はてなキーワード: エンパシーとは
30歳だけどさいきんになって、「この人、恋人...!」と呼べる恋人ができた。今の相手にもかかわらず感情が表に出ない人間だというのが自分に対する周囲の人間からの評価で、あまり惚れた腫れたに縁がなかった。羨ましいというよか、同調圧力の方が重かった。そんなんで30年間で経験したのが分離して二つで、完全なプラトニックラブ(あっても握手程度)と恋愛いっさい抜きの身体関係だった。それら両方をコンボにするとこういう現象が起こるのかー、恋愛とはこんなものなのかっていう概要がつかめてきた。気がする。まとめるとこんなん
前者は平たくいうとこの「ワタシの知らないワタシ」というやつ。セックスにおける関係性のせいで自分はS寄りなんだろうって勝手に思い込んでいた。しかし体の大きさのハンディでそうなってるだけなのであったことに気づいた。今の恋人にいじめられたり、イジられると嬉しくなってる自分がいる。関わる人間によって鏡写しのように反応を変わっていゆく人間っていう生物のサガが面白い。
後者は他人に接触されることにより、自分の身体の造形を知る。毎日毎日30年間フロで自分の体を洗い続けてるのに、だ。自分以外の手、また他の部位によって自分の体の皮膚の性質と柔軟性と温度について知ることとなる。自分の身体で生活していたはずだったが、新しく彫刻されたような自分の体の姿かたちをreconizeする。オキシトシンも分泌される。また、たぶんエンパシーと呼ぶやつだろうか。自分には足りなかったり持っていない体の部位の事を考え始めるのが異性間交流なのだろう。
この二つは足し算ではなくて、恋愛という関係性においては掛け算になるようだ。信頼関係のある人間同士が濃厚接触すると一種、背徳感のような感覚も芽生える。
社会的接触によって、他社の眼鏡から見た自分を知ることとなるためアイデンティティの解像度が上がり、身体的接触を通じて相手の感覚について思いをはせるようになり、抽象的思考が育まれる。
ツイートではなくて、こうちゃんとした一つの感想文?としてまとめようとすると前置きとかいい感じのまとめとか必要で、いきなり書きたいところだけ書くわけにはいかず大変だった。あと携帯で長文書くの疲れる。みんなどうやって長い文書いてんだ。そんなわけで構成が雑で尻切れトンボ気味ですが許してください。ほんとひどい文章なのでいたたまれなくなったら消します
東大全共闘と三島の討論のドキュメンタリーを見て三島に強く共感したという話をする。内容の細かい解説はしない。プライムビデオにあったんで見てください。youtubeにTBSが上げてるやつはもっとコンパクト。
まず、三島が議論の冒頭からいきなり始める「エロティシズム」について共有しておきたい。これはサルトルのいう「猥褻」という概念から引っ張ってきたもので、いわゆる一般的な性的衝動というよりも衰弱したもの、無気力なものを指している。他者をオブジェとして捉え、他者が予測不可能であること、操作不可能であること、転じて「人間であること」を認めない態度。
文脈的に良いか悪いかといえば今回は悪いものとして使われてる言葉。
「他者を物体視するエロティシズムというのは、自と他が関係している状態とは違う。関係に入るということはすなわちそこに対立があり闘いがあるということ」と、三島はこの猥褻さを批判しており、暴力にはむしろ人間的な関係性がある、と学生に共感のポーズを見せる。議論の出だしにこう語ることで私は君らを頭ごなしに批判しにきたんじゃないよと言いたいのだ。
つづけて、そのようにエロティシズムを批判しつつも三島は「かつては小説家としてただエロティックにのみ世界と関わろうと願っていた」と言う。
この部分を聞いて、それがまさにいま自分(筆者)がいる次元なのだと気づいた。
振り返ってみるとどうも自分は人と関係するということにいい思い出がなく、関係が強いものであればあるほどその相手といるときの自分が「本来の自分」でない気がしてしまう。(実際、関係から開放されると安らぎを感じる) そして世界がコントロール不可能であることも常にストレスだ。電車はダイヤじゃなくて自分の都合に合わせて走ってほしい、映画も自分の見たい時間に始まってほしい、人の生活音が鳴るときはまず断りを入れてほしい。自分のこうしたストレスの根底にあるのは「自分が世界にフィットしていない」ことを見せつけられることへの恐怖だ。
エロティシズムとは違う気がするが、似たような傾向自覚されてないだけで多くの人間が共有するものだ。(エロティシズム以外の名前を当てようとしばらく考えたけど思いつかなかった)
インターネットを見ていると昨今は「思想のトレンド化」が激しく、日々流行りの服を着替えるように思想のトレンドを着替えて「遅れたことを言っている人」にならないよう皆必死こいている(一年前まで「男女間に友情はありえない」としたり顔で言っていた人間が今年はしれっとLGBTQを擁護するツイートをリツイートしている、みたいなのを何回も見た。もう少し意地張れよ、そんなんだから差別主義者に思想の借り物感を見抜かれるんだよ、と思う)。
