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はてなキーワード: 進学塾とは

2020-12-07

anond:20201207151950

うちも母子家庭結構進学塾に通わせてもらっていたけど、いま改めて月謝聞くとその高さにびびる…。

おかげでまあ悪くない学歴就職していまは独り立ちできたけど、母にはもっとさないとと思う。

小学生で両親が離婚して転校したばかりのころ、面白がっていろいろな子が家に遊びにくるけどやはり良い子ばかりではなかったので、

そういう連中と距離を置かせるために生半可な塾じゃなく一番しっかりしたところに入れた、何かあったときに成績が良くないと学校は味方してくれない、と言っていた…

その通りだったよ。

都立中高一貫校の受検対策について

https://togetter.com/li/1632892中学受験生の『1月分』の塾代のあまりの高さに驚愕する人たち「新卒初任給より高い」「どんな世界なの…」 について。

当方について

2児の父。といっても、ふたりともすでに高校生

二人とも都立中高一貫校へ進学。ただし諸事情により、別々の学校へ進学。

の子大手進学塾に6年生から通わせた。塾費は毎月3.5万円くらい、夏冬は+5万くらい。下の子は通塾せず。

https://togetter.com/li/1632892について

月額としてはふつうにありえる金額だが、冬期講習は思いっきりカモにされている。

入試問題はこんなかんじ。https://www.metro.ed.jp/koishikawa-s/guide/test.html

以前、中学入試対策でやっていたようなパターン化された受験対策必要なく、思考力・読解力・表現力を試そうとしている。

とはいえ、まったくパターンがないわけではなく、入試問題である以上、ある程度の対策可能なのだが、それを網羅的に詰め込もうとすると子供家計にひどい負担がかかる。

中高一貫校ターゲットにした塾では、いわゆる算国理社の基本的指導のほか、過去問題や似たような傾向の問題を中心に、どうやって考えていけばいいのを教える。

どんな子も、親切に指導されると、ある程度、回答できるようにはなると思う。

だが、塾に行ったからといって、合格に見合う回答をできるようになるかは別問題

あと、都立中高一貫校は「入学試験」ではなく「適性検査」、「受験」ではなく「受検」と表記するのが正しいので、「中学受験」と書くこのツイ主は多少認識が甘そうである

実際の入学者について

それぞれの学校保護者会的な活動をしているのでよくわかるが、たしかに優秀な子が多い。しっかりしている親も多い。

ただ、課金額と合格率にはあまり相関がなさそう。

3年生から塾に通った子もいれば、ほとんど通わなかった子もいるからだ。

課金たから入れることになった子もいると思うが、それと同じくらい、さほど課金しなくても入れた子がいる。

ブコメにある「3塁ベースに生まれる」というのは、この子が無事合格して初めて入えることなのではないか

とはいえ、受検対策課金しなかった親も、ほかのことには課金している気がする。ピアノバイオリン英会話など。

ということもあって、結局、親の文化的資本が子の入学率に影響を与える可能性は多大にあると思う。

どうやったら都立中高一貫校合格できるのか。

うちの場合は「親が一緒に勉強をすること」がいちばん効いた。

子供が解いた過去問を、両親それぞれが子供の目の前で考えたことを声に出しながら解いていく。

(必ずしも、ベストな回答をできる必要はない。)

適性検査問題は回答の仕方がひとつに定まらないことが多いので、「多様な考え方」や「ことなる解き方」を見て、それを今までの自分が育てられた環境と重ね合わせることでその子ならではの回答の仕方がかたち作られていく。

それを数ヶ月みっちりやれば、本を読む習慣があって、学校で習うレベル学習ができる子ならなんとかなると思う。

ツイ主は両親が高学歴でも太刀打ちできないと書いていたが、それは自分たちの思考力がないからではないか知識を問うものではないのだし。

そういう親は、多分やみくもに課金せざるを得ないのだろうし、そういうやり方だと合格必要自分考える力がつくかはサイコロを投げるようなものだと思う。

うちの場合は、上の子を通じて、通塾は受検対策としての最適なアプローチではないと学習できたので、下の子は通塾させず模擬テストだけ利用させてもらった。

あとは、たくさん遊ばせて、おもしろそうな本や記事動画を紹介して、子供の考えをよく聞いて、子供に考えさせて、一緒に過去問をやって...っていうことで受検対策は十分だった。

実際に、兄弟全員、都立中高一貫校入学させている親も多く、そういう親はいくら塾に投資するかじゃなくて、どうやったら子供自分で考える子になるかを主体においていることが多い気がする。

2020-11-30

anond:20201130223027

昔はおおむね自分努力だけで成績を上げられる生徒が東大に行くことが多かった。

今は親が金払って進学塾やら家庭教師やらで猛烈にブーストされた生徒が東大に行くことが多くなった。

2020-11-11

教育方面に身を置くものの雑感

来年から高校学習指導要領が変わる

学習指導要領が変わると学ぶ内容ややり方が変わるゆとり教育ぐらい変わる

最近では文春も週刊誌も黙って眺めているがかなり大きな変革である

今回の主題は「主体的対話的で深い学び」。お分かりになるだろうか?

主体的はわかる自分からやるということ

対話的というのは他の人との意見交換を経て自分の力にするということ。コミュ力

深い学び。よーわからんが、知識ネットワークかをしてエウレーカ!自分で様々なことから学びとること。

さて、そんな時代出世競争とはどんなもんだろーか?

この改訂は30年前の受験戦争学力偏重社会とは大きく離れて、

何が受けるかわからない時代。何がこの先生き残れるかわからない時代を生きていく力という点に重点を置かれている。

そんな時代出身大学出世が決まるなんてナンセンス。無論学閥は残っているので、学閥出身者の引き受けはありあえる。

入試も変わる。これから共通テストの点数のみならず口頭試問やグループワークも入試に加わる。

どんどん大学入社試験が降りてきている感じだが、そんな感じになるんだろう。

立身出世自分の頑張りである学力だけでなく、地域文化力、家庭の文化資本、学友の知的レベルにまで波及する恐ろしい時代なのである

この場合に、階層固定化というのはどう作用するのか?進学塾に行ける家庭は確かに強い。

金持ちがこれまで以上に階層の上部を席巻する社会になるのか?

はたまた、地域ぐるみ教育にあたる文教都市受験に強くなる「地域学力差」が生まれ、やはり東京のあたりが強くなるのか?

それはわからない。

私としては社会人材育成観点から行って、社会人になった人間が改めて自分の専門に近いユニバーシティカレッジに通いやすリカレントがしやす社会であって、再挑戦・リベンジを後押ししてくれる社会になれば、日本社会としての強度も保たれるものと思う。以上、論考終わり。

2020-11-04

アニメーターになりたいムスメを憂う

高校生の娘がアニメーターになりたいんだそうな。

それ系の学部専門学校パンフレットが届くようになってきて、親としてはモヤモヤするのです。

小学校からわりと自由にさせて中高一貫校でも自由謳歌しているようだが、腐女という属性

よって来ているように見える。進学塾にも通っており私立難関コースだそうだが、本人の志望を

考慮するとマーチレベルにはアニメ関連学部はない。かといって、美大にいくセンスもない。

自分の親が自分にしてくれたように、子供への教育投資は惜しまなかったが、ここにきてアニメーター

目指す姿を素直に応援できない。職業に貴賎はないが現実残酷だ。

平均年収400万の日本において、それすら追いつかないアニメーター業界

公開されてる年齢ごとの年収推移やキャリアアップ例を可視化してしっかりインプットすべきか迷う。

そりゃ彼女人生ではあるけど、親としては心配でならない。

2020-10-09

医科歯科入試女性差別より酷い早慶入試女性差別を知ってくれ

よほど馬鹿じゃない限り全員持ち上がれる付属高校に入れる男女の数の差に誰も触れないのは何で?

男子校ばっかりで女子校全然ないよね。

早慶MARCH入るのには高校から入るのが1番楽だけど、女子男子に比べて圧倒的に入り口が狭い。

実際に進学塾大手早稲田アカデミーでも女子選抜テスト早慶目指す上位クラスに入るためには、男子より何十点も高い成績を取らなきゃいけない。

これめっちゃ女性差別じゃない?

早慶MARCHもっと女子付属高校入学者を増やせ。

自分の足元にある男女差別に気づかないで、リベラルごっこに勤しむご立派でおハイソ大学教授様を見ていると吐き気がする。

Twitter菅政権の男女比批判して承認欲求満たす前に鏡見たほうがいいんじゃないですか〜???

