はてなキーワード: このミスとは
上司が指示したフロー通りに進めた案件で、運用してるシステムの欠陥や事務方のケアレスミス等が積み重なりどうにもならなくなったタイミングで私(フロー上一番最後に情報が集まる)がその事実を把握。
上司からは「システムの欠陥や事務方のケアレスミス以前に、取引先との人間関係ができていれば最初に貴方に話がいくよね」と叱責される。
そもそも、上司が指示したフロー以前は取引先→私で直で情報のやり取りをしており、事務方が入ってこないのでケアレスミス(このミスにトドメを刺された)が生じ得ず未然に防げたのだが???
そもそも、本件が露呈するまでシステムの欠陥が隠蔽されてたのだが???
そもそも、上司の確認漏れでスルーされた結果私の元にたどり着いた事象なのだが???
結果を振り返れば最適解はコレでその為には私はこうすれば良かったという振り返りはあるけど、諸々の経緯を無視して私のコミュ力のせいだけにするのは無理筋だろ(;o;)もういやだ…
「このミステリーがすごい」(このミス)って基本的には芥川賞みたいなマーケティングの賞なんだろうなと思う。
対象読者はミステリーマニアではなく、「これがミステリーってものか」を一冊でわかりたいくらいの普通の人。
だからギミックはびっくりするほど似通っていて、大抵「序盤に登場する協力者みたいな奴」が犯人。
あるいは典型的な叙述トリックで最後にそれまでのストーリー展開が大逆転。
社会派みたいな重いのはなし。理系過ぎたりマニアックな知識を要求するトリックはなし。
大事なのは話題性で、題材や作者のキャラクター性で注目を集めやすそうな作品を選んでる(この辺が芥川賞から学んでいると思われるところ)。
・ あなたの悲しみはもっともだ。まずは美味しいものを食べて、よく寝て、好きなことをして、自分をいやしてください
・ でもやはりあなたは産後の奥さんの絶望をまだ理解できていないのではないかと思う。産後、子どもが3歳くらい(子どもの特性によっては5-6歳くらいまで)というのは、寝られない日々が数週間から数か月続き、かつ育てたこともないのに子どもの命の責任を一手に引き受けているという、心身ともに人生最大といっていいほど超高ストレスの状態なのです。その時に、夫が全く頼りにならないどころか、裏切りともいえる言動をしてしまうとどうなるか。比喩でなく鬱病になる人も自殺する人もいます。その中で、奥さんは省エネモードに入って、あなたとのコミュニケーション(信頼関係構築)をあきらめて、子どもを育てることに専念してきたということです。苦しすぎるその時に、子どももいるし、コミュニケーションできないんですよね。
・ そして裏切りをうけた当事者にとっては、いつまでたってもそれは過去の話にはならない。人生で一番つらいときに助けてもらえなかった記憶は鮮明に残るわけです。で、結果、産後の恨みを50歳になっても60歳になっても繰り返し呪詛のように吐き続けるという人をたくさん見てきました(たまたま、周りの親せきや年の離れた知人にそういう人が多かった)。もちろん、彼女たち(多くは専業主婦)の多くは、他方で稼ぐ夫の苦労や苦しみには鈍感なわけで、なんだかなぁと思わないわけでもないですし、そもそも夫婦間のコミュニケーション不全が原因ですよねと言ってしまえばすべてなわけですが、でも今本当に苦しいときに助けてもらえなかったり、裏切られた経験というのは深い深い傷になるわけです。奥さんの今回の発言はその深い傷がまだ全然癒えていないために出てきているわけです
・なので、もしあなたが奥さんとの人間関係を今後も続けていこうと思うのであれば、①様々な子育て経験者(できれば妻の立場)の人たちから話を聞き、過去の行いを深く理解し、反省し、謝罪する ②そのうえで、あなたの悲しみ・苦しみを丁寧に伝える ということが必要だと思います。ダラダラ書いてしまいましたが、私が一番言いたかったのはここです。
・次に、これから子どもを持つお父さんに伝えたいことです。上記を参考に、子育て中のお母さんたちはその元々の性格にかかわらず「言いたいことが言えない」(なぜなら命の危険を感じるレベルで疲弊しているから)という状態になることをよく理解し、そのサポートに全力を注いでください。産後の1年を本気でやれば、あとの5年のやり方がだいたい掴めるでしょう。ここでしくじると、50、80年の禍根を残すということを肝に銘じてください。最初の1年をうまくやるためには、可能な限り3か月以上、なるべく半年以上の育児休暇をお父さんも取ることをおすすめします。近年の制度はかなり手厚く、そんなに高所得者でなければ税の減免などもふくめキャッシュフロー上のインパクトはだいぶ抑えられると思います。(どうしても育児休暇が無理だったら、2歳になるまでのどこかで、1週間だけでいいので朝から晩まですべて一人で面倒を見てみるとよいです)散々脅かしてしまいましたが、赤ちゃんも子どもも、可愛いしとても良いものです。
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”>もちろん、彼女たち(多くは専業主婦)の多くは、他方で稼ぐ夫の苦労や苦しみには鈍感なわけで”と書いたのは、専業主婦の人たちが他責的であるとか主観的であるとか言いたいわけでは全くなく、彼女達は元増田が当時は産後の恨みに想像が至らなかったのと同じように、会社勤めのダークサイドを経験したことがないので、そこへの想像力が働きにくいというだけなのです。同じ専業主婦でも、ブラック企業で過労休職を経験したことがあったり、管理職まで経験のある人だとまた違ったりすると思います。とはいえ書き方悪かったかな。反省。このエントリで書きたかったのはどっちが良いとか悪いとかでは全然ないのです。産後も仕事もどっちもきつい。そして産後の恨みはきつ過ぎることが多く、禍根を残す。以上です (コメにあった、「結婚アフロ田中」「子育てアフロ田中」も私も超おすすめです)
追記 8/29
コメントを一通り眺めて思うのが、みんな、頑張ってるなぁということ。子育て世帯も、独身世帯も、Dinksも、妻も、夫も、きついのに頑張ってるから、怒っちゃうよね。そりゃ、稼ぐのだってきついよ。評価され比べられ圧力かけられ裏切られてね。子育て、ほんとはすごく楽しいことなのに、今は無理ゲー感あるよね。まぁ、人類という生き物の歴史500万年(?)に対して、資本主義・工業化・都市化・核家族化、このへんって始まってまだ300年くらいだから、人間が生きて子どもを生み、育てる営みと全然マッチしてない。このミスマッチの解消が、子育て中の夫婦に凝縮されて押し付けられていることからは目をそらしてはいかんと思う。特に、出産後の女性と赤ちゃんなんて、ほとんど原始人か動物(すみません)なのに、資本主義・工業化・都市化・核家族化と絶対的に合わない。人類の危機ですよこれは。7万年にはトバ・カタストロフという天変地異が起きて、現生人類は1000~1万組の夫婦まで減ったことが分かっているそうです。今だって、このまま分断を放っておいたらそのくらいやばいよ。生きるのが大変なんだよ。みんなで助け合ってなんとかしていこうよ。
