はてなキーワード: カルチュラルとは
バックラッシュ(フェミニズムへの反動)じゃない。そこにあるのは苛立ちです。
実は人文学には序列があります。既存の人文学のトップは歴史です。理系で言えば物理学に当たる。
人文で一番偉いのは哲学だと思ってる人がいるかもしれませんが哲学は一種不思議ちゃん。理系では数学。そういうあたりから考えていくと、根幹にあるのは既存の人文(の大学教員枠)が学問モドキに食い荒らされてる、という苛立ちだとわかります。
学問モドキって何か?
実はいま文学者とか歴史学者と見せかけても、既存の人文学のどっかに取りついてマイノリティーの視点を差し込むことで論文を量産するカルチュラルスタディーズ(略してカルスタ)だって例は多いんです。これは既存の人文学とは全然違うものです。カルスタは要は既存の人文学から見ればハメ技の学問モドキなんですよ。それが、大学院重点化と独法化と競争的資金化の流れにマッチして大流行したのがこの20年です。
このなりたちを捉えてないと完全に見誤る。
そのときに使われる「マイノリティーの視点」の最たるものがジェンダーだってのはわかりますよね。アメリカだと人種も大きいですが、日本だとジェンダーばかり出てきます。アイデンティティーが焚き付けやすいからですね。
自滅してる人文学者がそういう既存人文学だってことに注目しましょう。
歴史学者は「社会学(これは厳密にはカルスタです)みたいな賑やかしのチンドン屋・猿回しは失せろ」と思ってるのに、どういうわけかそのチンドン屋がのさばりでかい顔をしつづける。イラつきますよね。
歴史学者はでも、イラついても言えない。言ってしまうとあまりにも特権意識があからさますぎてしまう。それでも不満は消えないから、ジェンダーなんて本当の人文学じゃない、という意識から余計なことを書いてしまう。それで、みんなただのジェンダー問題、バックラッシュだと思ってしまうんだけど、実は全然違う。
言いたいことは分かるしその通りだとも思うんだけど、
社会学は社会運動、言うまでもなく階級闘争に端を発するマイノリティによる運動と近接している。このマイノリティ=被害者という立ち位置が他学会と違う所だろう。
そこで掲げられる(そして概ね正しい)社会正義の御旗が、目的が手段をつい正当化してしまうということが、他学会よりもカジュアルになされてしまうのではないか。
で、本来アカデミズムたる社会学は、そうした運動にファクトを以ってブレーキをかけるべき存在なんだろう。
カルチュラルスタディーズなんかはもう流行らないのだろうが、ポールウィリスの「ハマータウンの野郎ども」なんかは、決して統計的な研究ではないけど、英国の階級社会の構造にかなり肉迫してる名著だ。
耳元で「東大に行け」と怒鳴り続け、「医者になれ」と娘を暴行…弁護士が見た「教育虐待」エスカレートする親たち(弁護士ドットコム) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191116-00010381-bengocom-life
身体的せっかんはダメだけど、理念的には「女が東大行ったら嫁の貰い手がなくなる」「女医はキツく見られるからコメディカルにしておけ」と足枷をはめる親よりも、よほど娘の可能性を信じているように思える。
しかし、結局は娘の自主性を軽視している点で毒親判定しなきゃ駄目なのかな。
利子付き奨学金をガッポガッポ借りりゃいいから、好きなどこでも、F欄アニメカルチュラル学部でも進学してOKよ!
そこまで言い切れるほどじゃないと親は務まらないのかな?
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
なんだか電車内での飲食が是か非かが中心命題になっちゃったので仕切りなおして、その件に関して。
具体的にJR東日本に関して、JR東日本お問い合わせセンターに問い合わせて「電車内での飲食は禁止していますか?」とたずねたらノータイムで「一切制限はしていません」と返ってきたよ。
東京メトロは電車内の飲食で制限はありますか?と制限はしてない。マナーポスターで飲食に関するものもあるけどあくまでマナーを守った範囲でというお話。
もちろん禁じてるところもあって新京成はマナーで明確に飲食を禁じている。
だから飲食を禁じていない電鉄会社の電車内で飲食はせいぜい「マナーを守って飲食する」なのになんかそのマナーが「飲食は原則禁止」っておかしくないか?
