はてなキーワード: 狭間とは
教授「木を見て森を見ず。全体を見て。そうこれは変態です。変態を見たことがありますか」
学生「ええ。以前に一度付きまとわれて」
教授「なるほど。どうやら君は変態に好かれるらしい。ところで私と結婚してくれませんか」
教授「確かにそういう考え方もありますね。聞き方を変えましょう。私と恋人になってくれませんか」
教授「そんな話は聞いていないが」
学生「夫と離婚するつもりはありません。私は夫を愛していますから」
教授「愛していると。それはつまり私に対しても同様の気持ちを持っていると解釈してよろしいわけですね」
学生「よろしくないです」
教授「なんとも手厳しい」
学生「そんなことより教授室でふたりきり、こんなことをしてただで済むと思っているのですか」
教授「アカデミックハラスメントですか」
学生「柔らかい言い方をすればそうなります。しかしこれは性犯罪だと私は思います」
教授「ここに指輪を用意してあります。君に贈るために科研費で買いました」
教授「安心してください。伝票は上手いこと改ざんしておきましたから」
学生「残念ながら教授の気持ちにお応えすることはできません。あと今警察を呼びましたので」
教授「仮にそうだとしても私はもっと優秀です。しかも変態ですよ」
学生「だからどうしたんですか。あなたは今から逮捕されるんですよ」
教授「容疑はなんですか」
学生「さあ。わいせつ物陳列罪だとか強制わいせつ罪だとか。とにかくわいせつと名のつく犯罪だと思います」
学生「虚勢を張るのはもうやめてください」
教授「この指輪は伸縮自在。そして時間移動も自由自在なのです」
学生「そんなこと誰が信じると言うのですか」
教授「今から過去に移動すれば、私が警察に逮捕されることはありません」
学生「気でも触れたのですか」
教授「容疑は何ですか」
学生「そこに、あっ!」 そこはまるで空間が切り取られたかのように何もなかった。
半径20cmにしか作用しないタイムマシン。教授の股間は今どこにあるのだろう。時空の狭間を漂っているのか。はたまた過去のどこかに現われたのか。過去の空を舞う教授のペニスに思いを馳せながら私は研究室を後にした。
よう、冬季オリンピック正式種目化を目指して、クリスマス・男子シングル&女子シングルの練習に余念がないな!
あと一週間遅ければ「オレ日本の未来に真剣だから政治活動してたんだ」って言えたのにな。
まあ期日前投票も別にペナルティーとか無いから、今日行っちゃっても良いんだけどな。寒波がな。
さて、家を買うだ建てるだってのは大抵の場合オオゴトなんだが、実はイメージが大きく影響する。
・偉そう
・息がくさい
・すぐローンの審査申し込ませようとする
・考える時間を与えずハンコ押させようとする
コレ、冗談だと思った人が多いだろうし本人も冗談のつもりかも知れないが、笑えない。
実は、家の購入を印象と勢いで決める人は意外なほどに多い。
そこで、最低限これぐらいは考えても良いよなぁという点だけ愚痴っておきたい。
限られた土地に身を寄せ合って定期的な嵐や雪に耐え、
凍えるような寒さになったり焼けつくような熱さになったり嬉しいぐらいに住みにくい。
ホーンテッドマンションの事じゃないぞ。高温多湿低温乾燥を繰り返す我らが日本の話だ。
そう、環境が特殊でちょっと尋常じゃないエクストリーム住まいなワケだ。
東北地方で「東風吹かば」とか菅原道真でもグーで殴られるレベルの暴言であって、
つまり「京都だけが日本じゃねえよ、やませとか勘弁してくれよマジで」であって、
要は日本は土地土地によって大きく異なりますよ、という普通の話をしたいわけだ。
一般的にはとか、平均的にはとか、人は周りの影響を結構受けやすい。
奥さん食器洗い乾燥機のビルトインとか普通ですよ最近は床暖房も皆さんお使いですよ畳は和紙が流行で、なんてな台詞は良く言うわけだ。
で、最近は映画でニュースとか見ないだろ。スマホだろ。口コミも世界規模ですよ奥さん。
するとどうなるか。
旭川ぐらい判りやすいエクストリームっぽさがあれば、流石に那覇を参考にはしないわな。
じゃあ、滋賀と茨城だったらどうだ?神戸と横浜は似てるか?江戸川と練馬ならどうだ?
大手町と八王子でずいぶん気候が違うのは頭では理解してても、建築になると忘れがちだ。
人はパンのみにて生きるにあらず、生まれ変わってインドで修行してえなあと思っても、とりあえずは現世で頑張るしかないわけだ。
じゃあ、せめて我が家は住みよくしたいな。
ただ、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)は、木造軸組構法より頑丈だ。
床上浸水も河川の決壊も、マンションの高層ならあまり関係が無い。(まあエレベーターは結構浸水に弱いが)
いまさらっと書いたが、マンションってのは土地の有効活用って意味に加えて、
富豪じゃなくても鉄骨鉄筋コンクリートの家を建てられるってポイントがあるわけだ。
みんなでちょっとずつわけあってだが。
違うが、やっぱり強いのは鉄骨鉄筋コンクリートなわけだ。
東京の旗竿地で既存不適格な木造一軒家リノベーションして賢く新生活だ!ってのは、止めないよ。
京都は町家を残そうと必死だし、実際古い木造建築には味がある。
それが悪いとは思わない。
良くも悪くも、日本ではまだまだ「どこに住んでも同じ」とはいかない。
そりゃ、息さわやかで買ってくれるならミントタブレットぐらい常時バリボリやりますわ。
営業員は売った家には住まないぞ。住むのは買う人だ(借りるのも同じな)。
それを忘れないで欲しい。じゃ、選挙には行けよ!
