はてなキーワード: リハビリとは
最近多いデスゲーム系、理不尽系、胸糞系のドラマや映画を見過ぎて
普通のほんわか感動映画を観ても胸糞展開が来るのではとドキドキしたり
ラスト普通にハッピーエンドになっても(これで終わり…?)と思うようになってしまった。
例としては
・ドラエもんの映画でガチでジャイアンが制裁を受ける(バラバラになって死ぬとか)などありえない展開を予想する
・阪急電車というハートフルな映画で老婆が急に若者にぶん殴られたり幼き頃の芦田愛菜さんが投げ飛ばされるのではないかとビクビクする
・恋愛映画でハッピーエンドなのにエンドロールのあと手を繋ぐ二人をトラックが撥ねたり実は片方が詐欺師だったりするのではないかと思う
など
コロナはインフルエンザ並みとみなして良いんですよね、最前線の沖縄の先生の言うことですからとかワイドショーが結構やってんだけどさ。
基礎疾患があるやつはそもそも基礎疾患持ちなんだから、健康な人のための生活のためには、より一層自衛してもらってとか、
後期高齢者になったら、今いる若者の青春を守るためには、ある程度寿命だと思って、お迎えを静かに待つように心がけようとか、
病院を圧迫しないために、積極的に病院にかかるのを止めよう、いまから家族で話し合っておこうとか、もっと積極的に推して行ってくれよ。
甘いんだよ。あまあま。
深夜帯に自動車で事故ったら、昼間に事故るより後遺症残ったり手術失敗しやすいってのは割と有名だと思うんだけど、いまそれと同じなのよ?
普段ならキミが昼間に車でフツーに運転してて事故って、まあ運悪く救急車で搬送されてICUに入らないといけないとしてさ、4年くらい前なら、まあICU入りしてリハビリして助かってたと思うけど、今死ぬからね。
車運転してて事故ったら、まあ、普通に死ぬと思うよ。だっていまICUとか病室とか、医者も看護師もマンパワーがゴリゴリコロナにかかりっきりだもん。
高齢者が重症化したら死ぬまではベット占有すんだもん。重症化して入院しちゃったら、医者は安楽死させらんないんだから、変に耐えられたら退院できないじゃん。
例えばさ、妊婦ディズニーとか、妊婦の間に温泉旅行~とか、めっちゃ産婦人科医にも評判悪かったけど、まあ今はフツーに死ぬだろうね。自業自得っていうにはまあ、そうりゃそうだけど。
というわけで、コロナ前の生活で青春を取り戻したりフツーに飲みに行ったり車で運転して通勤したりしたい人は、
重症化する奴は元から重症化したら死にやすいんだから自宅で死んでもらう方向でやってもらって、良いって。
健常者で元気なやつが事故った時のためのベッドを空けてといてもらう方向行かないと、コロナ前の生活には戻れないから。もっとTwitterとかワイドショーとかに世論誘導してもらって!
──「富野由悠季の世界」展を拝見して、富野由悠季監督のキャリアをあらためて振り返っていただくと、ご自身でも言及されているように『機動戦士Vガンダム』以降のお仕事はフェーズが変わったのではないかと感じられます。それまでほぼ毎年のようにオリジナルアニメの新作を手掛けていた富野監督が、新作から数年遠ざかり、久々に発表された作品が『ブレンパワード』でした。ガンダムシリーズから新たな路線に踏み出したのは、何がきっかけだったのでしょうか。
富野:『ガンダム』を20年近くやってきて、はっきりと行き詰まりを感じました。行き詰まりを感じた一番の理由が「ニュータイプ論みたいなものを立ち上げておきながら、それをハウツーとして示すことができなかったこと」です。『ガンダム』をやっているうちに冷戦は終わったのだけれども、じゃあ冷戦が終わったからと言って世界中がまとまっていくかというと、まとまってはいかなかった。具体的に言うと、それぞれ主要国家のトップにいる人物たちが、必ずしもニュータイプ志向を持ってる人ではなかったという現実を突き付けられたからです。それで挫折するしかなかったということです。
だからもう『ガンダム』をやっていられないと思った。あと、『ガンダム』は構造だけで見ると、旧来の戦記物に則っているわけだから、戦記物ができる人や好きな人に任せれば良いと思いました。20年くらいやってきて、戦記物はやっぱり体力的に若くなければできないということもあって、年を取ってから戦記物をフォローしていくには、古代史を扱うような歴史的な学識を持つ必要があるということが分かってきた。そこでどうしようかなと考えたときに『ブレンパワード』に行きついたということがあります。
――今、富野監督は「ニュータイプ論のハウツーが確立しなかった」ことに挫折を感じたとおっしゃいました。富野監督は人々の多くをニュータイプにしたかったということなのでしょうか。
富野:いや、多くの人だけではありません。人類そのものがニュータイプにならないと、これ以後一万年という単位で人類は存続しない、人類を存続させるためには人の革新……というよりも、社会の革新をしなければならないんだと考えています。ですから、総体がニュータイプにならなければいけないということです。
――富野監督はガンダムシリーズでニュータイプを新しい感覚を持つ人類として描いています。劇中では、ときには距離や時間を超えてさまざまなことを感知したり、意思疎通をしたりする。具体的にはどんな人間の到来を期待していたのでしょうか。
富野:それについては、実はこの数年で具体的にニュータイプが現われたということが分かりました。
――なんと…! それはどんな人なのでしょうか。
富野:将棋の藤井聡太竜王とか大谷翔平選手です。将棋も野球の世界も勝負事です。何億通りの手がある中で、藤井竜王は勝つ手を選ぶことができる。僕は将棋のことがまったくわからないけれど、「この人がニュータイプなんだ」ということがわかった。それに気づかせてくれたのは先代の竜王であり、永世七冠である羽生善治さんの言葉です。羽生さんは、藤井竜王のことを「自分があまり見たことのない局面でも対応力というか、適応力みたいなものが高い」と評していまする。天才が、新たに現われた天才のことを評価しているんですよ。
大谷選手は大手術を受けた後でも基本的な身体のケアをつづけ、社会人としての基本としての勉強をつづけています。しかも壁を相手に投球練習は毎日つづけている!! 彼のスポーツマンとしての基礎の積み上げこそニュータイプ的と言えます。時代の移り変わりとともに、レベルの違う才能と人物が出てくるんだと感じられる好例です。ほかにも、工学の部分でも蒙が啓かれるような事例を承知しています。それは電動航空機の開発です。まだ決して大型機ではないのだけれど、それがすでに開発されているということは、僕のような世代にとってはもう腰が抜けるような事例でした(2018年7月、JAXA、航空系企業、電機系企業、経産省が航空機電動化コンソーシアムを設立)。工学や電気関係では、そういうことが起きている。そういう開発者たちは30代や40代だろうと思うけれど、彼らのような人たちに続く若い世代は、さらに違うものを作ってくれるでしょう。
