はてなキーワード: アドホックとは
たとえば ↓
https://www.launchexcel.com/what-jobs-use-excel/
https://www.fdmgroup.com/news-insights/advanced-excel-skills
ジャップランドで起こりがちなことはアメリカでは無いのかAIちゃんに尋ねてみたらこう言ってたよ
ワイ: 質問: 2024年において、アメリカの大企業および中小企業の間で、より一般的なデータ管理の方法はなんですか? 検索して最新のトレンドを教えてください。 - 方法A:内部データベースからCSVファイルとしてデータをダウンロードし、Excelで修正してから、
ETLツール(例:Informatica PowerCenter、Talend Open Studio)、BIツール(例:Tableau Prep、Microsoft Power Query)、
または他のデータベース(例:OracleDB)などの他のシステムにインポートする。 - 方法B:Excelのステップをスキップし、内部データベースを他のシステムに直接接続する。 - 方法C:レガシーシステムや複雑なシステムには方法Aを使用し、その他のシステムには方法Bを使用する。状況やシステム要件に応じて使い分ける。 質問のポイント: - 大企業におけるExcelの使用:大企業はデータクリーニングのためにExcelを使用するのを完全にやめましたか?それとも、古いメインフレームシステム、ERPシステム、または特定の業務プロセスの問題のためにまだ使用されていますか? - 方法A、B、Cのシナリオ:各方法の具体的なシナリオと製品名を教えてください。 - 2024年におけるCSVファイルのダウンロード:2024年現在、ETL/BIツールやクラウドベースのDWHを利用できないどころか、Oracle Gatewayなどの接続手段も利用できないデータベースの使用は完全になくなりましたか?
もしそのようなデータベースが2024年にもまだ存在する場合、直接的なデータ連携が困難なため、CSVファイルでのデータ抽出が唯一の方法となることがあります。
企業は膨大なコストがかかるために移行を延期していますか?それともすでに段階的に対応していますか? - Excelを使い続ける理由: 内部データベースを他のシステムに直接接続した方がシンプルなのに、なぜ一部の企業はデータクリーニングのためにExcelを使い続けているのですか?
↓
2024年には、大企業の間でメソッドB(直接接続)へのシフトが顕著になっています。しかし、特定のシナリオに応じてメソッドC(ハイブリッドアプローチ)も採用されています。中小企業においても、直接接続の利便性と効率性が認識され、その採用が徐々に増加しています。しかし、リソースとコストの制約により、Excelを使用したデータクリーニングやハイブリッドアプローチが依然として一般的です。
使用状況: この方法は、中小企業、レガシーシステム、複雑なデータ構造を含むシナリオで依然として一般的です。Excelはその柔軟性と使いやすさから、データ操作のための多用途ツールとして広く使用されています。
シナリオ:
製品:
具体的なシナリオ:
使用状況: この方法は、大企業や技術に精通した中小企業の間でますます一般的になっています。直接接続を利用することで、データワークフローが効率化され、手動エラーが減少します。
シナリオ:
製品:
具体的なシナリオ:
使用状況: 多くの企業が、レガシーシステムや複雑なシステムにはメソッドAを、その他のシステムにはメソッドBを使用するハイブリッドアプローチを採用しています。この柔軟性により、既存の制約と近代化の努力をバランスさせることができます。
シナリオ:
製品:
具体的なシナリオ:
データ管理ツールの進歩にもかかわらず、Excelは大企業におけるデータクリーニングと操作のために広く使用されています。これは主に以下の理由によります:
ETL/BIツールやクラウドベースのDWHと直接統合できないシステムに対して、データをCSVファイルとしてダウンロードすることは依然として一般的です。企業は高コストと複雑さのために移行を遅らせることが多く、段階的に対処しています。
しかし、直接接続はより効率的で広く採用されており、長期的にはデータ管理におけるExcelへの依存が減少すると予想されます。
クラウドベースのデータ統合ソリューションの台頭により、データ収集、クリーニング、統合がAI/ML技術によって自動化され、手動作業が減少し、データの一貫性と精度が向上しています。AI/MLアルゴリズムは、異常検出、欠損値の補完、パターン認識などのタスクを効率的に処理し、データ品質を向上させます。リアルタイムデータ分析の利点が明らかになるにつれ、直接接続の採用が増加し、より迅速かつ正確なビジネス意思決定が可能になります。
データセキュリティ、コンプライアンス、およびデータガバナンスの重要性が増すにつれ、このトレンドは続くと予想されます。
