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はてなキーワード: 斎藤環とは

2019-06-09

anond:20190609125358

要は「将来に希望がもてない」「精神的に不安定になっている」状態だと思うので、ひとまずは『お薬ちゃんと飲ませる』。

あとは不安になりそうな情報に触れさせない、他人との会話の機会をつくる(先生介護士さん)とか、基本的なことを粛々とやっていく。でしょうか。

家庭の状況って個別具体的に違うので、自分の家は「どの方法」が合ってるのかいろいろ試してみるしかないのかなと。こんな試みがある、という情報キャッチアップできるようにしておいたり。あーうちだけじゃないんだよな、と思えるだけでも気が楽になりますね…。

家族会(もう入ってますか?)

https://seishinhoken.jp/profile/families

精神科医の斎藤環さんのツイッター

https://twitter.com/pentaxxx

2019-06-04

anond:20190604150521

斎藤環さんは家族を殴るのは犯罪ではないという独特の考え方をした人なんだろう

2019-05-31

anond:20190531130225

斎藤環が言ってたろ

オタクという生き物は、自分言葉で話すと角が立ったときつらいから、他人アニメキャラ言葉引用するって

対してヤンキーも、同様の理由から自分言葉で話さないが、キャッチー新語を生み出しそれを自己意見表現系とする手法をとる

いずれも、通常の日本語でのコミュニケーションを好まないことは共通してる

重要なのは表現ではなくそ表現に至るまでの理由

2019-03-12

anond:20190312080156

引きこもり無職相手なら何か一言くらい言えるだろう、自分はそれに値する人生を送ってきたに違いないと思ってる良識のある人々ほんと醜いよね

斎藤環が「ひきこもり」に対するもっとも適切な態度は「無関心」。良識があるだけの他人説教したり罵倒したりするのはお節介しかないって言ってたけどほんとその通りなんだよな。

説教してるやつは無職おっさんオナニーしてる変態

2019-02-16

関係性を志向するファンダムのこれから 後

承前

https://anond.hatelabo.jp/20190216023228

3【オタクによって関係性を消費されるオタク

キャラクタ化するオタク

 本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。

1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuber現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語消費者提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタクである。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタ関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャル世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである自分人生趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタのものになるということは、自伝エッセイ執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタク人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語関係性が発生していくというコンテンツに、オタク萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在人生物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。

また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子特有の親密さは、既に広く認知されており、さら創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク言動コミュニケーション「あるある」と思いながら読むような自伝エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。

・「関係性」の基底現実での実践

 上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品キャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリング相手ネット上で交際したり、同作品キャラクタ日常会話をする文化である。このアカウント運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイ交際していた相手現実でも交際に至ることがあるという。

 つまり関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌え関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたち関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタ境界あいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。

4【関係性消費はどこに行きつくのか】

 本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクのものキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダールッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタク理想バーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることであるバーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタク理想キャラクタとなり、主体的交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差ルッキズムによる格差存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者セクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である

これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状であるしかし、バーチャル空間上でのルールマナー議論の末に整えば、それぞれが理想関係性を追い求めて基底現実バーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界拡張現実侵食する「関係性消費」は、しか古典時代から物語として脈々と行われてきた文化であるオタク文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。

関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからジェンダーセクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。

引用文献】

*1 東園子,2015,「宝塚やおい、愛の読み替え 女性ポピュラーカルチャー社会学新曜社

*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナキャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125

*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書

*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社

【参考文献】

玉川博章,名藤多香子小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社

吉澤夏子,2012,「『個人的もの』と想像力勁草書房

山岡重行,2016,「腐女子心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版

塚田修一,松田聡平,2017,「アイドル論の教科書青弓社

2014,「ユリイカ 特集百合文化現在」第46巻第15号 青土社

2018,『ユリイカ 特集バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社

美水かがみ,2004-,「らき☆すたKADOKAWA

なもり,2008-,「ゆるゆり一迅社

あとがき

期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク人生で遊んでいこうな!

