はてなキーワード: スタンスとは
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
これ失望か落胆かよりも主体が五輪相になってることが問題なんじゃないの 「俺の手駒が減るのは予想外だ」と言い換えても当事者性を選手から奪っている点で十分侮辱的
「たまたま東京で催し物が行われるので、同じわが国の市民の方々も活躍できわが国の力強さが見られれば嬉しいと思っていた。市民の方が力を発揮する機会を失うことになるのであれば、がっかりだ」くらいのスタンスが「正しい思考」だろ
こういう話題の馬鹿の一つ覚えみたいな趣味なんだから金惜しむなよやらなきゃいいじゃんって意味分かんないわ
ペイする事を含むなら趣味じゃないって単なる一価値観による暴論だしその人がやってる趣味嗜好の範囲を他人が決めるって意味わかんないじゃん
自分でやるならそうすればいいけど値段のどうこうやノベルティや無配含めうまいことやりくりするそれ自体も趣味の一環て人もそりゃいるでしょ
同人二次創作って枠上不必要に利益は出ないようにってそれを一種の遊びだと思ってる人も当然いるだろうし
それを金勘定を含まない趣味をいちいち挙げてホラこの趣味はお金なんて気にしてない!って知らんがなって感じ
そりゃそうでしょそういう趣味を例に持って来てんだからっていう
世の中金絡む趣味なんていくつもあるのに恣意的にも過ぎるでしょ
同人イベント参加とネットの活動が同じものだって括ってんのも意味わかんないしそれも何勝手に言ってんの?って感じ
同じだって思ってる人もそりゃいるだろうけど人によっては被る部分があるだけの完全な別物でそんな場合WEB掲載なんて代替になんてならないし代わりにこっちでいいだろってどこ目線だよって思うわ
何回も言うけど何で人の趣味を勝手に定義してんの?何でネットで公開する事が同人活動って趣味においてその人が得られる感慨や充実感の代わりになり得ると思うの?どんだけ解った気になってんの?何を根拠に少なくとも何万人かはいる同人を趣味にしてる人間が同人活動へ求めるそれぞれのものがネットでのそれで代替可能だなんて考えに至ってんの?
そもそも同人の頒布っていうグレーさの部分に限った問題提起へのひとつの手段としてのネット公開って話を趣味としての代替として足るものって捉えてるの物事の区別つかないまま人にどうこう言えると思うその自信はどこから来るの?何なの?ってなるわ
ていうかそれならそんなの買う側だって金出したくないならイベントなんて行かずネットだけ見てればいいじゃんて話だけどそうでもないじゃん
それでいいって人も大勢いるけどそれだけじゃないからもっと刷ってくれればいいのに安くなればいいのに装丁なんていらないのに再販してくれればいいのに通販してくれればいいのにネットで公開されればいいのにDL販売でいいのにって声があがるんでしょ
本の形になる事でネットだけでは必ずしも得られないものを目にする機会もあって単純に代替になるかって言ったらそうじゃないじゃん
そういう現実として買うだけの参加でさえ例え不本意だとしてもイベントとネットでの得られる経験の差異があるのに作る側のイベント参加の同人趣味がネットでのそれで代わりになるんだからそうすればいいのにってハァ?って感じだわ
だから無料でのネット公開はそういう意味でも望むんだろうけどそんなのはただの自分の都合なわけじゃん
本にするのは作り手側の趣味の上の都合だけどそれを自分の中で否とする自由があるように個人の都合で他人は縛れないでしょ受け入れるのも振り回されるのも自由だけど
個人的にだけどジャンルの値段設定って風潮も正直馬鹿馬鹿しいわ
そんなの部数だけじゃなく使う印刷会社や入稿時期や装丁で単価なんて変わるしそれこそ費用カンパで頒布て前提として揃える必要なんてどこにもないでしょって思ってしまう
別にそうしたくてするのは自由だけど同人て定義を大きく逸れるものでもないなら人の値段に口出すのも同調圧力もやっぱり意味分かんないわ
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いやそういうスタンスで行くんだって思うのも自由だよでもしたくもない気兼ねして気疲れして本末転倒になっててほんと理解出来ないわ
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本出して頒布する事より周りと交流して足並み揃えてその中で楽しめる事が趣味としての同人活動で大事に思うからってならまあそれはそうなんだろうし本末転倒でもないんだろうけど
あと装丁なんて自己満足なんだからってのも結構聞くけどいや全部そうでしょって毎回なるわ
何で中身は自己満足じゃないみたいになってんのって
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どっちも全部が自己満足なんだよ
装丁は自己満足で~とかそんなのただ自分が趣味として求めてるものじゃないからそこに価値感じないってだけの話じゃん
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中だけ読めればいいのにってそれただのワガママだしそれで他人の趣味の形に文句つけて要は思うような形にしろよってどんだけ傲慢なんだよって感じだわ
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こっちでこの値段出したらあっちの買えないから我慢してこのDVD特装版フィギュアいらないから資料集だけ売ってくれ~いや資料集だけ抜いて他売れば相場はなんて気持ちとして普通にあり得るでしょ
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だって生活の中で何を選ぶかどう金を趣味に使うかは当人が決める価値観の範囲のものなんだから
逆に趣味なんだからこそその範囲は個々に裁量の自由が許されるでしょ
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それぞれへの個人的な価値観の表明も意見の殴り合いもやりたいならそれは自由だけどそれは前提として同程度の情報や知識の共有とあくまで最終的な決定権は個々にあるってその尊重意識あってじゃん
理解は出来ないけど元増田の友人さんみたいに自分で決めて自分でやめるのもまた戻るのも自由ではあるし他の描き手の値段設定も高めに値段付けてたサークルもそうじゃないとこもそこに皆合わせていった事もそれを同人活動においてのある種問題の象徴のように思った元増田もそれは全部そういう意味では何も間違いではないけど趣味としての遊びにそれを趣味としない人間がそもそもその趣味は趣味とは言えないその趣味ならこうすべきだこれが代わりになるからそれでいいだ何だって趣味としての正当性と倫理性を問う事と趣味と定義した中での懸念と問題提起を混同させて区別もつけられずに一方的に何にどう価値を求めてどういう範囲で金を使うかの幅までそこに定義してそこから漏れるならそれは趣味じゃないやめてしまえってマジかよって笑っちゃうわどの立場なんだよって権威か何かなの?
ほんと何なんだろ
よく読んでないけどこの増田のURLを添えて運営にメールしてみたら熱意は伝わるかもよ?
俺のやってる別のゲームでは、そういう文言をつけてなかったが、復刻可否のユーザーアンケートを取って公表し、結果復刻を果たしたゲームもある。
そういう可能性が今後ないとも言えないし。
ていうかね、カード1枚もってなくたって愛があれば立派なPだよ。
でもあえて俺はね、デレステでもラブライブでもそうだったが、アイドルもので推しなんて決めなくて良いと思う。
どのアイドルも愛する。なんなら一人を推す代わりに、ちょっとマイナーな子方面まで広く愛を注いであげる。
焼きそば は 雇用契約上の問題からは擁護不可能だけど、blog にもあるように直にお客様を知る貴重な機会だから
「絶対、査定評価には入れない。あくまで任意。代休も用意する」とした上で、少し強めにプッシュするのは良いと思う
が、雇用契約には無いことさせるのに、追い出し部屋はやるとか、アカンやつですやんな
雇用契約にない事をやらせる=ゼネラリスト として育成し、可能な限り別ポジションを用意するってスタンスでなきゃ
どう言い訳することも出来ないはずだ
でもまぁそれよりも、個人的にはこっちのがキツイ、この会社で働くメリットとは・・・?
開発者はサーバのスペックも、何台で構成されているのかも、どのような場所に置かれているかも知ることができません。sshもできなければログも見れず、メトリクスのグラフを見ることすらできません。ちょっとしたバグの調査であるテーブルのレコード数を調べるのにも、発行するSQL文を添えた作業依頼書を承認リレーする必要がありました
そしたらプレミアム戻ったるわ、端金やし
自分と他人は違う。そう信じきれていないから他人の振る舞いが気になってしまうのでは?