真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
https://ascii.jp/elem/000/000/119/119192/3/
伊藤 確かにいろいろ問題もあったんですけど……あったというか現在もあるんですけど、問題が起きたときにそれに対してシステム的に対処するというよりも、僕はコミュニティーの自浄作用みたいなものにある程度、意思決定を寄せているんですね。
例えば「死ねばいいのに」というタグは一時期すごく流行ってたんですけど、しばらくしたら「エントリーページのコメントでみんながそういうスクラム的なことをすると、サイトを運営している側の人がダメージを受けてしまうからあまりやらないようにね」みたいな風潮も出てきたんですよ。だから今は昔ほど「死ねばいいのに」タグって見なくなったような気がします。
もちろん別の問題も次々と出てくるんですけど、「死ねばいいのに」とか「これはひどい」みたいな問題が出てきたときに、安易に「死ねばいいのに」って書いてるユーザーのアカウントを削除するとか、「これはひどい」というタグを付けられなくするとか、あるいはそういうタグやコメントを見られなくするとか、システム的な対応をしてしまうと、対応全部がアドホック的になっていっちゃう。そうなると、多分はてなブックマークが本来持っている価値まで全部失われてしまうと思うんですよね。
SNS上での論争では丁寧に議論を積み重ねて結論を得るのは難しいので、局地戦を仕掛けて勝利を積み重ね、相手陣営が如何に非論理的で頭が悪く、自分たちがその割りを食った被害者かを第三者に主張することが有効と言える。具体的な方法としては、浮いた駒(用意に破綻する主張をしてしまう無能な敵陣営)を晒し上げてTogetter等にまとめればそれを見た大衆は「○○派って変な主張ばかりだし、馬鹿にしてもいい存在なんだな」と思ってくれる。まあ所謂セレクティブエネミーというやつである。
暇空氏以前の表自と規制派の戦いを振り返ると、これまでは表自側が優勢だったという印象は拭えない。これは表現規制派が問題とする萌え表現について問題ではなく受忍限度内であるとの判断をする人が若者を中心に多い[1]にも関わらず、表現規制を要求する際の根拠や基準を明確には示せない(少なくとも聴衆を納得させられる状況ではない※)こと。またこれまで性的な被害を受けてきた被害者であるがゆえの強い言葉での否定が晒し上げられてしまった際にパターナリズムや男性嫌悪に基づいて規制をしようとする人達という印象が先行してしまったのではないかと考える。実際に日経新聞の月曜日のたわわ広告や大阪駅の広告では規制派側の要求は通らず、広告事業者側も客ではない規制派のクレームは社内基準等を盾にあしらう、という対応が(少なくとも商業広告では)定着しつつあるように思える。またそもそも問題であると感じた萌え絵表現をアドホックに叩くという戦術は、中立であった少なくないその作品のファンが根こそぎ相手陣営につきかねない危険な方法だったように思える。
前置きが長くなったが、これらを踏まえた上で暇空氏は現在表自側の浮いた駒になりつつある。暇空氏が現在戦っている土俵は表現の自由ではなく仁籐氏の本業であるColaboのアウトリーチ活動であり、表現規制に反対する立場の人でも仁籐氏の本業の活動については肯定的な人も多い。暇空氏は生活保護ビジネス陰謀論と会計の杜撰さを武器に戦いを挑んだが、陰謀論は返り討ちにされ、会計だけではColaboを潰すには足りない。また会計の問題についても意図的な不正で大金をせしめていたというよりは単に杜撰だったという印象があり、仮に「東京都と相談の上、今後は適切な会計処理を心がけます、それはそれとして暇空氏の誹謗中傷は許せません」となった場合にどちらに理があるのかは明らかである。また暇空氏自身だけであれば良いものの暇空氏は過激なファンネルを抱えており、彼らが誹謗中傷を行ってまとめて浮いた駒として負けてしまうことは世間への印象として非常にリスクが高い。これに関連して、暇空氏と同じく表自側のインフルエンサーである青識氏はColaboへの誹謗中傷をやめるよう注意喚起をしている。これはColabo憎しで本業に影響を与えた輩がまとめて敗北する事を危惧していると考えられ、青識氏の行いはあまり好きではないがネット上での喧嘩のやり方については流石にプロであると感心した。
Colaboの本業を叩きに行く暇空氏の戦いはほとんどギャンブルであり、今後の展開によっては大敗する可能性がある。また表現の自由の枠組みの中で戦っていれば有利であった表自にとって戦線を拡大するギャンブルを犯す意味は薄い。暇空氏はすでに暴走しており止めようがないが、良識ある表自としては一度暇空氏とその過激なフォロワーに肩入れすることはせずに推移を見守るべきと考える。
