はてなキーワード: 1960年代とは
こんな本があった。日本でも同じような本がいずれ出るのだろうか。
【内容紹介】
書名:ミレニアル世代よ、わかったよ!
帯:ピューリタニズム、被害者化、アイデンティティ政治、検閲……「ベビーブーマー」世代による、Woke世代の神話についての調査
説明:
文化大革命が進行中だ。今度は中国発ではなく、アメリカ発なのだが、中国の文化大革命と同様に大きな被害をもたらすものである。新たな紅衛兵は「社会正義の戦士」だ。ロレアル社は「白(blanc)」「美白(blanchissement)」という言葉をカタログから削除し、エヴィアン社はラマダン期間にプロモーションを行ったことについて謝罪した。レゴ社はBlack Lives Matterとの連帯を示すために、警察が登場する広告を削除した。Wokeが北米の大学に残存する民間伝承にすぎないと言っていられるだろうか?
文化大革命が進行中だ。アメリカの名誉ある大学の女性研究や黒人研究、クィア研究からこの革命は始まった。この革命が、民主党を有害な左傾化へとおいやる「アイデンティティ・ポリティクス」を生み出し、衰退しつつあるプロテスタント的土壌を置き換えた。民族間の分裂に沿って社会を分極化させ、アメリカを内戦の危機にさらしている。黒人と白人、女性と男性、同性愛者と異性愛者を対立させるこのやり口を、われわれの世俗的な共和国、フランスに輸入したいだろうか?
普遍主義的理想と1960年代の解放思想を擁護するベビーブーマーである著者ブリス・クチュリエが、ミレニアル世代に呼びかける。あなた方の過剰な繊細さ、被害意識を伴うナルシシズムは、あなたたち自身に対して検閲や禁止を課すことになるのではないですか、と。私たちベビーブーマー世代は、可能性の領域を広げたい。あなた方は逆に可能性の領域を狭めている。それはわれわれ全員の不利益になる……
【感想】
ちなみに、著者の属するベビーブーマーとは1946年から1964年ごろに生まれた世代と言われている。
Wikipediaによれば、著者は若い頃に毛沢東主義や社会主義に傾倒していたらしい。
60年代の観点からミレニアル世代を批判するというのが、日本とは文脈の違いがあるのかもしれない。
https://livre.fnac.com/a15552213/Brice-Couturier-Ok-Millennials
わからなかったので調べてみました!
元は「手紙の封蝋」のことを指し、遡ると「小さな印」という意味で「sign」と同語源のようである。そこから封蝋に限らず手紙や包装などを封じる「封緘紙」のこともシールと呼ぶようになった。
「糊付きの紙片」全般をシールと呼ぶのは英語では稀な用法ということで、実際に辞書にも載っていない。ほとんど和製英語と言っていいようである。
日本では1960年代に子どもたちのあいだでお菓子のおまけシールが大流行したが、その草分けである1963年の「鉄腕アトムシール」は明治製菓の社員が「手紙の封印シールをヒントに考案した」というので、図柄が印刷された糊付きの紙片を広く「シール」と呼ぶようになったのはその頃か。
元は「stick」は「突き刺す」という意味で、そこから突き刺すための道具である「棒」という意味にもなった。
さらに「突き刺してその場に留める」ことから「固定する」という意味になり、また「付着する」「粘着する」という意味が派生した。
つまり「sticker」は「粘着するもの」という意味となり、粘着性のラベルやデカールのことを「ステッカー」と呼ぶようになった。
元は「細い帯状の布」という意味で、リボンやフリンジのようなものを指していた。
そこから17世紀ごろに「(そのものの内容を示すために付けられる)細い帯状の紙片」を指すようになったという。
ラベルは必ずしも貼るタイプだけではないが、紐で吊り下げるタイプのラベルは「タグ」と呼ばれることが多いので、ラベルといえば貼るものだという印象が強いのかもしれない。
元は「decalcomania」の略であり、さらに遡るとフランス語で「複写する」「描き写す」を意味する「décalquer」が語源となる。
デカルコマニアは「転写印刷」「転写技法」などと訳される。18世紀に発明されたもので、特殊な糊を塗った紙に図柄を描き、陶器やガラスなどの直に印刷ができないものの表面に転写する技法のことである。
成り立ちとしては他と毛色が違う感じがするが、「糊を使って図柄を貼り付けるもの」という広い括りで「シール」「ステッカー」の一種だとみなされているのだろう。
シール:「(図柄が印刷された)糊付きの紙片」のこと。和製英語。
ステッカー:シールとほぼ同じ意味。「粘着性」であることがアイデンティティ。
ラベル:内容を示すために貼るシール/ステッカーのこと。「内容を示す」ことがアイデンティティ。
デカール:転写式のシール/ステッカーのこと。「転写式」であることがアイデンティティ。
ぶっちゃけ英語圏でも「ステッカーとデカールの違いってなに?」みたいなブログがたくさん引っかかるので、たぶん実生活ではそんなに厳密に区別されてないんだと思うよ。
おまけ。
