はてなキーワード: ファンタジーとは
https://x.com/kanon_nkjm/status/1822551754707550316
まだ学生なのに、こんなことに手を出して、どうやって責任を取るつもりだか。
なんの予防にもならないばかりか、後遺症を抱える子が多数でてる。
アジュバントが脳に運ばれる子が出てる。
https://x.com/55887721ss/status/1822921944469266860
そもそも「癌が予防できる」といったファンタジーを信じる連中が悪いのだが、毒ワクチン推進とはいつも医者や医学者の妄信が発端だ。
医者や医学者は本気で毒でしかないワクチンを信じてる。善意で他人に勧めてる。
とっても厄介。
選定基準
・ハーレムなし
・強敵だらけ
https://ncode.syosetu.com/n9407fu/
連載中
編集者の口出しとイラスト化による読者のイメージ固定を避ける為、ある程度ストーリーが進むまで書籍化・コミカライズを断り続けた作品。
特に「魔術祭編」はこれまでに読んだなろう作品の中ではトップクラス。
半年間も更新がないのは残念だが、アルマークとウエンディの過酷な運命の旅に同行してほしい。
https://ncode.syosetu.com/n3930eh/
完結済
「辺境の老騎士 バルド・ローエン」でおなじみの作者による作品。
骨太の世界観、武器や魔法、アイテムや薬の細かい設定が楽しい。
ヒロインの成長が楽しみ。
https://kakuyomu.jp/works/16817330651238395614
連載中
なぜ異世界で呼吸できるのか、なぜ異世界の温度が適温なのか。なぜ異世界の魔法名や人名が地球っぽいのか、そもそもなぜ転移するのか。
登場人物が非常に多く、しかも名字、下の名前、あだ名で呼んだりするので最初は苦労するが、ハマれば間違いなくおすすめ。
作者は元小学校教諭なので学校に関する専門用語に詳しくて面白い。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888930318
連載中
通常、なろうカクヨムで評価ポイントを狙うには少ない文章量で更新頻度を増やすのが基本。
それを無視した多い文章量で更新頻度も安定しないがカクヨムで10,000点突破した作品。
チートも無いし、強敵だらけだし、普通に敗走するけど、ダークファンタジーの中では超おすすめ。
https://ncode.syosetu.com/n6680gq/
連載中
モブは死ぬが主要人物は間一髪助かる、なんてことはない。いっぱい死ぬ。
ラノベの表紙は可愛い女の子(ヒロイン)が必須だが、あまりにも死にすぎるのでモブ女子が表紙に大抜擢。
もちろんすぐ死ぬ。(いっぱい死ぬのでネタバレになってないので安心してください)
戦場で少しづつ強くなる(でもいっぱい死ぬ)作品が読みたいならおすすめ。
https://ncode.syosetu.com/n7246cy/
完結済
作者は「自動販売機に生まれ変わった俺は迷宮を彷徨う」「村づくりゲームのNPCが生身の人間としか思えない」で絶好調の昼熊氏。
氏はシリアスとコメディの差が激しいが、これはもっともシリアス寄り。
会社員がたった一人で何回も死に戻りしながら試行錯誤する作品、そりゃあコミカライズも打ち切りになりますわ……。
https://kakuyomu.jp/works/16816700427057496202
完結済
作者のこたろう文庫氏はこれに限らずプロットを良く練った上で書いているので、序盤の展開に違和感を持ったまま脱落する読者が多いのが残念。
(感想欄に「この主人公にはついていけない。もう読むのやめます」とか書かれる)
その分、後半のカタルシスが気持ちいいのだけど、web小説では難しいのだろうか。
女という集合においてならBL好きとGL好きどっちの方が多いんだろう?