大学四回生の夏、下宿の扉に「出入禁止」とチョークで大書し、親を呼ばれて精神病院に連れて行かれた。
パソコンを買ってもらったのは小学三年生の冬だった。今でも覚えている。1996年12月2日のことだ。Windows95発売で世間は揺れていた。インターネット回線がうちに来たのは翌97年の1月、これはそこそこ早い導入だったと思う。さらに翌々年の99年にはケーブルテレビで常時接続になった。親には先見の明があったが、しかしパソコンには詳しくなかった。PC-8001も確かそうだ。親はこれが次世代の必需品になると確信して買っていたが、買った一方で使い道が分からなくてオブジェとして放置していた。親はPC-8001をパソコンだと言っていたけれど、僕にとってパソコンはおっきなテレビが標準で付属しているものだったし、マウスもなかったので、それがパソコンだとは到底思えなかった。でも親は言った。今度来るのは違うんだ、オフィスも入っているパソコンなんだ。僕は聞いた。一太郎っていうやつは入ってないの?テレビで言ってたよ、と。親は答えた。オフィスってのは一太郎より機能がスゴイんだよ。僕はへぇ、とだけ言った。どちらにせよペイントは入っているだろう。ペイントなら親戚の家で使わせてもらったことがある。パソコンはお絵かきができるのだ。マウスをカチカチして、キーボードをカチャカチャするのだけが楽しみで、納品の日を一週間ひたすら待った。その頃、漢字の宿題提出が滞っていて、そのままでは居残りでさせられることになっていた。僕は久々に奮起した。いつもは踏み倒していた宿題を、全部一気に終わらせた。家に帰るとパソコンが電気屋さんの手で設置されつつあった。今は亡き、ニノミヤで買われたパソコンであった。
97年にインターネットを始めた。一日一時間まで。実のところ電話代の問題ではなく、一時間ほど使うとブルースクリーンが発生するからだった。一日一時間以上動かすと壊れるから。PC-8001をキッチリ買った親なのに、それぐらいの(?)ITリテラシーであった。ただ別にそれを責めるつもりはない。僕はすぐにアングラサイトに入り浸った。人に飢えていたのだ。普通のチャットには人がいない。テレホタイムにならないと、誰一人ログイン氏亡いのだ。でも、アングラサイトなら四六時中書き込みがある。僕は思う存分厨房行為を楽しんだ。煽り騙りなんかは、小学生がやっても大人がやっても大して変わらないものだ。You is a big fool manという文句をリアルタイムで目にした人は、多くても数百人だっただろう。何千、何万のツイッタラーが押し寄せ、ブクマが1000以上付くような今の炎上とはほど遠い暢気さだ。当時の匿名掲示板とはそういうものだった。誰一人本気で投稿しなかったし、しかし誰一人面白くない書き込みをしようとはしなかった。トイレでもネタを考え、思いつけばすぐに投稿し、ワラタが付くのを待ち続ける。あやしい、あめぞう、あやしい、2ch。人の多いところから人の多いところへ。ワラタが多くもらえる場所へ。気づいたらインパクが終わっていた。
その一方で僕は中高一貫の私立校に入学していた。高校受験がないことから、ネット依存はさらに加速した。しかし2000年を境にアングラ掲示板は衰退の一途をたどり、2ch一強時代を迎えていた。1ch.tvをボコったりするなど楽しいネタがないわけではなかったが、匿名掲示板はネタの宝庫と言うより、本気でちゃんと議論することもできる場所になり始めていた。ちゃんと議論しようとしたらすぐさま崩しにかかるのが2ch隆盛以前の匿名掲示板文化であったが、2003年頃を境にはっきりと潮目が変わっていったように思う。まあその辺はどうでもいい。アングラと非アングラの境目は消え始めていた。
その狭間に、僕は生きていた。
自分で掲示板を設置することにした。けれども何をして良いのか分からない。CGIレスキューに救援要請をして本も買った。Perlだ。Perlしかない。しかしPerlがどうして動いているのかは、全く分からなかった。何十行、何百行もの文字の羅列が、どこでどうなって、掲示板になるのか。インタプリタ?コンパイラ?訳が分からない。そもそもCPUがどうやって動いているのかも分からない。僕にとってプログラムとは、セットアップウィザードでCD-ROMをギュンギュン言わせながらインストールするものであって、掲示板というものは、Teacupで借りるものだったからだ。でもどうやらそうじゃないらしい。コンピューターに翻訳するのがコンパイラです。さっそくコンパイラを使ってみましょう……
お手上げだった。
コンパイラがないのだ。コマンドプロンプトにはない。Linuxを入れる?使い方が分からない。Vine Linuxが初心者にお勧めだった頃の話だ。ボケッとしててもGNomeぐらいは動かせる程度には簡単になっていたが、そこからターミナルを開いてgccでコンパイルするなんて想像も付かないことだった。Hello, Worldはなんとか表示できても、それをGUIで動かす方法が分からない。僕はデスクトップに「Hello, World」のポップアップウインドウを表示させたかったのに。全然訳が分からなかった。
プログラムが動いている方法を知らなければならない。プログラミングを学ばなければいけない。しかし全体像を把握するにはあまりにもほど遠い……。絶望感が支配し始めていた。Hello, Worldはできたけれど、その先が全くわからない。どの参考書を読んでも分からない。ググってもググっても分からない。ポインタで躓く初心者が多いです!……どの本にも書いてあったけれど、僕はポインタどころか、変数の種類がたくさんあるところでお手上げだった。int?char?long???意味不明の文字列が並び続ける。メモリ?メモリって、挿したらいいんじゃないの?確保?fopen????どんなプログラミング言語も、何一つ分からなかった。その頃インターネットは加速し始めていた。切るのが当たり前だったJavascriptが復権し、Ajaxと名を変えてやってきた。掲示板スクリプトもどんどん高機能化し、もはやPerlを知るだけでは何一つできないようになってしまった。苦痛の日々が始まった。どの言語も、全く分からなかった。分からなければならないという焦りが募っていった。
あるとき、一年間ほど、とりあえずお手上げのままにしておくことにした。大学受験が迫ってきたからだった。そして案外あっけなくそれは終わった。僕は某大学の情報科学科に入った。
教授がガイダンスで説明したとおり、情報科学科のプログラミング演習はそれほど多いものではなかった。一回生の時なんか、キーボードを目で追って人差し指で打っている人もいるぐらいだった。学校の授業はアテにならない。そして大学受験でいったん引っ込んだ、とにかく十代でなにかしないと、という焦りが復活してきた。
大学のキャンパスは広すぎた。何をして良いのか全く分からなかった。授業内容はひどくつまらなく、何が役に立つのかも分からず、ただただ苦痛で、キャンパスでサークル活動に打ち込んで楽しく過ごせるほど社交的ではなく、かといってオタク集団に混じる勇気も無く、とにかく、とにかくここで四年間、四年間で何かしないと、何かしないと就職に間に合わない、大学院進学に間に合わない、十代のうちに何か大きな事を成し遂げなければならない。日々研鑽に励み、日々プログラミングスキルを磨き、日々勉強会に参加し、日々コードを書き、日々環境設定をし、日々本を読み、そして日々コードを美しく書かなければならない、そういう焦りだけがどんどん加速していった。大学の生協で片っ端からプログラミングの本を買った。ド初心者向けのPerl本から、美しいコードは何か、みたいな本まで。でも、どれ一つ、僕のスキル向上には役に立たなかった。プログラミングスキルの向上=自分自身の地位=生活の保障、と思っていた自分には、悪夢のような現実だった。
とにかくインターネットと一緒に歩んできた僕にとって、ITスキルはすなわち力であり、むしろITスキル以外は何の価値も持たないもの、と思えるほど脅迫的な観念にとらわれていた。入ってくる情報はさらに増えていった。Cができるのは当たり前、Ruby on Railsがアツい、Java、PHPはもちろんできるよね、MySQLは当然使えるよね、もちろんHaskell、Scheme、Objective-Cもやらなきゃね……何一つできないのに、習得すべき言語だけがどんどん増えていく。加えて美しいコードを書け!という文句が飛んでくる。クソッタレが。何が美しいコードじゃ。goto使ってもいいだろ。好きなだけ使わせろクソッタレが。全部getsで書いてやる。クソが。アルゴリズムアルゴリズム勉強会勉強会ビューティフルコードMacMacMacジョブズジョブズジョブズ……???????????????
