はてなキーワード: 狭間とは
人生50年と言われた時代ならもう折り返し、何もすること無く連休が終わるので振り返る。古い記憶は思い出すのが難しく、新しい記憶ほど濃く出てしまうのは仕方ない。
進研ゼミをやってたこともあり勉強はそれなりに、いやそもそも小学校の範囲なんて普通に聞いてればどうにかなるだろうと。
運動は苦手というか嫌いで部活はインドア系、今で言う程の虐めは無かったがからかわれたりされるキャラ。同じ目立たな系グループや、全方位社交的タイプの人や、辛うじてまだ友人と呼べる人がいた。
この頃、パソコン(PC-9821)を買って貰った。もちろん建前は一家共用のもの、だけど実際に使うのはほぼ自分だった(PC-98というところかしてお察しください)。
当時のパソコン通信もやるようになり、「馬鹿(なことを言う奴)は叩かれる」という現代に通ずる教訓を得ることができた。
そして勉強。生来のズボラさ、真面目系クズの因子があるとこの辺で勉強に付いていけなくなる。当然、落ち零れ始めると進研ゼミはテキストも開かない、課題提出もしないまま高3まで継続することになる。
この頃、一人だけ自分に対して話しかけてくれる女の子がいた。「○○って好きな人とかいるの?どんな人?だれだれ?」と妙に絡んできたり、将来はパソコン使う仕事がしてみたいとか話したら、教室の班内で日記的なものを順に書き教師に提出するノートで(明らかにそんな興味はなさそうなのに)「パソコンの仕事がしてみたい」と書いたり、それなんてエロゲ的な知識からするとフラグと思えなくも無いが目に見えないフラグなんて何の意味も無いし気付くわけが無い。しかし今でも夢に見ることがある。お陰で、上述したエピソードどころかその存在すらも夢の中で自分が妄想したものではないかとすら疑い始めている。
この辺りから、顔を知っているという程度の知人はいても友人というほど親しい存在がいなくなっていた。放課後に誰かと遊びに行くこともなく、パソコンにかまけていたんだと思う。
中学時代の女の子は帰り道が一緒になったときに声を掛けてくれたりたまに話してくれたりもしたが、いつしかそれも無くなり、逆に自分が無意識に目で追っていることに後で気付いた。
大学受験は散々だった。理系なのに数学の内容が全く理解できない時点で終わってる。結局、3月過ぎの最終日程で、得意な現国一教科受験が可能なFラン大学の新設情報系学部へ滑り込みを果たした。
(高い)金さえ出せばアホでも行けるという周囲の評判通り、他学部ではチャラそうな男女が目に付いたが、一日自由に誰の目を気にすることも無く快適なパソコンとネットが使えるというのは大変に魅力的で暇さえあれば通い、家では新作エロゲをひたすらプレーしていた。
ゼミのメンバは(イベント毎があれば何かしたがるリア充的な彼ら特有のノリで)大変に気さくで飲みに行くこともあったが、それ以外の場ではやはり話す人も無く、遊びに行く友人も無く、淡々と3年で必修単位を取ることに徹した。卒業1年後、ゼミの同窓会的な催しの連絡があり行ったが、その後は音信不通となった。
氷河期と呼ばれる時代は辛い。私はこの時点まで使う必要がないことから携帯電話を持っていなかったが、さすがに差し障りが大きいということで親名義のものを譲って貰った。
就活は自己分析に始まり自己否定に終わる。誰もが思ってもいない建前を並べ、何処でも良いから内定を寄越せという本音を隠そうとするがそれでも否定され、自分が社会に不必要な存在であると言うことを実感させられる。
「性格分析の結果だと、凄く明るくて社交的なのに全然違うね?」と宣うぐらいなら、性格検査なんていうアホな試験をさせるべきでは無い。何処の世界に就活で、自分は暗くて内向的なコミュ障ですとアピールする奴がいるというのだ。
「凄く優秀そうなのに、どうしてまだ未内定なのか不思議です」、その理由はすぐ横にいる人事に聞けばいい(これを言われた面接で落とされた)。
しかし50、60、と面接の回数を重ねると利点が一つだけ有る。心身が疲弊しきって、面接程度ではもはや緊張を覚えなくなるのだ。相手も本気で新卒に何かを求めているわけじゃない、地雷かどうかを見極めているだけだ。グループ面接で聞き飽きた他人のエピソード第一位は「サークル or バイトのリーダーとしてイベント or 仕事を成功させた」だが、横で聞いてる自分ですらまたかよと思うのに採用担当者ともなればもうやめてくれと思うんじゃ無かろうか。
そんな無我の境地が奏功したのか、一社だけ内定を得ることができた。自分のやりたかったこと(開発)とは微妙に異なるがIT系ではあるので運が良かった。
アキバをオタクの聖地だなんて今でも言うのか知らんが、半導体からアニメまで界隈に集い、ここに慣れてしまうと他が物足りなくショボく見えてしまうのは仕方ないことだと思う。毎週通うために回数券で切符を買っていた。
仕事の方は、残業70~90H/月程度だったがこの頃は羽振りがまだ良く残業時間にうるさくは無かった。むしろ残業代の形で還元されることもあり、周囲含めて生活残業が多かったのだと思う。
しかしそんな給与は1円も貯金すること無く、エロゲやアニメDVD、同人誌、マンガ、CDへと消えていった。
社会人何年目かで、アキバで出会ってしまったのがいわゆるドールだった。フィギュア的な造形でありながら、フィギュア以上の表現力を持ったそれにすっかり魅せられてしまった。
ドールは大量生産に向かないためか通常に買う場合でも一体6~10万、過去の人気ドールともなるとヤフオクで20万、30万、もしくはそれ以上という異常な価格となる。しかし買えない価格では無い。そう、社会人にとっては多少無理をすれば大抵のものは買えてしまう。
ある時、どうしても欲しいドールがあり、初めてキャッシュカードに付属したキャッシング枠を使った。そしてクレジットカードと同じように後日それを返すだけ。
人間の感覚というのは本当に恐ろしいもので、一度味をしめると慣れが生じる。経験が油断を生み、警戒心を歪ませる。
間が悪いことにこの頃、親会社への出向が解除となり入社以来縁がなかった自社に戻ることになった。子会社にとって残業時間管理は死活問題、定時を過ぎて用が無ければ帰れとしつこく言われ、何年かぶりに明るい時間の帰宅をした時は戸惑うしか無かった。
残業時間が減れば残業代が減る。残業代が減れば収入が減る。収入が減れば欲しいものが買えなくなる。ここで話は戻り、足りないなら借りるしかないということになる。
最初のキャッシュカードの使用枠はいつの間にかなくなり、別の消費者金融のカードを作っていた。最初は50万だけだったのが、100万、200万となり、気付けば借金は3社で計400万近くなっていた。
消費者金融における総量規制により年収の1/3以上を借りられなくなるという話を聞いたとき、ようやく現状を省みることができた(総量規制に便乗した、いわゆるおまとめローンの案内が来た)。
多分、一種の買い物依存症だったのだろうと思う。買うという行為自体に満足感を覚え、DVDやマンガなどは買ったときのレジ袋のまま部屋に放置していたというのがその証拠だろう。酒や煙草は全く嗜まないこともあり、溜め込んだストレスを知らず知らずのうちに買い物という方法でしか解消できなくなってしまっていた。
この400万近い借金の返済には6年を要した。途中、1円単位で小金を集めて用意することもあったが一度の遅延もなく(信用情報上、大きな借金がある時点で不利なのにさらに遅延があると極めて不利になるので絶対に避けたかった。また、大きな借金があっても遅延無く支払っているのであれば継続的に安定した収入があると見做される)、むしろ終盤には収入が増えて余裕ができたこともあり予定より三ヶ月ほど早く完済が叶った。
あれほど金が無い、金が無いと言っていたのに今では200万程の残高がある。しかし三十路を過ぎた男が200万しか貯金が無いというのは余りに情けない。
しかも20代の頃はただ闇雲に浪費を重ね、何かを極めたわけでも、引き換えに何か誇れるものを得たわけでも無い。そして30代の前半は今月分を返済したら幾ら残るかを考えるだけで過ぎてしまった。
社会人になってから自名義で契約した携帯電話としてiPhoneを持っているが、その番号を知る知人、友人、家族はいない。掛ける相手もいないので履歴は全てセールスの着信で、発信履歴はない。