ファンタジーを求めているからBLが好きという理屈はよく聞くものの、それならGLもファンタジーなことには変わりないんだから、女性なら両者同じぐらいいるってことになりそうだよね。
それでもBLのほうが多いとすれば、ファンタジーが好きだからというのは建前というのは言い過ぎとしてもメインの理由ではなくて、メインとしてはやっぱり女性だからイケメンが好きでイケメンで視界を覆いつくしたいからって理由っぽく感じる。
じゃあ夢小説乙女ゲーとかでもいいだろってなりそうだがそこはもちろんBL一辺倒じゃないひとが大半だと思う。
ようは少なくともGLみたいに恋愛対象じゃない性別しか出てこない作品なんて読んでもしょうがないって心理で消去法的にGL読者の女性はBLよりは少なくなるのかなあって思うんだが、実際はどうなんだろうね。
内容はようわからん
ノリとか絵が良いから見てる
VTuberの人ってこんなこと毎回してるの?おれオッサンだからわかんねぇ
その人(VTuber)のことがよほどお気に入りじゃないとみてられないよね、という物珍しさがある
ほんわか風に見えてモンスターの首や腕がちぎれ飛ぶ
ヤベェ女の小佐内さん
チアリーディングの動きがすごい
負傷療養中の子が復帰するのかが一番気になる
3話あたりまで爆笑
3話めくらいまであった主演声優による本編全部コメンタリーはもうやらない?
見てるとあっという間に時間が過ぎる
キャラ絵が可愛らしい
色合いもきれい
箸休め的
もう惰性で見てる
新キャラが良い感じ
どうせ最後はやるんだろうと思いながらみてる
正直、早見さんの演技見るためだけにみてる
内容は関係ない
主人公がハイスペでありながらあたりの優しい感じに好感が持てる
冒頭の「過労死の後転生」って設定、わざわざいる?その後も一切触れられることないし
硬派・ハードボイルド
とりあえず「第17話 成長」だけで2000円くらい課金してもいい
今期は出だしおとなしい感じだったのに急にアクセル全開
中世ナーロッパの世界に飛ばされた吹奏楽少女たちがケルティックな音色と出会ってモンスターの素材からハープ・バグパイプ・アコーディオンなどを作ってバンド活動する感じのやつできないの?
創作好きを謳ってるくせに、フェミニズムSF、フェミニズム・フィクション、フェミニズムファンタジーというジャンルすら知らずに「フェミガー!、フェミガー!」と唸り続ける。もうオタク名乗るの辞めたがほうがいいよ。
「東京秘密基地チャンスじゃない?」と言ってきたのは夫の方である。
なんならこの記事を書いてほしいと言ったのも夫で、書くのは私。アップロードするのは夫に任せてある。
夫33歳、妻35歳子なし、結婚歴7年。離婚歴があり、セックスレスの経験もあるため、2度目の結婚では、セックスレスを恐れて週に1回は夫を抱くように意識している。
もう「抱かれる」というスタンスではいけないと思えるのは、2回目の結婚生活だからである。
今までの私は、彼氏が途切れたこともなかったし、20代はマンコの価値が高くて、セックスはいつでもできたし、風俗に行くなんて考えたこともなかった。
そんな矢先、夫が1週間出張でいないことが増えた。
夫はアングラなものが好きで、よく『東京秘密基地』についてTwitterで眺めたり、知人から話を聞いたりしていて、とても興味がある様子だった。
一方わたしは、3Pに興味があり、人生で一度はやってみたいことの一つである。
しかし夫は3Pは興味がなく、叶えるには『東京秘密基地』だろうなと思っていた。
なので、せっかく夫が言ってきたこの機会に、お試ししてみようと思ったわけ。
そして初めて女性用風俗を試してみて感じたのは、思いもよらず、自分の過去のトラウマからの解放であり、「あ、私自由になりたかったんだ」という気づきだった。
うだるような夏の暑さ。陽が傾き暑さが少し和らぐ時間帯に、暑い中待つのは疲れるので、商業施設の中で待ち合わせをした。