元は「細長い布」という意味。さらに遡ると「引き裂く」という語からの派生らしく、布を引き裂いて細長くするようなイメージか。語源としては「ラベル」と似ているが、あちらは「ちぎれる」「ぼろぼろ」みたいなところから来ているようなので、テープはもっとしっかり「長い」イメージなのだろう。
19世紀後半の粘着テープの発明以来、「テープ」といえば粘着テープを指すことも多いが、まだまだ「ビデオテープ」「ゴールテープ」など非粘着性のテープも残っているので、まるきり「貼る」だけでもない。
語義的には「セロハンテープやダクトテープのような普通の粘着テープ」もステッカーの一種と言えそうな気もするが、「tape sticker」で検索してみると、やはり柄付きのマステ的なアイテムしか出てこないので、そのあたりは日本でも粘着テープのことを「シール」とは呼ばないような感覚と同じなのだろう。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
なるフィギュアが売っていて、このポリコレの時代に攻めるなぁと思っていたら
1960年代後半に女性の間でミニスカートが世界的大流行となりました。
同じころ海外で歌手活動していた韓国出身の歌手が母国へ帰国する際にこのミニスカートを履いて空港に降り立ち韓国の女性も挙ってミニスカートを身に着けます。
しかし当時の韓国は非常に保守的で女性を抑圧していたので年配の男性を中心にこの手の流行を嫌悪しました。
この社会的雰囲気に応えて政府は短すぎるスカートは欲情を煽るとして軽犯罪法で取り締まる事にしたのです。
このフィギュアセットはひざ上20cm以上短いと処罰の対象としたのでそれを本気で取り締まった警官と検査対象とされウンザリする女性の姿を再現したものです。
最初にブルマーについて調査した記事で、ポーランドのブルマーの映っている動画を紹介した(3:55頃から)。そのことから、自分はポーランドにおけるブルマーの存在を証明したと満足し、それ以上の調査をやめた。しかし、先日のドイツのブルマーにまつわる記事で、ドイツ語のブルマーの名称を知ったことから、そもそもポーランドでブルマーを何と呼んでいるかを調べた。
結果として、今回は具体的な名称を見つけることはできなかったが、ポーランドにおけるブルマーの年代をもう少し細かく絞り込むことができた。
ポーランドの体育の歴史は1805年にさかのぼる。医師であり化学者でもあるJędrzej Śniadeckiが、身体の訓練がなおざりにされ、精神だけの訓練が行われていることを嘆き、体育を創始した。彼の目指した水準は高く、「レスリング、さまざまな武器の使用、ダンス、ジャンプ、高い木に登る、溝をジャンプする、水泳、乗馬、走りながら馬に乗る」などが教科に含まれていた。また、どうやらそこの学校では、ポーランド語も教えられていたようである。ポーランドが分割されていた時代のことと考えれば、驚きである。
ソコルはチェコのブルマーについて記載した記事でも書いた通り、チェコの民族的体育運動協会である。ポーランドのソコウはそこから派生した団体である。1863年蜂起の失敗後、同年2月に設立された。同時期のスカウト運動とは逆に、右翼的傾向があった。それに危機を覚えた当局による迫害が続いた。プロイセン占領下のポーランドでもそうであったし、独立後、再びナチスに占領されても迫害を受けた。
にもかかわらず、ソコウはポーランドの独立運動の一翼を担ったのである。
しかし、共産主義政権が成立するとソコウは違法化され、これにまつわる情報はすべて検閲された。1989年に合法化され、1990年にソコルポーランド体育協会連盟(とでも訳せるか)
へ名称を変更、現在は80のグループに8000人を擁し、若者に愛国心や市民の義務を教える団体となっている。
なお、余談だがサッカーを庶民のスポーツとして嫌ったため、20世紀に何人かのメンバーが離脱、独自のサッカークラブができるが、これがポーランド最初のサッカーチームの起源である。
(英語版では1935年の提灯ブルマーが確認できる。ポーランド語版では1937年、提灯ブルマーでのマスゲームが確認できる)
上記の「ファクト」というサイトによれば、当時はズボンとゆったりとしたシャツを着て、女の子はドレスを着て運動した、と書かれている。またソコウ(自動翻訳では「ファルコン」と出てくる)では軍服のようなものを身に着けた、とある。ブルマーに関する記載がないことに、僕は困惑した。証拠となる映像も画像もそろっているのに、文章が見つからないのである。
ポーランド語は一言もわからないので、以下の語を翻訳し、組み合わせて検索してみた。「体操着」「紺色」「ブルマ」「短パン」「共産主義」「1960年」「歴史」「恥ずかしい」など。ここで思いがけなかったのが、中東欧の多くの言語で「体操着」で画像検索すると、女性用のレオタードばかりヒットすることだった。
Wikipediaのポーランド語版Mundurek szkolny(学校の制服)で検索したが、それらしいものはヒットしなかった。イギリスの制服に関する項で、
とあり、これは
を意味するので、検索のヒントになるかと思ったが、結局見つからなかった。
pamietam obowiazkowy stroj na wf szorty granatowe bialy podkoszulek.