それでもなんとか、そう、なんとかなった。友達が優秀だったのだ。僕には到底できないような、きれいに整理されたコードを書く人だった。聞けば在学中から外注のプログラマをやっていて、それなりに稼いでいたのだという。性格はちょっとアレで、風俗に勇気を出して行こうかどうしようか迷ったけどその金でオナホ買ってシコってオナホを床に叩きつけたみたいなヤツだったけれど、そいつからもらったコードを、わざと汚く成形し、変数名も汚らしくし、提出し、なんとかなった。結局自分で最初から最後までプログラムを作ることはできなかった。丸々コピペはしなかったけれど、コピペがなければ卒業は無理だっただろう。
そうして三回生の終わり、試験がどっと押し寄せてきた。一月のことだった。機械学習と……なんだっけ?そういう感じの試験が、2月の初日、行われることになった。三回生はただでさえ試験が多かったが、その大トリこそが機械学習だったのだ。
まるで意味が分からなかった。推論、それは分かる、機械学習?機械に学習??やっていることは数式だしベイズがどうの……まるで分からない。泣きそうだった。三年間必死こいて勉強したり勉強会に行ったりプログラミングスキルを上げようとしたり本を読んだり色々したのに、何一つ得るものは無かったのだ。僕はあやしいわーるどでオマンコ連呼していた頃から、何一つ成長出来なかったのだ。そしてそれは、間違いなく、疑いようがなく、自分のせいだった。自分の頭が悪いせいで。自分の勉強不足のせいで。自分のせいで……コンピュータとともに、十何年も育っていた僕にとって、コンピュータに関するスキルこそが、全ての力の基準だったのに、その全てを否定されたような気持ちだった。プログラミングができなければ、死ぬ。だって、友達はみんな就職して、SEになったりSIerで働いたりネットワーク管理者になったりしてるのに、僕はなんで、こんなところに。そいつらに取り残されるのに。みんな勉強会に出てMacを持ち寄ってハッカソンしてるのに。泊まり込みでプログラミングしたりしてるのに。なんで僕は、fgetsすらマトモに使えず、getsとscanfだけであなたの名前を入力してください オマンコ オマンコさん、こんにちは!みたいなプログラムしか書けないんだ。
大学四回生になった。研究室を選択する必要があったがしなかった。しないでは困るとのことで、適当に書いたらその一番上に配属された。でも一切研究せず、下宿に引きこもって何もしないをした。今日の輪講はここまで進みました!という報告が毎週回ってくるが、まるで研究室では日本語でなくアラビア語が公用語になっているのではないかと思えるぐらいの光景だった。この頃、近所の人の証言によれば、言動がおかしく、訪ねてきた人に暴言で返し、殺す殺すなどの声が聞こえ、時折モノを投げつける音が聞こえたりしたそうだ。まあよく知らない。僕は普通に何もせずぼんやりネットを見ていただけのような気がするけど。
それからしばらく経った。
結局僕は中退した。そして別の大学に入り直した。今度は、工学じゃない別の場所に。みんなキーボードの文字を読みながら指先でキーを叩いている。安心する光景だった。僕らはプログラミングを習わなくてもいい。これから習う必要も無い。タッチタイピングだって、できるに超したことはないだろうけど、できなくてもいい。ただ、そこにある便利なモノを使えば良いだけなのだ。Chromeを使っていて、うっかり開発者向けコンソールを開いてしまっても、何も分からなかったことにして閉じて良いのだ。きっとマクロを書けば、楽ちんに勝手にやってくれるような作業を、人の手で何度もやる。それでいいんだ。マクロを考えるために必死になる必要なんか無い。マウスで右クリック、コピー、ペースト。それでいいのだ。キーバインドすら覚えなくて良い。メモ帳を使ってもいい。viやEmacsのキーバインドを覚えなくてもいい。マウスも使えないようなエディタと格闘する必要は無い。Macを買っても、XCodeやportsを入れる必要は無い。iTunesでiPhoneを同期させて、音楽を聴くだけでいいんだ。
僕はもうプログラミングしないでいいんだ。
それが分かったとき、全てから解放されたような気がした。僕を苦しめ続けたプログラミングというものは消えてなくなった。パソコンでやる作業は、昔と一緒、匿名掲示板にオマンコと書き込むだけだ。それ以上のことをしなくてもいいんだ。勉強会に出てハッカソンする必要は無いんだ。プログラミングスキルを錬磨しないと死ぬなんてのはウソだったんだ。美しいコードを書かないと天罰が下るというのはウソだったんだ。毎日毎日はてブのホッテントリを見てると、プログラミングでマスターしなければならないこと、何何する方法、開発者必須スキル、便利ツール、Macでのアプリ開発、セキュリティ、通信、データベース、勉強会、ハッカソン、そういうもので溢れている。苦しくないのか不思議で仕方ない。もちろんプログラミングをしていて楽しい人もいるんだろう。けれど、僕みたいに、プログラミングという行為が苦痛で苦痛で苦痛でしかない人もいる。たとえ1000回の同じ操作でも、人力でやる方がマクロを書くよりも楽だという人も、ここに存在するのだ。そしてそのような人の存在も当たり前に肯定されるのだ。みんな苦しまなくて良いんだ。誰かが勝手にやってくれればいい。できる人にお金を渡して、僕らはそれを享受するだけで良いのだ。ここでプログラミングという言葉を連呼したけれど、コーディングという言葉との違いとか、そういうのを気にするような人とおつきあいする必要は無いのだ。いずれプログラミングは必須スキルになるとか言われて何年も何年も苦しみ続けてきた。けれど、そんなことをする必要は無いんだ。
それでぶっちゃけここからが本番なんだが、十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?誰かの承認を得たいという承認欲求を、同じ世代の誰かを使って満たすことができず、むしろ同じ世代の誰かを一緒に引き連れて、承認欲求を満たしてくれる「教祖」にすがりつく。NPOの大学生が「承認」を欲し、政治家が「承認」を与えているのだ。AO入試用の作文?図?みたいなものも見かけたが、「私はリーダーシップがあります!」とか実にくだらないことしか書いていない。しかしそういうものでさえ、学生団体とやらは「承認」してくれる。結局、オウム真理教が丸ごと開けたポジションに、バラックが建ち並び闇市が行われていて、コミュニケーションで自然と得られるはずの承認欲求が、法外な札束で取引されている、そんな感じのような気がする。
意外にブクマが増えていた。PC-8001は俺が産まれる前に買われたもので、ずっとオブジェだったのだ。動くかどうかもわからない。テレビに接続するコードがなかったから。
最初は近未来宇宙SFということで楽しく読んでたし、主人公や田辺(だっけ?)のキャラ造形なんかも嫌いじゃなかった。
ところが途中から主人公の精神世界の話になってしまって、これがまずエンターテイメント面で、自分の中で無いなと思った。
こういうのって難解というより、作者にしか意味を成さない表現、あるいはハッタリ表現に堕してしまい、自分はこういうのを見るともう読まなくていいかと思う。