つまるところこれは自分の「主観」に落ち着くことへの恐れであり、世界を三人称で見たいという欲求とも言い換えられる。たった数年前までもてはやされた育メンという言葉はもはや一種の差別用語、下手にフラットな思想の持ち主を気取りそんな単語を口に出そうものなら冷ややかな目を向けられる。このスピード感の中で誰が自分の主観にこだわりたいと思うだろうか。人の思想を借りて乗り換える、主観は持たず三人称だけを持つ、それが一番楽なのだ。こうして人々はエロティシズムに走る。
三島曰くこうした猥褻な世界観に欠けているのは他者との関わりであり、それを生むのが「意地」である。
「(エロティシズム的な世界との関わりを捨て)どうしても一つの関係に入りたくなっていった。それが当然対立を生むことになって、対立が他者というもののイリュージョンを作っていかざるを得ない。それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたのです」
三島はここではっきりと「敵にすることに決めた」と言っている。
そう、三島にとって共産主義は敵にしないこともできた存在だったし、事実かつてはそうしてきたのだ。しかし三島は自分で選ぶことによって共産主義という敵を作り、それにより世界と関係を持った。
ここを踏まえれば三島がこの討論の間ずっと楽しそうなのも頷ける。立場の違いは本質的なものではないということをあの場で三島だけが知っていたからだ。三島は自分の思想を作品として表現するだけではなく、生の対立の中に身を置かないと気が済まなかったのだ。このへんをよくわかってない全共闘の芥は「作品は自立空間だ。三島がこんなところにデマゴーゴスを披露しに来てるのは三島が敗北している証だ」と言い返しているが、三島に言わせれば作品を発表するだけ、一瞬しか続かない解放区を作るだけで満足しているのはエロティシズムに過ぎない。(が、三島は彼を論破しに来たわけではないので強いてそこを芥に認めさせようとはしない。)
右翼だ左翼だに結局「論理的着地点」などありえないし、あり得たところでそれは本当に世界と関わっているのか?と言われるだろう。少なくとも机をバリケードにしたことが実際に世界になんの革命をもたらしたのかといえば、机が汚れただけである。内容が即形態であり形態が即内容である活動は他者を必要としないので自己完結で終わる。
脱線するが、途中で芥にヤジを飛ばしてちょろっと喋りに来る学生が「現実的な実在的社会的諸関係が先行する、それをお前は無視している」とめちゃくちゃセンスのない言い回しで(全体的にこのときの全共闘の言葉選びはセンスがない)芥の論を批判するが、これが「その関係を切れっつってんだよ!」という芥だけでなく、三島にも苦笑で流されてるのは「関係が現実にあり、それが自らに先行する」というかなりナイーブな決めつけをしてしまっているからではないかと思う。三島の考える関係とはあくまで自らが選んで作る「イリュージョン」だから。
右翼と左翼に本質的な違いはないし論理的な決着もつかないという話に戻る。
これは三島が言っていることではないのだが、つまるところ論理も「意地」の道具でしかないのだと思う。
論理が無力だとは決して言わない、しかし論理は使い手に媚びる性質があるのだ。
三島は途中、珍しく自分のノスタルジー全開で天皇に腕時計を授与されたエピソードを話す。その時の天皇の姿が自分にいかに立派に見えたかを三島は強調しており、またそれが個人的な経験であることも認めている。
三島はこの経験が彼の愛国主義、つまり「意地」の原点なのだと考えていた。
それは自分の個人的な体験や世界と繋がりたいという欲求の唯一無二の現れ方なのである、だから変えられない、と。
その意地>論理という三島のイデオロギーがはっきりと現れたのが以下の箇所。
「僕は論理の通りに行動しようと思ってない。つまり意地だ。もうね、ここまで来たらもう意地だ。」
このとき、東大の学生の間には「論理捨てるって宣言しやがったよこいつ笑 もう負けたなw」というニュアンスと思われる笑いが起きている。
ここで東大の学生はこの日の討論における自分たちの勝利、三島の完全な敗北を確信したのだろう。そして三島は翌年に切腹した。
しかし、あれから50年経った今日、やはり正しかったのは三島だったのではないかという気がしてくるのだ。
テン年代では没落していたひろゆきが今、ネットの神様から論破の神様として転生している現象にそれが現れている。ひろゆきは「善」という概念を持ち出さない。善は常に主観的だからだ。倫理的にいいかどうかは置いといて論理的にはこうでしょ?、というのがひろゆきの基本スタイル。