これを日本語にするとこうなる。
これが数少ない、ポーランドのブルマーにまつわる証言である。名も知らない誰かのコメントで、ポーランドのブルマーはあったのだと、映像だけでなく、言語でも納得できた。
こちらは過去のポーランドを撮影した写真のアーカイブだ。検索ワードをgimnastykaに変えても同じような写真が出てくる。
幸いなことに、写真の下には年代が記載されている。1930年代、1948年と書かれた写真は提灯ブルマーだが、1960年代を映している写真は、間違いなくショーツ型ブルマーだ。
また、こちらでは、少しダボダボしているが1950年代のブルマーを確認できる。
他にもブルマーで運動する女性の写真は何枚か見つけたが結論は同じであり、リンクをいたずらに増やしても意味がないので、割愛する。
陸上のブルマーやバレーボールのブルマーについてもある程度調べようと思った。一つには、日本のブルマーがバレーボールに影響されたという説があるからであり、もう一つにはブルマーのポーランド語での名称を探すヒントになるかと思ったからだ。
こちらでは1972年の陸上ブルマーの普及の様子を確認できる。
また、こちらでは陸上ブルマーの是非について論じているが、タイトルが「Majtki dla biegaczek」、和訳すると「陸上のパンティー」である。これがブルマーの正式名称かと思ったが、どうやら違うようである。
これ以上探しても見つからないので、調査は一段落とした。元々は体育のブルマーの調査だ。プロスポーツのブルマーとは少し違う。日本でも競技用ブルマーの浸透した年代と、学校制服のブルマーの普及した年代には、かなりのずれがある。名称の調査はともかく、この画像検索ではずれが出てくる。いずれ、競技用ブルマーの普及した年代を調査することがあれば、そのときに改めてまとめなおす。
もしかしたら、グーグルもDeepLも、単語レベルでの正確なニュアンスに関してはまだ改良の余地があるのかもしれない。また、日本語からか英語からかでも、訳語がぶれた。
それと、今回は自分の落ち度だが、系統的に単語を調べず、頭に浮かんだまま検索したので、何度も同じ単語で検索してしまった。また、サイトによっても訳語のブレがあった。気晴らしの調査であるとはいえ、ドキュメントファイルかなにかで記録を取りながら調査すべきであった。
もしかしたら、画像検索ではなく、文章で検索すべきかもしれない。たとえば、「体操着 共産主義」ではこちらの質問サイトが見つかり、ブルマーが黒っぽかったことを示唆する内容もある。
Wątek "Strój gimnastyczny " - wielkiezarcie.com
できることなら、なんとかポーランドのブルマーの名称を確認したい。
また、ブルマーの普及状況について、国ごとに調査を継続したい。
ちなみに、今回自分は並行してハンガリーのブルマー事情について調べていたのだが、思いがけないことが明らかになった。それに関してはできたら一週間以内に記事をアップロードし、共有したい。
遅れたら失礼。
https://anond.hatelabo.jp/20210905025143
元記事では、勉強中のフェミニストが無自覚に差別主義を振りかざしているが、ブコメでもトラバでも誰もそれを指摘していない。
この国には差別主義が蔓延していて、誰もがそれに侵されているということだ。
元増田の差別性を指摘するこの記事を書くかどうか、まる1日ほど悩んだ。
悩んだ末に書くことにしたけれども、個人としての元増田を非難したり攻撃する意図はない。これは元増田ただ一人の問題ではなく、この国の社会全体の問題だから書く、というだけだ。そもそも私は、元増田が書いたものの本論には同意している。元増田がこれを読んだとして、どうか気を悪くしないでほしい。
さて、私が問題にしているのは以下の部分だ。
「痴漢するクソオスがいるから女性専用車両が必要なんだよ、そんなこともわかんねーのか味噌どもがよ」じゃなくて、「悲しいけど痴漢が起こる可能性はありますし、性被害に遭った経験のある方や宗教・思想上の理由がある方のためにも必要です」と書け。
言葉遣いは問題ではない。上記の2例の両方で表現されているロジックは、明確に、差別主義者のそれである。
しかしおそらく、このロジックがなぜ差別主義なのか理解できない人は多いのではないか。
元増田(というよりもそれ以外からもよく聞かれるものだが)の主張を整理すると次のようになる。
上記1は統計的事実である。ここまでは問題ない。問題は2だ。個別の性犯罪者を問題にするのではなく、男性という属性を持った人すべてを性犯罪者と同等に扱っていることに問題がある。
個々の人物ではなく特定の属性を差別する、というのは許されない。これを別の属性に置き換えると次のようになり、このロジックの差別性がわかりやすくなるだろう。
鉄道車両内で犯罪を起こす者の多くは黒人であるから、犯罪被害者や、宗教または思想上の理由がある方の安心安全のためには、白人専用車両が必要だ。
もしかしたら、上記の何が差別なのかすらわからない人も多いのではないか。差別は私たちの社会に遍在していて、もはや空気のようなものであり、元増田のように何が差別なのかがわからない者が大多数を占めている可能性がある。そうでなければ、女性専用車両のような差別的サービスが運用されている現実を説明できない。そもそも差別とは何かということを説明する必要があるだろう。
差別とは、ある特定の属性を持った人に特別な扱いをすることである。
属性とは、人種、民族、性別、宗教、国籍、出生地など、本人の意思で容易に変えることができない属性を指す。特別な扱いには優遇と冷遇があるが、いずれも差別である。
当然、男性であるという理由で性犯罪者と同視し隔離対象とするのは差別である。
しかし本邦の、特にフェミニストにおいては、おそらく善良な市民であろう自分の父親や夫や彼氏や息子が、男性という属性を理由に性犯罪者と同視されることに反対せず、むしろ推進する。差別主義者であるというこの点においては、フェミニストも、元増田が迷惑だと称したミサンドリストやツイフェミも、大差はない。
その背景として本邦には、女性専用サービス、女性割引サービス、女性無料サービスといった差別的なサービスが遍在している事実がある。これらがあまりにも当然のように遍在しているために、それが白人専用や白人割引や白人無料と相似であることに気づけない。
余談だがアメリカでは、白人専用席や白人専用ホテル、白人専用トイレなどが1960年代までは当然のように存在したというが、1964年公民権法の成立を契機に縮小し、前世紀のうちには姿を消した。その一方で本邦においては、旅客鉄道各社が女性専用車両の本格運用を始めたのは、なんと今世紀になってからである。
上記の一文で元増田が言ったことは「女は嘘つきで詐欺師だから隔離してもいいよね」ということであり、ミソジニストそのままの、言語道断の差別発言である。とても「フェミニストとしても、マスキュリストとしても、そしてLGBT+を応援する立場としても活動していきたい」と宣言する人物が書くこととは思えない、むき出しの差別主義だ。
しつこいかもしれないがあらためて言う。男性の一部に性犯罪者が存在するという事実をもって、すべての男性を性犯罪者として扱うことは差別である。同様に、女性の一部に詐欺師が存在するという事実をもって、すべての女性を詐欺師として扱うのもまた差別である。あなたの論にしたがって男性も女性も平等に犯罪者として扱ったとして、一体誰が幸せになるというのか。
おそらく元増田は、志高く、善意にあふれ、前途の有望な人物なのだと思う。しかしそのような人物ですら、この社会に充満する差別主義の空気を呼吸していると、まったく自覚することなく、狂気のような差別主義者になってしまう。どれだけ注意してもシースーぎるということはない。
1960年代にイギリスは経済的な繁栄を迎え、豊かな社会を背景にして音楽や映画、ファッション、文学、様々な大衆文化も大いに盛り上がった
しかし一方で繁栄はしているものの経済成長に陰りが見え始め、敗戦国であるドイツや日本に経済発展で追い抜かれつつある気配も漂い始めた
その時期にイギリスではイギリスの何が間違っているのか?とイギリス病を主題にした論考が数多く発表された
その典型的な論旨はこうだ
オックスフォードやケンブリッジに代表される名門大学出のエリートが人脈を使って権力を独占し
旧態然として保守的な彼らエリート層が最新の科学技術についていくことができず、有能な人材を排斥するからだ
そう今の日本の社会経済を批判する時のテンプレにそっくりなんだよ!