※自分の意見としては規制の基準は必ずしも規制派が示す物ではなく関係者の合意によって双方で作り上げるものとの認識なので、規制派が皆が納得する基準を示せないからといって即座に主張が無効とはならないと考える。一方で規制派も表自に対して基準を検討するためのテーブルに着けとの方向性を示せず、自身らの暗黙的な基準を押し付けたのはパターナリズムとの批判は免れないのではないと考える。
[1] JR大阪駅「性的広告」に見る日本で炎上が続く真因 https://toyokeizai.net/articles/-/636895?display=b
教養になったは、さんきゅー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。
目次
1 例
2 使われる例
4 脚注
5 関連項目
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
使われる例
真のスコットランド人論法は主張者が以下の条件を満たしたときに使われたといえる[7] [3] [4]。
特定の都合の悪い反例を定義的に除外するよう変更した主張をする
レトリックを用いてその変更を隠す
純粋さへの訴えは、一般的に、肩入れしている集団の擁護に関連している。スコットランド人と見なされている誰かが凶悪な犯罪を犯した場合、スコットランドの国民の誇りの問題が危機に瀕していると想像できる。このとき、あるスコットランド人が犯した罪が他のスコットランド人と関連付けられる(これは関連性の誤謬である)ことを恐れ、この特定の構成員や行動がグループに所属することを否認する動きが出てくるかもしれない。「真のスコットランド人はそのようなことはしないはずだ」というのである。すなわち、「そのようなこと」をする人はトートロジー的に(定義的に)グループから除外され、そのグループのよい性質に対する反例にならないようにするのである[4]。
ロバート・アンダーソンは、「真のスコットランド人は……」というフレーズは必ずしも誤謬ではないと主張している。それは、このフレーズに含まれる「真」という用語の構文的文脈に依存するのだという[7]。
一般に、「真のスコットランド人」論法は「スコットランド人」にあたるものが文が指す対象と相容れない場合には正しい可能性がある。例えば、菜食主義は肉を食べないことであると明白に定義されている。したがって、「真の菜食主義者は肉を食べない」は「私の友達は菜食主義者だが、肉を食べる」に対する間違ってはいない応答になりうる。肉を食べることはベジタリアンであることと語義からして相容れないからである[8]。
IT系なんだけど、やたら横文字というか社内用語多い気がする。
いまの会社15年位在籍してるんだけど入社当初聞き慣れず、むしろ嫌悪感すらあった言葉を今、普通に使ってる。
コミット、アジェンダ、コンセンサス、アグリー、ファシリ、プライオリティ、アウトプット、
コンテキスト、プロコン、シェア、ドライバ、ハンドリング、リソース、オーサライズ、フィックス、
アサイン、ジョイン、エビデンス、リスケ、スクラッチ、デプロイ、ペンディング、アペンディクス、
オーナー、レイヤー、ロンチ、スキーム、ネゴ、アドホック、ショット、フィードバック、メンバー、etc
呪文かよ。
染まっちまったな、俺も。比較的ホワイトなので辞める決心が起きない。
でも、毎晩このままでいいのか、って自問自答。
日本政府の「長期安定電源」についての説明としてはおっしゃる通りです。一方このロジックだと、原発ほどではないにせよ、ウォームスタート・ホットスタートに一定の時間とコストがかかる火力発電が、稼働・停止コストがほぼ0の再エネをさしおいて最優先の出力制御対象になっていることをうまく説明できなくなってしまいます。「カーボンフットプリントが低くて出力制御が難しいから、最後まで残す電源にする」と条件を追加すればいいのですが、「それは原発ありきのアドホックな議論なのではないか」という批判は当然出てくるでしょう。
「カーボンフットプリントが低くて出力制御が難しいから、最後まで残す電源にする」という説明には、コストの話は出てきません。日本でVREの導入量が増え、一部の原発が限界プラント(採算割れする電源)になった場合も、このロジックを堅持していると、その原発をコスト的観点から停止することができなくなるし、逆にそのことがVREの導入可能量の制約になってしまいます(VREの電力がどれだけ安くなっても、「長期安定電源」の取り分を控除した量しか電力取引市場で売れないから)。
以前、後付けで理論を修正するのは科学的ではない、って言ってた人がいる。でも科学全体としてみると、ニュートンの古典力学をアインシュタインが上書きしたように、科学はいつだって、理論から漏れる細かい例外をアドホックに修正していく過程にある。Google なり科学的権威が氏のような、毎日ブコメに予測を盛り込んで頻繁に新しい予測を発表していくエネルギーを持たないのは、単一の理論としての科学的適合性にこだわるあまり、状況に合わせて柔軟に対応できる余白を持たないから。だけどそれじゃ足りないんだよ。
「次回の歯医者の予約は、いつにしよう?」の答え。人々が本当に必要としているのそれでしょう?
