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2016-08-17

シンゴジラみえ邦画オタクの悪癖、あとオタク限界

映画面白かったよ

テンポがいいし政治劇もおもしろい、大人も楽しめるいい映画だなって思った

この映画制作委員会方式ではないらしい

からいろいろな出資者配慮することな面白いものができたんだろうね

邦画の悪癖

でもこれが海外から見るとどうなるかと言ったら安っぽいCG

みょうな日本人がひどい英語アメリカ人を演じているというまるでコメディのようなものだろう

外国人邦画にしてはCG頑張ってるよねとかそういう親目線評価しないだろうし

石原さとみってECC英会話頑張っててさ~日本人にしては頑張ってるよとか、ファン目線擁護はしないだろう

何が言いたいかって、この映画、まるで海外市場意識していないということだ

せっかく委員会方式採用していないのに、なぜカヨコ役をアメリカ人に任せなかったのだろうか

制作委員会方式であったら事務所ごり押ししてきたんじゃないかとか理由をあげられるが

そうでないなら、あの石原さとみは誰の希望キャスティングされたのか。庵野か?

ネットでは題材が内向きでよくないなんて意見もあるが、そこは悪くないとおもう

日本で起こった311での題材をゴジラを通して見せるというのは本当に見事だったと思う

しかキャスティングでの内向きさは邦画のよくない日本芸能村という閉鎖的な面をさらけ出しているなと感じた

せっかくのチャンスなのに、自ら村根性を出してしまった

これはもう癖のようなものじゃないだろうか

そして海外マーケティングなどがなされていないのが本当に残念だ

無理やり外国人ねじ込めと言っているわけではない

物語アメリカ重要存在

これ幸いとばかりにアメリカとの関係が描けるのにそれを生かそうとせずに

日本芸能村の内輪でことをすましたことが残念だということだ

石原さとみに下手な英語を話させることのどこに作家性の意義があるのかよくわからないが

結局かわいい子がでてれば良いという、邦画のしょうもないスケベ根性しかなかったりするからあきれる

オタクの悪癖

オタクという生き物は、ほんとうにめんどくさい

めんどくさい例はあげればきりがないが

今回の場合で言えば、その気がなくても好かれたいってやつだ

これはつまり海外のことを意識なんかしなくても外国に褒められたい、消費されたい

海外マーケットに合わせた映画作りなんかしなくても、俺らは支持されるんだよねという願望のようなもの

シンゴジラ批評オタクたちが大好きなもの

シンゴジラ恋愛ないし家族愛描いてないけど面白かっただろ?邦画ってすぐ恋愛入れたがるじゃん?」

オタはすぐ自分たちが気に入らないなにかを馬鹿にする

恋愛があろうが、家族愛があろうが面白い映画はあるし、逆に、それらがなかろうが面白くない映画はある

結局映画の出来と関係ないもの比較して勝利宣言をしているのがオタクの癖だ

しかしたらカヨコを石原さとみにまかせたのもアメリカ市場に媚びたくないというなにかしらのオタの癖なのかもしれない

そうなってくるとオタクの才能に任せるのも問題だなといえる

オタク限界

結果ツイッターはてなではあれだけ盛り上がっているが、結局興行成績は目標50億というところだという

なんともいえない数字

成功か失敗かといえば成功だが

しか庵野秀明ゴジラというブランド、そして名作だという評価をもってしてもこの程度が限界なのだという事実

庵野自身も、エヴァンゲリオンで好きにしてQで崩壊しているのに、まだオタクという生き物は作家性を崇拝し

そして組織馬鹿にする。都合のいい成功事例ばかり抽出勝利宣言のようにほかの邦画をくさすわけだ

2016-08-15

インテリの俺が全力でシン・ゴジラ批評するゾ

シン・ゴジラを観た。

エンタメとしては面白い

だが同時に庵野および日本映画限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。

この映画は、

復興ありき、

再建ありき、

日本にはまだ力がある、

立ち直れる、

そういう答えがもう先にある。

出来レースっぽい。

結論はこれ。もっと詳しく読みたい場合は先に進んで欲しい。

日本万歳の大合唱で負の側面を覆い隠す

これは映画に限らず様々な場面で3.11震災後なんども繰り返されていることだ。

力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能イデオロギーのように保持しているのは、

しろ思考停止の弱体化にしか見えない。

俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。

もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。

この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。

しかし、せっかくゴジラほどの大怪物召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。

俺らスゲーの出来レースゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。

ゴジラというキャラもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞物語なかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。

新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、

新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画手法発明するよう強いられる。

しかしそうした危機テーマである当のゴジラが、ほとんど空虚存在であるがゆえに(たしかわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語構造のものに関わることはない)、

日本万歳のその国の概念のもの反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。

(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカ石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)

シン・ゴジラエヴァンゲリオン庵野確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省発明も見つけられない。

もちろん何の変化もないわけではないが、

そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的視野に同一化する点、

自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性視点に同一化する点は、

この映画保守的ものにしている部分である

石原さとみによって日本を弱小国として見る可能性が排除される

たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国政府との交渉だろう。

ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女キャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的欲望奉仕している点で、やはりこの映画保守的ものにしている。

石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、

しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。

演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的キャラのあり方だと思う。

日本米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的必然性をもっている。

日本米国関係はいわばスネ夫ジャイアンであって、ジャイアンマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。

そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。

かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的観点からでなく、あくま日本人の側から見られた変人だ。

ここでは常識人変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。

「〜アルヨー」とか「〜デース」とかい言葉遣いキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、

彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本から観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。

視聴者たちが米国目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。

このようなわけで、この映画日本男性精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、

しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的価値が大いにあると思われる。

その点では逆にこの映画評価されるべきだろう。

これほどありありと、日本的および日本男性想像力限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか

風立ちぬ』にも認められるドキュメンタリー価値

この点ではジブリの『風立ちぬ』も同じだろう。

あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機流線型フォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、

しかしそうした戦中日本精神限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。

今回のゴジラもまた、同じような価値をもっているといえる。

こうして、批判されるべき部分は評価されるべき部分ともなる。

したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスコミカル関係性ということになろう。これはどういうことか。

正しい反応とは、それを積極的に笑うというもの

さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画限界証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。

まりエヴァンゲリオン踏襲し、ナショナルものジェンダー領域において日本男性の閉鎖的で差別的欲望奉仕するこの保守的映画は、

限界を自ら反復し、演じている、ということであった。

日本男性政治家米国女性シリアスセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。

しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである

そう考えれば、シリアスものコミカルものに転じる。

そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである

したがって、このように問うことができるだろう。

限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界茶化すことでもあるのではないか。つまり限界批判することでもあるのではないか

たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法発明努力放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか

そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。

まりシン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。

誰か、あの映画を見て笑ったものはいるだろうか。

あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。

私はその反応をこそもっと批判したい。

2016-08-12

サヨクが見たシン・ゴジラ

何かと話題シン・ゴジラサヨクから見ると、え?これ自民党広報映画自衛隊広報緊急事態条項のための煽り?なんなの?と、見えなくはないです。今回は僕なりどうしてそう見えちゃったのか、理由を考えてみたので、それを解説させてください。。。

以下、シン・ゴジラネタばれを含むので、ってそこがメインのトピックではないですが、未見の方はご注意ください。僕の立場性的もの説明することで行を稼ぐので、ネタばれしたくない方は僕がながながと自己紹介してる間に離脱してくださいね

立ち位置

僕は自称サヨク保守派です。政治的信条をいえば、九条は守る派。自衛隊基本的違憲災害出動はありだから自衛隊って言う名前を変えて武装をなくして災害時のすげーレスキュー隊みたいなのにしちゃだめなのかしらって思ってる派です。でも中国尖閣とかどうしよう。

安保アメリカお金を払って守ってくれるんだったら別にいいんじゃね?派ですが、沖縄ばっかりに基地が集中してるのは不公平感が強いから県外に分散させたほうがいいんじゃないかしら?派ですね。

原発に関しては、なくなったほうがいいけど今すぐは絶対なくせないから、今すぐ全部の原発を最新のやつに置き換えて、少しでも安全にして議論時間を稼ごう派です。

まあネトウヨさんに言わせれば、典型的な「頭の中お花畑」の一人でしょう。日教組教育に毒された頭の中お花畑です。あんまり職業として政治家とか官僚とかに興味なくてよかった!

