はてなキーワード: 西口とは
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/339153
蕨駅徒歩7分のところ住んでる。コミュニティセンターの近く。
・普通に住みやすい。家賃も安くて広い。16畳で家賃7.5万円。築までいうとバレそうだがそれほど古くない。自分が住んでる家の周辺は治安は全く問題ない。
・クルド人は殆ど見かけない。特定の地域に集まっているのでそこに近寄らなければほとんど遭遇しない。地元の人ならわかると思うが△公園のあたりはとてもたくさんのクルド人の人がいる。昼休み行けばだいたい集団が見れる。
・蕨には公園が子供向けにとても公園が多いが、数年前まではクルド人の家族もよく見かけた。最近は全く見かけなくなった。多分排斥を恐れて公園に出てこれなくなったのだろう。例のヘイトスピーチライターはマジで洒落にならないと思う。
・それよりも戸田市との境あたりにある某公園付近にいる◯◯人のほうが昔からよほどトラブルが多い。例のヘイトスピーチライターが暴れ出す前はクルド人ではなく◯◯人のほうが問題視されていた。検索したらいくらでも出てくるだろう。逆に4年以上前の記事でクルド人叩きをしている人は殆どいないはずだ。
・クルド人に限らず全体的に駅周辺もボロくて治安はよくない。クルド人が治安を悪くしているというのは体感と合わない。
・駅の西口と東口でだいぶ雰囲気が違っていて西口はともかく東口はちょっとピリピリしてる。
・クルド人で気きになるのはゴミの出し方と昼休みの過ごし方。これだけは問題。 なんとかしてほしい。特にゴミ。いい加減なゴミの出し方をするものだからカラスが大量に朝に湧いている。
・ただ、小学校でクルド人の受け入れが問題になっているという話は私の近辺でもちょくちょく話題になり始めている。彼ら彼女らが小学校を卒業して中学・高校にあがりはじめたあたりからますます問題は大きくなるだろう。 言語が通じない人とどう付き合っていけばよいのか誰も答えを出せていない。 ヘイトスピーチライターのことは無視して、この問題は外の人間にも考えてほしい。
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
上野東京ラインの川口駅停車が正式決定されて「あそこは乗降客多いから当然」とか「停車駅増えるのヤダ」とか巷間喧しいところであります。
そこで川口駅の事をちょっとだけ知っている増田が川口駅のあれこれを少しだけ説明するよ。
川口駅の西側は1980年代までみっちりと町工場が密集していて、特に線路に面したところは国の燃料研究所(後に公害研究所)という大工場があったので、西口広場ってものは無かったのよ。
この公害研が廃止され環境研に改組されたのでその空き地に西口ロータリーを造る事になった。
だがこの当時に、今の湘南新宿ラインの元になる東北本線池袋乗り入れが開始されたってわけ。
そこで川口市は駅の西側にこの列車用のホームが増設できるように何も建てない土地をワザワザ造って、「池袋支線停めてよ」アピールをする事にしただった。
場所はここ。https://maps.app.goo.gl/eiJk19EmifLCYrzCA
しかし、これ無理だろ?と気が付いた人も多いかと思う。現在の湘南新宿ラインは15両編成だから隣の10両用京浜東北線ホームの1.5倍になり、ホームを造るには全然長さが足りないんだ。
なんでこうなったの?というとその後の川口市がいけないのだ。
実はこの「川口西口緑地噴水」の場所は駅前ロータリーだった場所なのだ。つまりは道路。こんなせせこましい場所でバスの方向転換とかどうやってたんだか?