――新しい想像力を持った人たちが、新しい時代を切り開く。富野監督が待ち望んでいたのはそういう方々だったんですね。
富野:藤井聡太竜王や大谷選手を見ていると、ギトギトしていないでしょう(笑)。ギトギトした人間が何億人もいたら、地球が潰れていくんです。ニュータイプにならなければ、地球は保全できないという考え方は、つまりそういうことです。おそらく、あらゆるジャンルの新進、若手の世代はこういう人たちがいるだろうと思います。僕がとくに想定しているのは現代のコロナ禍を経た、現在5歳や6歳の子どもたちです。免疫学的にも、彼らの中からニュータイプが出てくるのではないか。そういうふうに期待をしています。
『ブレンパワード』以降は、「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなった
――『ブレンパワード』についてもう少しお聞かせください。『ブレンパワード』の制作前は、ニュータイプにたどり着けなかった挫折感があったということですが、その中で富野監督が『ブレンパワード』にたどり着いたのは、どんなことがきっかけになったのでしょうか。
富野:挫折感から、僕は鬱病を患ってしまって、一年近くほとんど外に出られなかったんです。そこからリハビリをしていく中で、何を考えるかというと「なんで人間は鬱になるのか」ということでした。そこでたどり着いた答えは、健全、つまり普通の生活をしないと鬱になってしまうんだということです。それだけのことだと思ったんです。この健全とは何かというと、自分ひとりだけの問題じゃなくて、親子関係、子どもから両親がどう見えているか、周囲の人間関係も含めてのことです。普通であるということ。そういう当たり前の環境を維持するということ、それが人の暮らしにとって一番大事なんだということがわかった。
そのときに企画していた作品のタイトルが『ブレンパワード』だった。ブレーンという言葉を使うことで、知的な方向に行こうと思っていたんだけど、「いや、そうじゃないんだ」と。知的な回路を形成するためには、当たり前の健全な生活をしていないとやっていけないんだとわかった。じゃあ、その最もシンプルな話、つまり親子の関係を正面切ってやってやる、と思ったわけです。それで主人公たちの家庭環境(主人公の伊佐未勇とクインシィ・イッサーの姉弟は、研究者である父母から顧みられなかった)やジョナサン(・グレーン)みたいなキャラクター(優のライバル。ジョナサンは母のアノーアに屈折した愛情を抱いている)ができあがったんです。だから、東京が水浸しになっている、みたいな話がやりたかったというわけではないんです。
――地球の各地が自然災害で荒廃しているという『ブレンパワード』の世界観は、当時としてもインパクトがあったと思います。
富野:なんでああいう設定がいるのかというと、要は「アニメとしてのだまし絵」なんですよね。その設定があったほうが、アニメっぽく見えるから。あくまで技法論にすぎなくて、別に水浸しになった事件を描くわけではない。そうではなくて、ものすごく簡単に言っちゃうと「ママは僕のことを優しく育ててはくれなかった」という親子関係のことをドンとやっちゃうことが、一番良いことなんですよ。そういうものをアニメとして描く中で、もう少しだけ、リアルなものと接触できる作品を作れないかと思っていたんです。
――人間関係の中でも一番シンプルな「親子関係」に焦点を当てることで、普通のこと・健全なものを模索しようとしていたんですね。
富野:先ほどの質問に基づいて言うと、『ガンダム』は旧来のメカもの、戦記物の体裁に則っている部分があるんだけど、『ブレンパワード』以降は基本、心の問題……つまり「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなっています。僕が「『ガンダム』の富野」だったことで、ずっとそれができなかった。『ガンダム』の後期では自分でプロダクションを立ち上げて、新たな作品に出資しようと考えたこともあったけれど、僕にはそれをするだけの能力がなかった。実務者になれなかったという自分の能力論もあったうえで、スポンサーに理解してもらえるように、永野護くん(メインデザイン)に手伝ってもらったりして、なんとか『ブレンパワード』をかたちにした、ということです。だから、中途半端なところはあると思いつつ、とにかく『ガンダム』から脱出するための作品でもあったとは言えます。
思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんです
――『ブレンパワード』ではメインデザインのいのまたむつみさん、永野護さん、音楽の菅野よう子さんといったベテランだけでなく、脚本の浅川美也さん、カナン・ギモス役の朴璐美さん、のちの『∀ガンダム』ではデザイナーとしてゲーム業界から安田朗さんといった才能を、アニメ作品に起用しています。その背景には、富野監督にとってはどんな思いがあったのでしょうか。
富野:これは『ガンダム』から教えられたことです。僕がやったことではなくて、当時の録音監督(松浦典良)の采配で古谷徹さん(アムロ・レイ役)と池田秀一さん(シャア・アズナブル役)を呼んでくれた。他の声優さんも、声優専門ではない方が多かったんです。そういう人選を見せられていましたから、それこそ20年30年経てば今度は僕がやらなければいけないことだろうと、当たり前のように思えたわけです。それでやってみたというだけのことです。むしろ思ったよりも、それが成功していないという意味では、本当に人を見る目がない、育てる力がないという自覚をしています。
――富野監督作品参加以後も、みなさん大きな活躍をされています。
富野:結局、上手く行っている人たちっていうのは、もともとそういう才能を持っていたんですよ。全部、彼ら彼女たちの力なんです。僕が彼らに刺激を与えたとか、インプットしたという記憶はあんまりありませんね。人を育てるということは、本当に難しいことです。これはわからないんですが、おそらく触っちゃいけないんです。触らないで、出会ったときの関係で、その人の持っているものを見つけだす。それ以上のことをしては絶対にいけないんです。これは実をいうと、愛の問題にもつながってくるんです。
――愛ですか!!