2018-08-21

anond:20180821104210

まあ元のツイートはこれ。

2018-05-28

岩波ブックレットひきこもりライフプラン 「親亡き後」をどうするか』の斎藤環氏が書いた部分に、

ひきこもりの子供に対して父親上から目線権威的に話し、母親ストレート批判はしないもの皮肉や嫌味が自然に出てくる傾向があるとあった。

ではどのように話しかければ良いのかというと、個人的に素朴にまっすぐ伝えることだと。

そのやり方が分かって実行できれば何の苦労もないわと、さらっとした書き方に対して一通り僻んで苛立ったあと、

自分は心の能力が低い、未成熟で貧しいんだという感覚に飲み込まれて悲しくなってしまった。

 

新庄耕『ニューカルマ』に、主人公と先輩社員の会話が出てくる。

子供が出来たのでエロ本編集を辞めて今の会社に来たという先輩社員の話を聞きながら、主人公モノローグがある。

「まだ知り合って間もないにもかかわらず、自身過去を明け透けに伝えられる素直な態度と、それを足下で支えているだろう潔白さに、引け目を感じてしまう。」

「思わず頷きたくなる共感と、同じくらいの反発がない交ぜになって胸に去来する。」

主人公に対して、架空人物への距離感を失い、お前は俺かとなるモノローグだった。

「素直な態度に対する共感と引け目と反発」。自分の中にある感情言語化を代行してもらったみたいだ。

それが自分の中に起きているときは、とてもメタ視や冷静な言語化ができない。

胸の中に渦が生まれて息が詰まる。相対的剥奪感や被害者意識、暗くて攻撃的な気持ちに飲み込まれる。

同僚が「人に気持ちを聞いてもらうだけで違うようなところあるから」と自然に言っただけで、

気分が異様にざわついて喉がこわばって言葉が出てこなくなる、ということもあった。

同僚は職能の持ち主である前に人であり、私も人である、話を聞いて欲しいものだ、という一般的なはずのことにざわつく。

 

ここで書くと「腐かよ」と吊るされそうだけど、中村明日美子同級生』の草壁くんがとても好きだ。

支配的でも厭味ったらしくもない、私の欲しい素朴のイデアみたいなところが草壁くんにはある。

生きるために衣食住のほかに何が必要かといったら「草壁くんの素朴の概念」だ。

欲しく、取り込みたく、千尋に執着するカオナシのような情動があり、読んでいて泣いてしまった。

でも欲しいというのは支配に近くて、コントロールされた時点で私の欲しい素朴を失っている。

カオナシ×千尋のような、片方が片方をコントロールしようとする関係カップリングとしても推せない。

でも千尋に執着して、偽物を差し出して釣ろうとして、飢えてヤケクソになってなんでもかんでも食べようとするカオナシにはかなり自己投影やすい。

自己投影やすキャラクターはどこか、カップリングになって欲しくないと思う。

人とかかわるのに必要ものが足りてないから、人間関係において害を生み出す。

 