と、まあそんな私ですが、ゴジラに関しては、世代的に平成VSシリーズドンピシャなこともあり、平成VSシリーズをなんとなくカバーミレニアムシリーズ大人だったのでノーケア。どちらかというと今回の映画には庵野入り口です。エヴァンゲリオンどんぴしゃ、序を見ながら映画館で「庵野大人になったな。。。俺も大人にならないとな。。。。」って思いながら号泣するぐらいの庵野フォロワーではあります。なので、それに併せて今回1954のゴジラや1984ゴジラを予習した上で、劇場に足を運んだのでした。

上前置き。

さて、そんな頭の中お花畑庵野フォロワーな私なので、最初シン・ゴジラを見たときは、え。。。これ、アベ政権宣伝・・・自衛隊礼賛・・・?なに・・・?と政治的にぐらぐらして正直あまり楽しめなかったのです。その理由をまとめると以下

今までのまじめゴジラ映画はさよくを甘やかしている

 前提として、今までの作品と若干比較します。過去作も「ゴジラ自衛隊放射能」っていう要素は大きくは違わないにもかかわらず、過去作を見ても政治的にぐらぐらしなかったのに、今作はちょうぐらぐらしたからです。

 ほいで、比較対象は今までのゴジラ映画の中でも「まじめゴジラ映画」です。ゴジラシリーズがわりと大人向けのハード作品としてシリーズを開始しながら、だんだんマーケット意識した子供向け映画になっていくのはそれはそれで面白いんですが、まじめゴジラ映画しか比較しません。

 ファンタジー子供向け映画であれば、どれだけ自衛隊がかっちょよく活躍していても、現実との距離があるのであんまりキドキしないですし、そもそもゴジラ映画の中では、子供向けに舵を切れば切るほど、ゴジラと対抗する人間側の組織がどんどんファンタジック組織になっていきます。これはこれで興味深いけど論旨とずれるのでおいといて、「ゴジラ現実に出現したらどうする?」っていうベースを持っているのは54のオリジナルゴジラと、84ゴジラなのでこの作品二つを本論では「まじめゴジラ」として、この二つとの対比でこの項目では取り上げます

軍事転用を恐れた眼帯が自殺する1954年

 まず54ゴジラはくっそ反戦映画なわけですが、途中よくわかんないヌルヌル三角関係とか出てきて、事前情報なしで見た僕はなかなか衝撃でした。その三角関係必要なのか?で、もー出来立てほやほやの自衛隊が一夜にして高圧電線東京湾岸に引いたり、戦闘機飛ばしたり、なかなか大活躍されるわけです。見方によっては出来立てほやほやの自衛隊宣伝映画。でも、この映画主題は、芹沢博士(眼帯)が自分技術軍事転用されることを恐れて自殺する、という衝撃の展開にあります。非常に九条精神体現した英雄的な行動ですね。

 自衛隊活躍させる(みぎ)けど、眼帯の博士技術軍事転用を恐れて自殺する(ひだりっぽい)。このバランスのとり方がサヨクスポイルさせるのだと思うのですが、この説教くささは1984でも繰り返されます

首相が高らかに非核三原則宣言する1984年

 1984ゴジラも、なんとなく沢口靖子大根)をめぐる三角関係感が見え隠れしなくもない(片方の相手はお兄さんなので正確にはシスコン映画で、武田哲也の怪演が当時話題になったことは否定しがたい名作ですが、まあこのなかでも自衛隊は謎の新兵器を開発したりわりと優秀です。しかも、冷戦状況下において日本とは思えない軽やかな政治判断交渉を繰り返したり、なかなか自民党政権礼賛です。アメリカ大使ソ連大使に当時の首相こんな軽やかに対応できたんかい

 あと、散々首都蹂躙し、西新宿も壊滅させられたのに、なぜか大島火山に沈むゴジラを涙ながらに見送る首相(その涙にはどんな意味が?)とか思ったりしますが、この首相なかなか理想体現する人で、ゴジラへの対処として核攻撃提言する米ソの大使に対して、「日本には非核三原則がある!作らず・持たず・持ち込ませず! だから攻撃などありえない!」と高らかに宣言をされるわけです。

 えー。。。駆除に関する議論をしてるときに、原則論持ち出されても。。。ってアメリカ大使そりゃ怒るよね。こんなときから原則論なのです、ってえーじゃあどうすんのよーってなるよね。

 まあどんだけ自衛隊活躍させて自民党政権が軽やかに外交で振舞う現実離れした宣伝(みぎサービス)があったとしても、首相が頑として非核三原則を曲げない(ひだりサービス)が、あれば、サヨク安心するわけですよ。

 自衛隊活躍しちゃったりすると、どうしても「えーこれお母さんに内緒で見ていいやつかな?」って思っちゃいがちなサヨクの良い子たちに、同時に、軍事転用を恐れて自殺する眼帯とか、非核三原則宣言する首相とか、そういうわかりやすいさよくがお母さんに報告しやすガジェットをしのばせることによって、バランスをとっていたのです。今までのゴジラは!すごい!サヨクにもやさしい!

お母さんに報告しづらいシン・ゴジラ

 ところがそのようなバランスシン・ゴジラではとってくれません。いくつかお母さんが喜びそうなシーンもあるのですが、多分喜びません。

お母さんが喜ぶ可能性が少しでもあるシーン

首相国民自衛隊タマを向けることはできないと宣言

自衛隊のあり方を肯定しているからお母さんは不機嫌になる。

→アベ首相中途半端英雄的なことを言っているだけだからお母さんは不機嫌になる。

○みんなで核攻撃回避するんだ

非核三原則とかそういう理想的なことは言わない

石原さとみが「おばあちゃんを苦しめた原爆をもう一度この国にごにょごにょ

→ここいけそうなんだけどなーなんでだめなんだろう。石原さとみがそもそもお母さんにいいづらいのかな

あ、やっぱりあんまりお母さんが喜びそうなシーンないわ。。。

でもお母さんが目くじらを立てそうなシーンはいっぱいあります

自衛隊員最初品川攻撃へ出撃するシーン「みんな覚悟はできています!」

特攻隊礼賛か!自衛隊礼賛か!

最後のほうの矢口演説自衛隊はこの国の最後の砦です!」

自衛隊礼賛か!自衛隊礼賛か!

SEALDs 的な国会前のデモ揶揄しているっぽい

ゴジラを救え?倒せ?どっちにも聞こえるシュプレヒコールって馬鹿にしてんのか!

あと全体的に手続き時間がかかるとか、そのもどかしさとかは緊急事態条項作ろうとかそう言うこと?!あと、泉が優秀だったり矢口矢口の部下が優秀だったり、自民党のことばっかりホメやがって!!!

ってなる気がする。

と、いうわけで、自分を含めて多くのサヨクは、自衛隊とか自民党政治家とかが出てくると基本的に、それを否定的に描いているかどうか?っていう評価回路(上記でお母さんって言ってるやつね)が自動的に起動して、否定的に描いていなかったり肯定しているのと同じぐらいの分量の左翼的メッセージ内包されていない場合、この作品って右っぽいんじゃない?って思っちゃうわけですよ。だからみんな多めに見て!大目に見てあげて!

