はてなキーワード: オーバーラップとは
id:BigHopeClasic です。
ホッテントリ入りした以下の記事は、両角友佑というカーラーの知性を示すものとして、さらに幅広く読まれてほしいと思います。
両角友佑が語るカーリング界のリアル「今の強化方法には限界がきている」
https://pyeongchang.yahoo.co.jp/column/detail/201802250010-spnavi
ただ、この記事を読む上で注意しなければならないのは、「両角とSC軽井沢の利害」と「日本カーリング界の利害」が微妙な重なり方をしていて、その切り分けを読む側が慎重にしなければならないというところにあります。この2つの利害は、かなりオーバーラップしているのですが、しかし完全に同一ではなく、そこを見誤ると、過度に両角とSC軽井沢に平衡を傾けてしまうことになります。そのことについて、補助線を引いてみたく書きました。
ブックマークコメントを読むと、多くの方が今年の日本選手権の開催日程と世界選手権の代表選考に疑問を感じたようです。このインタビューだけを読めば無理もないと思います。しかしこれが、非合理的で理不尽な決定なのかというと、むしろこれはかえって優れて合理的な選択なのです’(ただし、最後に書きますが「合理的に過ぎた」面が出てしまいました)。
私はカーリングについては素人なのですが、素人なりに日本カーリング協会(JCA)の運営に思うところがないわけではありません。高田明会長が関与していたらずいぶん違うだろうな、などということを夢想する程度には、コンテンツの魅力をフルに活用しきれていないとは思います。が、理想とは程遠く至らないところもありながら、少なくとも非競技者の目から見ては、決定的に落第の運営とまでは思っていません(知り得る情報が少なすぎるということはあります)。
で、日本選手権の日程と世界選手権の代表選考に関する話になります。過去3回の五輪年の日本選手権は、2006年、2010年、2014年と五輪後の熱が冷めやらぬ3月上旬に開催されており、五輪代表がそのまま参加していました(世界選手権の代表選考については、年によって異なります)。それをなぜ今回「五輪前に日本選手権を開催し、そこに五輪代表を参加させない」かたちに変えたのか。
まず、五輪代表と世界選手権代表が異なることについては、今年の場合でも決して珍しくはなく、むしろ例を多く見ます。次に、五輪の前に国内選手権を開催し、五輪代表をそこに参加させないという例については、カナダがその方式を採用しました。カナダは昨年12月に五輪代表選考会を行って、五輪代表チームは五輪に集中させカナダ選手権への出場を免除、カナダ選手権を五輪直前の1月末から2月に開催し、その優勝チームを世界選手権に派遣します。したがって、他にも例がある、という点では、異なことをしているわけではない、ということになります。
もちろん、世界一のカーリング大国であるカナダの猿真似だからいいのだ、という単純な話でもありません。五輪代表と世界選手権代表を分ける、という点には「より多くのチームに世界最高レベルの大会の経験を積ませる」という意味があり、日本選手権の開催時期を前倒しにするのは、「世界選手権への参加の準備に十分な時間をかける」という意味があります。
カーリングの世界選手権は毎年3月下旬に開催されますが、開催年によってその意味が全く異なります。具体的には、五輪出場権を争う「五輪前年と前前年の大会」と、それがかからない「五輪開催年とその翌年」にわかれます。前者は、その時点で国内最強のチームを派遣して、しゃにむに五輪の参加権を勝ち取りに行く大会です。他方後者は、名誉と実績という点を除けば「強化のために消費できる」大会です。国内2番手以下のチームを派遣するタイミングとしてはベストです。
そうは言っても、その世界選手権の代表選考会に五輪代表チームがいれば、そこはそれなりの確率で五輪代表チームが勝ちます。もちろん五輪代表チームを除く最上位チームを派遣する、でも構わないのですが、それはそれで差し障りもありそうです。また、五輪代表チームを除いてできた日本選手権の出場1枠を他のチームに割り振る、というのも、強化の点では意味があります。なにより、3月上旬に開催して優勝して、さあ半月後に世界選手権開催地のカナダやアメリカやヨーロッパに行ってください、となっても、みんなアマチュアですからね、そう簡単にスケジュールの都合がつくわけでもありません。五輪代表チームを除いても有力チームは準備もできるかもしれませんが、そこは一発勝負、伏兵が勝つ可能性だってあります。
というわけで、この判断自体は極めて合理的なもので、異論を挟む余地は本来ありません。あえて難じるとすれば、合理的に過ぎたことでしょうか。
今回の盛り上がり方は、単純に男女が両方出場して、かつ成績を上げて露出が増えた、という要素以上のものがありました。現場を取材する記者の記事が良質化し、それがSNSで強力に拡散する、という点がそれを強力に後押しし、より本質的な情報が多くの人に届けられたといえるでしょう。
その効果として、まさに今、このタイミングで、国内でのSC軽井沢の試合の機会を作ることは、パブリシティという観点からはこれ以上のものはなく、その機会をみすみす喪失しているように見えるからです。
さて、ここで、現状分配しうるすべてのリソースをSC軽井沢に集中させていいのか、という、悩ましい、正解の見えない問題が発生します。
今このタイミングで国内での露出機会があったとき、その果実のほとんどはSC軽井沢が持っていくことになります。それは、来季以降の活動が今の段階では確定的ではないというSC軽井沢にとっては、この上もない利益となるでしょう(2006年、2010年の日本選手権で、3位の常呂中学校(robins)、2位の常呂高校(WINS)がメディアの注目を集めた、という事実はあります。しかしそれは、彼女たちのプレイレベルと残した結果に加えて、彼女たちが女子中学生、女子高校生だったという付加的な価値も大きく寄与していました)。
誤解を避けるために言うと、両角が自己の利益だけを目的にこの発言をしたとは、私は毛の先ほども考えていません。彼は心底日本のカーリングの全体利益を考えてこの発言をしているのであり、そして言っている内容は正しいと思っています。ただ、悩ましいのは、この問題、正解が一つではなく、そしてその較量が難しいということで、そのことを心に留めないといけないということです。
部外者が立ち入れるのはここまでになります。日本選手権がない代わりに、3月14日から18日まで、青森市では日本ミックスダブルスカーリング選手権が行われます。今回の五輪から始まったこの種目、残念ながら日本は国際実績が足りず出場を逃しましたが、次の北京五輪への出場を目指して強化に入っています。この大会には、各地の予選を勝ち上がってきたペアのほか、強化委員会の推薦指定枠で日本代表から両角友佑ー吉田夕梨花、山口剛史ー藤沢五月、清水徹郎ー吉田知那美の3ペアが出場します。