当時セカイ系なんて流行ってたし難解を以って好しとする風潮があったから、こういう方向に行ってしまうのも仕方がないかと今としては思う。
最終巻は内容面で残念だった。無垢であるのが正しいというモラトリアムの結論になってしまっていて、これには失望した。
無垢というのは馬鹿と同義だ。大人というのは一見して穢れた存在だが、それは矛盾を統合して現実に処しているから。無垢のまま大人になって社会不適合者のレッテルを貼られても、いまさら同情も何もない。(それでもイノセントを大事にするんだという決意とも取れるが、作中でも描写されている通り、周りにいる人間にとっては迷惑も甚だしいよね)
少女漫画なんか無垢である(ありたい)自分と、容れることのできない現実との狭間でこれまでずっとやってきたのに、いまさらこんな次元の低い話に落とし込まれても。あんだけ難解そうに見えるハッタリ表現使っといて。
挙句最後の最後になって、人は一人では生きられない、なんて言い出すところには呆れるどころか笑ってしまった。
この作品は作者の若書きで、そういう文脈上の未成な作品として評価される分には全く異論はないし、その価値は最大限評価したい。ところがこれをして名作SFだと言われると声を大にして否定したくなるのだが、多勢に無勢かな。
2ちゃんのまとめサイトで、おっぱい画像たちをまとめてたページがあったんだよ。
それでなんか、まじまじとおっぱい画像(谷間含め)を見ていたら、素直に「あぁ…これは、あらがえないな…」と思った。
たぶん、むちむちボディのカワイコちゃんだったら、おれヤラれちゃうわぁ…、あらがえないわぁ…。
絶対、むちむちボディのカワイコちゃんが誘惑してきたら、「あぁ、抱きつきたいなぁ…。でもなー…。」で、自分の中の理性と衝動の狭間で悩むだろうなー。
あぁ、なんか誘惑されてぇわ。小学生から30代前半あたりの女性に。
そしてなんか、不器用に一生懸命誘惑してる姿を見て、「かわえぇなぁ~」と思いたい。
女性が頑張って、「ほら、ここにあるよ?」って感じで、
なんかお尻をプリプリ自分で揺らしつつ、自らの体が武器であることを本能的に知ってるんだな~、ということを観察しつつ、なんか一生懸命誘惑されたい。
そして、僕がその誘惑にまんまと誘われてきたら、「やっと来たぁ!///」って感じで、すごく嬉しそうになっている顔を観てみたい。
結構な分野が電子機器やPCなりで効率化されて、それは凄くいいんだと思うんだけど。
もっとメンタル部分とか、生活に必要な部分とかもっともっと効率化されないかなあ。正直、生きるために働くっつーか、ビルの谷間に埋葬されて生きてるのってやっぱおかしいと思うんだよなあ。
通勤なんかせずに、職場に設置されたロボットを操作するだけとか。
一日の生活を自動記録してくれる秘書ソフト(siriとかじゃなくて完全に自動の)
ベビーシッターだって、遠隔操作ロボットに任せられるならインド人に子供任せたっていいと思うんだよなあ。家政婦も遠隔操作ロボットでいいと思うんだよなー。
南アフリカに設置された小型ラジコンを飛ばして日本で寝そべりながらにしてアマゾン探索とか気軽にやれるだけで人生何してもOKみたいなのがこのハッテンのとりあえずのゴールだと思うんだよなあ。
メンタル部分も2次元を3次元空間に持ってこれたり。擬似夫、奥さんみたいなのができたりとか。
なんだっけ、ほら、『イブの世界』っていうアニメであったじゃん、アンドロイドが人間っぽく対応してくれるみたいな。あんな世界になってくれねえかなあ早く。
俺もそう思うが
この国では長いこと作られてこなかった。
でも、これは大企業のお話で中小企業や新興企業の話じゃないんだよね…。
俺だって、失敗してもクビ括らずに済む経営者であれるものならありたかったよ。
しかし、日本じゃ自社株を握っていない経営者は「経営者」と看做されない。
でも、それは少なくとも俺のような新興の中小企業経営者の責任じゃあないんだよ。
「経営者」にも色々いる。まとめて語っちゃいけない。
中小の社長は、株主の奴隷にして従業員の奴隷、そして最後に詰め腹切って死ぬためのトカゲの尻尾。
その状況下で戦ってるのくらいは理解して欲しい、と思うこともあるよ。
まぁ、無理だろうけどね。
こうして、ワタミが生まれるんだよ。「殺される前に殺してやる」って俺も思うことがある。
俺はワタミみたいな経営はしてないけど、正直あの人の気持ちはわかる。サイコパスにならなきゃ生き残れない局面が多すぎる。
とても辛い。みんな辛い。でも、会社潰したらみんな路頭に迷うから、どうしようもない。
出来ることから頑張って、なるべく会社潰さないように、なるべく株主にたくさんの配当を払えるように
なるべく、僕についてきてくれる社員にたくさんの給料を払えるように
最悪の時、僕が死ねば綺麗に片付くように、そういう風に考えるのが「社長」の仕事なんだよ。
同情してくれとは思わないけどさ。
まぁ、ここから変えていくよ。頑張るよ、だって俺経営者だもの。
従業員はなるべく楽な仕事でたくさん給料が欲しい。株主はなるべく安く働かせてたくさんの配当が欲しい。
その狭間で両方に殴られながら踏ん張るのが、経営者のお仕事だ。
俺には変えたいものがあったし、手に入れたいものがあったし、現状まだ道は閉ざされてないから
まー頑張るよ。少なくとも、俺は従業員も投資家もどっちも大好きな人間たちだから、多分幸福な社長なんだろうしさ。
ちなみに、自社株を経営者が握るのはある程度従業員を守るためって意味もあるのを覚えておいて欲しい。
「もっと給料下げろ、利益率上げろ」と命じられた時、経営権を傘に「いや、これくらいの給与は必要です」って
投資家に立ち向かわなきゃいけない局面も多いんだよ。もちろん、その逆も多いけどね…。
はてなブックマーク - 増田に書けばフィクションって事で許されるよね!8
hisawooo
悪い人じゃなさそう
ここにのそのそと這い出た人で、宗教の金儲けに対して肯定と否定の狭間にいて心惹かれるものがあったと思う。
室町時代に神道(そんなものは無かったが)がキリスト教に置き換わればこの人が苦しむこともなかったろう。
http://anond.hatelabo.jp/20140703201505
それから、どうせ特定しようがないから、誰かさんが顔真っ赤にして嗅ぎ回ったところでどうしようもないよ
というか、どうせ特定できるだろうと思って、相手が特定を恐れるだろうと思って書いてるんだろうがな、断言しよう。
100%無理だよ。
そもそも、特定されて不利益を蒙る場所にボサッと突っ立ってるような奴がこういう事してるんだーとか素直に思ってるとしたら、お前には他人に対する想像力と言うものが根本的に欠けているか、あるいは自分以外の他人を本質的に小馬鹿にしているかのどちらかでしかない。
まあ、お前はお前の想像する世界の中でだけ好きに生きていけばいいだろうけど、実際の現実はそこまで単純じゃないからね。
http://anond.hatelabo.jp/20140703201121
なんで、最初はそう返事に書いちゃったんだよ。
ジョジョ好きに悪い人は居ない、ただの拗らせだ。
謎の粘着で般若心経の代わりに大祓を貼ってるところが中二くさくてレトロだ。
すごくいい!