相手にはどんな服装で行くか事前に写真を送っておいたので、男性が気づいてくれて「あ、どうも」といった感じで合流した。
長身でスラリとした男性で、サングラスをした姿が、めちゃくちゃ友達に似ていて笑いそうになる。
東京秘密基地では、サイト上でおすすめのホテル情報がまとめてあり、その中から良さそうだなと思っていたホテルへ向かう。
ラブホテルなんて久しぶりだし、慣れていない中、ありがたいことにエスコートしてくれる。フロントのお姉さんに、部屋の中にお水が何本あるか確認もしていて、商業だ〜と感心してしまった。
部屋に入ると話ながら、照明を調整し、キャンドルに火を灯し、持参したアロマディフューザーでアロマを炊いてくれた。持参したBOSEのスピーカーからは、ヒーリングミュージックがかかり、その様子は、まるでプロのヘアメイクさんが、仕事場を整えているようだった。
あっという間に準備が進む中、お風呂にお湯がはられ、ふたりで歯磨きをしてた。なるほど、歯磨きするのか、などとドギマギしながら歯を磨いた。
「なんで女性用風俗で働こうと思ったんですか?」と聞いてみると「叶えたい夢があって、将来事業をやりたくて、そのためにまとまったお金をと思って始めたんだよね」と。
嘘でも「綺麗な応援したくなるようなストーリー」に、正直「この人マーケ上手いな」と思った。
だって、正直、政策金融公庫にお金借りて事業なんて始めたらいいわけで、会社をやるために風俗をするなんて綺麗な嘘だと思った。
だから「叶えたい夢があって、風俗をしている」というストーリーラインは、頼むお客さんからしたら、「夢を応援する一助として指名する」言い訳にもなるわけで。すごく上手だなと思ったわけだ。
私がシャワーを浴びて、次に男性がシャワーを浴びている間、ベッドの上でぼんやりと鏡越しにシャワーを浴びている様子を眺めていた。
こういう部屋のつくりはラブホテルならではで、よく考えられているなと、また感心した。
壁に反射したキャンドルの灯りが綺麗で、ガラスのキャンドルホルダーも、きっといいものなんだろうなという気がした。
カウンセリングとして、「性の悩みはある?どこが好き?」などと聞かれた。例えば中イキできないという悩みのある方は、中イキできるようになったりするらしい。
わたしは悩みはないが、女の子扱いされたいし、ロマンチックな感じがいいと答えた。
そしていざ「ファンタジーマッサージ」が始まった。「オイルマッサージと指圧どっちがいい?」と聞かれてオイルにした。
「ファンタジーマッサージ」とは、性感マッサージのことを、東京秘密基地がオブラートに包んだ言い方で、ワードセンスには脱帽である。
なんてことないマッサージから始まり、夫以外の人と触れるのは久しぶりで、初めて世界に触れた赤ちゃんになったような新鮮さがあった。
くちびるが柔らかすぎて「なんのリップ使ってるんですか?」と食い気味で聞いてしまった。
信じられないくらいテクニックがあり、全く潮を吹かない体質の私は何度も潮を吹いた。何度も何度もオーガズムを得て、女の快感には天井がないんだなと知った。触られただけでもイってしまう身体になってしまった。
「あ、私もう浮気しないな」
と思った。
野良の男と浮気するくらいなら、お金を払ってファンタジーマッサージを受けた方が満足度が高い。
無我夢中というか、必死というか、未来の不安も、過去の辛い経験も忘れさせてくれる。今ココにしか自分が存在しないような感覚こそ、私がセックスが好きな理由だったなと思い出した。
そして「今、私は自由だ」と全身の細胞が沸き立つように感じた。
ちょうどその頃「内的家族システム」に関する心理学の本を読んでいた。
人間の人格はいくつかのパーツに別れており、複数の人格を常に使い分けているという話。妻としての自分、会社員としての自分、誰しもがいろんな顔を使い分けて生活をしている。