他人に注意力を向ける暇があったらコンテンツに向けてあげるのだ。
それが正しいオタクというもの。もちろん自分が人に迷惑をかけることに鈍感になれという意味ではないぞよ。
作品への向き合い方はさまざまであり、周囲のファンの多数派と違うことは何ら気後れする要因にならない。
コンテンツの提供者もきっとどのような楽しみ方をする人にも極力フラットであろうとしているはずだ(迷惑系でない限り)。
主人公(男)に五人のヒロイン(五つ子 しかも全員胸がでかい)というアニメに「そうだよ、ハーレムというのはこうでなければ(パァン)」とタイトルの「性の【柏手の安】」が柏手をするぐらいハマってるわけなんだけど、このアニメのせいで「性の【柏手の安】」を認識するようになった。
自分でいっちゃうのもどうかとおもうが、自分は作品を貶すことは殆ど無い。
例えば、みんなが駄作といっている艦隊これくしょんのアニメも「ゲームないで数秒で終わる演出の細部が見れてよかった」と褒めるし、大体どんな作品も「良い作品だったな」と終わる。でもなんとなく、二回目はないなという気持ちもある。
他にもアニメの実写化となるとオタク界隈はざわつくものの自分は「見てみないとわからない」というスタンス(実際るろうに剣心はかなりよかったし、実写というだけで拒否するのはどうなのだろうか、俳優が好きでその人の演技を楽しみにしている人は完全無視なのだろうかと思う)だし、これまで本気で糞アニメだと思ったのは「ポプテピピック」のような良い意味での糞アニメしかない。
でも、糞アニメと言われたら「いや、いい部分もあったよ」と擁護しながらも結局は二回目は見ないアニメと、糞アニメと言われても「そうじゃない、好きな人だっているんだ」と必死な擁護をしつつ二回目を見るアニメ、何が違うのかなんてわからなかった。
糞アニメと切り捨てることは簡単。でも自分は「糞を好む虫だっているだろう」と思って、悪い部分を全く見ずいい部分だけを見るようにしていた。
話を五等分の花嫁に戻そう。
五人のヒロインが出てくるので、当然「誰が良いか」、という話になる。はっきりいうと全員巨乳でしかもピンク髪(無類のピンク髪好き)なので全員いいんだけども、無類のハーレム物好きで柏手がでるような俺でも3P,4Pぐらいは考えるため、「誰が良いか」を選ぶことは必要だ。流石に6Pは難しい。(自分の体力では五発連続発射は不可能なため、二人目ぐらいで終わってしまうと他の子が可愛そうとよぎって発射に至れないため。)
各ヒロインの所感を書いておくが
中野 一花:長女。クール気だるげなお姉さんという枠。こういうキャラは年上気取ってるだけに時たま見せる動揺だとかがかわいいのでオタク受けはいいですね。
中野 二乃:ツンデレ。しかも生意気。しかも意識も高い。しかもギャル。しかも巨乳。
中野 三玖:クーデレ。ヘッドフォン女子なので素晴らしいキャラ、オタクはこういうのが好きだなというのを甘く煮詰めた凄みがある。人気一位というのも納得のかわいさ。むしろ一位以外考えられない。
中野 四葉:人懐っこい元気キャラ。こういうポジションは犬とか妹ポジションで不遇だけど、好きな人は好きだろう。
中野 五月:うーん、控えめにいって最高。他のヒロインがキャラ立ちしまくってるというのに正ヒロインのようなポジションでここまでの正ヒロイン力を身に着けているのは純粋なパワー力を感じる。
さて、「性の【柏手の安】」が柏手を出したのは誰でしょうか。三人居ます。
まぁ、正解は二乃、四葉、五月なんですけど。
三玖の事を考えたときに、どうやっても人気の要素の詰め合わせで自分のビッグマグナムが暴発するようなキャラ(無類のクーデレ好き)なんだけど、なぜか股間が全く反応しなかったわけ。
冷静に分析すればするほど「うん、俺はこういうキャラすきだよな。」とメロンソーダを飲んだ井之頭五郎みたいな顔になったんだけど、だけど3P、4Pのラインナップを決めた時、三玖が入ることがない。
何かが決定的に違うとわかった時自分は「性の【柏手の安】」が存在していることに気がついた。
無類のクーデレ好きと書いたが、実は無類のツンデレ好きでもあるわけで、そういう点で「生意気で巨乳で意識も高そう(この時点でそうとう好き) 態度が軟化し始めた(この時点で目の前に竹達彩奈が現れる)」という段階で二乃は柏手が出たし、四葉が最初に人懐っこく主人公に絡んできてくれる時点で無条件に柏手が出たし、五月の正ヒロインとはこうあるべき人々は忘れてしまっているなとかんがえたとき頭に浮かんだのは母親が作ってくれたカレーだったので柏手が出た。
「クーデレ。ヘッドフォン女子なので素晴らしいキャラ、オタクはこういうのが好きだなというのを甘く煮詰めた凄みがある。人気一位というのも納得のかわいさ。むしろ一位以外考えられない。」と言いながら、冷静にも柏手を出さない「性の【柏手の安】」が評価して、将太のライバルキャラが「柏手は…無しか」と落胆している表情が浮かぶ。
今思えば、艦これアニメも、グラブルアニメも、アニマス以外のアイマスアニメ(端的に言うとアニデレ)も、その他「こりゃ人気はあるだろうな」というポジティブな要素を見出しているのに二回目三回目を見ないアニメは難しいことを考えるまでもなく「性の【柏手の安】」が柏手をしなかった。
ただそれだけなんだなと思った。
俺はこれからも「性の【柏手の安】」を信じていこうと思う。他の誰もが「いや、ゴミだね。ありえない。」といっても「性の【柏手の安】」が柏手をしたのなら信じていこうと思う。多分、俺の股間についている脳みそというのが「性の【柏手の安】」なのだ。そのある意味もうひとりの自分が言う事ならどんなことでも信じられるのだから。
5日程シンガポール に滞在し、帰国して落ち着いたので振り返りの為に記録を残します。
幸いなことに現地に駐在している人や、シンガポール 人(シンガポーリアンと現地では言う)の人とも交流することができ、今まで正直興味無かった国ですが歴史や文化も含めて知る機会を得ることができました。
かつてポルトガル、その後はイギリス、一時期は日本の占領統治下に長くあったシンガポール は独立を勝ち取るも国土も資源もないその中で、社会的なシステムの力だけで今日の繁栄を手にしました。駐在の長い人やシンガポーリアンの人達が口々に「シンガポール はいいとこ取りの国だ。」と言うことを道路や街づくり、法律の設計や商売のスタンスからも感じることができました。
地元民などがメインで食事をするホーカー(路上の食堂)には政府からの補助金が入り、かなり安い料金で食事をすることができる反面、観光客向けのレストランや各種施設には非常に高い料金を設定し一国の中で二制度を作り出しているのはキューバの国家運営と似ており、社会主義的なシステムを感じました。
他にもシンガポーリアンの教育に関しても本当に優秀な人には日本ではあり得ない投資をし、優秀な人材を徹底的に育成しそこからあぶれた人にもシンガポール内に視点を持つ企業には一定数のシンガポーリアンの採用を義務付けたり、タクシーの運転手はシンガポーリアンだけで独占し、他国の人はなれないような仕組みを作って自国民の雇用と生活を保護する仕組みは中国でも一般的に行われています。道路等に関しては左側通行で日本と似たような仕組みなのですが、多くの車にドライブレコーダーが取り付けられ加えて街中にも多数の監視カメラでしっかりと統制された運用がなされています。
昼間の混雑を解消する為に都市の中心部を昼間のみ有料道路にし、混雑の緩和を金銭的なシステムで計ってるあたりは本当に賢いと感じました。
しかも上記の事情からタクシー運転手の社会的地位も他国より高く、乗車拒否は当たり前にしてくるそうです。自分も一回、タクシーの運転手が目的地を間違えて連れていかれ、引き返した分の料金も請求してきたので言い争いしましたが、平気で開き直ってきますしプライドの高さを感じました。(当初の半額に値切りました)
日本の占領統治下にあったこともあり、日本人に対して悪印象があるかビクビクしていたのですが、滞在中は特にそういった体験もせずに現在5万人日本人が滞在するシンガポールにおいて日本人はいい隣人の地位を獲得できているようです。ただこれは同時に特別扱い等ではなく、大きなお金を落としてくれるお得意様という意味です。
滞在中に知り合ったシンガポールの銀行にて投資を担当している人は英語はもちろんアラビア語も中国語も話して日々の仕事をしているとのことで、スキルを持った人にとってはシンガポールは日本よりも税金の優遇も大きく過ごしやすい街であることを伺いました。
特に魅力的に感じたのがシンガポーリアン自体は華僑(中華系)とマレーシア系の人が多いのですが多くの外国人労働者が各地域でコミニティを形成しており、リトルチャイナやリトルインディア、アラブストリートやタイ系のショッピングセンターなどが近い距離に混在しており、多国籍な文化を短い時間で比較的安全に体験することができるところが非常にエキサイティングでした。
今回は1人での滞在だったのですが、今後子どもが大きくなった際には是非連れてきて色々な文化と触れる機会を持てればと思いました。
お土産としてはアラブストリートで買った香水瓶や、現地の旅行会社にお勤めの方に教えてもらったお菓子類がほとんど外れなくいい感じでした。機会があればぜひ使ってみてください。
https://gotrip.jp/2018/08/96312/
https://singaporetabi.com/bengawansolo/
パイナップルタルトとプロウンロール美味しかったです。台湾のパイナップルケーキよりも酸味があって、僕はこちらの方が好きでした。
正直youtubeと比べた時に何をニコ動に求めているのかわからない。
俺のスタンスは
・そんなに画質悪くない
っていう感じ
・画質が悪い
ニコ動は最近調整されて1080p(フルHD)まで行けるようになった。再エンコードされても1080pまでは保証されるように
2160p(4k)じゃないと嫌っていう気持ちはわかるけど、4k見られる環境持ってるユーザーどれくらいいる?
