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2022-08-11

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

2022-08-03

新海アニメ隠蔽したものアイヌヒロイン政治性&塔の大きさ

新海誠2004年に「雲のむこう、約束の場所」という映画製作している。

本論では、この映画から政治性が巧みに隠蔽され、特にアイヌ民族が消えてしまっていることを論じる。

また、新海誠のネーミングにおける問題点をいくつか指摘する。

雲のむこう、約束の場所」のあらすじ

北海道ソ連(作中ではユニオン)に占領された世界藤沢浩紀と白川拓也はそこに建造された不思議な塔まで、自作飛行機密航することを夢見ていた。その秘密がふとしたこと同級生沢渡佐由理に露見してしまうが、彼女は二人の共犯者となり、いつか彼女も塔まで連れて行ってもらうことを約束する。しかし、彼女は突如姿を消し、飛行機の話もそれっきりになってしまう。

三年後、拓也は塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通しつつ軍属研究し、塔の秘密を探っていた。塔の目的並行世界観測による高度な未来予測であった。そして、塔の設計であるエクスン・ツキノエには孫娘がおり、その孫娘たる沢渡佐由理が原因不明の奇病で三年間眠り続けていると知る。

一方、東京に出た浩紀は、佐由理の夢に悩まされていた。そんななかで彼女痕跡を追い、かつて入院していた病院にたどり着くと、突如佐由理と浩紀は夢の世界で心を通い合わせる。浩紀は佐由理を救うには三年前の約束を果たさねばならないと悟る。

だが、拓也側の研究の成果により、佐由理は眠り続けていることで塔からの並行宇宙浸食を防いでいると明らかになる。彼女が目覚めれば、この世界はあっという間に浸食されるだろう。

浩紀は青森に戻り、拓也と再会する。浩紀は拓也に「ヴェラシーラに佐由理を乗せ、塔に連れていくことで佐由理は目覚める」と伝え、協力を求める。佐由理の目覚めによりこの宇宙消失を恐れる拓也は、一度は協力を拒絶する。しか葛藤の末、佐由理を軍の病院から連れ出してきた。浩紀は佐由理を後部座席に乗せ、米ソ開戦直前でヴェラシーラを発進させる。

緊張が極限に達した米ソは開戦し、その混乱の中で浩紀はヴェラシーラを飛ばす。塔の傍で目を覚まし、涙を流す佐由理。浩紀はウィルタ解放戦線に託された爆弾を投下し、塔を壊して宇宙消失を食い止める。

佐由理は目を覚ました。しかし、目覚めと共に浩紀に対する思いは消えてしまっていた。

ウィルタ解放戦線

さて、先ほど述べたように、作中では日本ソ連の侵攻によって南北に分断されている。そして作中のテロ組織は(南北統一のため?)北海道の塔を破壊することを目的としている。

そこで、「ウィルタ解放戦線」という名称問題になる。ウィルタというのは北海道ではなく、サハリン樺太)の先住民族名前なのだ。確かにウィルタ北海道に数名居住していたが、北海道解放を願うなら、「アイヌ解放戦線」とならなければ筋が通らない。

アイヌ民族言及することによる政治問題を避けるために事実を歪曲させたのではないかと疑われる。樺太開放も目標としていたと仮定すれば、考えられなくもないが……。

ヒロイン出自について

祖父名前、エクスン・ツキノエは、日本話者にとっては異質な響きを持つ。また、ロシア語風でもない。元々新海誠は多少いい加減なネーミングを行うことがあるので、深い意味はないだろうと思って数年間はこの名前に注目してこなかった。しかし、私がたまたまアイヌ民族に関する書籍を読んでいたとき、ツキノエは国後島アイヌ首長の名であると知った。同様のことを述べたツイートがあったが、現在は消えてしまっている。

そこでエクスンとはどういう意味かというと、ここによれば「向こうへ」という意味らしい。「沢渡」という姓はここに由来している可能性がある。

http://tommy1949.world.coocan.jp/aynudictionary.htm

肯定されたテロリズム

浩紀はラストで単身ヴェラシーラに乗り、北海道中央部にそびえる塔を破壊する。すべては佐由理の目を覚ますためであり、並行世界が流れ込んでくるリスクを引き受けてのことだった。

しかし、実はまこと政治性の強い作品であるSFっぽさと感傷的な恋愛描写がまぶされているが、描かれているのは間違いなく世界を変える(少なくとも一国の軍事施設破壊し、地域パワーバランス崩壊させる)テロリズムである。米ソ開戦中の混乱に乗じてのことであり、もしも両国責任なすあいを始めたらと考えると恐ろしい。

新海誠がこの件についてどの程度自覚的であったかは疑問である。どちらかといえば気分的なものプロットを作っており、作品政治性についてはあまり深く考えていなかったのではないか

実際、朝鮮半島ドイツの分断に伴う深刻さは、出会えなくなった家族言及されることもあるが目立った悲痛さはなく、この作品では過去の背景に退いている。

米ソ戦のなかで時に死体が降ってくる場面はあるけれども……?