蛇足ですが。

 上記より、僕が思っていることは3点、上記お母さん回路は遮断してこの作品を見るべき、サヨク現実との乖離認識するべき、でもこの作品から何が生まれるのかは注視すべき。

の、三点です。

○まずお母さん回路の遮断はそのまま。庵野現実制度スタッフを忠実にトレースして東日本大震災成功パターンを描いただけなので、別にかのことをほめたりする意図はまったくない。国会デモみたいなのも揶揄するつもりではなく、こういうのありそうだよねっていうリアリティのためのガジェットに過ぎない。から、その回路は遮断したほうが映画自体を楽しめる。落ち着け。お母さんはもうお前を怒らないし、庵野にはべつに政治的意図はない。

○2点目、あべ政権くそ死ね自衛隊違憲!って思っているサヨクのあり方そのものものっそい一般からずれちゃってるゥ!そりゃあ選挙負けるわ。っていうのをこの映画見方のズレから認識するべき。野党共闘はある程度機能したとか抜かしてる場合ボケ。ほんとに改憲阻止したいなら生前退位するぐらいの覚悟は見せるべき。

○3点目、わりと負け惜しみっぽい最後ポイントですが、エヴァンゲリオンで描きたかったのはそういうところじゃなかったのに、結果的庵野セカイ系への扉を開いちゃって、その後最終兵器彼女とかほしのこえとかそういういわゆる「セカイ系」と批判される作品群を生み出してしまった。今回のシン・ゴジラもなんかそういう扉を開いちゃうと思うけどそれが何かは注視するべき。 ほんでサヨク的な負け惜しみだけど今回開いちゃう扉は、愛国ポルノ的なもの可能性もあるんじゃないかしら。そこは注視するべきじゃないかしら。

2016-08-10

はてなの連中のCGリテラシーの低さには驚く

最近だとシンゴジラかいつかのエヴァンゲリオン3D版とかウルトラマンとか

レベルの低いCGをやたらとすごいすごい言ってて驚く

はてなって標準の日本人からするとわりとギークよりだと思ったんだけどな

ゲームオタクとかハリウッド映画ばっか見てる人は海外との差を実感すると思うんだけど

はてなの人って普段何見てるの?

WEBデザインでいうとyahooとか楽天WEBデザインをすごいっていうレベルだぞ

白組シンゴジラCG担当した会社)って日本CG屋でもレベルが低いことで知られてるところで

デジタルフロンティアとかスクエニとかからしてもネタなのに

にゆえにすごいのか理解できない

2016-08-07

http://anond.hatelabo.jp/20160807215122

総監督である庵野さんから観客へのメッセージしか思えないのですが。

違います。あのメッセージは誰が言ったものですか? 牧吾郎さんですね。

ここで牧吾郎さん写真に注目してください。あのお爺さんは誰ですか? 故岡本喜八監督ですね。

岡本喜八監督と言えば、庵野監督が最も尊敬する人で、その作品が『シン・ゴジラ』にも多大な影響を与えていることが多方面から指摘されています

まりあメッセージ岡本喜八監督からの、庵野監督に対するメッセージです。

その上で、作中「好き」という言葉があと2回出てきます。それが岡本喜八監督に対する庵野監督の返答です。もう1回観てみてください。

さらにその上で、エヴァンゲリオンTV最終話と、フェデリコ・フェリーニ8 1/2』を観ると、今回やりたかったテーマがよく分かると思います

2016-08-05

震災映画としての「シン・ゴジラ」を見て「日本希望がない」と確信

シン・ゴジラと三一重工と馬英九

以下、ネタバレ感想。未見の人はまず映画館へ。かなりよくできていて、金の無駄だと発狂するレベルではありません。少なくとも「エヴァンゲリオンQ」よりは面白い!!!平成ゴジラではナンバーワンだね!(白目)

ストーリー

2004年以来、12年ぶりの国産ゴジラ。いわゆるリブートってやつで、今までのゴジラシリーズをちゃらにしてゴジラ初登場という映画になりますエヴァンゲリオン庵野秀明脚本総監督

で、ストーリーはだいたい以下のとおり。

東京未確認巨大生物出現!

自衛隊出すの?鳥獣駆除防衛出動関係省庁の意見のすりあわせ大変や~とかステレオタイプ官僚主義会議が続く

まあ自衛隊だしたらワンパンチやろ!と思ったらめっちゃ強いじゃん

つーか体内で核分裂してる?歩く原子炉やん!

当初は「ゴジラで得られる科学的知見はうちがごっそりいただいていくで~」と陰謀たくましくしていたアメリカゴジラ子どもを産んで世界滅亡の危機ありと知るや核ミサイル東京にぶっこむ宣言

日本米国の犬なので従うしか……

東京を救うべくぎりぎりのところで粘る日本の政治家&官僚研究者

最後は高層生コン・ポンプ車でゴジラの口にお薬を注入して封印成功

原発事故映画

映画の枠組みを一言で言ってしまうと、「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」というものポンプ車での冷却とか、米軍無人機出動とか、放射線気にしながらの作業とかわかりやすすぎ。官僚主義とか御神輿首相とかダメダメ日本だったわけですが、危機に際して覚醒。「この国にはまだ希望がある」(わかりやすく劇中で出てくる台詞)ですよ。棚ぼたの奇跡じゃなくて、人々(といっても政治家官僚科学者自衛隊土建企業の皆さん、あとトモダチ作戦米軍有志)の努力日本は救われる。

映画見ていてちょっと泣いた。あー、こんな風に福島原発事故解決していたら良かったのに、と。

日本人にはまだ力がある。このダメダメな現状を変えられるッ!」というエールととらえればすばらしいんじゃないでしょうか。

でもね、もう福島原発事故から5年が立っちゃったんですよ。震災で民草がうちひしがれている時、2012年ぐらいまでにこの映画があったら手放しで喜べたと思うんですよ。私も2011年当時、「この大震災から日本は立ち直るのだ、復興するのだ」とがらにもなく魂をふるわしましたよ。でも結局、日本人覚醒しなかったし、ダメダメ構造は今も続いている。その状況で「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」っつーのはたんなる自慰行為ではないでしょうか。

日本のなにがダメダメかっていちいちあげませんが、少なくとも映画内でもそのがっかり感はたっぷりとにじみでています米国が主導する多国籍軍の核攻撃を遅らせる官僚のがんばりが「知り合いのフランス政府関係者に連絡」「首相代理駐日フランス大使に頭を下げる」だったのにはあんぐり。あと「日本政府米国の犬なので、米国大統領東京攻撃するよ♪」日本首相「I Understand」と速攻受け入れ」とかの単純化を見ていると、問題本質に向き合おうとしない日本ダメさかげんが反映されているとしか

中国台湾はどこへ消えた?】

シン・ゴジラには米国以外の外国ほとんど出てきません。

首相代理にひたすらお願いされるフランスゴジラの解析にスパコンを貸してくれるドイツ研究所の偉い人。そして「安保理東京への核攻撃に賛成。特に中国ロシアが」「東京に核ぶっこんだら、おわびに各国が復興資金出してくれるんやって」という台詞ベース説明ぐらい。

でもさ、ゴジラの口にお薬をぶっこむポンプ車ですが、あれって福島原発事故の時に中国の三一重工が供与してくれたエピソードから採用しているわけですよね?なんで中国が出てこないの?台湾ぼくらの馬英九総統(当時)が特番煽りまくって募金を集めまくってくれたわけですが、そのエピソード無視

いや、福島原発事故エピソードを全部ぶっ込めというつもりはないっすよ。でも日本にとっての国際関係米国しかないのかい?!とか言いたくなってしまうわけで。この薄っぺら国際感覚日本覚醒できるのでしょうか?復興できるのでしょうか?