推薦指定枠は昨年から導入され、早速初回で阿部晋也-小笠原歩組が優勝しています。即席の代表ペアと勝ち上がってきたペアのどちらが上に行くか、それも含めて興味深いところです。
かなりぐちゃぐちゃになってしまった。
もっと短文でズバッと言える人言語感覚や文章を読み解く力がすごい人の意見も聞きたいです。
うっちー「…いいの?」
喪129 2P 4コマ目
http://www.ganganonline.com/viewer/player/viewer.html?tw=2&cid=SQEX_WATASHIGXXXC1290_72
いやもう、これで言いたい事は伝わる気がするんだけど、自分のなかでうまく言語化できていないので、ちょっと言葉を尽くしてみようと思う。
まず、うっちーは修学旅行編では雌猫の間グループの面々とお揃いの花冠を付けていて、
今回の遠足編でもこっちとお揃いの耳をつけている。
これは、うっちーがいつもの六人から、もこっちを優先していることを示している。
いや、示しているも何も、事実スマホがないと嘘をついてまでもこっちと一緒にいたがってるんだから、そんなことは耳による隠喩がなかったとしても、明確だ。
ただ、遠足編喪128までの、もこっちたち六人組はそもそも別にお揃いの耳をつけているわけではない。
あくまで、もこっちとうっちーだけがお揃いなのだ。(吉田さんの耳が同じように見えるコマもあるけど、ところどころで吉田さんの耳だけ三つの白い模様が入っているので別物だと解釈した)
もちろん、これはうっちーともこっちだけが、雌猫の間グループと同等の親しさ(厳密に言えばうっちーがもこっちとそれぐらいの親しさを持ちたいと一方的に思っていること)を示しているわけではない。
もこっちたちのグループの構成員たちは、それなりに互いのことを思っている(もちろんそれぞれの好感度は、一方的な「好きな人いる」もいれば、そんな仲良くなったと他人から称される間柄もあれば、あいつらといるのが楽しかったから忘れてたが…とごちる関係もあるから、一様ではない)が、そのうえで互いが別々の耳をつけている。
という、まずうっちーの耳の移り変わりと、雌猫の間グループの耳、それともこっちたちの耳について押さえたうえで、今回の本題である田村さんの耳だ。
(ここら辺過去ログを保存してないから、ページ数などをちゃんとかけないのもどかしいな)
私いい
と断っている。
もちろん、これは提案者が親しくないネモだったこともあるだろうが、
そもそもまこが提案しようと、もこっちが提案しようと、吉田さんが提案しようと断りそうなキャラクタではある。
そして、その次の喪126でも、田村さんは頑なにネモとノリを合わせようとはしない。
説明の都合上、作品と時間軸が反転してしまったが、もう明白だろう。
過去の修学旅行における「うっちーを含む雌猫の間グループ八人」や
遠足回における「うっちーとナツを除く四人」は、みんなに合わせてお揃いのものをつけている「普通」なのだ。
ということを踏まえると、遠足回でネモはもう一つ深い独白を残している。
やっぱり黒木さんは
普通じゃないな……
また時間軸を反転させてしまったが、喪125でもネモはもこっちたちを普通じゃないと思っているんですね。
このネモと普通に関しても、今回の喪129では深堀されているのですが、
この増田においては田村さんとうっちーに焦点を絞りたいので、ここらへんで。
さて、そんな田村さんですが、あっさり耳をつけることになります。
それは吉田さんの
おーいいじゃねーか
それにしろよ
結局田村さんにとって、耳をつける行為には思い入れはなく、思い入れがある吉田さんに勧められたからつけているだけなんですね。
ようやく本題です。
「田村さんもくる?」
その後、耳を外したうえで、
私は待たせている人がいるから
と言って断ります。
これは何を意味しているのか?
そう「待たせている人(=もこっちと吉田さん)がいない今この状態に、耳をつける意義がない」ことなんです。
田村さんが耳をつけているのは、吉田さんに勧められたから以上の深い意味はなくて、言って見れば彼女を楽しませるためのサービスなんです。
もちろんそこには、まこっちや、もこっちも含まれているでしょう。
だからこそ、雌猫の間グループの子と会話をする際に、まこっちがいなくなったその時、その耳はもう用をなしていないのです。
という、解釈で終わってしまっては「田村さん視点」の気持ちの解釈にすぎません。
雌猫の間グループ(=普通)と同じ耳をつけず、もこっちと同じ耳をつける、うっちー
と
雌猫の間グループ(=普通)と同じでないのは当然として、そもそも耳をつけることを嫌がる、田村さん
この対比を見ると、どうもワタモテにおける「耳」や「花冠」などの頭の装飾物は、
他人とどのように関わりたいのか? という他者への欲求の象徴のように思えます。
「全員違うけどそれでいい」もこっちグループは変わり者のグループで、
「耳をつけていない」キバコ、茜、加藤さんのグループは、グループとして成り立っていないから、こうして解散してしまった。
そう思うと、全員が違う中でもこっちと同じでいたいうっちー、
吉田さんたちがいればつけるがそうでないならつけない田村さん。
この2人は同じようで、反対な面もあります。
まず同じ面としては、うっちーにとっても、田村さんにとっても、
それは、うっちーが雌猫の間グループと行動せずもこっちといたがることや、
田村さんが雌猫の間グループの前で耳を外す(=要求がない)ことからも明白です。
そんな2人の気持ちのやじるの先にいる、蠱惑さをもった我らがヒロインが、普通じゃない代表もこっちなんですね。
次に、反対な面として「普通」は否定しながらも、うっちーは結局「もこっちとお揃いにする」という普通をしてします。
これは、うっちーは花冠時代に他者と仲良くするには同じものを身につけるということを学んでいるから。
けど、もこっちグループは普通じゃないので、ここが違う耳をつけた状態でも楽しいし、仲がいい。
だから、まだそこに踏み込めていない、うっちーは「もこっちから見るとまだ、その他大勢の普通の人にすぎない」のだと思います。
なので、先の展開を予想するなら、もこっちがうっちーの個性を認めた時、お揃いの耳ではなく、うっちー独自の何かを得るのでしょう。
田村さんは、他者と仲良くする方法がそもそも不器用だから、耳も親しい吉田さんに勧められなければ付けないし、1人でいるときは外したい。
同じ、普通を否定するもの同士だけど、やっぱり正反対なんですよね。
かなり長くなったけど、こういう個々人の気持ちを踏まえたうえで、冒頭に引用した2人の会話を読み返すと。
いいなあ。
田村さんは、うっちーの言葉を「(まこっちと一緒にキバ子のところへ行かなくて)いいの?」と解釈して
うっちーとしては「(まこっちを行かせて)いいの?」と言っているようにも思えるんだよね。