いつの時代も人間は思いつきのあっさい思考で社会批判をやろうとすると、同じような事を言ってしまうし、
この手の批判はいつの時代のどんな場所でもそれらしく聞こえるため、逆説的にその社会の問題とは無関係に成立してしまうということですなあ
ある日のことである。以前のブルマーに関する調査に物足りないものを感じていた僕は、なんとはなしに「ドイツ ブルマ」で画像検索した。すると、個人のブログで、戦後の西ドイツを舞台にした「橋」という映画にブルマーが映っているのが紹介されていた。1959年の映画であるが戦時中が舞台なので、これは明確に戦前にもショーツ型ブルマーが使われていたことを示しているようだ。Youtubeにも動画が上がっており22:48頃からブルマーの出てくるシーンが確認できる。
そんなことから、もうちょっとドイツのブルマー事情について調べたくなった。
自分が以前調べたナチスのブルマーとは、ドイツ女子同盟のものだ。
ウィキペディアによれば、ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足したものだが、ヒトラー政権の成立から3年後、全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。
設立の理念は、ドイツの将来を担う「良妻賢母」の育成であり、軍人教育は施さなかった。よって、健康な子供を産むためにカリキュラムは家政学ではなく、体育の方に重点が置かれた。つまり、国によって「女らしさ」「母性」「健康」が強制されていたわけである。そのせいか、略称をもじった卑猥なジョークもあったらしい。
さて、そういうわけで、軍服のような制服のみならず体育教育に使う、こちらのように黒い短パンというか提灯ブルマー姿の女性を確認することができる。写真によっては、サイズがあっていないせいか、角度のせいか、ほとんどショーツ型ブルマーのようになっているものもある。
ちなみに、こちらのサイトによれば、ブルマーを卒業すると白いワンピースになったそうである。また、色は黒であると言及されている。
しかし、写真を見る限りでは、冒頭の映画ほどハイレグではない。これは地域によってブルマーの規格に差があったのか、それとも監督の趣味だったのか、よくわからない。1930年代のThe Woman’s League of Health and Beauty(英国の健康増進団体、ヨガも取り入れている)ではhttps://flashbak.com/the-womens-league-of-health-and-beauty-nazis-pilates-and-the-birth-of-the-keep-fit-movement-4580/:title=
ショーツ型ブルマーに似た制服]で運動しているし、https://aurora-ray.blog.ss-blog.jp/2017-09-15=ドイツ女子同盟のフィギュア(オーロラモデル 1/35ミリタリー WWII ドイツ少女同盟 体操着姿 ガレージキットフィギュア ML76)]ではやっぱりショーツ型ブルマーに似ているのだが、詳細はわからない。冒頭で紹介した映画ではのんびりしたシーンであり、ナチス的な全体主義をあまり感じない。もしかしたら、ドイツ女子同盟とは別に、普段からブルマーがそれなりに普及していなことも考えられなくもない。
その後ドイツではブルマーはどうなったか。以前の記事にも書いたように、東欧ではブルマーが採用されていたことを示す写真はちらほら見つかったが、制服として具体的にいつ頃採用されていたかなどの情報は見当たらなかった。そのため、しばらく調査は暗礁に乗り上げていた。
きっかけになったのはDeepLやGoogleの翻訳である。英語のショーツ型ブルマーを意味する語の一つ「gym knickers」をドイツ語にしたところ「Turnhose」という語が出てきた。これで何かがわかるかもしれないと思った。確かにこれは「短パン」を意味する言葉に過ぎない。だが、ドイツ語のウィキペディアには、英語版とは違い、こんなことが書いてあった。
Für Frauen, Mädchen und Jungen (bei Jungen aber nur bis zum Alter von etwa zehn Jahren) gab es etwa zwischen 1960 und 1990 Turnhosen in Slipform, die zwar umgangssprachlich Turnslips genannt, im Katalog aber unter der Bezeichnung Turnhose geführt wurden. Als Material verwendete man anfangs schwarzen Doppelripp und Helanca. Passend dazu gab es auch die Turnhemden.