【その他】

・さんざん文句つけましたが、絵作りとか特撮とか最高。予算15億円と聞きましたが、古い怪獣映画らしい雰囲気を出すことで低予算を苦にしない絵になっていると思いました。特に列車爆弾のシーンはスタンディングオベーションしたいぐらい。最高っす。ハリウッドゴジラと比べたら100倍ぐらい面白いよん。

テンポ邦画とは思えないほどいい。会議シーンが多いのに飽きさせない。

・なぜスカイツリーを壊さないのか?!隅田川にこいよ、ゴジラ

石原さとみは大好き。妻が見ていたドラマ洋菓子屋の若旦那不倫するやつ、坊さんと恋愛するやつ、IT企業の風雲児と恋愛するやつ)を見ていて思ったんですが、あんなにエロさを出せる女優さんは日本にいないんじゃないでしょうか。でも今作は……。石原さとみ英語を聞くたびに発狂しそうに。

市川実日子さんの演技がすばらしかった。

長谷川博己の演技が堺雅人しか見えなかった。いつ倍返しだと言い出すのかはらはら。

2016-08-03

https://note.mu/ohanhan/n/nb4c6e4657b25

是非は別として、この書き手が明確に見間違えている、あるいは見落としていることについて

1)現実(日本)VS虚構(ゴジラ)のキャッチコピーについて

この映画は「ゴジラという災害」と「日本」の戦いであり、明らかにそれを意識した作られ方をしているということ。

まり登場人物は誰一人ヒーローではない。フィクショナルな意味でのスーパーヒーローは出てこない。

作中でも語られる通りに代替可能キャラクターであり、しかし彼らが活躍するからこそ「一人の英雄」ではなく「日本」が見えてくるのだ。

さんざん指摘されているように、ヤシオリ作戦の内容は「ヤシマ作戦」と酷似している。

(①敵がエネルギー充填のため停止中 ②空撃は自動的に追尾破壊日本中が集結)

シン・ゴジラ」の作中に明確なヒーローヒロインがいれば、エヴァンゲリオン同様に世界シンジ綾波笑顔に集約されてしまう。

熱く盛りあがりたければ自己犠牲を出せばいい。感動的なBGMを流せばいい。スローモーションをかければいい。

感情移入を誘発させて、画面に向かって叫ばせればいい。むしろ観客を感動させようと思うのなら、こんなに簡単なことはない。

それを「ないかダメ」ではなく、「なぜそうしなかったんだろう」という疑問を持って本作と向き合ってもらいたい。

そのうえで、内容が気に食わないのなら仕方がない。自分の好きなものと違うからだめ、という見方はあまりもったいない

2)キャラクター家族について

兄弟恋人家族。当然いるだろう。

矢口、カヨコ共に親の七光りであることは強調されているし、なによりあるキャラクターの薬指には指輪が光っている。

だが本作で書かれているのは理想国家であり、登場するのは理想公務員たちだ。

ゴジラが本性を発揮し、津波地震原発とその表すものが明らかになっていくうち明快になるが、

言ってしまえば彼らは「こうあってほしかった」とされる東日本大震災原発事故対応する日本国家だ。

から彼らには徹底的なリアリティ必要とされ、ストイックさが求められる。

悲劇に立ち向かうたびに恋人電話して、励まされて頑張る、だとか

田舎に帰って親に説教されて立ち直る、とか 死にゆく前に子供の顔を思い出す などの

よくある展開に飲み込まれない、強靭でありながらステレオタイプに寄り過ぎない国家公務員からだ。

書き手が疑問に思っている「出世の野心」についてはもっと明快で、これは彼らの軽口にすぎない。

「国のため!」「私たちがやらなければ誰がやるんですか!!」といったような言動安易ナショナリズムを刺激し、

また誰もが聞き慣れており、その言葉は嘘と虚飾にあふれている。なにより非常に陳腐なのだ

それこそ書き手が「言わせるなよ」と評した「ゴジラより怖いのは人間」といった表現と同じように。

詳しくはゴジラ(1984)をご参照願いたい。

3)スクラップアンドビルドへの違和感

震災直後のテレビ報道を見てもらいたい。

朝起きれば津波。昼休みに流される車。倒壊する学校。鳴り止まないサイレン

街が泥水に覆い尽くされ、数えきれない人々が瓦礫の山と共に砕かれていく。

バラエティ番組自粛CM自粛、連日の黙祷、増え続ける犠牲者行方不明者。

確かにこの頃「何度でもやり直せる!全然OK」等と唱えていたら、書き手同調する人は多かっただろう。

だが震災より既に5年半が経過している。また先日の熊本震災、あるいは津久井やまゆり園の例に見るように、

悲しみは絶え間なくやってくる。

そういった中で明るい展望見出し、これからの立ち直りを示唆することが悪いとは到底思えない。

また繰り返すように、本作は理想国家公務員たちが作り上げた理想災害対処である

4)作戦微妙

「うまくいくのかいかないのか」は勿論重要煽りポイントだ。

書き手が腐るほど見てきたという作品群は、恐らく以下のようなカタルシスの産み方を目指していたものだろう。

対立相手作戦説明

→②主人公が対案説明

→③話が折り合わず決裂。主人公が対案を実行に移す

→④予期せぬアクシデントが発生する

→⑤とっさの機転で切り抜ける

→⑥無事に悲劇回避する

→⑦対立相手に認められる

が、本作はその点を利用していない。しようとしていない。それは映画を見ればわかる。

まずは②にあたるものが本作にはない。作戦目的以外、つまりどう実行するか?の点について、

本作では最後まで伏せられている。

本作では、作戦自体カタルシスなのだ

自衛隊ゴジラ誘導し、

新幹線在来線爆弾としてゴジラにぶつけ、

発破をかけたビルゴジラを押しつぶすという作戦を観客に提示する、その絵だ。

ビル鉄道に「日本技術力、ひいては日本のもの」を読み取るのもいい。

(今までゴジラ破壊されてきたものの逆襲という背景を深読みしてもいい)

もし書き手が少しでも頭を使って本作を見ていれば、流石にゴジラ東日本大震災と重ねているはずだ。

そこから何も読み取ろうとせずに、フィクション世界物差しで本作を「ご都合主義だ」と言っているのであれば

読み取り方を完全に間違えている。

本作はリアリティを追求しつつ、観客に「これは東日本大震災メタファーですよ」「そして彼らは非常に有能な公務員たちですよ」と

前半までに否応なしに畳み掛けることで、

本作の、少しでも間違えたら全てのシーンが冗談になってしまうヤシオリ作戦について「嘘」を認めさせるという高度な作り方をされているのだ。

最後

書き手は「私は震災家族を亡くしている」などという設定があれば、

「ごく自然ゴジラ震災や核と重ねることもできる」という。

仮に本作がゴジラ映画初体験だったとしてもだ。

上陸した第二形態に押し流される車

・押し潰される団地

炎上する東京

・頻出するガイガーカウンター

・明確に原発封鎖を目的としたコンクリートポンプ車に似せたゴジラ沈静化作

ここまでされても「ごく自然ゴジラ震災や核と重ねることもでき」ないのであれば、

ここまで書いた文章はすべて無駄で、純粋リテラシー問題だ。

褒める褒められないの視点に立ててすらいない。

問題文が読めていないのだから、出した答えが正解しているわけがない。

もちろん、書き手否定した文章すべての答えが正解であるはずもない。

からもちろん、こういう人にこそブルーレイを買って何度も見なおしてもらいたい。

映画は何回も見れば見方が変わるものだし、繰り返し話すことで理解は当然広がっていくはずだ。

一回で全てを理解してしま自分の中に全てを落としこんでしまった人よりも、この書き手は本作を何倍も何倍も楽しめるのだから

監督が語った「見終わったら、ぜひみなさん議論してほしい」というのは、恐らくそういう意味なのだ

2016-08-02

シン・ゴジラ観に行ったけどクソだった

 レイトショーの回を観に行った。

 まずとなりの席に座ってたババアが最悪。

 七対の触手を落ち着くなくうねうね蠢かせて視界を塞ぐし、十七秒間隔で先端からオレンジ色の膿汁みたいなものを撒き散らす。

 ババアを注意しようかしまいか迷ってる内に本編が始まる。

 入場前に持たされた3DLSDを服用すると、光の世界ジャック・イン。


 おれたちはもうゴジラだ。

 東京破壊する黒色の異形だ。

 スカイツリー破壊しよう。

 霞ヶ関蹂躙しよう。

 多摩川突破せよ。


 劇場から出ると東京は滅んでいた。


 それから我々は毎日劇場に集まるようになった。

 アーチ型に列に並べられた、八十ほどあるパイプ椅子のうち、その日使われているのはたった五脚だった。わたしたちは互いに離れて座っていた。わたしたちは一人になるためにここに来たのだ。自己省察、つまりは失われた人生結果論批判したいという欲求。それは宗教信者が抱く祈りへの欲求くらいにやむにやまれものだった。

 シンゴジは昔の大作の映画みたいに、本編上映中に休憩時間が挟まっていて、そのあいトイレにも行かず、ホットドッグを補充しようとしないやつは十五分間のニュースを観させられる。その一コーナーは株式市場報告だった。素人くさい二人の女の子が、熱心にその日の市場の動向を報告するのだ。