だって、うっちーはどこかのグループを抜けて別のグループへ行くことを今まさに自分で実践しているんだから。
言ってしまえば、雌猫の間グループと、もこっちを天秤にかけて、もこっちをとった自分を、
相手がああいう状況だったとはいえ、キバ子の方をとったまこっちにオーバーラップさせていてもおかしくないわけでさ。
うーん。
うっちーの恋路を応援し隊としての物語のハッピーエンドは「もこっちがうっちーの恋心に自覚的になる」あたりだと思うんですよね。
(そりゃ、恋が成就する、まで行けば言うことないけど、さすがに漫画としてこれやっちゃうと軸がブレすぎるから、まず一旦の目標はここだと思う)
それのためには、ネモやまこっちや田村さんたち、もこっちと仲がいい他の子たちにも知ってもらったうえで、応援してもらうとかが、漫画としては広く展開できると思うんですよね。
これは、典型的な「自分でやっていない、なにやら盛り上がっている作品を、気に食わないと上から目線で批判する文章」だ。
本文は『月姫』と『Fate/stay night』のネタバレを含む可能性がある。特に『Fate/stay night』原作を未プレイで、劇場版『Fate/stay night [Heaven's Feel]』の続きを楽しみにしている人は、ネタバレを含むため読まないでほしい。
私が奈須きのこの作品と出会ったのは2003年。月姫、月姫PLUS+DISC、歌月十夜の3作が収められた『月箱』であった。いわゆる型月ファンとしてそれほど古参というわけではない(型月における古参とは、竹箒に連載されていた時代の『空の境界』読者――とまでは言わないものの、最低でも2001年には『月姫』に触れたレベルを指すものだろう)。当時『ONE』『Kanon』『AIR』に心酔する所謂「鍵っ子」であった私は、もちろん月姫の噂は聞いていたものの、手を出すきっかけを掴みかねていた。月箱が頒布されたのは、そんなときである。歌月十夜まで一揃えで化粧箱に収められたそのパッケージは、初めてのTYPE-MOONとしては最適であった。同時期、彼らが商業へと移行し、次回作「Fate」は商業ゲームとしてリリースすることを発表したことも背中を押した。群雄割拠のエロゲ界についに鳴り物入りで乗り込んでくる新進気鋭の代表作を、体験しておかねばならぬと考えたのだ。
『月姫』は衝撃であった。連綿と積み重ねられてきたビジュアルノベルや恋愛アドベンチャーゲームの文法に沿っていそうに見えながら、しかし決定的に異なる「それ」は、私に新しい刺激を与えてくれた。私はシエル先輩が好きになった。この文章を打っている2018年に至ってなお、人生のオールタイムベストはシエル先輩だと胸を張って言える。もちろんそれだけではない。ファーストインパクトとなったアルクェイドが醸し出す寂しさを、そして、ひまわり畑で微笑む琥珀さんの愛おしさを、今なお昨日のことのように思い出せる。
月姫の魅力のひとつに、不思議なノスタルジーがあると思っている。あの文章とグラフィックと音楽には、懐かしいナニカを思い出させるものがある。去り行く少年時代を描いた作品だからだろうか。遠野邸の遠い記憶がそうさせるのかもしれない。
PLUS+DISC、歌月十夜まで一気にプレイした私は、そのまま『MELTY BLOOD』も楽しんだ。シエル先輩を動かせるのが楽しかった。弓塚さつきの話が出ると抜き身のナイフのようになる志貴を思うと切なくなった。琥珀さんが楽しそうで涙が出た。G秋葉でゲラゲラ笑った。
したらばのTYPE-MOON板にも入り浸った。それまで葉鍵板が主戦場であった自分が。当時、すでに「月厨」は鬱陶しい存在として認知されていた。私は努めて無関係な場ではTYPE-MOONの話をしないようにし、型月板でその分、目一杯、楽しんだ。たくさんのアンソロジーコミックにも手を出した。武梨えり、佐々木少年、磨伸映一郎……(そういえば特に好きだったこのお三方はみな現在も商業作家として活躍中であり、同時に、シエル先輩ファンであった。当時、武内崇は「シエル先輩が好きな作家さんは漫画力が高い人が多い」というような趣旨の発言をしていた記憶がある)。
だが。不思議なもので、このとき私は『空の境界』にはハマらなかった。もちろん原作は読んだのだが。当時、マルチシナリオ形式のビジュアルノベルに未来を見ていたためか。あるいは、純粋に趣味に合わなかっただけなのか。後年、空の境界はアニメ映画化され大ヒットを飛ばすことになる。
2004年、ついにTYPE-MOONの商業作品第一弾『Fate/stan night』がリリースされる。もちろん発売日に予約して買った。事前の雑誌での情報を見ていて、藤ねえがお気に入りだった(まさかあんなことになるなんて)。ライダーさんはビジュアルだけ見て絶対にアサシンだと思っていた。体験版の段階でクオリティが大幅に上がっていることは明らかだった。心が躍った。世界が変わる瞬間が、目の前にあった。
魔術師と英雄が跋扈する本作を終えて、私は思った。私は優秀な魔術師でも高潔な英雄でもなく、なんでもない、取るに足らない、醜い人間が好きなんだと。だから私は、間桐桜と衛宮士郎の物語が好きになった。
桜は魔術師ではあるが、本作においては魔術師としてよりも、もっと違う存在として描かれる。衛宮士郎もまた、魔術師ではなく魔術使いとして描かれる。そしてラストシナリオである桜ルートでは、桜は家族の呪縛から解き放たれて人間として生き始め、士郎は正義の味方に憧れたロボットからひとりの人間に生まれ変わる。魔術師と英雄が闘い続けた果てにたどり着いたのが、ふたりの人間の、人間としての歩みであったことは、とても感動的で、同時にこれが、奈須きのこが幻の弓塚さつきルートで実現しようとした未来なのではないかと想像した。
そして絶望する。ご存じの通り、桜ルートは批判された。当時の型月板は荒れた。セイバールートと凛ルートが絶賛されるとともに、桜ルートは徹底的に批判されたのだ。
イリヤスフィールの物語とオーバーラップして主題が分かりづらいという主張には一理ある(一説にはイリヤルートを作るリソースが間に合わず、桜ルートに混ぜた、と言われている)。描写不足であるという批判も、ある意味では仕方ないだろう。だがそれ以上に、ファンたちは、「多くの人間を殺しながら幸せなエンドを迎える桜」と、「正義の味方であることを諦めてセイバーを犠牲にした士郎」を批難した(正確には、彼ら2人に対してというより、そのようにある物語を避難した)。私は憤慨した。衛宮士郎の、何を見てきたというのだ。
正直に言うならば、私はセイバールートや凛ルートの衛宮士郎が嫌いだ。凛ルートの遠坂凛も苦手である。はっきりと言ってしまえば、物語として楽しみながら、登場人物たちに対しては苦々しい思いを抱き続けてプレイした。そんな彼らが、桜ルートで丸ごと好きになった。桜ルートでは、みな、人間として生きている。それが愛おしかった。
同時に、TYPE-MOON作品のふたつの側面のうち、ファンに望まれる側と、望まれない側が見えた気がした。考え過ぎかもしれないけれど、私がより好む側は、望まれていないように見えた。