一度、中学校の同窓会案内が転送されてきたことがある。当時はそれどころではなかったのと、中学時代の同級生に特に思い入れも無かったこともあり返信すらしていなかったが、引越の時にその案内書がでてきた。よくよく見ると同窓会の告知するwebサイトの案内があり、ふとした興味で何となく覗いてみた。いわゆるBBS、当日の写真といったものがあり、聞き覚えのある名前を発見することができた。
写真は年相応になった懐かしい(…とはあまり思えなかったが)面々、年老いた教師、といったものだったが、BBSの方は久闊を叙するメッセージの狭間に「当日は子供の世話が…」「嫁の都合で…」といった文言が有り衝撃を受けた。恐らく当時は26、27ぐらいの年齢だと思うが、見覚えのある名前がそういう状況になるというのはなるほど奇妙なものだ。赤の他人の話であることに違いはないのに、すぐ横で出し抜かれたような気がしてしまうのだ。
今となってはもう友人も恋人も結婚も望むべくもないし全てが遅すぎた。もし来世があり、草や木に生まれなかったのなら次はもう少し人間らしい人生を送ってみたかったと戯れに考えてしまう。
その日はジェッタシーを楽しもうと思った。
家から車で二時間かかる街にそれはある。昔その街に住んでいて足繁く通っていた。全般的に女の子が可愛く、内容も良かったからである。住処が別の場所になっても、年に一、二回はその街で楽しんでいた。年に一、二回なのは、物理的に遠いこと、安月給なので頻繁には通えないことなどが挙げられる。
恋人や配偶者、そして友達は作らないようにしていた。自分の時間が削られるのは酷く苦痛であるから。無用な騒乱で人生を消耗しているのを間近で見て、自分はそうあるまいと思った、というのもある。媒体を通して欲を発散出来るなら、自分はそれで良かった。
移動中は音楽を流す。理性と性欲の狭間で無音に耐えられないからであるが、その時は普段聞いている音楽ではなく、昔頻繁に聴いていた流行曲を流す。誉れな事をしているとは思っていないので、普段お気に入りの音楽だと曲が汚れると感じているからだ。
そうこうしているうちに、件の街に到着した。自分はいつも若くて乳房の大きい女を求めている。希少価値など求めてはいない。それは浪漫であり、生き方であり、故郷である。適当に案内を物色して電話をかけ、休憩所へと趣き、煙草を喫みながら待っていると彼女はやってきた。大和撫子ではなかった。ここで少し、否、酷く落胆した。ここで国柄のことについて問いかけることはしないが、せめて明言はしてほしいと思った。だが無碍に断るわけにもいかない。どんな相手であっても全力で相手をするのが竿師としての自分の矜持だからである。情事の詳細は割愛するが、一頻り喋り、一頻り目合い、また一頻り喋って別れた。大和撫子ではないことを除けば、それなりに有意義な時間であったと思う。
だが帰路に着く時思い直してみる。確かに悪くはない。だが良くもない。寧ろ悪い。ほぼ丸一日の時間と、そう安くない値段を投資するほどのものではないからだ。非常に良い。そう思えなければ、この投資は失敗である。その意味で言うと、その日のジェッタシーは失敗であったと言える。
そんな思考を巡らせると空腹を覚えたので、途中飯屋に寄った。比較的値段の安く、比較的量もあるところであった。飯を食らう。これも悪くはない。だが良くもない。寧ろ微妙である。微妙なのだ。微妙であるのは駄目であるよりも質が悪い。第一印象が良くなくても味わってみると悪くない、そう思える事は偶にあるのだが、先の件にしてもこの件にしても、全てが微妙なのだ。商品としての最低限は通過しているが、何かが足りない。最低限以下あればそれはそれで面白いのだが、最低限以上優良以下の成果は、自分の心情を暗澹とさせた。どれもこれも微妙なのだ。
それにしても、この街も様変わりしてしまった。自分が住んでいた頃は、どこにでもいそうな若い大和撫子が沢山いた楽園だったのに、今や楽園ではなくなってしまったのだ。最後の依代がなくなってしまって、ひとつの青春が終わったような響きすらある。だが地獄にも仏がいるように、追放された楽園にも神はいるかもしれない。それは途方も無い博打ではあるが、値打ちのないものとも思えない。
あれってお母さんの死について歌ってるよね。
薄化粧した朝
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛しい人
どんな言葉並べても
今日は贈ろう
花束を君に贈ろう
愛しい人
どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう
宇多田ヒカルがすごいのは、曲を悲しい場面にも幸せな場面にも適用できるように作れるところだと思う。
今までもそうで、陰と陽が混じって揺らいでるようなところが宇多田ヒカルの特徴だよね。
花束を君にも、結婚式でも流せるし、死んだ人を思って歌うこともできる。
桜流しでもそうだったけど、宇多田ヒカルがこんなに負の方向へエモーション振り切った楽曲をつくることって今までなかったと思う。
もとからダウナーではあったけど、悲しみっていうより切なさと癒しの歌が多かったから。
UHSCvol.2の頃からだけど、伴奏もだいぶ変わったよね。
打ち込みで電子的なものメインだったのが、ピアノとか弦とドラムっていう基本構成を崩さないようにやってるんじゃないかと思う。
そうすることで歌声も際立っているし、前みたいに楽曲のなかで声を楽器の一部みたいに使うっていう方向じゃない。
だから新曲二つとも、シンプルに「歌」っていうものの力強さを感じるよね。
ライブで歌っているのを聞きたいって思ったな、珍しく。
今までの宇多田ヒカルのトラックは、それ自体で完成された音源という感じだったから、これも新しさを感じる部分だと思う。
もしかしたら歌の強さ、メッセージを伝える強さみたいなものは、お母さんへの意識なのかもね。
フルで聞かないとわかんないけど
NHKで特集の再放送があったんでまとめて見たら、けっこう面白いのを見逃してたよな気がしたんで書いとく。
http://animatorexpo.com/titlelist/
ちなみに1/31で一度だいたいの公開が一度止まるらしい。赤字プロジェクトのままらしいし、ちょっともったいないので感想を書いてみた。
エヴァ資料ちょいだし系とモヨコ(のマンガ紹介)は外した。正直わかんなくて項目を立てなかったのは「電光超人グリッドマン」「月影のトキオ」「偶像戦域」「ブブとブブリーナ」「ザ・ウルトラマン」「世界の国からこんにちは」「カセットガール」。エロい人解説よろ。
アニヲタってほど詳しくない、作画ヲタでもないので、なんか間違いがあったらツッコミ歓迎。
http://animatorexpo.com/thedragondentist/
冒頭の湯浴みシーンの水の質感がちょっと懐かしい。キャラの動き方も世代的には旧エヴァよりちょっと前、ナディアとか好きだった世代には嬉しい感じ。サントラの中に「雲龍」ってのが入ってるのは、出てきた軍艦は雲龍型ってこと?ミリヲタの人に聞きたいわ。あと和物ガジェットを少しずつ重ねていくことで和物ファンタジーにうまく繋げてるのがいいかな。
NHKで紹介されてた吉崎響×井関修一の監督×作監コンビだったのでこれも見た。前半は単にエロでしょと思ったんだけど女体が非エロなものとしてゲシュタルト崩壊していくのがいい。そのくせ幾何学模様もエロを連想させやすい形を維持しているのは、わかりやすく狙ってるんだろね。そこに至るまでを含めて見ると、どぎついコンセプトとは別にキャラの描線も美しいのが感じられてくる。早い段階で女の身体が襲ってくるモチーフが出てきたことで、序盤のエロが単なるエロではなくなった。その辺の流れの作りこみがうまい。
後半エヴァ風スーツで一人称シューターする感じとか、デザインそのものが新しいわけじゃないけどマイナーアップデート感があるね。最近の映像作品全般でもわりと出てきてる手法だけどね。
幾何学模様もエロというのは、その後に同じコンビで出た「GIRL」も同じ。あの舟を見下ろしてるのはコレだよねってのが分かりやすい。百合をクリオネみたいに生やすのはなんでだろって思ってたんだけど、終盤に対応するシーンがあったかな。
再編集で出た「ME!ME!ME! CHRONIC」はさほどでもなかった。だから「ME!ME!ME!」と「GIRL」さえ見ればいい。
女主人公の西部劇短編なんだけど画面に古いフィルム映画風のヨゴシを含めたカメラワークが特徴。隻腕ガンマンのアクションを網羅してるのも(・∀・)イイ!!