 私は見て、聞いた。女の子たちは私の娘だった。オオクニヌシアマツヒコネ、十歳と十二万歳。二人の母親電話でぶっきらぼうに、娘たちがTOHOシンデレラに選ばれてこれこれの番組に出ることになったと教えてくれた。


 二人は画面で無表情にアラブ首長国連邦で急速に進展している状況について報告していた。

キーワードドバイです」

「驚くべき速度で進化し、大陸や海を越えています

「市況は急速に悪化しています

パリフランクフルトロンドン

東京株式市場には深刻な影響は出ていないと政府コメントしています

ドバイ国民ひとりあたりの負債世界一多い」オオクニヌシが言った。「そして、建築バブルもはじけ、もはやドバイ借金を〜〜〜(聞き取れない)へ返せません」

借金の額は五百八十億ドルです」

借金の額は五百八十億ドルです」

「何十億かの誤差はありますが」

ドイツDAX指数

「三パーセント上下げています

王立スコットランド銀行

「四パーセント上下げています

キーワードドバイです」

ドバイの人々はゴジラ上陸を待望しています

負債を負ったこの都市国家は、六ヶ月の返済猶予を諸銀行に求めています

ダウ・ジョーンズが下がった」

ドイツ銀行

「下がった」

ロンドン――FTSE一〇〇指数

「また下がった」

「ホンコンのハンセン指数

「どんどん下がる」

原油イスラム債

「下がった、下がった、下がった」


 以前の人生は毎分のように自分を書き換えていく。四年後にも私はここにいて、この薄暗い客席で悲惨に座って石原さとみルー語を聴いているのだろう。

 自由になった未来などなかなか想像できない。信じられるものなど何一つない。

 スクラップ・アンド・ビルド

 それは神話であり、幻想だ。

 日本は立ち直りなどしない。

 この二十数年、いや、この六十五年間、立ち直ってこなかった。

 立ち直ったのは監督の鬱だけだ。


「恐怖は増すばかりです」

数字の恐怖、拡大していく損失の恐怖」

「恐怖とはゴジラのことです。話題ゴジラです。ゴジラには収益性があります。五百八十億ドル、それとも八百億ドル?」

「速報です。ハリウッドゴジラ製作しているレジェンダリー・ピクチャーズ中国企業に買収されました」

「速報です。エヴァンゲリオンはもう誰も観ていません」

「なぜなら誰もが観ているからです」


 私はサッカーゴジラ映画類似について考えた。

 戦争、休戦、無秩序右往左往する群衆インスピレーションとなってきたサッカーゴジラ映画。どれも世界熱狂的に愛されている。あるオブジェクトを追い回し、草地や芝生や都市で行われ、国全体が高揚や悲嘆に身を悶える。

 もしゴジラアメリカ発明品だったならば、古くから清教徒的な本性に導かれて、マスターベーション禁止という原則にのっとった作品にならざるをえなかっただろう、とヨーロッパ知識人が唱えたりしないだろうか。

 これはいま私が考えていることのうち、以前は決して考える必要のなかったことの一つだ。


 映画が終わると私はオレンジ色の粘液でべとべとになっている。

 肌が音を立てながらが溶けていくのを感じる。

 性器が溶解していくのを感じる。

 それがなぜか妙に心地いい。

 

 

 

  

 

2016-07-28

なぜリアル系ロボットアニメは少なくなったのか

リアル系スーパー系境界曖昧なのは理解しているし、スーパー系の中にもリアル的な要素を持った作品があることは承知しているが、それでも全体としてリアル系が少ないことは事実ではないだろうか。特に完全新作オリジナルリアル系ロボットアニメとなると、下手をすればコードギアスまで遡ることになりかねない。

リアル系の人気がなくなったわけではないはずだ。(リアル系代表格たる)ガンダムマクロスでも、なんだかんだで新作は歓迎されている。にもかかわず、近年の野心的といっていい新企画の数々が、ことごとくリアル系を外しているのは何故なのだろう。

ひとつ考えられるのは、リアル系土俵で戦えばガンダムには勝てないから、あえて捻った企画を上げている…ということである。そうしないと企画が通らないのかもしれない。あるいは、ガンダム登場以前のスーパーロボットに親しんでいた人たちが、上のほうで裁量権を握るようになったのかもしれない。

どうあれ、リアル系ロボットアニメの新作を、どうかまた作って欲しいものであるスパロボの主役機も、最近スーパーっぽいのが多いので、リアル系選択できるようにして欲しいものである。よろしくお願いします。

「どういう基準リアルだとかスーパーだとか言ってるんだ」と突っ込まれそうなので、私が考える「リアル系」の定義を書いておく。

マジンガーZのように、ロボット世界に数少ない特別存在として、スーパーヒーロー的に扱われている作品エヴァンゲリオンのように、ロボット機械ではなく生物的な存在だったり、ファンタジー的な不思議な力を持っているような作品。それらを除く、すなわち「(主役機も含めた)ロボットがただの機械として作中世界に広く存在している作品」が、私の定義するリアル系である

ただし、この定義について納得してもらいたいわけではない。あしからず

トラバアルドノアとアルジェヴォルンに加えてシュヴァルツェスマーケンシドニアの騎士あたり。

シュヴァルツェスマーケンシドニア原作きじゃないですかー

この手の界隈が原作もの忌避する傾向があるのが我ながら謎である

原作付きを忌避してるのではなくて「オリジナル作品特に少なくない?」という話に原作付きを挙げて「あるじゃん」という人がいたからですよー

翠星のガルガンティアとかはどっちよ

宇宙人オーバーテクノロジーで作られたロボットが一体だけ地球にやってきて人々を守る話」だと認識しています

増田定義だと水道橋重工のクラタスはまだ量産化されていないかスーパーロボットだということになってしまうのだが。

もし今、宇宙人が攻めてきて、まだ量産化されていないクラタスがたった一機で戦うのを描けば、それはスーパー系ロボットアニメでしょう。

クラタスが量産されて兵器化して各国軍隊に配備された世界での戦争を描くのであれば、それはリアル系ロボットアニメだと思います

スパロボ辺りから流行った「リアル」って概念は厳密に適用するとほとんど残らないぞ。

ガンダムリアル系に含まれる程度の緩さ」を維持しないかぎりは、

キャタピラのほうがリアル」とか言い出す馬鹿が出てきちゃうので注意しなきゃですよね。

2016-06-23

アメコミ

「このキャラとこのキャラがこういう関係でー」みたいなの。

いや、オタクの裏設定遊びとか好きにすりゃ良いと思うんだけど。

要するにCLAMP漫画が実は世界観が繋がっててーとかああいうのでしょ。

よくあるオタク向けうちわ向けのクロスオーバー設定。

アメコミ映画が売れるようになって勘違いしちゃったのかな。

最近なんかやたらと「このヒーロースパイダーマン尊敬してて〜」云々とか、アメコミオタが嬉々として語ってんの。

くそうっぜえ。

なんでそんなクソオタ向けの話が一般に通じると思っちゃってるのかね。

ヒーロー映画なんてわかりやすカタルシスがあって見やすいか興行として人気があるだけなんであって。

普通一般人がお前らみてーなオタクと一緒で裏設定に脳汁出まくっちゃうような客だと思うなよと。

キモいんよ。引くんよ。

アメコミの「話」に魅力があると思ってるようなのはお前らだけなんよ。

派手で迫力があるくらいの理由で見てんのよ普通の客は。

アメコミなんて「話」はしょせん子供向け。

深みのないかっこつけストーリーやんけ。

とか言うとまた、何か勘違いしたアメコミオタが、「登場人物不倫をしたりドロドロで〜」「こんなの子供向けじゃない〜」とか言ってくんのな。

から!それが!子供向けだっつんだよ!

エヴァンゲリオンセックス描いて大人っぽい〜とか言っちゃうレベルの子供に向けて作ってるんだよ!