自分気持ち悪さや欠損感を問題視し『アサーション入門――自分相手も大切にする自己表現法 (講談社現代新書)』を読んだ。

物語を伴わない、私の思う「素朴」の「技法」のようなものがそこにはあった。

長年のコミュニケーションの手癖を矯正していく作業は地道なもので、ショック療法一発で治るようなものではない。

アサーティブでないコミュニケーションをしてくる上司の持つ、強烈な巻き戻し力に抗えないときもある。

子供の頃からうつ状態の再発を数年おきに繰り返している身でもある。未だに父親には脅迫まがいの言い方で人生コントロールしようとされる。

しか筋トレのように地道に自分を改良していくことを決めた。支配欲は本当に気持ち悪いものからだ。

無防備な素朴さに対する、引け目と反発と愛おしさと憎しみと、足下に「自分自分を許しているかのような」支えがあることへの僻み妬み、

そういう感情にかき乱されるのなら、もう自分自身がそうならない限り、技法として身に着けてそれが一時的な演技でなく本質・血肉にまでならない限り、

いつまで経っても人や概念に縋って不安定になり、近しい大事な人にほど害をもたらす。

オープンダイアローグとは何か』も読むべきかもしれない。

2017-12-26

私のオタク

最近聞かなくなってきた、ヤンキーマイルドヤンキー論。2014年くらいに一時期関連本がでて、斎藤環さんの言葉鵜呑みにしていた自分。我ながら滑稽。後出しじゃんけんっぽくてズルいんだが、この「ヤンキー論」ですらオタク達の一時の清涼剤に過ぎないんじゃなかろうかと、何処かでは思っていた。私も立派なオタクから言わせてほしいが、オタクはまず興味関心の占める範囲が、ヤンキーの人たちと比べて、狭い。物理的な意味視野が狭い。私の好奇心、私の興味関心、私の本棚、私のプレイリスト、私のベスト10など。あらゆる「私の」を所有しようとしている。私は例えば好きな作家のひとりの中島義道さんを、「私の先生」という意味付けを行っている。私だけの、というtagをつけて初めて安心して作品鑑賞に移れる。では自分中島さんの哲学領域であるカント哲学や、時間論が好きかと言われればそうではない。私は、私の先生というtag付けされた、特殊中島義道の語る「カント哲学」や「時間論」が好きなだけだ。もう一例上げると、町山智浩さんの映画評もそうだ。例えば私はターミネーターシリーズが好きだったが、町山さんの映画評を読んでから、私の好きな町山さんが好きなターミネーター、という特殊tagけがされたターミネーターが好きになってしまった。要するに、このtag付けという行為、私の所有であるという意味付け行為のものが、オタク的と呼ばれる要素なのではないだろうか。好奇心の向くものはすべて「私」という意味がなければならない。そんなmission自分に課して楽しんでいるのが、案外オタクの生態なのかもしれない。

2017-08-25

思春期が終わらない

最近持病の睡眠障害がよくなくって就寝時間がどんどん後ろにズレていってしまっている。もう空は白み始めて居てミンミンゼミが鳴き始めている、朝だ(今年引っ越してきたこの家は間取り関係なのか新聞配達カブエンジン音が聞こえないかいまいち昼夜逆転してしまったという感じがしないのだけど)

10年くらいは不定期でこんな生活をしている、なぜってそういう時は定職についてないからだ、引きこもりをしたり働いてみたりの繰り返しの人生って訳だ。

しかしここ数年は少し特殊な状況だ、結婚してパートナーが出来たのだ、きっかけはうつ病院生ネットのクソみたいなメンヘラカルチャーに触れてロクでもない処方薬遊びと自傷行為をしてて親も兄弟も手がつけられなくなってたところにたまたま入り込んでとりあえず刃物を取り上げてきちっと治療するために処方通り薬を飲ませるようにピルケースに詰めたりしてあといろいろ面倒を見てたらいつの間にか結婚してたっていう話だ。

運が良いことに相手の家はそこそこ稼げる仕事で、間をとりもってあげれば無理させることなパートナー治療に専念されられるし、さらにその間私に何か勉強させる余地があるというボーナスがついていた。

しかし、世の中そんなトントン拍子に物事は進まないもので、順調に回復していたパートナーうつ病は今年の夏は悪化に転じ、もとより勉強する習慣がなかった無気力学生(高卒)だった私は受験用のカリキュラムについて行けず、なんとなくお茶を濁した程度の勉強しかしないという状態に陥っている、腐敗の2文字そのまんまの生活のような気もする(一応まだ勉強してどうにかする方面は諦めてないのでそんな自分自分を腐したりはしないが)

ひきこもりを疾患として概念化した斎藤環社会的ひきこもりの副題は「終わらない思春期」だったがまさに今の私たちはそろってそんな感じでこのままだと親が働ける間はそうやって終わらない思春期を続けて、働けなくなったら撤退して親の持ち家に住んで最大限使える社会保障に頼りながら小遣い稼ぎ程度にバイトして……といったところが放っておけば来る未来だろう。

正直抜け出したい、やはり経済的に自立しているということは自由であることと同義だ、けれど色々戦略は練り直してはいもののその放っておけば来る未来から抜け出すだけの加速度を生み出すエネルギーが私にあるのだろうか。なんて思いながら33歳の夏休みは終わって行くのだった。

追記:本筋に上手く入れられなかったので分けて書くが最近パートナーが「学生の頃は私に本当に優秀だったのに」と愚痴っていてどうにもつらい、つらいというか自分はもう全盛期を過ぎた人間という思考に囚われてるのをみるのはあまりいいものじゃない。