彼女にとって僕は「いいひと」「信頼できる人」「ある意味好きの分類に入るひと」。
そう言ってくれる。自分の想いも伝えた。
でも「特別ではない」。
特別な人になるにはどうしたらいいのだろう。
彼女の人生が見通せるくらいの稼ぎを、僕が持って帰れればいい?
彼女の言う事をすべて肯定して受け入れ、優しくしてあげればいい?
彼女が知らない事や分からない事があれば手を差し伸べてより良い方向を導けばいい?
どれも、その「一助」にはなるだろうけど、決定打にはなり得ない。
なぜか?
そこにある程度の「法則」はあっても100%確実な「方法」は、残念ながら、ない。
ひとの心を自由に操れる方法などない。
相手を想い続ける辛さと、失う怖さの狭間で、馬鹿みたいに効率の悪い生活を
しばらく続ける事になりそう。
仕方ないか…辛いなあ。
「KS(既読スルー)」とか「私は、激おこだよ!」とか、よく「マシタ会長の間で流行ってる言葉」ってニュースになるじゃないですか。でも、実況やオタ界隈も、マシタ会長と同じかそれ以上に日々新しいワードを生み続けている業界だと思うんですよね。そして本人たちふつうに使ってるけど、一歩外の人相手にその言葉使うとぜんぜん伝わらなかったりするんですよね。っていうか、今日会社で「Free!にかんしてはどうしてもモンペになっちゃうんですよね〜」と話したら誰にも意味が伝わらないという事件があり、思い知りました。
そこで、「受け」とか「攻め」とかのようなさすがに人口に膾炙している言葉ではなくて、最近の腐女子のSNS上でのやりとりでよく見かけるようになってきたワードと、私のまわりのごく一部で考えだされたけどこれは汎用性低いと思うので推していきたくないというワードとを羅列し、意味を解説してみた。(※実況民がよく使ってるなと思うだけで実況民に限らずオタ内でよく見かける用語も含んでいます)
【ウヘウヘヘ】
ザ・ネットスターかなにかで、TL上に出た @hirokira さんの発言。結構おいやめろと返ってくる。
例:「私達の熱いアイドル活動、アイカツ!始まります。ウヘウヘヘ」「おいやめろ」
【テレビ】
「クソアニメだったんでテレビ壊すレベル」「終わったんでテレビ壊した」「テレビマクー空間にベントした」など、あるファンの奇行をきっかけに、ほかのファンがテレビを壊すことと見てたテレビの内容をかけて発言するさま。
【アドベント空間だよ…二つの世界の狭間にある空間で…そこに送られると二度と戻れない… 】
例:「本物の貴虎はどうした!?」「アドベント空間だよ…二つの世界の狭間にある空間で…そこに送られると二度と戻れない… 」
とあるゲームの「プレイすることで投票できる人気投票」のシステムを見て、これはよくできたシステムだなと思った。
子ども向けでありながら大友人気もある(この書き方でだいたい何のゲームか予想できそう)ゲームなのだけど、
大人の財力にモノを言わせた票操作が難しくなるわけで、非常にフェアなルールではないか。でも票数が開示されない怪しさ。
そこで、一般向けの似たようなシステムは何かと思い、カラオケランキングが思い浮かんだ。
http://joysound.com/ex/ranking/karaoke/total/weekly.htm
アイドルはほとんどいない。AKBですらトップ10に1曲入るのみ。ジャニーズはどこ行ったのという感じ。
アニソンやニコニコ発の曲も強い。奏はアニメカバーのおかげかと思いきや元々定番化している模様。
ただしアニソンでもCDランキングに入ってくるようなものではなく、やはり定番が決まっている。
アニメを含めた新しいアイドル曲は歌われないのか? そう結論づける前に年間アーティストランキングを見てみた。
http://joysound.com/ex/st/special/feature/2013year_ranking/index.htm
やっぱりアイドルは強かった。ここに来てEXILEや浜崎あゆみ、倖田來未なども食い込んでくる。
いわゆるマイルドヤンキーからの支持か。この概念あんまり好きじゃないんだけどさ。
「アイドルなんて特典つけなきゃこんなもんなんだよ!」と言おうとして調べたわりには、それを否定も皇帝もしない中途半端な結果が出た。
AKBの新曲が来週配信なのでもうちょっと後に調べた方が「やっぱりアイドルって人気だね」という感じが強くなったかもしれない。
2013の年間ランキングでフライングゲットの下にいた恋する~が今では週間で2位にいるのを見ると、アイドル曲の中でも定番の新陳代謝があるよう。
考えてみればカラオケはその場にいる人に聞かせるものなので(実際に聞いているかとか、本当に聞かせたいつもりかはともかく)、
定番に流れやすいのは当然だった。がっつりマイナーなアイドル曲はドルオタだって歌いにくい。
もちろん「歌いたいものを歌いたい」気持ちもあるので流行も存在する。let it go以外のアナ雪曲は映画見てない人からしたら聞き覚えのない曲だ。
そんな流行と定番の狭間にある日本人の空気の読み方と個性の出し方が見えてくる、それがカラオケランキングであると無理やり締めることにした。
時間があれば、鎌倉から江ノ電に乗ってみてほしい。時間帯は平日午後4時台がおすすめだ。
運が良ければ、300型の車両を捕まえることができる。その際、始発駅だからといって長椅子に座ってはいけない。ドアの脇に立つべきである。理由は後述する。
300型は昭和30年代に生産された本当に古い車両で、狭い車内や木造りの床に包まれると、自分が生まれてもいない時代のものにもかかわらず、何かひどく懐かしい気持ちになる。
それだけでも感無量なのだが、電車が鎌倉高校前に着くと、大量の女子高生が乗り込んでくる。季節柄、女子高生は汗ばんでいて、車内には一気に若い汗の匂いと体臭が充満する。女子高生の中には一定数の男子高校生が含まれているのだが、無視するよう俺は訓練されているので問題はない。
狭い車両なので、いきおい女子高生との(物理的な)距離も近くなる。座っていては女子高生との距離は遠くなる。立っていなければ。しかし、混んだ車内であらぬ誤解を招いてはいけないので、両手は高く上げて目に付くところにおいておくのがいい。そして静かに、だが深く深呼吸をするのだ。
50年走り続けた車体と、郷愁をさそう高校生の汗の匂い。目をあげれば、変わることの無い太平洋の大海原が広がっている。