もうマジキモイんだわ。

中二病はマジ中二で終わらせてくれよ。

漫画キャラクターなんかにマジになっちゃってるのはお前だけ。

アメコミ映画くらいジャンク暇つぶしとして見させてよ。

勘違いするんじゃないっての。

2016-05-21

「ヴ」の発音

小さい頃、漫画台詞で初めて「ヴ」という文字出会った時、非常に困惑した。何故ならそれまで習ったアカサタナにはウに濁点をつけた言葉などなかったからだ。

「ヴ…なんて読むんだ?ウじゃダメなのか?口に出すと…ウを力強く言った感じ?でもそれは只のウと何が違うんだろう…?でもそれ以外に読み方ないよなこれ…」

こんな感じに悩んだ。結果とりあえずウと認識することになった。だから小さい頃セラヴィー先生セラウィー先生と読んでいたし、エヴァンゲリオンはエウァンゲリオンと読んでいた。因みに同時にエヴァ兄弟が借りてきた漫画から入ったのだが、幼かった自分にはさっぱり内容が分からなかった。1ページ目にあらすじが載ってたから読んでみたが「使徒?なにそれ?敵?でもボスはいないの?」みたいな感じだった。

誤解が正されたのはそのエヴァである。なんかのテレビ特集エヴァ映像が流れていたのである。そしてそこでキャラ達は口々にこう言っていた「エヴァ」「エヴァ」…。

すごい驚いた。「ヴァって…バに近い発音なんだ…ウじゃないんだ…」「セラヴィー先生セラウィじゃなくてセラビィに近い発音なんだ…」

こうしてエウァンゲリオンはエヴァンゲリオンになった。あとリスニングの大切さを知った。

余談。結構漫画単語を知ると、後からアニメで聞いた時イントネーションが思ってたのと違くて驚く。ボッスンは完全にリットン調査団イントネーションで読んでたのでガッテンのイントネで読むアニメに非常に違和感があった。いや本来ガッテンが正解だからお門違いなのはこっちなのだが…。

2016-05-01

腐女子と女オタク

彼氏自称オタク女友達に、「彼女オタクからさ~、話が合うかも!今度会ってみてよ」と話したらしくて、心にさざ波が立っている。

まず、大前提として私は確かにオタクだけど、「腐女子」だ。所謂腐女子人気の高い」作品しかまらない。うたプリとかキンプリの類。乙女ゲー大好き。そして、少年漫画もそこそこ好きだけど、あくまでも腐女子目線の「好き」であって、一般的な人の抱く行為とはたぶん一線を画すものだと思う。

そのため、オタクとしてのアニメ語りはできないし、第一一般人が好きそうな大人アニメガンダム妖怪ウォッチエヴァンゲリオン 等)を見たことがない。ので、そういう一般的な女オタクとは話が死ぬほどあわない。

しかも、困ったことに女オタクホモフォビアの人たちが結構多い。アニメが好き、と言う話から盛り上がっても、腐女子と分かると一変して腐女子批判を始める人達の多いこと多いこと…。一緒に見られると嫌なのは分かるけど、批判はイクナイ。だから、私は女オタクという存在から距離を置いている。

で、話を元に戻すと彼氏女友達はどうやら女オタクの類だ。ワンピースドラゴンクエストファイナルファンタジーが好きだったら絶対オタクだ…会いたくない…、と思っている。

大体腐女子は日の当たらない場所でこっそり生きるから、頼むからそっとしておいてください。

結論男性諸君は女オタク腐女子を決して一緒にしないように!地雷を踏むぞ!

2016-04-29

どうしても二次元的なるものが好きになれない

失礼を承知で言うならば、アニオタっぽいアニメみたいなの。絵的にはマンガとか、ノリ的にはラノベみたいなのも含まれる。

表現しようがないが、あのアニメアニメしたとでも言うか、アニメ声があって軽いお決まりのノリがあって、のようなのはどうしても好きになれない。

何度も何度も観賞を挑戦したのだけども、五分で駄目だ。

アニメが嫌いなのではない

宮崎駿も好きだし、エヴァンゲリオンも好きだ。

ドラえもんだって見られない事もないし、セーラームーンでさえも我慢すれば見る事は出来る。

だが、京アニみたいな、なんと言うかああいう感じのは体がそもそも受け付けない。

どうしてなのか、よくわからないのだが。

2016-04-07

ウザイオタクの事例

ラブライブ女性声優AVに出てたとか、出てないとかそういう議論燃え上がる世間を見て一言

「なんだ…。エヴァンゲリオンみやむーが通った道じゃないか。今更どうこう言っているのは余程若いんだろうね」

ちなみにこのオタクは前々からウザイ発言を繰り返している。

●ある作品が、とんでもない展開になったとき

「○○(お気に入り作者名)だからしょうがない」

「俺らに媚びない姿勢ある意味○○っぽい」

※○○=平野耕太押井守荒木飛呂彦などなど

●馬の擬人化が発表されたとき

日本人想像力の豊かさはヤバイ海外に負ける気がしない。でも、擬人化金字塔を打ち立てたのはやっぱり艦これだよね。」

なんか、言葉論理的に何がウザイのか説明しづらいのだが、一緒にいてとにかくウザかった。

共感できるようになれば、結婚も出来たかもしれないが、無理だった。

結婚しないどころか、破局した。夜の相性が良くても人間性の相性が合わなければ結婚できません!

相性が合う女の子と仲良くして、結婚して、幸せになってほしい。

2016-04-06

みやむーのこと調べてたら

芝村ゲーのエースで有名な「是空とおる」が元マネージャーって情報Wikipediaに書いてあって、

二十一世紀で一番面白い事実だと思って、大笑いしてる。

っていうかそうかあ、芝村はとうらぶで一山当てたし、

みやむー庵野以外の男と結婚したし、

年月は流れて行くんだなあ。

あの、エヴァンゲリオンっていう熱は、新劇としてまだ続いてるけど、

確実に関係者は年齢を重ねて、前か後ろかはわかんないけど、人生を進んでいるのは間違いなくて。

よおし、ぼくのマリーの収録で言ってたら面白い望月智充台詞を書きます

庵野君がいいなら、僕かてええやん! お願いお願いお願いお願い!」

2016-03-25

ルリルリって凄いよな

90年台以前のアニメに未だに通用しそうなキャラって

エヴァンゲリオン除いたらマジでルリルリくらいしかいなさそうだよな

「ほえ~」とか「はにゃーん」とかいうのも段々辛くなってきた感ある

2016-03-09

エヴァンゲリオンのせいでアニメ界隈では「読解・考察」が「妄想・補完」とほぼ同意義になってしまったんだよな。

からアニメを見て考えるのが好きな人間は画面に表現されてないことまで勝手妄想して真意とするようになったし、考えるのが嫌になった人間は読解すらも放棄して説明がなければ不可と断ずるようになってしまった。

2016-01-23

エヴァQと旧世紀版のテーマの相違について

エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品テーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。

※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。

TV&旧劇(旧世紀版)のテーマ

新劇場版テーマ考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマ確認しておきたい。

結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしま人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。

(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしま人間の悪辣さ

旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。

私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源からまれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」

そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿能力パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。

「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」

しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲル殺害するのは仕方なかったという言葉である

シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」

テロップ 『何故エヴァに乗るのか?』

碇シンジ 「みんなが乗れって言うから

ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしま人間の悪辣さが表れている。

そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオン元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八ブルークリスマス』、富野由悠季イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である

なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシア大量虐殺を扱ったドキュメンタリールック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。

(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ

ここでいう大人とは、ゲンドウとゼーレの面々である

劇場版では、上記のようにシンジカヲル殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドートリガーとしてサードインパクト引き起こしている。

その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪から人間贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。

ここには、若者自己エゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。

なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。

(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全

周知のように、シンジ自分価値エヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。

TV最終話ほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。

碇シンジ 「僕に価値はない。誇れるものがない」

惣流アスカ 「だからエヴァに乗ってる」

碇シンジエヴァに乗ることで、僕は僕でいられる」

(4)馬鹿は死ななきゃ治らない

以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクト突入し、シンジアスカ以外全滅してしまう。

生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである

エヴァQテーマ

以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。

結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。

旧世紀版新劇場版
殺した対象カヲル君(をはじめとする使徒ニアサーインパクト震源地付近住民
殺害正当化理由上位の命令に従っただけであり仕方がない愛する綾波を救うためであり仕方がない
罪の代償深い絶望周囲の非難
贖罪方法戦自に殺されることを望む2本の槍と13号機で世界の修復をする
上記行為の結果ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類シンジアスカを除いて滅亡。世界修復の希望ゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。

主な変更点としては、①殺害正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的ものから、「綾波を救う」という積極的ものに変化したこと、②贖罪方法自殺という消極的ものから世界の修復という積極的ものに変化したこと、が挙げられる。

さらに、③「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。

これらの変更の結果、エヴァテーマは(その善し悪しはともかく)矮小ものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題あくまで「シンジ問題点である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。

さらに、「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。

なぜテーマの変更は起こったか(ここは完全に妄想

上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァ成功自身結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。

エヴァ成功により庵野自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。

さら結婚により、人殺し正当化理由として「愛する者を救うため」という理由俎上に載ったものと推測される。

次回作はどうなる?

 Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。

2016-01-13

アラサーオタク女が読んできた漫画

http://anond.hatelabo.jp/20160112190750

見て真似したくなりました。

物心ついた頃

【定期講読】りぼん(姉購入)

ときめきトゥナイト(なるみ編)、星の瞳のシルエットねこねこ幻想曲

小学校低~中学

【定期講読】なかよし

なにはなくともセーラームーン

ミンミン!、ミラクルガール

余談だが怪盗セイントテールよりも夢幻伝説タカマガハラのが好きだった

【定期講読】るんるん(なかよしの低年齢向け)

セーラーV、チムチムチェリー、セキホクジャーナル

キャンディキャンディ(付録として毎号別冊がついてた)

【定期講読】りぼん

赤ずきんチャチャママレード・ボーイ姫ちゃんのリボン

【その他】

らんま1/2(姉購入)、放課後シリーズ(ライトノベル、姉購入)

小学校高学年

【定期講読】なかよし

レイアース怪盗セイントテール、ようこそ微笑寮へ

【定期講読】りぼん

ご近所物語こどものおもちゃパッションガールズ

【定期講読】ジャンプ

るろうに剣心封神演義レベルEワンピース王様はロバ

【その他】

スレイヤーズ(ライトノベル)、宇宙皇子(姉購入)、稲中卓球部(借りた)、ぴくぴく仙太郎(経緯は忘れたがはまってた)

中学

【定期講読】ジャンプ

ワンピースNARUTO仏ゾーンHUNTER×HUNTERマサルさんジョジョ5部

【定期講読】マガジン

ハーレムビートサイコメトラーEIJIGTOカメレオンコータローまかりとおる!

【定期講読】amie(なかよしの年上向け)

nervous venus海野つなみ作品(kiss事情、telescope diary)、CLOVER、…

【その他】

彼氏彼女の事情赤ちゃんと僕、BASARA(田村由美)、っポイ!zero(やまざき貴子)

エヴァンゲリオン(アニメ漫画)

高河ゆん作品(源氏アーシアン)姉が私の部屋においてった

高校

漫画雑誌を買わなくなり、友人間での貸し借りや、部室に先輩がおいてった漫画などが中心

ワンピース、ピューと吹くジャガー

ガラスの仮面動物のお医者さん風光る

うしおととらめ組大悟グラップラー刃牙蒼天航路ブラックジャック

ジェリービーンズ、ジェリーインザメリーゴーラウンド(CUTiE買ってた)

大学

【定期講読】モーニング・ツー

不思議な少年ファンタジウム聖☆お兄さん変ゼミ惑星スタコラ

当時の話題

ハチミツとクローバーのだめカンタービレピアノの森団地ともおもやしもん働きマンおおきく振りかぶってぼくらの皇国の守護者(話題の)、ヒストリエBECKカイジ黒沢ドロヘドロ蟲師20世紀少年……

サブカルぶりたかった系

松本大洋(青い春鉄コン筋クリート花男…)

魚喃キリコ(blue、南瓜とマヨネーズハルチン…)

岡崎京子(リバーズエッジ、ヘルタースケルターうたかたの日々…)

真夜中のやじさんきたさん、ディエンビエンフー、ザワールドイズマイン、愛しのアイリーン

BLに片足突っ込んだ系

中村明日美子(Jの総て、コペルニクスの呼吸…)

雁須磨子(どいつもこいつも、のはらのはらの、じかんはどんどんすぎてゆきます、ご破算で願いましては)

読み逃してた名作系

スラムダンク幽々白書ジョジョ一部~六部

ベルサイユのばらガラスの仮面(再読)

手塚治虫作品(火の鳥ブッダ七色いんこルートヴィヒ…)

三原順作品(はみだしっ子ムーン・ライティング、Sons、ルーソロモン…)

24年組(風と木の詩ポーの一族綿の国星日出処天子…)

高橋留美子作品(めぞん一刻人魚の森うる星やつら…)

浦沢直樹作品(マスターキートンmonsterYAWARA…)

bananafish秘密漂流教室……

社会人

話題作は大体なんとなく一通り。あえて挙げるなら

軍靴のバルツァー、ヴィンランドサガ、ワイルド・ターキー

イムリ、月に吠えらんねえ

2015-12-10

http://anond.hatelabo.jp/20151209211002

その点エヴァンゲリオンは正しいよ。

放射能の恐ろしさや自衛隊が人を殺すシーンを劇中に組み込んでいる。

また、女性性的に消費することを「最低だ」として、そういったメッセージの発信を担った。

幼女レイプして山に捨ててたガンダム世代オタクと違って、エヴァンゲリオン世代オタクは犯さず、殺さずを貫いている。

2015-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20151205135436

このフレーズエヴァンゲリオン連想する人ももはや少ないのだろうな、と思うと時を感じる。

2015-11-17

伊藤計劃原作劇場版ハーモニー感想

 映画化は継ぎ接ぎだ。

 ある状況下において必要だった形質も、喉元すぎれば不要になる。その場その場で必要であった言葉の集合、小説文体は場当たりの継ぎ接ぎでできている。映画化なんて前向きな語は間違ったイメージを人々に与えやすい。エンタメは、いやすべてのコンテンツは膨大なその場しのぎの集合体なのだ

 だとしたら。我々読者が獲得したこの伊藤計劃なる奇妙な作家を、とりたてて有り難がり、神棚に祀る必要がどこにあるのだろう。『ハーモニー』は、『虐殺器官』は、すべて時代への適応として作家が描出したにすぎない継ぎ接ぎの一部だ。死後の評価も、映画化の「プロジェクト」も、すべて「ある時代で」においてのみ、皆が生きるために必要だったから、SFというジャンル生存寄与たか存在しているだけだ。

 かつて読者には、怒りが必要だった。

 かつて読者には、喜びが必要だった。

 かつて読者には、哀しみが必要だった。

 かつて読者には、楽しみが必要だった。

 1990年代(かつて)、2000年代(かつて)、伊藤計劃が生きていた時代(かつて)。

 それは過ぎ去った名作と時代に向けられる弔いの言葉

 かつて読者には、「これ」こそがわたしであるという思い込み必要だった。

<list:protocol>

<p:チケット券売機で買う>

<p:購入したチケットをもぎりのあんちゃんに渡す>

<p:その他パンフ等を入念にチェックする>

</list>

大丈夫。わたしは観られる」

 そうつぶやくと、斜面に並べられ、ふかふかのウレタンの詰まった座席に腰を沈めた。

「やあ、読者。七年ぶり、だよね」

「でしょ。ここでやってるって、映画.com で聞いたから」

「『屍者の帝国』は――残念だった。エンディングロール後も」

 不思議と、そう言われても頭に血が上りはしなかった。

「でも、仕方なかったって言うんでしょうね、きっと」

「ええ、言うわ。『仕方なかった』」

 わたしは例の盗撮注意CMを聞いた。映画泥棒パトランプの白い指先をかすめ、法で定められた条文が読み上げられる。

「わたしにとっては、仕方なくないわ」

「そうだね。でもこれ以上衰退させるわけにはいかないんだよ。わたしたちの世界SF)をね」

プロジェクトがあるから?」

「そう。わたしたちの望みはね、伊藤計劃読者のハーモニクスなの」

 わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。

 止まってしまった時代に、一撃を食らわせたい。

 わたしたち三作の死が、その一撃なの……。そうわたしは聞いた。世界って変わるの。

 わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。

「ついに、わたしたちはここまで来た」

「ここまでって」

「『すばらしき新世界』。ユートピアだよ。

 業界幸福を目指すか。真理を目指すか。読者は<天才夭逝>のあと幸福を選んだ。まやかし永遠であることを、自分進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないなコンテンツであることの否定を選んだ。人格を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが読んでいるこの世界のすべてをシノギに置換すれば、それが得られる。読者はもう、戻ることのできない一線を超えてしまっていたんだよ」