そうした表に出るパーツとは別に、深層心理には、過去のトラウマを受けた時にそのトラウマを引き受けるためにできた人格(パーツ)があり、そのパーツは、トラウマを受けた年齢で時が止まっているそう。
私はいわゆる毒親育ちで、10代の頃は親とか経済的な貧困から抜け出したかった。自由になりたかった。
そのことをふと思い出したのだ。
私は人生をかけて自由になりたかった。そのために一生懸命仕事をして、自分のお金で今風俗に来ている。
トラウマを引き受けたパーツは10代のままで止まっており、自分が今35歳でもう10代でないことを、そして人生うまくやっていることをパーツに伝えることからトラウマの治癒は始まるそう。
20代の頃はお金を払って風俗に行くなんて思ってもみなかった。でも今こうして自分のお金で風俗に行けることに謎の自信を覚えた。
ハイブランドのものを買って、自分は大人になったんだと思うように、私は女性用風俗を通して、全身で自分は大人になったんだと思えた。
もうとっくに自由になっているはずなのに、深層心理は10代で止まっていて、自由になっていることを知らなかったことに気づけたし、過去の私の願う「自由になりたい」という思いにはケリがつけられたのだ。
ファンタジーマッサージをして、何をしてもイク身体になった私は、とにかく夫とセックスがしたくなった。「早くしようよ」とせがんで、夫はというと、何をしても気持ちがいい身体になった私をみて可愛いと思ったらしく、すぐ射精に至った。
正直、自分は良くても相手がヤキモチを妬いたりしたらどうしようと思っていたが、そんな心配は露知らず。
私は人生をかけて自由になりたかったことに気づいたこと、そして自由を叶えられたことに気づけたこと。悟りを開いたような発見の多さに、「大きくなって帰ってきたね」と感想をくれた。
私にとってはすごくいい経験だった女性用風俗だが、全ての人におすすめしたいと軽々しくはいえない。
「話を聞いて一晩考えたんだけど、私相手のこと好きになっちゃって、夫いるのにって罪悪感覚えて泣きそうw」
「今まで遊んでこなかったツケがきてるw」と女友達は笑っていた。
性というものはある程度、相手を消費する感覚がないといけない。ガチ恋になるリスクがあるなら、おすすめはできないが、ある程度相手を消費する感覚があるなら、ぜひファンタジーマッサージを体験してみてほしい。
「他の人試したいとかないの?」と夫に言われたが、私的にはいいと思ったら同じ人をリピートしたいと思った。
身体を預けるという意味では、医者ガチャと同じものを感じたのである。いい医者に出会ったら、かかりつけ医にするように、私は同じ人をリピートしたいと思う。
数年前、育休中の不規則な空白時間を虚無ってた時に、書き溜めたものだ
話の元は、小学生の頃に妄想していたファンタジー世界の話で、暇な時間を使いに使って設定は練りに練っており、それを記憶から掘り起こして文章に書き起こしたわけだ。
何度も頭の中で反芻した話を文字に起こし、細かな不足は整えて読める内容にしたそれの存在を、復職してからずーーーっと忘れてた。
めちゃめちゃ面白い話だった。
個性的なキャラクター、テンポの良い会話、随所にちりばめられた伏線、こまかに練られた世界観設定、散らばっていた個々のエピソードが繋がっていく爽快感
これ、キャラ設定とかまとまってないの??
って片っ端から探したけどない。
どうやら当時は別の話を考え出してそちらに注力してしまったようだ。
えぇ〜気になるぅー!先生続きまだですかぁ!
ってどんだけ面白い話書いてんのか気になるかもですが、これが他人が見たら面白くないんだわ。(他一次創作はピクシブとかに投稿経験アリで立証済み)
あぁこれの続きかけるの私しかいないなんて
仕方ないから書いてやるか!
私先生の続編にご期待ください!