これ以降、私はTYPE-MOON作品と少しずつ距離を置くようになっていく。厳密に言えば『Fate/hollow ataraxia』は心から楽しんだ(アンリマユとカレン・オルテンシアの物語はとても好みだ)。だが、『DDD』は未読、『Fate/Zero』は同人誌として頒布された際に1巻だけ読んで断念、『Fate/unlimited codes』『Fate/EXTRA』には手を出さず、期待した『魔法使いの夜』はプレイしたものの、それほど心惹かれなかった。この間、各種メディア展開で楽しんだものは、佐々木少年による漫画版『真月譚 月姫』のみであった。パスタ先輩のことは一生許さないよ。
時は流れ、2014年7月27日。もうTYPE-MOONに何の期待もしなくなった私は、それでも「Fate Project 最新情報発表会」をニコ生の中継で見ていた。そこでUBWのテレビアニメ化や『Fate/strange fake』の正式出版化に並んで、ひとつの新作が発表された。『Fate/Grand Order』。通称FGO。ついにソーシャルゲームをやるのか、と私は冷めた目で眺めていた。むしろ発表会本編終了後のサプライズ、Heaven's Feel の劇場版制作決定の発表の方が魂が震えた(今でもあの瞬間の、観客席からの絶叫と、涙を流しながら挨拶をする下屋則子さんの姿をよく覚えている)。
私はソーシャルゲームをほとんどやらなかった。手を出してみたことはあるが、純粋に楽しみ方が分からなかった。というよりそれ以前に、私はいわゆるオンラインゲーム全般が合わなかった。だからFGOが楽しめるかどうか不安だった。2015年、サービス開始に合わせてダウンロードし、序盤をプレイした。だめだった。まったく合わなかった。どう頑張っても楽しむことができなかった。私はFGOをアンインストールし、Twitterのタイムラインに流れてくるFGOプレイヤーたちの悲喜こもごもを眺めるだけになった。年を重ねてしまった、と感じた。
やがて、現実の人間関係の中でも、FGOの話題が上がることが増えてきた。2016年末のイベントの様子はTwitterでも見ていたが、彼らはとても熱っぽくFGOがいかに面白く、衝撃的で、とてつもないかを語った。私は羨ましかった。もうTYPE-MOON作品でこんなにも熱く語れることはないだろう。そう思った。
私はFGO本編をプレイしていない。いろいろと明かされたアレやソレを、なんとなく知識で知っているだけだ。そうした立場で評価するのは御法度であろう。それでも私はFGOが気に食わない。これは負け惜しみだろうか。それともただの老害でしかないのだろうか。私が好きだった奈須きのことTYPE-MOONの描く取るに足らない人間たちの物語は、もしかするとFGO本編でも繰り広げられているのかもしれない(琥珀さんルートや桜ルートが好きで、かつFGOのシナリオがそれと同様に面白い、という人がいたら、ぜひ魅力を語ってほしい。皮肉ではなく、ぜひ知りたい)。だけれども、数多くの英雄がスマートフォン上で戦い続け、それをプレイするファンたちが嬉々としてお気に入りの英雄が引けたことをTwitter上に報告する様子を、どこか冷めた気持ちで眺めてしまう自分に気付く。私がTYPE-MOONに求めていたものは、これだったのだろうか? 幾度となく繰り返されてきた、単に自分が望むような創作から外れていってしまった存在を寂しく思うという、これはきっとただそれだけのことなのだ。つまり、八つ当たりと取ってもらって構わない。
劇場版『Fate/stay night [Heaven's Feel] I.presage flower』は、公開初日に映画館に観にいった。素晴らしかった。須藤友徳監督の、間桐桜と桜ルートに対する圧倒的な「理解」に目眩がした。アバンで桜と士郎の「それまでの日々」をたっぷり描いた時点で、完全に勝利だった。FGOで得た利益でこんなにも素晴らしい映像作品が作れるのなら、FGOに感謝すべきであろう、などと思った。第二章も楽しみだ。
聞くところによると、FGOの世界には死徒二十七祖(という概念)は存在しないそうだ。私が好きだった奈須きのこワールドとは違う世界がそこにあるのだな、と改めて思った。繰り返すが、これはただの八つ当たりだ。
2017年末も、FGOは盛り上がっていた。きっと酸っぱいに違いないと、私は新年からこのような文章を打っている。2008年4月、月姫リメイク制作決定が発表された。今年、ついに発表から10年が経過する。優先順位があることくらい私だって理解できる。だからもう「月姫リメイクはよ」とは言わない。そのようなファンに耳を貸す必要だってない。FGOを楽しむ人々に向けて頑張っているスタッフの皆さんに、おつかれさまです、と声をかけたい(年始メンテおつかれさまです)。FGOという作品を批判する気もない。そもそも批判できるだけの素地すらない。何しろ、プレイしていないのだから。本当に申し訳ない。
結局のところ、私はTYPE-MOONが、奈須きのこの世界が好きだったのではなく、ただ『月姫』という作品が好きだっただけなのだろう。あるいは、月姫が生まれた、あのころが。
http://aiweeklynews.com/archives/49678692.html
・Excelはがっつり使える
・Pythonのnumpyやpandasでデータの処理ができる
例えばですが、pythonを自分のパソコンに環境構築して、「Hello,world!」と表示できるようになったら、面接に申し込んで、「少しはpythonできます」と言ってみるのも一つの方法かもしれません。
実際に見分け方がわからなくてこれに引っかかって採用してしまう場合もあるんだろうな、とも思う。
自分がこの手の人材(エンジニア)を採用する場合にどうやって質問をすれば見極められるのかエンジニアの採用にも関わっている身としてを考えてみた。
AI人材という呼称自体がぞわぞわするけど、一旦そこは我慢する。
まず採用を行う前に、AI人材を取って何をしてもらいたいのかをチームないし採用意思決定者としっかり確認する。
など、あとは案件ベースなのか自社開発なのかそれぞれ必要となる能力がオーバーラップしつつも異なっているため。
バックグラウンドを確認する。実務や研究の経験の話が出てくるのがメジャーだと思うが、エンジニアとしてのバックグラウンドがあれば独学勢でも野良kagglerなどレベルの高い人はいるので実務経験に絞らなくても良いと思う
機械学習全般の基本的なところから確認していく。質問としてはこんな感じだと思う
・過学習ってなんでしょうか
イメージとしては非エンジニア職でも必要になる「この辺りの言葉が通じないと絶対困ったことになる」一般常識を確認する感じ。
画像や映像の認識などディープラーニング系の業務が多い想定の場合
から始まって
・どうやって訓練したのですか?
・どうしてそのような構成にしたのですか?