で、ここは大きなロータリーを別に造るから廃止になるんだけど、池袋支線のホーム用地にしよう、という事で期待を残して建物を建てなかった。
だけども公害研跡地再開発では人工地盤の巨大公園、更にその下の1階と2階にはコンクリート製の駐輪場を造ってしまったのだ。ホーム用地にすんのかしねえのかで全く平仄が取れてねぇ。やる気に統一感がなかったのだ。
だからホームを造る為に線路敷きを拡幅するには立体駐輪場と公園を一部破壊する超高額な工事をせにゃならん。
詰んでるじゃん。…ところがそうではないのであった。
駅の東側線路際に大きな駐車場が見えるだろう。ここ、実は川口市の土地なんだな。だからここを利用して線路全体の線形を変えるって方法でも行けるって訳だ。
なんで川口市がこの土地持ってるの?かというと、ここは川口貨物駅だった場所なのだ。正確には貨物駅は東口のきゅぽらという高層建物、その隣の駐車場、タワマンの場所にあった。駐車場の場所は貨物駅に入る為に線路が輻輳してあった場所だな。
国鉄は超大赤字を積み上げており、特に貨物営業に人が多すぎで、人件費が莫大だった。
そこで国は思い切って貨物営業をほぼ全廃してしまう事にした。石油の直通便とかコンテナだけ残す。
それで全国の貨物駅は遊休施設となった。例えば都心部だと新宿の高島屋スクエア、渋谷の南口オフィスビル群、汐留の電通とかあのあたり、秋葉原のヨドバシなど、飯田橋3丁目のオフィスビル群などは貨物駅だった所だ。
次に国鉄を民営化する事になり、その遊休土地は国鉄清算事業団に移管される。売却益を赤字補填にするというスキームやね。
それで川口貨物駅の施設は川口市ががっぽりと全取りしたってわけ。
んで駅南側は立体公共駐車場とか貸しビル&図書館&市役所出張所のきゅぽらなんかを建てた。そして北側はそのまんま。何分元が複々線線路だから狭くてビル建てるには手狭。でも元が線路だから線路用地にするのが一番やね。
但しそうなると駅全体を改造する事になるから工費はかなりのものになる。新駅ビル建造込みの工事になるかと。
因みにこういう時、JR線路部分の工事は他社にやらせないで自ら発注するのしか認めないのね。事故があるとヤバいから。だから自治体に金だけ貰うって形になる。
ただ、この全体線形変更案は増田の予想なんで、実際はどうなるかは判らん。立体駐輪場と公園を壊してホーム用地を西口方に確保するかも知れないし、南の方へ伸ばして途中の家屋を買収するかも知れない。そこはまだ全然決まってない。
あと、東口の駅舎(と言っても階段があるだけ)と京浜東北線ホームとの間に隙間のデッドスペースと飲食、床屋店舗群があるけど、そこも川口市有地でここも活用できる。
とするとやっぱ全体を東に移して駐車場活用案にあるんじゃないかと思われる。
電車に乗ってると気になるこれだけど、 https://maps.app.goo.gl/uPyzTQ8tn1QQhPTQA
これはなにかというと、貨物駅に入る為の乗越線だったものだよ。
貨物駅が貨物線(現湘南新宿ライン線路)と反対側にあるから、貨物列車が駅に入る時には東北本線、京浜東北線を全部横切らなきゃならない。その為には全部赤信号にして止めなきゃならないから大遅延の元になる。
そこで乗越線で立体交差にした。
昭和43年まで赤羽から大宮は京浜東北線と東北線の複々線だったんだけど、東北線と高崎線の特急を増発する際のボトルネックになっていた。貨物列車が多いし、新幹線が無い時分だから新潟行きも仙台行きも秋田行きも青森行きも全部ここを通る。
そこで貨物線を増設して貨客分離する事にしたんだが、問題になったのが川口貨物駅。貨物線と反対側にあるこの駅に線路を全部渡って行くったって、既に京浜東北線は通勤ラッシュ常態化で、東北線も列車増発の為に線増したのにボトルネックを造ってどうする。
ってことでこんな大がかりなものをこしらえた。
因みに運転は結構大変で、なにぶんにも片方しか入れない。そこで下り列車であれば、一度蕨駅まで行く。そこで機関車を後ろに付け替えて今来た方に出発。西川口付近で乗越線に入って川口貨物駅に到着。