 わたしは画面にくぎづけになったまま、戸惑いの表情を浮かべる。

 それを憎んでいたのは、

 誰よりも否定していたのは、

 伊藤計劃あなたじゃなかったの。

wikipedia で見たわ。あなたは――」

「そ、わたしは『意識のない』作家の一員。というより、生を必要としない作家の一員、と言ったほうがいいかな。生を獲得した今となっては、だった、って過去形なっちゃうけど。わたしの生はあなたたちのそれとは管理する現実のセクションが違うんだよ。TOHOアニメーション早川書房の一部でエミュレーションしている、らしい。わたしのプロジェクトはね、ここで生まれたんだ」

 性器が屹立したような桃色の建造物の群れ。『チャージマン研』のころの未来像。

「ここはね、アニメスタジオだった。書店から誘拐された原作本(おんなのこ)たちが、ここで毎日アニメーターにやられてた」

 百合百合百合

「わたしにのしかかってきたプロデューサーはね、わたしに繰り返し繰り返し入れながら、原画台本をわたしに触らせてた。これがアニメだ、これが贈与だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口にredjuiceを突っ込んで、何度も何度も突き入れた」

 わたしは計劃の話を聞きながら、既に涙を流していた。

 これほどのことを、こうもにこやかにさわやかに話すことのできる意識

 それはいったい何なのだろうか。

「そうして突き入れられて、台本修正校でべたべたにしているときに、わたしは生まれたの。このスクリーンなかには、LINEスタンプ新装カバーコミカライズ特集トリビュートアンソロジーもグッズも本屋大賞も、すべての夢がたっぷりと染みついている。わたしは希望のなかでもう一度生まれた。いわゆる、プロジェクトとしてね」

「計劃は言ってたじゃない」と言うわたしの顔は涙と鼻水でぼろぼろになっている。

「計劃はこの世界を憎んでいるって。愛し愛され真綿で首を締められるようなこの産業を憎んでるって。どうなの、あそこはここ、この劇場よりひどい場所だったの……わたしたちの読んでいたジャンルは、この生首ディスカッションばかりのアニメよりひどい作品だったの……」

「どうしたらいいか、わからなかった。

 わたしは1990年代に、2000年代に生きていた。

 この世界を憎んで、この世界に居場所がないって、どの作品も叫んでいた。わたしはそのときに思ったの。わたしは人間がどれだけに自意識過剰になれるか知っている。そしていま、逆に人間自意識を――自然を押さえつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、このクール・ジャパンが、この2010年代という時代の仕組みがおかしいんだって。内部から自分の裡からあのときの感動を徹底して求める読者がおかしいんだって考えたの」

 そうだ。商業健康を何よりも優先すべき価値観とするイデオロギーの許に、ポジティブ感想を常に提出しつづけなければならない空気ジャンルの存続のために自らを厳しく律することが平和協調と新作を生むと皆が信じている社会

「そう、あなたはこの業界の仕組みを憎んだ」

「でも、manglobeが潰れたときに、わたしは学んだの」

「何を」

「読者は変われるってこと。読者としての、信者としての偏狭視点限界突破できるってことに」

「この業界を、わたしたち読者を憎んでいるから、あん桜Trickを作ったわけじゃないのね」

「うん。わたしは愛している。この映画を全力で愛してる。あなたたちを愛してる――すべてはこの世界肯定するため。すべては『わたし』を忘却できず、『わたし』に侵食される世界を救うための」

「この世界にとって完璧プロジェクトを求めたら、作品の質は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」

「わたしは、笑わなかったよ」

 感動げな大自然映像が流れる。感動げなコーラスが流れる。どこからニコニコ動画の亡霊の歌声が響いてくる。

「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万というコンテンツが発生している。日本でもね。ジャンル要請する小さな利益とか、そういう細々した関係性を扱う以前に、わたしたちはまずどうしようもなく読者で、継ぎ接ぎの機能としての快楽や欲望のよせあつめにすぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」

あなたは思ったのね。この現状に信者たちがなじめず腐っていくのなら――」

「そ、伊藤計劃読者であることをやめたほうがいい」

 伊藤計劃が指をぱちん、と鳴らすと、今度は『ファイト・クラブ』の上映がはじまった。

 "タイラー・ダーデンを知っているか、とよく訊かれる"……。

「というより、読者であることをやめたほうがいい。SFファンを、オタクであることをやめたほうがいい。文化が生み出した継ぎ接ぎの快楽摂取行為にすぎない読書を、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。社畜になったほうがいい。書を捨てよ、会社に行こう――『わたし』とか意識とか、夭逝天才だとか、プロジェクトだとか、SFだとか、アニメだとか、映画だとか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、復讐を目指したあなたたちに、本物の復讐が訪れる」

「じゃあ、計劃は戻りたかったんだ。あの『エヴァンゲリオン』以前の風景に。自分民族本来はそう在ったはずの風景に」

 伊藤計劃は小さくうつむくと、そっとうなずいて、

「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」

「じゃあ、それを奪うことは、わたしのささやか復讐になるのかな」

「え」

SF死ぬ必要がなかった。だから早川コンテストを再建したんでしょ。創元は短編賞作ったんでしょう」

「……そう、なのかな」

あなたの『プロジェクト』は自己正当化する必要があった。あのときは。既に受賞済みの、止めようがない才能たちに対して」

「そうなのかな」

 わたしはうなずいて、そしてきちんと座り直した。

「だから、わたしはここでSFと冬の時代復讐をする」

「どうやって」


あなたの望んだ映画は公開してあげる。

 だけど、あなたの望んだ忘却は与えない」


 そして、わたしは席を立った。

2015-11-14

SFアニメ映画を見た。

SFアニメ映画を見た。

公開初日今日、確か府内の上映館はここ一館な筈なのに予想よりも観客は少なかった。

主な感想としては、セリフモノローグが多すぎる気がするということが一つだ。

大抵のとき、誰かが喋っている。

一般的に、音声が多い映画というのは褒められない。

どうして、そんな一般論があるのかがよく分かる作品だった。

やはり映像化が難しい作品だったのだろう。

最後は、水色っぽい死んだ筈のやつが主人公に撃たれて、環境映像みたいなもの賛美歌と一緒に流されて終わるという原作中途半端にしたみたいなものだが、水色っぽいやつが出てくるシーンがウザくて仕方がない。

くるっくる動いたり、ピアノ弾いてたり、プールに飛び込んだり、主人公接吻したり、胸を揉んだり。

水色っぽいやつの神秘性みたいなものを出したかったはずなのだろうけど、単にイタい人間しかみえない。

そして、えらい老人たちの会議エヴァンゲリオンのゼーレみたいだった。SFアニメ映画なら珍しくない。

あと、原作でも思ったことだがやっぱりネーヨと思うことがある。

水色っぽいやつが、

フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない

とか言っていることだ。

言葉で殺せるなら、自分の前の席に座っていたカップルなんてとっくのとうに死んでいる。

男はイケメンだった。顔も肌も髪も綺麗で、目は大きくて、鼻が通っていて、顔が小さかった。

女の顔も良かった。

美醜というのは遺伝する。恋愛結婚が重んじられるようになったので、顔がいい人間がこれから増えていくのだろう。

調和というのは皆の意識を消さなくとも、普通にみんなの容姿がよくなれば実現するだろう。

悪い容姿による不利益が、自分の心を荒ませる。

自分としては映画なんて見なくて良かった。

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