この「判断の放棄」はまさに三島が再三述べてきた「他者の物体化」「エロティシズム」にほかならない。
彼を崇拝する現代のネットは、かつてないほどにエロティシズムな世界観を求めているのだ。
ひろゆきが曖昧だと一笑に付す善には、ただし、こんな側面もある。
「善、っていうのは、突き詰めれば『ある何かの価値観を持続させる』ための意志なんだよ」
ちなみに小説ではこの「善」は人間の本性に反する歪な概念として批判的に扱われていた。人間とは本来気まぐれな有限の存在であると。
しかし三島はこの本性に逆らうこと、持続させようという意志にこそ真の人間らしさがあると考えた。
ひろゆきに批判的な態度を保ちつつも彼の動画を見た多くの人はこう言う。
この「だけど…」という違和感を生んでいるのが聞き手の「意地」であり「善を持続させようとする意志」なのだ。それは正しいかもしれない、だけど認めたくはない。そう、「正しい」からと言って認めなければいけないわけではないのだ。先程も言ったように論理は使い手に媚びる(論理学の人にめちゃくちゃ怒られそうな仮定ですが…論理とは一つの信仰体系なのです)。とすれば数十年後には真逆のことを論理的に説明する人間がいてもおかしくない。
多くの人が誤解しているが、論理は常に偏見という土台の上に立っていて、論理を積み上げることよりもその土台を見直すことのほうがよほど難しいのだ。
ひろゆきみたいなタイプは「人を言い負かしたい」という「意地=土台」が最初にあり、その上に論理を積み立てていくから「論破」において強く見えるんだと思う。しかし論破が目的化してその先がないのだ。
ひろゆきは人の欠点は指摘できるが、自分の考える「理想の世界」の話は絶対にしない。そんな意地を持った途端にそれは自分の論の弱点になるから。
ただし、そうして「論破」だけを繰り返した先に何がある?もちろん何もない。仮にひろゆきが提案する通りに世界を運営してみたら、きっとそこに残るのは論理に服従した人間たちの何もない荒野だろう。
「今のは一つの詭弁的な誘いでありまして非常に誘惑的であったけれども、私は共闘を拒否します」
イデオロギーの違いを超えて人間として認め合う、平田オリザが説く「シンパシー(同情)からエンパシー(共感)」という思想がその時、三島と学生たちの間にはあったのだと思う。
三島個人は昭和という時代に生まれ、天皇制に基づいた美しい日本を信奉したためその衰退に殉ずる結果となった。しかしそのイデオロギーと、そこに三島を導いた彼の考え方は別であり、それは単に「敗北した破滅の思想」だとは思えないのだ。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/108967
これ見て思ったことの殴り書きです。
あくまで僕の感想ですが、高校生カップルという存在が持つステータスは以下のようなものがあると思います。
僕は26歳にして彼女がいたことがない終わってる人間なんですが、カップルを見た時にまず抱く感情がこれです。
何か特別な才能が無い限りは、家庭を持って子孫を残して死ぬことが最も多くの人間をたくさん喜ばせられる生き方なので、モテないという問題はQoLの上限を一気に下げます。
言い方を変えると、人生をしくじった人は基本的に親がハズレなような気がします。
「生きてるだけで偉い」という旨の愛情をたくさん受けた人ほどちゃんと他人にそれをおすそ分けできるんですね。
歳を重ねるほど、ここの存在が希少になっていくはずです。
僕も30代になるころには詰んでしまっているんじゃないかと怯えています。
もう死のうと思っている人の前にこれほど人生に有利なステータスを持ってる人が現れたとして、「逃げちゃ駄目だ」と言われたら流石に絶望しますね。
恐らく男性にとって、人生の向き不向きを痛感されられたことでしょう。
正直な話、赤の他人が自殺しようとしているのを止めるメリットが特にありません。
(今回は感謝状を貰ったということで、高校生の2人にはさらに良いステータスが付きましたが。)
死を選ぶ人間にとって法的な善悪などは通用しないので、接触することで自分の身に危険が及ぶことがあります。
また、この男性は事件を起こそうとするでもなく死のうとしていたので、辛うじて他人への危害が無く済むところでした。
高校生が動いたのは、自殺を止めなければ寝覚めが悪いなどといった、割と利己的な動機なんじゃないかなと思います。
これに関して合理的な判断をこの高校生に求めるのは流石に酷だとは思いますが。
また、これが自殺未遂ではなく急病で倒れた人とかがいた時に助けてくれるのもこの高校生みたいな人なんじゃないかという気がしているので、一概に悪く言うことができないです。
めだかボックスみたいな言葉が出てきてしまったのですが、間違いなく男性にとって人生はトータルでマイナスだろうし、高校生にとってはプラスだろうなと思います。