逆に上りでは駅に着くのは普通でいいが、出発後はやはり蕨駅まで行ってから、機関車を付け直して赤羽方に出発という何とも迂遠な方法を取っていた。
貨物駅廃止で不要になった筈だが、廃止された線路の一部を保線用基地に転用した為に、この乗越線を使って湘南新宿ラインの方にレールを輸送するので残されている。
そもそも貨物駅が貨物線と反対側にあったのがいけないのだけど、川口アリオの場所にビール工場があったのでこっちに造られた。ビール輸送は鉄道貨物の大お得意さんであったので無視できないのだ。
因みにビール工場がここに設置された理由は、見沼代用水の分水が取水できた為で…(以下略
鉄の製造には3種類あって、
1.鉄を融点以上に加熱して砂型に入れて固める鋳造(出来るのは鋳鉄)
3.圧延ロールで押しつぶして板状に、またはパイプ状や棒状にする圧延
というのがある。今一番使わているのは圧延で、何段にも圧延ローラーを掛ける為に長いラインが必要になるので工場も資本も巨大になる。量産効果で製品単価は低くなる。
キューポラ炉はたたら製鉄の応用で、コークス(石炭を乾留して硫黄分などを飛ばしたもの、結構高い)→鉄→コークス→鉄とウエハース状に重ねて入れて鉄が溶ける温度を確保する。
投入口が2~3階にあって取り出し口は1階という結構大がかりなものです。
鋳鉄は炭素が多いので、コークスは温度を上げるだけじゃなくて鉄に炭素を含有させる働きもあるのだ。
このキューポラが沢山稼働していたから昔の川口は大気汚染がすごかった。炭塵だけじゃなくて鉄が溶けた蒸気(ヒューム)も混じってるから健康には悪い。
あと一つ入らないのでその二に続く
いつも混んでてゆっくりできないんだが
調度よいところない?
タリーズとかスタバじゃなくて、席同士の間に余裕があったり店の雰囲気がファストフード的じゃなかったりで、落ち着けるところを探しているってことだよね。
ttps://maps.app.goo.gl/S8ZC1qmKLC8fbCR8A
UNI COFFEE はジョイナスにもあるけど、こっちは五番街のドンキの通りを抜けた岡野の交差点の方。
寒くない季節ならテイクアウトしてすぐ裏の岡野公園で過ごすのもおすすめ。
PERCH
ttps://maps.app.goo.gl/bo7DwPYg5CXHcnjW9
僕はよく前述の UNI COFFEE を覗いてみて、無理だったらその足でこっちに流れるという道順を辿っている。
roku cafe
ttps://maps.app.goo.gl/LEfgXkou6Yq9zziz9
横浜駅から徒歩7分 / 11:30~21:00(土日 ~22:00)
駅から少し離れていて穴場的だけど、それでもランチタイムはめっちゃ混んでる。
北幸エリアで時間を潰すときはここを狙って行って、満席だったらイアスのそばの上島珈琲を覗いて、そこも無理だったらルノアールに流れる。
GRASSROOTS
ttps://maps.app.goo.gl/zuywSDDD4rdFAXC89
鶴屋町で夕方以降だったらここが一番いい。ダイニングバーだけどカフェ利用でも歓迎してくれる。
喫煙可だけど、天井が広いので非喫煙者でも気にならない。地下だからキャリアによっては電波が入りづらいけど、スタッフに言えばWiFiを教えてもらえる。
えんどう豆
ttps://maps.app.goo.gl/iyhfnrRcuzAD99C19
横浜駅から徒歩5分 / 8:00~19:00(月 13:00~、日 〜18:00)
鶴屋町エリアで GRASSROOTS が空いていなかったらそのまま奥に進んでこちらに。
カウンターに案内されると窮屈だけど、テーブル席が空いていれば◎
ttps://maps.app.goo.gl/Pb1PLcG2yUWND3yB8
東口側だと商業施設内以外の店舗はないと思う。ここもオフィスビルの中なんだけど、席数が多くて比較的空いている。土日休みなのと閉店が早いのが残念。