富野:愛し合っちゃうと、一点しか見えなくなるんです。正しく接することができなくなる。その瞬間にとらわれてしまって、相手が今後どうなっていくのかを考えられなくなる。正しい距離感で、この先を考えて相手と正しく接していくものでしょう。ちゃんと愛を育むことが大事なんです。
――そういった愛のお話は教育論にもつながりそうですが、そういった考えは、富野監督はアニメ制作の中でお気づきになり、考えを深めていかれたのでしょうか。
富野:もちろんです。僕は基本的に絵を描けないし、原画や動画を今もチェックしているのですが、腹が立ちますもん。「なんでアニメーターは画が上手なんだろう」「なんで線が綺麗に描けるんだろう」って。しかも、彼らは平気で何十枚も描いてくるんですよ。
――ははは。
富野:でも、そういう優れた技術を持っている人たちがいるから、僕は作品を発表できるのであって、技術を持っている人たちの総代に立つには、技術論ではなくて、理念を持たなければいけないわけです。そういう思想があったから、ここまでやって来られたんでしょう。
――思想があるから、約50年にわたるキャリアで監督として活躍してこられたとおっしゃるわけですね。
富野:思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんですよ。「マンガ絵が好きだからって、マンガが描けると思うな」という考えにもつながります。この話って、何にでも通用するでしょ? 僕が文化功労者のお礼のコメントの中に「アニメのストーリーテリングは万能である」と書いたけれど、そういうことなんです。あれは良い文章になったなと思っています。僕がアニメの制作を通じて描いてきた思想は、どんなものにも通じる。それがあるから作品に公共的な意味が出るんだと思っています。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ishikawataiga/status/1478664032702054402
ちょっと調べただけで、
って情報がすぐ出てくるのになぜそうしようとしないのか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7c0363c38ce03c2937d3d0e75e8dc901195b684a
今年2月下旬、品川で起きたクラスターでコロナに感染して以降、体調不良が続くなか、ジャヤンタさんはこの10月、職員による制圧でケガを負った。その後、ようやく仮放免が認められたものの、わずか2週間で再収容された。
今年2月下旬、品川で起きたクラスターでコロナを発症したジャヤンタさん。2カ月で体重が13キロ減少した彼は、その後も体調不良が続き、7月には2度目のコロナを発症した。
8月以降、脚の痺れから歩行が難しくなり、車椅子を利用するようになり、食事を摂っても吐いてしまうため、弁護士や支援者との面会にも、バケツを持参するようになっている。
「一緒の部屋には、熱がある、咳をしている、血圧が上がっているなど、コロナの症状が見られる人がいました。私も熱や喉の痛みがあり、普通の食事を出されても食べられないので、具合が悪いからおかゆにしてもらいたいと頼みましたが、そのときに出されたのはお湯をかけただけで煮てもいない、塩も振っていないごはんでした」
ジャヤンタさんが再収容されたと聞いた石川議員は、11月29日に品川に足を運んでいる。
「車椅子で現れたジャヤンタさんは面会中も、時折バケツに嘔吐していて、再収容によって体調が悪化していることは明らかでした。外にいる間は温野菜やフルーツ、うどんなど、胃に負担の少ない食事をし、リハビリもおこない、少しずつ回復していたけれど、この日の昼食は冷めたハンバーグとあじフライだったそうです。
今の彼はこういうものは食べられないし、食べても吐いてしまう。まずは体力を回復させるべき人を食べられない状態のまま収容し続けている。入管がやっていることは拷問に近いと思います」
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20211129-00270226
今回、筆者の取材に応じたのは、スリランカ人男性のジャヤンタ・マルダケ・スガット・クマラさん(47歳)。2000年に来日し、日本で結婚したが、その後、離婚したために在留資格を失ってしまった。また、母国スリランカ内戦では現在の政府と応戦していた勢力に属していたため、帰国すれば迫害される恐れがあるとして、難民認定申請を行ったが、昨年3月に東京入管の収容施設に収容されてしまった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kanaedoi/20201013-00202884
1983年から26年間続いたスリランカ内戦は2009年、政府軍が「タミルイーラムの解放の虎(LTTE)」を武力制圧させて終結しました。その際、スリランカ国軍は反政府勢力LTTEの戦闘員だとして人びとを次々に拘束して連れ去りました。そうして連れ去られた夫や兄、弟、息子は音信不通となり、多くは二度と戻ってきていません。当時の大統領は、マヒンダ・ラジャパクサ大統領。そしてその弟のゴタバヤ・ラジャパクサ氏が国防次官。この兄弟が率いていた当時のスリランカ政府は、国軍が関与した失踪を認めず、失踪者の行方や消息を明らかにすることも拒んだのです。失踪者家族は、恐怖と暗闇の中にいました。
実は2020年現在、希望があった時代は過去のものになってしまいました。失踪者家族はまた絶望の淵に追い込まれているのです。2019年11月、弟のゴタバヤ・ラジャパクサ氏が大統領に選出され、兄マヒンダ氏を首相に指名し、再びラジャパクサ兄弟政権が誕生したことがきっかけでした。
第二次ラジャパクサ政権は、前シリセナ政権の国連人権理事会での約束をさっそく破棄。さらに戦争犯罪の疑いがかかる将校たちを出世させ、内戦の中でも特に悲惨な残虐事に対して行われていた国内調査を中断したり、スリランカで有罪を宣告された数少ない国軍兵士の1人(子どもを含む民間人8人を殺害した罪)に恩赦を与えたりしました。
それだけではありません。社会は再び分断されつつあります。現ラジャパクサ政権は、人口の4分の1を占めるタミル人とムスリムへの敵意をむき出しにしています。そして、ジャーナリストや人権活動家、弁護士はもちろん、私が会った失踪者家族さえもが、監視や脅迫を受けるようになりました。第一次ラジャパクサ政権に蔓延していた恐怖の空気が戻ってきてしまったのです。
内戦終盤から内戦終結後も、第一次ラジャパクサ政権は全土で強権的弾圧を続けました。首都コロンボでも、政権に批判的だった著名なジャーナリストたちが路上で暗殺されたり、拉致されて今も行方不明のままになっている事件が起きています。スリランカではかつては表現や結社、集会の自由がおおむね認められていました。しかし第一次ラジャパクサ政権下では、恐怖が社会を支配していました。
ラジャパクサ兄弟が2019年末に政権復帰を果たした結果、スリランカの私の友人たちは、弾圧を避けるために、あらゆることをしなければならなかった時代に戻ってしまったといいます。
できれば2人紹介したかったが、1人に留める。
ここまでの6人は問題ない。何かあっても私が責任を取ろう。が、この2人は今でもK市で働いている。うち1人は男性で、接触当時は入庁4年目だった。
協調性がないとの評判であり、人事評価では直属の上司から「免職を促すことが相当である」とのコメントが入っていた。しかし、実際に本人と面談してみると……といったパターンの子だ。本質が見えていないのは上司の方だった。
残り1人は女性で、接触当時は入庁1年目。先に挙げたGさんと同じく直向きな職員だった。地元の新聞記事にも「期待の新人職員!」という記事が載るほどに期待されていたのだが、残念なことに、頑張りすぎてうつ病になってしまった。その後のじりじりとしたリハビリと、復活後の活躍には目を見張るものがあった。よって、この子を取り上げようと思っていた。