と突っ込んでいく。
確認したいことはディープラーニング「しか」できない人かではないかという点。
ある程度統計やベイズ法周りの知識が無いと詰むため。逆にディープラーニングが不要な業務ならこっち一本でも可。
・勾配降下法について説明してください
・畳み込みニューラルネットワークについて仕組みを説明してください
盲目的にライブラリを使ってるだけでないかという点を確認したい。
SVMを入力に適用するだけならsklearnで5行書くだけで誰でも出来る。手法の背景や対象データの特性をきちんと考えて使っているかを見たい。
・kaggleのコンペに参加したことはあるか
・メダルの取得状況
kaggleに参加した経験があればnoteからその人の手付きを直接評価できるし、メダルという他メンバからも客観的に評価できる定量指標もある。
学習意欲とか普段の姿勢を確認したい。もしかするとここが一番重要かも。
・普段何を参考に勉強しているか / 論文を読む習慣があるか(最近読んだ論文があれば教えてください)
・今興味のあること
1年ほど前、内部から突然わいてきたもこっちかわいさに基づいてわたモテに注目していたんだが、
あれよあれよという間に(一部ネットで再び)絶大な人気を誇るコンテンツになってしまった。
俺も夢中になっているうちの1人で、
ここまで漫画の新作を楽しみにする、というのはこれまでの人生でなかった。
「その界隈の最右翼」たる青木淳悟『私のいない高校』となぜだかダブらせて読んでしまっていることに気がついた。
『私のいない高校』ってのは一言で言うととにかく凄い不思議な小説で、
さしたる個性がない教師とさしたる個性がない留学生との関係を中心に、
さしたる個性がないクラスメイトが描かれ、さしたる事件もないまま学生生活が送られる・・・という話で、
文字に起こすと何がおもろいねん、って話なんだけど、あるタイプのわたモテ読者は読めばピンとくると思う。
魅力的な個性派揃いのわたモテ(ってアイロニーなく書けることに少し感動)とは一見対照的なんだけど、
あとこれは些細なことだけど舞台が千葉県であるとか(千葉県には「ヤマ」がない、というエピソードが冒頭にあざとく挿入される)、
学生が主に女の子であるとか、一応修学旅行にヤマらしきものがもってこられるところとか、
色々とオーバーラップするところがある。
ちょうどコインの裏表として読んでいる、とでもいうか。
わたモテを読んでいると、自分がもこっちでもなく、主要キャラクターでもなく、無論うっちーでもなく、その他モブでもなく、しかし神の視点でもない・・・
そんな不思議な、要は幽霊ってことなんだけど、ポジションに置かれている気持ちになるんだけど、
まあ、おれはもこっちが好きだしおれはもこっちなんだが。
興味があるひとがもしいれば読んでみてくれ。
一時期赤羽の駅前を賑わせた男性がいる。彼はどう見ても普通の、背広を着てネクタイを外したサラリーマンなのだが、なぜか道行く人にノートを見せつけてくると言う。そのノートにはどれほど猥雑なことが書かれているのだろうかと怪訝に思われるだろうが、実はそうではなく、ノートに手書きで書かれているのは
「君の名は」
に関するあらゆる情報。どうやら彼は映画館で観ていたく感動し、その作品を広く世に知らしめるべく行動に出たようなのだ。すごくないですか?このインターネット全盛の時代に。しかもすでにみんな結構観てるし。でもなんかいいなと思った。どうしても色んな人に観てもらいたかったのだろう。
今年観た映画には素晴らしいものが数多く、会う人会う人に、向こうのリアクションなどお構いなしに下を見ながらブツブツすすめ続けてしまう。わたしは何かを観たことによるマウントを行いたいわけではない、と思う。ただ、自分が今ラリっているブラントを配りまくっているジャンキーのようなもの。たぶん。ヘイ、ニガ!一緒に吸おうよ!みたいな。たぶん。知らないけど……。僭越ながら紹介させていただきます。とっておきのブラントなんだぜ、ニガ。
長い前置きすみませんでした。
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韓国の鬼才によるエロサイコミステリー。しかも百合!韓国映画敬遠しがちな人は度肝抜かれるので観てください……。戦時下、美しい日本庭園で美しい衣装を着て日本人のフリをする朝鮮人たちが騙し合うんですが、セリフがずっとカタコトの日本語。この時点でカルト映画だ!となるんですが、話の展開も予想だにしない方向へと引っ張られていき目が離せないです。しかも最後が爽やか。イェーイ!となるという。とにかくエロいんでそこ目当てでも観て欲しい。
公式サイト:http://ojosan.jp/sp/index.html
②映画「コクソン」監督:ナ・ホンジン
韓国の寂れた村に國村隼が住みついてから、村人が家族を惨殺する事件が相次ぐ……なんで國村隼?本当に犯人は國村隼?なんでフンドシで鹿の生肉食べてる國村隼?こう聞くとB級映画にしか思えないと思いますが、カンヌ出品も納得のテーマへと迫っていく。何を信じるのか?終わり方は苦手な人もいそうだけど、でもそういう人こそ観るべきだと思う。途中、祈祷師なる人物がドラをジャンジャン鳴らしながらヤギの首をかっ切るシーンは尋常じゃない高揚感が得られます。
Netflixで話題を呼んでいるドキュメンタリー。ニュージーランドの記者が「くすぐり我慢大会」なるものを見つけ取材を申し込むと「オカマ野郎には関わって欲しくない!てめーはクソだ」のような攻撃的な返事。調査を進めるうちに、まるでゲイポルノのようなくすぐり動画を撮影し、恐喝に用いていたことが判明する……。
実話であることが恐ろしすぎる!見ず知らずの若者を支配し人生をぶち壊すことにしか興味がない恐ろしきサディストの話。こんな怖い話があってたまるか……。ゾワゾワしたい人は是非観てほしい。すごく怖い。
参考サイト:http://cinemandrake.blog.jp/くすぐり
勉強するとはどういうことか?勉強するとはキモくなることである!勉強すると100%キモくなる。なぜなら周りのノリに対し浮くからだ、という箇所に大納得。でもそれでも勉強してしまう。なぜなら自分が変わっていくマゾヒスティックな快楽があるから。勉強とは、今までわからなかったことがわかること。言葉が自分のなかで血肉を持つこと。でも言葉で自分と環境を一度切り離し、客観的に捉え直すことが必要。自己啓発書風だけど中身はすごくわかりやすいドゥルーズだった。わたしがなぜ学生の時にドゥルーズに心惹かれたか、腑に落ちた。とても平易な言葉で書かれているけれど、勉強そのものに切り込んでいくのでスリリング。名著だと思う。……伝わってますか?すごく読みやすいのに考えさせられる、とてもよい本。
こちらもNetflixにて。アメリカン・ドリームを夢見る、人種もバックグラウンドも様々なドラァグクイーンたちがバトル!ル・ポールの前で1番を競い合う。カーテンでドレスを作ったりものまねショーをしたり。あれ?意外に予算がかかってない?しまむらチックな私服を着た屈強な男たちがメイクと豪華なドレスで美しく変身する様、見習わないといけないなと思わせます。そしてなんてったってル・ポールが美しい!普段はダンディなスキンヘッドの50代のオジさま(声だけ女)なのに、ひとたびドレスアップすると193センチの美女!日本の番組にありがちな、 「でも実はオッサン」的ないじられ方をすることなく、ただただ美の化身として存在するル・ポールが尊いです。あと発音がわかりやすくてリスニング力を鍛えることができる。
⑥映画「モアナと伝説の海」監督:ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー
海、砂、黄金のテクスチャーが本物以上。海洋スペクタクル大アドベンチャー。モアナはプリンセスというよりかは立派な施政者。16歳なのにあんなにしっかりしているなんて……。話の説明パートは歌かギャグが入るので飽きることがない。オチも完璧だったし、この映画を観て育った子供は絶対に自然環境を破壊しないと思う。ホントか?半神ムアイは全身タトゥーだらけで顔もいわゆるディズニーのヒーローとは違っているけど、とても愛らしい。ディズニーは反ルッキズムへと舵を切っているのかも。人間に御礼を要求する歌がいいです。派手なカニやココナッツのマッドマックスも必見。
今激激激激オシしている映画。なぜなら全然流行ってないから。でもそれはどう考えたってオカシイ。だってこんなに面白い映画そうそうない。映画館で終始ニヤニヤ、たまにゲラゲラ、笑いすぎてむせてしまったかと思えばしんみりさせてくれる。バットマンでかつレゴ、でもどちらも必然性があるストーリー。レゴがとにかくかわいくカラフルで魅せられるんだけど、話は意外に考えさせられる。
「ダークナイト」では、悪に対し私刑を加えるにすぎず、その行動がより悪を増長させ自らもまた悪の似姿となるバットマンが、アメリカにオーバーラップさせる形で描かれた。奇しくもジョーカーを演じたヒース・レジャーの死によってダークナイトの問題提起に答えが与えられることはなくなってしまったが、その答えを与えるのが「レゴバットマン」。まじです。しかも子供も楽しめる。すごい。ウォルデモート卿やマトリックスのエージェント、キングコングまで。騙されたと思って観てください。
公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/legobatmanmovie/