そんな瞬間、変わらないものに触れた幸福感と、自分が失ってもう二度と手に入れられないものに対する孤独感との狭間で、ひどく泣きたいような気持ちになる。でも泣いてはいけない。平日4時に電車の中で泣くおっさんは、本物の変態である。変態は自らの心に閉じこめておかなければ。
女子高生は大抵藤沢まで乗るので、藤沢までこの感傷に浸ることができる。まさに至福の時だ。
終点の藤沢駅のホームに降り立ち、人々(主にJK)が立ち去って行くのを眺めながら夕方の改札を抜けて行く時の寂寥感ときたら…
そのうち、何処か別の街でも同じような時間を過ごしてみたい。
何言ってるかまったくわからないところがある。
たとえば、
人の内部世界である演算領域内で組み立てられた魔法式を、無意識領域の最上層にして意識領域の最下層たる「ルート」に転送、意識と無意識の狭間に存在する「ゲート」から外部情報世界へ投射することにより、魔法式が投射対象たる「事象に付随する情報体」――これを現代魔法学では、ギリシャ哲学の用語を流用して「エイドス」と呼んでいる――に干渉し、対象の情報が一時的に書き換わる。
(1巻、pp.104-105)
文章研究としてこの本をかなり真面目に精読してたんだけど、それでもこの文章読んでなにがなんだかよくわからない。いまの中高生ってこういう文章読めるのか。冗談でもなんでもなくニクラス・ルーマンより難しいと思った。ここまでなにいってるかわからない読書体験(しかも小説、しかもラノベ)なんてはじめてだ。にわか文学ファンはトマス・ピンチョンが好きだけど、そのピンチョンよりはるかに読みにくい。
ほかにもいろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、
達也の浮かべた苦笑いは、苦々しさのないただの苦笑に変わっていた。
(1巻、p.71)
これ。苦々しさのないただの苦笑ってなんだろう。哲学的といえば哲学的だけど。撞着語法かな? 「苦笑」って辞書的には「にがにがしく思いながら、しかたなく笑うこと」(明鏡国語辞典)なんだよね。いや、べつに辞書が正しいって言ってるんじゃないよ。ことばの意味ってのは文脈に応じてアドホックにどんどん変わっていくものだからね。でもそれにしてもこの語法は難しすぎるんじゃないか? ある種のアイロニーなんだろうか。難しい。
どんな内容であっても
自慢話にしか聞こえない。
そんなもんだね。
「お前は自慢ばかりだな」って
言われている人たちへ。
単に考え方がポジティブなだけだと思うので、
あんまり気にすることはねえっす。
ブコメがあまりにも面白くてほんとう、ありがとうございます。
自分の事は棚に上げて…
自慢に関してはいろいろ分類できそうな…
寝てない自慢
ほんとだ!寝てないとハイになるからか?危険な状態ですね。危険な自慢。
ほんとそう、あれって相手の黙らせるための一つのテクニックなんじゃね?
「それ自慢?」って最大の辱めのように思うわー。
胡散臭さと天才の狭間という新たなジャンルを開拓されたお方ですね。同意します。
岡江久美子さん
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
夫として、父親として、家族を裏切り、欺き、蔑ろにし、快楽のために全てを台無しにしました。
一度だけの気の迷い、と言いますが、本当に一度だけだっとしても、その行為により、私達が信じあってきたあらゆるものを破壊したのです。
子どもたちにも知られてしまった以上、尊敬できる父親像も崩れ去っているでしょう。
いままで築きあげてきた信頼、愛情、繋がりは、あなたのその遊びと嘯く行為により再生不能な傷を受けたのです。
もう終わったことだとあなたは言いますが、関係を精算したとしても、裏切った事実、裏切られた事実は消えません。
さっさと忘れて新しい生活を迎えればいいという人もいますが、それならばあなたの存在をこそ忘れて新しい生活に向かいたい。
これを機に心を入れ替えるとあなたは言いますが、そんな確証がどうして持てましょう。
一度やる人間は二度目もやるのです。もちろん一度もやらない人間が一生やらないとは限らない。
一度も裏切ったことがない、それこそがあなたを信じる最高の根拠でした。
それを失った今、私は何を手がかりにあなたを信じればいいのでしょうか。
あなたが目の前に立つたび、裏切られた事実を思い出してしまいます。
あなたが言葉を発するたび、同じ口であの女に愛の言葉を発していたのを空想してしまいます。
あなたの手が子どもに触れるたび、その手であの女の体を弄り、体液で指先を汚したことを想起してしまいます。
そんな汚れた手で子どもに触れるな!
思い出すがいい。子どもに触れようとするたびに、その手が何をしたのか、その指が何をしたのか。
考えるがいい。子どもを抱きしめようとするたびに、その腕で子どもに触れる資格があるのかどうか。
バレていない間は、ただの「バレていない裏切り」です。
それであなたが平気なら、他人を裏切っても平気なクズです。相手にするにも値しません。すぐに目の前から消えて。
それであなたが苦しむというなら、それは欺瞞です。そんなの苦しみのうちにはいらない。ただの保身でしょう?
そして絶対にバレない浮気なんて世の中にはない。
あなたが家族で、夫で、父親であればあるほど、そこに産まれた歪みはすぐに家族へ届くのです。
バレない浮気が浮気でない、仮がそれに真実だったとしたら、そんな言葉を本気で口にするのであれば、それがバレたときには命を持って償うくらいの覚悟はするべきでしょう。
そんな覚悟もできないなら、都合のよい定義をするなんてはただの卑怯者です。
俺が信用できないのか、裏でこそこそしやがって、こんな女だとは思わなかった。
もし私の疑いが勘違いであったならば、どんな罵倒や謗りを受けても仕方がない。
調べなければバレなかった? そんなバカな理屈が本気で通るとでも思っているのですか?
疑われるようなことをしたから、疑われた。当然のことでしょう。
疑われるようなことをしたから、調べられた。当然のことでしょう。
同じことを私がしたとしたら、あなたはあなたが言うように、疑いもせず、責めもせず、私を自由にしてくれるのでしょうか?
毎晩外に遊び出て、別の男と腕を繋いで歩き、愛の言葉を語り、食事を作り、夜をともにし、深夜に帰宅して、家族への言葉もなく、家事だけを黙々とこなしていても黙って許してくれるのでしょうか?