ただ金港町を抜けるならベイクォーター内のカフェにワンチャンかけたほうがいい説はある。
備考 :
(追記)元増田のトラバでネカフェに関する言及があるけど、横浜駅周辺のネカフェだったら西口のパルナード通り(ドンキのある通り)にある「俺の部屋」っていうところがおすすめ。完全個室で落ち着ける。
旦那は先生でワイは元教え子、歳の差は10個。辰年と寅年の龍虎図夫婦。
ワイが無理言って卒業後に連絡先もらってしばらくして付き合うようになった。在学中は一切不適切な関係は無かったって誓える。
付き合って初めて一緒に出かけた時、水族館行った後にカラオケに入った。西口のカラ館だったはず。
その時に彼(旦那)が歌ったのが、THE YELLOW MONKEYの「プライマル。」って曲。
上記の通りワイは彼より10個下だから、THE YELLOW MONKEYを聴いたこと無かった。世代じゃなかった。名曲「JAM」も知らんかった。
解散する前の曲らしく、吉井和哉さんの詩は「卒業」とか「さようなら」とか、好意を抱いてた人との別れの曲みたい。
ワイが卒業する時に思い出した曲なのかな。卒業式の後に、感謝の気持ちと好意を伝えたことを覚えてる。ありがとうってしか言われなかったけど、「プライマル。」を聴くと、あの時の先生(彼)の気持ちがわかる気がする。
先生は優しかったから、色んな話をするうちにワイの事を気にかけてくれるようになったんだと思う。それを「好き」って気持ちにしないでいてくれた彼に感謝。
彼はワイの授業を1個担当してただけで、この先もう関わる事なんてない人間だったから、「卒業おめでとう〜」「振り切ったら〜」って歌詞は彼の気持ちだったのかもしれない。もう一生関わることの無いだろう人への未練と応援、自分への決意表明。勿論ワイの深読みの可能性もある。
ワイが卒業した後にやっと好意を認めてくれたのかな。だから「きっと好きだった」なんだろうな。歌い終わった後恥ずかしそうな顔してたのも覚えてる。
ここからワイはTHE YELLOW MONKEYが好き。ファンクラブにも加入してる。他の曲も名曲揃い。彼の気持ちを伝えてくれた存在だからね。
彼との結婚生活はガチで大変。でも「プライマル。」を聴くと彼の気持ちを思い出すから、彼が愛おしく(?)思える。ケンカやばい時でも。
都会だよ。満員電車は最悪だよ。
ひよこのお菓子は食べないよ。あれを東京のお菓子だと言うと福岡の人が怒るよ。パンダは10年に一回も見ないよ。
写真は撮らないよ、おー、おるおると思ってるよ。
渋谷はあるよ。
新宿駅は西口から東口まで貫通するでかい通路ができたからもう迷わないよ。
秋葉原行って「昔とは変わったよな」とか言えるよ。原宿でも渋谷でも言うよ。
スカイツリーは料金が高いし、どうせ上から見てもきれいな街並みでもないから上らないよ。
ディズニーランドは日帰りで行けるよ。
お台場で遊べるよ。
行かないからわからないな。今度歩いてレインボーブリッジ渡るよ。
東京住んでても知らないよ。
テレビ東京見れるよ。SHUTUPってドラマが面白いけど普通にtverで見てるよ。
タワーレコードあるけど行かないよ。
ライブはたまに行くよ。
コスプレ仲間は作ろうと思えばできるんだろうね。
「横浜で遊ぼう」には十分注意してください。
という投稿がバズっていました。
その中では、「横浜で遊ぶ」とは「横浜駅西口エリアのゲーセンで遊んだり飲んだりすること」とあったのですが、なんとなく
「横浜西口エリアのゲーセン」事情の認識が2010年代で止まってしまっている人が見受けられたので
2024年1月現在の横浜駅西口エリアのゲームセンターの状況を記しておきます。
ビデオゲームがあるゲーセンは現在2店舗、クレーンゲーム専門店を含めても3店舗しかありません。
カラオケ、ボウリングなどを含む総合アミューズメント施設です。
低層にクレーンゲー、高層に音ゲー、カードゲー等のビデオゲームが稼働しています。
最近、ストリートファイターシリーズ最新作のアーケード版が稼働開始しましたが、