ゲーム実況でも1080pあればゲーム中の文字も読めるし十分じゃない?
ならニコ動でもいいよね?
ゲーム実況やRTAで動画1本で完結したいというのを見たことあるけど、そんなに長い動画見る?
アニメでさえCM挟んで30分とかなのに1時間とか2時間のぶっ続け動画とかそんな見ないでしょ
個人的には長い動画で数分に1回広告挟まるのがストレスなんだが、みんなスルーして耐えられるのかな
ニコ動なら最初に広告くらいだしそこまでうざくはないと思ってる
・再エンコードされるのが嫌
youtubeも再エンコードかかるけど。投稿直後は360pしかできてないしね
大半のユーザーはスマホで見るからそんな高解像度高画質の設定できても無駄だよね
・重い
まだまだ重いのは否めない。
ただほんの一瞬この動画だけなんか読み込み遅いわってくらい。月に1、2回発生するかしないか。
youtubeはそんなに重くならないのはすごいよね
・ネトウヨ
ブコメにもあったけど、youtubeにもニコ動にもあるし……とはいえyoutubeはスルーされがちでニコ動のは見られやすいような気はする
ただ自社の金使ってできたコンテンツが「バーチャルさんは見ている」なのは正直もっと考えて欲しい
プレミアム入ってるので知らんけど
前は
とか
・その他
他に何か気になることあれば拾いたい
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・コンテンツがない
netflixとの比較だと思うが、素人投稿のコンテンツとハリウッド映画くらべたらまぁそうだよな
ニコ動で見るのないなら他行けばいいっていうのはわかる
・ログイン
去年の今頃くらいからログインしなくても見られるようになったけど、
そもそも外部のページに埋め込まれた動画は、ログインなしでも視聴できてた事知らない?
・投げ銭
あれは動画とかに対して払ってる金でユーザーに払ってるわけじゃないからな。
今調べたら、ニコ生に対して払った広告はクリエイター奨励プログラムのスコアとしてうけとれるようだ
・超会議
正直赤字だし赤字ならやるなよとは言いたいけど、そういったニコニコの集大成としての場ができたことは良いと思ってる。
派生で歌い手と踊り手の超パーティーやゲーム専門の闘会議ができたのは、そういった方面を支援するという現れがあっていいと思う
正しいタイトルは「某アーケード音楽ゲームを"アプデを追いかけるほど"やらなくなって1年経った」。
こんなどうでもいい誰かの事後報告を見るのは多分自分と同じ暇人だと思う。
なので覚えてる範囲でやり始めた経緯から辞めるまでの話、それからやらなくなってからの変化について身バレしない程度に書く
きっかけは高校1年のGW休み?かどっかの休み、本当に気まぐれで知ってる限りで一番大きいゲームセンター(ラウンド1には劣る)に行った時だったか
某社のタッチパネル式エアホッケーのポップさに惹かれてプレイした所「音楽ゲームってこんな感じなんだな」ぐらいのまったり具合で好きなゲーム入りした
最初こそセカオワの虹色の戦争とか、JPOPみたいな曲をやってたぐらいだったけど、ある曲のジャケット絵が偶然目に止まる
ジャケ絵が格好良いとかボス曲だったとかではないが、曲調が思い切りストレートヒットだった。
譜面とかいろいろ調べてる内にその曲が同社の別の音楽ゲームタイトルからの移植曲であることを知る。
そんなわけで移植元のタイトルの筐体がすぐ隣にあったこともあり、ギュイーンって感じのゲームをやるようになった。
エアホッケーとはシステムデザインやコンセプト、楽曲の傾向もまるで違っていたけど、もともとオタクだったのも合わさってこれまでにないくらいハマる。
これが始めた経緯。その後ボス曲を聞いてドチャクソ気に入ってしまった為に本気でプレーをしていくことになる。
それからはTwitterで同タイトルやってる人と繋がったり、オフ会したりしてそれなりに楽しんでいた。
でもそれだけじゃないよねって話を今からしていく。
読んで字の通りなのだが、音ゲー自体本気でやるのが初めてなのもあって成長は時間がかかった。
それこそ1週間や2週間ちょっとではなく、年単位で時間とクレジット数、運指練習を積み上げる。
この時期にTwitterで実際にフォロワー上級者さんに「音ゲーは1,000クレまでチュートリアル」と言われたのだがこれは実際そうだった。
当時の最高難易度に辿り着いたのが実際それくらいだったし、何なら今もそう思う。
そしてここが問題なのだが、音ゲーの成長はまっすぐ右肩上がりには絶対にならない。
ランカーみたいなのは話が別だが停滞して停滞して、いきなり伸びてみたいなことを一生繰り返し、止まっている間入れたクレジットは無に消える。
お上手な期間は本当に短い。その間は死ぬほど楽しいがそれ以外が地獄のようなエグさを感じる。
おまけに自分が成長しない期間の間に他の同ラインにいると感じていたフォロワーがお上手スコアを出してどこからか焦りを感じる。感じてた。
そうやって成長しない自分に嫌気を感じたり、自他共に認めるお上手スコアを出して承認欲求を満たしながら気がつけば5年くらいやってた。
今までの記述でなんとなく何のゲームをしていたのか察した人もいることだろう、何なら筆者が誰なのか察した人もいるかもしれない。
そういう人たちならこの話きっと分かってくれると信じている
が、分からない人からしたら分からんだろうので2015年〜2017年後半くらいまでの間の話を当時のゲームの雰囲気を思い出しながらそれっぽく書く。
始めた当初はシステムデザインや楽曲に惹かれて始めたのは前述の通りだが、ある程度の基準を感じさせる程度には質の良い譜面が多かった。個人的には。
その後しばらくして新しいナンバリングの後継作が発表された。
ゲームの本質とは関係がないが世間一般でいう「ガチャ」が登場し、最高レアが出るとゲーム内の演出としてキャラクターを出すことが出来るといった新しいコンテンツが発表され、バグがそこそこ散見されたが楽しめない訳ではなかった。
しかし実際に稼働が開始して半年?ほど経った時に状況は変わる。
1クレジットのプレーの最後にRPGゲームのようなHPを持った敵が出現し、攻撃(クレジット)を重ねてそいつを倒すことで楽曲が開放されるといったイベントが後出しで出てきた。
問題は倒す過程なのだが、先程言ったガチャでの最高レアを持っている場合特攻が効く。つまり持っている場合と持っていない場合で解禁スピードに差が発生するようにした、ということになる。
当然これには不満を持つプレイヤーが多かった。そりゃおまけ要素として出しておいて今更「解禁楽になりますよ」なんて通る話ではない。
ところがその次のアップデート
先程のイベントに新しい敵が4体+全員倒した先に1体で合計5体(つまり新曲5曲)出てきたのだが、これをガチャでの最高レアなしで解禁する場合概算で100クレジット、日本円換算で1万円かかるとかいう馬鹿げた話をマジでやりやがった。
「音ゲーでガチャゲー要素あるのなんて他にもあるじゃん」って言われれば現在はそうだが当時はこいつだけだったし、何より「解禁に絡めるなんて一切聞いてない」というのが大きすぎる。
ロケテ段階でノートに「ガチャを解禁に絡めないで」と書かれていたのにも関わらずやってのけた。この案件一生許す気は無いし後世に語り継いで行かなければならない。
これ以外にもいくつかシステム面に問題を感じていたのだが、譜面の質の低下も顕著だったように感じる。
出来る出来ないで譜面を判断する輩が一定数いるのは理解してるし、この書き方だと自分もそう思われても仕方ないとは思うけどそれでも適当な作りの譜面増えたのは感じてた
インフレさせとけばいい、むずい譜面出しときゃいいみたいなのはマジでやめてほしい
そんな感じのことがあって開発陣への不満や不信が募りつつ、また譜面の異常なインフレは無駄に加速する一方で追いかける側としても正直疲れを感じていた
それでも惰性と承認欲求で続けてたし、成長速度が遅くても頑張っていたので最後まで解禁に困ることはなかった
でも2017年後半くらいから譜面の難易度が明らかに急上昇すると共に精神的にも本気でキツくなってきてTwitterでの毒吐きがめっちゃ増えた。
Twitterでスコア報告するけど伸びてないからゴミだし、他みんな総じて上手いスコア出してたし、謎のプライドが許せなくてゲーセン向かう、の悪循環。
この時の自分は間違いなく「ゲームをやりに」行っているのではなく「スコアを出しに」行っていたように思う。
そんな中でなんとなく帰りがけに目に止まった某社のドラム式洗濯機ゲームをプレーして久々に"楽しい"ゲームができた気がした。楽しくて仕方なかった。