どちらにしても、あなたに何かを期待することも、求めることもありません。
もう一生信用することはないでしょう。もう二度と、夫と呼びたくなることもないでしょう。
子どもたちにも触れて欲しくない。私自身にももちろん、関わって欲しくない。
ただとにかく他人になって欲しい。それだけです。
早くここに印鑑を押してください。
今は1日10錠くらいのメンヘラ向けお薬を飲んでいる。パキシルとかそういうやつ。薬漬けの生活になって3ヶ月くらい経つか。
今も朝起きるのは大変だ。いつも大体7時間くらい寝ていたのだけど、今は眠りが浅いせいか同じ時間寝ても眠気がとれない。結局頑張って目覚ましを止めるのだけど、その後必死に体を起こそうとするのだけど、眠気が勝るのと起きるのが嫌だという気持ちに負けて二度寝してしまう。また、眠りが浅くて1時間から2時間おきくらいに目が覚めてしまって、起きる気力も無いけど眠れないときもある。
薬を飲む前だって、起きるときにどうしても眠い日はあったはずだ。そのうちの僅かな回数は二度寝をやらかして寝坊して会社に遅刻してしまったりというときはあったのだけど、それでも多くの場合は我慢して起きて遅刻することなく会社に行っていたはずだ。
別に朝起きることだけではないのだけれど、仕事のこととか、普段生活していて過剰に考えすぎてしまっているのではないかと思う時はある。会社の人たちはそんなことは言わないけども、実際はお前のような精神の弱いやつは早く辞めてしまえと思っているのかもしれないとか。僕に関係している人たちは、みな僕のことを早く死んで欲しいとか消えて欲しいとか思っているのだろうとか。日によってまちまちだ。というか大体そういう考えが浮かぶとそんな気、つまり自分は早く死んだほうがいいんじゃないのかという気になってくる。この文章を書いてるときもそうだ。
とにかく、自分が病気だから朝起きれないとか死ねと思われていると感じているのか、それとも元々朝が苦手で生きることに対して自信のもてない性格なだけなのか、どちらなのかが分からない。病気のせいであれば、今のように薬を飲み続けながら安静にするしかない。でも、それが単に朝が苦手で自分に自信がないというただの性格によるものであれば、自助努力でなんとかする以外にない。けれども今の自分にそれがどうにかできる自信なんてないしもうホント社会生活なんてできそうにないから何処かの山の奥深くにでも行って霞を食っているくらいしか、今後自分が歩む選択肢はない気がする。
三つ子の魂百まで、ではないけども一朝一夕で自分の甘えきった性格が直るとも思えない。一歩一歩、何十年もかける覚悟で性格を直していくしかないのだろうか。でもそれじゃ結局ゴミみたいな性格のままで一般社会に居座り続けることになるし、死んだほうがよさそうだ。どうしたらいいんだろうか。
下ネタを取り扱った文や、
コンプレックスを題材にした文には、
割と多くのフィードバックを頂ける。
全くフィードバックがない。
文の下手さを省みる事もあるけれど、
そもそも、読んで頂ける方々の趣向、
特性がかなり大きく起因するんだろうと思う。
そして、
単純にフィードバックを手にする練習をしたいならば、
そこに狙った書き方をする必要がある。
物書きでも、絵描きでも良いのだが、
一寸芸術というジャンルと手段が近しい職業には、常につきまとうこの考え方。
少し考えれば分かるのだが、
自身の成果物に沿うお客様を集めた上で、そこにアプローチをする必要がある。
例えば、
湘南の風やったって受けないんです、当然ながら。
もっと細かく言うならば、
心なんて掴めない。
掴めたとしても、その数はたかだか知れてる。
集まってるお客さんに合わせて曲を変えるし、雰囲気も変える。
心をつかんで次に繋げて、ワンマンで落とす。
文章でも、同じだろうね。
ただ叫ぶなら別に良い、1でも2でもない。
フィードバックを求めて既存の池で釣りをするならば、ただ叫んでたって効率が悪い。
読者に合わせた文章を書くべき。
では、前回のブックマークコメントを参照しながら自論を展開していきたいと思います。
simplemind だが「誰かの悪口を言ったら返ってくる」のは本当に「基本」だろうか?街で「年収○○万円の男なんてw」とdisっても普通怒られたりはしない。「disりっぱなし」は(残念ながら)常識的には正常な「態度」なのでは
http://b.hatena.ne.jp/simplemind/20131224#bookmark-174706694
素晴らしい指摘だと思います。
たとえば私が喫茶店でジュースを飲んでいたとして、そこで隣のテーブルに居る女性2人組が大声で
「年収○○万円の男なんてゾッとするよねー」
とお喋りしていたところで、それに対して私が議論を吹っかけたり、殴りかかったりすることはまずありません(非常識な彼女らにビックリしてチラ見はしてしまうでしょうが)。
私が公衆トイレでおしっこしてるときに、隣でションベンしてるおじさんがオナラをこいたところで、私は「屁ぇこくなよ!」とは言えません。
おじさんと私は友達ではないのですから (ダウンタウンの浜ちゃんは職業病で、そのような状況のときにおもわずツッコんでしまったそうです)。
ところがこれがネット上になると話が変わってきます。「年収○○万円の男なんてゾッとするよね」「結婚しない人間って何考えてるんだろうね」
とブログで言っている女性が居れば、私は彼女達を非難します。また、いつもホットエントリに入っている屁のように臭いブログがあれば、猛烈に叩きます。
もちろん絶対に叩く!というわけではなく、その日の気分によって叩く叩かないは変化しますが。
我々はなぜ街中だと非常識な人間をスルーするのでしょう。我々はなぜネットだと、特にブログやツイッターになると、非常識な人間を見たときに叩きたくなるのでしょう。
私はこの問題を考えているときに、「儀礼的無関心」という言葉を知りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%80%E7%A4%BC%E7%9A%84%E7%84%A1%E9%96%A2%E5%BF%83
私たちは電車に乗っているとき、他人を凝視しません。それは、たとえば特に電車内のマナーにうるさい日本だけではなく、アジア・アメリカや欧州南米でもそれは同じでしょう。
Daniel Powterというカナダ人歌手の「Bad day」という曲のPVを見ると、これには男女の主人公が居るのですが、
男の主人公は電車内で、歴史を感じさせるような老夫婦を尊敬の眼差しを持って見つめます。
女性主人公は幸せそうなカップルを少しうんざりした様子で見ます。けれどここで重要なのは、彼らは決して無礼な態度では観察していないということです。
「お前何見とるんや」
と因縁をつけられない程度の態度で他者を観察しているのです。もしパッと目が合ったら私たちは目を逸らしますよね。
これは現実での振る舞いとして適当でしょう。私たちはそうやって日々を生きています。儀礼的無関心を遂行しているのです。
インターネットではどうでしょうか。我々はいくらでも他者を観察できます。ネットでは「お前何見とるんや」と言われることはまずありません。
他者をいくら観察しようが、いくらイヤらしい意地悪な目で見ようが、その行為の代償を払う必要はありません。
私を含め、古参インターネットユーザーたちはこの2つの世界を行き来していました。儀礼的無関心が必要な現実社会と、儀礼的無関心が義務ではないネット社会。