鉛筆書き風のは「かぐや姫の物語」があったけど、それで「南くんの恋人」をやるとスマホが意外と面白い表現手段になるんだなと思った。感情に応じた描線のゆがみもよいけど、最後の表情の微妙な変遷がかなりよかった。
見本市にはMusicClip的なつくりのものが結構あるけど、その中でも都市の描写がいい。おしゃれアニメって言葉は濫用され過ぎてるきらいがあるけど、こういう「都市に在りそうな物体」配慮の行き届いたのをオシャレって言ってほしいかな。
トップ推し。大型のなんかについての鈍重さの表現が、エヴァ周辺のあれこれだけでなくて、ここ数年の怪獣映画が気をつけつつあることとも呼応してるよね。『パシフィック・リム』とかね。
声優にハイテンションで喋ってもらう。こーゆーの好き。風刺モノっていうのは要点をわかってるほど基本付き合うのがタルいので、タルくない速度でやるならこのくらい早回しで作る必要がある、ということを確認させてくれる。これから見る人に言っておくと、英語字幕つきで見たほうが会話のリズムがわかっていい。
ここまで完全に言い忘れてたけど、「見本市」作品の男役はみんな山寺宏一、女性系の役はみんな林原めぐみ。この二人の声優が全作品で演じ分けてる。そういう契約なんだろうか、確認してないけど。作品は好き好きだろうけどこのことがわかるとヲタ的に楽しみ方が広がって、いいよな。
今石監督作品。「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」とか「キルラキル」とかにあったうち一部の部分をさらにどストレートな方向に圧縮したようなやつ。煮詰め方は凄いけど、推せるかっていうとわからないな。
わかりそうでわからない。中毒になる人はなるんでは。それはそれとして細かい演出が結構凄いんじゃないか。だって「イカ娘」と「日常」と「九井諒子短編集」が全部入りな上でエヴァ系の知財を使えたら、まあこうなるよなって。今更めぐ姉でそういう企画できるってのはつくづく良いプロジェクトだよこれは。おかわりいただけるだろうか。「そうそう、艦これの雪風二次創作を消費してる時の俺らってこういうの見たかったよね」みたいな。おかわりいただけるだろうか。
ミステリと時間SFとをショートショートでやったってところ。筋がさほど捻られているわけではないけど、男の指の滑らせ方の演出が殺人と性欲(と愛情?)の狭間を漂っている。オチが文字通りの文脈依存なまま終わるのもショートショートとして(・∀・)イイネ!!
安野モヨコのデザインしたキャラで四季を表すコマ撮りアニメを実演してる。コマ撮り用の素材のチョイスもいい。
すしお絵でこういうのやるの、かわいいに決まってんじゃん(ももクロZのもそうだったよ)、というのがファーストインプレッションだけど、まあ密度が高い。押し合いへし合い口撃戦のところとか良くね?良くね?
さかき漣「顔のない独裁者」って小説が元らしい。エヴァやジブリってよりは大友アニメや押井アニメの大きな流れで見た方がいいのかな。政治を扱ってることそのものよりは政治と性的不能とを安易に直結してしまうところに「いまどきこれはないでしょー」な筋悪さを感じる。原作をみてないからアニメスタッフにどこまで責任があるのかわかんないけどね。でもねこういうの好きだよなみたいな共感もあるよね。
クレジットを見ると監督が平松禎史さんってことで。彼の関わってる寄生獣アニメ化は全体的に良かったし、こういう方向でももう少し長いのをやってくれるのかなという期待を持った。
俺屍をやってた当時の俺の頭ン中は終始こんな感じだったな。スキスキダイスキ。ただ他の人にとっても良いかどうかはわからん。
盛々のグロ要素に対する薄暗い欲望と、あと昨今の劇場版アメコミ映画で金払って数時間座らされて「なんだこれっぽっちかよ」、みたいな気分にさせられがちなイライラの、どっちも手短に上手に昇華してくれてありがとう。
中盤くらいからカウボーイビバップ直撃世代が泣く展開になってるんだよ。わかってくれるか。老害ですまんな。マジで。
校舎内で上條淳士絵の美少年が空想のフィギュアスケートで踊りそのまま成長して表舞台に、というだけでもう楽しいでしょ〜。
ただ幾つかフィギュア素人なりに疑問に思うところもあったかな。男子シングルの練習をしている主人公が妄想にしてもいきなりペアの技を繰り出せるのかとか、ジャンプ後の着地がイマイチそれっぽく見えない瞬間があるとか、そういうトコね。ただ今後フィギュアスケートのアニメとかが出てきた時にこの短編はなにかと作例として見直されるんじゃないかな。
感心の方向としては「坂道のアポロン」の運指にちょっと近いものがあるね。
作品それ自体の好みを抜きにしてネタのゴリ押しで大爆笑させてもらえたのはこれが一番だった。B級映画を見慣れてる人ほど笑いとして刺さるんじゃないかな。「エヴァのTVシリーズは前半でしょ」と言いたがるタイプのアニメファンにもどうぞ。
冗談はさておき、他の作品も広い意味ではエヴァその他のIPを使ってるのに一番半端な知財の使い方で、やらなくてよかったことなんじゃないのこれっていうのが残念。最後の数十秒の良さも音響のおかげというところがあるし、これの目指すエモさは本当はエヴァじゃなくてよかったんじゃないの。
これ自体がそこまで悪いってわけじゃないんだけど、パロディを取り混ぜた知財の使い方でとりわけ上手だったのは「おばけちゃん」だったから、比べてしまうね。
どうしようもない好色のロボの話ではあるので最初は見かけた時不愉快だった。だけど見直すと、作画の良さが際立ってることは間違いない。それだけ取り出して褒められるかどうかというのが、こういう好色バカを扱う作品の難しさだね。
この作品に限った話じゃないけど、そーゆーポリコレ関係(ジェンダー論とか差別とかどうこうってやつね)がクリアできてないのは「見本市」にはむしろ多くて、さすがにこの貧相さで大丈夫かなと思わなくもない(映画もそうじゃん、とか言ってる人はごく最近の映画を見てない不勉強な人間なので無視するよ)。もっともね、そーゆーポリコレのズサンな点が気になりだして作画や造形が評価できなくなるのはよくある落とし穴なんだけどね。ハマるよね。
ジェンダー論ガン無視していい作品作ろうと思ってる作り手と、ジェンダー論だけやっておけばそれだけでいい作品語りができると思い込んでる語り手と、どっちも怠惰さで言やどっちもどっちだけど、四分六で後者の方がやや罪が重いかな。映像の良さをしっかり語れる作り手と語り手がジェンダー論にも手を抜かないくらいがちょうどいいね。
結論としては「POWER PLANT No.33」「おばけちゃん」「イブセキヨルニ」が推し。次いで「ME!ME!ME!」「I can Friday by day!」「ENDLESS NIGHT」「ヒストリー機関」あたりが良かった。異論は認める。
このアルバムはすごい名盤だってものすごく語りたいです。音楽にうるさい方々にも積極的に聴いていただきたいなと思う次第です。
でも、こういうのをあまりべた褒めするのって結構怖いですね。音楽の好みは人それぞれですし。
自分が最高!って思ってても世間的には全くそんなことないなんてことは本当によくあります。妙に褒めると反発をくらいかねないです。
実際、音楽雑誌とかの「2015年ベストアルバム特集」をぱらぱら読んでみても全然話題に出てなかったので。まあそんなもんです。自分の視野が狭いだけです。
とはいえ、それなりに注目されて評価されてるのかなってのはなんとなく勝手に思っていたので、年間ベストに入ってなくてちょっとがっかりしました。
だから自分で語ろうかな、と思い至るわけですが、やっぱり、ハマってしまったあまりに冷静さを失った文章になる気がするので、書いて叩かれるのが少し怖いところはあります。
花澤香菜とは、声優です。人気若手女性声優です。名前くらいは聞いたことがある人が多いと思いますし、検索したほうが理解は早いです。
声優の中ではアニメの出演数がトップクラスに多いです。1年間に何十本も出ていたりします。最近は少し落ち着いてきましたけどね。
特徴は、ウィスパーボイスというか、天使のようにかわいらしい声ですね。ヒロインボイスです。個人的には少し荒げた演技も好きですが。
声に含まれる倍音成分がものすごく豊富らしいです。科学的に実証されてるらしいです。