外れそうならキャンセルするしかないが、それでも予約自体はしなければならない。自分で決めなくてはならない。自分の山勘に従った判断は——実質的に、占いだ。そして個人で個別に独自の占いをするよりは、誰かが統計に基づいて “機械学習” で予測してくれた方が嬉しい。結果へのフィードバックも集中するから社会的な効率性も高い。でも人々の期待と鬱憤の交錯する中に飛び込むのは、間違いなく口で言うほど、簡単じゃない。
過去をほじってくるような連中に対してもサービスを提供しようとする勇気と、それを継続できる根気、対抗言説を突き放して進む情熱。俺は個人的に、拍手を送りたいと思う。
命題1で比較しているのは「消費者に買い遅れが生じず、転売屋がいない市場」と「消費者に買い遅れが生じ、転売屋がいる市場」。
普通に分析するなら「消費者に買い遅れが生じ、転売屋がいない市場」と「消費者に買い遅れが生じ、転売屋がいる市場」を比較しないといけないし、その場合、転売屋がいる方が総余剰が大きくなる。
これ以降の部分はざっとしか読んでいないけど、この比較を正当化するようなモデルは書かれていない気がする(見落としならすまん)。
蛇足だが。
もちろん、この比較を正当化するようなアドホックなモデルはいくらでも思い浮かぶ。
登場人物が翻弄されるその出来事の結末を、彼らにとって未来人である私はすべて知っている。
だから、彼らが知能と技術を尽くしたその行動の正否を、単なる一個人でしかない私が、100%正しく評価できる。
社会的に有意義な価値を持たない自分が、歴史的有名人の行動を逐一評価できるという感覚。
だから、私は小説の中でも歴史小説ばかりを好き好んで読み続けてしまうのだ。
また、近現代の小説ともなると、現在では当たり前に使われる科学技術(例えば、「えてきてる」だとか)に、登場人物が強い驚きを示すシーンも快い。
その人間を強く興奮させる驚きを、自分は既にいつとも知らず超越できているという感覚。
またそれは、自分が子育てを行っていた昔の、子供がテレビやら自転車やら色々なものに興味を示していた様子を想起させる。
歴史は、学問的履歴と違って、論理的に発展したわけでもないし、それが人間にとって最良に発展したわけでもない。
それなのに、「賢者は歴史に学ぶ」とか称して、歴史は自分が辞典かなんかのような学ぶべき規範だと勘違いしている。
歴史=暗記科目と思われているのも、ひとつひとつのイベントがアドホックで、共通項が見いだせない作りになっているからだ。
だから、歴史が多くの「賢者」に学ばれるためには、もっと一般化した形で表現されるべきだと思う。
つまり、歴史は暗記すべき物事に溢れた情報形態であることを止め、理想的には数学の公式のように、色々な時代にフィットできる教訓のような形を取るべきだと思う。
そういう一般化も目指さないで、「賢者は歴史に学ぶ」なんて述べる人間は「想定外」という言葉をどう思っているのか。
そりゃ、歴史的情報は暗記に閉口するほど豊富なので、どこかが現代の事物が似ていて、教訓が拾えたりすることもあるだろう。
しかし、何か悪い事項が発生したあとで、この教訓はこの歴史的事物からも読みとれる、だなんて言っても仕方がない。意味がない。
だから、歴史家には、未来に発生する事項に先行して、歴史的事物を一般化した教訓にまとめる努力が必要なのではないだろうか。
歴史家は、歴史における未知の事項を明らかにすることにだけ力を入れているように思うが、
個人的には、そういうのいいから、早く「まとめ」のフェーズに入って教訓化しろよ、早く教訓として歴史的情報を圧縮化しろよと思う。
つまり、歴史はあらゆる情報を網羅する情報の可能体であろうとする努力を辞め、その一部分でも「まとめ」として有意味な教訓を抽出してほしいと思うわけです。
いや、「まとめ」の部分は歴史以外の学問がやるべきってことなのか?