迷ったが、男性の方を選んだ。理由は私と同性で、気質も似ているところがあったので心の内部を覗きやすいと感じたからだ。登場人物の男女比の関係もある。仮に、E太さんとする。
私が特定任期付き職員として採用されて3年目のことだった。E太さんと話したのは。彼は入庁4年目だった。ある意味で先輩にあたる。
当時は20代後半で、福祉の部署で働いていた。といっても、ケースワーカーや自立支援、福祉事業者の審査といった類ではなく、裏方の仕事だった。直接福祉の仕事に携わることはなかったが、それでも部署全体を支えるポジションだったのは間違いない。
梅雨時のある日、彼について人事面談をしてほしいと福祉課長から依頼があった。このE太さんというのは、いわゆる問題職員という扱いだった。私は、彼のいったい何が問題だったのか、その時は理解していなかった。が、K市の問題職員リストにE太さんが名を連ねていたのは事実だ。
福祉課長によると、彼には以下のような問題点があり、人事で指導してほしいという。
・みんなと協調的な行動を取ることができない。自己中心的である。
今回は3点目で引っかかったようだ。
いろいろと調べていったが、やはり机上のデータでは見えてこない。他の福祉課の職員から聞き取った情報も総合すると、先週あった課全体の飲み会でひと悶着あったらしい。
うす暗い飲み屋の片隅に座っていたE太さんが、近くにいた福祉課長やその他先輩がいた席まで呼ばれた。「この間のことで話がある。ちょっとこっちに座れ」と言われたE太さんは、ダイレクトに断った。「行きません」と突っぱねたとのこと。それで先輩職員らと口論になって、そのうち優しめの先輩職員が彼の席に移ってきて、まあ飲みなよとお酒を注ごうとしたところ、これもまた「帰りがバイクなので」(※真偽はわからない。E太さんの嘘かもしれない)と断った。
そんな態度に憤ったほかの上司や先輩が、E太さんに詰め寄り、お酒を吞ませようとした。それでも断固とした態度のE太さんに、先輩は次第に声を荒げ、ついに係長級の職員がE太さんの首根っこを掴んだところで、「やめてください!」と彼が拒否して……市役所職員の宴席から大声が響いたものだから、近くに座っていた別のお客のグループが店員に静かにさせるよう苦情を入れるも、店側も注意ができず……翌日になって、その居酒屋で飲んでいた人が市役所に直接クレームを入れたというのが顛末になる。
福祉課長の言うことは明らかに自分寄りである。ここまでのハラスメント行為があったとは聞いていない。私がほかの係員に聞き取りをしなかったら、あやうくE太さんだけを悪者にするところだった。
彼にしても、飲み会に参加したなら、もっと仲間意識を持つ必要があった。飲み会は、「供食」の場だ。供食は仲間同士でしかしない。古今東西、自分達の敵と一緒に食事を取るなんて文化はない。一緒に食事を取るということが仲間であることの証なのだ。昔の人間というのは、そんな儀式を神聖視せざるを得ないほどには、人間や組織の生き死にが間近にある生活をしていた。
ある日の午前、窓ガラスに雨粒が叩きつける中、面談室に入ってきたE太さんはソファの前で立ち止まった。「座ってください」と私が言うと、彼はゆっくりと腰かけた。
初めに言ってしまうと、私はE太さんがそこまで悪い人間ではないとわかっていた(後述)。それで、リラックスしながら、今日は何を話すんだっけ? とバインダーに挟んだ聞取票を手に取った私は、簡単な挨拶の後、E太さんとのやり取りを始めた。
「朝ご飯は食べた?」
「はい。食べました」
「どんなものを?」
「どんなカップ麺が好き?」
「特に好みはないです」
「そうか。私も毎日そんな感じだ。おにぎりとカップ麺は合うよね」
「そうですね」
「E太さんは、バイクだっけ?」
「私は……バイクではありません」
「バイクじゃないの?」
「自転車です」
「そういう意味じゃありません」
※重ねて言うが、これまで私が記してきた会話の記録には不自然さが否めない。方言や言葉の癖など、個人情報に関わる内容を編集していることによる。
指導を目的とした人事面談というと厳しいイメージが漂うだろうが、相手が筋金入りの問題職員でなければ概ねこんなスタートを切ることが多い。信頼関係を築くためだ。
雑談が続いた後、いよいよ問題の核心のフチに触れる問いかけをしてみる。
「それで、福祉課長から聞いた件なんだけど。今回の面談のきっかけ」
「……はい」
「周りの職員のこと、どう思ってる? この人は好きとか、嫌な人とかいる?」
「特にいません」
「E太さんの態度や行動が、同じ課の職員を傷つけることがあるみたいだ。私も調べてみたけど、そう思ってる人も確かにいる。どうしてこの結果になってしまうのか、考えていることを教えてほしい」
「普通に、とは」
「正しいと思うことを言ったりやったりして、でもほかの職員からするとそうでないみたいです。嫌われるのはわかっても、でも自分がやるべきだと思うのでやっています」
思ったより早く本音を出してくれている。チャンスだ。私は、聞取票が挟んであるバインダーを机の端に裏返しに置いた。ここからのやり取りはうろ覚えだ。
「E太さん。せっかくの機会だから、腹を割って話そう。公文書には残さないから、もうこのバインダーはいらない。一対一でE太さんと話したいと思ってる。ところで、私のことは知ってるよね。ここのプロパー職員じゃないって」
「知っています。2年前にK新聞(※地元情報誌)で読みました。〇〇社の出身で、人事領域のプロだと書いてありました」
「知ってるんだね。ありがとう。でも、プロと言えるほど経験は積んでない。社会人を20年以上やっているけど、人事は6年くらいしか経験がない。ほとんど営業だった。大人の事情というやつで、プロにはほど遠くてもプロなんだと――そうアピールしないといけないことがあるんだ(ここで両者の笑い声があった)。で、話を戻すけど、E太さんはどうして今の状態を保ってるのかな。変えてみたいとは思わない?」
「キツイと感じることはありますが、これでいいと思っています」
「どういう理由で、キツくてもいいと思ってる?」
「自分のやりたいことがあります。社会人として、こういう生き方がいいって。それで、その目的から逆算して考えると、今は人間関係よりも実力がほしいんです」
申し訳ないがここまでだ。これ以上は、私の記憶からE太さんの口述を曝け出すことはしない。
簡潔に言うと、彼は仕事が一番ではないタイプだった。E太さんの人生の優先順位の中で、仕事は3番目ということだった。だから、民間から公務員に転職しようと思ったし、だから、どれだけみんなに嫌われようがどこ吹く風でやってこれたのだ。
肝心なことを述べていなかった。E太さんの仕事ぶりだ。毎年、人事課に提出される査定表で、彼は3年連続で5段階中の2を取っていた。もちろん低い数字だ。実務能力は平均3.5だったが、礼儀やマナー、人格、職務遂行姿勢などで大幅に減点を受けていた。
私が再調査したところだと、彼の査定は控えめに見ても3はあったように思える。福祉課で彼と同じくらい「人柄が悪い」と評価を受けている人間も、その多くが3を取っていた。それに彼は、年は若いが福祉課の裏方として3年以上も職場を支えてきた実績がある。
ちなみに調査方法だが、①人事権限で福祉課の共有フォルダに入ってE太さんの成果物を確認する、②E太さんの同僚を面談室に呼んで印象に残った行為や実績を聞き出す、③過去のE太さん関係の始末書を読み解く――という3通りの方法で行った。確認できた事実は以下のとおりだ。
・オフィスソフトの腕前は一流である。パワポもExcelもAccessも使いこなせる。文も読みやすい。
・プレゼンテーションの能力が高い。普段は物静かだが、かつて大都市の商工会議所で行われた各市町合同での新人職員研修会の折、K市の未来について数分間のスピーチを行い、拍手喝采をもらったとのこと。