その点私はずっと人生パッとしなかったしパッとしないなかで良いことがたまにあるみたいな生き方をしてきたからそういう悩みとは無縁で楽なのかもしれない(あれはあれで私なりの青春だったと思えることはいくつかあるけれど)

2015-05-27

いち「弱者男性」予備軍(?)が望むもの

「弱者男性」は何を望むのか? - キリンが逆立ちしたピアス

私は、35歳手前、職歴なし、交際経験なし、友人なし、Webでの交流なし、親にパラサイトしてる異性愛指向男性

頼れる親がいるので恵まれてるがタイムリミットがあるし、将来的には自殺ホームレス(大変そうだ><)だと思ってる。

何歳から「オッサン」なのかわからないが、少なくとも議論の発端の「キモくて金のないオッサン」予備軍としては認めてくれるよね?(認めたくない場合はタブ閉じて下さい)


ということで質問に回答する。

望むものは「苦しまずに死ぬ薬」に一票を入れたい。「生きる生きないは私が決める」

(日々そういうことに向き合われてる方が不快に思われたとしたら、ごめんなさい。フェミの方ももじってごめんなさい。)

ベーシック・インカムも考えたけど、斎藤環社会参加とセットじゃないと反対みたいな見解を述べてたので却下した。「BIと社会参加」は望んでない。

みなさんは何を望んでるのでしょう?ブコメ推理されてたのをいくつか上げて、反論してみる。

パートナー」 相手の意思があるから強制的にどうにかするのは難しい(恋愛経験者が恋愛を語る!)

「不審者扱いしないで」「放っておいて」 私も職務質問経験が何回かあって大変不愉快だったけど、女性男性に対して警戒しなきゃいけない社会では無くすの難しい。

アメリカ人の父親を持つラッパーomsbの1stで職務質問に怒ってるトラックがあるように、これに関して一番ヒドい扱いを受けてるのは外国人のように見える男性だと思う。

ちなみに私は黒髪ピアス刺青なし、ユ○クロのポロシャツにNBといった穏やかな格好ですが、されます


まぁ「苦しまずに死ぬ薬」も難しいよね。他殺にも使えるし

2014-08-08

知識人読書量・知識量ランキング

SSクラス 江藤淳柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎谷沢永一村上泰亮中村元

クラス 小室直樹浅田彰福田和也渡部昇一、呉英智蓮實重彦永井陽之助中村雄二郎すが秀実佐伯啓思高澤秀次筒井康隆小谷野敦菅野覚明養老孟司 見田宗介佐藤誠三郎大森荘蔵西部邁

クラス 丸山眞男吉本隆明長谷川三千子丸山圭三郎橋本治村上陽一郎佐藤優松岡正剛伊藤貫、猪木武徳坂部恵坂本多加雄大澤真幸中川八洋永井均野矢茂樹小浜逸郎飯田隆河合隼雄片岡鉄哉鎌田東二梅棹忠夫竹内洋山本夏彦山口昌哉、入江隆則

クラス 猪瀬直樹坪内祐三中沢新一御厨貴橋爪大三郎鷲田清一北岡伸一池田清彦中西輝政立花隆山本七平宮台真司桶谷秀昭宮崎哲弥司馬遼太郎古田博司市川浩東谷暁苅谷剛彦秋山駿関岡英之加藤尚武浅羽通明松原隆一郎東浩紀

クラス 中島岳志鎌田哲哉兵頭二十八内田樹森本敏村上龍西尾幹二仲正昌樹大江健三郎齋藤孝森岡正博富岡幸一郎小泉義之井沢元彦、桝添要一、中西寛中島義道鄭大均山内昌之村田晃嗣山形浩生林道義松本健一

クラス 斎藤環福岡伸一副島隆彦榊原英資梅原猛寺島実郎佐藤健志大塚英志五木寛之笠井潔潮匡人高橋源一郎岸田秀山田昌弘竹中平蔵池田信夫萱野稔人大川隆寛、大森望櫻田淳上田紀行手嶋龍一和田秀樹藤原正彦、中野剛志