2020-10-07

天才が見たい 1/2

幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケートファミリーコンピュータ。皆覚えている。

幼稚園の頃には、既に自分他者とは異なる存在であることを認識していた。

幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。

ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園落ち葉拾いをして、その落ち葉ちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデ落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手バイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。

作ったちぎり絵先生に見せた時、「これは・・・バイク・・・・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明必要だな」と何故かひとり勝手確信し、画用紙に黒のクレヨン物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。

「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。

俺のちぎり絵物語幼稚園話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。

発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。

その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。


区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。

両親は平凡だった。見合い結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。

ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。

俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校地元公立のほうが良いように思えた。

幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バス苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間為人を把握して対応方法ほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立ゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。


両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校地元公立小学校入学することになった。

小学校に入っても、特に自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。

この頃になると、自分状態客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。

俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。

言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。

何より、公立小学校毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。

「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間コミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。

ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息けが荒い小学生だったと思う。


─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。

─────日本一大学東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。


そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃であるいかにも小学生摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対京都大学に入ろう」と思った。

そこから俺は色々と京都大学情報収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校先生などに尋ねたりしていたが、小学生調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。

しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないもの・・・模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。

日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。

だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。

看守は

給付型の奨学金制度などもある」

経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」

増田君には質の高い教育を受ける権利がある」

などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。

この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているか私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。


当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。


そうして地元公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試偏差値が出るからである

そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベル高校が無理なら、こりゃ京大東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。

悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く

「成績がいいのに何故」

「塾はお金がかかる」

「家でも勉強はできる」

などなど、様々な言葉で塾に通うことを拒否された。

小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。

また、塾が無理なら定性的定量的評価可能代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。

結局、中学3年の春から、塾に行く事を許してくれた。

半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。

そんな母を尻目に意気揚々進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるか勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。

その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつ教室に雨後のタケノコのようにポコポコ存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。

毎日がただ楽しかった。自分天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃん数字が、成績がついてきてくれた。

幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。


高校公立北野高校というところに入った。維新橋下弁護士とか、日本マクドナルド創業者藤田田ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家岡田あーみんとかが通っていた高校である

本当は東大寺学園に行きたかった。学力模試偏差値は足りていたと思う。赤本自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校絶対公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。

中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金申請手続きを自分自身で済ませた。

北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強必要であると思ったからだ。

俺は詐欺師丸出しの口調で「高校学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費予備校に回してほしい。予備校バイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。

この頃になると、奨学金申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。

自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。

俺が小学生中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。

家計ほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。

高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。

昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。


しかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。

大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。

大学合格したこときっかけに、京都に引っ越す事にした。

ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。

大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。


後編に続く

anond:20201007170042

2020-09-01

anond:20200901231759

後半からして「趣味人」と言う要素も必須じゃなくて

(「有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者なっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」なんて何の趣味人でもないもんな)

ただ今でいう所のコミュ障根暗陰キャを指してるだけなんだよな

著者からしたら、自分アイドル研究家であってもコミュ障根暗陰キャではないから「おたく」じゃない、って事なんだろうか

それとも自虐なのか

2020-08-22

今更だけど上野千〇子の祝辞に関して東大生が思うこと

私は一生公教育なんて信じない。私の命は中学受験で救われた。

私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。

とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生放火をし、中学生喫煙し、高校生バイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。

私の家は紛うことなホワイトカラー一家だ。元ボンボンサラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しか女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。

そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的あくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験小学校四年生から始まった。それもSAPIX日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。

しかし、それでも学校教員からの敵意からは逃れられなかった。

彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。

そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。

まずは保護者会で、担任教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生言葉絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。

休み時間円周率計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強しました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからいじめが始まった。

帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。

先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。

おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生なのだクラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは仲間意識の強い」彼らなのだ

悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。

また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。

私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休み図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。

一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこから漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。

担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。

だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。

真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。

別の小学校越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまたからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分学校問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。

私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分オーディションに受かったら、自分母親と隣のクラス教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。

話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。

もし父親先見の明がなかったか、私が過度のストレス受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。

数年前の東大入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれ人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。

エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。

2020-06-19

anond:20200619211205

いい思い出だな。自分も似たような、進学塾とは言えないところでバイトをしていたから、その風景が目に浮かぶよ。

あの年齢の頃だと、生徒との精神的な距離感もそんなに離れていないんだよね。自分は十分な距離離れているような気でいるんだけれども、ふとしたときに思ったよりも近くにいることに気付いてしまうような。自分青春も終わっていない、けれどもさらに眩しい青春の中にいる人たちが大勢いる空気感

塾でアルバイトをしていた頃の思い出

大学2年の夏から卒業するまでの2年半、塾でバイトをしていた。

菅直人似の塾長が一人でやってる個人経営の小さな学習塾で、中高生英語を教えたり電話番や事務作業をやったりしていた。特に仕事がなければ大学課題なり内職をやっていてOKという恐ろしくゆるい環境だった。

英語科のT先生長身で飄々とした雰囲気イケメンだった。掛け持ちで高校非常勤講師もやっていた。

学校と塾の掛け持ちって大変じゃないですかと聞いてみたら、「常勤先生はそうだろうけど、非常勤ならそうでもないよ。俺も必要最低限の仕事だけして切り上げてるし」とのことで、要領よくて羨ましいなと思った。

同時に「まぁでも学校先生より塾講師の方がずっと楽だねー。学校では英語の他に道徳も教えなきゃいけないからさ」とか言ってておいおいと思ったが、そのゆるさが生徒には人気だったし、何より教え方も抜群に上手かった。それにしても道徳って高校でも教えなきゃいけないのかと、先生という職業の大変さがしのばれた。彼くらい割り切っていなければやっていられないのかもしれないなと思った。

私とほぼ同時期にバイトを始めた英語科のY先生とは、同性で年も近く大学も同じということですぐに仲良くなった。Y先生クール系の美女サバサバして教え方も上手くて私の憧れだったのだが、致命的に男運がなかった。彼女の恋バナを聞く度、なんでこんなカッコいい先生がそんなダメ男とずるずる付き合ってるんだろうと不思議でならなかった。

ある日Y先生に「ね〜増田先生私もうどうしたらいいと思う?率直に聞かせて!」と言われたので「別れた方がいいと思います。Y先生にはもっといい男がいるはずです」と正直に答えた。すると「増田先生ってば普段はどっちかっていうとのんびりしてる方なのにこんなにすっぱり言ってくれるのやばいめっちゃ気持ちいい!」といまいちよく分からない感激をされた。

私はY先生には是非とも彼女に見合う素敵な男性幸せになってほしい一心だったのだが、アドバイス方向性があれで合っていたのか自信がない。その後Y先生彼氏と別れたのかどうかも知らない(なんとなく聞けずじまいだった)。

Kくんは柔道部稽古に打ち込むスポーツ少年だった。稽古にのめり込むあまり成績が下がってしまったとのことだったが、真面目で地頭はよく、教えたら教えただけ英語の成績は上がっていった。

Kくん真面目ですごくいい子ですねーと塾長に話したら、「いや〜あいつ家ではクソババーとか言って母ちゃん困らせてるんだってよ」と意外な一面を教えてもらった。「まあ男子中学生なんてみんなそんなもんだなー」と塾長はワッハッハと笑っていた。

それ以来、私の言うことにはみんな素直に従うKくんを見ていたらなんだかおかしくなってしまった。Kくんはまるで弟みたいな感じだった。一度、こっそり流行りの漫画を貸してくれたこともあった。2年の間に、いつの間にかすっかり背も追い越されていた。

もしこれが本当の弟だったなら、きっと私がクソババー呼ばわりされていたに違いないのだろうなと思った。

数カ月後Kくんの弟のUくんも教えることになった。彼は心臓ちょっとした病気を抱えていてその手術のため数ヶ月入院しており、一週間前に退院したばかりとのことだった。

最初の授業の日、手術とかプライベートなことにはあまり突っ込まれたくないかなと思い、そこには触れず当たり障りのない授業をした。授業後、塾長に呼び出された。「Uくんがね…」まずい、なにか粗相をしてしまっただろうかと身構えた。「Uくんがね、手術のこと聞いてほしかったって」「えっ」「先生がそこにノータッチで寂しかったんだってさ。次はちょっと話聞いてやってよ」

一週間後、2度目の授業で「Uくん入院してたんだって?手術大変だった?」と聞いてみた。途端にUくんの顔がぱっと明るくなった。彼はお兄ちゃんのKくんと比べるととても物静かな子だったが、私の言葉に確かに嬉しそうにうなずいていた。

ちなみにUくんはお兄ちゃん同様めちゃくちゃ優秀な生徒だった。あまりに手がかからなさすぎて彼のコマボーナスタイムみたいなもので、こんな生徒ばかりならどれだけ楽かと思っていた。

お世辞にも進学塾とは言えない塾だったのでやる気のある生徒は少なかったのだが、そんな中でもIちゃん学校での成績も優秀で、塾での授業が終わったあともずっと自習スペースで勉強しているような真面目な子だった。

Iちゃん真面目ですよね〜他の子もこれくらい勉強してくれればいいのにとY先生に言ったら、「でもあの子T先生と付き合ってるよね」と衝撃の事実を聞かされた。何で知ってるんですか?と聞いたら、彼女は「私も高校生の頃教師と付き合ってたから。あの感じは間違いないよ。うん、間違いない」と返されそれ以上IちゃんのこともY先生過去も追及できなかった。

かにT先生指導項目から道徳は抜け落ちていた。

夏期講習になると生徒たちはみんな私服で通塾してくるようになる。ある日私に参考書コピーを頼んできた女子生徒は、夏らしくとても可愛いワンピースを着ていた。「そのワンピース可愛いね。前も着てたよね?」と話しかけた。「前も?」とみるみるうちに彼女の顔が曇っていって、しまったと思ったが遅かった。ごめん、そういう訳じゃなくて、と取り繕う間もなく、彼女コピーを受け取るとすぐに行ってしまった。

その日は家に帰ってから自分コミュニケーションの下手くそさ加減にだいぶ落ち込んだ。

機械音痴塾長に代わって、彼が昔購入したまま放置していたパソコンセットアップを頼まれた。私の腰ほどまであるかいダンボール箱に詰め込まれた、小さな個人塾には明らかにオーバースペックデスクトップPCで、塾長はなんでこんなの買ったんだろうと思った。

教室セットアップをしていたら、女子生徒2人組が入ってきた。彼女たちはいわゆるギャルというやつで私とは対極にある人種であり、話したこともないのに一方的に苦手意識を持っていた。だが2人は私を見るなり「先生なにやってんの〜?あ〜なにこれ先生の筆箱かわい〜♥」ときゃぴきゃぴ盛り上がり、私の隣で仲良く自習を始めていた。

少し経った頃勉強に飽きたのか2人が話しかけてきた。「先生なんでそんなことやってんの?」「塾長に頼まれたんだよ」「え〜でもそういうのって男子仕事じゃーん!」「そうかな?」「普通そうだよ〜そーいうのは男子やらせなきゃ!」「でも先生こういうの結構好きなんだよねー」「そっか〜!」みたいな会話をした覚えがある。彼女らの屈託のなさが眩しかった。私も彼女らのように臆せず他人と明るく話せたならなあと思いながら、夜家までの坂道チャリで漕いだ。

卒業就職を期にバイトは辞めたが、とてもいい職場だった。辞める日、「増田先生辞めたとは思ってないからさ、いつでも来てよ。ほら、先生紹介の紙も貼ったままにしておくからさ」と壁を指し笑う塾長を見ながら、このおっさんまた調子のいいこと言ってんなーと思った。

先日、結婚の報告も兼ねて久しぶりに塾を訪ねた。数年のブランクを感じさせない気さくさで塾長は変わらず出迎えてくれた。

しかし私の紹介の紙は既になくなっていた。やっぱりなと笑ったが、そもそも他の先生達の紹介もなくなっていた。その代わり、壁には私が勤めていた頃の3倍くらいの量の「目指せ○○大合格」の紙がずらーっと貼ってあって、その一枚一枚に生徒たちの手書き抱負が書かれていた。

楽しい職場だった。特に塾長には本当にお世話になった。もっともっと勤めていたかった。

2020-05-26

言語と性能さえ満たせば、仕事ができる そういうプログラム業界は終わったんだろうな。

進学塾がやってきて、おれらバカ学生が追い出されるみたいなもんか?ちがうのはわかるけど。おれらどこへいけばいい?