確かに全人類がいろんな苦悩を抱えていてなんぼだとは感じていますが、それをケアしてプラマイゼロもしくはそれ以上に持っていけるかどうかは割と自分の力だけじゃどうにもならないでしょうね。
上手く生きている人にとってはそういった時の依存先が細かく分散できているんですが、環境が悪くて育ち方をミスった人はこういう時に他人をアテにする能力も育ってないと思います。
「生きてりゃ良いことある」っていうのは誰にでも通用するものじゃないんでしょうね。
男性にとって、ただ力ずくで自殺を止められたことは何の救いにもならないはずです。
生かされるのであれば生きたいと思うだけのそれなりの救済が必要だったのですが、「諦めないで」とだけ言われて帰されてしまったんですよね。
のうのうと生きてるだけで責任を持って自分を幸福にしてくれる人が現れるなんて都合の良いことはないです。
僕も、自分の人生を良くできるのは自分自身しかいないんだなと思って血反吐を吐きながら生きています。
この先の人生が良くなる気もしないのになんで生きてるんだろと考えることもあります。
僕はこれだけで男性が心機一転頑張るぞという気持ちになるとは到底思えません。
早ければ帰り道でそのまま自殺してしまったのではないかとすら思います。
最悪のケースだと社会への報復として他人に危害を加えてしまう恐れもありますね。
世の中は生きたい人の方が多いので、こういうニュースで自殺志願者の気持ちにフォーカスが当たることは少ないと思われます。
いかにも高校生が主役で偉くてすごいという視点で語られていますよね。
そして世間が高校生の行いを認めて「正解」としてしまったら、この高校生がこの騒動について顧みる機会ってもう無いんでしょうね。
できれば、もっと生きて色んな経験をした果てにエンパシーを磨いていっていただきたいです。
自分の常識と違う行動をとる人が現れた時に、その人をそうさせる心情や環境について思いを馳せることができると不幸な人が減るんじゃないでしょうかね。
一応言っておくと流石に男性をそのまま死なせることが正解だったとまでは思わないですよ。
教官(エンパシー(empathy)とは、他者の感情を想定し共有すること
自閉症、アスペルガー、サイコパスと共感性の低さに関連があると考えられている
Emotional Intelligence (EI)を測定するテスト(EITest)によって、定量化を行えるらしい
ミラーニューロンシステムとバソプレシンオキシトシンシステムがあやしいらしい
ミラーニューロンは自分と他者の行動の両方で活動する神経細胞で霊長類は持っているみたい
脳内の情報伝達物質で、養育、求愛、きずなの形成に関与するらしい
男女で働き方が違うらしいという話もあり
ある程度は遺伝する模様
複数人のゲノムデータ(ただしゲノムの一部で全体ではない)とEQの関連性を調べて、関連のある場所を探すといくつかの遺伝子がみつかった
「スクールガール・オタクコンプレックス」という新条アカネの生み出した怪獣に、僕は…。 - 1k≒innocence
俺はぼっちだし、コミュ障だし、だからこそ「実はあの子がオタクで、俺と同じ孤独を感じているのなら」と思うときの興奮は分かる。
しかしながら、そうであったとしても、ある一点の理由において、俺には決して新条アカネを好きになれない。
というか、怖い。
そして俺には、「どういうことをしたら彼らが怒るのか」が分からない。それが何より怖い。
うっかり彼らの気に障ることをしてしまい、排斥されることが怖い。
彼らの前では常にビクビクして過ごさざるをえない。
彼女は他者の簡単な行為で気分を損ねる。他者を見限る。沸点が非常に低い。
常に嫌われる恐怖と戦わないといけないような相手を、どうやって好きになれようか。
こんな記事もあった
グリッドマン4話のアカネちゃんが如何に「自分なら彼女のことを誰よりもわかってあげられる」という、オタクの身勝手で柔らかい部分を刺激したか - 根室記念館
こんなに、こんなにも「ここに自分が居たら彼女を喜ばせることができたのに」とオタクの身勝手な妄想を、自分でも、いやオタクな自分だからこそ相手してもらえると勝手に思い込んでしまうヒロインが居ていいのか。
「自分なら彼女を分かってあげられる」? 馬鹿も休み休み言えという気しかしない。
キモオタが彼女に近づいて行ったところで、不潔だとか気持ち悪いとか言ってあっさり怪獣に殺されるのがオチだろう。
(これを書いた彼だってそんなことは分かった上で敢えて目をそらしているのかとは思うが…)
結局のところ、彼女がいくらオタクで孤独であったとしても、いつ俺のことを嫌いになるか分からない以上、決して好きになることなどできるはずがない。
そしてそれはオタクの大部分を占めるだろうコミュ障のお仲間も同様だと思っていたのだが、世間の反応を見る限りそうではなさそうなことが意外でしかない。