声優なので、当然ソロで歌手デビューする前からキャラソンとか歌っていました。化物語の「恋愛サーキュレーション」という曲がレジェンド級に有名です。
あと、セキレイという作品のライブで歌った時の歌い方がネタにされてて、わりと音痴っぽい扱いを受けてました。
そして、2012年に満を持してソロ歌手デビューをするわけですが、みんな歌の方は割と心配してました。
私も深夜アニメはよく見ていて花澤香菜さんのことは当然知っていましたが、当時は特別好きというわけでもありませんでした。
しかし、プロデュースするのがROUND TABLEの北川勝利だというニュースを聞いてにわかに興味が湧いたのを覚えています。
ROUND TABLE、及びfeaturing Ninoは好きで聴いていましたし、声質との相性も良さそうだということで、けっこう期待していました。
その後2013年に1stアルバム「claire」がリリースされたのですが、確かに名盤でした。
北川さんをはじめ、中塚武、神前暁、カジヒデキ、宮川弾、矢野博康、沖井礼二などなど、渋谷系の流れを汲むポップス好きにとってはたまらない作家陣で、花澤さんにぴったりの歌を作ってくれました。
花澤さんも声優らしく表現力豊かに歌いこなしていて素晴らしかった。「マダダーレモー」とはなんだったのか。たぶん自分の歌い方ってのを少しずつわかっていったんでしょうね。
1年後の2014年には25歳の誕生日を迎えることにちなんで25曲入りのアルバム「25」をリリースしました。ものすごいハイペースです。
この2ndアルバムでは岩里祐穂さんを作詞に迎え、花澤さんと意見を交わしつつパーソナルな部分を反映させた曲作りをしています。
そのうえで、25曲という多さを生かして幅広いジャンルの曲に挑戦していきました。
そんなこんなで、アニメやらレコーディングやらライブやらで多忙を極めた後に迎えたソロ活動3rdシーズンの集大成が「Blue avenue」になるわけです。
Blue Avenueがリリースされるまでに、3つの先行シングルが発売されました。
しかし、この3曲を聴いて「このアルバムってこんな感じか」と思ってはいけません。
むしろ、この3曲がアルバムの中で最もコンセプトから外れている曲といっても過言ではないでしょう。
では、このアルバムはどんなコンセプトで制作されたのでしょうか?
「Blue Avenue」のコンセプトは一言でいえば「ニューヨーク」です。
テーマがニューヨークになった経緯はインタビューで話されています。
──今作のテーマは「ニューヨーク」とのことですが、なぜこのテーマを?
ニューヨークはわりと後付けなんです。アコースティックライブの「かなまつり」みたいな少人数でのライブを何度か経験して、少ない音と声で作り上げる空気感っていいなと思っていて。
3rdアルバムの方向性を考えているときに、「あの自由に音楽を楽しむ感じを生かすなら、ジャズをやってみるのもいいんじゃない?」って意見が上がったんです。
その中でニューヨークというキーワードが浮かび上がって。ジャズの街でもあるし、ほかの新しい音楽に挑戦するのにも「ニューヨーク」をテーマにすれば統一感のある作品になるんじゃない?って。
ジャズ、AOR、フュージョン、レゲエなど、これまでのアルバムと比べると「大人」な雰囲気を持った曲が多めのアルバムになっています。
そして、ニューヨークといっても70~80年代くらいのニューヨークのイメージという感じがします。
それはSwing Out Sisterが参加してるのもあるかもしれませんね。
詳しい方ならば、楽曲のクレジットを見ればこのアルバムがどういったアルバムなのかがわかるかもしれませんね。
ということで曲目・スタッフリストを載せたいのですが、長いので記事の末尾に載せました。
こういうのをあまり主張するのもどうかと思うんですが、参加しているミュージシャンが豪華です。
クレジットを見ていただければわかるように、今までのアルバムでおなじみの作家陣に加え、シングル曲ではSTUDIO APARTMENTややくしまるえつこがサウンドプロデュースをしたり、2つのニューヨークレコーディング曲においてウィル・リーやスティーヴ・ジョーダンなどの海外のスタジオミュージシャンの参加、80年代から活躍するイギリスのユニット・スウィングアウトシスター提供曲など、一流の人たちがたくさん参加しています。
まあ、極端な話、名前は知らなくてもいいと思うんですけどね。聴けばわかりますから。「I ♥ NEY DAY!」「Nobody Knows」での軽快なドラムが気持ち良いなあとか、「Dream A Dream」の洋楽っぽい感じがすごい良いとか。ここでいう洋楽っぽいってのは英語圏の歌っぽいなあっていう意味ですね。洋楽の日本語カバーみたいな雰囲気がありますね。それもまた味。そして、セリフのパートがあって、もしかして本業が声優であることを意識して作ってくれたのかなとか想像してみたり。
おなじみの作家陣もすごい良い仕事をしてくれています。というかキレキレです。特に矢野博康作曲「We Are So in Love」が光ってますね。4つ打ちのフュージョンで、イントロからもうたまらないです。シンバルズの頃から思っていたんですが、矢野さんは王道のポップソングもいいんですけど少し趣味に走った感じの曲を書くと時々とんでもない名曲を生み出しますね。
一つだけ主張しておきたいのは、みんな決して無駄遣いではないということですね。すべてが良い方向に結びついています。
「ニューヨーク」というコンセプトがあって非常に統一感があるのが素晴らしいです。
最初に「シングル曲がコンセプトから外れている=ニューヨークっぽくない」と言っておいてなんなんだ、と思われるかもしれませんが、このアルバムの面白いところは3つのシングル曲が違和感なく自然に収まっているところなんですね。
バラードの「君がいなくちゃだめなんだ」が終盤に入ることでアルバムがよりドラマチックになっています。そこから最後の曲「Blue Avenueを探して」に続くのがもう最高ですね。西寺郷太さんの歌詞がいいんですよ。
クラブミュージックの「ほほ笑みモード」ややくしまるえつこさんの個性が色濃く出ている「こきゅうとす」も、意外なくらい自然に入ってるんですよね。それは曲順が考えられているのもあるんですが、「ほほ笑みモード」がアルバム用ミックスになっていたりなど、音づくりにこだわっているからというのもあるのでしょう。後述しますが、このアルバムは音が良いです。
アルバムとして非常によくまとまっていて、通して聴いた後の余韻が良い感じです。
NYで録音した2曲は際立って音が良いんですけど、それに劣らず全体的に非常に高いクオリティの音づくりがされています。花澤さんのアルバムは1stの頃から一貫してソニーの茅根裕司氏がマスタリングエンジニアを務めていて、常にクオリティが高かったんですが、今回は最高の出来栄えなのではないでしょうか。オーディオに詳しいわけではないので断言はできないですけど。
シングル曲が違和感なく収まっているのもマスタリングによるところが大きいのでしょうか。詳しくはわかりませんが、ぜひ良いヘッドホンでじっくり聴いてほしいと思えるくらい良い音です。
ニューヨークっぽいということでAORとかフュージョンを取り入れた、と聞いても正直ピンとこない人が多いんじゃないかと思います。AORってどんな音楽かを説明できる人って実はそんなに多くないのではないかと。結構マニアックなところを突いてきてると思います(そんなことないよ、常識だよとお思いの方もいるでしょうが)。
でも、そういうジャンルとか全く分からなくても「良いな」と思えるようなアルバムになっているのではないかと思うのです。それは曲自体がそう作られているというのもあるかもしれないんですけど、やはり花澤香菜が歌うということでポップスとして完成されるというか、そこに花澤さんの歌のすごさがあるのではないかと思っています。
3rdアルバムを出すまでの3年間で60曲以上のオリジナル楽曲を歌い、ライブも精力的にこなしてきたからこそその次元に達しているというか、こういう曲を楽しみながらポップスとして歌える筋力がついたのではないかなと思うのです。それこそ「25」あたりの頃の怒涛のスケジュールが千本ノックのように効いてるのかもしれないですね。