というのが大前提だったわけなの。
もちろん「マナー」が人により変わるのは分かるが、その範囲が「原則飲食禁止」の方に偏りすぎてない?って思うんだけど。
以下レス的な文章。表記方法とかあまり分からないので言われたら訂正します
<田舎者
お前らDQ3のエジンベアの住民かよ!?田舎出身とは書いたが、「田舎者」連呼はひどいだろ。そもそも電車内での飲食禁止とかロングシートでは飲食禁止なんて都会の一部のルールなのにそれが誰もが共有するマナーだと思ってる方がモノカルチュラルで自己の価値基準が絶対だと思ってる精神的に「田舎者」なんじゃないかな?
だから、電車内での飲食を可と文化圏に育って、駅構内や電車内でも一切告知されないことがマナーだとか常識だとか言われても困る。私はエスパーじゃないんだから。
周りを見たらって言われても、そもそも食事をしてる際に周囲の視線なんて「趣味人間観察(笑)」の上級者でもないのにやらんわ。
そもそも電車内で一緒になった程度の人間にそこまで関心なんて皆持つの?
それに行きが下りで帰りが上り、反対車線の殺人的満員電車の様を見て「あっちは大変そうだなー」て感じで目の前には夜勤明けなのか横になって寝てるおっさんとかいる状況だぞ?
自分と価値観や判断基準が違う人間をそう定義するのは正直感心しないな
<臭い
臭覚障害なら、大変だね。でもさすがにそこまで気を使えと言われても困るし、街歩いてれば色んな匂いもあるでしょう?
あのシーン、見てて主人公自体結構アレだし、リーマンの反応も嫌なら空いてるし離れればいいじゃんとしか思わなかったよ。
うん?想定してるのはピザー○お届け!的なものでC.C.が食べてるようなやつだから、両手は汚れるし具はポロポロこぼれるので、ちょっと電車で座った状態でシートなどを汚さないで食べる自信がまったくないんだが。
<国に帰れ
少なくとも江戸時代から日本にいた一族なんでそう言われても困るな。そもそも自分と違った価値観を持つものを外国人扱いするレイシズムは軽蔑するし、中国の地下鉄や韓国の電車あたりはたしか飲食禁止だったはずだけど、まあこういう事を平然と言える人間は知識も知恵もないのは往々にしてあるので不思議じゃないかな。
そもそも車内飲食可は鉄道黎明期からの日本の伝統文化なんじゃないかな?
<俺ルール
日本では「マイホーム」「マイカー」なんて用例もあるし、なんら法的、公的な根拠の無いルールという意味で「俺ルール」って使ったけどなんか他にいい言葉ある?「村の掟」とか?
最近、フェミニズムまわりがメンドクサソーな展開になるのは外野からは全体像が非常に分かりづらいことなんじゃないか?ということを考えてて、
たとえば絵を描くときって全体のあたりから始めて徐々に細部に向かっていくのが普通で、いきなり細部から書き始めると全体がゆがんだものになりがち。
同じようにフェミニズムについても、いきなりアクの強い人の本を読んだり狂ったツイートを見たりを繰り返してるとフェミニズム全体へのイメージがゆがんだものになっちゃうんじゃないか?
あとツイッターなんかでフェミニストを名乗ってるわりに結構フェミニズムについて分かってない人も居るよね?
ということを思ったんで、フェミニズムについてちょびちょび自分なりに調べて俯瞰できるようまとめてみようとしてたんだが
http://anond.hatelabo.jp/20160307231710
急に増田が来たので取り急ぎ便乗公開してみる。
フェミニズムとは女性を様々な抑圧から解放することを目的とした*思想・運動*を指す。
女性の解放を実現するための考え方や手法、問題意識は人によってさまざまであり、衝突し合うものも多いがそれらをまとめて「フェミニズム」と呼ぶ。
18世紀の終わりから始まったフェミニズムは最初は公的な権利の取得のための運動だったが、私的領域も含めより深いレベルでの男女平等を目指すようになった。家父長制を不平等の根源とした考え方が様々な領域へ適用され、現在は性差別以外の問題をも巻き込んだものになっている。
参政権、財産権、労働権、婚姻など公的権利の獲得という形であらわれた。
ファースト・ウェーブが公的な権利だけだったのに対し広い範囲における領域で平等を追及していった。
特に家父長制という男性主権な価値観の問題性が広く認識され、様々な領域で社会制度や規範への批判へと繋がっていった。
また公的な領域だけでなく私的な領域も扱うようになり、家庭内における性に関する問題などそれまで見えにくかったところまで踏み込んでいった。
セカンド・ウェーブに加え、人種、地域、宗教、階級階層、性指向など多種多様な問題領域を扱うようになった。
セカンド・ウェーブを置き換えたわけでなく、扱う範囲や深さを広げたかんじ?