2020-01-08

厳しい進学塾は生徒の競争が激しく序列を点数とクラスと席順で明示されるらしいが、メンタルの弱い子供はそういう塾に通わせるべきではないんだろうか?

順位課題を突きつけられてもっと頑張ろうと奮起できる子供はいいが、打たれ弱いと心が折れて諦めたり無気力になったりするのは想像に難くない。

この社会競争社会であることは事実だ。

心が強くても弱くても社会に出れば等しく競争を強いられる。

この現実子供はいつ知ればいいのだろうか。

お受験中学受験を通して世の中はそういうものだと早いうちに体験させて準備期間を長く取るのか。

精神面の成長を待って高校受験まで先延ばしにするのか。

諦めて大人になるまで温存するのか。

しかし温存しすぎると社会の少しの厳しさにさえ跳ね返されて心を病むかもしれない。

打たれ弱い子供に寄り添って着実に学習をさせてやることで難関校・難関大学合格させることは可能なのだろうか。

そんなにゆっくりで大丈夫か?

2019-11-19

anond:20191119121502

地方って小学校までは母親がこぞって塾行かすんだけど

収入だか風土問題中学高校と進むにしたがって行かせなくなるし

(ガキの頃から小学校は塾行かせて高校生は行かせないって、普通逆なんじゃねーかと思ってたんだが)

進学塾ともなると極小数しか行かないか

それに大学学者が少ない、行ってもスポーツ推薦で県内Fランとかや

塾に対する恩威を正しい形で受けられなくて

「塾なんて」って意識が強くなりそう

anond:20191119121502

今でこそ塾の先生紳士的になったけど昔はひどかったからな

体罰は当たり前だし進学塾なかには点数や偏差値による序列意識を煽ったり

そうやって生徒を焚きつけるのがデフォなところもあったからな

塾って学歴差別職業差別階層差別)を飯の種にしてるコンプレックス産業の要素があるから

真摯に生徒を指導されている塾の先生には頭が下がるし偏見さらされるのは本当に気の毒でしかない

実家が小さな個人塾なんだけど、なんで塾って悪者にされがちなんだろ

タイトル通りです。

地方都市で、しがない個人塾を父親がやってます講師父親一人。社長講師ってやつです。

みてるのは小学生から中学生まで。高校は難しいから教えられないって言ってた。

お月謝は学年によるけど、1万円から1万5000円くらい。週3、2時間+週末3時間です。

たぶん東京の人からみると激安なのでは。

これまで延べ1000人以上の生徒さんをみてきて、高校はみてないにもかかわらず、

大学合格したらわざわざ挨拶にきてくれたり、卒業してからもずっと年賀状を送ってくれたり、

卒業の子供が親子二代にわたって通ってくれたりと、それなりに愛されている先生なんだと思う。

子供からすると、父親は働きっぱなしで、休みもなく、全然遊んでくれないので、不満もあったけど、

自営業なので父親が働いている姿も見てたし、それなりに誇らしく思っていた。

なんかふとしたときに、父親が「うちは賤業で、すまんな」と言ったことがあり、かなりショックだった。

父親としては、サラリーマンだったり、公務員だったり、学校先生だったり、そういうのがまともな職業で、

自分のことは賤業として認識しているのか、ととても残念に感じた。

というのも、自分大人になってみると、「塾に通わず大学まで行った」とか「塾は下駄をはかせているだけ」とか

「塾は金儲け」といって塾を敵視する人にすごく合う。そのときはばつが悪いので、実家が塾であることを隠すのだが、

まり無意味攻撃をされているときは、「うちの実家は塾だけど、そんな感じじゃないよ」というようにしている。

(そういうと、彼らはバツが悪そうに、小さい個人塾じゃなくて、大手予備校みたいなところの話ね、と言い直すのだが、一緒じゃねえか!)

事実、塾に通わず大学まで行った人は経済的で賢い人だと思うし、

塾が金儲けというのは、他のすべての職業と同様、事実だと思う。あなたが通う定食屋携帯電話病院もすべては金儲けをしているのだし。

でも、スイミングスクールお絵かき教室体操教室スポーツクラブ悪者にされないのに、

なぜ塾はいつも悪者扱いなんだろうか?子供のころから不思議でたまらない。

勉強ができない子は反復学習でできるようになるまで付き合い、

学校勉強簡単すぎる子には、難しい問題を与えて、問題解決面白さや知的好奇心の大切さを伝える。

それって、そんなに変な職業なんだろうか?

学校が既にやっている?そりゃそうだろう。

じゃあ、図工の授業も、体育の授業も、学校にはあるのに、

なぜみんなお教室に通ったりするの?

それは良い指導者出会って、子供可能性を伸ばしたい、いろんな刺激を与えたいからじゃないの?

学校自分の子供と相性が良い先生がいればそれはとても幸運だけど、

それこそ選べないから、みんな自分お金を払って、いろんな教室に通ってるんだと思うんだよね。

そろそろ父親引退しそうで、なんとなく感慨深くなったので。

追記

おそらく父親世代にとっては、自営業がみっともないと思っていたのではないかと思う。

父親早稲田出身で、たとえば大学の同期などと比べたときに、みんなが名のある大企業のお偉いさんになっていたりするのに、

自分地方都市自営業だったので、引け目を感じたのではないか

自分にとっては格好いい父親だけどね。

急に廃業というのがその通りで、他の商売も同じかもしれないけど、

塾ってものすごく波がある商売なんですよ。

たとえば、毎年各学年30人くらいの生徒さんがいたと思ったら、

急に次の年の新入生は10人になったり、

かと思えば別の年には教室に入りきらないくらいの入塾希望が来て、お断りしなきゃいけなくなったり。

全然需要が読めない。毎年同じように教えて、同じように広告を打っていたとしても。

基本的固定費用は同じ(場所代自分人件費)だから

生徒さんが少ない年が数年続いちゃう廃業せざるを得ない。

そういう商売です。

ブコメを見てると、みなさん塾に対する悪印象がないようで嬉しい。年末帰った時に伝えてあげよう。

はてなにいる人は高学歴だったり、教育の大切さを知っている、または学校教育問題点を認識している人が多いから、

塾を擁護してくれる人は多いけれど、

世間全体ではそんなことは全然ないですよ。

たとえば、いまだに「子供は外で遊ばせるべき。塾なんて詰め込み教育!かわいそう!」と

批判してくる人やわざわざ家まで投書してくる人もいます

塾に通っていない人は、塾というのは教育の場ではなく、受験のための小手先テクニックを教える場所だと

思っている人がかなりの数、います

学校先生も、塾に対して嫌味なことを言ってくる人は多いです。

事実、私は小学校中学校では、教師にめちゃくちゃ目の敵にされていたので…。

良い点を取ると、お前は塾の息子だからと言われ、悪い点を取ると、父親は教えてくれなかったのか?と言われました。

しかったし、塾の評判が下がると困るので、めっちゃ勉強しましたが…。

会社に入ってからも、小学校から大学まで全部公立or国立で塾に通わず卒業した上司がいて、

その人は都内有名私立中出身社員をめちゃくちゃいじるめんどくさい人がいました。

「おぉ、お前ら、こんなこともできないのか。これは鉄緑会で教わらなかったのか?」みたいな。

(もちろん彼の場合はなんらかのコンプレックス発症していただけだと思います

世間全体で、東大生京大生を腐す風潮があると思うんですが、

それと同じレベルで、塾を敵視する人は一定層います

「え、東大生京大生を腐す人なんて見たことない!」と言うはてなーの人はいるかもしれませんが、

それはあなた環境がとても良いということだと思います

追記追記

塾が悪者にされたシーンを一度も見たことがない、そんな人に出会たことがない、という人へ。

92年うまれ。塾ブームが起きて、塾でたむろするDQNが授業を軽視するのが気に食わなかった。だから塾には行かず進学した自分が誇りだったし、増田が言われたようなことを思っているし実際に言った。これは現実の話。

私もずっといろんな人に同じことを何度も言われたことがあるので、個人攻撃するつもりでの引用ではありません。

でも、父親や私がよく言われてきたのは上記のようなコメントです。

私はこの方の意見がすごくレアものではないと思います

父親70年代から塾をやっていたのと、私が地方出身のためか、塾ブームがなんなのかよくわかりませんでした、すみません

最後に。今日増田を書こうと思ったきっかけ。

自分たちで教育破壊しておいて、これ。

https://www.sankei.com/politics/news/191118/plt1911180045-n1.html

「塾ばかりがもうかる世の中にすれば、日本は滅びる」んだそうです。なんで?