15年以上前、アラサーだった自分は新人文学賞などを目指して小説を書いていた。
土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。
5年位は続けていたが、やめてしまった。
自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまったことと、他の受講者の作品や本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。
ところが最近、自分のパソコンのフォルダを漁っていたらその頃の小説のpdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。
登場人物やあらすじについては触れない。
A
小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。
登場人物の言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。
物語の展開が都合良すぎる。
恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人のおっさんが初めて書く小説にありがちな痛さかもしれない。
書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのものが文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。
過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり、自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。
主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。
親の心とかの描写が表面的すぎる。
内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。
瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。
小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。
B
Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。
主人公の思考、社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。
弱者を執拗に否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分の人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。
犯罪のトリックが稚拙。USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業の情報漏えい事件発生というのは無理がある。
簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。
書いた当時の10年後つまりここ最近の時代が舞台なのに、現代のキャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証でコンビニで1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。
刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。
いい奴の主人公が最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。
氷河期世代負け組アラサー男性の絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。
当時の自分は成功したあっち側ではなく、だめなこっち側の人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側からは苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。
「このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。
C
Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。
登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。
物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突。
今どき年寄りしか使わないような方言を若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。
難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直で稚拙。主人公は大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。
書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。
主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。
もし登場人物のモデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。
縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌の小説入門のような書籍で勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)
小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。
D
Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。
書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。
既存の小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)
書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。
(全体を通して…)