韓国ノワール。人がイヤな死に方をすることでは天下一品な韓国映画にまた一作、観ていて痛そうな映画が。サイコ市長に飼い犬のように使われるダーティー刑事が牙を剥く。観終わったあとに結局なんだったのか?感が否めないが、市長がフルチンでキレたり、やたら痛そうな拷問など、観ると楽しい。主演が西島秀俊に似ている。
公式サイト:http://asura-themovie.jp/
閉鎖的な黒人社会でセクシャルマイノリティとして生まれたこと、というよりかは孤独な子供あるあるとして観た。静謐さ、不安定な視界、不安げな表情、どれも既視感のある普遍的なものだったので、不器用な子供だった人にすすめたい。また、車、言動、振る舞い、筋肉、どれをとってもギャングスタに憧れないわけにはいかなかった。
公式サイト:http://moonlight-movie.jp/sp/
⑩映画「湾生回家」監督:ホアン・ミンチェン
台湾で生まれ育つも敗戦により引き揚げざるを得ず、しばらくかの地に足を踏み入れることのできなかった日本人を追ったドキュメンタリー。故国ではないところに故郷がある人の、心はいつだって異邦人という言葉に痺れる。人の優しさと詩情に満ちている。
11映画「スウィート17モンスター」監督:ケリー・フレモン・クレイグ
とにかく女の子がダサい。二日酔いから覚めると一人しかいない親友といけすかない兄貴がウチでヤッてた!?最悪な気持ちのまま適当にアジア系のイケてない男の子とデートしたり先生に悪口言ったり、ジタバタ。パーティで人に話しかけることができなかったり、目も当てられないが、それはまごうことのなきいつかの自分。近頃よく見るイケてない青春ムービーの一角だが、大した事件が起きないのにしっかり成長するので見ごたえがある。サントラがいい。
タイリングはともかくオーバーラップウインドウの弊害は昔から言われていてMacOSXのFinderやExposeはそれを解決するための機能だ。
WindowsとかMacのオーバーラップウインドウはUIとして間違ってるって前々から言ってたけど、賛同されたことがなかった。
アプリは基本全画面表示で、複数のアプリを見たいときには、画面分割でタイリング表示が正解だって。
でも、最近はスマホやタブレットの普及で、俺の言ったとおりの方向に向かってる。
あと、一時記憶と二次記憶を区別しないOSのアイデアも、ネットで言ってみてもまったく賛同されない。
でもインテルが、不揮発性のメインメモリを発表したから、これが普及したら俺の思ってるようなOSがそのうちでてくると思う。
(おれが想定したのは、物理的には二次記憶が存在していて、仮想的にそれを無くすというものだったけど)
個別具体の退職理由はいろいろあってそれらは後述しますが、退職を決めた基本的な理由は、個人的なキャリアパスの設計と会社の方針のミスマッチ、労働観のミスマッチ、技術投資の考え方のミスマッチの三点に集約できると思っています。
ソフトウェアエンジニア(を目指す人間)にとってソニーと言えば、"自由闊達な理想工場"、エンジニアが自由に活躍できる会社、日本のメーカーなのにソフトウェアもちゃんとつくれる会社、などのイメージがあるかと思います。私もそう思っていました。
実際会社は説明会などでそういった説明をしましたし、そういったイメージを前提に私はソニーを選び、「エンジニアとしてプロフェッショナルになる。品質が高く、お客の求める体験を作り出せる人間になる」というふわっとしたゴールを設定し、いわゆる"プログラマ 35 歳定年説"をガン無視した一生エンジニア型キャリアパスを描いていました。
しかし、会社の求める人材像、少なくとも自分が配属された事業部で求められる人材像、キャリアパスは、上記と全く異なるものでした。
昇進の段階としては、現場業務(エンジニア)は基本的に常にマネジメント業務(中間管理職)に対して格下に位置得付けられており、一部オーバーラップする部分があるものの、昇進する = エンジニアをやめてマネージャーになるという状態でした。退職の原因になった上司からも「君は優秀なんだから、プログラミングみたいな低俗なことは早く辞めて人を動かせるようになれ。私が引っぱりあげてやる」(意訳)といったようなことを言われ、自身の「エンジニアとして生きる」というキャリア設計との相違は明らかでした。
もちろん、組織としてスケールするために、エンジニアが経験を活かしてマネジメントに移行することは否定されることではありません。ですが端から、エンジニアリングをマネジメントになるための踏み台として"しょうがなくやるもの"として扱うことには強い違和感と嫌悪感がありました。
退職の際の送別会で、部署の中でもエンジニアとしてレベルが高いと感じていた40代の先輩が、「ソニーではエンジニアリングは評価されない。俺はその方向に進んだけれど、給料は最近下がる一方だよ。君はいい選択をした」と言っていたのが、未だに記憶に残っています。
私はいわゆるライトなオタクで、アニメやゲームが好きでコンテンツを消化する時間が無限に足りないと感じていたり、自分で何かを考えてものを作るという絶望的に時間を食う行為も好きだったりして、ともかく余暇の時間の確保が人生の重要課題です。
もうご推察されたことと思いますが、ソニーでの私の労働時間はそれなりに長かったです。企画・ビジネスユニット主導のスケジュールに開発部隊は圧殺されて、長時間労働が常態化していました。私も残業時間が 90 〜 100 時間程度の月が 3 ヶ月ほど続いたこともありました。部署の先輩には、残業時間の"平均"が100時間という方もいましたし、月の半ばで法規制が許す残業時間を"使い切ってしまう"ため月の中盤以降は"定時に帰ったことになっている"デバイス系の同期もいました。正直に告白すれば、私もチームリーダーに「打刻してから席に戻ってこい」と言われたことがあり、そのチームリーダーは次の日悔恨の表情で「昨日言ったことは忘れてくれ」と言っていましたが、数カ月後に突然辞めました。
前述の通り、趣味の時間が人生の意義になっていた私にとって、これは体力的だけでなく精神的にも非常にダメージの大きいものでした。上司からの「君のチームが他のチームに比べて残業時間が少ないので、(労使交渉で通常の上限の)60時間まで残業時間を埋めてほしい」という指示が決定打となり、退職を決意するに至りました。
昨今の、シャープ・東芝等のニュースで明らかになっているとおり、大企業だから安泰ということはもう過去の話です。そのため、自分の市場価値を高めておく必要があると私は強く感じています。
しかし、会社はエンジニアリング軽視であり、またその昇進先であるマネジメントについてもお世辞にもプロの仕事とは呼べないものであり(残業100時間を続けないといけないマネジメントとはなんでしょうか?)、ソニーで働き続けることは私の「労働市場で自分の市場価値を高める」という方針にとってリスクでしかありませんでした。
人事担当者に、現在のキャリアパスについて不安があるという相談をしたときにも「増田さんがソニーで(定年まで)働き続けることを考えると〜」のような発言をしており、会社がなくなる / 現状の待遇が維持されなくなるというリスクは全く考慮されておらず、いかにただただ嵐が過ぎるのを耐えるかという発想しかありませんでした。
エンジニアリングについても、昨今の汎用チップにスペック的に見劣りする高額のカスタムチップの開発、そのカスタムチップを使いこなすための C / アセンブラによる手動の最適化といった"職人芸"に対する信仰、大量のテスターを雇っての人力テストなど、エンジニアとしてのセンスとしてやや疑問符がつく、ともすればレガシーな開発手法がまかり通っていたりと、この技術・職場に適応したとして、その人物は一般的な問題に対応できるだろうか?その人物を市場は評価するだろうか?という疑問が拭えませんでした。
また、業務時間がまるで足りないからとコードレビューすらろくにできないので知見がたまらない、時間がないので勉強もできない(しない)、もちろん職場で最新の技術に対するディスカッションどころか雑談すら成り立たない、という状況で、私がこのような職場で業務に忙殺されている間にも、世界のエンジニアは勉強し技術力を高めているのかと思うと、相対的に自分の市場価値を毀損されていると感じ、焦燥感にはちきれんばかりの思いでした。
こういった不安・不満があり、また会社の期待にも応えることが難しいということで、先ごろ無事ソニーを退職し、新しい職場で働き始めています。新しい職場は上記の 3 要件についてよくマッチしていると感じており、心穏やかに働けています。幸い年収も多少増える結果となりました。
色々書きましたが、これらはソニーが悪い会社だと言う話ではなくミスマッチだと思っています。上記の内容はすべて私の価値観を元にした一面からの評価になっており、他方でここで挙げたような会社の考え方(マネジメント優先・仕事優先・安定優先)に同調・納得できる方もいると思います。残念ながら私とはミスマッチだったというまでです。
また、あくまでこれらはソニーという(さらに言えば自分の配属された事業部という)組織に対する評価であり、尊敬できる先輩・同期もたくさんいましたし、そういった方々と出会えた、幸いにして現在も仲良くしていただいているということは、本当にありがたいことです。
みんながしあわせになるといいな。