余談、「ヴェラシーラ」とは何語か?

作中では「ヴェラシーラ」とは「白い翼」の意味だと説明されていた。

はじめ、自分はこの言葉スペイン語だと思っていた。つまり、Bella Cielaだ。アルゼンチン方言ではbをvで発音することがあるらしいし。しかしよく調べてみると、スペイン語語順活用の形としてはおかしい(当時のウェブ翻訳は今と比べてずっと貧弱だったし、単語の原形で検索するしかなかった)。

そこで、ロシア語ではないかと思い、いろいろなつづりを試みた。すると、「白い」は「белый」ベリイ、「力」で「сила」シラとなり、それっぽい。ソ連にいる祖父がいるのだから彼女ロシア語知識があったとしてもおかしくはない。意味は「白い力」になるが、「白い翼」には十分近い。ベラルーシの「ベラ」が白なので、そこから取った可能性もある(同じことを言っているページを見つけた)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216740382

ただし、これもまた活用問題がある。「白い力」はロシア語では「белая сила」ベラヤ・シラとなる。それに、よく考えればbとvの音の混同が起こっている。

もっとも、「星を追う子ども」では潜っても呼吸できる水を「ヴィータクア」、世界の果てを「フィニステラ」とラテン語としては語順が逆の形で名づけているので、そのあたりはいい加減なようだ(それぞれアクア・ヴィタエ、テラフィニス標準的ラテン語の形である)。

また、同作の中では深い意味もなくセフィロトの樹が引用され、シャクナ・ヴィマーナやケツァルコアトルなど無関係神話コラージュ的に用いられている。その背景には明確な思想を読み取ることはできなかった。

結論

雲のむこう、約束の場所」では感傷的なまでに甘い思春期の心情を描いてみせた。一方で、この作品はかなり政治的な危うさをはらんでもいた。危うさの一つはテロリズム肯定であり、もう一つはプロットに入り込んでいるはずのアイヌ民族存在を背景に退かせたことであった。後者に関しては少なくとも筆者の知る範囲について、ヒロインアイヌ民族クォーターであることに言及した資料は見当たらなかった(註:とあるウェブサイトで、佐由理は恐山かどこかの巫女家系だという初期設定に言及したところがあった。興味深いのでここにリンクを貼るhttp://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/anime/promisedplace2.html)。

しかし、2004年には許された描写だったが、ゴールデンカムイなどで正確なアイヌ描写が出てきた2020年代にあってはどうだろうか?

最近筆者は新海作品からは遠ざかっている。映像が十分雄弁なのに、台詞説明しすぎてしまうからだ。あるいは加齢による感受性の変化かもしれない。あるいは、この感傷マゾから「卒業」しようと自分鼓舞たからかもしれない。本稿を書いているうちに、少し懐かしいような苦しいような気分を思い出しかけた。

おまけ、塔の大きさに関する推定

作中では、北海道建設された塔が東京からも(かなりの高さで)見える描写がある。しかし、それにしては塔が細すぎやしないだろうか? 以下、視聴当時にした計算抜粋する。

塔が経っていたのが北海道中央部都心から道央まで凡そ1000kmはある。

かなりいい加減な推定だが、視力1.0を有するとは視角60秒の二点を見分ける能力があるということだ。つまり空気による散乱だの屈折だのを度外視すれば、主人公がそれだけの視力があると仮定することで塔の直径を算出できる。それにウィキペディアによれば大きく見えるとき金星がこれくらいの視角だそうだ。塔が自ら光っているわけではないだろうし、このくらいの値でいいだろう。映像を見てもそのくらいだったし。

sinθ=tanθ=θ(ラジアン)の近似を用いると、都心から道央まで凡そ1000kmはあるので1000km×(2π)×(1°/360°)×(1′/60′)= 290.8m程の直径が必要になる。荒っぽい計算だが、作中のヴェラシーラとの比較から見てもそこまでずれていない。ただ、空気があることからはるかに太いと考えたほうがいい。北海道全体が映るシーンでも塔はしっかりと見えていたし、直感的にも300m程度の太さの道央物体都心から見えるとは考えにくい。