・事業計画立案。E太さんは広告会社の出身だった。その経験を活かし、福祉課の裏方としてケースワーカーなど福祉職を支えるための各種設備・インフラを整えるための計画書を作り、それがそのまま課の予算要求に使われていた → ということは、彼の上司はその仕事振りだけは認めていたということだ。
・福祉課の職員からの苦情はあるが、市民や取引業者とのトラブルの記録はない。
・年下の職員には人気があるらしい。例えば、彼が選挙のスタッフとして従事した際、開票作業の前に事務吏員の腕章をみんな装着するらしいのだが、「安全ピンが刺さりそうなので、私の腕に腕章をつけてください」という体で、何人かの女子職員がE太さんの前に並んでいたという。尾ひれが付いているとは思うが、そういうこともあったのだろう。
私が退職するまでの数年間で、E太さんと呑みに行くことが何度かあった。まさしく意気投合であり、今回ここまで赤裸々に彼のことを書いてきたのも、彼なら笑って許してくれるだろうという甘えから来ている。
私は、彼が悪い奴ではないとわかっていた。上の面談の1年前のことだ。かなり広めの川べりで行われたK市の音楽イベントに、私と彼もスタッフとして動員されていた。ステージ発表が始まると、スタッフはみな暇そうに周辺警備をしていた。
さて。一級河川にかかる橋の袂だった。カートを押している高齢のおばあさんがE太さんに声を掛けた。私は、高いところから偶然それを眺めていた。
E太さんは、話しかけてきた老婆としばらくにこやかに話をしていた。その老婆は、さっきはE太さんの上司や、ほかの若手職員にも声をかけていた。誰もが皆、迷惑そうに会話を切り上げてどこかに去ったというのに、彼だけは、その老婆の話し相手をしていた――貴重な体験だった。こういうところに人格が滲み出るのだ。
とはいえ、このままではE太さんの株は落ち続ける一方だ。それに、職員を傷つけるような冷たい態度もよくない。社会人には、絶えず相手を不快にさせないよう振る舞う義務がある。会話をしたくなくても、そうした態度をおくびにも出さず、明るく振る舞わねばならないことだってある。わかっているのといないのとでは、社会生活に大きな差が出てしまう。
E太さんに何度も伝えた。「こんなのはもったいない。もっと仕事に打ち込んで、本気をアピールして、みんなの信頼を集めてみたら?」と伝えてみたが、なしのつぶてだった。こちらとしても、今の状態でE太さんを問題職員リストから外すことはできない。どこかの部署で重大な人間関係トラブルを起こす可能性があるからだ。私はE太さんのことが好きだけれども、それとこれとは別問題だ。
結局、私が辞める時まで、E太さんを理解する人は少なかった。孤高で、人とは交わらない。でも仕事ができて、市民や業者からの受けがいい。いろいろと惜しい職員だった。今でも彼を思い出すことがある。今度K市に遊びに行った時は、また彼を呑みに誘うつもりだ。
この章の最後に。なぜ、私は彼を好きになったのか。
『渇き』を感じたからだ。E太さんは人生に飢えている。自分がやりたいこと、どんな人間になりたいのかはっきりしているのに、叶えられずにいる。叶えられる保障もない。
でも、足掻き続けている。まるで昔の私自身を思い出すようであり、懐かしい感じが脳内からビンビンと込み上げてくる――ビールは、渇いているからおいしいのだ。いつかE太さんが大成して、そんな美味を楽しめる未来があることを祈っている。
んふふふwww 久しいですな、はてなー諸氏www
オミクロン株の問題もあり、最近ブコメや増田で「コロナは後遺症がこわい」という意見をよく目にするでござるwww
でも、具体的には知らんようでwww ヌプフォwww
しょうがなかろうなあwww
拙者調べだと、コロナ後遺症についてのTVニュースは全局で11月に9回、12月に4回程度www 新作アニメの本数より少ない始末www
よろしいwww
後遺症界隈の”ホットなトピックス”について拙者がレクチャーするでござるよwww デュフフフフフwww
重症急性呼吸器症候群コロナウイルス-2(SARS-CoV-2)www
呼吸器にとどまらず、症状が全身に広がる。しかも長期にわたる後遺症が残りやすいというのが厄介な点でござるなwww
後遺症が残る仕組みはいまだに未解明。初期に感染して寝たきりのままという人もいるでござる。
で、最近話題になっているのが「COVID-19診療の手引き 罹患後症状のマネジメント」www
12月1日に厚労省から発行され、ようやく後遺症者が適切な医療ケアを受けられるようになると期待されていたwww
だが、この手引きの評判がよろしくないwww
悪影響すらあるのではないかと言われている始末www ニンニンwww
そこで、先日「筋痛性脳脊髄炎の会」が改訂を求める記者会見を開いたんでござるよwww ブフォッwwww
んwww
「筋痛性脳脊髄炎の会」?www
スマヌスマヌwww ついつい拙者の知識レベルで話してしまったwww Format "拙者の知識レベル":\\wwwww
たとえば家事や勉強をしたあと、何日も起き上がる事すら出来ないといった症状が出たりする。寝たきりの人も多いんでござるよwww フゴッwww
疲れやすいだけの症状だと誤解されやすい事もあって、イギリスやカナダでは筋痛性脳脊髄炎(ME)という病名が使われておるらしいぞよwwww
つまり、「筋痛性脳脊髄炎の会」はME/CFS(筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群)の患者会という事でござるなwww
んん?www どうして患者会が「罹患後症状のマネジメント」に対する記者会見をするのかって???www
デュフフコポォwww オウフドプフォwww フォカヌポゥwww
それは諸兄らwwwww コロナ後遺症が引き金になって、ME/CFSが発症する可能性があると言われているからでござるwwwwwwwww
患者会は昨年5月から厚労省に研究体制の要望書を出したりwww フル回転でござるよwwwwwwww コポォwww
それではwww 「罹患後症状のマネジメント」は何がよくなかったのかwww
「筋痛性脳脊髄炎の会」は、問題点を6つにまとめたのでござるよwww
1. 診療の手引き編集委員会の中に神経免疫の専門家が一人も入っていない
2. COVID19を契機にME/CFSを発症する可能性が明記されていない
3. 明らかな異常所見がないからといって精神的な問題とすべきではない
4. 罹患後症状が続く人の中には回復しない人がいることが明記されていない
5. 運動によって悪化する患者がいることが詳しく説明されていない
6. WHOの定義では新型コロナへの感染がprobableな(感染の可能性が高い) 症例も含んでいることが書かかれていない。
言い換えるとwww
1. ギョエェェー!? 神経免疫系の難病が発症する可能性があるのにwww その専門家がいないなんて、どうやって詳しく書くつもりでござるかwww
2. ME/CFSや他の難病がどんなものか解説しないと、マネジメントどころじゃないと思うでござるが?www ドプフォッwww
3. 神経免疫系の病気は検査が難しく精神疾患と誤診しやすいのにwww 明らかな異常所見がないからといって、簡単に精神的な問題に切り替えるフローにしてたら見逃しまくるでござるがwww
4. とても少ない割合だけど1年半以上生活困難な当事者が存在するでござるよwww つまり長期の支援(障害者としての支援等)が必要になる人がいる事も書いて欲しいでござるwww
5. リハビリ「
憎悪増悪に注意喚起」とあるでござるが、悪化のみならず寝たきりにすらなる可能性があるのでござるwww より慎重に判別しないとwww6. 貴様は~~~~! だから2ちゃんねるで馬鹿にされるというのだ~~~!! この!!! WHOは「感染疑い」についても書いておったろう!! 日本は特にPCR検査を抑えていた経緯があるわけだから未検査者が多かろう!! だから疑い者も同じように対応する事の明記が必須でござろうが!! デュクシッ!!