その時になってようやく、この時初めて「もう辛いし、スコア上がらなくてもいい」と思った。
そうして、このゲームをやる機会は次第に減っていき今では「いい感じの過去の曲がやりたくなったら」「自分の気分に全部合わせて」やるくらいになった。
ちなみに毒を吐いていた時のフォロワーはまだ自分のFFの中にいるし、頻繁ではないにしろ気軽に空リプする。この事も本当にラッキーだったと思う。ありがとうな
洗濯機はまだ続けてる。ただし「スコアを出しに行く」のではなく「音ゲーなんだから音楽を楽しむために」やるスタンスを徹底して貫く様にしている。
「ゲームしにいってるんだから楽しくないなら変に根性出さずに帰る」ことが大事。
それから、別の活動としてプログラミングを本格的にやるようになった。これは自分だけじゃなくてイベントで知り合った近い年代の人たちが居たから持続したんだと思う。
そのおかげか自分も行動を能動的に起こすようになり、かつては考えられなかった超大御所の会社からお話を頂けている。自分は本当にラッキーだった
音ゲーをするのもいいけど、やっぱ他の趣味が有るのと無いのでは全然違うんだと身をもって感じた。
こんなクソッタレた投稿で今更自分が人様にとやかく言う資格なんかないんだろうとは思うが、それでもこの3つは守ってほしい。
特に1つ目は本当に覚えておいてほしい。でないと自分と同じ間違いをしてしまう
2つ目だが、自分がたまたまコードを書くのが適していた(?)だけで別にプログラミングを趣味とする必要はない。
けれど、趣味が音ゲーだけだといつか辛い時期が来る。その中でも楽しく生きていくために趣味は多いに越したことはない。
3つ目だが、 よくある話だと捨てゲーは正直な所「やってる側が楽しくない」のが見え透いていて、外野から見る人間からしても見苦しい。
事情や目標はあるだろうがそれで周囲の人も自分も幸せになれないくらいなら、いっそスパっと諦めてしまうほうが精神衛生的にもよい。的な。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
マナーコンサルタントの言う「お気持ち全面配慮」というスタンスがひどいと思った件: 不倒城を読みました。
私はたまたま、西出ひろ子さんの下で仕事をしたことがあります。仕事人としては人に要求するレベルが高く、私はその水準に達しなかったのかなぁ、という思いもあって、もう会うことはかないません(し、そもそも会う気もありせん)が、
西出さんの提唱する(少なくとも、かつては提唱していた)マナーを知っており、一方的にせめられているのは、あまりに気の毒だなと思うので、擁護にはならないけれど、西出さんの考え方をお伝えしておきます。
西出さんの考え方。
それは、
「マナーとは、『○○のときは××をしなさい』という"型"ではなく、互いが、互いのことを思いやりながら、気持ちよくコミュニケーションを取りたいと思う"気持ち"を元に行動すること」
というものです。
また、
「マナーとは、『私は完璧なマナーを身に付けている。すごいでしょ!』『あなたはマナーがなっていないわね。恥ずかしくないの?』という一方通行のものではなく、『互いが相手の立場に立って、相手が楽しく、心地よく過ごせるように思いやる』という相互作用のもの」
でもあります。
例えば、「フォークとナイフは外側から使う」というマナーの"型"がありますが、西出さんの考え方は、
「確かにそういうマナーになっているし、覚えておいて損はないけれど、おいしく、楽しく食べられるなら、どれから使ってもいいよね」
「外側から使わなかったのには、何か理由があるかもしれない。それなのに、外側から使わないことを非難してテーブルの雰囲気をぶちこわしたり、人格を否定したりする方が、むしろマナー違反」
というものです。
あいさつも同じ。西出さんは、「あいさつは笑顔で」というマナーの"型"について、こう言うと思います。
「何であいさつは笑顔かというと、笑顔であいさつされたら誰だってうれしくなって、コミュニケーションを取りたくなるから」
「もし相手があいさつのときに笑顔でなかったなら、笑顔でないことを怒るのではなく、笑顔になれない相手のことを思いやって、心配してあげてほしい」
というものです。
私が仕事をしていたときは、「相手の立場に立ち、思いやってする行動の全てが本当のマナー。『本当のマナー』で周囲と接していれば、あなたも周りも幸せになれる」として、「マナーの型が全く載っていないマナー本」なんていうものも作っていました(お蔵入りになったかもしれない)。
つまり、西出さんとは何なのかというと、「マナー講師」じゃない。「コミュニケーション講師」なんです。
(実際、「マナーコミュニケーション」という単語を、商標登録しているはずです)
□
で、本題です。
「コミュニケーション講師」に「マナー」を尋ねると、何が問題になるのか。
西出さんの提唱する「マナー」とは、前述の通り、相手の立場に立ち、相手を思いやること。
これは考え方としてとても正しいのですが、正しすぎて、「じゃあ、こういうケースでは具体的にどうしたらいいの?」と問われたとき、答えが無限に出てしまうのです。
なぜなら、人の考え方は人それぞれだから。
人対人のコミュニケーションの組み合わせも、その"正解"も、無限になってしまうのです。
マナーというのは、ある種の決まりごとと思われている方が多いかと思いますが、マナーは決まりごととは言い切れません。
その場にいる方々が心地よかったり、スムーズにその場を進めたりするために、お互いが思いやりの気持ちを言葉や行動であらわしていくことなんです。
マナーの"型"に沿って言うだけなら簡単です。同じく記事中にて、
昔、こういったことをマナーとして言っている人がいたのかもしれません。
私は、九州で生まれ育って年齢は50歳を過ぎていますが、初耳でした。
高齢だから、ということではなく、周囲からそう言われて育ったとか、その人自身の考え方が影響しているのではないでしょうか。
そもそも、自分が知っている慣習以外をマナー違反としてしまう傾向がありますので、今回もその傾向の一つかもしれませんし、他に不快になる要素や事情があったかもしれない、とも考えられますね。
といっているのですから、西出さんは、「マナー講師」として「『薬を人前で飲むな』などというマナーの"型"はありません」と言うだけでよかった。
ところが、これまで述べてきた通り、西出さんは「コミュニケーション講師」(私感)なので、
ただ、世の中には様々な考え方をなさる方もいるので、これを不快に思う人もいるということをわかった上で、自身がどのように飲むのか、そこにマナーが問われるのかもしれません。
決めつけることなく、今回のケースでいえば、薬を飲む側も、それを不快に思う側も、互いにさりげなく配慮し、受けとめ合える社会になればよいですね。
と話してしまう。
これが、しんざきさんには「お気持ち全面配慮」というスタンスに見えたのでしょうね。
ただ余談ですが、引用文を文面通りに読めば、「お気持ち全面配慮」ではなく、「薬を飲んでいるところを不快に思った側も、たとえそう思ったにせよ、相手の立場に立って、注意は控えるべき」と言っていることが分かると思います。
その意味で、タイトルを「お気持ち全面配慮」とするのは、(まさにしんざきさんがエントリを上げたときの心情を思うと、分からなくもないけれど)雑なんじゃないかなぁ、とも感じます。
余談ついでになりますが、少し前に話題になった、徳利の注ぎ方の件、西出さんならおおむね、こんな感じで言うと思います。
「そのようなマナーは初耳です。基本的には注ぎ口から注いでいいと思いますが、もしも、相手が注ぎ口を上にして注いでいたならば、あなたもそれに合わせて、逆向きに注ぐことも考えてはどうでしょうか。また、注がれる側も、仮に相手が注ぎ口を上にしていたからといって、笑わないでください。相手も、相手なりにあなたのことを思いやって、大事にしたいから、そうしてるのですから」
「あなたがそれでも『注ぎ口を上にするのがマナーなのに、彼は下に向けて注いできた。実に失礼だ』などと思うならば、こう考えてはどうでしょうか?『彼は注ぎ口を下にすることで、注ぐときにおちょこからお酒がこぼれ、手や袖が汚れないように配慮してくれているのだ』と。相手のことを思いやり、おいしく食事をして、楽しくコミュニケーションを取る。これが本当のマナーです」
…ごめんなさい、ちょっと盛りました。けれど、大筋はこんなものかな、と。
□