1stの頃は作家の作る曲を最大限に活かすために歌うという感じ、それこそ声優としてディレクションに応えるような感じで歌っていたように思うのですが、「Blue Avenue」ではコンセプトの発端が花澤さんの意見であることからも、ちゃんと歌手になってきてるのだなと感じます。
当然ですが、豪華なメンツに霞むこともなく、曲に負けているだとか歌わされてるだとかいう印象を全く受けません。むしろ北川さんも他の作家さんも花澤さんをプロデュースすることで新しい扉を開けているような感じさえします。インスピレーションを与える「ミューズ」なのかもしれませんね。
私が花澤さんのアルバムの中で際立ってこれを好きなのは、花澤さんと作家陣が一緒になって制作している感じを受けるからなのかもしれません。化学反応が起きているのをひしひしと感じます。
また、花澤さんは1stの頃から自作詞曲を歌っているのですが、今回も2曲作詞していて、ちょっと詞もこなれてきたというか、アーティストとしての一面が出てきたような感じがします。
「タップダンスの音が聴こえてきたら」では音楽に身を委ねることの喜びをシンプルに書いていて、歌を楽しめている感じが伝わってきます。
タップダンスの音が 聴こえてきたら
軽やかなそのリズムに 身をまかせて踊るの
今はいらない ふみならそう 夢中になるだけさ
一方、「プール」では暗い部分を歌っている感じで、こういうのがあるとなんというか、深みが増しますよね。
花澤さんは詞を書くと少し重たい感じになってしまうみたいで、それもまた個性というか、人気声優としてバリバリ活躍している彼女の影の部分が垣間見れるようで、イイですよね。
どうやって喋ってたかな
ねえ どうやって眠ってたかな
どうやって歩いてたかな
ねえ どうやって 笑ってたのかな
わからない 思い出せないの
もしかしたらここまで惚れ込んでいる理由はライブを見たからなのかもしれません。花澤香菜の歌の魅力の真骨頂はライブにあるのかもしれません。
武道館公演の映像を収録した「Live Avenue Kana Hanazawa in Budokan」というBDが発売されているのですが、アコースティックライブの映像も収録されていまして、他にも素晴らしい映像特典もありまして、とても素晴らしい商品です。
花澤さんの歌って生演奏にすごく合うんですよね。地上波で「こきゅうとす」を披露したこともあるんですけど、それとは全然違いますね。ライブの「こきゅうとす」すごく良いです。
武道館ライブではバックバンドの通称「ディスティネーションズ」にホーンも加わって、とても豪華なものになっています。
一番の見どころはジェームス・ブラウンの「Get Up (Sex Machine)」(ゲロッパ)に合わせて花澤さんが好きなパンの名前を叫ぶというパフォーマンス(メロンパン!メロメロ!)。冷静に考えるとすごくくだらないシャレなんですが、演奏がガチであることと、みんなすごく楽しげな様子が印象的で、とても幸せな空間が出来上がってるなあと感じました。
あと、花澤さんのパフォーマンスがいちいちかわいらしいんですよね。「Merry Go Round」の振り付けとか。
そして、アコースティックライブが素晴らしいんです。花澤さんの生歌ってこんなに良いものなのか、とため息が出ますよ。本当に、歌がヘタであるような扱いをされていたのが嘘みたいです。声量は確かにそんなにないのですが、歌の細かい表情付けがたまらなく上手いです。ピアノとギターだけの少ない音だと余計に際立ちますね。
誰にと言われれば万人に、と言いたくもなるんですけども。
最近、星野源やらceroやらで、ブラックミュージックとかシティポップとかそういう言葉がよく聞かれるようになったんですけど、このアルバムもそれと同じ文脈で語ることができるのではと思います。
「シティポップ」ってもはや言葉が独り歩きしだしてよく分からない感じなんですけど、街のことを歌うのがシティポップだとするなら「Blue Avenue」も十分当てはまりますよね。
また、北川勝利さんをはじめとした作家陣は、最近再評価の流れがある気がする「渋谷系」や、最近流行り気味の新しい「シティポップ」の世代の狭間にいる人たちなんですよね。どちらも独り歩きしてあやふやな状態にある言葉ですけど。
良質な音楽を作ってきながらも長らく日の目を見なかった人たちがこうやって素晴らしいものを作り上げてくれている、というのも感慨深いものはありますね。
そして、70~80年代のニューヨークイメージってことで、けっこうオッサン向けなのかもしれません。……年間ベストに入らなかったのは革新性がないと思われたからなのかも。私は花澤香菜さんが歌うだけで十分新しいと思うんですけど。
というわけで、以上、Blue Avenueについてでした。
花澤香菜「Blue Avenue」インタビュー - 音楽ナタリー Power Push
http://natalie.mu/music/news/111594
花澤香菜×北川勝利が明かす、“極上のポップソング”の作り方「人生と音楽がより密接になってきた」|Real Sound|リアルサウンド
http://realsound.jp/2015/04/post-3000.html
作詞 : 岩里祐穂 作曲・編曲 : 北川勝利 ホーンアレンジ : 村田陽一
Bass : Will Lee
Drums : Steve Jordan
Electric Guitar : David Spinozza
Piano, Organ : Rob Mounsey
Trumpet : Jeff Kievit
Trombone : Mike Davis
Saxophone : Andy Snitzer
Conga, Tambourine : 三沢またろう
Electric Guitar : 山之内俊夫(流線形)
Wind Chime, Chorus : 北川勝利(ROUND TABLE)
Chorus : acane_madder
作詞 : 岩里祐穂 作曲・編曲 : STUDIO APARTMENT
Guitar : 堀越雄輔
Vocal Direction : 北川勝利(ROUND TABLE)
Sound produced by STUDIO APARTMENT
作詞 : 岩里祐穂 作曲 : 北川勝利 編曲 : 北園みなみ、北川勝利
Bass : Will Lee
Drums : Steve Jordan
Electric Guitar : David Spinozza
Piano, Organ : Rob Mounsey
Trumpet : Jeff Kievit
Trombone : Mike Davis
Saxophone : Andy Snitzer
Conga, Tambourine : 三沢またろう
Wuritzer, Claviniet, Analog Synthesizer : 北園みなみ
appears courtesy of Polystar Co.,Ltd.)
Wind Chime, Shaker : 北川勝利(ROUND TABLE)
Chorus : acane_madder
作詞・作曲・編曲 : 宮川弾
Programming, Clarinet, Saxophone, Chorus : 宮川弾
Guitar : 後藤秀人
Chorus : acane_madder
作詞 : 岩里祐穂 作曲・編曲 : mito
Drums : 千住宗臣
Guitar : Saigenji Permalink | 記事への反応(0) | 15:20
ネット民戦慄! 表現の自由を脅かす”ゾーニング破り”とは? - トゥギャッチ
非実在腐女子エリコちゃんに(物陰から)説教をかまそうとしたり、その勢いで著者である小野ほりでいさんに(物陰から)因縁をつけたり、ちょっと前に大炎上した痴漢関連の話を思い出したりするエントリである。
追記:くっそ長いです。制限オーバーして最後にトラバにはみ出すくらい。
冒頭にリンクした記事では「エリコちゃんがTwitterに投稿したBL風の二次創作マンガが炎上する」という事件から
ここで、腐向け二次創作画像のツイートが炎上したエリコちゃんはこう言っている。
(エリコ) でも、プロフィールでちゃんと注意書きしたのになんで炎上したんだろう?