(そして、塾は英語民間試験なんて望んじゃいない)


二月の勝者は自分も今年読んで爆笑したので、父親にも夏に読むのを勧めました。

読みながら、東京の塾、こんなに高いのか…僕は経営下手くそからなぁ…って笑ってました。

二月の勝者は大手進学塾の話なので、生徒よりも親を見る、お客様扱いして集金するといったえげつないことをしてて

そこはうちの塾とは違うけど(してたら、いまごろうちの地域でいくつもの教室運営してたと思う笑)

生徒や親のエピソードは塾業界あるあるすぎるので、塾関係者は「あ〜こういう子(親)、いるいる」って笑えると思う。

伸びる子、伸びない子は本人や親と話すとすぐわかるって言ってました。

逆説的ですが、父親的には成績を上げることや受験に受かることを目的にしちゃうとよくなくて、

問題を解くのって面白いと思わせたり、もっと知りたいという知的好奇心を刺激したりすることが重要で、

生徒さんによってそのレセプターが違うので、手を変え品を変え、いろいろと玉を投げているようです。

二月の勝者、続きが気になりますが、すべての生徒さんにとって、受験自分ごとになるとよいですね。

みかづきは知らなかったのでさっき買った。今晩読みます

→読みました

https://anond.hatelabo.jp/20191120041544

あと,みんな、思った以上に塾のこと好きだったみたいなので、

いま30代でも40代でもいいから、通ってた塾の先生が存命なら年賀状で近況報告でもしてあげてください。

へぇーなんとか君、いまどこそこでこんな仕事してるのかー」とか

「なんとかさん、子供大きくなって、いまどこそこに通ってるのかー」と

毎年ニコニコしながら年賀状読んでます

2019-11-02

塾でのいじめが一番えげつない

 もうかなり経って今の私は完全に立ち直ったけれど、友人の従兄弟も似たような目に遭っていると聞いたので書く。告発とまではいかないが、子供を塾に通わせてる親はマジで気をつけてほしい。

私がいじめを受けたのは小学生の時で、有名なチェーン塾に通っていた。名前は伏せるが、合宿ハチマキを巻いて勉強するタイプ進学塾だ。小学四年生で入って、小学五年生の夏に辞めた。原因はお察しの通りいじめである

いじめが始まったのは、入塾して二ヶ月が経った頃だった。組分けテストで好成績だった私は、下の方だったクラスから、一番上のクラスまで一気に上がった。上がった翌日には、私が先生に媚びた上にカンニングして上がった、という噂が流れていて、いじめられるようになった。勿論事実無根だ。先生には度々質問しに行っていたが、媚びてなどいないし、カンニングもしていない。事実無根のたったそれだけの理由で、私は延々といじめられる羽目になった。

いくら小学生と言えど、受験を目指している子供だ。頭がいい。証拠が残ることは一切されず、されたのは教科書ノートを隠されたり(授業後に返される)シャーペンの芯を粉々にされたり、あとは無視悪口と痕が残らない程度の殴る蹴るの暴力一年と少し。

ご飯が食べられなくなり体重はごっそり落ちたし、髪もかなり抜けたが、受験勉強によるストレスだと思う親は気づかない。先生も授業が終わればすぐに教室を後にし、クラス付けの先生もいないので気づかない。自分から助けを求めようにも、何度冤罪だと訴えても聞いてもらえなかった私は、先生や親に訴えて、信じてもらえずに軽蔑されるのが怖く、誰にも言えなかった。自分がいるのは一番上のクラスなので、勉強してクラスを変えよう、というのも無理だし、下に落ちれば未来はない、と先生に言われているのに手を抜くのも無理だった。要するに逃げ場がなかったのだ。

そして小学五年生の夏、足を蹴られた私はそのまま倒れ、机の角に頭をぶつけた。浅く、結局痕も残らなかったが軽く出血し、先生が来て大騒ぎになり、全てが露呈した。先生主犯格の親が家まで来て平謝りしていたが、当然私は塾を辞め、少しの間カウンセラーに通った後に転塾した。中学には第二志望に受かった。今ではそこそこいいとこの大学生をやれている。

ただ、もしあそこで辞められていなかったら私は自殺していたと思う。実際末期には、暇さえあれば死に方を考えていた。塾という場所自体いじめが起きやす場所だと、もっと社会全体で認識すべきだと思うのだ。勉強先生からストレス大人の目が少ない閉鎖空間、頭が良い子が大半を占めていて、真面目な子供は気が弱い子が多い。むしろ学校よりも条件が整っている。学校でのいじめ対策をしっかりする取り組みは行われているけれど、塾となればろくに行われていないのが現状だ。塾に子供を通わせている親は、その面でもしっかり目を光らせてあげてほしいし、塾自体の仕組みとしても、もう少し対策をしていくべきだと思う。誰かが死んでからでは絶対に遅い。

2019-10-06

父・母が教えてくれた大事なこと

中学入学当初、私はひどく頭が悪かった

公立中学の中で150人中110番、クズみたいな成績だ

親にひどく怒られた

よって塾に行かせられることとなった 有名な進学塾

それによって私の成績は70番くらいになった

私はそれくらいで満足だった 平均点をとれたのだから しかし親は違った 私の成績に怒った

親が知っていたのは公立中学では20番目くらいの成績をとらないとまともな人生は送れないということだった

私にそれをいうことはなかったが、22歳の今、中学同級生の進路を見ているとそのようなことは悟れる

そのおかげか、私は中学最後半年くらいは学年で20番目くらいの成績をコンスタントに取った

内申書がひどくわるかったので公立高校には受からなかったのだが、私立進学校に入れた

おかげで、大学入試では、有名な国立大学工学部合格することができ、大学院への進学が決まっている

あくま大学院への進学であるので、有名企業に入れたり、高収入を期待することなどはまだできないが、現状、私のできる能力限界値くらいの順調な人生を送れているだろう

親に感謝

2019-09-20

anond:20190920015217

有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者なっちゃうオドオドした態度のボクちゃん

これ最早趣味関係ないよな

今でいう陰キャみたいな意味

宮崎事件から宅八郎の頃は「アニメとかが好きなキモい奴」くらいの扱いで

単なる陰キャがり勉君は含まれてなかったと思うけど

この時点で意味が狭まって、その後また広まったのか

anond:20190920014833

オタクはそう名付けられた時点で

アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴

ブルートレインを御自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる奴

本棚にビシーッとSFマガジンバックナンバー早川の金背銀背のSFシリーズが並んでる奴

マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネ理系少年

アイドルタレントサイン会に朝早くから行って場所を確保してる奴

有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者なっちゃうオドオドした態度のボクちゃん

オーディオにかけちゃちょっとうるさいお兄さん

こういった人達を、まあ普通マニアだとか熱狂ファンだとか、せーぜーネクラ族だとかなんとか呼んでる

までが射程に入っているわけで、

オタクマニアは違う」「あとからオタク範囲を広げた」というのはやはり後付けにすぎないよ。

「あとからオタクという言葉ネガティブ意味脱臭しようとした」なら同意するけどな。

2019-06-27

[]anond:20190627201151

■頑張るってな~んだ!(虚無)

今私は高校三年生で、時期的にはまさに就職大学専門学校かと進路を決めて周りの人間が頑張っているであろう時期なんだけど、何一つ頑張ってない。努力もしてない。というかよくわからない。努力とか頑張ってるとかってなんだ?誰の基準なんだ?自分か?他人か?

「何がしたいか」なんて聞かれてもなにも思いつかないし、ましてや将来の夢なんてなにもない。強いて言うなら絵を描くことだけは小学生の時から好きだった。って言ってもクオリティは大したことないし、服とか小物描くのは苦手だし男も描けない。背景も描けない。女(しかも肩から上)しか描けない典型的底辺絵描きなんだけど、この間学校の進路ガイダンスに行って、専門学校もいいかもなとちょっと思った。今まで進路のこととか本当に考えずに過ごしてきたから「今?」って感じだけど、イラストといえば小学生のころから唯一続いてきた趣味でもあったし、好きだから

昨日、成り行きでその進路ガイダンスにあったパンフレット学校説明会にひとりで行った。ちょっとから思ってた「キャラクターデザインとかやりたい」っていう思いが若干強くなって、いい話も聞いて、ルンルンしながら家に帰った。でも、家に帰って即行お父さんにガッツリダメだ」って言われて、なんかお先真っ暗みたいな気持ちになった。

イラスト業界に進んで金もらえる人間なんて一握りだ。お前がその一握りになれるか?」

「せめてもうちょっと現実的専門学校だったらまだいいよと言えたかもしれないけどイラスト業界ダメ

まぁ、わかる。私もそっちに進んで安定した金をもらえる自身もないし、今のところ技術もない。それはこの歳になる前からでも思っていたことだし、その道に進んでもずっと考えてると思う。それに、イラストレーターとかデザイナーとかで働いてる人がなんだか違う次元の人のように思えて、現実味がなかったこともある。実際咲けてない漫画家が知り合いにいるし、難しい世界なのはわかっている。かといってそこで根性発揮してくらいついていける自信も根拠も親の信用もないし、この時点で「イラスト関連の専門学校は無理かな」と自分でも思っていた。親の言葉くらいで簡単あきらめるようじゃ、せいぜいこれから趣味レベルでやっていくのが私の限界なんだろとも思っていた。

私がお父さんに腹を立てているのは、専門学校に行きたいと言ったことを真っ向から否定されたからではない。大したクオリティではないとはいえ、私が小学生のころから八年程続けられてきた唯一の趣味を「所詮お遊びレベルだ」と一蹴されたことだ。