読み返す前は「小説家になろう」とかにupしてもいいかなーとか思ってたが、読んでみると、、やっぱり、、、無理だわ💦
(追記)
増田の反応が意外と生ぬるい称賛みたいのが多くて拍子抜けした。
きしょっ💦💦
クソワロタwwwwwww
みたいのを想像してた。
時間と労力をかけて書いたものでも、客観的に見るととても拙く、世に出るレベルに至ってないというのが、趣味としてやるにもなかなか難しいところであることを実感した。
しかもそうやって自分の作ったものをある程度客観視できるようになるのに10年以上も寝かせるというのもある意味めんどくさい。
よく、10000時間修練すればいろんな趣味や技術はモノになる、というようなことを言われるけど、自分の場合、多分10000時間には届いていないのでまだ努力を続ける余地はあったのかも知れない。
(今じゃほとんど)自分より若いデビュー小説家や芥川賞直木賞受賞者の方は努力もすごいがやっぱりセンスとか目指してるものとか見えてるものが自分とは全然違うんだろうなと改めて思う。
あと、時代の移り変わりが早いのを改めて実感した。
LGBT関係やセクハラパワハラ、キャッシュレス社会、スマホや携帯、若者の言動とか、書いてる当時は気にならなくてもたった10年程度で違和感ありありなのがすぐに浮き彫りになってしまう。
(追記2)
ブコメの中で、自分以外の人に読んでもらったほうがいいというアドバイスをされた方がいたので補足すると、当時通ってた講座の受講生の方にはABCDいずれも読んでいただいたし、一部は友人数名に読んでもらう機会があった。授業で頂いた色んな人の講評などがノートに書かれていたはずだから、後でそれも引っ張り出して読んでみようと思う。特に、通っていた講座の講師の先生には要所要所の指摘やアドバイスを頂き、温かい目で見守って頂けたので今でも感謝している。
つまんなそうとかこんな増田じゃものになるわけないみたいなブコメもあったが、まあその通りだと思っている。自分は、仮に誰もが有無を言わさず好きでも嫌いでもとにかく原稿用紙1000枚ぐらい書いてみればとにかく書きさえすれば100人中50人ぐらいは自分のより面白いのができると思っている。本当に違うのは、書くか書かないか、ただそれだけだと思ってる。
(追記3)
E
ABCDより少し後に読み直した。
Dを書いたよりも1年前ぐらいに書いた。原稿用紙360枚。小説すばる新人賞に応募して、1次選考に通過しなかった。
地元に古くからあったドライブインや商業施設などを舞台として、20代の男女の恋愛とか和解などを描いた。
時代設定を明確に2011年としていたので当時と今とでは大きく時代が変わってしまったことを改めて実感した。
ブログとか掲示板、当時のネットスラング、どれもみな、今ではほぼ絶滅してるようなものばかりだった。
登場人物の人間性に触れるような描写はそれまでの中では一番ましだったと思う。
一方で、あらゆる出来事や現象に理由や理屈をつけなければならない、本文に記述しなければならない、というような思い込みを感じるところがあって、それが読者に違和感を感じさせる要因になるのではないかと思った。理屈じゃない出来事を理屈で説明しようとしている感じ。
ファッションや料理に関する描写が出てくるシーンを書くのが難しかった。その方面の知識や経験の浅さ乏しさがどうしても浮き彫りになってしまう恥ずかしさがあった。
書き始めた頃よりは少なくなったが、登場人物の直情的で暴力的な部分への違和感が残った。自分の中で、世の中はそういうものだという固定観念がまだ残っているようだった。
ABCDに比べて、読むときにもっと気恥ずかしさが残っていて、主観的な視点が抜けきれてない感じがした。
物語のテーマが大きく2つに割れてしまっていて、片方は潔く捨てるべきだったのかも知れないが、どう捨てたらもっと面白くなるのかはちょっとよくわからない。
作品の性質上具体的にタイトルは上げないが、このミステリーが凄い的な賞を取ったミステリー小説を読んだ。
途中まで、ただひたすらに陳腐で時代遅れな漫画的ヒロインが、陳腐で時代遅れな描写の超能力を使って事件を解決していく話で、なんでこんな下らないものを読んでるんだろうと挫折しそうになりながら読んだ。
すると、最後に「あんな陳腐な能力があるわけないじゃないですか。全部お芝居ですようふふ」とか言い出した。そのお芝居が本当の能力なんだと。
なんだそりゃ。
こっちは、矛盾だらけでくだらないと思いながら、まあそういう稚拙な作者なんだろうという見切りで読み進めただけだ。
アンパンマンを見ながら、「こんなに吹っ飛ぶほど殴ったら死ぬだろ」と突っ込まないのと同じ心理で、こんな展開不自然だろをただ面倒だから読み飛ばして来たに過ぎない。それを、「だまされちゃったね」みたいに言われても。
これを「うまくだました」って自己認識できる精神って、バイトテロのような誰から見てもキチガイな行動を取りながら、「自分はうまいこと『ネタ』で興味を惹き付けてる」と思い込んでいるアホと何が違うのか。
と思っていたら、どうやらああいうのを本気で「騙された。うまい」とか言う奴もいるらしい。
あの夢オチみたいな、ただ最後に「嘘でした」って言うだけの雑なひっかけが、昨今のミステリー賞的な評価では「どんでん返しが凄い」というんだそうだ。
いやちょっと待てと。
あんな、ただ最後にひっくり返せば良いだけのものを評価するなら、筆力なんか要らないじゃないか。
途中までベタにベタを煮染めたような、スーパーマンみたいなファンタジーを書いて、最後に全部機械仕掛けのトリックでしたと言えば済むだけのもの、何がありがたいんだ?
百歩譲って、「最後に全部嘘だったとわかって驚く」展開として評価させたいなら、途中までは迫真の、その道としてちゃんと評価されるような内容じゃなきゃやる価値もないだろ?
どうみてもやっつけの、穴だらけの、「それっぽいことを並べただけ」の、ファンタジーとしては二流以下みたいなものを並べて、読者が「ファンタジーとしてはまったく出来が悪いが目をつぶって読もう」と考えて読み進めるようなものじゃ、普通にだめだろ???
何度もいうが、それって「騙してる」んじゃなくて、「騙されてもらってる」んだよ。
アンパンマンの世界観に文句を言わずに見るのと一緒の目線で見てもらってるだけ。
実はこういう感想は、別の、今度は海外のミステリー映画でも同じように思わされたことがある。
最初からどう見ても怪しさ満点のヒロインを、主人公だけがピュアに信じていて、そこに批判的な目が当てられないまま、主人公のピュアな視点だけでロマンスみたいに話を盛り上げた結果、やっぱりロマンス詐欺でしたというだけの話。
これもやっぱり、「どんでん返しが凄い」みたいな評価を目にする。
一体世の中はどうなってしまったんだろう。
どんでん返しという言葉は、ただ最後にひっくり返せば良いだけのものじゃない。
そこまでの流れを説得力を持って盛り上げるから、ひっくり返す展開に驚きと同時に「納得」が生まれるんだ。