(ミカ先輩)こういうネタのゾーニングは、リツイートにリツイートが重なってぐだぐだになっちゃうからね。
(エリコ) ゾーニング?
(ミカ先輩)ゾーニングというのは、情報の発信者や仲介者が表現物を「見たくない人・見せるべきでない人」にまで行き届かないよう配慮したり工夫したりすることよ。
ここでは、「エリコちゃんはプロフィールに『腐向け二次創作注意』『18歳未満の方の閲覧はお断りします』って書いて【ゾーニングをしているはず】」で、それが「RTによってぐだぐだになった」という見解で書かれている。
そもそもTwitterというのは、「発言ひとつひとつがTLに流れていく」前提のツールではなかっただろうか。
とくにRTされた発言は、いちいち「この人はどんな人か」を確認するすべなどない。
「この人はどんな人か」から切り離され、発言だけが一人歩きする。Twitterはもともとそういう特性を持ったツールだ。
ようするに、「鍵なしでやってる以上、プロフィールの注意書きが読まれる前に発言だけ見られるのは当たり前のこと」である。
なんぼプロフィールに「腐向けだから注意してね」って書いてましたよ、と主張しようが、Twitterというツールの特性上無意味に終わる可能性は高いのだ。
そういう、かなりの勢いでほかの事を犠牲にする作業を受け手にさせるのって、
「ゾーニングしてた」って言えるんだろうか…?
それは「目をつぶってれば見えないでしょう」と同じではないんだろうか。
この記事後半では、悪意の第三者である「ゾーニング破り」という人の存在が提示される。
まあ、古くからある言葉で言えば晒しだ。晒しするような人そりゃあ厄介ですよ。
悪意からRTするような人最悪ですよ。そうだそうだ!怪人ゾーニング破りがみんな悪い!!
そうだろうか。
昔エイズ検査促進CMのキャッチコピーで、「カレシの元カノの元カレを、知っていますか」というのがあったが、それと似ていると思う。
私たちは、「フォロワーのフォロワーのフォロワー」のことまでは知らない。
エリコちゃんのTLにいるのは、彼女のプロフィールを読んで了解したフォロワーがほとんどだろう。
そのフォロワーがエリコちゃんのイラストを好ましいと思い、RTしたらそのフォロワーにつながるだろう。
だがその先は?
BLなんて反吐が出るほど嫌いなファンとつながっている可能性は。
二次創作イラストが「嫌いな人、望まない人、見てほしくない人の目にはいる」可能性は、怪人ゾーニング破りのような「悪意ある第三者」よりも、そういった「好きだと思った善意の人」からの可能性のほうが高いのではないか。
その意味で、Twitter上でのゾーニングと言うテーマを扱うとき、「ゾーニング破り」という悪意の存在だけに焦点を絞るのは片手落ちだと思うのだ。
これは腐向けだけに限らない。多くの「不適切な」ものに共通である。
少し横道ではあるが、二次創作BLのゾーニングについてはもうひとつ厄介な問題が付きまとう。
「男女恋愛の二次創作と、BLの二次創作は同等のゾーニングでいいのか?」である。
これについては本当に腐女子間でも各々の思想があるから一概には語れない。
数年前までは「キャラを勝手にホモにした妄想するなんて異常だよ。異常性癖は隠すべき」なんて言い回しが腐女子間の「マナー」として語られていた。
上記の言葉がすんなり受け入れられる人も今もいるかもしれないし、
「いや、ホモが異常って言ってるわけじゃないから、女の私がホモを妄想することが異常って言ってるだけだから」と言う向きもあるだろう。
ゾーニングについても、
「男女恋愛より嫌がる人が多いんだから、BLのゾーニングは男女より慎重になるべき」という向きも、
「同性愛描写のタブー視に加担するのは嫌だ。男女恋愛と同等のゾーニングで十分」という向きもあると思うし
「いや、っていうか男女二次がゾーニングに無関心すぎるでしょ。BL見習って、エロや人を選ぶ絵は見えないようにしろよ」って人もいる。
個々の考えについてここでは意見しないけれど、問題のややこしさについてはお分かりいただけると思う。
腐女子の一部は、しばしば他者の作品、嗜好に対し激烈な拒否反応を示すことがある(「地雷」と呼ばれる)。
それを「見たほうが悪い」で済ませるかどうかについても、腐女子間では議論百出である。
対外的にも、対腐女子的にも色々な問題に悩みながら、ためらいながら、己の安寧と衝動と、自分の絵を広く見てほしい気持ちと、見知らぬ他者の平和の狭間で揺れ続けるのがゾーニング問題なのだ。
エリコちゃんはこういう。
なにがいいたいかっつうと、いろいろ我々もフクザツなのだ。
長々語ったが、ぶっちゃけ多くの腐の感覚はミカ先輩とエリコちゃんが以下に言うとおりだとは思う。
(ミカ先輩) でも怒られて嫌な思いをするのは結局こっちだから、どういうふうに工夫できるか自分で考えないとね。
…(中略)…
(ミカ先輩)まあ、そのへんの基準は人によって違うけどね。
ただ、気をつけないと怒る人は内外にいるってこと。
(エリコ)私は怒られたくない。
その通りである。怒られたくない。
ゾーニングに対する意識は前述のように多岐にわたる。単純に考えの足りない人もいるかもしれない。
だがしかし、きほんてきに、静かに暮らしたいのだ多くの腐女子は。
実際のところ、腐女子界隈で多くとられている措置は、さらに以下のようなものがある。
①「不適切な画像を含むものとして設定する」にチェックを入れる
②「表垢」と「裏垢」を使い分ける
③privatterなどの外部サービスを利用する
①はTwitterのデフォルト機能である。受け手が「不適切な画像を表示しない」設定にすることにより、サムネイルの表示にワンクッションはさませるもの。
ただ、おそらくBLは見たくないけど男女(or百合)のエロは見たいぜ!って人は不適切な画像も表示させている可能性が高く、「設定してないおめーが悪いんだろ」という理論は成り立っても自衛としては不十分とみなされることがある。
②は、鍵をかけておらずイラストも過激なものを投稿しない「表垢」を作り、主な交流や雑談をそこで行う。
そこで知り合い、年齢が確認できる人だけ鍵つきの「裏垢」フォローを許可する、という方法である。
BLっぽさがあきらかな作品やエロなどは「裏垢」に投稿することで、幅広い交流とゾーニングとを同時に行うのである。
③は、要するに「作品を見てもらうのにワンクッションはさむ」と言う方式である。
- Privatter - share your long tweets to your followers only
中でもプライベッターは、画像・テキストどちらも投稿でき、公開範囲を全体・ログイン限定・フォロワー限定・フォロー限定…などと細かく設定できるため、最近非常に好まれている印象がある。
「ログイン限定」は、Twitterにログインしている人なら誰でも見られるのだが、作品を見るためにprivatterをTwitterに関連付けするというワンアクションが必要になるため、ある程度「見たくない人の目に入ってしまう」事態を防げると目されている。
さて、長々と腐女子とゾーニングにまつわるエトセトラについて語った。
もしかしたら「いや、そういうディティールはいいんだよね。あの記事は『ゾーニング破り』っていうならず者を告発するのがメインでしょ?」とお思いの方がいらっしゃるかもしれない。
いや、そうなのだ。そう思う。
でも、正直、私は小野ほりでいさんの、「そういうディティール」を捨て去った記事が苦手なのだ。
ぶっちゃけこれが言いたい。すみません増田の癖に。しかも腐った増田の癖に。
小野ほりでいさんの「エリコちゃんとミカ先輩」記事は、よくネット上で話題のいろんな「微妙な問題」をばっさりと切る。
私も彼の記事を読んで「だよね!超納得、すっきり!よく言ってくれた!」と思ったことがある。
だがしかし。前述の「腐女子とゾーニング」問題のように、自分が当事者としてかかわっている問題になると、どうも読後のモヤモヤが残るのである。
記事の言ってることは、決して間違ってない。