『ズッコケ山賊修業中』の別れの部分と、『うわさのズッコケ株式会社』の商売の仕組みの説明だけ妙に覚えている
地味に街の地図の部分が好きだった
徒歩と自転車で行ける生活範囲から始まるリアリティが小学生には自分にも起こりえるかも感があったからだと思う
90年代後期はホラーブームがあり、児童書でも恐怖をあおるものが多かった中、
ホラーの怪物たる吸血鬼と友達になる展開に面食らった覚えがある
そのため、味付けや内容の異なる『花子さん」を小学生時代は過剰摂取していたと思う
子供向けホラー作品の中で、子供自身が怪奇現象と戦うのが目新しかった気がする
ぬ~べ~とか霊能力者の大人でなくても、呪符や巻物や数珠みたいなアイテムを使って小学生が怪奇現象に立ち向かえるんだ!と夢中になって読んだ
大学のときに、腐女子の先輩に「地獄堂霊界通信と言えばミッタンだろうが!」と言われ、子供に振り回される元ヤン警官に目をつけるとはこの人早熟だったんだろうなと思ったのを覚えている
■リング
車の移動図書館が小学校高学年ごろに地元ではじまり、今まで図書室になかったライトノベルや大人向け娯楽小説などに触れることとなった
何となく借りたら、精子を媒介として増殖する零体という概念が怖すぎて、2日間くらい寝れなかった
初めて触れたアンチヒーローでかつ、ファンタジー的な世界観のパロディ的な作品
これと魔法陣グルグルやドラゴンクエストの四コマ漫画などで、ファンタジーはパロデイして遊ぶものだと意識づけられすぎた
そのせいで、中学生のときに指輪物語を読んで、みんなこんな濃厚な世界観を知ったうえでパロディしていたんだと自分の無知に若干の反省をした
この作品の生でクールであればクールであるほど格好いいし、弱い能力であればあるほど格好いいと思うようになってしまった
ペパーミントの「大衆に売るためのコツはちょっとだけ不味く作ることだよ」みたいな台詞がいまだに印象に残っている
中学生のときに実家の近くに古本屋ができて、100円で買って読み漁った
怪奇現象や登場人物だけでなく、文章での細部描写自体が怖いことがあると知った
スタンド・バイ・ミーの死体に集まるカブトムシという描写が怖かった
ボケっとしてるかわいいモンスター略してボケモンと人間が共存する世界で10歳の男の子だけが相棒のボケモンをキャプチャーボールに入れて冒険に行くことができて女の子は男の子のサポート役としてなら冒険についていくことができる、そんな決まりに反発する女の子の漫画が出て
ポケモン好きからは「主人公が男だけなのは昔だけで今は改善されてる!」「女はサポート役とかそんな設定無いんだが!?」って猛反発食らってる感じかな
モンスターと人間が共存するよくあるファンタジーですよくあるファンタジーものの中でこの作品はそういう設定なだけでしょって言ってもモンスターの名前やモンスターをボールで捕まえたりバトルしたりできる設定からどうしてもポケモンが思い出せちゃうからポケモンはそんなんじゃない、と言いたくなってしまうというか
水着というのは鉄道の登場で人間の移動が楽になり水泳という健康法が登場しブームになった後に生まれたもので、それ以前は近所の川や海に裸、もしくは下着や古着で飛び込んでいたのが精々
ということをあまり意識する人はいないし意識しても話が面白くなるわけでもないので中世ファンタジーの女キャラがビキニ着てようが問題にならない問題
タイトルに対しての答えは否だ。
既に多くの絵描きは何らかの形で使用した経験があると思うが、その中でほとんどの人の結論はAIは正直ツールにしかなり得ないになっていると思う。
勿論そうじゃない人もいるけど、少なくとも自分の絵(※拘りや個性)を持っている人はなんとなく理解できると思う。
自分の苦手な部分や、絵に足りないものがなにかを考えた時にAIはある程度の参考にはなる。
でもある程度であって、完璧な参考にはならない。何故なら、AIイラストはAIイラストにしかならないから。これを説明するのは難しい。
特に自分の絵が何となくではなく、限りなく完成されている人であればあるほど、AIとのズレに生じる違和感が気になると思うし、