あまりにも一方的な、ちょっとでも知性のある読者なら「客観性がないなあ」と難色を示すような描写で表現できるのは、主人公の客観性のなさじゃない。作者の客観性のなさだ。それに目をつぶって読み進めた読者に「やっぱり嘘でした。騙されたでしょ」というのは、「わたしを馬鹿だと思った? 馬鹿じゃないよ」と言い出す馬鹿でしかない。
「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」という言葉がある。
稚拙な作家のふりをしたつもりで話の半分以上を稚拙な内容で埋められるのも実際に稚拙と言うしかない。
こういう手を変えた夢オチみたいなものが「どんでん返し」として評価されるようなミステリーの世界って、どれだけ書き手も読み手も劣化してしまったのかと驚いた。
本日の『めざまし8』、長年『ちびまる子ちゃん』を放送し続けてきたフジテレビだけあって長いVTRを作ってTARAKOを追悼していた。
がしかし、共演者の追悼コメントをナレーションで読み上げる際に、背景に各キャラの映像を流し音声も被せているのだが、それが全部初期アニメのものだった。
『ちびまる子ちゃん』は家族キャラに限ってもお姉ちゃんとおじいちゃんが声優交代しているのに、現声優のコメントに旧声優の音声が被せられてしまった。
この手の情報番組はVTR制作も外注で忙しく事前チェックする暇も金もなかったのだと思うけど、放送局のフジテレビの特集だけに監督や音響監督の素晴らしいコメントを取れていたぶん、このミスは残念である
もう時効かと思って。
フェイクいれるけど許して。
特に同じ部署内は仲がとても良くて、上が圧迫体質で嫌なことがあっても、部署内で話せば不思議とまぁいっかとなんとかやれる感じ。
私が好きな人はそこにいた先輩だった。
実はその職場は友人に誘われて入ったんだけど、その友人から色々仕事の話を聞くなかで好きな人の話も聞いていた。
正直、話聞く限り、私の好みどストライクで実を言うと好きになる予感はしてた。
で紆余曲折あって同僚になった。
すぐに好きになった。
仕事に熱心でプライベートの時間も仕事しちゃうような人だった。趣味もゲームで一緒に遊んだりもした。
ただ、思ってたより神経質だったり、知らなかった面もいくつか見つけながら、それでもどんどん好きになっていって、顔見るために仕事行ってる節があるくらいだった。
たまたま一緒に2人で行く出張を指折り楽しみにしてたりしてた。実際デートみたいで楽しかったです。その時買ってもらった飲み物の入れ物ずっと取っておいてた。(勝手にデートと思い込むようにしてた)
そんな中で、好きな人に迷惑のかかるミスを私がした。謝りつつ、どうそのミスの尻ふきをするか話していた。
内心、キツすぎてしにたいって思ってた。
その帰りにその人から「今日は怒ってしまってすみませんでした」というメッセージが来た。
でも内容が思ったものと違った。
本当は私の上司に、私のフォローをちゃんとしてほしかった怒ったのであって、私を責めた訳じゃないとあった。悪いのは上司だと書かれていた。
でもそれはすごく違うな、と思った。
何より私を庇うために、好きな人がバグったことを言わなきゃいけなくなるのが一番許せなくて、
このミスは私の責任です。ちゃんとやれることをやって巻き返すので、明日からもよろしくお願いします、と返した。これが精一杯だった。
(今思えばだいぶ突き放して見えたかもしれない)
そんな矢先に、相変わらずブラックな会社から、とんでもルールが追加された。
コロナにまつわるものだけど、あの頃はどこもルールを模索してた時期だから仕方ないとも言えると思ってた。
私はさして気にせず、ふーん、出た出たと思って流していたが、
なぜか好きな人がそれに噛みついた。めっちゃ噛みついた。理不尽だと思う点についてめっちゃ言及した質問を飛ばした。質問というよりあれは宣戦布告のようにみえた。slack全体共有の場所でトップに噛みついたんだから、いやもう、収拾がつかない…。
後で話を聞いたら、個別で理不尽な叱責を受けた後だったということだった。
ただその直後は、共有で皆が見える場所で取締役が好きな人宛にメッセージを送り、一応その場は収まった…と、思っていた。
その後、冬の長期休暇に入って、
そうして、数年経ってしまった。
私は告白することもできないまま、未消化の気持ちを抱えながら年をとっている。
正直、いなくなった後に、
なんで連絡の1つもくれないんだろうと、心配で気が狂いそうになったりする内に、
少し疲れてしまって、
あんなに確固とした想いだったのに、今では好きだったのかどうかも分からない。
クリスマスだし、こんな増田で溢れて、これも流れてくと思う。だから未練とか、整理できてない気持ちをアウトプットしたくて書いた。
もう時効だとも思って。
増田らしく締める。(完)
4人部署で1人産休からの時短、1人が夏の間に退職で実質稼働人員が2.3人になった。
当然ながら仕事量は変わらない、そして新規で人が入るのは年度が変わってから。
そんで働く女性応援ってことで何故か時短してマネジメントもなんもできてない時短ママが昇進&昇給。
問題はその時短ママがなんでか知らんがなんのマネジメントもできない、しない上に今までやってた仕事を管理業務が増えたからしない、できないと言って新人教育も俺等に投げてきた事。
そんで時短ママは発熱でしょっちゅう帰るしslackにも応答ない事が増えた。
勘違いしないでほしいが別に時短ママが帰る事も昇進した事にも文句はない。
3人の中で一番勤務年数も長いしね。
ただ困ったのが俺とAさんで実質4人分の仕事と新人教育を2人でやることになった事だ。
このAさんは漫画が物凄く好きで毎週ジャンプマガジンサンデースペリオールを買ってくる。
今一番おもしろい漫画は呪術廻戦と劇光仮面とトリリオンゲームだそう。
当然、回らん。
といっても上も分かってたからかなりトーンを下げてくれてたがそれでも叱責は叱責。
新人なんて最初は付きっきりというか帯同させないと無理だから仕事量減るのは半年後ぐらいだし。
んでまあ秋にAさんが結構デカ目のミスをして今度は流石にバチクソに怒られた。
このミスの要因は圧倒的なマンパワー不足に大きく起因するものであって普段なら絶対にないものだということは俺が保証する。
怒られたAさんはもう臨界寸前でフロアに戻ってきてこう言った。
流石に辞めるのかな、でもまあしゃあないかなって思ってたら辞めた職員さんが忘れていった孫の手を持ってあれよあれよという間にフロアを出ていった。
しかも行き先が外ではなく偉い人がいるフロアだ、流石にやばいぞとなって遅れてついていくが遅かった。
Aさん、怒った上司の更に上の人に孫の手持ってバチギレしてた。
もう信じられんぐらいキレてた。
机バンバン殴ってたもん。
キレられた上司もあっけに取られてあわあわしてたので俺が間に入って止める、だがAさんは止まらない。
「お前らが管理せんからさんざたいぎー思いをさせちょるんじゃボケ!」
という言葉が強烈に印象に残っている。
「このまま改善されないようであれば彼も俺と一緒に辞める覚悟ができています!」
と言ってきた。
なんで?
