はてなキーワード: 3カメとは
まあハッキリ言わせて貰いますけど、原作の方が3倍は面白いな。
お前らが言ってた見やすさ分かりやすさは確かに原作より上だったよ。
でもそこが駄目なんだなあ。
のんびりしすぎてるんだよ。
それと見やすい絵が多すぎるんだよなあ。
見やすいというか書きやすいとか作りやすいと言ったほうが色々と正確だと思うんだけどさあ。
ハイキューの原作ってコートを斜めに切り裂くようなパワーのあるカメラワークが多いわけよ。
こういう事がありましたよってただ描写するんじゃなくてそのシーンが持つ意味が伝わってくるわけよ。
一瞬を切り取っていると同時に一連の動きも描写している漫画としてよく出来た絵なわけよ。
でもアニメはそういうの無いっていうか一瞬の中に無数の情報量が行き交ってる感じがしないんだよねえ。
動画だから漫画だからってだけじゃなくてアニメのカメラワークが分かりやすさ優先しすぎてるんだよね。
原作のカメラワークの段階でもちゃんと読んでれば何が起きてるのかしっかり分かるんだからそのままでいいのにわざわざ俯瞰っぽい感じにしたりボールゆっくり飛ばしたりしてまったりまったりしてんのよ絵が。
それやりたいばっかりに1カットで全てを描ききるって執念を失ってるんじゃねーかな。
お前ら毎秒何文字喋ってるんですかってのはスポーツ物じゃよくある現象だけどさあそれやるにしてももう少し早口にしてよ。
展開がゆったりすぎて試合のスピード感が大幅ダウンしてるんだけど。
まあそれでもそこそこ楽しかったよ。
最初はただのモブにしか思えなかったキャラが次々成長して視聴者にとっても大事なチームメイトになる話の連続でちょっと泣けちゃうよね。
でもそれは原作の力なんですわあ。
敵キャラもそれぞれに持ち味があってエース以外もしっかり印象に残るから主人公以外ライバル以外が活躍してる場面もしっかり楽しくて25点分たっぷり楽しめるよね。
でもそれは原作が凄いだけなんですわあ。
このアニメはここが凄いって所ないんですわあ。
見てる側が置き去りにならないように必要な情報を順番に与えつつ新必殺技っぽく見せるの上手いから気楽に楽しくバレーを理解できるよね。
でもこれも原作で既にそうなんですわあ。
どのキャラが今どういう場所で何をしようとしているかがしっかり作られているからどのプレーも納得感が凄いしリアリティがあるよね。
だけどやっぱり原作がそうだからアニメもそうなってるだけなんすわ。
丁寧な描写?
何が起きてるか分かる?
それは全部全部原作に既にそうだった事をおっかなびっくり丁寧になぞってるだけの焼きましコピーでしかないんですよ。
このアニメの価値って原作今まで読んでなかったけど売れてるらしいから追いかけたいけど単行本買うほどじゃないって人向けの販促がいい所ですよねえ?
いやいやそれも素晴らしいと思いますよハイキュー凄いいい作品なのに作者が有名じゃないとかジャンプのスポーツ物だからって理由で敬遠していた人も多いでしょうから後から追いつけるようにするのはとても大事です。
でもさああくまでその程度の存在でしか無い作品をさも日本一のアニメみたいに持ち上げるのは違うよね?
素晴らしい作品のバカ丁寧なアニメ化ってのは確かにやってる事は正しいけどそこに新しい素晴らしさはないよね?
多分だけどハイキューのアニメを(ものすごく)褒めてる人って原作読んだこと無いんだろうなって思うんだよね。
スポーツ漫画興味ない系?
まあ理由はどうでもいいんだけどハイキューの原作読んでないよね多分。
だって原作読んでてアニメ見たらあー懐かしいけどこれ原作の方が面白いなーって思うでしょ絶対。
試しに読んでみ?
そしてこう思うだろうね、「ハイキューのアニメってこの原作から生まれたことを考えたら全くみじんも大したことないな。でも原作が素晴らしすぎるんだから仕方ないよね」って。
本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。
男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?
一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質を直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系の学校ではイメージを尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関の記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。
ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ。
そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事である。シリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。
煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である。脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。
こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)
もう1つが手軽な方法で詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法である。ほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初は詰将棋の入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。
先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学の数学科を出て現在底辺大学の数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対に計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学の天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学の女王。岡潔も晩年は『情緒と創造』を著している。
底辺大学だと数学は論理の学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間で計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンスで計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算も論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学的対象に親しむためと即答し彼または彼女はもっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。
数学の素養がない人たちへ。最初はアイマスクを着用せずJSやJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何のパズル問題(『目で解く幾何』シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学や大学数学科の数学や工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。
数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生が結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋と暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。
芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろいものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的な絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。
そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解や記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来の理解や記憶のきっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。
以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。