AIだけだとどうしても自分の絵にならず、AIよりも自分が描いた方が納得のいく良い絵になることがほとんどだ。(絵のレベルによるが)
パッと見の綺麗さ、生成速度はAIには敵わない部分はあるけど、それのみ。
ゆえにAIで時短できるところは時短するけど基本自分で描くし、あくまで参考にしかならない。
AIはそれっぽい資料を見つけるためのツールとして優秀なのであって、所詮はそれっぽいものしか出てこない。
ちゃんとしたものは、AIではなく本物じゃないと分からないし、表現出来ない。
それっぽいものと、ちゃんとしたものとは全然違う。沢山絵を描いたり、見たり、仕事にしてる人はそれに気づいてる。
また、仕事先は基本AI利用は禁止としているところも多い。(契約書や資料に記載がある)
基本発注資料にAIを参考画像として載せてこんな雰囲気の絵で、や構図で、ポーズで、と指定されることはあっても、AIで出力してもいいですよ!とはならず、AI生成使用NGが多い。
理由としては、リスクを背負いたくないから、と言う点が挙げられると思う。
ただ、それとは別に長い目で見た時に、イラストの著作権も持っている企業の場合、ある程度AIで賄える部分については仕事は減ると思ってる。
現状、AIイラストを一番利用したいであろうキャライラストをメインコンテンツの一つとしている企業(ゲームや漫画)については、作者とそのキャラ絵柄の個性がかなり深く結びついている為、それを生み出した作者が虐げられるような状況になれば、いい結果に結びつかないことは容易に想像できる。
長期的に見ても人気のクリエイターであればあるほど、そのような企業にはキャラを提供しなくなるだろうし、今は個人でも稼げる時代なので困るのは企業側になってしまう。
では、背景はどうか。
ゲームの場合、世界観設計の段階でコンセプトアートや街並み、どんなデザイン設計とするかが割と重要なのでこれも基本AIでイメージ出し、そこからこんな感じでというふわっとしたイメージを形にできる目と力のある人が世界を作るので、やはりすぐには無くならない。
漫画の場合はどうか。これは世界観設定による。ファンタジーや凝った世界観ではない場合、背景はそこまで重要じゃなくなる。いや、本当は重要なんだけど見る側はそこまで背景に注目しない可能性が高い。この場合においては一部置き換わるだろうが、しかし絵柄によって背景も変わるもので、それをAIが全て賄えるかと言えばそうでもない。人間の目なのか、絵を描いているからなのか分からないけど、無意識に異物が混ざっていることに気づく。そうなると、途端コンテンツに集中できなくなることも多い。
漫画は特に、書き込むバランス、量、文字の配置、フォント、シーンによっての書き分けなど多種多様だ。全てがデザインなのだ。
流れが大切なので、その流れを遮る要素がちょこちょこ挟まれたら気になって集中できない。
違和感のバランスをみる目がある人が上手く手間を省くために使うツールとしてAIは有用だけど、何となくここにこんなイメージでという使い方にしかならない。
見る目がない人が使うと、その違和感に気づけないのでなんでこの場面でこの作画に…?とほぼほぼなると思う。影とかも。
だから、悲観してる暇あったらAIでもなんでも利用して自分の画力は勿論、それ以外で生活するために賢く立ち回ればいいんじゃないかと思う。
AIはそれっぽい資料として見るなら使えるツールだし、それっぽい資料を使うにもちゃんとした目は必要だから加筆トレスも見る人が見ればわかる。バレる。
どんな大御所だったとしても、プロの絵描きの中では基本あれはAIトレス、加筆だねとバレる。
そうなるとフリーランスは信用も大切なので、AIじゃないですよと嘘を言われたら一気に信用も無くすし、案外絵描きと企業も繋がっていて情報共有されたりもする。
個人の場合は、バレない限り生きながらえるんだろう。あるいはバレても、信者がいればどうにでもなったりもする。けど炎上はするし、それでも気にしない図太さがあれば案外生き残ったりする。しかし結局ただこれも長続きはしないと思っていて、どこかで破綻する日が来るし、過去のそういう汚点部分に対して寛容な世の中も、終わりが近づいている肌感覚はある(漂白される)