女性、女の子、男の子の場合(ただし、男の子の場合は約10歳まで)、1960年から1990年の間にパンティーの形のジムショーツがありました。これは通称ジムブリーフと呼ばれていましたが、カタログにはジムショーツとして記載されていました。当初、使用された素材は黒いダブルリブとヘランカでした。それに合うジムシャツもありました。
やっとのことで、具体的な年代を特定できる情報を見つけた。1960年から1990年、確かにドイツではショーツ型のブルマーが採用されていたのだ。
もちろん、出典が明記されていない以上どのくらい正確な情報かはわからない。ショーツ型ブルマー(上ではジムブリーフと訳されている)を意味する「Turnslips」で画像検索してもまったくそれらしいものは該当しない。だが、調査は確実に一歩前進した。
ドイツでブルマーがいつまで採用されていたか、かなり具体的な情報を手にすることができた。しかし、今回のドイツや前回のチェコとは違い、ポーランドやロシアに関する情報はなかなか手に入らない。昔の記事のように確かに写真はある、動画もある。だが、文字情報が乏しいのだ。「ソ連 体操着 歴史」「ソ連 体育 制服」「体操着 1960」などと単語を変えてもなかなか引っかからない。おまけに、ポーランド語でgym knickersを訳して「majtki gimnastyczne」で検索すると、スポーツ用の下着しか出てこない。また、言語によっては体操着に該当する言葉を探しても、レオタードしか出てこないこともある。
プロの陸上選手がブルマ姿になっているものは出てくるが、学校での採用事情については、なぜかデータが少ない。
資料が見つからない理由は恐らく三つある。一つは、ロシア語やポーランド語ではブルマーを何と呼んでいたか、正確な名称がわからないことだ。チェコ語では、幸運なことに「Jednotný cvičební úbor」が「体操用の制服」といった意味で、直訳でもよかったようだが、他の国の言葉ではそうでなさそうだ。
もう一つは、そもそもネットに資料が載っていない可能性だ。国によってネットの普及した時期は異なるが、紙媒体の資料をわざわざネットに乗せる熱意や理由がないことも考えられる。
最後に、これは前述の熱意がないことと重なるが、欧米ではそもそもブルマーに対して関心が薄いのではないか。海外にも服装に対するフェティシズムはあるようだが、何がセクシーと感じるかは国によって全然違う。ブルマーフェチの人は海外では人数が少ないのではないか。
全くの推測だが、ブルマー時代末期には、ブルマーを性的に感じるあまり盗撮する者が後を絶たなかったという。それが原因で、ますますブルマーが性的だという感覚が強まった。となると、日本でブルマーマニアが増えた理由は、個人のカメラやビデオが日本で普及した時期にも理由があるのかもしれない。
ポーランドやロシアでのブルマーについての文字情報が見つかったら掲載する。しかし、いつになるかはわからない。また、東ドイツと西ドイツとでブルマーの普及に違いがあったか。このあたりも資料が乏しいが、見つけたら公開したい。
また、今まではブルマーはほぼ紺色と思い込んでいたが、黒という記録を見つけた。白黒写真の画像しか見つからなかったケースを、再検討する必要がある。
【和訳】コロナワクチンでADEが問題にならなかった理由(MedPage Today)
〜新種のワクチンであっても、抗体依存性増強が問題となる可能性は低い〜
by Veronica Hackethal, MD, MSc, Enterprise & Investigative Writer, MedPage Today
(原文記事)
Why ADE Hasn't Been a Problem With COVID Vaccines(MedPage Today)
https://www.medpagetoday.com/special-reports/exclusives/91648
パンデミックの初期に、科学者たちはCOVID-19ワクチンの有効性と安全性を確保するための最良の構築方法について、さまざまな議論を行いました。その中には、他のウイルス感染症やワクチンで見られる、死に至る可能性のある免疫現象である「抗体依存性免疫増強(ADE)」に関する議論もありました。
これまでのところ、COVID-19ワクチンによるADEの報告はありません。しかし、COVID-19ワクチンのADEに関する懸念は、ウイルスの亜種が緊急に発生したことで再び浮上してきました。ADEとは一体何でしょうか?過去の経験から何がわかっているのでしょうか?また、なぜ専門家はCOVID-19ワクチンでは問題ないと言っているのでしょうか?
◇ADEの特徴
ADEはさまざまな経路で発生しますが、おそらく最もよく知られているのは、いわゆる「トロイの木馬」経路です。これは、過去の感染やワクチン接種によって生じた非中和抗体が、再び病原体にさらされたときに、その病原体をシャットダウンできない場合に起こります。
トロイの木馬」経路とは、過去の感染やワクチン接種によって生じた非中和抗体が、再感染時に病原体をシャットダウンできず、かえってウイルスの侵入を許し、通常は侵入できない細胞(一般的にはマクロファージなどの免疫細胞)で増殖してしまうというものです。ハーバード大学T.H.チャン公衆衛生大学院のバリー・ブルーム医学博士は、MedPage Todayの取材に対して次のように述べています。
「ADEの原因は、ウイルスに対する抗体が中和されないことです。ウイルスに対する抗体が中和されず、抗体の受容体を持つ細胞にウイルスが取り込まれてしまうことにあります。これが、通常は感染しないような細胞にウイルスを取り込む方法です」とブルーム氏は言う。
ADEは、中和抗体(ウイルスと結合して感染を阻止する抗体)の存在量が十分に少なく、感染を防ぐことができない場合にも起こります。中和抗体は、ウイルス粒子と免疫複合体を形成するため、かえって病気を悪化させることがあります。
トロイの木馬型ADEの典型的な例は、デング熱です。デング熱には4種類のウイルスが存在します。それぞれのウイルスには違いがあり、過去に1つのウイルスに感染したからといって、別のウイルスから守るのに十分な抗体ができるとは限りません。
ADEはデング熱のワクチン接種後にも発生しています。例えば、2016年に4つの血清型すべてを防御するデングワクチンが開発され、フィリピンで80万人の子どもたちに接種されました。ワクチンを接種し、その後、野生型デングにさらされた子どものうち、14人が死亡しましたが、これはより重症化したためと考えられます。それ以来、このワクチンは、すでにデング熱に感染したことのある9歳以上の子どもにのみ推奨されています。
もう一つの典型的な例は、米国で行われた呼吸器合胞体ウイルス(RSV)の不活化ワクチンの臨床試験中にADEが発生したことです。1967年、臨床試験に参加してワクチンを接種した子どもたちが、その後、社会でウイルスに遭遇した際に、より重篤なRSV疾患を発症しました。2人の幼児が死亡しました。このワクチンは、肺閉塞や呼吸器疾患を引き起こす免疫複合体形成と関連しており、RSVワクチンの開発はかなり停滞しました。
同様に、1960年代に米国で開発されていた不活化麻疹ワクチンでもADEの事例が発生しました。ワクチンを接種した子どもが重症化したため、ワクチンは中止されました。現在、米国で使用されている弱毒化した麻疹生ワクチンでは、ADEは発生していません。
科学者たちは、COVID-19ワクチンではADEはほとんど問題にならないと言っていますが、これは何を根拠にしているのでしょうか?