どの党の議員も「ただちに改定すべき」「改定するよう訴えるべきだ」と言っている。
いったい誰が止めているのか。
2008年に同じ病気の患者4人が出会って、患者会発足の希望を語った。そして、2010年に前身「CFSをともに考える会」が立ち上がった。
国の動きは遅い。
だが、少しでも前身しているのはコロナ禍以前からの難病の方々、そして協力して下さる医師や研究者の方たちのおかげではないだろうか。
通院した病院が十を超える人も珍しくはない。
理由は様々。
コロナ後遺症ではないと乱暴に断定されたり、知識がないので治療ができないとやむを得ず断られたり。
渋谷のとあるクリニックでは、今でも午前9時頃から午前3時頃まで診断をしているようだ。それでも、すべての患者を診ることができないとのこと。
「コロナ後遺症が恐い」のは、「それを適切に診てもらえない社会」があるからではないだろうか。
当たり前のように地元のクリニックで、しかも適切な形でコロナ後遺症を診てもらえる。
そんな社会が来ることを祈っている。
ME/CFS関連は非常に難しくセンシティブで、いっちょかみの私が書くのもどうかと思いますが……、増田という事で……(敬礼)。
敬礼!出た!敬礼出た!得意技!敬礼出た!敬礼!これ!敬礼出たよ~~!
https://www.asahi.com/articles/DA3S15150594.html
https://www.mhlw.go.jp/content/000860932.pdf
https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/WV5PLY8R43/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/p0DAXVbbQR/
https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=18723
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2021/3450_01
超高齢化社会。
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20210730-OYT1T50310/
「2020年の日本人の平均寿命は女性が87.74歳、男性が81.64歳」
その一方で、
「85歳以上では、55%以上の方が認知症になる」という話もある。
https://www.tr.mufg.jp/shisan/mamori/dementia/02.html
つまり、女性に生まれて平均寿命まで生きれば、半分以上の割合で認知症になる。
冗談じゃない。
(身近に初期認知症の高齢者がいるせいで、本格的な介護までは必要ないが、
長時間一人で置いておけないので、めっきり自分の自由時間が減った、ってのもある)
がんで早死にしたいのだ。
うっかり早期でがんを発見してしまったら、治療しないといけなくなるのが嫌だ。
もう手の施しようがなくなった末期がんになってから見つけてもらいたい。
それを思うと、50代で心筋梗塞で亡くなったうちの親は、
脳だけに限らず、結局のところ人間の身体というのは、たいていの人の場合、
80年も90年も使えるようにはできていないのだと、
痛感する。
皮肉にも程がある。
タイトルの通り、20年近く一緒に過ごしてきた愛犬を安楽死させました。2ヶ月と少し経ちますが彼のことを考えて毎日涙が止まりません。少しでも自分の気持ちに整理をつけられればと思い、はてなに新規登録し筆をとってみました。彼との出会いからまとめていこうと思います。
物心つく頃から過ごしてきたオンボロ社宅が取り壊されることになったのでペット可の新築のマンションに引っ越してから数ヶ月が経った頃。
せっかくペット可なのだから落ち着いたら犬を飼いたいね、とワクワクしながら家族で話していました。その当時は"どうする、アイフル〜"のCMが大流行しており母と私は、飼うならチワワでしょ!とチワワ推しだったはずなのだが夜遅くに母のコートで包むように抱かれながら我が家にやってきた仔犬はミニチュアダックスフントでした。生後2ヶ月のブラックタン。
生まれて初めて仔犬を見た小学校低学年の私は、そりゃーもう可愛がりたくて仕方がなかった。
しかし両親が彼を連れて来たのはブリーダーさんとのやり取りに時間がかかったこともあり22時を過ぎており、私はもちろん小さな彼もお布団に入る時間だったため寝るよう促す母に「連れてくるまで抱っこしててずるい!」「わたしもその分抱いて寝る!」などと悪態をつくも、一緒に寝たらケージで寝なくなるからダメだと言われ興奮する気持ちを抱えながら一人で寝ることになりました。
(翌朝、鳴いてて可哀想だったからという理由で彼と一緒に寝ている兄が発見された)
初対面したその日はスキンシップを取ることがほぼ出来ませんでしたがその後は勿論一緒に寝たり、名前決めで一悶着あったり、チワワに喧嘩を売って敗走したり、食欲旺盛で人間のご飯すら虎視眈々と狙ったり、参観日で留守番させたらケージ内に大を撒き散らしていたり、ここには書き尽くせないほど様々なことがあり、退屈しない日々が続きます。
共働きの両親や、部活や塾バイトで帰るのが遅い兄達。いつでもすぐそばにいてくれる彼の存在はとても大きなもので愛する弟でした。
2017年の2月。兄達はとっくのとうに家を出て、両親と私、彼の4人暮らし。私の出勤時に、眠っている彼を置いて買い物ついでに両親に職場まで送ってもらい、お昼休憩の時にiPhoneをチェックすると母から連絡が。
電話して話を聞くと、買い物が終わり家に帰るといつも走ってお迎えに来るはずの彼が居ない。珍しいと思い探すと私の部屋の隅でか細い声で彼が鳴いており、そのまま動かず様子がおかしかったのでかかりつけの動物病院にいったところヘルニアと診断されたとのこと。症状は重く、紹介していただいた隣県の専門医での手術を決めました。
当時14歳だった彼が全身麻酔に耐えられるか不安でしたが手術は成功し、リハビリをして多少フラつくものの介助もなしに歩けるようになりました。(後ろ足の筋肉が弱り前足の筋肉が強くなり逆三角形のムキムキ体型になって先生も笑ってた)
そして、家族の不在時にヘルニアになったため、今後は家には常に誰かが居るようにしました。
ヘルニア以外には手術することもなく、車に轢かれてもほぼ無傷だったという過去もあり我が家では無敵の犬と呼ばれていた彼ですが、2020年の冬頃歯が痛むのか食事しながら鳴くことが増えました。かかりつけで歯周病との診断を受けましたが高齢なので抜歯も難しく投薬のみとなりました。
