はてなキーワード: 劇場とは
現在、JR東日本の電車内に人気アニメの劇場作品『劇場版新幹線変形ロボ シンカリオン 未来からきた神速のALFA-X』の中吊り広告が貼られている。
【中づり広告掲出中!】
現在、JR東日本の各路線で中づり広告が掲出中!
超進化研究所からのメッセージも込めました。JR東日本の電車に乗ったら、ぜひ探してみてください!(一部掲出していない路線もございます)#シンカリオン #好きなものは好きなもののままでいいんだよ pic.twitter.com/cq5vozC37L— 新幹線変形ロボ シンカリオン(公式) (@shinkalion) 2019年11月19日
主人公ハヤトの父・ホクトは、小さいころから新幹線が好きでした。
しかし、9歳の少年ホクトは「鉄道が好き」であることを同級生にからかわれ、
誰にも知られないようにしていました。
好きなことがある、その気持ちを大切にしてほしい。
誰かの“好き”を応援できる人になってほしい。
その後、ホクトは大学生になっても鉄道趣味を持ち続け、新幹線の運転士になり、歴女である妻・サクラの方針で彼らの間に生まれた2人の子供は「好きな事を思い切り好きなようにさせてあげるように」育てられ、結果的に長男・ハヤトは父譲りの自他共に認める新幹線バカに育ったのである。
確かに、ここ最近の十数年はオタク文化そのものも開放的になってきたが、20年以上前のオタク文化が閉鎖的だった頃の自分としては共感できる広告である。
ホクトと近い年代の昭和末期~平成初期に少年少女期を生きた世代なら、ファミコンなどのテレビゲームが世に出た頃であり、ドラゴンボールやセーラームーンが人気だった世代だっただろう。
それでも、それらに限らず人の「好きなもの」に偏見を持つ人もいると思う。
しかし、誰かの「好きなもの」を馬鹿にしたり排除しようとしても、された相手も傷付き、した相手も悪いし、
他人に嫌いに思われてもそれを「嫌いなんだね」と理解できたり、ショックを受けたり…と人によって反応は様々であるし、
自分の「好きなもの」でも全く嫌いな部分がないとは限らなかったりもする。
しかし、先述のように学校・会社の人や家族に「好きなもの」に偏見を持たれないようにずっと隠している人も少なくはない。
でも、人の「好きなもの」を、どうか悪く言わないで欲しいと思う。
自分の「好きなもの」は相手の偏見が含まれたものでもいい。
でも、誰かの「好きなもの」はその人の「好きなもののまま」でいいのだから。
なんとなく気に入ってる順。
バビロン:だんだん失速してる気もするけど、原作未読な分それなりに次を楽しみにしている。
PSYCHO-PASS 3:あと3話だっけ。どうすんだろ。なんだかんだで一応最後まで見るけどさ。
ヴィンランド・サガ:プラネテスから幸村誠ファンなもので。ヴィランド・サガも原作何回読み直したことか。奴隷編入る前で終わりかね?
BEASTARS:原作1巻出た頃は、まだほーんって感じだったけどスルメっていうかかなり好きな作品に。アニメも丁寧でよき。
Dr.STONE:ジャンプ本誌では地味に一番楽しみだったり。ときどき「科学」って言葉が変に使われてるのが気になるがまあ勢いあってよし。
(以下、x倍速視聴)
本好きの下剋上:まったり視聴。3話くらいで続きが気になって漫画版を、出てる分ぜんぶ読んだ。名作子ども劇場感。
歌舞伎町シャーロック:いつ切るかわからない。なんか期待値あげすぎてただけかも。エゴラッピン◎。2クールだっけ。まあもうちょい続けるか。
トクナナ:いつ切るかわからない その2。いろいろ残念。でもまぁギリッギリ低空飛行な感じで見てる。
ノー・ガンズ・ライフ:いつ切るかわからない その3。面白くなりそうでならない。でもなんか見てる。
以上。
ポエムともお気持ち表明とも言えない吐き捨て。ツイッターで呟くとTLの空気を悪くするし、掲示板に書くには長すぎるので、ここに吐き出す。本当に無駄に長い。
私がアイドルマスターシンデレラガールズを知ったのは、ちょうど第二回総選挙の発表直後くらいだ。今確認したら2013年5月とか出てきた。時の流れの速さを感じる、こわい。約6年半前に些細なきっかけで担当アイドルに出会ってから、私はシンデレラガールズが大好きだった。アイドルたちのきらびやかなイラスト、読んでいてストレスを感じないテキスト、可愛らしい楽曲たち。1stライブのライビュに参加してからは、年一のライブが人生の楽しみの一つになった。今も担当アイドルたちのことは大好きだし、デレマスというコンテンツのアンチになったわけでもない。ではなぜPを辞めるのかと言えば、理由は大まかに3つある。
まず最初のきっかけは、シンデレラガールズのメインがモバゲー版からスターライトステージになってしまったことだった。
デレステは正直すごいゲームだと思うし、私も最初の数ヶ月は楽しくプレイしていた。だが、イベントをプレイしたりアイドルのコミュを読むたびに、テキストに対して違和感やひっかかりを覚えることが多くなっていった。私幸い担当に致命的な解釈違いを感じることはなかったが、どこかテンプレに寄せられたような違和感を常に感じた。
あとこのゲーム、モバマスに比べて単純に疲れる。これはあくまで私の場合であって、時代遅れのポチポチゲーであるモバマスの方が辛いという人が大多数であるのは分かっている。でも私はモバマスの方が好きだった。だからこそシンデレラといえばデレステ!という空気はつらかった。
それでも、しばらくはモバマスメイン時々ステという形で楽しんでいた。恐らく決定打だったのは、私以外にも多くの引退者を出したであろう声付き新アイドルの追加だった。
一応断っておくと、私の担当アイドルたちは全員声が付いている。それでも、あの四人の追加はショックだった。
それでも最初は知れば好きになれるかもしれないとは思っていた。しかし、自分でもびっくりするほど彼女たちを知ろうという気が起きなかった。
別に嫌いなわけではない。実際、モバマスでライバルユニットとして彼女たちが登場した時も何も思わなかった。本当に興味がわかないのだ。好きの反対は無関心とはよく言ったものである。
あかりとあきらとりあむの三人は、変な言い方だが普通に好きだった。しかし、ちとちよはーなーの四人は知ろうとする気が起きなかった。運営の寵愛というマイナスイメージを自分の中で払拭しようとする気が起きないまま、無関心を貫いてしまった。
デレステのSSR枚数や曲数の格差、Pとアイドルではなくアイドル同士の関係がメインという方向性、モバマスのデレステSSR逆輸入といった些細な不満が積み重なり、少しずつ熱を冷ましていたのだと思う。