COVID-19ワクチン開発の初期段階から、科学者たちはADEを引き起こす可能性が最も低いSARS-CoV-2のタンパク質をターゲットにすることを目指していた。例えば、SARS-CoV-2の核タンパク質を標的にすると、ADEを引き起こす可能性があることがわかったとき、彼らはすぐにそのアプローチをやめた。最も安全な方法はスパイクタンパクのS2サブユニットを標的とすることであると考え、それを実行したと、Derek Lowe博士はScience Translational Medicineのブログ「In the Pipeline」で書いています。
科学者たちは、ADEを探すために動物実験を計画しました。そして、緊急使用許可を得たCOVID-19ワクチンの実世界でのデータでもADEを探しています。今のところ、その兆候は見られません。実際には、その逆のことが起こっているとLowe氏は指摘しています。
「疑いの余地がないと思われるのは、ワクチンを接種した被験者からは重篤なコロナウイルス感染者が出ず、入院もしていないということです。これは、ADEが起こっている場合に予期されることとは正反対の現象です」と彼は書いている。
さらに、ADEは緊急の問題であり、非常に劇的なものになります。トロントにあるマクマスター大学の病理学・分子医学の准教授であるブライアン・リヒティ博士は、「もしこれらのワクチンに問題があるとしたら、今頃は発見されているでしょう」。
「(ADEが発生したら)すぐに死んでしまいますよ。私が知っているADEは、すべてのケースで、それは急性で、ほとんどがサイトカインに起因する事象です」と彼はMedPage Todayに語っています。
唯一の例外は、中国で開発された不活性化された全細胞ワクチン、つまり「殺した」ワクチンかもしれません。このワクチンには、1960年代にADEの原因となった麻疹ワクチンやRSVワクチンに使用されたのと同じアジュバントであるミョウバンが使用されています。ブルーム氏によると、中国の不活化全細胞ワクチンは、これらの古いワクチンと同様にADEを引き起こす可能性が「考えられる」とのことです。
「このワクチンが米国で日の目を見ることはないでしょうし、言及する価値もないかもしれません。中国製の全球殺虫ワクチンで実際にADEが発生した例はありませんし、あったとしても報告されていません」と述べています。
現在のCOVID-19ワクチンは、世界的に流行したSARS-CoV-2の原型を防ぐために開発されたものである。亜種(変異株)が増えるにつれ、科学者たちは、これらの亜種の1つがADEを引き起こすほどの違いを持つようになるのではないかという疑問を提起してきた。Lichty氏によると、今のところ、この懸念は仮説に過ぎないようです。
「これまでのところ、COVID-19ワクチンでADEが発生したという証拠はありません。すべて理論的なものです」と述べています。「これまでのところ、ADEは既存のワクチンやウイルスの変異体では問題にならないという証拠があると思います」。
その理由の1つは、SARS-CoV-2が、ADEを引き起こすような形でマクロファージに影響を与えていないだけかもしれないが、科学者たちはまだ詳細を調べているところである。ADEは、HIV、エボラ出血熱、コクサッキーウイルス、SARSやMERSなどのコロナウイルスなど、他のウイルスに自然感染した場合にも報告されている。
「今回のパンデミックを通じて、科学者たちはSARS-CoV-2に関連するADEを探してきましたが、これまでのところ、その事例は見つかっていません」、とLichty氏は指摘します。
「このコロナウイルスは、すでに人間に十分に適応しているので、中和しない抗体との相互作用でマクロファージに侵入したとしても、マクロファージが明らかな病態を引き起こすのに十分なサイトカインを産生できないのかもしれません」と述べています。
mRNAワクチンやアデノウイルス・ベクター・ワクチンは比較的新しいワクチンであるため、躊躇してしまうかもしれませんが、ブルーム氏によれば、これらのワクチンは、ADEの観点から見ると、古いタイプのワクチンよりも安全性プロファイルが優れています。
「肝心なのは、新しい技術は新しいウイルスのパンデミックへの対応が早いだけでなく、より安全で、より明確に科学的に設計されているということです」と彼は言います。「Sタンパク質ワクチンは、よりクリーンで、より慎重に定義されており、より低リスクです。Sタンパク質ワクチンは、よりクリーンで、より慎重に定義されています。そのため、ADEの可能性は、以前のウイルスワクチンの製造方法よりもはるかに低いのです」と述べています。
Veronica HackethalはMedPage TodayのEnterprise and Investigative journalismチームのレポートを担当しています。
最初は「大貧民ゲーム」「貧民ゲーム」あるいは「階級闘争ゲーム」などと呼ばれており、おそらく「大貧民」よりも聞こえが良い「大富豪」という呼称が後から使われるようになっていった。
Wikipediaを確認すると、「大富豪」と類似したゲームとして、
などが挙げられている。
このうち「大統領」「グレートダルムチ」「ティチュ」「アーシュロッホ」といった欧米圏のゲームはわりあい新しく、日本の「大富豪」や中国の「闘地主」「鋤大D」から派生したものなので除外できる。
残りの「争上游」「闘地主」「鋤大D」「ティエン・レン」のうち、「大富豪」と関連が深いのはどれなのだろうか?