と思ったがその頃にはもうギャラリーもできててAさんは信じられんぐらい怖い顔でこっちを見て目が完全にラリってた上に超パワーで肩を掴まれてたおり
その後関係者全員のヒアリングを行った所で俺とAさんの負担の多さが改めて判明した、のだが。
現実は甘くなく人が増える事なかった。
その変わりに給料が額面で1.4倍になりました。
このまま俺とAさんに逃げられると終わってしまう上に時短勤務ママが今の状態ではどうにもならないからせめて給料面だけでも、という事らしい。
続き
(さらに続く)
私はMリーグの影響によって、麻雀は世の中に競技として認知されるものだと思っていた。
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麻雀界隈はクソ狭いので、先週あった菅原選手の三暗刻の見逃しがいまだにロングバズになっている。
大雑把に概要を書くとこうだ。
・索子のホンイツをやっていた親を落としたラス目の菅原千瑛選手
・形は中3 3s2s2s2s1s 白2(あと索子のなんかしらをチーしている)
・2sは菅原選手の目線は全見えのため、現時点の2s白のシャンポンは白の片上がり状態になっている
・そこでツモり三暗刻の形にとれるところを1sツモ切りとした
・結果白をツモって満貫をあがった
結果だけ言えば、菅原選手は1sのツモ切りがなければ跳満になっており、その後オーラスで松本選手に放銃してラスに落ちた。あの跳満があればラスにはなってなかったのにね〜と、神目線の感想はこうなる。
「親被りがきつかった」「1s切りの思考は3sは現時点では勝又選手に通るが、その後危険な牌になる可能性がある。もう一度3sを持ってきたときに1sを切れるから1sツモ切りとした」「あと白であがりたかった、ラスなので打点を見た」
・すでに2sは全見えなのだから、とりあえずツモり三暗刻に構えて、もし松本選手などからリーチが入って、持ってきた3sが危険牌だと見た場合には2sノーチャンスの1sを切ればいいのではないか
・3s切りの方が打点的にも、今後の守備的にもいいのではないか
・2sは全見えなのだから、単純に1s分あがり枚数は増えるのに
その後菅原選手は近代麻雀のインタビューか何かで三暗刻の見逃しは否定していたみたいだが、私はインタビューの内容も全面論破されているし、まぁほぼほぼ見逃したんだろうなぁ〜と思っている。
個人的には菅原選手はビーストの決勝のオーラス伏せてOKの展開で、なぜか安全牌を抱えず進行して、あわや新井プロのチートイに放銃するのではみたいなシーンもあったし、決勝卓の4人の中でもそんなにうまくはないよなぁと思っていた。さらにMリーグに入ってからの試合も見ているが、正直なかなかに危なっかしいし、菅原選手がトップをとった対局でもオーラスにドラの西を引っ張り、その後だいぶ経ったあとにまた持ってきた西をぬるっと切ったときも、神目線ではチートイが2人いたので、この西をこの順目で切っていいのか…?黙聴の可能性ってないのか…?伏せてトップなのに…?と思った。そのため、菅原選手に対してはそんなにうまいとは感じていない。まぁこれは私の個人的な感想なので許して欲しい。
話は戻る。前述した「菅原選手の三暗刻見逃し」についての視聴者批判が、その後プロと近代麻雀あたり(主に連盟と連盟が好きな人たち)の目に留まり、結果視聴者側が猛烈な批判を喰らうことになる。
「打牌批判をするな」みたいな人もいれば、「菅原選手はミスなんてしていない!」という人もいれば、「誹謗中傷はやめろ!」みたいな勢力もいた。私自身はどこかに悪口を書き込んだことはなかったが、友人と通話しながらあの対局をみて、インタビューを聞いて、友人と「いやこれはミスだろうな〜」と話していたので、こいつらからすれば私も批判対象なのだと思う。まぁそれは致し方ない。批判する者は批判される覚悟が必要なのである。
一方で、私がなぜ今までこんなに必死こいて麻雀観戦を趣味にしてきたかというと、麻雀というゲームにおいて、頭のいいやつらが頭のいい読みをする姿見ていたいと思っていたからである。だから打牌の理由も知りたい。お前らはプロなんだから、素人に教えてくれよ。そう思っていた。しかしだんだんとそれもタブー視されつつあるようだった。
「よく選手にこの打牌説明してくださいとか牌譜検討してくださいとかSNS上で言ってるの見かけるようになってきたけど、俺とかは好きにやってるだけでやってない人に文句言うのはなんでなん?と思う。やってる人は好きでやってるだけでmustじゃないからな。ちょっとでも不思議なことをしたら絶対一個一個説明しなきゃいけないの??」
彼なりの擁護なんだろうと思う。白鳥選手は定期的に炎上にクビを突っ込んでは優しいフォローをしているので、いつも通りといえばいつも通りである。私は誹謗中傷の内容は把握していないが(どうやらアベマのコメ欄が凄まじいらしいが、プレミアム会員じゃないので遡っては見れない)、こんなことをツイートするくらい酷いことをいわれたんだと察する。
多井選手が先ほどyoutubeに切り抜き動画をあげていた。菅原選手の三暗刻見逃しに触れた内容だった。
「正直3sは切った方がいい。しかし、俺や寿人が3sをツモ切りしたらお前らは必死に理由を探すはずである。多井がこうしたのには理由があると。女流だからって瞬間的にミスだと判断するな」
このようなことを言っていた。麻雀界隈は女流軽視とか女流蔑視みたいなものに触れるのが好きだ。女流だからと即座にミスと言われていたら、それは確かに女流軽視で、蔑視なのかもしれない。
しかし、私はそうは思っていない。
打牌批判というのは男にも女にも発生している。少なくとも、私は定期的に目にしている。お前絶対このプロよりうまくねえだろみたいなおっさんが、一丁前にプロ相手に批判をしているのをよく見る。しかし、男に対する批判というのはほぼ問題にならない。醍醐選手の4p切り叩きが近代麻雀のあたりで持ち出されるようになったのは、菅原選手の三暗刻見逃し叩きがあって、それからである。