今までは周年ライブはLVではあるが、可能な限りは行っていた。しかし、7thは行く気がまったく起きなかった。正直最近はCDも買っていないので曲もほとんどわからない。新アイドルに至っては声すら曖昧。そんな状態で行ったところで、盛り上がれるかどうかもわからないから行かなかった。おそらく私は、もうシンデレラガールズの担当以外の要素が好きではないのだと思う。
まず、ここ数年の某まとめサイトにコメント欄のひどさにドン引きした。元々民度が良いサイトではなかったが、第六回総選挙くらい(ひょっとしたらもっと前からかもしれないが)くらいから、目に見えて酷くなっていった。声なしの子のSSRが来たら「不人気」「売上ガー」とわめく。選挙の時期は圏外になったアイドルを煽る。ついでに上位も煽る。新しいCVが発表されたらまた荒れる。あと最近のSSR衣装のデザインへの文句に対しての「フェミさん」「まんさん」とか言うあの煽り(蔑称?)、自分が女だからというのもあるが、純粋に気持ち悪い。嫌なら見るなということで最近は見ていないが、はっきり言って異常だと思った。
次に、デレマスや中の人への批判を絶対に許さない空気に引いた。元々そういう空気はあったとは思うが、決定打だったのはこずえちゃんに声が付いた時のことだった。思い出エピソード前半の彼女の演技は、はっきり言ってひどかったと思う。合う合わない以前にプロの声優として許される演技ではない、というのが個人的な意見だった。しかしその日ツイッターで一番多く流れてきたのは、「ほかのアイドルも初期とは演技が変わっているから見守ろう」という意見だった。それはまだいい。むしろ過度に荒れないのはよいことだと思う。だが、不満をもらした人に対して「嫌ならやめろ」というのはどうなのか。掲示板などで愚痴を吐いた人に対してそれを咎めるようなレスを送る人がいた。ツイッターで直リプではないにせよ、そういった愚痴に対して苦言を呈するような人もいた。もちろん声優さん本人を攻撃するのはよくないことだが、長い期間待って頑張って総選挙を勝ち抜いて、その末にようやく付いた声がはっきり言って下手だったのなら、愚痴の一つや二つ吐きたくなるのも仕方が無いだろう。それなのに、それすら許されない空気なのは正直担当Pがかわいそうだった。最近も7thライブについて賛否両論があったようだが、「嫌ならやめろ」という言葉を振りかざして批判を押しつぶす様にはうんざりした。
最後に、夢見りあむに対する界隈の空気に心底腹が立った。夢見りあむを面白がって持ち上げて神輿にしておきながら、選挙が終わった途端に次回は圏外かなwwなどと草を生やすオタクどもに腹が立った。りあむのソロが決まったことに対し、もっと先にソロをもらうべきアイドルがいるなどと言って炎上させようとするPに腹が立った。私は最初りあむに大してはすごいキャラが来たな、くらいにしか思っていなかったが、りあむという1人の女の子を完全におもちゃとしてしか見ていない空気に怒りを覚え、りあむのファンになった。アイドルdisや中の人disは許さないなどと綺麗事を吐きながら、りあむをおもちゃにして指を指して笑っているプロデューサーたちに吐き気がした。
これは100%自分の都合だから書くべきかは迷ったが、なんだかんだで一番大きい理由だと思うので一応書いておく。私は6年半前、まだ20代前半のフリーターだった。体力も時間もあったので、ソシャゲを4~6個ほど兼任したりもしていた。しかし、今の私はもうアラサーの正社員だ。昔に比べてお金は増えたが、体力と時間は大幅に減った。ソシャゲももう一個か二個やるのが限界だ。そういった理由で、デレマスにかける時間はどんどん無くなっていき、最近ではゲームにログインすらしなくなってしまった。なんだかんだで、SideMが登場してからはそっちがメインになっていたのも大きいと思う。所詮私も、イケメンが好きな女だったのだ。
担当のことは今でも大好きだし、運営も嫌いな部分はたくさんあるが攻撃したいわけではない。ただ前のように愛せなくなっただけだ。おそらく今後もゲームのアカウントを消すことはないし、担当の出番があればカード絵と劇場を見に行ったりする。サイコミの漫画も引き続き読み続けるし、もし担当に新曲が来て気に入ったら、曲を買ったりもするかもしれない。だが、以前のように担当の為に課金したり、LVに行ったり、担当の布教をすることはないだろう。
界隈にはいたくないがアイドルたちは好きだ。こんな私はもう彼女たちのPではなく、ただのファンなのだろう。なので、ファンらしくこれからは少し離れたところで彼女たちを応援しようと思う。
かかってしまった。本気で悩んでる。
アニメとか漫画とか小説とか長編同人文とかソシャゲとか全てに該当する。
なんなら長編じゃなくても、1万字足らずの話の途中で一旦閉じて無意味なブラウザゲー(ソリティア系統)とかやってしまう。
これは多分よく言われてる「歳をとってコンテンツの摂取力が落ちた」現象ではないと思う。
スケダン・彼方のアストラの篠原先生が以前「最終回が読めない」現象を話題にしてたけど、あれはお話が終わってしまうことが寂しくて、というのが主な話だった。それも違う。
簡潔に言うと、物語に何か期待した瞬間、その期待を実際のテクストが下回ることに恐怖を覚えてしまう。のだと思う。
実際そこはかとなく怖い。
ちなみに先のネタバレをどれくらい知っているか、はあまり関係ない。結局はそれを聞いてどれほど自分が期待をふくらませるか、あるいは萎ませるかにかかっているわけだから(そして前情報で萎んだならこの悩みにかかずらうことは無い。それはそれで問題なんだけども)
結果としてちゃんと見られるのは「既に読んだ作品のアダプテーション作品(小説→アニメ化とか)」「可もなく不可もなくそれなりで見た作品」「ソシャゲの期間限定イベントで素材欲がこの病気に勝ったもの」とかそのあたりになる。
要するに本命になればなるほど見られなくなる。
例えばソシャゲ、言ってしまえばFGOなのだが、2017年の頭から始めてまだアガルタにいる。戦力はあるし周回もできる。飽きていないはずだ。アガルタは(賛否あるようだが)ネタバレをある程度聞いて逆に楽しみになり、レジライが出てきて話が動き出してきたな、と思った瞬間止まってしまった。少し手を出したアナスタシアも、パツシィくん可愛いね、と思った瞬間に止まった。
他に幾らでも例が出せるが概ねこんな感じだ。
映画は劇場まで行けば見通せる。BDはそもそも借りないのでよくわからないが。
そして類似の悩みを抱えているオタクを周囲(タイムライン)で見ない。これで悩んでいるオタクは活動的なオタクとしてやっていくのは難しいからかもしれない。
数年来ずっと抱えていたものなのだが、最近更に顕著になってきた。このままではただ見たいものだけが無為に増えていってしまう。滑稽すぎる。
フェミとかネトウヨとかいうよりも、クラスターBの人々じゃないの?