「その場にいる方々が心地よかったり、スムーズにその場を進めたりするために、お互いが思いやりの気持ちを言葉や行動であらわしていくことなんです。「TPPPO(時間、場所、立場、相手、場所)」によって答えは変わってきて、これがマナーだと考えています。
という立場なので、先に書いた通り、「こういうときはどうする?」と尋ねると、理論上は無限に答えが出る=マナーが増えてしまうんです(これも今思えばちょっと盛っていますね。無限じゃないです)。
だから、マナー(の型)の取材として西出さんに聞きにいった記者は西出さんを理解していなかったし、西出さんも、こんな取材を受けてはいけなかった。
というかね、西出さんにはいいかげん、このことに気付いてほしい。記者と西出さんとで、話しているベースが違うから、おかしなコメントばっかりになってしまうんです。昔っからなんですよ。昔っから!だいたい何ですか!発端のツイートなんて、嘘つきか、そうでなければアレがアレな人の、アレなアレじゃないですか!こんなもののコメントなんて断りなさいよ!もう!知らないっ!
まず断っておくと、自分はめちゃくちゃVtuberという存在が嫌いだ。
中身おじさんなのを知りながら男が(同性愛としてではなく)ガチ恋だとかエロいだとかと言っているのを見ると身の毛もよだつ思いだったし、いわゆる普通の生身のYoutuberを小馬鹿にしてたくらいの層の人間が、Vtuberのことは嬉々として喋るようになったのを嫌と言うほど見てもやっとした気分になっていた。
いくつか有名どころの動画を見たことあるけど、結局普通のYoutuberと内容に大きく差があるわけでなし、むしろ内輪感みたいなのがより強いように感じて、中身がないだの信者が気持ち悪いだの生身のYoutuberに浴びせられていた批判は、こっちにも浴びせられてしかるべきなんじゃないかとずっと感じていた。言葉を選ばなければ、結局こいつら絵が付いてないとブヒれなくて、自分がブヒれないのに世間で話題になるコンテンツは無条件で叩くってだけだったんだな―と思ってた。
けど、今はすっかり下火とはいえ、Vtuberはアンチの自分から見ても相当流行りに流行った。評判がよろしくないらしいけどアニメが今やって(もうやってない?まだやってる?)たり、NHKのニュースにまで出るようになっているらしい。テレビで取り上げられたのは近未来感があって面白い試みだから…とかいろいろ理由があるにせよ、オタク趣味持ってる人間でVtuberのこと全く知らないというのは、深夜アニメを一切見ない人種と同じくらい少数派になっているように感じた。
自分は萌え系のコンテンツに積極的にハマりに行くタイプではなかったが、オタク趣味全般はある程度知識の「守備範囲」に入っているというつもりで、自分の気持ちと一致するかは別としてmその辺のジャンルの何が受けているのか、ファンはどういう気持ちでそれを見ているのかをある程度理解できるつもりだった。
だからこそ、ここまで自分にとって受け入れられない、楽しんでるヤツの神経がわからないコンテンツが自分の守備範囲から世の中に肯定的に取り上げられていくというのは個人的に初めての経験で、ハンドル含め名前の出るところでは「詳しくないけど面白そうと思っている」くらいのスタンスを演じつつ、匿名掲示板で死ぬほどくさしたりしていた。(増田には書いてなかった)
ただけっこう過激派アンチだと思う自分でも、Vtuberのみんながみんなを毛嫌いしているわけではなく、どうやら自分の中に「これはまあ許せる」という基準があるようだった。一言でいえば、「自分の知識や技能を発信するときに、生身とか解説動画でやるより多くの人に見てもらえそうだから」という感じでVtuber活動をしている人たちには、あまり嫌悪感がないのだ。○○〇〇学という素人にはちょっと気乗りしたい分野の知識をシリーズ動画で話しているVtuberを知っているが、この人は中身はおそらくおじさん(たぶん学者さん?)で、お嬢様風の萌え萌え女の子アバターを使って活動しているのだけれど、これは自分の勝手な基準の中で「許せる」。
逆に中身とアバターの性別や属性が一致している(若い女の子が中身の人とか、アバターが別にイケメンでもない男だったりとか)としても、自分は大半に対してさぶいぼが出るほどの嫌悪感を抱く。女体化だのおじさんがかわいい女の子の振りをすることだのに抵抗があるわけではないということだ。じゃあ自分はVtuberの何が嫌いなのかというのをこっから吐き出すとともに、「でも、お前らだってそうだったはずじゃん!」と駄々をこねたいというのがこの投稿の主な目的だ。
一言でいうと、つまり自分は、「キャラなりきり」というものをものすごく気持ち悪く感じるのだ。
基本的にVtuberは自作のキャラになりきって、そのキャラを演じて動画を作るから、ここが嫌いではそりゃ大半はどうしようもない。そもそも自分には絶望的に合わないコンテンツだったのだ、と自己分析としてはすんなり納得がいっているのだが、その中でも「許せる/許せない」が出るのはどういうわけか。
これは、「許せる」側の投稿者は、キャラなりきりをあくまで情報発信のための都合がいい手段としてとらえている(ように自分には見える)ということが要因なのだと思う。町おこしのためにゆるキャラが考えられ、中の人が着ぐるみになりきって活動していたとしても全く嫌悪感はないわけで、Vtuberの中でもそちら側のタイプっぽい人は全然許せる、という心情をどうも自分は持っているらしい。
反対に許せないタイプのVtuberは、どこからどう見てもキャラになりきることが目的の人たちだ。別に誰にも迷惑をかけていないのだから自分が許さない道理はないのだが、どんなに友人におすすめされても、こういう人たちは全く好きになれる気がしなかった。なまじ設定が凝っていたりすると余計ダメで、その設定を持ち出して動画の中で一笑い起こそうとしているのを見たりすると、もう半日くらいおなかを壊すくらいにどうしても受け入れられなかった。
この「なりきり」への嫌悪が自分の中で醸成された過程は正直定かではない。ぶっちゃけ、自分が人並外れてこのジャンルへの嫌悪感が強いとは全く考えていなかった。嫌悪感に今まで気づかなかったという意味ではなくて、みんなこれぐらい嫌っている(忌避している)ものだとばかり思っていたのだ。
SNSだのが登場する以前、ネット上のコミュニケーションがBBSやらチャットだった頃、普通に自分のハンドルで雑談するコミュニティのすぐそばに、「なりきりチャット」やら「夢BBS」やらがあるのは目にした覚えがある。なんなら覗いてみたこともあるかもしれない。でも、そこでやっていることが楽しそうだとはどうにも思えなかった。多分、初めてその存在を認識した時から、なんとなくそういう趣味は普通の雑談よりもキモチワルイものだと感じていたのだと思う。
SNSが、とりわけミニブログ系のやつが登場して以降、「キャラクターなりきり垢」みたいなものもたまに目にした覚えがある。テニスの上手い〇部とか不〇とかになりきって会話してるやつ。ああいうのも存在は知っていたが、やっぱり気持ち悪いやつらがやっていることだと認識していた。ジャニーズの夢メール画像だとかと同じジャンルのものとして。テーマに沿った、あるいは沿っていない雑談をする中でも、かなりヤバい奴が集まっているテーマというか、あまり直視したくない「ネットの闇」の方のコンテンツだと思っていた。
ましてや、オリキャラのそれなんて、もっと見たくないものというか、あけっぴろげに言えば思いっきり見下していたジャンルだった。
そもそも素人がオリキャラ作ってそれをみんなに見せて…という行動自体、メアリースーだの、オリジナルSSだので割と見下されることの多い趣味だったように思う。その上、それ自体も怖いコンテンツであるキャラなりきり。このような趣味は、もうネットの恥部と恥部の重なりの部分、見下す云々以前にどんな奴がやってるんだかむしろ怖いもの見たさで知りたいくらいの闇ではなかったか。
そして正直なところ、自分のここまでの認識がそこまで一般ライトオタクとずれていたというつもりはない。Vtuber流行以前なら、キャラなりきりに対するスタンスを聞いてみれば、結構な人が(程度の差はあれ)同じような答えだったのではないかと思う。
ぶっちゃけ、オリキャラ作って他人に見せて…のほうは、「その中でも認められて素人でなくなった人はいる」という所を指摘されるとどうにも反論できない。が、そういう風に羽ばたいていった人たちに備わっていた力量みたいなものが今流行っているVtuberにあるとは思えない。そもそもそういう人たちの創作は内輪ネタみたいなものと無縁な気がする。反論しきれていないというのは重々承知だが、「なりきりではあるがオリキャラだからVtuberは流行れた」ということにはならないのではないかと思う。
