる人を選びたいと思うのが性であろう。むしろいくら時間が工面できたところでも、社会人と学生の生活リズムというのは完全に異なる。昼間に起きて研究室に行って、夜中に帰るような学生と、朝起きて、昼間に働いて、夜に帰ってくる社会人とだったら、社会人のほうが合うにきまっている。
そうしたところを含めて結局友達以上に行くことができなかったり、異性として見られなかったりしてしまっているのだろうか。
それとも自分のコミュニケーション能力に難があるからだろうか。自分はずっと引っ切り無しにしゃべっているよりは、静かなところで静かに一緒に過ごせるような関係が好きだ。俺がそれを心地よく感じていても、相手にとっては「なんでこの人は喋らないんだろう」と不安に思わせているのかもしれない。そういうところはフォローしているつもりで、楽しかったよ、などとは伝えているんだけど、社交辞令に取られているのだろうか。
あるいは外見が相手の好みでなかったり、理屈っぽい性格がどうしても受け入れられないとか、そういったものだろうか。
そして、自分が「この人のことをもっと知りたいな」と思うきっかけは、性欲由来ではないと思っている。
ちゃんとこの人のことをもっと知りたいな、と思わない限り自分から誘ったりはしない。それさえ伝わらないのだろうか。
「いい人がきっと見つかるよ」「いいお父さんになりそう」といった励ましはこれまでに何度も受けてきた。果たして、本当にそんな人は現れるのだろうか。
小学生の時野球が大好きで、でも私は女で、女の子の友達に野球の話をしてもドラマが潰れるから嫌いだしわかんないと言われた。
そのうち女の子たちには「男ウケを狙ってる」として全員にハブられ&いじめられ、男の子たちには「野球が好きだって言うけど野球部じゃないし、一緒に野球で遊べるわけじゃない」と仲間にはしてもらえなかった。
野球が好きだけどひとりだった。パワプロで対戦してくれるのはコンピューターだけ。
女だから浮いていた。
成人して、今でも野球が大好きなので野球好きな人に一緒に野球を観に行こうと誘ったら断られた。
「彼女の許可が降りないと思うので、あなたとは行けない」という返事だった。
至極まっとうだ。正論だ。そのとおりだ。そして誠実だ。彼はひとりの男性で、私はひとりの女性だった。
だけど、私はただ野球友達が欲しかっただけだ。そんなこと通用しないというのは分かるが本心だ。
私は野球友達とこのバッテリーのインコースの攻め方が好きだとか打者の足の踏み込み方が良いとか最近この選手が好きだとかそういう話をしたかった。
もし男だったら?
恐らく何の困難もなく約束を取り付けられていただろう。
またひとりで観戦するしかないのだ。
家の近くの側溝の蓋の上で猫がにゃあにゃあ鳴いていた。
近づいてみると、親猫が側溝に落ちた子猫を心配して鳴いていたようだ。
側溝の構造は、鉄格子がハマっているタイプではなく、コンクリートの蓋がはまっているタイプ。
隙間から子猫のつぶらな瞳と目が合い、夫が助けなきゃと言い出した。
まずは隙間に誘導し、手で掴み上げる作戦を決行するが逃げられ失敗。
次は側溝の蓋を開ける作戦に、でも蓋と雑草が絡み付いていて固く閉じられている。
一箇所だけ雑草が無く開けられそうだが蓋が重くて夫と私の腕力では持ち上がらない。
1時間くらい格闘して、もう無理だなぁと思って諦めることにした。
野生ってこいうことだよね、かわいそうだけどという話をして。
でも、夕食をとりながら夫が子猫の瞳が忘れられない。ここで助けないと後悔すると言い始めた。
そして19:30頃に救出作業を再開した。
側溝の蓋は持ち上がらないので懐中電灯で光を当てて手が入りそうな隙間まで誘導して持ち上げる作成を決行。が、うまくいかない。
私は家の中に何か使えそうなものが無いか探しに戻った。特になかった。
現場に戻ったら、捜索隊が一人増えていた。
夫が近所の通りかかった人に声をかけたようで手伝ってくれていた。
通りがかりの方の力を借りて側溝の蓋を1枚開けることに成功した。
帰宅中のところ声をかけた通りがかりの方もずっと手伝ってくれた。
いつの間にか通りがかりの方の奥さんと子供(なぜかツナ缶4つ持参)まで来て、頑張って誘導を試みた。
その間、私は親猫を捕まえて連れてきて、親猫の鳴き声で誘導しようと試み、引っかかれて出血した。
親猫はマジ殺すぞみたいな顔で睨んできた。怖かった。
猫は好きだが野良猫にエサをあげることは断固拒否してきた夫がついに禁断の手にでたのだ。
これが上手くいき、蓋のあいたところで子猫をキャッチし、ずっと見守ってた親猫の近くに放すことができた。
名も知らぬ近所の人と本当に喜んだ。
手伝ってくれた方と猫トークをして、その後お礼を言って解散した。
家に帰って夫が、きっと猫には感謝されないだろうな、と言った。
私は、それでも誰がなんと言おうと助けることができてよかったよ、と言った。