ところが昨今、特に2013年はそれが大きく変化した年となりました。
2013年を語る上で欠かせないのが、ツイッター冷蔵庫侵入事件です。
デジタルネイティブの若者たちは、コンビニの冷蔵庫に侵入しアイスを靴で踏みつけたり、レストランの備品に自分の身体を擦り付けたり、スーパーの売り物の食品に乗っかって遊んだりして、
そうした行為をスマホで撮影し、ツイッターにアップしました。そうした写真は瞬く間にネット上で拡散されて、ネット社会と現実社会の両方で大きな議論が巻き起こりました。
我々が外食したり、また食品を買ったりするとき、実はそれにはどこの馬の骨とも分からないDQNたちの体液がついてる可能性というものが大きく可視化されました。
主要紙もネットユーザーもバカッターバカッターと彼らDQNを糾弾しました。
「悪ふざけするのは良いとして、ネットに公開するということは全世界に公開するということだ。考えてやらないと。」
「目立ちたいだけだよ。有名になりたい馬鹿たちなんだよ。」
はてな民は偉そうに言っていました。
しかし私はどうも違和感を持っていました。「そもそもあのDQNたちは全世界に公開してたつもりなんて1ミリも無かったのでは?」
たとえば、私がコンビニで買い物をしていたとして、そのときちょうどあのDQNが靴で冷蔵庫の中のアイスを踏みつけていたとします。
私は彼に注意などしません。注意して、彼の仲間たち3人くらいに囲まれたらどうするのでしょう。怖いです。
私はここで必殺「儀礼的無関心」を放ちます。ギャーギャー騒いでる若者たちをスルーするのです。
本当は注意するべきなのでしょう。しかし生活していくなかで、そういうリスクはなかなか背負えません。
みなさんもそうだと思います。関わりたくないことには儀礼的無関心を遂行してやり過ごすでしょう。
さて、それがインターネットで繰り広げられていたらどうでしょう。
冷蔵庫のアイスを踏みつけたDQNたちは写真を撮り、それをツイッターに上げます。彼らは、たぶん仲間内だけに見せるつもりなのです。
「健太が冷蔵庫に侵入した結果www」てなもんです。青春の一ページです。
そうこうしているうちに、偶然にも私はその写真を見つけてしまいます。「あ!あのときのあいつらや!」
私は、現実で儀礼的無関心を強要されたあのときの惨めな気持ち、後ろめたさがよみがえって来ます。
「許せん!」
私だけではありません。DQNに儀礼的無関心を強要された人たちは山ほど居ます。そういう人たちが、DQN健太くんの冷蔵庫侵入写真を見たらどう思うでしょうか。
「恨み晴らさでおくべきか」
となるのは必然ではないでしょうか。
また、そういう恨みが無かったとしても、我々の誰もが買う可能性のある商品に不衛生ないたずらをしかける彼らの姿は、人々をとても不安にさせます。
そう、ここはインターネットです。コンビニで彼らを見たときのように儀礼的無関心をする必要はありません。鬨の声を上げるのは今です。
我々は彼らの個人情報をゲットします。お店の情報をゲットします。お店に電話し、彼らの家に電話し、ネット上に彼らの情報をバラまきます。
怒り狂った2ちゃんイナゴたちは暴れ周り、その結果お店は潰れ、DQNたちの就職難易度はとても高くなりました。
騒ぎが終わった後、DQNたちはどう思ったでしょうか。「ダチでもねぇ奴が勝手に俺らの写真を覗き見して勝手に大騒ぎしていった」と思うのではないでしょうか。
「現実ではスルーするくせに何でネットだと食いついて来るわけ?」とも。
これは儀礼的無関心が必要な現実社会と、儀礼的無関心が義務ではないネット社会との狭間で起きた事件です。
若者たちは混乱しています。「現実では何も言われないからネットでも大丈夫だと思ったのに・・・」
そしてこれはサードブロガーやはてな女子の問題に繋がって行くのです。
「30代でオシャレしてるOLwwwあたしゃああならんわよw」
ということを平気で言います。しかもそれを、日本のネット上でも最も気難しい人たちの居る「はてな」でそれを行います。
これはハッキリ言って場違いです。「年収○○万円の男なんてゾッとする・・・」「結婚しない奴の意味がわからんwww」「30代でオシャレしてるOLwwwあたしゃああならんわよw」
なんてのは、普通はオフラインで言うことです。誰にも聞かれないところで、女子会でやるべきです。喫茶店でやるべきです。
オフラインなら、我々は儀礼的無関心をできます。「酷いこと言うんだなぁ・・・」とは思いますが、彼女らを打ち倒そうとは思いません。
ところが彼女らは冷蔵庫侵入DQNと同じように、オンラインでそれを公開してしまいます。
オンラインでそんなものを公開してしまえば、はてなの妖怪たちが黙っているわけがありません。小難しい理屈を並べ立て、罵詈雑言を浴びせます。
「ほぉーそんなこと言うってことは喧嘩(議論)する気なんやな?オモロなってきたで!」てなもんです。
「友達でもない人が勝手にアタシのブログを覗き見して勝手に怒ってる・・・」
「女子会でこんな話しても誰も怒らないのに何でネットでは怒られるの?」
こう言われてしまうと、妖怪はバツが悪くなって攻撃の手を止めてしまいますし、さらに疑問がむくむくと沸いてきます。
「なんで議論する気ないのにそんなこと言ったの?ここは儀礼的無関心から解放されて忌憚なく議論する場だよ?」
上の言い方では少し強過ぎるかもしれません。もっと適切に言うと「反響が欲しくないのなら何で公開したの?」
ということです。
つまりはてな女子たちは、ブログで何を書こうが、現実と同じように、儀礼的無関心を他の人がしてくれると思っているのです。
冷蔵庫に侵入した若者たちと同じように。しかしその態度は、私にはとても無責任なものに思います。
「私は誰かに関心を持って悪口言うけど、みんなは私に無関心を装ってね?」といったところでしょうか。
はてな民はそれを了承しませんでした。だからはてな女子筆頭の体調わる子は苛烈な攻撃を受け退場して行きました。
「俺は好きなこと言うけど俺に好きなことは言うな」という態度のサードブロガーや虚構新聞も苦戦を強いられています。
この虚構新聞の苦戦に関しては、ネトウヨがネットの外に出て行ったことに強く関連しているので、後日それについて論じたいと思っています。
以上が、私の「現実とネットによる儀礼的無関心の違い」といったところでしょうか。
この儀礼的無関心の取り扱いの違いが、今後どうなっていくのかも後日論じたいと思っています。
シリーズ | 街へ移動 | ダンジョン脱出 | 戦闘脱出 |
---|---|---|---|
DQ | ルーラ | リレミト | - |
FF | - | テレポ、デジョン | テレポ |
BOF | ヒュール | デルダン | - |
女神 | - | トラエスト | トラフーリ |
意外と全部できるゲームが無いことに気づく。
このとき、デションは戦闘中に使うと時空の狭間に落として殺す即死技になる。
デルダンのそのまま感が凄い。
(※指摘を受け追加)
ヒュールを覚えたとき感じたのは、
貴方は覚えていますか?
トヘロスを
インパスを
トラマナを
アバカムを
レムオルを
レミーラを…
救済措置なのか?と思われる
女神のリフトマは効果範囲長かったのでトラマナさんも見習って欲しい。
FF2辺りにもいろいろ眠ってそうな気がする。
でも、こうやって見てみると、DQって本当に良く考えられてるなあーと感心する。