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込むことが多い。
少年期の素行症による非行の段階を経て、利己的で操作的な成人となり、人を欺くが周囲には気づかれにくい[22]。中年になると落ち着くことも多い[22]。
他者に大きな期待を抱き、非現実的な要求によって人を遠ざけてしまったり、喪失体験をしたときに、自傷行為に至ることがあり、不安定な自己の感覚や人間関係があり、衝動的な側面を持つとされる[23]。中年になると落ち着くことも多い[23]。
自己顕示性が強く、その時に演じている役柄に影響され、大胆に振る舞う[24]。
他者に賞賛を求め、自分が特別であろうとし、有名人との関係を吹聴したり、伝説の人物のつもりでいて、他者の都合などは度外視している[22]。
1年ほど前、ハッと気づいたんだが、俺は英語ができる。聞き取れるし、ある程度喋れる。
旅行に行ったら特に困ることはないし、現地の人間と雑談もできる。
しかし、別に英語学校には通っていないし、留学もしていない。教材を買って勉強したこともない。
現在は32歳だが、勉強せずにいつのまにか出来るようになっていた。しかし、振り返ったらあれがよかったな?と思うことはあるので書いてみる。
①単語をとにかく覚える
受験生のころだが、単語だけはとにかく暗記した。今でもこれが効いている気がする。使ったのは単語王っていう、当時一番単語が収録しているのが売りの参考書だった。
これを4周はしたかな?とにかく丸暗記した。
今でも、「あ、単語王で覚えた単語だ」って思い出すからかなり効いていると思う。
②映画をとにかく見る
自分は映画が大好きで、劇場で年に50本、それ以外で年に100本は見ている。
そのとき、吹き替えじゃなくて字幕で見て、とにかく英語で何を言ってるかを聞き取ろうとしている。
日本語字幕から英文を類推して、発音を確認していく、というのをやっていた。
今では字幕なしである程度わかる。ちゃんとストーリーを追いたいから字幕で見るけど。
旅行に行ったら現地人が溜まってそうなバーに行って、そこで現地人と話す。
ヨーロッパだと日本人が珍しいのか、向こうから話しかけてきたりする。
おれは哲学の大学院を中退して今はワイナリーで働いてるんだー、とかそういう話を聞く。
俺はちゃんと勉強してないんで、英語はできないとずっと思っていた。でも、数年前ぐらいから「あれ?意外とできるんじゃね?」と思い始めて、最近は「できるなー」と思ってる。
円盤が届いたので、細かい演技まで見られる。ので、初見時から気になっていたことの覚えがき。
なお、内容についていうべきことは特にない。本当によくできている。アニメ版、原作、舞台版としてそれぞれの終わり方が分かりやすく提示されているからだ。
今回は演技について。敬称略とする。
メインキャストの小泉(七海燈子)、河内(小糸侑)、磯部(佐伯佐弥香)はそれぞれ違った履歴を経てこの舞台に立った。
小泉は中高合唱部→いわゆる現代の中小劇団の舞台に出演。最近はレヴュースタァライトの活躍が目立つが、役者としての一面がつよい印象。
河内は高校演劇経験者。その後、テレビドラマに出つつ、2.5次元舞台中心に活躍。
磯部は声優。シャニマスに出ている声優なので歌も歌うし、サンドリオンというユニットで声優アイドル活動もしている。演劇経験はほぼないのではないか。
この三人、声の演技は磯部がダントツにうまく、舞台俳優としての総合力は小泉がダントツによく(何しろ彼女は声がよく通り、身長も高く、とにかく足が長い)、河内の舞台慣れした様子が面白い。
のだが、河内の演技について気になる点がある。
彼女の、高校演劇っぽい癖だ。見ているとすぐ気づくが、手元(握りこぶしや人差し指を刺して動かす)の動きは、とても目立つ。
これは小泉やその他先生やその彼女にはほぼない仕草で、男性キャストはやっていない。河内に教わったという磯部は少しその癖がうつっている。
中小劇団で求められる所作と、高校演劇で求められる所作は結構違いがある。なぜなら想定される舞台のサイズが違うからだ。(小さい劇場と体育館や講堂の違いをイメージしてもらえれば伝わるかもしれない)
高校演劇の演技というのは独特で、とにかく動きで形を出せと言われ、普通こんな動きしないのでは…という場面でも体を揺らす。
現在は便利なもので、Youtubeに上がっていたりするので、高校演劇 大会とでも検索すればすぐに見られるだろう。
つまり河内はこの癖が抜けていない。これからどのような道を歩むかは彼女自身の自由だが、なるべくこの癖は矯正した方がいい。
ところで最近の匿名はてな、何か注意事項みたいな文言が付くようになったんですね。
匿名で描き散らかすのって、めんどくさいですね。
会社に入って3ヵ月くらいしたころ、新人研修がありました。「きっと、業界の歴史だとか、社会人としてのマナーだとかやるんだろうなぁ」と思ってたら、大きく裏切られました。待っていたのは「ランドマークエ〇ュケーションという自己啓発セミナーに3日間参加してこい」という指示。ちなみにこの集団、外国ではカルト教団認定されてるらしいです。調べてみると、「洗脳」やら「勧誘」やら「マルチ」やら、怪しい言葉が続々と出てきます。
初日のセミナー。日光も当たらない、外界と完全に隔離された部屋に誘導されます。「ここでこれから3日間過ごすのか……」と思うと、ちょっと憂鬱でした。まあよく考えると、この部屋に隔離して精神力・判断力をすり減らす策略なんですけどね。参加者は200人ほど。最終的には200人が同じ行動をし、同じ思いを持ち、わ~~っと盛り上がることを強制されるので、劇場かのような錯覚を覚えるんでしょうね。普通に過ぎた初日でしたが、「ん?」と思うこともありました。昼食は向こうが勝手に用意したクソ高い弁当を買わされたり、休憩中には経験者が一心不乱に話しかけてきて、「私はこのセミナーでこんなに変われたのよ!」と力説してきたり。一日の終わりには、「大切に思う5人に、それぞれ500文字ずつ手紙を書く」という面倒な課題を出されたり。この手紙も巧妙で、睡眠時間を削るとともに、後に行う「知り合いへの勧誘」の際に、この文章を利用して勧誘を行うので、あらかじめ文章を作ることでサッと勧誘の言葉が出てくるといった寸法です。
2日目以降に人格破壊が始まります。講師の指示で、過去のトラウマを発表させられます。僕にはそんなトラウマがないんであれなんですけど、自発的に高いお金を払って参加している人たちには何かしらの過去があるようで、皆さんトラウマをみんなの前で告白します。地獄か。
トラウマを発表したら、周りの人間は無条件でそれを受け入れます。講師が口を開きます。「あなたのそれは、"story"です」と。"story"というのは、作り話ってことなんですけど、例を挙げれば、「他人を殴ってきたら怒ってきた。ただ、他人の感情なんて分からないし、『怒ってきた』というのも、自分が勝手に相手の感情を考えただけで、相手は別に怒っていないかもしれない。自分は、相手の感情を『作り話』として作ってしまった」という感じです。無敵の論理ですね。
講師が「それはあなたの"story"です」を連発し、告白したトラウマを次々と片付けていきます。「あなたが今まで悩んでたことはしょうもない。無意味」「作り話に感情を支配されるな」と、個人が持っている悩みをどんどん矮小化していき、"story"の1単語で片付けていきます。ただ、もうこの時点で洗脳されちゃう人もいるんですよね。最終的には、受講生全員で、「人生は空っぽで意味なし!」と何度も大声で唱えさせられます。「人生は空っぽで意味なし!「意味なし!」「意味な~~~し!」と、泣きながら叫ぶ声も聞こえてきます。まあ3日間も極限の状況に押し込められて、心が弱い人は洗脳もされちゃいますよね。
後は、「非合理な行動」「ええかっこしい」「エンロール」「ペテン」なんかも、このセミナーでよく使われる単語でした。上の話も含めて、全部が勧誘につながっていくんですよね。
「非合理な行動」ってのは、そのままです。自分が非合理な行動を起こしたときに、そんな自分にもついてきてくれる友達が本当の友達だ、って論理です。セミナー中、定期的に「では今から30分時間を取るので、知り合い5人にこのセミナーのすばらしさを電話してきてください」みたいな時間が入ります。最初は参加者も抵抗するんですが、講師が「これは非合理な行動です。勧誘をして、離れていくような友達は本当の友達ではありません」と大声で叫びます。
「ええかっこしい」ってのもそのままですね。「人間はええかっこしいだから、勧誘なんて行動はなかなかとれない。ただ、感情なんて"story"なんだから、ええかっこしなくても別にいいじゃん」って論理ですね。受講者が、「ちょっと勧誘にはこういう理由で抵抗があります……」という話をすると、講師が「あなた!それはええかっこしいですよ!」と急に怒鳴り始めます。気持ち悪いのは、周りの洗脳済み参加者たちも、次第に講師と同じように、抵抗ある参加者を攻め立てます。魔女裁判かな?