というかぶっちゃけ、「オリキャラなりきり動画投稿者」と呼んだ時、ほとんどの人は何かおぞましい、自分が上で言っているようなネットの闇っぽいものを連想しないだろうか?以前似たようなアンケートを匿名の場でとったことがあるが、大体のオタクはこれをVtuberのことだとは思わず、ゆっくりで茶番劇をやるようなのだとか、一人で必死に声色を使い分けてヴォイスドラマを録ってるようなヤバいの(そんなのがあるらしい)だとかを連想していた。
でもVtuberって要するに「オリキャラなりきり動画投稿者」だよね?これ以上の要素も特に含まず、過剰に誇張している部分も特にないと思う。意味を端的に表そうとすれば相違なくこうなるのではないだろうか。
だからこそ、自分にはなぜこのおぞましいジャンルが流行し、多くのオタクに受け入れられたのかが分からない。たとえ最盛期のVtuberファンの半分が「みんなが見てるから」でファンになったのだとしても、もう半分はこのネットの闇を好意的に捉えたということになる。一体それはどうしてなのだろうか。
Vtuber好きが集まるところでこんなことを言えば荒らし扱いで無視されるだろうし、同じアンチ同士で話しても「最初は工作でそれに流された奴がファンになった」だの「あいつらはシコれればなんでもいいだけだから」だのいまいちピリッとした答えをもらえないでいる。
多分自分の認識のどこかにずれがあるからこうなったのだと思う。それがどこなのか、誰かに教えてほしいのだ。
追伸
反応を見て、だいたい「Vtuberはオリキャラなりきり的なコンテンツではなくて、単に中身本人の人格のままアバターを被せただけのものである」や、「TRPGやPBWのように、素人のオリキャラなりきり自体言うほど忌避されるものではない」というあたりが自分の勘違いだったのかなと感じている。
前者の方はかなり納得していて、要するに自分の「許せる」基準に合わせて言えば、Youtuberとして自分自身を発信していきたい人間が、生身の自分よりも多くの人に親しみを持ってもらいやすいと考えてアバターを使ったということなのだろうと思った。アンチの中にはこういう捉え方をした上で「○○とか○○は単なるYoutuberワナビーが売れるためにアバター被ってるだけじゃん」みたいな嫌い方をする人もいるかもしれないが、自分自身としてはそうであってもいいんじゃないかと感じるし、ファンになれるかは別として、こういう方針で活動をしている人なら別にサブイボが出るほど嫌いにはならないと感じている。
後者の方は確かにオリキャラなりきり系コンテンツの中でもまあまあ高尚(というか多少カッコが付くくらいの意味)な趣味もあったなあ、と感じたのだけれど、TRPGやらPBWはあくまで本人が楽しいコンテンツであって、誰かが作ったオリキャラの情報発信をファンが楽しむ、みたいな構図はあまりなかったように思う。人生で数回やったことがある程度の知識しかないので、この辺の認識違いがあればまた指摘してもらいたい。
VNIに関しては、正直自分の頭からVtuberと同ジャンルのものだというイメージが全然抜けていて、指摘されて自分でびっくりした。構図的にはかなりそっくりなものなのに、なんで抜けていたのだろう。(これ自体広く受け入れられたかというか、ネットの闇扱いされていなかったかはこの際考えないでおく。)
多分、VNIはあくまで受け手側の気持ちとして見ていたので、「オリキャラなりきり」と自分は捉えていなかったのではないかと思う。Vtuberは、ネット上の知り合いが何人もなっていったりして、中身の人間、つまり発信する側が自分の視野の中に入っていたせいで、そういうものとして見ることになったのかもしれない。
流行った理由の考察としては、もともとゲーム実況が好きになる素養のあった人が、可愛い女の子のアバターに惹かれて見に行ってファンになったというのがとても自分でしっくりきた。というか以前から何となくそういう推測は自分の中にもぼんやりあった気がするのだけれど、「それでもあのオリキャラなりきりっていうコンテンツへの拒否感が普通は勝たないか!?」と考えてそれを流行った理由として捉えられていなかったのだと思う。その拒否感の方が自分の勘違いだったと分かってしまえば、すんなりと腑に落ちる。
自分としては、今挙げたような内容が自分の勘違いのせいで認識のずれが生じ、世間で受け入れられたものを自分は許せない、という状況が生まれたということである程度納得している。だからと言ってたぶん好きにはなれない(これは完全に個人的な好みとして嫌いなタイプの文化が界隈にあるから)のだけれど、多くの人に受け入れられて流行った理由も、ファンの心理もとりあえずは理解できたように感じている。
もしこれらの他にも自分の認識の違いがあったり、あるいはまったく的外れなことを言っていたりするようならば、また指摘してもらいたいと思う。よろしくおねがいします。
(3)
そして今度は2005年5月に「第二次惑星開発委員会」と銘打って再び「善良な市民」の名でサイト運営を開始します。宇野さんはどうやら東京に移住したようです。旧・惑星開発委員会にもあったクロスレビューに加え、テーマについて語り合う惑星座談会、機動戦士Zガンダムを全話振り返る機動戦士Ζガンダム回顧録などがメインコンテンツです。メンバーは宇野さんがネットで面白い文章を書く人に声をかけて集めたそうです。
旧・惑星委員会との変化はメンバーだけでなく善良な市民のキャラクター設定も微妙に変わってます。旧での苛烈な作品批判は軟化し、良いところはきちんと誉めるようになり、下の世代の目を意識しているのか啓蒙的な要素が増えています。また旧ではパロディの範囲内だった評論を真面目にやろうとしている印象を受けます。
そして、「宇野常寛」の名前でライター活動を開始します。この頃の宇野さんは「宇野常寛」と「善良な市民」を分けて使っており、「宇野常寛」での仕事は掲示板で「ぬるい」「何で毒舌キャラで行かないんだ?」と言われており、ライターとして真っ当に仕事をこなすのが「宇野常寛」、毒舌キャラで評論を展開するのが「善良な市民」と使い分けようとしてたのでは、と推測できます。
2005年12月には今や数千部の部数を誇ると噂されている「PLANETS」の第一号をコミックマーケットにて販売。
2006年4月にははてな界隈のオフ会に飛び入りで参加しています。その時の宇野さんの様子をid:laisoさんはこのようにブログで書いています。
善良な市民という人はしょっちゅうこっちをチラ見してきて超絶うざかった。
「見んなって」というと「見てないよ。それは君がこっちを見てるから――」と
返してくるのでなるほど、それはそれでそれはそれだと思って、
自意識バトルを常に仕掛けてくるのだなと思った。
宇野さんは高橋克典似のイケメンかつ知性溢れる聡明な人間のようです。
2006年の4月はさらにサイゾーでインタビュー記事を担当したという告知をし(活字媒体での仕事を発表したのはこれが初めて)、2006年7月には「PLANETS」第二号の告知がされます。この号から正式に「宇野常寛」名義になり、東浩紀に原稿依頼をして断られたりしています。
この時期、某掲示板での宇野さんへの評価は「ある程度良い大学の学生がオタクを批判してたのは小気味良かったが、売れないサブカルライターが必死にオタクを批判してるのは見てて痛々しい」といった調子です。また「この仕事量で食べていけるのかな?」と心配する声もあがります。PLANETS第二号の白倉プロデューサーへのインタビューで特撮界隈で話題になるもこんな書き込みが。
802 :名無しより愛をこめて [sage] :2006/08/14(月) 12:21:50 ID:FJc6m3X80
>800
お前の読む労力なんざ知らん。まあインタビュは8Pしかないけど(しかもメールインタビュだ)
けど言った手前とりあえずガンダム云々について(ID違うのは気にしないで)
インタビュア:現在本誌でも特集しているTBSの竹田Pの手がけるアニメーションでは作品に明確なアンチ・グローバリズムのメッセージが盛り込まれています。同じアンチ・グローバリズムの立場から、娯楽番組を制作するという立場で、竹田Pと白倉Pは共通しているはずですが「竹田アニメ」のような直接的なメッセージを「白倉ライダー」はほとんど発することはありません。これはプロデューサーとしてのスタンスの違いなのでしょうか?それともアンチ・グローバリズム観の違いでしょうか?