内定もらった時の風景は今でも覚えていて、友人と一緒に出かけていた先で内定通知の電話がかかってきて、本当に2人で喜んで、とても嬉しかったのを覚えている。どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ。
ものつくりの現場で、エンジニアリングをバカにされたのは悲しかったなぁ。私がいる間だけでも、ものが作れなくなっていってるのが感じられたのも悲しかった。
・根拠1: PC、PS4、Xbox oneとのマルチにはほとんど期待できない
スイッチにはarm系プロセッサが搭載される。これはPC、PS4, xbox oneで使われてるx86系とは大きく異なり、
一応unityが対応するらしいが、そもそもスイッチの性能はPS3世代なので、クオリティを下げてまで移植作業をするだろうか?
同じarm系統なので、スマホゲーの移植は比較的簡単そうである。
しかし、多くのスマホゲーで使われている課金体系を、任天堂のプラットフォームでも展開できるかは疑問である。
そもそもスマホゲーに課金する層と、任天堂ハードを利用する層にどの程度オーバーラップがあるのか?
また、スマホゲーはタッチパネルに最適化されているが、スイッチに移植するにはパッド操作に対応させる必要がある。
・結論
シンゴジラとか邦画論争と関係なくてすまんが、逆張りではなく、「野火」は面白くなかった
良くなかった点のまとめ
・映像
NHKの再現ドラマっぽいハイビジョン感というか、RGBなギラギラな緑(自然)にギラギラな青(空)
そこにわざとらしく墨を塗られたようなボロい日本兵がくっきり映る
それはそれでいいとして、時間の経過を表すために挟まれる、内容とまったく関係無い「移り変わる雲」「夕陽の海」とか、ダサい上にダルい
映像のオーバーラップの手法とか、あえてやっているとしても何の効果も感じない
内臓飛び出たり四肢が舞う感じの殺戮シーンも、特に印象に残るほどではない
・演技
これといって迫力あるシーンがない
(わりと重要な役である)若い役者の下手くそさは再現ドラマ感を際立たせ、
普通だった
予想通りの話(別に急展開を望むような題材ではないが)
ただ、上記の映像と演技がベースで話も普通だとすると、どこを見ろということである
一部ファンに神格化されてるサブカル映画ってイメージだったので、全然期待せず見たのが逆に良かったのかもしれない
内容としては「野火」の後日談的なドキュメンタリーとも言えるわけだが、
戦争でのやましいことを忘れて生きようとするおじいちゃん達と、それを許さぬ奥崎さんとの取っ組み合いの喧嘩とか、
こっちのほうがちゃんと地獄を感じる
この記事のタイトルをみて、えって思ったけど読んでみたら全画面表示 & 画面分割のマルチウインドウだったわ。
PCも現状のオーバーラップウインドウは間違いで、Windows1.0時代のタイリング(画面分割)が正しいUIで、昔からちょくちょくネットにそれを書いてるけどまったく同意されたことがなくて、世の中おかしいと思ってたわ。モバイル時代になって風向きが変わってきたね。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA016533/chartscape/Emulators/W10-1.GIF
世の中、マニアックに人間以外は、Officeとか、全画面表示か、たまに二つ並べるくらいでオーバーラップウインドウなんて活用してないだろ。
VisualStudioとかEclipseみたいな開発ツールも、小さいウインドウを敷き詰める方式でオーバーラップウインドウなんて活用してないし。
ウインドウのレイアウトなんて、人間がマウスで手動でやらなくてOSがインテリジェントにやるべきなんだよな。
これいうと自動でウインドウを配置するツールがあるって揚げ足とったつもりになってるツッコミがくるけど、そういうツールだってオーバーラップウインドウをタイリング風に配置してるだけだから、オーバーラップウインドウは不要だって余計思うだけだわ。
本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。
男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?
一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質を直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系の学校ではイメージを尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関の記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。
ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ。
そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事である。シリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。
煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である。脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。
こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)
もう1つが手軽な方法で詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法である。ほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初は詰将棋の入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。
先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学の数学科を出て現在底辺大学の数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対に計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学の天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学の女王。岡潔も晩年は『情緒と創造』を著している。
底辺大学だと数学は論理の学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間で計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンスで計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算も論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学的対象に親しむためと即答し彼または彼女はもっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。
数学の素養がない人たちへ。最初はアイマスクを着用せずJSやJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何のパズル問題(『目で解く幾何』シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学や大学数学科の数学や工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。
数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生が結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋と暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。
芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろいものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的な絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。
そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解や記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来の理解や記憶のきっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。
以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。
サッカー観戦をしていると、こういうワードにたどり着く事が多い。
「○○がクソ」「○○死ね」「○○やめろ」
こういうことを言っている奴ほど、なぜその状況でそのプレーが行われたか全く説明しない。
シュートを外した→外した奴はクソ、やめろ
優勝できない監督→出て行け
■
なぜシュートを外したのか?