クラス 佐々木中村上春樹三橋貴明田原総一郎木村太郎池上彰竹田恒泰切通理作島田雅彦酒井信、夏野剛苫米地英人上野千鶴子姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣小阪修平佐藤亜紀

クラス 糸井重里加藤典洋中上健次勢古浩爾北田暁大藤原和博小熊英二佐々木俊尚西條剛央玄田有史城繁幸茂木健一郎岩田温千葉雅也、岡田斗司夫

クラス 小林よしのり宇野常寛勝谷誠彦荻上チキ鈴木謙介勝間和代伊坂幸太郎濱野智史赤木智弘坂本龍一いとうせいこう上杉隆酒井順子

クラス みのもんた久米宏古舘伊知郎ハマコー太田光水道橋博士テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ森永卓郎、ホリエモン、津田大介ひろゆき中村うさぎ雨宮処凛桜井誠

異論がある人は修正版をトラバでどうぞ

2014-05-25

ヤンキーからマイルドヤンキー

全くの思いつきだけど軽くメモ

最近流行マイルドヤンキー、久しぶりにいくつかの記事やコメントを眺めたら全くわけがからなくなっていた。

どうやら僕が目を通していた斎藤環氏のヤンキー論と、原田曜平氏が提唱する「マイルドヤンキー」では内容が別、というか逆になってるようなのだ

シッカリ読んだわけじゃないけど、確か斎藤氏のヤンキー論は「日本にはヤンキー的なものが潜在していたのではないか?」という作業仮説のもと、ヤンキー文化リサーチするとともに丸山真男の「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に代表される日本人論アクセスしていく……というものだったはず。

ここにはざっくばらんに言えば「日本人って昔からヤンキーだよね」「俺もお前も根っこはヤンキーだよね」というそ自体ヤンキー的な(?)直感があったはずだ。

他方、原田氏が唱える「マイルドヤンキー」では、地方在住で、酒・タバコ・車で消費を回し、地元や仲間を大事にする人々……といったように対象抽象的にせよ指し示されているようなのだ

これはどういうことなんだろう?

僕にとって、この斎藤氏のヤンキーから原田氏の「マイルドヤンキー」への移行はそれ自体興味深いように思える。

例えば(書いてていやになるくらいありがちだったけど)次のようなストーリーを考えてみるならばどうだろう?

近年、「ヤンキー的なもの」は僕たちの周りのあちこちに露出し始めている。橋下徹氏でもいいしワタミでもいい。

僕たちはこの動向を自覚的にせよ無自覚的にせよ不気味に思っている。

そこで一部の人間をピックアップして「マイルドヤンキー」とレッテルを貼ることによって、世界のあちこちに、あるいは自分の中にも潜んでいるヤンキー的なものをお祓いしているんじゃないだろうか?

……とはいえ、今の俺にとって大事なのは増田くねくねすることなんかじゃなくて自分研究だ。

先行研究を読んで、実験やって、パワポ作って論文を書く。シンプル実力主義世界

今日ラボに顔出さなきゃ。その前にレッドブル買ってくるか。

2014-02-05

匿名ダイアリー斎藤環を批判とかワロスwww http://anond.hatelabo.jp/20140204071818

承認欲求じたい馬鹿にしようとは思わんが、パクツイでファボもらって喜べる精神構造は全く理解できないんだが誰か教えてくれないか

2014-02-04

匿名ダイアリー斎藤環を批判とかワロスwww

承認欲求承認欲求うるせぇよ最近。腹にずぅんとくるような形で人を小馬鹿にするような概念もちだしてんじゃねぇよっておもう。なにかにポジティブな印象を抱いたり誰かのことばに共感したり納得したり感心したりしたらそっと本人にその旨つたえたらいいじゃん。なにもしてないのに承認欲求ばっか肥大してるのは不健康だけど、承認自体コミュニケーションて言うかコネクトっていうか(「繋がり」「ネットワーク」という言葉は語感と使われ方が嫌い)、基本的にいいことじゃん。他者承認、あたえましょうよ。ただしあんま人目につかないところでね。みんながみてるとこであんまりクネクネ(仲良く)してるとひがむ人が出てくるのは実際のとこそうだし、それ批判しても仕方ないし、隠れ気味になるよう気を付けながらお互い嬉しくなるような承認を与えてはたまに承認を受けたりすれば生産的だとおもいますね。