「エンロール」ってのもそのまま「巻き込む」ってことなんですが、勧誘活動をこの言葉に置き換えています。「勧誘しよう!」はあからさまなので、「エンロールしよう!」に言い換えている感じですかね。このセミナーで得たものを「分かち合い」し、「エンロール」することは美徳とされるので、洗脳された人はどんどん宣伝と勧誘を行います。
「ペテン」ってのは「ペテン師」の「ペテン」です。自分に沸き起こる感情のことですね。勧誘をするときにも、「嫌だな……」って思いが沸き起こると思うんですが、それは「ペテン」です。似非の感情であり、気にしちゃダメな感情です。さっきの「ええかっこしい」と合わせて、ランドマーク〇デュケーションの勧誘を行わない人間は、「ええかっこしい」で、感情が「ペテン」に支配されている扱いになります。ファシズムかな?
以上の言葉を使った論理で、参加者を巧みに誘導し、勧誘活動をさせますちなみに、3日目の夕方には、参加者に対して「次のセミナーに参加しませんか?」という勧誘行為が行われます。何故かこれには90分ほどのたっぷりとした時間が割かれています。いくらかは忘れましたが、うん十万円する次のセミナーの申し込みを、その場で直ぐに行うことができます。確か分割も可能です。悪魔かな?
僕はそんなものに申し込むつもりはさらさらなかったので、その時間は椅子に座ってひたすらジッと待っていました。そんな僕にセミナーの人がめちゃくちゃ話しかけてきます。怖い。「あなたは素晴らしい人間だから、私もこんなに期待して話しかけてるんですよ!」「このセミナーはまだまだ不完全なところもあって、次のステップに進むことで完全な学びができるんですよ!」と、ありとあらゆる方法で語りかけてきます。セミナーの人と電話番号を交換するという時間があります。こんな奴らに電話番号を渡したくないので、適当に番号を教えたんですが、「確認しますね!」と言ってその場でその番号に電話をかけ始めました。もちろん通じません。「あれ?繋がりませんよ?もう一度教えてください」「電話番号はこうやったら表示できるので、表示して私に見せてください」と責めてきます。とうとう本当の電話番号を明け渡すことになってしまいました。死亡。ちなみに、翌日直ぐ電話が来たので、着信拒否しました。
セミナーの最後は、このセミナーに参加した人が、セミナーを紹介してくれた人を呼んで、「こんな素晴らしいセミナーを教えてくれてありがとう!」と感謝の意を伝えながらハグをする、という気持ち悪いイベントがあります。振り返ってみると、後ろにうちの会社の人たちが。気持ち悪いので、無言で無視していました。
希望者は4日目も参加できるんですが、僕はもう嫌悪感しか湧いていなかったので、強い意志で断りました。そんな感じで終わったんですが、細かいことを挙げればまだまだ気持ち悪いエピソードがあります。さすがに長すぎるので書きませんが。
■今何歳?
24歳児です。
謎?
■なぜ今日気づいたのか
理由は、劇場で映画を見たのですが、戦闘シーンで大きめの音が出ると、"右耳だけ"音割れしたからです。
(左耳は普通に聞こえている)
■なぜいままで気付かなかったのか
⇒大きめ音では?(それなりに頻度が多い)
例としては、ライブや体育祭などです。両耳で音割れを起こしていました。
みんな音割れして聞こえているのだと思っていました。ライブに至っては音割れするのもを楽しむものだと思っていました。
⇒その他の事例1 飲み会などの雑音で音割れを起こす(殆どの頻度で発生する)
この時、非常に全体の音が大きく聞こえ、よく音割れを起こす。正直、発する音が全体的に大きめで発信源が多い場合(飲み会・パーティーなど)に、音が途轍もなく聞こえないことが多く困ることが多かった。しかし、この場合も、そのようなものだと思っていた。
状況としては、殆ど夜に行われた、またお酒が入っていることもあった。
今までの最悪の事象は、ただの雑然とした打ち合わせで音割れ起こした。
⇒その他の事例2 イヤホンの音が音割れを起こす(稀に起こる)
⇒その他疑われる事象
通常の状態で人の声が上手く聞き取れないことがある。
(よく他人から言われるので、他の人に比べ頻度が高いと思われる)
■言いたいこと
某献血ポスターの件でまたあちこちが燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。
これは「ポルノグラフィの法規制」に対してのフェミニズム的観点がテーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。
字数が切れていたので分割。
以下本文
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1. 問題設定
本レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定の地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。
最初に検討されるべきは、規制の対象たりうるポルノグラフィがいかなるものと定義されるかということである。もちろん、いかなる性的な描写もポルノグラフィであって規制の対象たりうる、という立場自体は不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制の対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。
まず、一般的なポルノグラフィの定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ三要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ三要件(通常人の羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。
判例の立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的な対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり、本来は性的表現であっても、直接他者に危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的に規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。
一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィをいかに定義したか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず、写実的に描写され、性的にあからさまな形で女性を従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性が人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性が苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性がレイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性が性的服従の姿勢で提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態で提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態を性的なものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記の基準と比べるとこれは、はるかに明快である。
ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制を日本において考える際にも重大な差異であると考える。
最高裁におけるわいせつ概念の定義は、三要件を用いたその定義から明らかに、社会的性道徳、善良な性風俗といったものを保護の対象としている。つまり、過度に扇情的なポルノ作品が市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件の控訴審における判決理由中の「かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念がわいせつ文書を規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。
ミネアポリス市ほかいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィを規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。
ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的に対象化objectificationするものである、とラディカルフェミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性の従属においては、不平等そのものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等をセクシーなものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配と服従をセクシュアルなものにする』」 。
ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまり、ポルノが消費されたときに、社会が倫理的、道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳的観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性が女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である。
Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者の観点の方が規制の根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害は存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者のアプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いかに表現の自由の価値を絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。
ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由も保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィが一般的な危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィが定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。
もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり、女性が傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例や法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である。
危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的な基準の定立が可能である一方で、主観的な不快およびその深刻性については、客観的な判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。
ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析を必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性が従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィの撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギやネズミやナイフやピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的なテーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性の女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的なテーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィは女性憎悪の純粋蒸留物であり、女性の経験の中でレイプ、女性殴打、近親姦、強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィを擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。
実際にこれらが物理的危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害そのものであり、規制はされてしかるべきものである。しかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会がポルノグラフィを公認していると見做される旨主張する。
McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダン・フェミズムの立場のもと、一定の距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィの生産に対してとられるべき法的行為=措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為=措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニストの目的に根本的に寄与すると主張する。この産業の女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的な尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春やポルノグラフィに従事させられるのである。ポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィが存在している社会は、女性が経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判の対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由から、ポルノグラフィの規制を法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である。第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプな女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノンの仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護を要求するような、文化的にコード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。
蒸気機関車、新幹線、フランスやイタリアの列車に扮した俳優達が、ローラースケートで、劇場を縦横無尽に駆け巡る。
もちろん、歌や踊りも盛沢山。
いつ初演だって?