父が亡くなり、かかりつけではなく、家の近所の動物病院に通うことも増えました。そのまま年が明け、20歳の誕生日には何をしようかと考えていた2021年の6月。歯を痛がる頻度が高くなり近所の動物病院にも不信感が募ってゆき、かかりつけの病院へ行くと歯石が口の中に当たっていることがわかりました。
麻酔なしでチョチョイと歯石を取ってもらいこのまま薬を飲ませて様子を見れば良くなるかと思いきや、次の受診時には歯石が当たっていた箇所が小さな小さな黒い腫瘍になっていました。
その腫瘍は癌の一種、メラノーマでした。大学病院に紹介してもらったり、顎の骨が溶けていたので胃瘻の手術をしたり、藁にもすがる思いで治験を受けたりしましたがみるみる彼の病状は悪化していきます。トイレに行くことも寝返りも打つこともできない彼のすぐとなりに母と並んで眠り、1時間半おきに彼の悲しい声で目が覚める。
その度に寝返りを打たせたり、撫でてみたりしながらまたうつらうつらとする日が続きます。
大きくなった腫瘍のせいで目も閉じられなくなり、てんかんの発作も起きはじめ、ついには腫瘍が喉に転移し呼吸も荒くなり落ち着いて眠ることもできなくなったため酸素室をレンタルすることにしましたが、2、3日もすると酸素室に入りたがらなくなりました。
酸素室に入れるとロクに動けない体を無理矢理動かして鳴くのです。
酸素の量は減りますが背に腹は変えられないので酸素マスクを口元に持っていきますが、顔の向きを変えて嫌がります。ご飯を吐くようになりました。
1日中目も虚ろで、苦しそうに鳴く彼。
母が、これ以上呼吸も出来ずに苦しむのならば、と。かかりつけに電話をして、安楽死をお願いしました。
いつも行っていた公園をカートでお散歩して、タクシーに乗り病院に。
最初の鎮静剤を打たれる時、少し身を捩って嫌がる彼を見て、病院では泣かないようにしようとしていたのに涙が溢れ出てきました。
目が見えてるかもわかりませんが最後まで視界に入りたかったので診察台の上に横たわっている彼とずっと目が合うようにしていました。
そして処置が終わり、彼は見ている限りではとても穏やかに息を引き取りました。
帰りは30分以上かかる道を彼と母と私の3人で帰りました。相変わらず9月の半ばだというのに暑くて暑くて汗と涙と鼻水でグシャグシャです。こんなに暑くなければもっともっとお散歩行けたのにね。
家に着き、母は何度も彼を抱きしめていました。私は力の抜けた彼の体を抱きしめることが怖くて、横たわっている時に撫でることしかしませんでした。そのうちに死後硬直が始まり、抱きしめておけば良かったと後悔するのですが。
2日後、兄にも見守られながら彼は骨になりました。
寝ている父の頭に粗相したり、兄の局部に噛み付いてぶら下がったり私達の躾が行き届いていないトンデモ馬鹿犬の部類に入る彼ですが本当に可愛い子でした。大切な家族でした。
会いたい、寂しいと思う度に殺した癖に、とも思ってしまいます。
でもやっぱり会いたいです。あのキラキラな瞳で見つめられたい。美味しそうにご飯を食べるところが好き。お散歩してる時の後ろ姿が可愛い。クリクリの耳毛を触りたい。お尻をもみもみしたい。肉球の香ばしい匂いを嗅ぎたい。また海にも川にも山にも行きたい。そんな思いでいっぱいです。
まさかこんなことになるとは思っていませんでした。天寿を全うして老衰で亡くなると思っていました。今年の誕生日も一緒にお祝いできると思っていました。
大切にしてきたつもりでも全然足りていませんでした。彼から、一言恨み言でも聞けたら楽になるのにな、なんてズルいことを思ってみたりも。
私はこれからも彼の命を奪ったことに責任を持ちながら、その重さを負いながら生きていくしかないと思っています。
何にもまとまっていませんがそろそろ終わろうと思います。
ここまで読んでくれる方がいるかわかりませんが、もし読んで下さったならありがとうございます。
たくさんの反応いただいていたみたいで驚きました。
一番初めについたコメントを見て、まあそりゃそうだよな、と思いそれから確認せずにいたら思っていた以上に暖かいお言葉をくださる方が大勢いらっしゃって……。今更にはなりますが全て読ませていただきました。涙がドバドバと溢れ出て大変汚い顔面になりましたが、本当にありがとうございます。
一部父について触れている意見がありましたが、意図的に省きました。予期せぬ父の死だったので母も私も心が砕けそうになり、更に翌年には祖父が亡くなるも葬儀に出ることも叶わずまた心がバッキバキ!…なんて事もありましたがその時の悲しみや苦しみを書くことは本筋ではないし、長くなりすぎると思ったので。でも、その辛い時に彼にたくさんたくさん助けてもらったので書いても良かったかもしれないですね。
で、なんでここを覗いたかというと先日とある出来事がありまして。
彼を失った時に苦しかったので新たにペットを迎える気は更々無かったのですが、たまたま寄ったペットショップで彼に瓜二つな子と出会って目を奪われてしまいました。いやいやそんなまさかと思いながら誕生日を確認すると彼の命日の次の日で。母と二人でショーケースの前で号泣。彼の生まれ変わりなんだとしたらまた辛くてもいいから一緒に生きていきたい、と思ってしまいました。生まれ変わりなんてあるか知らないですけど!!!!!!!!
僕はずっと家に居て、それは外に出るのが怖いとか出たくないからじゃなくて、
ただ家にずっと引きこもってるってゆうだけなんだけど、
そうゆう話をした同年代の女性と「じゃあリハビリも兼ねて、私と会ってみる?」という事になった。
ラブホで会って、ビールとか飲んで、その時の海外ドラマの話をして、
僕はドラマを見てなかったけど、興味があるように相手の話を聞くことはできる。
それで一段落ついた時に、女性が「えっちしちゃう?」と、どうも上から来たので、
それに合わせて「しちゃいましょうか」と。「えっちするの久しぶりだなー。穴ふさがってないかなー」とか、
「お、りっぱなのもってるじゃん」とか、女性のオヤジギャグは無視して、
ふつうにせっくすした。抜いたコンドームの中に多めの白いのがたっぷんと入ってて、
そうしたら「君、大丈夫だよ、自信持ちなよ!と急に励ましてきた。
「ちゃんと話もできてるし、大丈夫だって、引きこもってないで」。
家にずっと居るから引きこもりなだけで。「彼女とかも作れるよ!」。
「じゃあ相手さんがなってくれます?」「えー、私ー?私と付き合うのは大変だよー。
それに今は恋愛って感じでもないしー。サイトで募集してみたら?