もしそうであったとしても、「賢者」が学ぶべきなのは、そっちの学問だよな。
現代に生きる我らが得るべきなのは、歴史的素材に関する知識じゃなく、現代に使える教訓なのだから。
はーーー控えめに言ってお排泄物ですわよお排泄物。今回は特にやべーですわ。
・お排泄物なスケジュール。今週中に自担当で数件の障害対応とのこと。他メンバーにも割当たってて全部で数十件ありますわ。
・締め切りが今週の金曜中ですわ。それが決まったのが昨日の月曜ですわ。最悪の手の土日返上も使えませんわ。
・せめて元々今週予定していたことリスケしてくださる?障害対応してたから他作業遅れましたはNG、なんて普段数字や日程と睨めっこしていてよく言えますわね?お子さまから算数と道徳を教えてもらってはいかが?
・計画外のアドホック試験はさぞや「やってる感」あったでしょうね?バグ出すの楽ちいでちゅか?いっぱいバグ見つけてえらいでちゅね〜〜〜。
・再現性低いのはかまいませんがせめてログ貼ってくださる?なんか知らんが起きました、から調べるの容易ではございませんわ。
・残業無制限にしていいそうですわね。それを聞いたメンバーが喜ぶと思われましたの?朗報!!みたいなノリで残業強要するの、頭のネジをお母様の中にお忘れのようですわ。
ロボット系の研究とかで色々あると思うけど、なかなか難しいと思うんだよなあ
車椅子だけでなく、いわゆるロボットを人間の基準で設計された世界に合わせて動かすとなると、
フレーム問題云々までいかなくても、ドアの開け閉めのモーションだけで永遠に悩めそうというか
ドアのノブ、取っ手の種類はいくつもあるし、その寸法も多種多様なわけだけど、
人間は常識でそれをなんとなく理解して、なんとなくで使えてしまうんだけど、
ロボットはそれが無理なんで、AIだのMLだの最近の時代になっても、
DARPAチャレンジとかで延々とドアの前で計測して、シミュレーションして、学習して、
みたいなのを棒立ちになって繰り返して、ようやく動き出して、それなのに転倒するとかw
映画とかでもそうだけど、作り手視点でなくて単に消費者視点でしか見れないと、
最先端のロボットって馬鹿なの?と思われてしまうわけだけど、そうも簡単に行かないというか、
もっとアドホックというか乱暴で良ければ楽だったりもするんだけど、
要はドアをぶち破るまで行かなくても、そこそこ傷つけてもいいとかだったらいいんだけど、
一応課題が工場の部屋に入ってバルブを締めるとかだと、金属に傷つけると引火したりもあるわけで、
なんだかんだ人間だったら、消防員が初めて見る扉だったとしても、丁寧な開閉が問題なくできるわけで、
クローラーみたいな運搬用の機械で自販機の中身を人間が駅の階段で運んでたりするけど、
飲料缶は最悪下までずり落ちても破損で済むけど、人間は死んでしまうんで、
どんな階段にでも対応できて健常者並みに安全というのを実現するのは難しいんでないかと思ったり
ちなみに、自宅の最寄り駅から近い駅にバリアフリーをかなり徹底した駅があるのだけど、
スロープやエレベーターが充実しているので、普通の駅より障害者を見かける頻度が違う気がする
やっぱり、誰の手助けも借りずに行動したいという気持ちは身体障害者にだってあるだろうし、
漁師は従前から漁師で、たとえ利潤が減っても漁師としての営業を続けることがメリットになる。船や網といった生産手段さえ守ることができれば、需要さえ回復すれば原状に戻すことができる。
一方で、件の発言に言う性風俗従事者は、もともと別の職業をしていたところを、失職等によって「短時間でお金を…稼」ぐためにその産業に入ることが想定されている。これによってキャリアはリセットされるし、経歴には空白ができる。「パッてやって、パッとやめる」といっても、おそらく元と同じ待遇を得るのは難しい。もちろんこの現実のほうが問題であると主張することもできるが、議論の実益に乏しいし、条件をアドホックに変えたら何も成り立たなくなる。
漁師は従前の職業を続けるだけなので、社会情勢の影響は受けていない。
しかし、一時的に性風俗従事者になる者は、「短時間でお金を…稼」ぐ必要があるという制約のもとに選択肢が限られた結果である。前から転職しようと考えていて幸いにも好機が訪れたというような例は、絶無ではないにしても、かなり少数かと思う。中には、実質的に他の選択肢が失われたような例もあることは容易に想像できる。
まあ、「コロナの影響による失職者がカツオ漁船に流れてよいカツオが安くなるのが楽しみ」とかだったら、同じと言えたかもしれない。