気づいたら淘汰されてる。
案外、SNS等であまり目立たない人の方が息が長く続いてるし、実績もあったりする。
新しい絵柄開発してもすぐ食われるから売れなくなる、も認識が間違っていて、その絵柄が個性的であればあるほど、本物の価値が高まりやすい。
ブランド品みたいなもので、本物の価値はそこまで変わらないんだよね。
勿論、偽物でも欲しい人はいるので偽物でも安いしそれっぽいから買う!という人も必ず出るけれど、この作者が生み出した新しい作品という価値は生み出さないのと、偽物につくファンは偽物の人のファンではないので、すぐに他の話題のものへ移りやすい。
そういう流行りものをずっと追って偽物を作り続ける執念は維持できるのか、というとそれも難しい。
そしてその偽物を簡単に誰しもが作れるようになればなるほど、その偽物を作る人の価値は当然無くなる(みんなできるから)
これが、長年自ら絵を描いてきた執念を持ち合わせた人なら、今後さらにAIも上手く利用しつつ自分の絵に活かしていけると思ってる。
対立すべきなのはAIを使用して創作の邪魔をしたり正しい資料を見つけにくいようにする人達や、著作権のあるデータを無断で学習させたモデルの入った有償サービスを提供している事業者側であり、そもそも営利目的ではなく、あくまで学習用途のみなら、ここまで問題にならなかったように思う。
長々と書いたけれど、こんな理由でAIと作家は対立構造にないよね、というお話でした。
今のクリーンでは無いAIを営利利用するのがOKです、となってしまうとそれはイラスト分野以外でも問題ごとが増える気がしているので、そこは否定したい。
ところで、AI推進してる人は自分がAIで自分の絵柄だ!と思って生みだした絵柄や構図を他の人にそのまま取られても界隈盛り上がるならいいよね、となるのか否定的な気持ちになるのかどっちが多いのか聞きたい。AI推進するならもちろん前者が多いと思うけど、どうなんだろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
とても詭弁的な返しで嬉しくなる
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なぜなら実際におこってるからだ
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いまだにフェミに典型的に用いられてるけど、割れ窓理論はとっくの昔に意味がないって否定されてるの知ってる?
稚拙な論点ずらしというか、あなた自身が「性被害をなくしたい」と「性加害を意識せずにすむ社会で暮らしたい(or子供を暮らさせたい)」という欲望に自分で区別をつけて飼い慣らせてない気がする。
だから本当に因果関係があり、性加害が減るかどうかの話を「意味がない」なんて言ってしまえるし、
自分たちがしようとしてることが「臭いものに蓋」どころか、「臭いものに布をかけて女性の尊重というお題目を唱えれば性加害はないはず」というファンタジーで性加害を増やそうとする側になってることが受け入れられない。
人類史上、ガチガチ思想統制した宗教国家や独裁国家ですら性被害ゼロの社会は実現できてないし、実際に犯罪があるのならまず必要なのは「危険と欲望を社会として飼いならす」ことだよ。
被害発生8割のダウンタウンをキレイにして安全に見せかけたとしても油断させて致命的な被害を発生させやすくなるだけでしかない。
しっかり、因果関係が強く証明されてるところにお金と人を使うのが性加害を減らすのに必要なことで、メルヘンの世界で暮らしたい欲望はわけて考えないと
「〇〇人はなんか犯罪率高い気がするしゴミのような存在だからゴミのように殺処分してもいいよね」という相手を根拠なく人間扱いすらせず殺そうという酷すぎる差別してることに一生気付けないよ。
「児童を性的に見る」という価値観が問題、という前提が成立してないから個人的に嫌いだし悪影響な気がするから排除していいんじゃね、にしかなってないように思う。