「黒沢選手にもう数巡でこの4pは切れなくなると思った。今見ても4p先切りだと思う」
このように今までのMリーガーはだいたい自分の口から説明したり、指示厨のおっさんと戦かったり、もしくはガン無視したりしてきた。あとそもそもここまで死ぬほど麻雀で戦ってきて、自分に自信もあるし、そのへんの素人の言葉なんて聞き流せる。もしかしたらものすごく傷ついてるのかもしれないが、そんな風には見せない。
萩原選手なんかもよく批判の的になっており、萩原選手の打牌を揶揄したブログなんかも存在する。しかしこれも、別にわざわざプロやその周りが取り上げて問題にはしていない。先日の萩原聖人の牌隠しもなかなかに燃えていたが、公式が「本人は反省してます」とむしろ謝罪して終わっていた。
男の炎上や批判は問題視されないことはもちろん、近代麻雀はプロに炎上スレスレの発言をさせてそれをインプレッション稼ぎに使ってポイ捨てみたいな傾向まである。そんなところに媚を売らないと取り上げてもらえない麻雀界隈というのは本当に生きづらいんだろうなと感じる。
昨シーズン、松ヶ瀬選手に確か茅森選手がハイテイで發を切って放銃していて、それも結構叩かれていたが、茅森選手は(たぶん)ガン無視していた。私はフェニックスを応援していたため、あの放銃は結構ショックだったが、なんの言い訳もせず耐える姿を見て、おそらく自身で反省しているし、楽屋でもなにかしらの会話は行われているのだろうと思っていた。
これがプロである者の、男女平等の姿であると私は感じていた。これだから、きっと麻雀は今後「競技になりうる」のだと思っていた。
となると、やはりなぜ菅原選手の三暗刻見逃し批判はあんなにも問題になったのだろう。
菅原選手に言及していた、プロや近代麻雀関連の方は「女だから批判しているんだ」という方がよくいたが、それはあなたたちにも返ってくる言葉だと私は思う。あなたたちは菅原選手が女で、可哀想だから擁護した。(その証拠に擁護として「ひろえを泣かせるな」「可哀想」「可愛いから気に食わないんだろう」というワードが本当によく目立っていた。対等な人物で、プロとしてリスペクトしていたらミスやミスを疑うような盤面で批判を受けて、こんな擁護は見られないと思う)
今まであなたたちは男の麻雀プロに対して行われた打牌批判にこんな擁護をしたことがあっただろうか?男の麻雀プロだったら、ここまで擁護できただろうか?多井選手は例えばチームメイトがあんなミスをしたら、あんな擁護動画を上げられていただろうか?あなたたちは批判された男性プロに対して、わざわざインタビューして、記事を書いて、何日もかけて擁護ツイートをしたことがあるだろうか?
おそらくこのままでは麻雀は競技になんかなれない。Mリーグのかかげた目標である、オリンピック競技にもならない。それは麻雀界隈が女だからといって擁護されるような古びた世界だからである。
これまで批判を受け止めて、インタビューで反省の言葉を述べていた女流や、黙々と技術を高めて、上位リーグで活躍している女流があまりにも不憫だと感じた。「女だから許される」「女だから仕方がない」「女だから可哀想」「女だから守らなきゃ」と思われるような価値観で構築されている中で対等に見られるよう、努力が強いられるからである。
男も男で不憫だ。「男だから大丈夫」「批判も仕方がない」「男だから近代麻雀のやつらに名出しで批判を書かれてもぐっと我慢しなければならない」そんな世界でそれでもプロとして立ち続けなければならない。
あなたたちは昨今話題の「女流軽視」などのワードを持ち出して、今の時代を理解した気になっているだけで、自分たちの潜在的な差別意識に気づけていないことにそろそろ気づいた方がいい。男女平等とは女性として受けていたデメリットをなくすだけでなく、女性として受けていたメリットも捨てることだからである。
菅原選手はもう12年もやっているプロなんじゃないのか?自分の言葉で述べたり、無視したり、戦える人間ではないのか?周りが囲い込み、城壁を作る必要がある人間だと、あなたたちが証明してしまっていいのか?
追記・「男性プロのこのミスはここまで叩かれていない!」みたいなことをいう人がいまだにいるので追記すると、菅原選手の件がここまで盛り上がったのは三暗刻についての言及をしないインタビューをして、三暗刻見逃しの疑念を増加させ、さらにミスを認めることも、その選択の説明することもなく「インタビューも麻雀もうまくなります」(私は三暗刻見逃しなんてしていませんという匂わせ)とツイートし、その後多くの周りのおっさんに自身の擁護をさせたことが要因であるとおもう。(本人が擁護を望んだわけではないと思うが)
インターネット黎明期に育った30代前半とは思えないSNSの使い方である。「こういう思考で1sを切りましたが、これはあがり枚数的に3sを切るべきでした!!」とでもいっておけば、そうだよな〜と溜飲を下げた人たちも多数いたのに。(菅原選手においてはインタビューでも基本的に打牌選択の反省や、もしかしたらここはこうしたら上がりが見えたかも?などの対局の振り返りや説明よりも先に「親被りが痛かったで〜す」「ずっと配牌がきつかったで〜す」が先に出るタイプなので、こんなのは高望みだとは理解している)
まぁ麻雀界隈においては女流は麻雀の選択の説明よりも、自撮りをあげることが大切なのだからこのムーブが正解なのだと思う。私は女性として守られることなく、1人のプロとして対等に見られようと努力している人を応援したくなるがこれも好みの問題だろう。
麻雀は「守りたくなる女を囲いたいだけのおっさん」が多数見ていて、そこの需要をめちゃくちゃ満たしている。そう考えれば非常に頭のいい選択のような気もしてきた。菅原選手にはこれからもぜひ女性として守られて生きていって欲しい。
うちの会社の社内ポータルには投稿機能があって、営業部のイベントの宣伝とか役員のメッセージとかそういうのが流れてくる。
中には、ブログみたいに日記のようなものを投稿する人もいるけど、そういう人の中に「壊れちゃってる」人が結構いる。