さすがに、もう公演終わった?
日本では見れないの?
20年以上前に全国公演があった。宇宙刑事シャリバンが新幹線役を演じている。
有名なの?
お陰様で、なんと当日券が当たり、劇場で観劇することができたんだ。
劇場に入った瞬間からKnightsステージの世界が広がっていて、感動でずっと泣いてしまった。
増田が言うように、あんステは確かにキャラクターを舞台装置としてしか使わないところがあるし、Judge of Knightsもアプリの内容とは違う部分がたくさんあったけど、それでも私にとっては最高の作品だったよ。
2.5次元ミュージカルの魅力って、
私は
「共感」と
「ノスタルジー」と
「発見」
なんだと思う。
役者さんが原作とキャラクターをとても研究してくれていることが、観劇していてすごく伝わってきたんだ。
2次元作品って、基本的には「自分と作品(原作)」だけの「ひとりぼっち」な世界じゃない?
それがね、2.5次元ミュージカルになると、「自分と作品(原作)と舞台化に携わる人々」になる。特に目の前に生身で現れる役者さん達からは、命を燃やしながら紡ぐお芝居を通して原作への誠意がとても伝わってくる。
舞台を通して自分が原作を好きな気持ちを再認識できる「ノスタルジー」、
そして「ひとりぼっち」の時は気付くことができなかった、原作への新たな解釈や「発見」。
それらが2.5次元ミュージカルの魅力であり、それを私はJudge of Knightsで始終体験することができた!
だからずっと感動で泣いてしまったし、私にとっては最高の作品だった。
観に行けるように祈ってくれて、本当にありがとう。
ところで、ここに書くには話題が逸れてしまうけれど、久し振りに元記事を読んで「公式チケット定価を10万円にしてほしかった」って自分の主張に笑ってしまった。
ちょうど先日、ヒプマイ舞台化チケットの定価が1枚1万8千円と高額かつ、原作の人気ぶりに反して舞台のチケットが当選しやすかったことも相まって、チケット当選し過ぎな状態からくる「ヒプステ破産」なんて言葉が話題になってたから。
やっぱり定価が高額になれば「とりあえず買う」問題はかなり解消できるんだね。今回はそれに加えて本人確認もガッチガチだからだろうけども。
帝国劇場(東宝)みたいな、先行を買った人が損するような売り方(公式で定価が値下げされたチケットや、同じ値段以下で限定グッズ付きチケットを、後出しで公式が販売するし、後出しで売られる座席よりも先行販売で売った座席の方が不人気席なことがよくあるの)は絶対にやめてほしいけど、
みんなは連続ドラマ「おっさんずラブ」のことを覚えているだろうか。
恋愛単発ドラマから始まり、「おっさんずラブ」としてシーズン1が放映されたのは2018年の4月だった。
私はテレビの前にはりついているのが苦手で、ツイッターで流れてくる友人たちのツイートを眺めているだけだったが、放送時間になると度々トレンドに上がる「おっさんずラブ」は「今アツい流行りジャンル」といっても過言ではなかった。
ドラマの内容は、不動産会社に務めるモテない営業マン・春田が上司のパソコンに、自分の隠し撮り写真があることに気づいたところで日常が一変し、後輩の牧からも突然告白され、春田と春田をとりまく人々がおっさんたちの恋愛に巻き込まれるラブコメディだ。個人的に、ギャグ調でコミカルなところもありながらも絞めるところは絞める、気持ちのいい恋愛ドラマだと感じた。
ラストはいろんな困難を乗り越え、春田と牧が結ばれる形で感動的に幕を閉じた。
同年の6月にドラマの放送が終了し、その後、今年2019年8月に「劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜」が公開され、公開13日目にして観客動員数100万人を突破。映画の感想も好評なものばかりで、応援上映も10月中旬まで開催されていた。友人も何度も劇場に足を運び、舞台挨拶のレポートを嬉しそうにツイートしていたのが印象的だった。
やさしい運営とオタクもニッコリの手厚い待遇に、羨ましささえ感じていた。
9月27日を迎えるまでは。
9月27日に公式アカウントがツイートした内容は、「不動産編は劇場版で完結したので、冬から新しい世界へ向かいます。ということで、メインキャスト2人はそのままで、他のキャスト一新、舞台は航空会社で、また“おっさんずラブ”をはじめます」というものだった。な〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んやそれ。「新シリーズは11月2日からスタートします」ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
続投のメインキャストの2人は、春田とその上司の黒澤だった。テレビシリーズの「おっさんずラブ」〜劇場版「おっさんずラブ」に生きていた、牧くんを始めとする天空不動産を取り巻く人々の姿はどこにもなかった。
春田と黒澤は名前も性格もそのままで、また一から別の人たちと恋愛をやり直すというのだ。春田はCA、黒澤は機長に!いったいどんなラブトリップするのかなo(^▽^)oワ〜〜〜ッッ!ってなるかい!!!!!!!!!!
まあ確かに????恋愛ゲームだと????今攻略しているキャラクターが終わったら???
次のキャラクターを攻略しよっかな???みたいな???気持ちにはなるけど?????私は春田ではないし????
春田と愛をかわした牧くんはいないし????どゆこと?????私が応援していた2人は?
つまんない意地や見栄、色々な障害を乗り越えて結ばれたピュアなラブは????
ネット配信で遅れてドラマを完走した私でさえめちゃくちゃに混乱していた、その脇で友人は地獄で溺れていた。かける言葉がなかった。だってメインジャンルが「おっさんずラブ」の人間だよ?