白倉:グローバリズムとかいう耳障りのいい言葉を創出して価値観を押し付けるのには反対です。価値観や思想信条は個々人がみずからの経験を通じてそれぞれ獲得していくものであって、誰かから押し付けられるのでは宗教と変わりありませんただ、番組にメッセージを盛り込むなどというのも、同じく、公共的な番組を私物化する行為だと思います
なんか一時が万事この調子でサブカルから平成ライダー語ろうとする同人誌側と>サブカルとかまったく意識してない白倉
とで齟齬があって凄く微妙(白倉が種とかハガレンとか見てるとは思えないし)
まあ上の文からでも白倉Pの番組観はちょっと見えるけどこういうのは今までも散々言ってるし
808 :名無しより愛をこめて [sage] :2006/08/14(月) 23:26:32 ID:nAGLeJSg0
管理職として実務に携わっている会社人とサブカルライターとの違いが
痛いほど伝わってきて、イタイ。
現状を憂えた宇野さんの熱意はなかなか動物化したオタクには伝わらないようです。
そして、2006年9月に「惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する」と題した文章がアップロードされます。書いたのは転叫院さん(id:tenkyoin)。第二次惑星開発委員会の中核メンバーで、ウェブ上やPLANETS誌上で宇野さんと対談をしています。お互い、一目置きあっている「盟友」って感じだったのですが……。
惑星開発委員会が批判している対象への批判があまりにレベルの低いものであったから,私は惑星開発委員会に関わった.だが,いまや,惑星開発委員会への批判があまりに低レベルだと感じる.だから,惑星開発委員会へのまっとうな反論を書きたいと思った.
以後、転叫院さんはメンバーから外れ、自身のウェブサイトで「惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を分析する」「ゼロ年代の想像力」に対する批判者のためのメモ書き」「惑星開発委員会の宇野常寛氏を批判する 2007」と、度々宇野さんの批判を展開しています。転叫院さんの契機が何だったのか、本当のところはわかりません。友達は大事にしましょうね、宇野さん。
それらに対し俺はこう言ってやりたい「興味ないね、コメントするまでもない」と。
しかしそれは叶わない。興味ないね、とコメントした時点でコメントする程度には興味があるということになってしまうからだ。俺は本当に興味が無いというのに!
理想を言えば誰かが「増田さん、この件についてどう思いますか?」と尋ねてくれることだ。そうすれば俺はうんざりしながら「どうして私に聞くのかわかりませんが、興味ないですね。関心ある人同士で話し合って決めればいいんじゃないですか?」と答えることができる。
男性声優×ラップのヒプノシスマイクが女性キャラクターの立ち絵を公開した件でまた炎上している。私調べで1週間ぶり5回目の炎上。燃えすぎ。もはや燃えカスになっているのではないかと思いきや、まだ燃えてる。すっごい。
かくいう私も1週間くらい前、新しいドラマトラックの公開を機にヒプノシスマイクを降りた。コミカライズ1話を読んだ時から降りるか降りないかウジウジ悩んでたんだけど新しいドラマトラックが酷すぎて秒で降りることを決意した。ちなみにヨコハマ推しだった。
降りた後は、一応かなり思い入れのあるジャンルだったので、RADWIMPSの「もしも」の「もしも時が戻るならば純粋そのものだった君にまた出会いたい もしも時が戻らぬなら素晴らしかった君に恋してた僕のままで」という歌詞に自分とヒプマイを重ねてシクシク泣いたりした。完全に彼氏と別れた後みたいな感じだった。
だって過去のヒプマイは本当に素晴らしかったのだ。こう言うと何だか古参面してるみたいでイヤらしいが本当に割と古参だったので許してほしい。
そもそもが2017年の秋に始まったプロジェクトなので古参も新参もクソもない気もするけど。でもヒプノシスマイクというジャンルを新と旧の大きく二つにわけると、その分かれ目はあのめちゃくちゃバズったバトルアンセム(全員が歌ってるやつの二曲目)が公開された頃ということにはなると思う。むちゃくちゃかっこいい曲だったよね。かっこよすぎて、初めて聴いたとき「こんな幸せでいいの?」って泣いたし。
あの曲のおかげでヒプノシスマイクというジャンルが本格的に世間に認知されるようになったのかなと思う。し、同じように思ってる人も多いはず。
さてそのようにして2018年夏頃人気を爆発させたヒプノシスマイクだったが、この後から雲行きが怪しくなり始める。仕上がっていない声優のいるライブ。まったく出ない円盤(でも映像はあるらしい)。音ゲー化決定。歩数計バトル(これは面白かったけど)。バトルの勝者に贈られる賞品(これは賛否両論あるけど、物議は醸した)。
そしてCDについているドラマトラックの、脚本。これに関してはかなり早い段階からおかしくなり始めてはいたのだ。というかそもそも最初からおかしくはあった。でもそのおかしさがなんか面白かったしウケていた。ように思う。
声だけで展開されるので、多少キャラクターがブレていてもトンチキな言動をしていても私たちはそれをスルーというか、見て見ぬ振りをしていた。もしくはなんかいい感じの妄想で補って脳内でいい感じの方に持っていっていた。
私は入間銃兎推しだったけど、ドラマトラックで彼が中高生に喧嘩を売り始めた時点で「ん?」とはなっていた。でもそんな気にしてなかった。
もう一回言う。そんな気にしてなかった。というか気にしないようにしていた。なぜならヒプノシスマイクにおいて最重要なのは楽曲であり、ラップバトルだったから。曲とラップがむちゃくちゃ楽しかったのでストーリーはまあそんなに気にしなくていいかな、て感じだった。
しかしそのようなスタンスだった私のような者に致命傷を与える事件が起こる。
これに関しても、最初は「へー!コミカライズ?立ち絵数枚の推しがついに……」みたいな感じだった。だってコミカライズって、"スピンオフ"でしょ?って感じだったからである。
インターネットの奥地でこんな愚痴を読んでいる人は全員知っていると思うけど、知らない人もいるかもしれないので説明する。ヒプノシスマイクはキングレコード内のレーベルが手がける「男性声優×ラップソング」のプロジェクトである。
その言葉の通りオタクコンテンツでヒップホップのガチ曲を男性声優が正々堂々と歌う。そしてファンが得られる情報は公式HPの立ち絵とキャラ紹介と楽曲とCDに収録されているドラマトラックのみ。完全に"音"がメインで展開されていくジャンル。
一体誰が、そういった音楽がメインのジャンルで、突然コミカライズがストーリーの本筋を描き始めると思うだろうか?