そして、新旧様々なビデオゲームが稼働していた、いわゆる昔ながらのゲーセンは、
ここ10余年の間にジワジワと減少し、2023年6月を最後に全て閉店してしまいました。
・アメリカングラフィティ(現 ソフトバンク横浜西口 ほか)2012年4月閉店
・セブンアイランド(現 磯丸水産五番街店 ほか)2012年5月閉店
・ゲームスペースジャンボ(現 濱いちもんめ横浜店)2015年5月閉店
・フリーダム横浜(現 ビッグエコー横浜相鉄口五番街店)2019年3月閉店
・パソピアード横浜(現 福包酒場横浜西口店 ほか)2023年6月閉店
・ナムコプレイシティキャロット横浜店(現 フレッシュネスバーガー横浜西口店(閉店))2014年1月閉店
・アドアーズ横浜店(現 ファミリーマート横浜南幸二丁目店 ほか)2011年8月閉店
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
関西出身の私だが北関東(南東北)人のプライドの高さには時たま驚かされる。
南東北の雄である宇都宮市にしばらくお邪魔したことがあったが、宇都宮駅東口を出た瞬間に希望は消えて砕け散った。
現在では無駄な路面電車を走らせたり、無駄なビルを建てたりして足掻いているらしいが、当時は立派な歩道橋とただ広くて汚い「無」が広がっており、その真ん中に何がしたいのかわからない、景観汚染も甚だしい汚い急拵えの観光客向け餃子施設(決して美味しくない)があるのみだった。
その周りを囲む繁も華もない繁華街はただただ汚く、違法行為を行う多国籍パブや足が異常に太くて汚い嬢が多数在籍するキャバクラ崩れなどが乱立する場末の吹き溜まりであった。
旧市街が西口側(東武側)であることを置いておいても、県下最大のメインステーションの真ん前でこりゃないでしょという廃れっぷりにただただ、頭を抱えたものだった。
その後、現地での活動を行う中で原住民との交流の機会も徐々に増え、その中であることに気づいた。
住み心地を聞かれた際に我々転勤族が返す「住む分には困らないですね!」これは「何もないですね⭐︎」をオブラートに包んだ地元民を刺激しないための返答なのだが、どうやら原住民は褒め言葉として受け取っているらしいことに気づいた。
それに返す原住民の言葉には大抵「東京も近いし〜」や「東京まで一本だし〜」などの北⭐︎関東⭐︎であるこの地を賞賛するセリフが次々に返ってきた。
どうやら原住民は本当に東京を心底身近に感じていて愛しているらしい。
(これはローカルテレビ局が機能しておらず、基本キー局が東京のローカル情報を常に放送しているためという説が濃厚)
東京まで直線距離にして約100km、在来線で約2時間1980円の道のりが近いという感覚は全くなかったのでただただ驚かされた。
新幹線があると言っても約50分、4500円、これが果たして近いのだろうか。
関西に当てはめると大阪市内中心部を基準に100kmの円を書くと京都府舞鶴市、福井県小浜市、滋賀県彦根市、三重県津市、三重県松阪市、
和歌山県田辺市、兵庫県相生市などとてもではないが「大阪に近い」なんて恐れ多くて口にできないような自治体が並んでいる。
特急や在来線を乗り継いでの大阪までの時間と値段も似たようなものだが、これらの地域で「大阪に近い」という自意識を共通認識として共有している地域は無い。
具体的に言えば基本内勤、数ヶ月前にホームワークが始まったにも関わらず
2、3週間に一度はまあ聞かれる。知り合いは年単位で聞かれないので多分多い方なんだろ。多分
前置きはここまで
1:一蘭はどこですか?
地方の人だと知らないかも知れんが、一蘭というゲームにもなったアミューズメント施設があるのだが
ここの場所がわかりにくいのか、ほんとによく聞かれる。具体的には池袋の一蘭が多い。次いで新宿の旧ビックロの裏手の方面の
ただ中国の方がだいぶ減ったのにも関わらず家族旅行の白人の方とか、フィリピンの方とかに大好評である
2:中本はどこですか?