私は昔から、なにをやらせても中途半端三日坊主だった。音楽番組に影響されたお母さんに触発されてなんとなくでギターを買いたいだのと言いだし、そのギターはここ数か月クローゼットの中だ。小説っぽいものを書くのも好きだが、極めようとはしていない。せいぜい私の書くものを好きだと言ってくれる数人に見せているだけのようなものだ。作曲作詞にも興味はあるが、せいぜい興味があるレベルで、作曲勉強をしようとはしていないし作詞もただ思春期女の痛いポエムしかない。言ってしまえば生産性が皆無だ。先述したが絵のクオリティも「これどうなん?w」という感じだし、まあそりゃ本気でやってる人からすればお遊びだといわれても仕方ないような人生だ。ただそれを、小学生のころから絵を見せて「上手くなったな」などと言ってくれていたお父さんにガッツリ否定されて本気で傷ついてしまっている。実際図星しかないのでさらに腹が立ったんだろう。

「今までギターをやりたいというからギターも買ったし、絵を描きたいというから液タブも買わせたが、俺からすればお前のやってることは全部お遊びだ。イラスト関連の道に進みたいといわれても、これ以上お前のお遊びに俺たちを付き合わせるなとしか思えない」

と言われた。言われたのは昨日のことなので、超ハッキリと覚えている。あーあ、と思った。今までお父さんは私のやることなすことに対してそんな風に思っていたのかと。

その流れで「もしその道に進んだとして、途中で投げ出したらそのウン百万はドブに捨てたことになるんだぞ」とも言われ、これもまた私を傷つけた。私は高校一年生の時にそれなりに苦労して入った全日制の高校を辞めて通信制に転学している。その全日制に入るために進学塾に通ったりとまあ色々と金を使ったわけだが、お父さんはその金をドブに捨てたと思っていたんだと気付いた。それは、金を払っている親の立場からすればかもしれないし、私もいつか親になって多額の金を出して入った場所をやめたいなんて言い出したら「は?」と思うかもしれない。でもその時の私も余裕がなかったし、この心理状況で全日制の高校毎日通って単位を取って卒業するなんて無理だと思ったので、ほぼ勢いで転学を決めた。それまでも金が無駄になることや、憧れていた全日高校とずっと着たかった制服への未練が捨てきれず悩んだりもした。そこで小学生のころからお世話になっていた塾の先生に「経験無駄にならない」という趣旨で励まされてなんとかここまで来たものの、今になって「ドブに捨てた」なんて言われても私はどうすればいいのかわからない。いや、実際には話的には専門学校に行くために払う多額の金の話であって、私が辞めた全日制の話はひとつもされていない。ただの私の被害妄想しかない。

ここまで書いて自分が何を言いたいのかよくわからなくなってきたが、別にどこかに出す正式文章でもないので開き直って続けることにする。

最初に言っていた「頑張っていない」「努力していない」「そもそもよくわからない」という話に戻るが、私は本当に頑張るということができない。進学塾に通っている頃も私は自分で頑張っていると思い込んでいたが、先生に「お前は頑張ってない」と一喝され、普通に足りていないことを自覚した。かといってそれから特に何か伸ばそうとすることもせず、課題も「めんどくさい」からとやらなかったり、先生強制されていた毎日自習も渋っていた(先生は私が家にいると全く勉強しないことを知っているので強制していた)。

周りの人間は、私が見る限り頑張っていた。暗記のテストもいい点数を出すし、課題も全部やってくる。当たり前だと言われればそれまでだが、私はその当たり前ができなかった。頑張るということがよくわからないし、めんどくさい。別にそこまでして高校行きたくないし……と思っていた。その「頑張れない」ということをはっきり自覚たころ、スクールカウンセラー先生などと喋る機会があったのだが、その時は「無理に頑張ろうとしなくてもいい」などと言ってもらえた。「頑張れないのが悪いんじゃなくて、当たり前のことを当たり前にできる人がすごい」とも聞いた。一時はその言葉に救われたのだが、よく考えると私は「頑張れない」のではなく「頑張ることから逃げているだけのクズなのではないか」とふと気づいてしまい、そこからはいもの自己嫌悪だ。中学のころからずっと自己嫌悪だけは止まらない。自己PR欄書けるような長所と言えば「学校生活で掃除をさぼったこしかありません」ぐらいのことしかないが、普通に特技を聞かれれば自己嫌悪となんでもマイナス思考で考えることだと思う。

このネガティブ思考のことについて考え始めるとマジで負の連鎖に陥るのでやめたほうがいいのはわかっているが、ポジティブに考えるというのが全くできない。えっ、私は何が言いたいんだろう……突然正気になってしまった……

とにかく、頑張れない。頑張るのがめんどくさい。ただそれだけだ。マジでめんどくさい。何をするのもめんどくさい。風呂に入るのもめんどくさいし、そのあと髪を乾かすのもめんどくさいし、パソコンを使うためにリビングから自分の部屋まで移動するのもめんどくさいし、液タブを使うために線を繋ぐのもめんどくさいし、趣味の絵の練習ですらめんどくさい。痩せたいとは思うがストレッチは二度と続いた試しがないし、結局大して太ってないからいいだろと思考停止して終了。なるほど、クズだな。

ここまで長々と意味の分からない言い訳を綴ってきたけど、結局何が言いたいってなにするのもめんどくさいっていうことなんだよな。あーやだな。自己嫌悪止まんねえな。どーーーーーせ陰キャコミュ障クソオタクの私は誰からも愛されずに親の死んだ実家孤独死するんだろうな……ウケる

マジで頑張るのめんどくさいし、進路な~~~~んにも考えたくない。てか金ないし覚悟いか専門学校ダメ!じゃあどうせ金はないし勉強もしてないか大学ダメ!ってなったら就職ニートか死しか残されてなくない?素直に死ぬか?wあーヤダな。波風立てたくないし好かれたいし嫌われたくないしなんか意味もなくめっちゃ評価されたいな。は?何甘えてんだボケカス

ここまでクソな人間たことない。適職診断とかよくさせられるけど、適職とかマジないからハナからやらないほうがいいよ。

何やってんだろな 唯一見つかったかもしれないやりたいことを否定されて振り出しに戻ったな 私は何がしたいんだろう、ていうか社会に出て何ができるんだろ?どうせ死ぬまでこんな誰にも見られないようなクソ長文の弱音と愚痴ネットの海に投げて自己嫌悪してるんだろうな

な~~んにもしたくないな ずっとTwitterタイムラインにかじりついていたいな 今からバイト探してもすぐ辞めるのわかってる進路未定の高校生なんて誰も採ってくれないよな。マジで嫌だな……何のために生きてるんだろうか……すごい疑問……長いな、この文章……

頑張るってな~んだ!(虚無)

 今私は高校三年生で、時期的にはまさに就職大学専門学校かと進路を決めて周りの人間が頑張っているであろう時期なんだけど、何一つ頑張ってない。努力もしてない。というかよくわからない。努力とか頑張ってるとかってなんだ?誰の基準なんだ?自分か?他人か?

「何がしたいか」なんて聞かれてもなにも思いつかないし、ましてや将来の夢なんてなにもない。強いて言うなら絵を描くことだけは小学生の時から好きだった。って言ってもクオリティは大したことないし、服とか小物描くのは苦手だし男も描けない。背景も描けない。女(しかも肩から上)しか描けない典型的底辺絵描きなんだけど、この間学校の進路ガイダンスに行って、専門学校もいいかもなとちょっと思った。今まで進路のこととか本当に考えずに過ごしてきたから「今?」って感じだけど、イラストといえば小学生のころから唯一続いてきた趣味でもあったし、好きだから

 昨日、成り行きでその進路ガイダンスにあったパンフレット学校説明会にひとりで行った。ちょっとから思ってた「キャラクターデザインとかやりたい」っていう思いが若干強くなって、いい話も聞いて、ルンルンしながら家に帰った。でも、家に帰って即行お父さんにガッツリダメだ」って言われて、なんかお先真っ暗みたいな気持ちになった。

イラスト業界に進んで金もらえる人間なんて一握りだ。お前がその一握りになれるか?」

「せめてもうちょっと現実的専門学校だったらまだいいよと言えたかもしれないけどイラスト業界ダメ

 まぁ、わかる。私もそっちに進んで安定した金をもらえる自身もないし、今のところ技術もない。それはこの歳になる前からでも思っていたことだし、その道に進んでもずっと考えてると思う。それに、イラストレーターとかデザイナーとかで働いてる人がなんだか違う次元の人のように思えて、現実味がなかったこともある。実際咲けてない漫画家が知り合いにいるし、難しい世界なのはわかっている。かといってそこで根性発揮してくらいついていける自信も根拠も親の信用もないし、この時点で「イラスト関連の専門学校は無理かな」と自分でも思っていた。親の言葉くらいで簡単あきらめるようじゃ、せいぜいこれから趣味レベルでやっていくのが私の限界なんだろとも思っていた。

 私がお父さんに腹を立てているのは、専門学校に行きたいと言ったことを真っ向から否定されたからではない。大したクオリティではないとはいえ、私が小学生のころから八年程続けられてきた唯一の趣味を「所詮お遊びレベルだ」と一蹴されたことだ。

 私は昔から、なにをやらせても中途半端三日坊主だった。音楽番組に影響されたお母さんに触発されてなんとなくでギターを買いたいだのと言いだし、そのギターはここ数か月クローゼットの中だ。小説っぽいものを書くのも好きだが、極めようとはしていない。せいぜい私の書くものを好きだと言ってくれる数人に見せているだけのようなものだ。作曲作詞にも興味はあるが、せいぜい興味があるレベルで、作曲勉強をしようとはしていないし作詞もただ思春期女の痛いポエムしかない。言ってしまえば生産性が皆無だ。先述したが絵のクオリティも「これどうなん?w」という感じだし、まあそりゃ本気でやってる人からすればお遊びだといわれても仕方ないような人生だ。ただそれを、小学生のころから絵を見せて「上手くなったな」などと言ってくれていたお父さんにガッツリ否定されて本気で傷ついてしまっている。実際図星しかないのでさらに腹が立ったんだろう。