なお、仰角は30°はあろうかという様子であった。三角関数で考えれば577.3km以上の高さだ。地球の自転の影響でこれだけの構造物は大きくたわむことであろう。ソビエト連邦にそれだけの物資があったかどうか。一応ユニオンは全共産圏統合した国家だそうだし、この世界では宇宙開発の代わりに並行宇宙研究されているとすれば、なんとかなる……かな?

2022-06-09

離乳食を美味しく感じないのはお前ら(作る側)のせいだ!」

いい加減に「卒業」しろよ。粘着するな老害。年相応の娯楽を探して楽しめよ。

いつまでも未成年向けのコンテンツ」に執着してゴネまくる「大きな子供」のオッサンは見苦しい。

やはりお前らのウェブトゥーンは間違っている(追記

追記

こんなたくさんの人に読んでもらえるなんて思わなかった。みんなありがとう

ただ、なーんも読み取れてなくて脊髄反射で「うるさいうるさーい!新しいの!すごいの!これからは縦なの!老害は黙ってて!」ってお怒りな人も中にはいるねー。やっぱりウェブトゥーンばかり読んでると読解力が落ちるのかな?wで、あなたおすすめは何?「知らんけどまだ新しいからこれから出てくる」なんて言い訳通用しないよ。もう答えは出尽くしてんだよ。ウェブトゥーン歴史舐めんな。いいから原点にして頂点のsnowcatを読め。

あとね、ごめん!「ピッコマ社長が言ってた」ての嘘だったかも。読んだ記憶があるんだけどソースが見当たらん。自称詳しいオッサンの話を鵜呑みにすんなって話が、そういうとこだぞになっちゃった反省しかし明らかに翻訳されてない作品があるのは本当。国ごとに翻訳されてるされてないにバラツキがあるのも本当。興味がある人はnamuwikiの書式が読みやすい。例えばこれとか人気あるみたいなんだけど、中国語翻訳しかない。

https://namu.wiki/w/%ED%94%84%EB%A6%AC%EB%93%9C%EB%A1%9C%EC%9A%B0

こっちはサッカー漫画。なんとインドネシア南米というよくわからい組み合わせ。面白くない!?

https://namu.wiki/w/%ED%83%91%EC%BD%94%EB%84%88

最後韓国の人による「最近ウェブトゥーンがつまらない理由」というタイトルウェブトゥーン引用して締めたいと思う。みんなありがと!

https://m.ruliweb.com/best/board/300143/read/57085857

(以下本文)

日本が、世界が、連日HUNTER×HUNTERベルセルクの帰還で大盛り上がりだ。そんな中、今でも必死に「ウェブトゥーン世界を席巻している!」と信じたい奴らがいる。はいはいご苦労様。大丈夫、その苦労ももうすぐ終わる。君らへのレクイエムとして、何が間違っているのかひとつひとつ噛み砕いて教えてあげよう。

日本は「乗り遅れる」?

これはよく知られた基本中の基本だが、韓国ウェブトゥーンという形態が生まれたのは、韓国漫画業界が一度崩壊たからだ。彼らはあの焼け野原から這い上がって来たからこそ、今がある。この基本すらわかっていない連中はお話にならない。ハングルと間違えてハンガリー語でも勉強してきたのか?釜山港へ帰れ

「いや日本だって出版不況が叫ばれている。この混沌時代、海の向こうからやってきた黒船勝機を見出すのだ!」…なんて号令が効いたのはコロナ前まで。もう古い。むしろ今、稼ぎどきに稼がないでどうする?

電子を含めれば、今は始まって以来の大漫画時代。読むものが多すぎて困ってるくらいだ。苦しいのは小説雑誌。今引っ張りだこの漫画家様がウェブトゥーンなんかやる必要どこにもないのだ。

…おや?そういえばウェブトゥーンには食うに困ったラノベ作家原作者として大量に流入しているんだっけ?

縦で色さえついていれば読みに来てくれる?