直前のプレーでパサーとのイメージにずれがあった。
もっと前で欲しかったが、足元に来たのでオーバーモーションになり、DFに詰められて枠を狙うことが不可能だった。
もっと遡ると、CMFからの縦パスをトラップしてサイドにチップし、即座にゴール前へ反転して折り返しを待ったが来ず、そのままDFのチェックを受けていた。
DFが引きつけられて開いたバイタルのスペースを使うべきだったが、サイドからのクロスを受ける形になった。
死ねと言われるほど評価の低い選手だろうか?ここでデータを持ちだしてみると。ワントップのFWで、シーズン終盤の現在で10ゴール以上15ゴール未満、アシストはかなり多く、その分だけ得点を演出しているのがわかる。
1トップなのにアシストが多いということは、この選手が居なければ前線の選手全員の得点が期待できなくなるということだ。居なければ自身の得点がなくなるだけでなく、周りの評価が下がる。
客観的に見れば、アシストと得点を合わせた得点期待値が高い選手を放り出すのは馬鹿げている。
なぜディフェンスがミスをしたのか?
相手のFWにスピードがあった。そのスピードは試合前から留意すべきものだった。なので、チームはDF一人でチェックするプランではなく、カバーをすることは指示されていた。しかしカバーが来ない。
カバーをするCMFが攻撃時に前へ行ったが戻ってこれず(スピード、スタミナの問題など)一人でチェックする事になった。
もともとCMFはスタミナやスピードのあるタイプではなかった(そのためポジションは後ろ目の守備要員だった→攻撃のプランにも影響があり、前述のシュートをミスという部分にも繋がる可能性が多いにある)
入ってきたボールに対してその場でGKから声が上がったが、反応したのは自分だけだった。
ではこの選手は死ななければいけないほど劣るのだろうか?
DFは一人で一人を守りきれば絶対に負けないというものではない。オーソドックスな戦術であれば最終ラインには多くて4人。そこから攻撃時にSBがオーバーラップすることが日常茶飯事だ。
ピッチ上の状況とバランスを全員が見極めながらゴールを守らねばならない。11人全員の行動が密接に関係しているのだ。
その証拠として、現在CLでもベスト4に進んだチェルシーの前線は、スタミナとスピードを重視したウィリアン、オスカルが名を連ねる。これは守備への貢献を考えた選出なのは明らかだ。逆に言えば、攻撃に非凡な才能を持つマタだったが、守備への意識とスタミナに難があり、出場機会を失った。
今回のケースでは最初から一人でチェックするプランではなかった。大きな非は無いだろう。
では何故一人で抑えられないこの選手が起用されたか?それはスピード以外の能力を見出されたからだ。あるいは相手のFWを止められるDFは世界には居ないのかもしれない。
なぜ優勝できないのか?
1シーズンを戦える選手層が無い。中盤からどんどん失速する。しかし代わる選手がおらず出突っ張りになる。コンディションが落ちる(上記のシュートを外してしまう要因になる)。
ではなぜ選手層が薄いのか?近年の市場価値高騰から、特別な資産を持つチームが選手を独占する。優勝をするにはその特別なチームと渡り合わねばならず、しかし特別な資産はない。
プレーの外側での支出が大きく、金銭的に厳しい状況で主力選手が次々引き抜かれる中、現在は雌伏の時である。しかしそれでも一流と呼ばれるチームに見合うだけの最低限の成果を出し続ける。
なぜ選手の怪我が多いのか?原因不明。基本的に試合中での怪我が多く、不確定要素が多すぎる。
はっきり言うと、毎年主力選手を引きぬかれてなおリーグトップと渡り合い、欧州チャンピオンリーグに出場し続けるほどの成果を出すのは前例がない。
マラガは財政難で沈んだ(選手の引き抜きに関してどうこう言うつもりはない)し、ドルトムントもけが人が続出し、予断を許さない。インテルも3冠の後はセリエ中位を続けている。リヴァプールも昨年まではまさに雌伏だったはずだ。チェルシーのモウリーニョは名将だ。ではベニテスは駄目か?そうはならない。彼はリヴァプールでCLを制覇し、現在ナポリで一流クラブを指揮している。
このエントリがどこのチームのことを言っているのかわかっても、何も言わなくていい。
纏めよう。まず、サッカーで口汚く批判をするなら、その責任を負う事を自分の理論と考えで示すことが最低限の批判の仕方だ。そして、サッカーのプレーは、あるいはピッチ上の選手は、他方から密接に関係しあってプレーを行っている。スタッフもそうだ。
クラブが好きだから声を上げるという理論が成り立つのは、そのクラブの地元だけだ。日本でやっても届くのはJだけだ。Jに届くのは現場で上がった声だけだ。俺はそれでも議論にならない死ねだの出て行けだのといった言葉を上げるのはアホらしいと思うが。
メリットは何もない。デメリットは、同じクラブを好きなやつが嫌悪感を募らせる。明確だ。
嫌悪感を募らせた結果、こんなエントリを書くのだ。聞くに堪えない。サッカーは好きだが、そのサポーターや、対立が華みたいなサッカー文化は嫌いという矛盾した状況になってしまった。
それとも、こういった人は多いのだろうか?
「人は人と巡り合います」?で?メダカの群れと群れが川の流れの中で入り混じるのと何がどう違うというの?
「愛する人がそばにいなければそばにいる人を愛すればよい」という世の中、ちょっと目立つマークつけたくらいで出会いそのものが重要性とか聖性を帯びたりするみたいなのはありえませんよ?
つーかそっちじゃなくて流れ星同士の接続をもっと描けばよかったのに
弁護士の日記が音楽家に渡り、音楽家の(おそらく唯一の)レコードをジャーナリストが手に入れ、そのジャーナリストを主人公にした小説の原稿を老編集者が受け取り、老編集者の人気著作の映画を遥か未来のクローンウェイトレスがワクテカしながら観て、そのウェイトレスが神話になり新世界の神となった世界の山羊飼いの一族の刺青と彼らと敵対してる人食い種族とが、最初に戻って弁護士の主治医が掘り起こしてた「歯を食い残すという人食い人種の風習」と、鞭打たれる男の刺青とにオーバーラップして輪廻完成っていう
ここんとこをもうちょっとしっかり目立つように描いとけば流転しながら繋がりゆく物語の物語としてそこそこ面白かったかもしれんのに
素で最初「あ、未来技術こじらせて宇宙人とか喚ぶようになったのかな」と思ったじゃねえか
何、西洋人には東洋系がああいうちょっとモンスターじみたのっぺりさんに見えているというわけ?