「大貧民 起源」などでググると以下の記事を見つけることができる。
大貧民のルーツはベトナム戦争にある説『トランプゲーム大全』 - エキサイトニュース(2/4)
日本の大貧民は、“日本起源説も十分あり得ます”が、“ベトナム戦争などを通じて、ベトナムから米軍を経由して伝わった可能性もあります”と書かれている。
この記事で紹介されているのがベトナムの「ティエン・レン」である。
まずはこの記述を取っ掛かりにしていこう。
英語版Wikipediaでルールを見ると、「富豪」「貧民」といった階級がないこと、スートにも強さがあることを除けば、確かに大富豪と似ている。
A standard 52-card deck is used. The ranking of the cards from highest to lowest is: 2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3.
標準的な52枚のトランプを使用する。強いカードから弱いカードへ並べると「2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3」となる。
ただし、ベトナム語版のWikipediaを見るとティレン・レンは「1980年代に登場した」らしいので、残念ながら大富豪よりも後発になってしまう。
英語版Wikipediaではティエン・レンの原型となったゲームが挙げられている。
It is derived from Chinese card games Winner, which uses a specially printed deck of cards, and Big Two.
というわけで、次はこの二つを見てみよう。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
また「上位を争う」との名前どおり、大富豪とよく似た「階級」要素が存在している。
この点においてはティエン・レンよりも大富豪に近いと言えるだろう。
争上游の起源についてググってみると、そこから派生した青島の「够級」というゲームについての記事を見つけた。
揭秘青岛够级:起源于沧口广场“争上游” 青报网-青岛日报官网
够级的起源和演变过程有好几种说法,据沧口一带的老“够级”们回忆,它的产生和形成,是在五十年代末到六十年代末的那段时间。那会儿,打扑克已经有了“争上游”的玩法。
「够級」の起源と変遷についてはいくつかの説があるが、滄口地区の古い「够級」のプレーヤーたちが記憶するところによると、1950年代後半から1960年代後半にかけて生まれ、形成されたものであるという。当時、トランプゲームには「争上游」という遊び方が存在していた。
この記述が正しいなら、争上游は大富豪に先行して存在していたことになる。
日本語版Wikipediaを見るかぎり、「階段縛り」と同じ要領で「ストレート縛り」「フラッシュ縛り」「フルハウス縛り」みたいなものがある大富豪、という理解でいいだろうか。
「大老二」の他に「鋤大弟」「鋤大D」といった異称があり、いずれも「2が最も強い」という特徴に由来していると思われる。
「鋤大D」(「鋤大弟」とも書く。「鋤D」とも言う)の名称は広東語に由来する。「D」とはトランプの2のことを言い、広東語の変音で「di2」と発音する(普通の広東語では「弟」は「dai6」)。
大老二の起源は香港にあるらしいが、どのくらいの時期に生まれたのかはわからなかった。
Google Booksで検索してみても80年代以前に遡れないので意外に新しいのか?
最初に「類似のゲーム」として挙げられていたもののうち、最後に残った「闘地主」についても触れておく。
ルールとしては、一人の「地主」とそれ以外の「農民」とに分かれて戦うあたりに特徴がある。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
という条件はやはり満たしている。
中国の文化大革命における階級闘争では、黒五類や臭老九のひとつに区分された地主の人権を農民が冒すことを権威づけられたという。闘地主の名前はそこから来ている。
という点では、かつて「階級闘争ゲーム」と呼ばれていた大富豪と共通しているようにも思える。
ただし、闘地主自体は文化大革命期に作られたわけではなく、1990年代にネットゲームとして広まったものなので、比較的に新しいゲームと言える。
以上からすると、中国の「争上游」が(とりあえずは)最も古く、それが日本に伝わって大富豪ゲームとなり、あるいはベトナムに伝わってティエン・レンとなった、と考えるのが自然に思える。
ただし、「2」がもっとも強いというルールの起源が「争上游」にあるのかというと(おそらく)そうではなく、そもそも中国のトランプゲームでは全般的に「2」が最強であるようだ。
原先最小的2被規定為最大的牌,有如國家由平民做主,但其實Ace本身就是這個意思。
国家が平民を主とみなすように、最小である「2」が最大のカードと規定されている。実はトランプの「エース」自体が同じ意味を持っている。
この「エースが同じ意味を持っている」という話は以下のとおり。
15世紀後半の時点で、一部のゲームでは「エースが高い役」という民間伝統が存在した。例えばポーカーの前身となったブラグ等である。この昇格(エースが低い役から高い役に変身を遂げた事)が起こったのはフランスのデッキだけでなく、ドイツのデッキを使うゲームでも2のカードを最も高い役のカードとする事が発生した。フランスのデッキでエースを最も高い役のカードとして使用する事は、フランス革命の結果としてより広範囲に受容される所となった。(中略)エースの昇格は、貴族階級(特にルイ16世)の排除と平民の地位の向上を象徴した。
つまりヨーロッパでは、市民革命を象徴させるために「最も弱いカード」を「最も強いカード」とするルールが広まった、ということらしい。
中国でもそれと同じことが起こり、「最も弱い農民(2)が最強の皇帝や資本家(KやA)に勝る」といった発想で「2」がいちばん強くなった、ということか。
なんだか大富豪における「革命」のルールとの相似性が感じられる。