けど、私が実際に見ている世界には、もっと細かくいろんな問題があって、その中でなんとかバランスをとろうとしているのだけどな…といいたくなってしまう。
privatterがどうこうとかそら興味ないだろうし、知らなくても彼の記事は正論として成り立つ。
でもさあ。でもさあ…
なぜ、細かいことはよく知らないのに、ミカ先輩は正論を言えてしまうのだろう。
それは、悪役を作り上げ、「名前をつけた」からだ。
前述の通り、ゾーニング問題は「善意の第三者」によって破られることもあるが、
このリツイートした森山ゴリ夫という人の「こういうのって気持ち悪くない?」というコメント…。
これは明らかに「見て不快に思う人に見せる前提」で共感を集めるためにやっている面があるよね。
ややこしいところを全部ぶっとばして、誰もが「わあこいつはどうよ」と思える悪役を持ち出す。
そして、その悪役に「ゾーニング破り」と言う名前をつける。
こうなれば、読んだ人間の気持ちは一致するのだ。そうだ、ぼくたちの敵は「ゾーニング破り」って名前なのだ。
どうして痴漢された話は「自慢話」になるの? - トゥギャッチ
痴漢問題について「自己責任論によるストレス隔離」という「名前」を掲げて切り込んだ記事も、
最後はこうなる。
そうだ。そうなんだけど、その通りなんだけど。
ネット上では、自分で好きで記事を読んでおきながらブログを読んで殴りかかってくる人もたくさんいる(私みたいに)。でも読んだ人がどう反応するかは自由だ。その倫理観は人による。
また、痴漢問題における社会的周知や認識の共有も進んでいるとは言いがたく、「無理やり聞かせる」と「なんとか一緒に考えてくれとお願いする」の境目はどこだって話もある。どこに不快を感じるかは人による。
けれどもそういうメンドクサイことは語られない。名前がつかないから。
そして、「自己責任論によるストレス隔離」という「名前」周りの事象だけが語られ、きれいにまとめられる。
でも、そっからが。
ミカ先輩よ、あなたが今丸めたそこからが、懲りずに炎上しくすぶり続ける本質なのではないか。
あなたは、そこを見ない振りして「キャッチーな名前」をつけ、そこから一点突破で論を構築する。
そして「これは正論」「すっきりしました!」と多くの人から賞賛を受ける。
あなたのつける名前はわかりやすく、理論にはそつがない。その問題に詳しくない人にもすっとしみこむ。
すっきりしたか?そうか?ボロッボロ大事なことが落ちてないか?
そして、これがいちばん引っかかる。
その、「すっきりしたキャッチーな名前」を得た人たちは、もうその問題を「解決済み」のフォルダに入れてしまうのではないか。
そして、問題の渦中で苦しみ続ける人を見て、「ミカ先輩があんなにきれいにまとめたのに、まだ苦しんでるのか。ばかだなあ」と思いはしないだろうか?
私が、小野ほりでいさんの記事をあまり好きになれない理由はこれである。
名前をつけてやる。
名前をつけて、それでその問題がすべて解決したかのような印象を(小野ほりでいさんの意思はともかくとして)受ける人がいる。
名前のつかなかった細かい細かい、しかし容易には解決しない問題は積み残したままに。
そして記事を読んだ人たちは、本質を理解した気分ですっきりして立ち去り、問題の渦中にいる人は苦しみ続ける。
今上で思いっきり批判したことを、自分でひとつやってみたいと思う。
性暴力、冤罪、男性の立場、女性の立場、男性差別、女性差別、都市の過密、労働形態、子供の保護…
痴漢問題を語る切り口は無数にあり、ひとたび話題に上るとそれぞれの人間がそれぞれの立場からそれぞれが気になる切り口について語るので、基本的に収拾がつかない。
11月はじめ、「痴漢されない女子の特徴」というエントリが大炎上した。
http://cild.hatenablog.com/entry/2015/11/05/072629 - 2015年11月5日 07:55 - ウェブ魚拓
例に漏れず私も大変なアンチになったので、上記リンクは魚拓である。
ところでこの記事に対する反応はすさまじかった。
老若男女を問わず、みながブログ主の性犯罪に対する無理解と、性差別意識を叩きに叩いた。
前述の通り痴漢問題は無数の立ち居地と切り口から語られ、全会一致など到底ありえないはずだが、ことあのブログに対するコメントやブコメに関しては、殆どの人が意見を一にしていたのではないかと思う。
ブコメは増え続け、言及記事が連日ホッテントリに上る、祭りの様相だった。
あの、「無理解と差別意識に満ちた邪悪なブログ主」という悪役を得て、我々は性別を超え立場を超え「団結」したのだ。
彼を叩いている間、我々は仲間でいられたのだ。
そして、正直に告白する。
「団結」できたことが私はうれしかった。
己の考えとはまったく異なる意見を、私の目には無理解と保身としか思えないブコメを、痴漢関連のエントリではたくさん見る。
けれどあの記事に関してだけは、どのコメントを読んでも納得がいき同意できた。
ミカ先輩は非常にたくみに、ややこしい問題をスマートに言い表す。
そして、炎上しゴタゴタするはずの話題について、「同意」「正論」というコメントが並ぶ。
喧々諤々しているところより、すっきりした結論と、それに対する同意の中にいられたほうがいい。
同じ考えの人の中で、自分もまた同じ考えを書き込む。
自分の感覚の「正しさ」を、「団結」が――わかりやすい理論と、同意コメントの多さが――保証してくれる。
しかし、前述の通り、ミカ先輩の言うことは、「スマートで誰でも同意できる」代わり、「ややこしくてなかなか解決しないこと」をしばしば捨て去っている。
本当は、そこに取り組み続けることがもっとも大変なのに。
だから、思うのだ。
彼女は、「問題に真摯に取り組む姿勢」を捨て、その代わりに我々に「団結」という快楽を提供してくれているのではないか。
それは、いわばポルノだ。
「団結」と言う名のポルノだと思う。
「団結」は一瞬の快楽をもたらしてくれるし、あまり興味のない問題ならば「読んですっきり」できる。
それが悪いことだろうか、と言われたら私は答えに窮する。
世の中の問題のいちいちに、「真摯に」かかずらわってるほど我々は暇ではない。
腐女子がゾーニングにどんだけ頭を悩ませてようが、二次創作に興味のない人は「私に迷惑かかんなきゃいいよ」ってなもんだろう。
でも、どうか、時々でいいから、振り返ってほしいのだ。
あなたが「団結ポルノ」ですっきりしたあとに、点々とこぼされている、ややこしくて、一概には言えなくて、どうにもならない問題があることについて。
それに取り組み続けている人がいることについて。
彼氏(仮名まさき)との出会いは大学一年の春だった。大学に馴染み始めてきた頃、お酒に弱いのにもかかわらず新歓パーティーかなんかで呑んでグデングデンになって、友人宅に男女でお邪魔した。気付いたら夢か現実かよくわからない狭間でまさきにキスをせがんでいたと思う。私の記憶が確かならば。その後、何度か遊ぶうちに彼に対して少しの恋心を抱くようになっていた。正直な話、その時私には別の彼氏がいてその彼氏のことは大して好きでは無かったから、面白半分でまさきの目の前でそいつのことをフルという、前代未聞のクズ女っぷりを披露してみせた。
そのときの女友達からのバッシングたるや思い出しただけでも身震い。自業自得と自身を罵るがいい。
その数週間後、友人を通して、まさきが自分のことを聞かされた。好きだということは知っていたが告白を自らすることをプライドが許さなかった(今思えばただのチキン)なのでとりあえず、彼の家にあがり込んで、ワンルーム6畳の小さな部屋のシングルベッドの上でキスをせがんだ。
キスを拒むまさき(なんとなく察してくれている方もいるかもしれないが本当に真面目で純粋な童貞なのですね)に寂しいと連呼して近づいたのに、告白されるタイミングを身を持って感じるとなんだか今更引き下がりたくなった、その感覚を今でも何故か覚えている。
結局、ゴミ女の私は適当にオッケーを出して、まぁ、少し好きだったっていうのもなくはないけれど。