「今までギターをやりたいというからギターも買ったし、絵を描きたいというから液タブも買わせたが、俺からすればお前のやってることは全部お遊びだ。イラスト関連の道に進みたいといわれても、これ以上お前のお遊びに俺たちを付き合わせるなとしか思えない」

 と言われた。言われたのは昨日のことなので、超ハッキリと覚えている。あーあ、と思った。今までお父さんは私のやることなすことに対してそんな風に思っていたのかと。

 その流れで「もしその道に進んだとして、途中で投げ出したらそのウン百万はドブに捨てたことになるんだぞ」とも言われ、これもまた私を傷つけた。私は高校一年生の時にそれなりに苦労して入った全日制の高校を辞めて通信制に転学している。その全日制に入るために進学塾に通ったりとまあ色々と金を使ったわけだが、お父さんはその金をドブに捨てたと思っていたんだと気付いた。それは、金を払っている親の立場からすればかもしれないし、私もいつか親になって多額の金を出して入った場所をやめたいなんて言い出したら「は?」と思うかもしれない。でもその時の私も余裕がなかったし、この心理状況で全日制の高校毎日通って単位を取って卒業するなんて無理だと思ったので、ほぼ勢いで転学を決めた。それまでも金が無駄になることや、憧れていた全日高校とずっと着たかった制服への未練が捨てきれず悩んだりもした。そこで小学生のころからお世話になっていた塾の先生に「経験無駄にならない」という趣旨で励まされてなんとかここまで来たものの、今になって「ドブに捨てた」なんて言われても私はどうすればいいのかわからない。いや、実際には話的には専門学校に行くために払う多額の金の話であって、私が辞めた全日制の話はひとつもされていない。ただの私の被害妄想しかない。

 ここまで書いて自分が何を言いたいのかよくわからなくなってきたが、別にどこかに出す正式文章でもないので開き直って続けることにする。

 最初に言っていた「頑張っていない」「努力していない」「そもそもよくわからない」という話に戻るが、私は本当に頑張るということができない。進学塾に通っている頃も私は自分で頑張っていると思い込んでいたが、先生に「お前は頑張ってない」と一喝され、普通に足りていないことを自覚した。かといってそれから特に何か伸ばそうとすることもせず、課題も「めんどくさい」からとやらなかったり、先生強制されていた毎日自習も渋っていた(先生は私が家にいると全く勉強しないことを知っているので強制していた)。

 周りの人間は、私が見る限り頑張っていた。暗記のテストもいい点数を出すし、課題も全部やってくる。当たり前だと言われればそれまでだが、私はその当たり前ができなかった。頑張るということがよくわからないし、めんどくさい。別にそこまでして高校行きたくないし……と思っていた。その「頑張れない」ということをはっきり自覚たころ、スクールカウンセラー先生などと喋る機会があったのだが、その時は「無理に頑張ろうとしなくてもいい」などと言ってもらえた。「頑張れないのが悪いんじゃなくて、当たり前のことを当たり前にできる人がすごい」とも聞いた。一時はその言葉に救われたのだが、よく考えると私は「頑張れない」のではなく「頑張ることから逃げているだけのクズなのではないか」とふと気づいてしまい、そこからはいもの自己嫌悪だ。中学のころからずっと自己嫌悪だけは止まらない。自己PR欄書けるような長所と言えば「学校生活で掃除をさぼったこしかありません」ぐらいのことしかないが、普通に特技を聞かれれば自己嫌悪となんでもマイナス思考で考えることだと思う。

 このネガティブ思考のことについて考え始めるとマジで負の連鎖に陥るのでやめたほうがいいのはわかっているが、ポジティブに考えるというのが全くできない。えっ、私は何が言いたいんだろう……突然正気になってしまった……

 とにかく、頑張れない。頑張るのがめんどくさい。ただそれだけだ。マジでめんどくさい。何をするのもめんどくさい。風呂に入るのもめんどくさいし、そのあと髪を乾かすのもめんどくさいし、パソコンを使うためにリビングから自分の部屋まで移動するのもめんどくさいし、液タブを使うために線を繋ぐのもめんどくさいし、趣味の絵の練習ですらめんどくさい。痩せたいとは思うがストレッチは二度と続いた試しがないし、結局大して太ってないからいいだろと思考停止して終了。なるほど、クズだな。

 ここまで長々と意味の分からない言い訳を綴ってきたけど、結局何が言いたいってなにするのもめんどくさいっていうことなんだよな。あーやだな。自己嫌悪止まんねえな。どーーーーーせ陰キャコミュ障クソオタクの私は誰からも愛されずに親の死んだ実家孤独死するんだろうな……ウケる

 マジで頑張るのめんどくさいし、進路な~~~~んにも考えたくない。てか金ないし覚悟いか専門学校ダメ!じゃあどうせ金はないし勉強もしてないか大学ダメ!ってなったら就職ニートか死しか残されてなくない?素直に死ぬか?wあーヤダな。波風立てたくないし好かれたいし嫌われたくないしなんか意味もなくめっちゃ評価されたいな。は?何甘えてんだボケカス

 ここまでクソな人間たことない。適職診断とかよくさせられるけど、適職とかマジないからハナからやらないほうがいいよ。

 何やってんだろな 唯一見つかったかもしれないやりたいことを否定されて振り出しに戻ったな 私は何がしたいんだろう、ていうか社会に出て何ができるんだろ?どうせ死ぬまでこんな誰にも見られないようなクソ長文の弱音と愚痴ネットの海に投げて自己嫌悪してるんだろうな

 な~~んにもしたくないな ずっとTwitterタイムラインにかじりついていたいな 今からバイト探してもすぐ辞めるのわかってる進路未定の高校生なんて誰も採ってくれないよな。マジで嫌だな……何のために生きてるんだろうか……すごい疑問……長いな、この文章……

2019-05-30

生誕地ガチャ、両親ガチャ

大人になり社会へ出てから、本人の努力よりも、どの土地のどんな両親のもとに生まれ落ちたのかという事が、人生の大きな部分を決めてしまうことを痛感した。

自分は、人よりも牛の方が多い、ど田舎に産まれた。

両親も含め、おそらく江戸時代に遡ったとしても、先祖代々この地を離れたことがないと思われる。

周囲も親戚も大学学者はおらず、同級生ほとんどが地元高校卒業して、そのまま地元で職に就き、地元配偶者を探し、そこで一生を終える。

別に、そのような生き方否定するつもりはない。幸福かどうかなんて、全くもって主観的問題なのだから

ところが、自分理系に憧れを抱くようになり、やがて研究者になりたいと思うようになった。

そのためには、どうやら大学へ進学しなければならない事もわかってきた。

でも、上述の通り理系はおろか、大学出身者なんて学校先生くらいしかいなかった。

田舎なので、大きな本屋へ行くには、チャリで30分の無人駅にたどり着いてからさら電車に乗って1時間ほどの街へ出るしか無かった。

もちろん、周囲には図書館進学塾予備校も無い。

そんなわけで、そもそもどんな勉強をしたら大学へ進学できるのかさえわからなかったが、街へ出る機会を利用して学習参考書をゲットしたりして、何とかやや都会寄りの国立大学に進学することができた。

大学時代の成績は学科トップであったため、3年次で飛び級して1年分の学費を浮かせるという条件で進学を渋る両親を何とか説得して、大学院まで通わせてもらった。

大学院修了後は、運良くメーカー研究職に入り込むことができた。しかし、周囲は東大京大出の秀才ばかりだった。

同期もこの2大学だけで過半数、残りを他の旧帝大出身者が占めるという感じで、入社式の後に各大学出身者ごとに集まって歓迎会を開いたりしていた様だが、自分が出た大学出身者は、未だに後にも先にも自分だけだ。

うちの会社も、就職氷河期さなかに、よく自分みたいな人間を拾ってくれたものだ。

さて、入社当時は学歴コンプレックスを相当に感じていたが、彼らと付き合ううちに、能力的にはそんなに自分と変わるわけでは無いということに気づきコンプレックスはだいぶ緩和した。

彼らの多くは都会出身者だったり、親が大学教授だったりするなど、単に自分とは生まれ落ちた場所環境が違っただけだった。でも、彼らは、それは努力の結果であると信じて疑わず、運良く恵まれ環境に生まれ落ちたことには、あまり気づいていないようだ。