仕事で胃を壊し、腰を痛め、不眠症になり、食事もろくにとれなくなった友人を、見事に回復させたのが「春田と牧がいるおっさんずラブ」だった。
え〜と、え〜と・・・「結婚できない男」も続編でたよね、あべちゃんと相手役のひとの恋愛は破綻してたけど…とも言えるはずがない。
「結婚できない男」は2006年に放送され、13年たってから続編をつくられた。ドラマの世界も、第1シリーズの13年後が舞台になっていた。
おっさんずラブの猶予はわずか1ヵ月あまりだった。成人して馬車馬のように働き出して数年がたち、日々時間が過ぎ去っていくスピードを感じている中の「1ヵ月」なんて、体感1週間ぐらいじゃん。置き引きじゃん。ちょっと目を離した隙にってやつじゃん。
前日に、2人がペアリングしている写真を掲載して「2人の幸せがずっと続きますように」とかいうフォーエバーラブポエムのせておいて、次の日こんなことする????クソの2コマ落ちか。
次に公式が起こした行動は、ツイッターアカウントの改装だった。アイコンと名前も、新シリーズ仕様になった。牧くんがいた天空不動産編の映画は公開中なのに。
普通は新作用のアカウントをつくり、そこで新しいファンや今までのファンへ情報を届けるべきではないのか。
ふと公式を覗くと、公式のツイートに対して「アカウントを分けてください」といった要望のリプライが多数つき、ツイッターでは「#牧凌太」がトレンドに上がった。
その影響を受けてか、公式アカウントはアイコンをタイトルロゴだけのものに変更した。でも名前に入れられた「✈️」はそのままだった。
ひどい仕打ちにショックを受けた友人は公式のツイッターをブロックした。
それと入れ替わるように、私は公式をフォローして過去の情報を遡り、ツイートを逐一チェックするようになった。
友人が楽しみにしていた劇場版のオフショットの情報が流れているのをみて、「あれ、牧くんの写真が全然投稿されないな」と気づいた。
私と同じようなことを考えている人もおり、「朝ドラの契約の関係で」「無断転載対策で」と様々な憶測が飛び交うなか、劇場版のオフショをツイートするたびにくっつく「牧くんは?」に声に懲りたのか、牧くんのちっさい後ろ姿の写真が掲載された。エッ・・・。
後ろ姿であろうが小さかろうが契約は契約で、ここで「朝ドラの契約で写真を掲載できない」という憶測が潰され、性格が悪い私は「新作をゴリ押すためにわざと牧くんを出さないようにしているのでは」と考え始めた・・・。
世界線が違うとはいえ、元カレの存在は危険すぎる、牧くんの存在をチラつかせればうるさいファンたちがキレはじめる・・・。だから牧君を消し・・・?いいや、オタクの悪い癖だよ、自分の都合のいいことばかり考えるのは・・・。そう思っていた。
おっさんずラブのシーズン1で存在した上司・黒澤のインスタグラムが消えた。
正確には、投稿していたシーズン1の記事だけが消えた。そのインスタグラムは、作中と同じく黒澤が「春田を隠し撮りした写真を公開している」程で運営されている、公式のオフショットアカウントだった。
こちらもシーズン2が発表されるや否や、機長・黒澤の投稿がされた。Twitterと同じく、前と同じアカウントで運営されるのかとフォローを外し項垂れていた友人の姿を覚えていた。それが一ヶ月後に突然シーズン1の記事だけ削除されたのだ。
非表示にされているだけなので、あとでアーカイブされるかもみたいな希望的観測はもうない。その空になったインスタグラムに、つぎつぎに投稿が行われ、新シリーズの登場人物たちの写真が並んでいる。埋めるように。今までを。誰かを。何かを。
それではまるで、フォロワー数だけ引き継ぎたい、シーズン1はもういらないと言われているかのようだ。
どうしてこんなことをするんだろうと心から思う。
友人の身に起こったショッキングな出来事をどうにか説明しようと思ったのに、途中から私だけが先行してブチギレている文章になってしまった・・・・。
アカウントの運営には仕事上の様々な理由があるかもしれないが、なんの説明もなく、こんなことをされた側はたまったもんじゃない。
公式は発表できない事情があって…契約のタイミングがあって…をいったところで、公式がなにも言わない限りは憶測の域をでないし、
好きなものに関わっている人間が「自分にとって嫌な人間であってほしくない」という希望的観測が働いているのではとも思う。
真実はどうであれ、「アカウントを塗りつぶして、過去の記事を消した」のは変わらない事実だ。
写真や記事が消えても、春田と牧、天空不動産のみんなの物語はなかったことにはならないけれど、もっと他の終わり方を用意してほしかった。
楽しかった、嬉しかった、最高だった、大好き!・・・そして次訪れるかもしれない「おっさんずラブ」の存在を心待ちにしていたかった。
昨日はドラマシーズン1に登場する武川さんの誕生日だった。お祝いの言葉はなかった。
そして今日は牧くんの誕生日。公式は明日から始まる私と友人のしらない「おっさんずラブ」の新しいビジュアルを宣伝していた。
知らないドラマ、知らない登場人物たち、知らない黒澤、そして知らない春田・・・。
お昼にトレンドにあがった「#牧凌太誕生祭2019 」を見て、牧くんを好きな人がこんなにもいるんだと、それがわかっただけでも良かった。
「春田と牧くんじゃなきゃ嫌だ!」好きなものをずっと好きでいたかったのは、私のわがままでしかない。公式はそんなこと、知ったことではない。
友人が、そして私が春田と牧くんを愛したと同じように、明日から始まる新しいおっさんずラブを、空で生まれるピュアなラブストーリーを愛する人が生まれるだろう。
だが、これだけは覚えていて欲しい。
次は、
あなたの番です。
どこにも吐き出せる場所がないのでここに書く。
※前提として、私はハイローシリーズのファンではない。初めて触れただけのにわかである。多々間違ってる部分があったとしても、お手柔らかにお願いしたい…
さて。私は根っからの隠キャである。学生時代はカースト下位で、休み時間には教室の隅でオタク仲間とお絵描きしていたタイプの人間だ。
E○ILEみたいな眩しい音楽を聴いていたのはどちらかと言えばカースト上位のグループだった。休み時間はファッション誌片手に化粧を直しながら、カレシと携帯で連絡を取り合うような。そういう我々とは違う人種の為のカルチャーなのだと思い込んでいた。
社会人になってからもやはり偏見は拭えず、たまにテレビやSNS等で宣伝を見掛ける事はあっても、きっと自分には一生関係のないジャンルだろうなとスルーしていた。音楽も映画も、である。
…その筈だった。
https://high-low.jp/sp/movies/theworst/
…まぁ、お察しである。
めちゃくちゃに高そうなどこかのブランド物を纏った顔のいいヤンチャ男達に混ざって、
・黒髪
・真ん中分け
・眼鏡
・学ラン(白シャツin)
という、オタク大好き要素全部載せ特盛り!!な男がいるのである。
一目見た瞬間に早くも気の狂った私は、昼休憩中の職場一体に響いたであろう奇声をおにぎりでどうにか相殺し、劇場を探した。あった。幸いにも定時で上がれば余裕で行ける。すぐさまチケットを買った。こういう時の瞬発力だけはチーター並みにある。いや、盛った。
・轟洋介の破壊力
もう、これに尽きる。
こういうの大好き。完敗。オタクが大好きな要素全部載せお子様ランチどころかフレンチのフルコースだった。
見たまま一匹狼で最強の轟が自分には唯一無かった物を得ていく過程に、謎の母性を発揮しそうになった。そして眼帯は凶器。眼科から出て来た時のちょっぴり嬉しそうな顔を見ながら、内心こちらは少しだけ残念でした。すみません。そして何度も大事な場面で空気を読まずに疑問を素直に口にしちゃう可愛さ。皆スルーしないで!!逆に張り切って説明している時の彼は実に生き生きとしていて、見た目を裏切らないなと思いました。
(ここまで一息で喋るオタク
小田島は… なんだろうな?!