実はその彼に私が結構な具合で珍しく本気にさせられて今もなお、長らく付き合っているが、色々あって別れる潮時かなぁと思ったので、付き合った頃の気持ちに戻ったらどんなものかとつらつら書いてみた。
「俺の同類、居なくね?」
同類という言葉の意味は「同じ境遇を過ごしたことがある人」ぐらいに思って欲しい。
無理やり親に中学受験させられて失敗して、中学で引きこもりと非行少年の狭間にドロップアウトして、
底辺高校をなんとか卒業して、中の下の大学には受かったけど速攻ヒキニートになって、
趣味といえる趣味も持たず、部屋にいる間はオンゲをソロでプレイするかネットで動画見るぐらいしかすることなくて、
インターネットでは専らROM専で、ネット上でもリアルでもコミュ障(新しい人間関係を築けないタイプ)で。
とにかくどこまでも中途半端で、確実に普通の人生は踏み外しているけど底辺を名乗るにはあまりにも恵まれすぎている。
そんな境遇の人間をインターネットで見たことがない。まあ当たり前といえば当たり前なんだけど。
インターネットでは専らROMしかできない訳だから。自己表現の手段を何ら持たない、眺めることしかできないインターネットに生きる上では弱者の中の弱者。
俺がガキだからかもしれないけど自分と同じ苦しみを共有できる人が居ないってすごい孤独なんすよ。俺だけかもしれないけど。
というかまさにこの「俺だけかもしれないけど」っていうのが不安の源泉というか。
M議員といえば、安保関連法に反対する学生団体SEALDSに対してTwitterに書いた内容が物議を醸し出し、また未公開株の不透明なやりとりが発覚して、所属していた自民党を離党した矢先だった。
私個人的なところで、M議員の政治家としての資質に対して懐疑的であり、感情的にも嫌いではあったけれど、しかし今回の暴露記事を目にした際には、そういう個人に対する評価や感情を越えて、胸につっかえる感覚を抱いていた。それで、ボヤっと1日考えていたわけだけど、それが何なのかが少しずつ溶解してきたので、書き留めておこうと思った。
今回の記事では、M議員は19歳の男性とゲイ向けの出会い系サイトで知り合い、金銭の受け渡しを伴う性的関係を複数回持ったということが、LINEのスクリーンショット画像と「売春」という言葉ともに公開されている。
日本の法律と照らしあわせてみていくと、先ず同性間において金銭や報酬の受け渡しをともなった性的関係を罰する法律はなく、これは売春にあたらない。
相手が19歳という年齢に関しても、18歳以上であるので法的に問題がない。
にも関わらず、「19歳の男性を“買春”していた」というセンセーショナルな言葉を使ったわけだ。
これはつまり法的には完全に無罪ではあるのに、M議員が「ゲイ」であること、そして男性と性的関係を持っていることをセンセーショナルに公にすること自体が目的の記事と言える。
個人のセクシャリティというのは、プライバシーでもあり、そしてとても繊細な情報でもある。
近年ではLGBTという言葉の認知も広がり、多様な性のあり方があるということが社会に浸透してきているとはいえ、まだまだ性的少数者に対する偏見や差別があるのは否めない状況下でもあり、ましてやプライバシーの侵害という点で、第三者が個人のセクシャリティを本人の断りもなく勝手に公開していいというのは余りにも身勝手で酷い話では無いのか。それがたとえ公人であるとしてもだ。
そして、この記事がSNSやニュースを通して大きな話題となった。
この記事がこのようにセンセーショナルに扱われるというところには、この社会の中にある性的少数者への眼差しや本音が現れ出ている。
記事を書く側が、受け手であるこの社会の少なからぬ人が、M議員が「ゲイ」であることに対して、冷笑と侮蔑を突き刺したのだ。
セクシャリティと世間の狭間にあるモノがここに露わになったのだ。
4月に電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査 2015」を実施した。
http://www.dentsu.co.jp/news/release/pdf-cms/2015041-0423%2B.pdf
それによると、国内のLGBT層に該当する人は 7.6%と算出された。人口でいうと約900万人前後といったところ。
もちろん、約900万人の全てがカミングアウトして生活しているわけではない。
偏見や差別を恐れ、自分のセクシャリティを隠しながら生きている人も多数存在している。
そういう社会の中で、M議員が、その”人”が、ゲイであることを晒したうえ、それをネタにして記事にしたのだ。
ゲイ=話題が取れるネタになるということを改めて世間に知らしめたのだ。
この社会を構成する人たちがその記事を見て、冷笑と侮蔑を突き刺したのだ。
自分のセクシャリティを隠しながら生きている人達はこの状況に何を感じたのだろう。
自分のセクシャリティと周囲との関係性に悩んでいる思春期の子たちは、この風潮に何を感じたのだろう。
自分のセクシャリティを公にしたとき得ることになる反応を、この記事の中に見ているのかもしれない。
実は、私も性的少数者の1人である。LGBTでいうなら、Tである。
性別を変えたのち、現在は変更後の性でノンカムのままフリーランスの仕事と大学講師を掛け持って暮らしている。
これまでの私の人生においても、過去を知る知人によって私がトランスセクシャルであると第三者に勝手に暴露されて、好奇の視線を浴び、侮蔑され、差別され、そんな悲しい思いをしたことは数知れない。
そのような経験を内に秘めて生きてきて、この記事を目の当たりにした。
今はただ、悲しく虚しい思いだけが記事を前にしてポツリと佇んでいる。
追記:
私の友人たち(大半はヘテロセクシャル)は、彼がゲイであることは切り離して、議員としての自覚や言動、資質について書いている人が多かったことは救いです。
次回、なつきちかみくにゃんかの狭間で揺れるりーなが楽しみ
横だけども、女だから必要ないと高校に行かせて貰えず、16歳で親に結婚させられる女性と言うのは
仮にそんな環境から抜け出したいと当の女性が思ったら売春くらいしか生きていく手段が無い、ってのは
ろくに保護されない(高校に行ってなければ特に)のに親に逆らって独立する権利も無いという狭間の時期なんだよね。
暴力など分かり易い虐待があるならともかく(まあ日本はそういう虐待があってもろくに対処されない事が多いが)
「親が子供を高校に行かせず結婚させようとする」ってのは「虐待」にはならないしね。
はっきり言おう
佐々木希とセックスしたいか?と言われたらしたいが正直いって美人すぎてちんちんがたつかわからない
男ってプライドと論理的平等性みたいなものを常に抱えてると思うんだよな、女みたいに感情にまかせて突っ走るみたいなことは少ないし
どっかでこの女性に自分自身は見合うか?みたいなことを考えてると思うんだよね
男の価値ってもう20前半も過ぎれば経済力とか落ち着きとか外見はあんまり重要視されなくなってくるけど最近の不景気で男の持つ価値の総量ってどんどん目減りしてきてるわけだよ
きったないおっさんが金持ってて、でも自分はそんな社会的に良い男じゃないってのがバブル世代とかの狭間に価値観として染みついちゃってるわけだ
どっか劣等感があるし女を幸せにするぞっていう絶対的な自信が持てないわけ
でも女ってどんどんかわいくなるだろ
AV女優でもこいつ学年で1番かわいかったんじゃないのか?なんて娘が出てたりするしさ、歩いててもなんかやたら透明感のある人が増えたよな
でもそれって化粧品の品質がかなりあがったからだよな、整形の技術もそうだけど女性の価値って外見でほとんど決まっちゃうけどそれってよっぽど顏が大きくなかったりすればダイエットして化粧すればどうにでもなるものだよね、自分の努力でなんとかなっちゃうわけ
でもいっぽうで男の価値である経済力とかってそんなに1年とかそこらでなんとかできるものでもないしな
そこで男と女を天秤の乗っけちゃうとなんか釣り合わなくなってきちゃってると思うんだよな
どっかに「それほど可愛くない女」いないかなあ