これは書きながら思ったが、日本人と半々だなぁ…
具体的に言えば、今はもう無き西池袋と新宿の西口の新大久保向かうところのやつ
看板知っていればわかるんだが、なにせあの看板中卒としか読めないし…
3:オゥタァメェイティㇳゥ テェラァメシン
これを一発で分かる人はきっとTOEICで600以上で取れる人なんだろ
初めは警察に連れて行って、二回目の人のジャスチャーと言い換え文でようやくわかった。
英語は仕事であまりにも使わないから、ここ最近は勉強してないけど
こういうところあると勉強しないとなぁってなる。なった。まる
立川も八王子も駅前は多少栄えてるけど、ちょっと歩けばウチの近くと似たような景色になる。ハリボテみたい。海もなければ多摩川も遠いし、デカい公園もない。昭和記念公園は金を取られる。
いくらかマシな駅前でも、遊ぶには金がかる場所ばっかりだ。高校生の頃、雑費込み5000円の小遣いじゃ大した事はできない。電車に乗って遠くに行く機会も中々ない。
昔一回嫌気が差して新宿まで出ようと決めた。大学入るまで電車通学したこと無かったから、知ってる「都会」が新宿くらいしかなかった。金がもったいないから行きは歩き。
国立から線路沿いに歩いて、三鷹辺りまでは似たようなつまんねー町並みが続いた。無機質なコンクリの高架と、その足元の人が入ってんだか入ってねーんだか分からんピカピカの商業施設。それを囲む家。時々森林。つまらん。
でもそこらを通り過ぎると個性が見えてくるようになる。まず駅前の雰囲気が画一的でない。でけえ掘っ立て小屋みたいな駅舎とツルツルのアスファルトの閑散としたロータリーみたいなワンパターンじゃない。駅の形がおもしれえ。
乱立する店も金はねえから利用はできないが、それでもプラプラ歩き回りながら眺めてるだけで楽しい。
マックや松屋、ビッカメやルミネを眺めていても何も楽しくねえけど、ここは違う。見慣れない街への新鮮さもあるだろうけど、それ以上の何かがある気がした。街に色があった。
中野で断念しちゃったけど、今でもアテもなくフラフラ歩き回るのがすきなおれの原体験だ。
大学も多摩だった。おれはもう一生をここで過ごすのかもしれないと思った。このままでは魂が多摩色に濁ってしまう気がして、わざわざ都心のバイト先を選んだ。初めて目白という地名を知った。往復1000円弱がタダになるのはデカい。
無駄に一人暮らしして、最寄りが中央線から京王になってなんか新鮮だった。多摩内を南西に移る虚無の引っ越しだった。
中1までは本気で日本の電車とは中央線が北海道から九州まで繋がってるもんだと思ってた。乗り換えという行為の意味が謎だった。
新宿での乗り換えで一旦駅を出て、覚えたてのタバコで一服するのが恒例だった。西口の喫煙所でモード学園のビルを眺めながら一息ついてると主人公にでもなった気がした。
目白ではバイトの休憩中に学習院へ侵入して一服するのが好きだった。キャンパスがおれのとこと違ってザ・大学って感じがした。附属の生徒が構内を歩き回っていた。おれの母校も小中高一貫校で、小学生が学食でチョロチョロしてるのが嫌だったのを思い出した。
マックスキャロットに行こう行こうと思っていて終ぞ行かずじまいになってしまった。今度行かないとな。
一回金なさすぎて目白から帰れなくなった。みどりの窓口がある池袋まで歩いて、Suicaを払い戻して現金を手にし事なきを得たのも思い出深い。
この頃から都心の雰囲気に少し慣れ始めた。同時期から服装に気を遣い始めたのもこれと無関係じゃなかったかもしれない。
元々フラフラ歩き回るのが好きだし、そのステージが多摩から遥かに豪華になったのが嬉しくてたまらなかった。都心はすげえ。立川より立派な街並みが隣の駅まで歩いてもずっと続いてる。バイト代もあるからかっこ良くて履き心地の良い靴も買えるようになった。
バイト帰りに、当時流行りだしたサウナへ寄って一泊するのも好きだった。親の同意書も要らず外で泊まれるようになったのが嬉しかった。まあ以前も自分の字で書いて出してたけど。朝から一風呂浴びて、さっぱりした身体で上野や錦糸町をふらつくのも新鮮な体験だった。
バルト9では深夜も映画が観られる事を知った。ゲーセンもファミレスも夜は閉まってしまう時代で、こんな場所があるのかと思った。夜を映画館で過ごすなんて、マンガや映画に出てくる不良少年みたいな体験で興奮した。
終電で適当な駅に降りて、夜通し歩き回るのも好きだった。夜中の鵠沼海岸でボーッと波の音を聞いたり、誰もいない江ノ島を歩き回った事もあった。