社会領域(政治、経済、文化、家庭など)における主要な力を男性が持つ社会のシステム、価値観。
最初は男性優位主義などの用語が使われていたが、女性を抑圧する側に居るのは男性だけでないし、この構造により抑圧される男性も居ることから Patriarchyが使われるようになった。
あくまで思想の系統であり、フェミニストが所属するというものではない。あるフェミニストとある派の考え方の多くが同じである場合、その派のフェミニストと呼ばれることがあるだけにすぎない。
発生当時とは社会状況も違っており、現在では初期の考えと大きく違う部分もあると思われる。
セカンド・ウェーブ以降の主流となる、家父長制を性差別の根源とみなし社会から家父長制を排除することで差別の根本的な改善を目指すフェミニズム。
根源を改革するからRadical feminism(根本的なフェミニズム)。
なので関係する問題領域は社会全般のはずな気がするが、現代では主に伝統的なジェンダー・ロールや女性の性的対象化、家庭内暴力、生殖関連、性犯罪を扱ってるのを見かける。
これらの領域に対し政治的プロセスによる改善でなく、規範への疑問を社会に訴えかけることによる改善を模索する事が多い。
社会が不必要に女性の能力を低く見積もった制度になってると考え、女性が自由な選択や行動のため能力をふるうことのできる平等を重視とするフェミニズム。
ファースト・ウェーブの流れを汲んでる?っぽく、慣習や法による機会の不平等を打破するため、政治的プロセスを介して状況の改善、権利獲得を目指す。
法や権利など主に公的な形式を扱い、家庭内の権威関係など私的な面はあまり扱わない。
機会が平等であれば後は個人の能力次第であるという考えが、他のフェミニズムと衝突することも多い。
資本主義という制度や社会階級の対立が、女性の抑圧にも一役買ってると考えるフェミニズムの一派で、主に女性の労働問題を焦点とする。
昔は資本主義制度の廃止を唱えていたみたいだが、今はどうなんだろ。
家事や家族の世話など、家庭内の労働への評価の低さを問題視する。
報酬を得るための労働を「生産労働」、家庭内労働など自分たちのためにやる労働を「再生産労働」と呼び、再生産労働の責任を共有し、女性が生産労働にかかわることで再生産労働の価値が適切に判断されるようになると考える。
生まれや境遇などによって特権を得たり抑圧されたりと人生が変わってしまうことを問題視する。日本や米国でリベラルというとソーシャルリベラリズムのことを言うと思うが、それに近い考え方。
労働に関するマルクス主義フェミニズムの考え方に、ラディカルフェミニズムのジェンダー、家父長制の考え方を組み合わせたもの。ラディカルフェミニズムのように家父長制だけでなく経済的な性差も重視する。
リベラルフェミニズムとの違いがよく分からないが、調べてると、マルクス主義フェミニズムと一緒に扱ってるサイトが多かった。
性差別だけでなく、階級対立や性自認、人種主義などさまざまな問題は密接な関係であり不可分であると考える一派。
社会で女性の特性が過小評価されてると考え、男女の違いを肯定的に評価していこうとするフェミニズム。
元増田の「フェミニズムとは」の節を読んでちょっと気になったのでメモ
「この人はリベフェミだからこの人の言ってることはリベフェミの主張のはずだ」のような考え方をしたのかなと思うのだが、あるフェミニストの発言が特定の派の思想内にぴったり収まってるということは少ないので、そういう認識の仕方は危険かなと思った。
はてブ見てて思うのは、どうも偏ったフェミニストばかりを見かけてしまって変なイメージ付いちゃうよなー、ということ。フェミニストはその活動の仕方によって目立つタイプの人とそうでない人とが出てきてしまうし、多くの人にとっては目立つタイプの人が「フェミニストの典型例」となってしまう。
なのでまず「フェミニズムには多様な思想があるし、それらは常に変化している」ということだけ注意しておけば、いらぬいざこざを減らすことができる、、、かもしれない。