性加害が「児童を性的にみる価値観が肯定されてるから」おこるというほど単純なものではなく、支配欲などの影響が大きいといわれたり複雑なものなのは明白だし、
そもそも「児童を性的にみる価値観が肯定されてなければ児童を性的にみない」なんてことはありえない。
影響しだいでどちらでもいいライト層、カジュアル層みたいなのはいるかもだが強い動機は持たないし、自暴自棄になった結果選択された犯罪だとしてもそうなるまでの状況や犯人が主観的に思い描く成功率などのファクターが大きい。
(児童を)性的にみない価値観が絶対的に教育されてる聖職者でも性犯罪の件数が問題になってるのだから、「ある価値観を社会全体が否定/肯定すれば解決する」というのは戦中日本の精神論のようなファンタジーでしかない。
悪いフィードバックの可能性をいうならば、良いフィードバックの可能性に言及しないのは片手落ちだし、
「実際に事件がおこってる」から価値観の肯定が悪いと結ぶのも極めて非論理的。
お餅などの死因との因果関係が明確なものですら規制されてないのに、因果関係が極めて不明瞭なものが軽々しく扱われるのは異常。
夜中に食べるパスタの罪悪感。
食べたいときがあるじゃない。
今日の夜は控えて帳消しにするわ。
だってさ、
暑いんだもん。
もうかれこれかれかこれか分かんないけど
ここでもちょっとザジェイウォークさん文法をちりばめちゃうけど。
そっかー
そう言われてみたら素麺もここ久しく食べてないけれど
あれカロリー成分表見ると結構ドン引きするカロリーの高さじゃない?
でも冷やして食べる分飲み込んで食べちゃう分
そう期待したいわ。
お友だちが本当に言ってて大丈夫?って思ったのは
おにぎりは冷えていた方がカロリーがないって本気で言ってる人がいて、
確かに!
ほぼカロリーがないと一緒のことだし
あとぺしゃんこにすればその分薄くなってカロリーも控えられるって。
そもそもとして、
その分カロリーが無いんじゃね?って思うのよ。
そう言って誤魔化して素麺を食べた意欲を増し増しに!
そういきたいじゃない。
そう!誰だって夏の素麺を快適な整って整備された薬味セットで乗り越えたいのよ。
案外お手軽な薬味セットって売ってないのよね。
とりあえず
まあみんなネギは好きでしょ?って万能ネギの刻みネギは文字通り万能的に使えるけど。
すりおろし生姜や刻みミョウガも予めそうなってる素麺に適した葱と合わせて少なくとも最低の3種薬味セットってのを素麺売り場の横に置いて売ってあったら私絶対に買っちゃうわ。
ミョウガは特に食べたいフレッシュな風味が爽やかな野新鮮採りたてのものを一度食べたら二度と市販のミョウガには戻れないこともあるけど、
この快適なミョウガもある薬味セットの前のお手軽さには勝てないと思うので
本気で最低でもこの夏はそう言った素麺の食べ方をして夏を楽しみたいじゃない。
いまここで初めて告白したけれど、
そう言っていると素麺食べたくなるわよね。
素麺も茹でてあるのが売ってすぐに食べられるのがあれば冷凍素麺優勝すると思うの!
冷凍で思い出したけれど
駅そばの蕎麦麺が冷凍蕎麦の美味しいのを使っていると知ってから
夏はいろいろと忙しいのよね食べることでも。
キッチンで火を使いたくないなるべくならばそうしたいけれど、
背に腹はかえられない文字通りお腹が空けば夏の麺を食べたくなるのが夏のサガなのよ。
いや違うわ夏の麺を美味しいのを探す私のサーガ!
壮大な夏の物語なのよ。
そうね、
素麺の夏を1回でも過ごせたらと思うわ。
その際はもうカロリーとか気にせずに素麺をめいいっぱい楽しみたいわ。
うふふ。
こっちの方が本当はパンもふっくらして塩味もそんなに塩辛くない私の印象なんだけど、
美味しいのはこっちねお値段もいいお値段、
まあ味相応の美味しいお値段だから仕方ないのは仕方ないけれど
美味しいのには変えられないわ。
そんな
といっても
ゴクゴク飲んで
朝の冷たいのをシャキッとするわ。
昼間もしっかり水分を意識して摂ってね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!