あるいは「スペードの3でジョーカーを返せる」といったローカルルールも想起されるだろうか。
「最も弱いカードが最も強くなる」という現象はさだめて普遍的なものなのだろう。
というわけで、「なぜ大富豪では2がいちばん強いのか?」という問いの答えとしては、
中国のトランプゲームでは一般的に「2」がいちばん強く、それが争上游を通じて大富豪に影響したから
ということになるのではないか。
平和の旗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%97%97
平和の旗(へいわのはた、伊:la bandiera della pace)は、戦争に反対し、平和を求める意思を表示する旗。特定の組織や団体を代表したり帰属を示したりする旗ではない。
1960年代にイタリアで考案され、2003年のイラク戦争開始に前後して世界各地で使われるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0_(LGBT)
このフラッグはアメリカ合衆国カリフォルニア州に発祥を持つが、今では世界中で使われている。1978年にサンフランシスコのアーティストギルバート・ベイカーがデザインし、最初の改良で広く調達可能な布の色への変更を行った後に数度の修正が行われた[1][2]。 2008年の時点で、最も広く使われているのは 6 色構成(赤、橙、黄、緑、青、紫)のものである。
まず、下のリンク先を読んでみてほしい。5分もあれば読めるはず。
『どうすれば、差別や偏見をなくせるの?~人権侵害の歴史を考える~』
https://www.jamhsw.or.jp/ugoki/hokokusyo/20110219-kenri/26-30.pdf
"1960年代に、駐日米国大使が、精神障害のある人に刺されてけがをするという事件が起こり、社会で大きな問題となりました。この事件は精神障害のイメージに大きく影響し、地域行政の相談機関が設置されるなどの法制度改革の一方で、強制的に入院させる制度(→入院形態;p.35)が促進され、全国各地で、多くの精神障害のある人が強制入院をさせられました。"
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E5%81%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
"1964年(昭和39年)、ライシャワー駐日大使刺傷事件が発生する。精神障害者を隔離収容すべき、と言う新聞や雑誌などが主張し、世論も野放しは危険と支持して、厚生省も日本のハンセン病問題同様に、精神科病院への隔離収容政策(社会的入院)を始める。"
"2013年(平成25年)、国際連合人権理事会は日本に対し、精神障害者の非常に大勢が自らの意思に反して長期間に渡って社会的入院されていることや、身体拘束と隔離が過剰に用いられていることを警告。"
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/4/
"現在グループホームで暮らす時男さんが初めて精神科病院に入院したのは、今から46年前の1968年。当時、時男さんは16歳で親戚を頼って福島から上京し、働き始めたばかりでした。しかし、慣れない環境と人間関係のストレスから体調を崩し、妄想などの症状に襲われるようになります。そして都内の精神科病院に入院。
このころ、国は精神障害者の隔離収容政策を進めていました。大きな契機となったのは、1964年に統合失調症の少年が起こした傷害事件。マスコミも一斉にキャンペーンを展開し、精神障害者を「危険な存在」と見なす社会の風潮が作られていきました。"
"精神科病院の入院患者の数はおよそ32万人。そのうち、1年以上入院している人は20万人以上、10年以上同じ病院に入院し続けている人は7万人もいます。しかもこの長期入院者のなかには、社会的入院の人が相当多いといわれており、そのために「日本の精神科の平均在院日数は諸外国に比べて突出して長くなっている」と精神科医の岡崎伸郎さんは言います。"
つまり、一精神障害者が事件を起こす→精神障害者全体が危険視される→「危ないから隔離しとけ」という世論や政策が生まれる→強制入院や退院後の受け入れ先がないための「社会的入院」が多発、というようなことが実際に歴史の中で起きてきた。これはまだ過去の話とも言えず、日本各地の精神病院にはこうして何十年も病院で過ごしてきた高齢の方がたくさんいる。
こういうことを多少とも念頭に置いて見ると、今回の『ルックバック』の描写、幻聴と台詞の内容で(統合失調症とは限らないが)何らかの精神障害を暗示した後、その人物が理不尽に襲いかかってくる殺人犯としてのみ描かれるという描写に、精神障害者やその周辺の人々が危惧を抱くのは合理的に思える。少なくとも、危惧を表明した人に「被害妄想」や「自意識過剰」と言えるほど、現実の歴史は優しくはなかった。
もちろん現在はまた時代が変わっている。また事実として精神障害者が犯罪を起こすこともあり、そういう報道や描写を一律に避けるというのも不自然だろう。報道や表現の自由と偏見強化の危険との間でどうバランスを取るかという議論はこれからも地道に続けていくしかない。
しかしとりあえず今言いたいのは、これを機に上のような日本の精神障害者が置かれてきた状況、いまだに残っているいろいろな問題がもっと知られてほしいということ。それから、昔にはなかったような形で出てきている精神障害の多様な語り方、その面白さももっと知られてほしい。有名でとっつきやすいものとしては、やはり「べてるの家」の記録などだろうか。まあ「べてるの家」も最近は内部告発が出て来たりいろいろ問題含みなのだが、『べてるの家の「非」援助論』(2002年)や「当事者研究」シリーズなど、読み物としても非常に面白かったのでおすすめしたい。「偏見・差別大歓迎」と掲げて近隣住民と交流集会を開くなど、柔軟で斬新な実践の数々に衝撃を受けた。
あらためて、今回の議論が例の描写を認めるか認めないかというような話に終わらず、かかわった人が精神障害について新しく何かを知るきっかけになってほしいと願っている。