彼の出番は正直言ってそこまで多い訳じゃない。それなのに、映る度に目玉を持っていかれる。心臓も持って行かれる。
二次元から出て来たとかそんなレベルじゃない。100%作画神回。金髪ポンパドールにまんまるなサングラス、「およよ〜?」「やーっておしまい」が許される男子高校生ってなんだ。その見た目で熱い。仲間が倒れてれば「救急車ァ!」の叫びを上げ、本気の抗争ともなればオシャレな私服から伝統の制服を羽織ったスタイルになり、同学校の先輩の喧嘩口上を積極的に引き継ぐ熱い男。頭もキレる参謀役。前述の彼とは違って充分すぎるくらいに空気も読める。同校で共に四天王に君臨する幼馴染もいる。
何より狡いのは、この2人をまとめて視野に収めるチャンスが何度もある。何故。目玉が足りない!!!
念の為言っておくと、私自身は腐にはあまり興味がない。それでもこの2人が並んだ図の良さに3回は死んだ。新手の宗教画か?
そしてこの2人にボコボコに殴られた上に、視野の外から渾身のストレートを決めて来た男がいた。
なんで誰も教えてくれなかったの!!!
(あとで知ったのですがシリーズ通して普通に人気キャラなんですね。ノーガードで行った私が悪い。)
番長。轟が何とか越えようとしている最大のライバルであり、校内じゃ比類なきレベルの化け物のような戦闘力の男。…なのに、ぽわぽわの柴犬みたいな男… えっ?
と思えば、轟の中に昔の自分を見出してどうにか導こうとしてみせたり、彼らのプライドを潰さない形で裏から手を回して確実にサポートしてみせたり。
いい先輩!!!!
そして鳳仙の頭もいい上司のお手本のような素晴らしい男でした。彼に関しては何喋ってもネタバレになりそうなので割愛。とにかく顔がいい。熱い。そして腰が細い。
そんな四方八方から殴られながら5回鑑賞して、ようやく少しだけ冷静に見直せたのでここに加筆。
・初見に優しい
ジャム男(おじさんじゃないよ)という案内役のようなキャラが事細かに注釈を入れてくれる。シリーズを観てなくても1回目から楽しめた。あとから履修すると更に深く噛み締められるので二度楽しい。結局2回行く。
・E○ILEもファンもこわくない
怖くない(当たり前
・好感の持てる構図
高校生vs高校生、大人vs大人に上手くまとめていくのが良かった。これが決闘の流儀というやつなんだろうか。よくある主人公の戦闘力スーパーインフレ展開にはならない。それぞれのキャラに見せ場を作って、きちんと威厳を持たせたまま終わる。皆が収まるべきところへ収まる。そこは陽キャの作った映画だなと思った。勿論、いい意味である。私の普段観るアニメや漫画はすぐ人が死ぬ。皆死ぬ。それはそれでいい。
※ハイローシリーズにも悲劇はあると聞いて後日観たら本当に地獄だったので、ザワが例外的なレベルでハッピー映画だったようです。それはそれでいい!!
さぁ。公開している内に劇場で!!
回し者ではないけれど、あの格ゲー張りのアクションとカメラ回し、各キャラに合わせた爆音の音楽、そして顔のいい男たち。その全部を映画館で浴びるこの快感を、別の誰かにも味わって欲しい。
30数年の偏見をぶち壊してくれたザワに感謝しながら、次回は生まれて初めての応援上映にチャレンジする。チケットは買ってしまった。もう戻れない。楽しい。
別に「俺は苦手なBLだって我慢してやってるんだぞ」みたいな上から目線じゃなく、俺自身がBL好きで、「BL好きな男なんているわけねー」という言説が嫌いで、BL叩きが嫌いで、女性のためでもなんでもなく俺自身のために、100%個人的な理由で、BL叩きに反対してきたこととか全部無視して、ただ男性オタクというだけで「おまえら」と呼ばれて一括りにされるんだからこの世は世知辛い。
ちなみに同級生はレンタルして見ました。本当に良かった。名作。劇場にも見に行きたかったというか、兄と一緒に「見に行きたいねー」って話もしてたんだけど、行かなかったな。そういうの、男性が見に行くとさぁ、それも兄弟でとかさぁ、まあ察してくれ。
ちょっと信じがたい誤解釈というか、ほとんどイチャモン感のある感想があったので、ツッコミを自分のツリーに下げておく。
私は元増田だ。
この人のブログは何度か読んでいる。面白く読ませてもらっている。
その人がこんなにも偏ったというか、ほとんど被害妄想では???という感想を書いてアップしていることに、ちょっと背筋が寒くなっている。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」
作中で3人のエリート酔っ払いを射殺した件でニュースに出ていたトーマス・ウェインとおんなじようなこと言うてはる。
嘘やろ。あんなおもろいブログ書く人が。こんなにものが見えてへんようなこと言うものなのか。釣りか?
アーサーが父親に夢を見ているというのはある。あるが、所詮空想の範疇であって(それこそ彼の「母親」のように)病的妄想に駆られているわけではない。
後半で自分で言ってたように、彼はただ温かいハグや親しみの笑みをもって自分を受け入れてくれる存在として父親を欲しがっていただけだ。
だからランディから銃を受け取ってしまったのだ。"My son"とかなんとか言って本気で心配してるみたいなそぶりをしてくれたから。
パンフだったかWikipediaだったかによれば、あいつは実際にはものを深く考えてるように見せたいだけで大して後先考えないタイプで、
だからこそ雇い主に対してアーサーを売っちまい、のちの怨みを買うことになるのだが。
ランディといえば例の銃だが、多くのブログや記事で「小児病棟に銃を持ち込んだアーサーの自業自得」という評価を読んだ。
確かにアレはアーサーの失敗ではあったが、小児病棟に銃を持ち込むこと自体はそこまで責められることかどうか、個人的にはずっと疑問に思っている。
だって普通に通りで仕事してるだけで看板かっぱらわれて殴る蹴るされるんだぞ?
そしてその後に「自衛のため、自己防衛のため」といって銃を渡されるんだぞ?