誰も思わん。私も思わなかった。周りのみんなも思ってなかった。不意打ちだった。
別にドラマトラックをなぞるだけならいい。それならあくまでメインは、ドラマトラックであり、耳から入る情報だから。けれど三つある(なんで三つもあんの?)コミカライズのうち一つは、作中で伝説とされているグループTDDの結成から解散までを描く前日譚だった。それだけならまだいいよ。本編の補完って感じなら、別にいいよ。
でも、世界観の重要な設定とか、今後のストーリーに絡んでいく新キャラとかをコミカライズで出すのは流石に違う。
違うでしょ。違うよな?私の感覚がおかしいのかな?そんなわけないよね?だって実際かなり燃えたし。
今まで"音"がメインだったわけですよ。楽曲とドラマトラックのみでストーリーが展開されていくっていうワクワク感が私は好きだったわけ。わかるか?わかってくれるよね この気持ち
それにドラマトラックをなぞるだけならまだいいってさっき言ったけど、音声だけならスルーできていたキャラのトンチキな言動とか、ちょっと現実離れした設定とか、視覚化されたら、もう見て見ぬ振りできんのですわ。もう見逃してあげられない。嫌でも目に入ってくる。圧倒的違和感。
と、いうわけで冒頭に書いたみたいにコミカライズ1話を読んだ私はかなり悩んだ。理由は上に記したことと、もう一つ。ストーリーがすんごいつまんなかったから。もう話が矛盾してるとか破綻してるとか世界観があやふやすぎるとかこのご時世にジェンダーに関わる話にするならもっと考えなよとか色々全部ひっくるめて、「つまんなかった」で表現してもいいか?いいよ
それでも過去のヒプノシスマイクがむちゃくちゃ楽しいジャンルだった(お正月remixとか)ということや、仲の良いフォロワーがいることなどを考えるとなかなか離れる踏ん切りがつかなかった。
もしかしたらコミカライズはこれから先面白くなるのかも。話も辻褄があうのかも。もしくは、コミカライズは読まないでCDだけ聴けばいいんじゃないか?今までだってCDとドラマトラックだけでこのジャンルは成立していたんだし。ね?
コミカライズ読まなければいいんじゃない?楽曲を楽しんで、ドラマトラックだけ聴けば話がわかるんじゃない?ね?
だってCDが、楽曲が、ドラマトラックがメインの原作でしょ?だよね?ね?ね?そうだよね?ね?
違った。1週間くらい前にyoutubeで先行公開された、次のCDに収録予定のドラマトラック(てか30分全部公開とか、CD売らん気か?)。コミカライズに登場した新キャラたちの名前が当然のように出てきた。
つーか名前がキラキラネームすぎて目で受け取った情報と耳で聞いた音とがイマイチ合致しないけど、当然のように名前出てきた。あとキャラクターの1人の口調が変わってた。そんなのありかよ
コミカライズを読んでいない人は、確実に話についていけないだろう。
というか読んだ私も話についていけなかった。
全員別の人みたいだった。
そこで私はようやく、私の知っているヒプノシスマイクが全く別の、私の知らないヒプノシスマイクにいつのまにかすり替わっていることに気がついたのだ。
こうして私はもうこのジャンルについていくことは無理で、私とヒプノシスマイクは完全に志を違えてしまったのだという実感を得てRADWIMPSを聴いて泣くことになる。
以上、ジャンルから離れて微妙に日数経ってるのに、オトメイトが関わっているジャンルで既存キャラのイラストも数枚しかない状態で女性キャラの新規絵を出したヒプノシスマイクが面白すぎて我慢できなくてこんなん書いてしまいました。
コミカライズが無理で、ストーリーが無理で、新しいドラマトラックが無理で、と言うと必ず「脚本家はずっと一緒の人なのになんで急に無理になったの?」という疑問をぶつけられますが、それはつまり、こういうことなのです。
見て見ぬ振りしてきたところを、見て見ぬ振りできなくなったから。
そして見て見ぬ振りできなくなるような売り方に変えたのは公式です。いやまじで公式に恨み言とか言いたくないし、私ヒプノシスマイクのこと大好きだったから、本当に、別れるのは辛い。横浜とかなんかもう元カレとの思い出の場所みたいになった。
私だって出来ることならずっとヒプノシスマイクを応援したかったし推しのことを好きでいたかった。でも無理になった。公式の売り方のせいで。
変わったのは私じゃない。ヒプノシスマイクだ。そしてそれに怒るのは絶対に悪いことじゃない(すごく攻撃的になるのは違うけど)。私は自分勝手なので、これだけは言いたかったんです
ほんとにちゃんとした大学行ったのか謎だ。オタクは教養をバカにした方が頭いいみたいなスタンスだけど、こういう意見って世間ではどう思われるんだろう。一種の中二病にも見える。バカが自分より優秀な人間をけなして俺すごいしてるようにしか見えないのだけど。日本では院卒の高学歴が不遇だといつも問題になる。オタクの教養叩きもそういう世間の風潮に一役買っているという自覚はあるのかしら。
きみたちの大好きなアニメや漫画やラノベだって比較的教養のある側の人によって作られているんだよ。消費するだけのオタクは教養がなくてもいいかもしれないけど、きみたちが漫然と大量に消費してるコンテンツも作り手の教養によってうまく成り立っているの。教養のない人間がものを作ると『ポプテピピック』のようになるわけ。
比較的高学歴が集うという設定になっているはてなですら高等教育の失敗を感じるって悲しいことだ。
こういうことは教養のない人間に言ったところで意味がないのかもしれない。ただ、上位3%程度の人たちには届いてほしいなとは思う。オタクたちの声に惑わされないで勉学に励んでほしい。何事にも好奇心を持ち、情報を鵜呑みにはせず批判的な視点を持ち、多様な知識や物の考え方に触れてほしい。そしてじっくり自分で考える習慣を持ってほしい。薄っぺらな知識の寄せ集めで自分が全能であるかのような錯覚に陥り、高慢に世の中を冷笑してみせることは教養を持つ人間のすることではないのだから。
前々回は結局、朝からの謎の不調が一日中続いてしまい、仕事は休まざるを得なかった。なのに翌朝は何事もなかったかのようにスッキリ。
前回のバイトでは、相棒がご機嫌だったので、過ごしやすかった。いつもご機嫌でいてくれたんならいいんだけどなぁ。
相棒は高齢独居なんだが、家にいるのが寂しすぎて職場が我が居場所感を強く持っている。のはいいんだけど、職場の主になりかけているのがちょっと。場を支配したがるのがなぁ。
昨日は実家の母に会った。昔、母は確かメニエール病で寝込みがちだったんだけど、私にもそれが遺伝してしまったのかなあ。
と、母にぼやいたら、母は、「当時メニエール病の疑いという事で治療を受けていたけど、最終的にはメニエール病ではないと診断された。どうやら強いストレスがかかった時だけ発病していたらしい」と言った。
もしかしたら、私もプロアルバイター氏と働くのをやめたら眩暈に苦しめられる事はなくなるのかもしれない!!
プロアルバイター氏と働くのは、全女性従業員とイケメン正社員氏が嫌がっているので、店長はしょうがないよね、でもみんなの我慢してるから我慢出来るよね、というスタンスだ。
私は、プロアルバイター氏と仕事をするのが嫌な本当の理由を、夫以外の誰にも言っていない。
プロアルバイター氏は、私の年齢が氏の元カノと同じと知った途端に豹変したのである。
寡黙な人かと思ったら急に、
「増田さんて、俺の元カノと同じだったんですねええええええ!!!!!↑↑↑↑↑」
と、テンションがおかしくなってしまい、それから私の隣や背後に肩がべっとり着く位の0距離にへばりついて離れなくなってしまったのだ。
そして真っ赤な顔で鼻息荒く私のプライベートの事をガンガン質問してきた。
という訳で、一気に嫌になってしまったのだ。
監視カメラに証拠映像が残っていた為に、プロアルバイター氏は厳重注意を受けたものの全く懲りておらず、また、クリティカルにセクハラな発言はしていないので、ペナルティは受けなかったのである。
しょうがないから私は自衛するしかなく、以来氏とは一切目も合わせず話もしないようにしているが、立ち止まれば行く手を思い切り塞がれるので、氏とのシフトの際はずっと駆け抜けるように働いているし、立ち止まらないと出来ない仕事(おでんの入れ替え)は氏の出勤より前に急いで終わらせるようにしていて、たった数時間とはいえやたらオーバーワークとなってしまった。
しんどい。