まり抽象化していえば、ひとさまの役に立ったりひとさまの気分よくしたりすることをよそさまの気分を害さないよう気を付けながらやりましょうよって話。他に言いたいことは、それやめろじゃなくてこうやろうぜってノリでいくのはいかがですかって話。

2013-11-24

反原発」という怪物と戦うために。

生まれてから福島県で生きてきて、これほど郷土愛というか、県民ナショナリズムを実感させられることはなかった。独立が脅かされる中小国もこんな感じなのだろうか。

元々震災前は影の薄い県(バカ日本地図では「謎」)だったし、福島を離れることになっても特に郷愁以外には感じないだろうと思っていた。

けれども、震災原発事故が起きて、福島が「フクシマ」と呼ばれる事態に至って、私は、私と私の家族と、私の愛する人を守るために、いろいろなものに悩まされ、そして戦わなければならなくなった。

本来味方であるところの(急進的)反原発派も含めて、だ。

私はあのお手紙事件があろうとなかろうと、山本太郎議員を支持していない。原発代替手段があればこだわらないし秘密保護法は現行では反対だが、彼の言う「脱被曝」とそれにまつわる政策、あと数々の陰謀論とその支持者には賛同しかねる。

未だに彼を支持する福島県民と話したことはないが、きっとそれは私の交友範囲の狭さに起因するということなのだろう。震災後に福島を離れ東京暮らし街頭演説を直に見た知り合いですら嫌っているのだから、私の見方は偏っていると思っていただいても構わない。けどまあ、反原発デモ東京ほど盛り上がらないこと、福島市で「自主避難者が安心して帰還できる」ことを政策に掲げた候補(非自民)が市長になったことは知ってほしい。

勿論、山本議員には情報開示やネット活用など評価すべき点もあるとは思うが、それが政党に属さない彼らの取り得るべき戦略なのだろうし、それを通してみた上でも、彼が東北国民ではなく杉並の支持者の方を向いているのだなとしか感じられない。

しかしながら、Togetter2chで素っ頓狂な発言をする急進的反原発派を嗤い、議員の言動をスクラップしているうちに、嫌いな奴のために一日の数時間を費やすのも阿呆らしくなってきた。

言動や政策をまとめサイトに粛々と更新したところで一銭にもならないのだし、それに斎藤環氏の「外傷性の絆」の話を持ち出すまでもなく、事実を述べたところで簡単に考えを変える人がいないことを痛感した。ただの燃料にすらならないのだ。

私は「反原発」という怪物を目の当たりにして、初めは理性的に振る舞おうとしながらも、結局は自分も怪物になりつつあった。

震災以後わかったことは酪王カフェオレの美味しさで、お手紙事件で再確認させられたのは海外から見た福島の評価だった。

これからどうするべきかと考えていて、「応援してます」と福島県産食品を送ったらナイフ銃弾のように扱われるのかと夢想するが、こんなに美味しい物をわざわざ金まで出して食わせてやるものかと思いとどまっている。

2013-05-07

リア充という概念について今なお

 はじめて聞いた頃はただルサンチマンを募らせたような非モテ側が勝手に作り上げた幻想のような気がして、自分で「リア充」という言葉を使うことをさけていたし、『リア充幻想』というような本が出ていたのを見た時も、「そうだそうだ、ありゃ幻だ」なんて考えていた。だけど、最近になってどうもこいつは意外と根深い問題なのではないかと考えるようになって来た。自分の中で考えが未だまとまっていないし、思考が浅い段階であるからこそ増田に書いているのだけれど、自分は「彼ら」を嫌悪していることは間違いない。それは妬みからではなく、彼らに思慮というものが全く欠けているように見えるから。とりあえず仲間内だけで突っ走って、周りに何が起きても最後自分たちだけでネタにして笑い合う、というようなあの感じ。マスメディアとか見ててもリア充的発想でおめでたいなあ、と思うことも多々あるし。ああ、まとまらん。斎藤環さんのヤンキー論に近いのかな、なんて思うけれど、どうなんでしょうか。