要は、会社の制度に共感しきれないほどの怒りをぶつけたり、私怨のようなどす黒い感情をぶちまけたりしてる。
で、そういう壊れちゃった人たちになんとなく共通点が見つかったので、垂れ流してみたい。
そういう人たちから感じるのは、長いこと「所属している組織で、あまり良く思われていない」こと。
ものすごく嫌われているわけではないが、「ああ、あの人は・・・」みたいな扱いをずっとされてきたんだろうなあ。というのが伝わってくる。
その結果、本人が自分の周りと比べて「自分は評価されていない・不当な扱いを受けている」と感じ続けた結果、壊れてしまうというもの。
それは、退職を決意するほどでも、メンタルヘルスを害して休職に至るほどでもないが、ただ「ゆるく」さらされ続ける
手厳しく会社を糾弾する彼ら・彼女らが会社を愛していないのかといえば、むしろ逆で、「この会社で働いていること」を誇りに思っていたふしすらある。
この会社で働いていることは、彼ら・彼女らのアイデンティティの大部分を締めているし、自分が社内で発揮してきた能力に自身を持っている。
ただ、その「能力」はほとんどが過去のもので、現在の事業や社会においてはさほど役立つものではない。ようは陳腐化した能力なのだ。
このミスマッチ(と本人の資質?)からくる低評価をどうしても受け入れきれず、「可愛さ余って憎さ百倍」状態で、会社を批判する。
これは、まったく根拠がない決めつけだ。
上記の社内ポータルには、社員のプロフィール機能がり、(やろうとおもえば)自分の顔写真をプロフィールに登録することが可能である。
つまり、ここに書いている人たちの一部は自らの顔写真つきプロフィールを晒した上で、自分のような赤の他人に「壊れている」なんて評される投稿をしているのである。
そんな顔写真を見て、なにか得体のしれない違和感に襲われていたが、その違和感の正体が「目の焦点があっていない」というものだった。
あっていないというかは、「本来合わせるであろう場所にあっていない」というのが正しい。
顔写真なので、証明写真であっても自撮りであってもカメラマンに撮影されたとしても、カメラで撮影するので、カメラのレンズの場所を見るはずだ。人と正対して会話するときに相手の目を見るように。
だが、彼ら・彼女らの写真はなぜか「カメラのレンズに目を合わせている痕跡」がなく、もう少し先の別の何かに焦点があっている。
この現象が、本当に「壊れてしまうこと」と何らかの因果関係があるかは、調査してみたい。
散々書いてみたけど、別に彼ら・彼女らに何か不満や文句があるわけではない。乏しめたり同情する意図もない。
ただ、誰しもこうなることはあり得るし、本人は本人で悲しみや苦しみを抱えているのだろう。そういう想像力だけは持っていたい。
○ご飯
朝:なし。昼:玉ねぎ炒め。焼きそば。夜:だし豆腐納豆。ピーマンとシメジと玉ねぎのスープ。魚肉ソーセージ。ブルーベリーヨーグルト。間食:オーザック。豆菓子。ハチミツ味のポテチ。ばかうけ。(お菓子食べ過ぎ)
○調子
まあ休日だし許して欲しい。いや内臓に休日の概念はないし、許してくれないのだけれど。
・はじめに
陰気で友達が少ない女子高生のスバルと、その数少ない友人で正反対な陽気な性格のミスカの友情と断言しがたい歪な関係が、お人形さんの様と評される美少女転校生ルウの登場で変化していく様を楽しむノベルゲーム。
だけでなく、混沌が蔓延ってきて日常を侵略するホラー要素もあるのだけど、そちらは元ネタありきの展開が多くそういうものとしてふんわりとしか理解できる読んだので感想が特にないためこの一行以降はふれないことにする。
学校という閉じた人間関係と、思春期らしい自己の有りように悩む様とが、ある場面では丁寧に、別の場面では幻想的に描かれていて、この二点が文量の多くを占めている。
甘い恋愛的なイチャイチャする読んでいて楽しい気分になるシーンよりも、関係性に悩み他人を気遣うがあまり自傷的に自己言及を繰り返す辛くて悲しいエピソードが多め。
そんなこと一人で考えても答えは出ないし一生悩んだり楽観的になったりを繰り返すしかないよ、と大人になった今でこそ思うものの、自己と他者の関係性の有り様を悩む様は読んでていて共感する場面が多かった。
そんな辛い中でも食事のシーンは彼女達の悩みも何処へやらで舌鼓を打ってくれるので、夕飯の時間が待ち遠しくなったりもした。
陽気で友人が多く、テストの成績こそ悪いものの教師からの覚えもよく、容姿も可愛いと褒められ、前向きで良い子なミスカ。
しかし、スバルの方はミスカから向けられる好意を素直に受け止めない。
それどころか、些細な表現や物言いをどんどん悪意を膨らませてしまうスバルの生き方は苦しそうだった。
ミスカの一人称と、スバルの一人称を行き来することになるのだけれど、二人はすれ違い続ける。
ミスカは衒いがあるわけでなく、本当にただの根明で、楽しいことが好きなだけの普通の子。
ところがスバルはどこからでも悪意を見つけ、彼女の好意を受け取ろうとしない。
この関係値の噛み合わなさは読んでいて本当に辛かった。
ミスカが友情でなく恋愛としても惹かれていて、その理由もスバルの言う悪意のあるものでないにも関わらず、それが本当に一切伝わらない。
誕生日にケーキをご馳走するという、善意100しか考えられない行為ですら、スバルは穿ったものの見方をし、ミスカからの気持ちを真っ直ぐ受け止めない。
ペットボトルの回し飲みでミスカが間接キスにドキドキするも、スバルは喉が渇いたとしか思っていないシーンなんかは、もう読んでて可哀想だった。
空回りするミスカの好意が、物語的な意味でも何も前進させないのも読んでいてしんどかった。
献身的にスバルに尽くすミスカと、自分の内面世界のことでいっぱいなスバルのすれ違い。
スバルが素直になれば、開幕5分でハッピーエンドまっしぐらなぐらい、ミスカの好きは真っ直ぐで一貫してるのがもどかしい。
そして何よりスバルの素直な気持ちはミスカではなく、転校生のルウに向けられてしまう。
そんな端的に言ってしまうと性格が悪いスバルが、海外から転校してきたルウと交流することで変わっていく。