とりわけ、自分のような田舎者と大きく違うと感じるのは、文化への造詣の深さだった。

彼らの多くは、勉強以外に音楽等の習い事をさせてもらっており、大人になってから趣味として続けている場合が多い。

そうした習い事ができたのも、実家金銭的な余裕があったからだろうし、やはり生まれ落ちた環境の影響は大きい。

自分習い事なんて一つもさせてもらえなかったので、その点、未だに彼らが羨ましいと思いつつ、自分の子どもたちは習い事に通わせている。

2019-04-13

お父さんお母さん、私に謝ってください

自分の気持の整理のために書き連ねる。自分語りで相当長い。


昭和生まれ就職氷河期経験済みのアラフォー

二歳年上の兄(長男)がいる。自分は長女だ。

幼い頃は特に兄と自分への待遇に差を感じたことはなかった。

親は団塊世代で当時は給料右肩上がり時代で、それなりの中流家庭だったと思う。

習い事などもどちらもそれぞれ好きにやらせてもらえていた。

兄が通っていた地元の塾に自分も行かせてもらい、兄は一足先に中学受験をして某私立中高一貫校へ進学した。

自分最初の塾(兄と同じ)で、『御三家も狙える』と言われ、有名な大手進学塾へ通うようになった。

毎週土日のどちらかには親に連れて行ってもらって都内テストを受けに行き、自分純粋に楽しんでいたが、それに付きあう親は大変だったろうと思う。


そしてその頃から、どうやら兄は道を徐々に踏み外していったらしい。

具体的に中学生の兄の身に何があってそうなったのかは今でも知らない。

兄は万引きなど軽犯罪を繰り返すようになり、親が警察に行くこともたびたびあった(当時、自分にはそれらの事実は知らされなかった)。

自分と兄はひとつ屋根の下暮らしていたが、部屋は別々で元々仲の良い兄妹でもなかったし、

自分中学高校御三家の一つに受かった)で良い友人に恵まれ学生生活を楽しんでいて、兄のことはほぼ眼中になかった。

ただ、それでも兄や両親を見ていて、『兄が道を踏み外しつつある』こと、『親が兄の対応で大変らしいこと』は雰囲気でわかった。

から自分まで親に負担をかけてはいけないな、と子供ながらに思っていた。

別に親のためにいい子でいようと思ったわけではない。

道を踏み外していく兄を尊敬できなかった、いや、心から軽蔑していた。ああはなりたくない、と思っていただけだ。

学校の友人の兄弟はみな出来が良くて、どこに出しても恥ずかしくない「まっとうな」人達で、比べると自分の兄が恥ずかしかった。

学歴なんかの問題じゃない、今でもそれで兄を差別する気はない。

犯罪を犯すこと(万引き以外にも路駐やら何かでしょっちゅう警察から電話があった。警察バカにし、遵法精神などまるでなかった)、

それで親に多大なる迷惑と心労をかけていたこと、それを反省もせずにまた繰り返すこと。

兄の心理など知る由もないし、なにか彼の思春期問題があったのかもしれない。

だがだからといって兄の行為正当化される訳もない。繰り返すならなおさら弁護の余地もない。

私は心の底から兄を嫌い、軽蔑し、しかし表にはそれを出さずに、ただ兄とは接触しないようにしていた。

(なぜなら、兄は短気で暴力に訴える人間だったからだ。一度自分がそういった態度を見せた時、夜中に枕元に金属バッドを持ってすごんできたのは忘れられない。

  そしてそういった基質もまた、私の兄への侮蔑をより強める結果になった)



そして兄は高校を(なんとか)卒業し、大学へは行かずにフリーターになった。

親はどこでもいいか大学へ行かせたかったようだが、兄本人が『大学でやりたいことがない』と進学しなかった(ここは兄が正しいと思う)。

ありがちな話だが、兄は音楽の道を進もうとしたらしい。バンドを組んで、いわゆるバンドマンになった。

音楽活動の実態は何をしてるのかさっぱりわからなかったが、さほど身を入れてやっている様子もなく、芽も出なかった。だが諦めきれないのか、フリーターをしながらだらだらと続けていた。

自分高校卒業大学へ進学した後も、兄はその生活をしばらく続けていた。

そのうち、兄は一人の女性(Aさん)と知り合った。そして二人は結婚を考える仲になった。

Aさんはとても良い女性だった。自分や両親とも仲良くしてくれて、兄は大嫌いだがこんな姉ができるなんてほんとに嬉しい、ようやく兄が自分にとって良い行いをしてくれたと思った。

しかしここで、両親は最大の過ちを犯した。

何を思ったのか、兄にマンションを買い与えたのだ。親の名義でローンを組んで、兄と彼女の新居にしろと兄に与えた。

フリーターの兄に月々のマンションに係る支払が払えるはずもない。それはすべて親が払っていたのだ。しか結婚も確定しないうちに買って与えた。

呆気に取られた。納得できないが親の気持ちになって考えてみれば、『Aさんに逃げられないように、住居が確定していれば結婚生活も楽になるだろう』ということだったのかもしれない。

『妹は大学へ行かせてやったのだから、兄にも何か与えねば』と思ったのかもしれない(しか自分国立大で、学費トータルしてもマンション費用20%にもならないのだが)。

兄は別に特段の感謝をする様子でもなく、当たり前のようにそれを受け取った。

そしてその後、結婚が決まっても一向に定職につこうとせずに自堕落生活を続ける兄は、Aさんに愛想をつかされて結婚前に出ていかれた。

(兄はAさんに入れ込んでいたらしく相当なショックを受けていたが、自分から見れば当たり前だばーかしか思えなかった)


この頃からだろうか、自分が『親は兄を贔屓している』と思うようになったのは。正確には、『親は兄を甘やかしている(自分には厳しいのに)』と感じ始めたのは。


自分は親に言われた。『私立大に行かせる金はないし仕送りをする余裕もないから、家から通える国立大しろ』と。

親の言うことに従おうとしたわけではなかったが、自分の行きたい大学はその条件を満たしていたので、結果として親ののぞみを叶えた形になった。

しかし心のどこかに、『親ののぞみを叶えたい』という気持ちがなかったとは言えない。兄で苦労させられている親を見てきて、自分だけは親が誇れる子供でいようとしたのかもしれない。

通おうと思えば通えたが、一人暮らしに憧れていたこともあり、親の援助は一切受けずに一人暮らしを始めた。貯金バイトでなんとかまかない、4年間それを続けた。

親が兄にマンションを買い与えるまではそれも納得していた。だが、親がそれをした時、自分の中で不公平だという気持ちが生じた。

根底に『「親に迷惑ばかりかける穀潰しろくでなしの」兄に、なぜそんなに金をかけて甘やかすのか?』という考えも当然あった。

自分にとって兄は「いないほうがマシ」で、存在する事で何もいいことがない、迷惑なだけの存在だった。

グレてようがフリーターだろうが、優しい兄なら愛せたろう。だが、兄としての優しさを見せてくれたことなど数える程もない(その数回も小学生以下の時だけ)。

家庭を持って子を為し、親に孫の顔を見せて安心させてくれたなら、「普通」で「まっとう」な人間になってくれたなら、それで兄を見直すこともできただろう。

しかし兄は正真正銘クズなので、逆の道にしか行かなかったのだ(それについては後述)。自分が兄を見直す機会はおそらく死ぬまで来ないだろう。

(余談だが、なかにし礼氏の小説再現ドラマ(兄との関係を描いたもの)を見た時、心からなかにし礼氏に共感した。自堕落でお調子者で弟にとって迷惑な兄。

なかにし礼氏が兄の葬式後につぶやく、『兄さん、死んでくれてありがとう』がわかりすぎて辛かった。

何年先かわからないが、おそらく自分も兄が死んだ時、『死んでくれてありがとう』と心から思うだろう。自分が先に死ぬかもしれないが)



Aさんに逃げられた後、しばらく兄は自堕落生活をしていた(親が金を払っているマンションで一人ぐらし)。

自分は何度も親に『マンションから出て行かせろ、でなければ兄は自立できない』と言ったが、親は『そんなこと実際にできるわけがない』『目の届かないところに行かせるほうが不安だ』と言って聞かなかった。

この頃から自分の中で『兄が駄目になったのは親の(甘やかしの)せいではないのか』『親は己の見栄しか考えてないのではないか』という疑念が湧いてきた。

やがて自分大学卒業して、氷河期の中なんとか上場企業就職を決めた。

希望の会から内定が出ず、文系プログラムなど全くわからないのにSEになることになったが、就職できただけでよしとするしかなかった。

親の反応は『とりあえず上場企業から、外への体裁が整った』というものだった。親にとって自分は見栄のための存在なのだなということが、徐々にわかってきていた。

同じ頃、兄もようやく某リフォーム会社営業として働きはじめた。

兄の営業成績は良かった(もともと外面だけは良い)ので、いっとき小金持ちになれたらしい。外車を買ったが、マンションの金を親に返す気はさらさら無いようだった。

その外車ポンコツなのかあるいは外車とはそういうものなのか、しょっちゅう壊れて修理代がかかった。あまり乗らないせいもあっただろう。

乗らないのなら売ればいいのに『売っても二束三文しかならない』と兄は言い張り、親はなぜか修理代を肩代わりして払ってやっていた。

(散々修理代を払って直して、最後にはやはり壊れ、ろくに乗りもしないままに結局二束三文で売ったようだった)

マンションの支払いは親が続けていた。このころようやく、月々の管理費や積立金などの維持費だけは兄が支払うようになったようだった。

そのうち、バツイチ子持ちの女性Bさんと知り合い、今度は結婚した。Bさんについては自分ほとんど知らない。

その頃自分は向いていない仕事かつ長時間労働で心身を病みかけており、朝焼けの街を徹夜明けで泣きながら一人家路についたりしていたので、兄のことなど構う暇もなかった。

結婚式には一応出た。ストレスで過食気味になりむくんだ顔の自分愛想笑いを浮かべて写っている写真は見返したくもない。

兄の結婚になんの感慨もなく、『これで普通人間になってくれれば』と願っただけだった。兄に望むただ一つのことは『普通の家庭を築いてくれ』で、それ以上は望まなかった。


予想していたが、兄の結婚生活は長くは続かなかった。

営業成績が良いのに浮かれ、独立すると言って仕事を辞めた兄だったが、ろくなノウハウもない個人リフォーム営業がそうそう上手く行くわけもない。

あっという間に生活は行き詰まり、さっさとBさんに逃げられた(どうやら浮気されていたようだが、それを追い詰める気力もなかったようだった)。

そしてまた、マンションで自堕落生活に戻った(もちろんマンション維持費は親払いに戻った)。

自分はずっと『兄を甘やかしすぎだ、マンションから追い出せ、マンションを売ってしまえ、でなければ兄は自立しない』と親に言い続けていたが、ずっとでもでもだってで聞き流された。

『(万引きなどの)前科があるから、追い出したら何をするかわからない。もっと悪いことになるかもしれない』『どれだけ言ってもあいつはこちらの言うことを聞かない』。これが親の言い分だった。

しみじみ、親も兄も情けなく、どうしようもないと思った。『お前は冷たい』と言われた。

そもそも最初にあれが道を踏み外した時、お前の中学受験にかかりきりで、親としてろくに関わってやれなかったのが悪かったから』と。

そう言われて自分にどうしろと? 責任を感じろというのだろうか? もうとっくに成人していい年になった兄を憐れめと? 親でもない自分がなぜ親と同じ感情を共有せねばならないのか?