家に居てもメールはできるから、メールから仲良くなればいいし」。
だから僕が本当の引きこもりなら、今日も出てこないと思うんですよ。
僕はこうゆうのには、足は軽いほうですよ。
「女の子と付き合うと、手をつないで、キスをして、最終的にはえっちに行くじゃないですか。
そこまで急かして焦るのは嫌われるし、何もしないのも付き合ってる意味がなくて、」
「だけど最初からせっくすしてるなら、いつになったらせっくすできるのかなーとか、
身体目的かなーとか、考えなくても良くないですか」適当に言いながら、
「もう一回したい、です」「いいよ。もう元気なの?」
「相手子さんの裸とかせっくすがエロいから、素直に反応してるのかな」
「そんな見ないで恥ずかしい。私もいつもよりも濡れてる。あんまり濡れないんだけどね」。
女性にはそうゆうオヤジ的ないつもと違う説明を言ってほしくない。
「引きこもってて性処理はどうしてるの?」「おなにーしてます」
「もったいないよねー。私もそうなんだけどさ、バイブレーターじゃ味気ないもん。夜遅くにだと、
モーターのブーンって音が結構響いて、やっぱり本物はいいよねー。
おなにーしてるとやっぱり本物に挿れたくならない?」
「今日は相手子さんのまんこに挿れられましたよ!気持ちよかったです!」
「私も本物のおちんちん気持ちよかったよ!全然違うよねバイブレータとは。
家に帰ると無いんだよねー。もう一回しちゃう?」「いいですよ!」
「できるの?すごい?3回だよ」「相手子さんもエットでせっくすが好きなんですね」
「嫌いな人っているのかな」。ちんこも具合良くおっきくなったので、
立ちバックで後ろから挿れてみた。「あ、いきなり。。でもこうして欲しかったの。
なんで分かったの?」「僕もこうしたかったんです。本物のおまんこ気持ち良い」
それから相手子さんはローターでちんこを挿れたままのおなにーで2回イッて、
それで終わりかなとシャワーを浴びて服を着て、帰る雰囲気を作ったら、
「最後に出さなくて(3回目の)いいの?帰ってむらむらしない?」と言うので、
「じゃあ。。」「大きくしてあげるよ!」としゃがんでズボンとトランクスを膝まで降ろされて、
すぐ大きくなって、大きくなってからもしばらく舐められてて、
立たせて僕も相手子さんのズボンとパンツを脱がして、洗面台座らせて、
「あ、コンドームが無いかも。。」「んー、絶対外に出してくれるならいいよ」。
「おちんちんか直に当たってるよ。気持ち良い?」「直に触れ合って、すごく気持ちいい」
「私も生のおちんちん気持ちいい」と、ここでふと(いま僕はこの女性を妊娠させられるんだ)と思ったら、
「中で出したら赤ちゃんできちゃうよ」「相手子さん中に白い僕の、」
「中に出してもいいよ、白いのいっぱい出して」と理性が野生の本能に負ける流れだけど、
それで僕は小宇宙(コスモ)が燃焼したので、キスをいっぱいしながら早めにちんこを抜いて、
30秒くらい手でしごいて、相手子さんのお腹に出した、いっぱい出た。
「ちゃんと外に出してくれると思ってたから」と言って、手で白いのを取って、
「これが赤ちゃんの素なのよね」と指を舐めた。「少ししょっぱい」。
僕はなんとなく、残ってるのを手にとって相手子さんのまんこに塗り塗りして、
そのまま落ちてるパンツを履かせて股をぱんぱんと叩いて、ズボンも履かせて。
僕は自分でパンツとズボンを履いて、部屋を出て、エレベーターの中で、
「妊娠するかもよ」と相手子さんが言ったので、キスをしました。
処女の女の子とするとき「い、痛い。痛い」と言っても、知れてる通り最初は痛いものだろう、
どうせ痛いんだろうし、とそこから淹れようとすると、
「痛いって言ってるだろうが」と両足の裏で胸を押しキックされるぞー(ジャー)
「いま多分入ってるんですけど、どうやって動いて良いのか分からない」。
薄めを開けたら服は着てるし、でも手を下に伸ばしたら素足でお尻の肌に触れた。
ちんこも実は入ってるのかどうか分からない(全体重かけられてるから)。
ワイはふさふさの陰毛を確かめて、上に乗ってる彼女を抱き寄せた。それで寝た。
朝起きたら二人とも下半身裸だった。
適応障害と診断され、回復するまでに取った行動や参考になった本、動画などを紹介していく。
周囲との接し方なども書いていくので、自分自身が今病気で悩んでいる人、身近な人が病気になってしまった場合の参考になると嬉しい。
あくまで個人の体験、感想であり、全ての人に効果を保証するものではない。
とにかく無理をすること、やりたくないことをやることは徹底的に避けて、療養に専念するのが良いと思う。
身近な人が適応障害になってしまった時の言動についてまとめる。
じゃあどうすればいいんだと思われると思うので、自分がしてもらって嬉しかったことをまとめる。
長々書いてしまったが以上。
当方アラフォー独身子供部屋おばさん免許なし、70になる父と二人暮し。
先日父の体調悪化に伴い入院の手続きをしてきたんだが、1時間半の手続きでメンタルがやられて自宅に帰ってから赤子並に声出して泣いた。ギャン泣きして泣き疲れて寝たけど2時間しか寝れんかった。老化を感じる。
入院の支払いに関して、身元引受け人と支払い責任者が私になるのはいいんだが、その他に連帯保証人がいるときた。こちとら若気の至りで親戚に迷惑をかけて以来ほぼ親戚と連絡を取らない人間。天涯孤独の人ってここどうしてるん……
父経由で叔母さんに連絡を取り代筆で事なきを得るはずが、受付に出したら『保証人の方のはんこが欲しい』と来たもんだ。いや代筆の意味。
相談してとりあえず父と私以外のはんこを用意してくれたら良いとの事(苗字が同じなので)。
それから入院アメニティ。パジャマとか歯ブラシとかタオルとかレンタルできて、下着さえあれば入院できますよ~ってやつ。
ただこれにもランクがあって、ランクごとに1日の料金がかかるのに、そのランクは対応した病院が決めるとの事。ちなランク差は紙おむつ使うか使わないか、使った場合の頻度、で変わる。
父は入院準備として事細かに用意するも、パジャマだけは借りたいという意思。説明する看護師から『パジャマだけはないので、アメニティを使わないかパジャマと一緒にアメニティを借りるしかないんですよ』と言われてもパジャマだけでいいの一点張り。
そうこうしているうちに入院申し送りも終わり後はこちらの書類待ちの状態、集まる看護師とリハビリ担当、口々に『アメニティの有無』を確認される。
めんどくさくなってアメニティ使用に決めると、今度は持ってきた荷物が問題になる。
一旦部屋に持って行って退院時に持ち帰るのではダメかと相談するも、何故か話は戻って『これと同じものがアメニティにありますので…』と再度アメニティの使用有無に戻される。
数度のやりとりの後、めんどくさくなり父の荷物の中から下着だけを取り出し本人に持たせ送り出す事で手続きは一旦終了した。
それ以外にも本人の現状確認やら部屋移動確認やらなんか色々あった。
多分時間にして1時間半位だったと思うけど、本当にメンタルが削れた。
そして冒頭のギャン泣きに至る。
泣くとストレス解消になるって聞いたけどまだ足りないから今夜はチャーシュー麺食べて帰る事にする。
あと基本引きこもり精神だから、コロナ禍で面会制限あってラッキーだなって思った。なんかそのせいで今生の別れみたいな送り出しされた(退院するまで会えませんから、お話しておいてくださいね~)。
吐き出して多少スッキリした。