ルウは箸の使い方を知らず、麻婆豆腐や唐揚げやメロンパンを食べたことがない程に無垢な存在。
危うげというわけではなく思慮深いのだが、学校という枠組みからは大きく外れたような物言いもする。
そんな無垢さがスバルの悪意増幅センサーを回避するのか、ミスカからの好意を悪意に変換し距離を置こうとしていたのとは対象的に、ルウとはドンドン距離を詰める。
ミスカの好意が一方的なものだったのに対して、スバルの好意はルウに受け止められ、スバルとルウはドンドンと関係を深めていく。
ルウの方も、スバルのことを深く知りたい、会話したいと甘えるように距離を詰める。
手繋ぎデート、夕飯を一緒に作るなどの高校生らしいそれもあれば、添い寝や過激なスキンシップなどもあり、CERO Cとしてはそれなりに攻めたシーンも。
ルウとスバルがイチャイチャすればイチャイチャするほどに、ミスカは空回り続ける。
こうなっても客観的にはミスカはオカシイことをするわけではなく、ひたすらに良い子なのが可哀想さが増す。
ミスカは僕が先に好きになったのにと反転するでもなく、転校生の面倒を見れるスバルの成長を喜ぶ良い子なのだ。
ミスカからの好意は悪意に変換するのに、ルウからの好意はそのまま受け止めるのか。
ということは、スバルの精神世界を幻想的に描くシーンで抽象的に描かれる。
まだ人権の概念が無く子供を産むことだけが女性の価値であった時代を生きていたとある女性のエピソード、他人がおらず四季の移ろいをただ楽しむだけの世界などの、夢のエピソードと共にスバルの内面がゆっくりと掘り起こされていく。
一人で無限に牛乳と果実を食べ続ける生活が示唆するスバルの本音は、納得できるところもあったが、だからと言ってミスカの可哀想な空回りが救われるわけではない。
ここが本作の賛否別れる大きな箇所だろう。
スバルにはスバルなりの理由があるとはいえ、ミスカの気持ちはどうにもならないのは、正直僕はあまり好みではなかった。
あんなにも根っからスバルのことが好きで純粋にそのために良いことだけをして来たミスカが、フラれるとか、恋愛対象として見れないとかじゃなく、嫌われるのは、辛い。
ただこのミスカの好意の空回りの先が知りたい気持ちの牽引力は凄く、楽しいとか面白いではない、マイナス方面の感情で読ませる物語はよく出来ていた。
・さいごに
スバルを好きだけど見向きもされないミスカの空回りと、スバルとルウのイチャイチャという三角形の一辺が欠けた歪な関係に着目して感想を書いた。
ミスカの一人称ではスバルのことが大好きで一生懸命善意で良いことをする前向きさが、
ルウの無垢さに惚れていく展開は、辛いけど読み進める手が止まらなかった。
ミステリやコメディといったわかりやすいハッピーエンドが好きなので、好みとは大きく異なっていたが、終わってみるとコレはコレで好きな作品だった。
上司「増田君、このミスは何?どうした?何が原因?どうしてミスしたの?」
ワイ「ミスした原因ですか……俺が仕事してるからじゃないですかね?」
上司「ハァ?」
ワイ「仕事してるからミスするわけですよ。だって仕事してなくてニートだったり、あるいは昨日会社サボって家で寝てればミスしなかった訳じゃないですか。もっと言うと生きてるからミスしたとも言えますよね?死んでたらこんなミス出来ませんからね。ミスしたという事が私の生きてる証拠の一つと言えるかもしれませんね。つまり死んでない証明でもあり、ミスをするというのはとても幸せな事ですよ」
上司「あのね増田君、仕事をしてるからミスをしたなんて言ってるけど、ミスがある仕事は仕事とは言わないの。それにね、確かにあなたが生きているからミスをしているわけだけど、こんなミスをするような人は生きてなくていいの。こんなミスするような人は死んで下さい」
ワイ「パワハラですか?パワハラですよねそれ。死んでくださいって…」
人生で初めて言われたわー
それはそれは取締役員様にやらせる仕事じゃなかったですのぉ、そりゃすんませんねえ
でもこんな小さな会社で、同じチームでガッツリやり取りしてる状況ですと、何だか間抜けに聞こえますね
さらに言うと、あんたが取ってきた見積もりの確認なんだから、むしろあんた以外にいないんだよね
さらに言うと、でかい声で「このミスしたの誰だ!」って喚いて調査した結果、あんたが最初に取った見積もりの期間が間違ってたから2重発注になっちゃった、っていう報告書が生まれたわけだけど
それを「俺の仕事じゃない」って言って中身見ないのは、どうなのかなあ?子供かな?
そう言えば執行役員様もこの前まんま同じセリフ言ってたけど、上で流行ってるの?
クソ以下の経験だけど
2002年度版「このミステリがすごい!」の海外部門第1位、らしい。
まあそれは今はどうでもいい。語りたいのは小説の出来ではない。
タイトル、カッコよくない?
原題は God is a Bullet なのでそのままだが、日本語の響きが良すぎる。原文でしか読んでないアメリカ人が可哀想なくらい。しらんけど。これが神の銃弾だと誰も手に取らない。
この構造でかっこいいタイトルを20年考えているが、超えてこない。
なんかない?
トラバに書いたけど、
○の△ → ○は△ 構造のように、
ありきたりで陳腐な言い回しが、ちょっとの違いでかっこいい、だと私的にボーナスポイントです。
追追記
設問設定が悪くて序盤の人、ごめんね。
(序盤のトラバのうち、増田の意図した構造になっている多くは自演です)
ついつい追記
単に自分が感じ取れていないだけでネイティブは同じように感じていたり、なんならキリスト教文化圏だったらもっと重い意味を持っているかもよ。
持っているかもよ。じゃなくて、持っているよ。で言えたらかっこいいのに。
いや、原題がなぜこういうタイトルかは(確か)本に書いてあったよ。翻訳者による解説だったかな?
実在するタイのジャンキーな坊さんの説教を気に入って付けたんじゃなかったかな。
日本語で見た時にそういう構図になっている面白さ(日本人だけに起きる些細な幸運)を楽しんでいるだけだよ……。
上の二方、