『ずっとそう言い続けて兄を甘やかして、それで状況が好転たか? 好転する見込みがあるというのか? 兄の自立を妨げているだけではないのか?』

そう言っても、親は同じ言い訳を繰り返して兄への甘やかし(マンション与え)をやめようとしなかった。 

自分の中で、兄への嫌悪と親への嫌悪比率は徐々に逆転していった。兄がどれほどのクズだろうが、どんな人生を送ろうがもはやどうでもいい。

自分と同じ親のもとで、恵まれ環境で育ったにも関わらず、兄は自ら堕ちていったのだ。兄の人生は兄のもの、好きに生きればいいしどこでのたれ死のうが勝手にすればいい。

兄よりも、そんな兄を甘やかし続ける親のほうに不信と不満が募っていった。なるほど、親がこうして甘やかすから兄は更生できないのだと納得した。

そして『兄が自分よりも甘やかされてる事実』にどうしても納得できなかった。自分特別扱いしろというのではない、兄を特別扱いするのが耐えられなかったのだ。同じ子供として平等に扱ってほしかった。

自分大学時代、兄は親が与えたマンションゆうゆう一人暮らしして、自分仕送りを一切受けられずに生活費のすべてを自力で稼いだ。

就職してから、兄は親が与えたマンションで好き勝手暮らして、自分は親に金を入れていた。家に金を入れるのは当然だと思う気持ちもあったが、理不尽だと思う気持ちはどうしても拭えなかった。

その気持ちに耐えられず、『兄と比べてあまりにも不平等だ、兄にも金を支払わせろ、兄を甘やかすのもいい加減にしろ』と泣いて言ったら、『じゃあこれからお前も金は入れなくていい』と言われた(そうじゃないだろ)。


家庭のことや仕事ことなど色々あり、結局自分新卒で入った会社を3年ほどで辞めてしまった。親に『30までにやりたい道(フリーランス)で食っていく目処をたてる』と誓い、宣言どおりに28で目処を立てた。

兄は親が見つけてきた非正規パート仕事をなんとかこなし、その頃にはそこそこ年季も入って板についてきていた。新しい彼女(Cさん)もできたようで、マンションで一緒に暮らし始めた。

だが、そんな矢先。兄が、クスリで捕まった。

最初に一報を聞いた時、親はともかく、自分は『まあ、あるだろうな。やっぱりな』としか思わなかった(基本的に兄の人格を信頼していないので、何を起こしたと聞いても『やりかねない』としか思わない)。

もちろん家族の誰も気づいていなかった。家族の目の届かないマンションでずっとやってきたものらしい。

自分は『言わんこっちゃない、だからマンションから追い出せとあれほど言ったのに、甘やかし続けた結果がこれだ』と親に言った。親は『そんなこと今更言っても仕方ない』としか言わなかった。

そこからの詳細は省くが、兄は執行猶予がついて戻ってきて、兄を見捨てなかったCさん(菩薩かよ)と今でも親の与えたマンション暮らしている。Cさんが見張っているので再犯はないと思いたい。

Cさんには敬意と感謝しかない。彼女がいなかったら兄はもっとだめになっただろう。

しばらくCさんに食わせてもらっていた兄だが、今はまた派遣で職について、そこでの仕事軌道にのってきたようだ。今度こそは歳も歳なので落ち着いたと思いたい。

(ちなみに、また維持費だけは払うようになったが、購入費は一切払っておらず、名義は父のまま。毎年実家よりも高い固定資産税を払っているのも父)



兄はもうどうでもよく、二度と犯罪を犯すなCさんにだけは迷惑をかけるなCさんだけは大切にしろしか思っていない。

残念なことに、自分の中で兄の見方が変わることはこの先死ぬまでない。今の兄と表面上でも付き合えるのはCさんあってこそだ。Cさんを姉と慕っても、兄を兄と慕うことは生涯ない。

きょうだい他人の始まりとはよく言ったもので、兄への気持ちはもうこれでいいと落ち着いている。

だが、「未だに」なのか、「今だからこそ今まで積もり積もったものが」なのか、自分の中で親へのわだかまりだけはどうしても消えない。考えると落ち着かず、心がざわつく。

もう親も老い自分もいい年だ。親も人間であり、それも見栄っぱりで子供平等に扱わず贔屓するようなできの悪い人間だったんだと納得するしかないとわかっているのに、

自分はどうしても、親に『自分たちが間違っていた』と言ってほしい。子育ての過ちを認め、自分がどれほど辛い思いをしたか理解し、悪かったと謝ってほしい。

だが、過去喧嘩した時の経験から、親は絶対自分の過ちを認めない、ましてや子供から言われる言葉を決して正面から受け止めないとわかっている。

『それが親に対して言う言葉か』『何様のつもりだ』『はいはい、全部こっちのせいだって言いたいんでしょう』…そう言って絶対絶対自分の過ちを認めない。老いた今、なおさら頑なになり認めないだろう。



自分自分なりに、親の期待には応えてきたと思う。教育で親に金をかけてもらった事は感謝しているが、それだけの成果をちゃんと出し、結果をだした。

なのになぜ、自分は兄と同じに扱われなかったのだろう。自分けが要求され、応え続けねばならず、それなのにそれを評価もされなかったのだろう。

これを言うと嫌な人間だと思われるだろうが、客観的に見て自分のほうが親に貢献しているしまともな人間として育った(少なくとも前科ものでなく、親に迷惑をかけていない)という自負があるだけに、やるせない思いがある。

本来なら自分のほうが親に贔屓されて然るべきではないのかという思いがあることは否定しないが、贔屓してほしいとは言わないしするべきでもない。

ただ自分に求めるものは兄にも求め、兄に与えたもの自分にも与えてほしい、子供の間に差をつけないで平等に接してほしかっただけだ。

男女の差だというのならばなおさら、兄には『長男』としての役割と責務を求めるべきだったろうに、なぜ私が長男役割も果たさねばならないのだろう。

兄が結婚した時、自分は『兄が孫を作ってくれたらそれだけが兄の親孝行だ、自分にも兄がいた意味がある。せめてそれくらい孝行しやがれ』とわずかに期待したが、兄は子供を作る間もなく離婚した(そもそも作る気もない)。

母は自分にだけ言う、兄には絶対に言わないのに、『老後の楽しみがほしい、孫が見たい』と。

子供はジジババの楽しみのために産むもんじゃねえし産んでおしまいじゃない、何ならあなたがたが育ててくれんの? 育てる金あるの? と応えたら沈黙した。

そんなに孫が見たいなら兄に言ってくれ、男なんだから自分よりよほど確率が高いだろうと言ったら、『あの子に育てられるわけがない』。『何を言っても無駄』と言って、兄には20年以上何も要求しない。

精子バンクとかあるでしょう』『50歳で産んだって例もあるし』とまで言われた日には本当に失望した。

50歳で産んだ女性はほぼ卵子提供で母方の遺伝子は入らないし、養子じゃ嫌だってんならそれ(母方の遺伝子が入らない)も嫌なんだろうに。

そもそも出産までにどれだけ苦労したか流産だって何度も経験してるはず)、不妊治療にどれだけお金がかかったかわかってて言っているのか、そして不妊治療高齢出産がどれだけ母体負担がかかると思っているのか。

娘の体など、自分の楽しみのためにはどうなってもいいのだろう。

孫の立場にしたって、父親がいない家庭に生まれることになるのだが、そういったことを考えてもいないのだろう。ただ、自分が欲しいから、だ。 

私の結婚も、自分の見栄だけのためにしてほしかったらしい。大切なのは見栄と体裁で、娘の幸福などどうでもよかった。

結婚しない女はなにか問題があると思われる』なんて言われても、それはあなただけの醜い価値観だろう、未婚率が三割の時代にそんな事思うほうが少数派だ。

図らずも未婚女性への「己の偏見」を曝け出したことにも気づかずに、『あなたのために言っている、それが世間だ』などと諭してくる醜さ。兄にも同じことを言えばいいのに。

結婚しろ』と言われるのが嫌で、それを避けるために誰でもいい、一回結婚さえすれば文句を言われまいと思って結婚したけれど、上手く行くわけもなく2年も経たずに破綻

(付き合っていた人とは、兄の事件で別れざるを得なかった。結婚した人には家族ぐるみで兄のことを隠した。そんな結婚うまくいくわけもなかったし相手には申し訳ないことをしたと思う)

その時の言葉も『せめて2年は持たせろ、外聞が悪い』『相手の親に私(母)の顔が立たない』『どうせお前のわがままだろう』…出てくるのは己の見栄と体裁のための言葉だけで、一度も娘の心情を慮る言葉は出てこなかった。

兄が同じように2年程度で破綻した時、兄に同じ言葉を突きつけたなら、そういう人なのだと納得もできたかもしれない。だが、兄の離婚に関して親は兄に何も言わなかったのだ。

(主に要求を突きつけ言ってくるのは Permalink | 記事への反応(7) | 00:37

2019-04-03

anond:20190403152304

文章を書くとき主観的になりきる(感情移入する)必要があるが、プログラム客観的メタな考え方でつくる必要がある

コンピュータシステム立場になって考えている。UMLユースケース図は証左。たぶん、増田コンピュータ感情移入できないから、そのように思うのだろう。クルマを愛車と呼ぶのか、単なる移動手段の一機械しか思えないか。どちらが良い悪いは無いけど。

プログラム意味や内容がわかっていないことについて書けない

⇨かつてはやり直しコストが高かったのでウォーターフォールモデルが主流だったが、現在WYSIWYGのごとく、コードを書いて、動かしてみて、検討しなおしてコードを書く、といった繰り返しで調整して作っていくこともそんなに変ではない。

作りたい成果物が決まっているのは、文章も何らかの意図を持って書くのだから一緒。

私の結論プログラム言語は、英語にも増した世界共通言語(よく変わるけど…何処かの進学塾のセンセが書いていたけど、数式のほうがさら普遍性が高い)

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