持ち歩くのが当然だろうが。
アーサーが迂闊だったのはあの時あの場面でポロリしたことであって、
ピエロアクトを始める前にカバンにでもしまっときゃ良かったのにという一点だけだ。
そして発達の私としては、物が銃でなく場面が小児病棟でないだけで、
そういう不注意で細かいドジを踏む機会というのは日常では無数にある。
無数にあるからこそ、私は、銃で小児病棟というシチュエーションがそもそも発生しないように、
いろいろと立ち回ったり細かい工夫でしのいだりしている。
それらは今のところ実っている。
実っているが、なぜ実ったかというと、もうこんなの「運」でしかない。
そんなの私には責められない。
責められないから余計やるせないんだ。
大事なところに限ってやらかすタイプの、クビになって当然の、笑えないミス。
ああ、件の感想記事が、読み返せば読み返すほど恐ろしくて仕方がない。
ジョーカー観てきたとあるけれど、目に入ってなかったのでは?というほど誤読(誤観、か?)が多い。
アーサーはその上司を許さない。自分をあざわらう裕福な奴らも許さない。自分の「パパ」じゃなかった有名人も許さない。殺す。バッキュンバッキュンに殺す。そしてジョーカーになる。
アーサーは上司を殺していない。
殺したのは自分に銃をよこしたランディ、銃をくれたくせに我関せずで貫いてアーサーを裏切ったランディだ。
アーサーは笑われたから裕福な奴らを殺したんじゃない。
例の殴る蹴るをおっぱじめられたから殺したんだ。
そしてアーサーが殺したマーレイは、アーサーのスベり倒したライブの映像を彼に無断でテレビ放送し、更にスタジオに呼びさえした。彼を笑い者にするために。
そして、これは私の持論だが、アーサーはジョーカーになってないし、なれないだろやっぱり。あれら全てが事実なら。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに」。
そもそもアーサーに限っては、これは完全にその通りではないか?
幼少期に母親の恋人から虐待を受け、脳及び神経系に外傷を負った。
これさえなければ、もっと違ったルートもありえたんじゃないか、というのは、そんなに高望みだろうか?
アーサーは大人になった今も、日記で割としょうもない初歩スペルを誤字っている(「下ネタは、いづも、ウケる」)。
アーサーはピエロという「笑うのも仕事のうちだろう?by刑事」な仕事に就いている今でさえ、
「お前のことを嫌がる奴もいる。気味が悪いからだby冒頭のピエロ業ボス」。
ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。
他の仕事、あったんかな?
でも、ラミネートカード戻って来んかったんやで、ゴッサムでは(←確かめるためもあって2回観た)
アーサーが徹底して受動的、「りんご食って寝てる白雪姫」なのは、三分の一くらいは肯定できるが、でもやっぱり悪意ある評価に思える。
まずアーサーはマジでかなり受動的ではあって、例えばコメディアンになりたいという夢自体、母が「人を笑顔にさせる人間になりなさい」と言ったから、という以上の動機はない。
その母の台詞も、おそらく「発作」へのフォローかはたまた「発作」等々に端を発するイジメを受けたアーサーへのフォローに過ぎず、母自身アーサーがコメディアンになれるとは思ってないぽい(入浴介助時「あなた、ちゃんと人を笑わせられる?」)。
もうなんていうか、こんなの呪いに等しい。
もちろん「普通は」これを呪いとは受け取らない。呪いと呼ぶには弱すぎる。
でもアーサーは呪われてしまう、その「将来の夢」にすがってしまう。脳の外傷のせいか、アーサー自身に素質があったのか?それはわからない。
アーサーの、あの受動性。ものを判断するときや、自分でその場で考えて何かするときの、微妙な、ちょっとボンヤリとした感じ。
あれと「発作」のコンボがジョーカールートへのかなり決定的なフラグであるってのはあると思う。アーサーが状況を変えることをものすごく難しくしている。
でも、じゃあ例えば受動態人間であるってことをアーサーが自分で変えられるかっていうと、どう考えてもひとりでは無理で(能動的な生き方の受け皿どころかモデルすらない状況だもの)、というか脳外傷から来るものなら誰がいても無理で、あーこれフラグ折れんわー、ツムツムだなあ、となってしまう。みんな病気が悪いんや。病気と虐待が。
まあそれはそれとしても、アーサーは「与えられる側でなければ気が済まない」んじゃない。気が済むとか済まないの問題じゃないだろう。
そもそもあの状態で、母親の介護放り出して家出してどうする??
メシ風呂が自力不可で「みんなが言ってるって、みんなって誰さ。今日誰と会話したの?」言われるくらい孤立してる母親、
郵便ポストを見に行けない母親をひとり置き去りにしたら逮捕されない??保護者責任遺棄的なやつで。
家出したあと住むところは?
あのエレベーターのイカれたボロ家以外にどっかある??アーサーに貸してもらえる???
それと女を口説くことをそんな冒険ポイントみたいに言いなさんなよ…そういうのもう流行んないんじゃないの。
それにアーサー最大の冒険をカウントしないのはフェアじゃない。
コメディアンとして舞台に立ったじゃないか。ネタ帳携えてでも、妄想に後押しされてでも。
母の話の裏付けを取ろうと、ウェイン邸にもデモ会場の劇場にも病院にも行った(どこまで妄想かはともかく)。結構行動している。
これがアーサーをしてジョーカーに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。彼らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。
もうこの辺に至っては被害妄想入ってませんかね。飛躍がすごくてどうしてそうなった、みたいな話になってるというか。
アーサーが欲しがっていた素晴らしいものというのは、大衆からの賞賛もあるが、最大のものは愛だろう。アホみたいな結論になるが。
愛。親しさ。笑われないこと。爪弾きにされないこと。受け入れられること。その象徴としての賞賛。
一応言っとくけど、「この人に怒りをぶつける人々が欲しがっているもの」が愛だといいたいのではない。そんなことは知らない。
このツリーでは基本ジョーカーあるいはアーサーの話をしているんであって、賞賛が欲しくてネットで他人に突然キレる人のことはわからない。
ああ、それにしても。
確かに、怖い。怖いですわ、これは。
新海誠が押井守にクラスチェンジして、ワーナーブラザースが期待した攻殻機動隊の続編や似たような売れ線の物ではなく、誰も買わない売れない劇場にも足を運ばない、スカイクロラだとか天使の卵みたいなアングラでドロッドロのゴミばかり量産して、見切られたら弟子がre:サイボーグとかサイボーグ009対デビルマンみたいな、もっとすさまじいゴミを量産し始める。
新海監督はNTR属性と願望が強過ぎるので、幼馴染が東京に行っても大好きで、高校大学就職後も別の男と恋愛体験や性体験をタップリ済ませて、自分以外の男と何度も結ばれて別れて、都会の無縁社会とかパワハラセクハラレイプ被害にもあって、何なら男の幼馴染と幼馴染が結ばれていたり、離婚したり結婚前に家族計画に失敗して水子の霊がついたマジキズモノになった後で、「どれだけ汚れようとも、最後にワシの横におればよい」と言う、拳王様ぐらいの男前な恋愛観と価値観で、幼馴染の最期の男になろうとする話を作って、秒速とか約束の場所みたいに視聴者からドン引きされて最高に気持ち悪いNTRを劇場公開してしまい、以前の作品のようにキモすぎて見向きもされなくなる。