 なんだかんだいって、これもただのルサンチマンなのでしょうか。たぶんそうです。駄文失礼しました。

2013-03-22

アニメ評論家には、そんなにアニメ作画は批評するに値しないものと思

われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった)

http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220

 それにしても、と僕は思う

日本には、アニメに関する批評存在しない。批評家存在しないだけでなく、批評の場そのもの存在しない。

(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか東浩紀

 東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。

中略

 ゼロ年代アニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志斎藤環東浩紀やその取り巻きアニメ作画を完全に無視したし、作画オタク東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブアニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。

本当になんでだろうね。

作画系に強い氷川竜介ですら、作画マニア的な"紹介"に留めて批評の域には持って行こうとしない節がある。「20年目のザンボット3」でも、金田伊功だけで1章割いてかなり詳細にデータやら作画の個性やら文章を連ねても結局は「金田作画、たまんねえ」で終わる内容だったりする。それはそれで悪いことでは決して無いけど。

小黒祐一郎は?小黒は編集者であって評論家ではない、しかアニメ制作者にその辺を積極的に語らせようとはしている。

アニメスタイル第1号のロングインタビュー「庵野秀明アニメスタイル」はその結集だ。

アニメと作画の密集した関係性をあそこまで徹底的に語った記事は未だかつて存在しなかったしこれからも無いと思う。間違いなく論の域に達していた。

語ったのは庵野秀明本人だが、ここまで語らせたのは小黒祐一郎の手腕によるものだろう。これが竹熊健太郎とかその辺だったら絶対に聞き出せなかったと言い切ってもいい。

それでなくとも旧アニメスタイル1号、2号はアニメと作画の関係性をがっつり語ってみようぜ!!というエネルギーに満ちあふれていた本だった(アプローチには異論反論ある人もいるだろうけど)。

これは当時作画オタが絶滅しかかってた事を危惧して・・・というよりも、「昔みたいな作画おたくもいなくなっちゃったし、そろそろここらで語ってみるか!」みたいなノリだった、という気がするんだけど・・・

今は当時より作画オタ(というかニワカ含めて俺も作画をかじってみたいよ的な奴)が増えた状況なので、リニューアル後のアニメスタイルは作画オタ啓蒙寄りな本になっちゃったと思うな。

なんつーか。作画オタなんて下らねえ→したがって作画を論じる事も下らねえ→作画語りは作画オタだけでやってろ、その辺で「たまんね」ってホザいてろカス

という空気は形成されつつあると思う。

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2010-09-17

ひきこもりだしニートだし

世間から見たら危ないキチガイみたいなもんだと思われてるだろうし、俺もたまにそうなんじゃないかってなんとなく直観してるからそうならないように、街出たら必ずといっていいほど叫んでる。機械的に。別にいらついてるわけでも精神が重篤な危機に陥ってるわけでもないけど、こういう境遇だからさ、いつそういう風になるかわかんないじゃん。

だからとりあえず大袈裟に叫ぶ。怒る。狂ったりする。本当にそうしなくてもいいように。ぎりぎり犯罪にはならない、あらゆる迷惑をかけ尽くそうと今も企んでいる。それらを計画どおり冷静に淡々とやってることすら気づかず、本気で憤りを感じたり、見下したりする全ての人間たちがいかに滑稽か、みるみるうちに分かってくるから。

いかなる悪も、この自分が実際に行っている悪のように、本来一つの冷徹な視座とまなざしに支えられてるかもしれないものだということを自身に焼き付けておくためには、これからも自らの思う悪をそうやって徹底させていくしかないのだと思ってる。

ところで悪とは何か?

自分にとって最も相容れない他者の究極的な形こそ悪というものなんじゃないかって俺は最近思うようになった。

そしてひきこもりニートたちにとって、現実社会でまともに生きていけるように自己改革するためには、そのような、自分が最も拒絶する現実や形式を受け入れ、克服しようとする気概を持ち、さらにはそれらを維持し続けるために、自ら悪という「自分には到底受け入れられない異物」になりきる他ないんじゃないかってのを一当事者として痛切に感じるわけだ。ね?斎藤環より良いこと言ってるっしょ?なーにがひきこもりのオーソリティー(笑)だ、せいぜい Oh!sorry!ってぇとこでしょう?謝れ職業人!!

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