日本漫画本屋に行けば読める。昔はこれが当たり前だった。今はどうだろう?みんなが自分プラットフォームに読者を呼び込もうと、広告SNSに大忙しだ。人気の漫画なら、僕ヤバのように勝手トレンド入りするけどね。

ではウェブトゥーンの本場韓国では、ウェブトゥーンはどこで読めるのか。これがなんとPCでは「NAVER」などの大手ポータルサイトで読めてしまうのである毎日のようにアクセスするトップページに「今日ウェブトゥーン」が並んでいたのだ。否が応にも目につく。あの頃は、誰もがPC房(韓国ネットカフェ)の横長ディスプレイマウスホイールカリカリしながら読んだものだ。PC房でやる事といえば、スタークラフトミニホムピウェブトゥーンという時代。見開きの漫画貸本屋か、違法ダウンロードで読むものだった。ちなみに「今日ウェブトゥーン」は、ドラマ重版出来!」の韓国リメイクタイトルでもある。

さすがにスマホ時代になって、スマホ版では1段階深い階層に落ち着いてしまったけどね。もうすっかりアプリへの移住が定着したということだろう。その点Yahoo!Japanは頑張ってるな。

なぜ「女神降臨」のような内容スカスカ顔だけ漫画を退屈せずに読み続けられるのか

検索ポータルサイトトップページからすぐ読むことができ、しかも各話にはコメント欄がついており、いいところで次週へ続くことを嘆いたり、推しの尊さに昇天したり、気に入らないヒロイン(「神之塔」のラヘルなどが嫌われキャラ代表格だろう)を叩いたりするファンらで賑わっている。

これって何かに構造が似てないか?はて…そう!おなじみ「ヤフコメである

もはやまじめにニュースを読むためにヤフーニュースを読むという人もなかなかいないだろう。お目当てはあくまコメント欄ニュースをダシに、ああでもないこうでもないと雑談をするのが楽しいである

ウェブトゥーン雑談の「お題」としてうまく機能している。盛り上がる仲間もいないのに、話のタネだけ投げて寄越されたってつまらないだけ。ウェブトゥーンは、井戸端会議の「井戸なのだ

日本では井戸が乱立している?

「その井戸日本では多すぎて客の取り合いになっている。ひとつ統一してほしい。ひとつ井戸でいろんな出版社の漫画をまとめて読めるのがピッコマLINE漫画だった。だから成功したのだ。日本韓国を見習え」

これは一部は確かに正しいだろう。しかし、乱立しているのは韓国だって同様であるNAVERウェブトゥーンNAVERシリーズ(なぜふたつあるのか謎だが、たぶんこちらは完結作品がメインのようだ)、カカオウェブトゥーンカカオページ(これもなんで分かれてるのか謎だが、たぶん元々ダウムウェブトゥーンを買収してできたサービスなのでその残滓か?)レジンコミックス、ポスタイプ、リディブックス等ざっと思いつくだけでもこれだけある。考えることは皆同じだ。

日本ウェブトゥーンには「先」がない

見開き漫画のゴールはどこだろう。憧れの雑誌に名を連ね、単行本本屋に並び…その中でも、アニメ化はやはり別格だろう。鬼滅がアニメ化で化けたのは記憶に新しい。

さて韓国国内におけるウェブトゥーンのゴールといえば、それはもちろんNetflixドラマ原作であろう。しかもそれが全世界配信される。実写しか勝たん。だって陽キャだもん。

では日本ウェブトゥーンはどこを目指せばいいのだろう?「韓国ではドラマ化されていますよ、世界進出ですよ」と夢を語るばかりで、具体的な目標が出てこないのだ。単行本化さえままならない。まさかかつての栄光を失った日本ドラマ制作会社に期待しているわけではあるまい。頑張ってコツコツ描いていれば、韓国からイケメンプロデューサー来日してきて、Netflix配信してくれるとでも言うのだろうか?

それはさすがにウェブトゥーンの読みすぎだろう。ちなみにSPY×FAMILYは見開き原作アニメだが、全世界配信されている。アニメならWIT STUDIOウェブトゥーンやるらしいので、それに期待か。

ウェブトゥーンから「卒業」

ただひとつ思い当たるとしたら「ウェブトゥーンで注目を集めたのち、見開き漫画転向する」パターンである。狙ったわけではないのだろうが実際に今「タテの国」の田中空が「ドラゴンの子」を、「氷の城壁」の阿賀紅茶が「正反対君と僕」を連載している。なんとも夢のない話ではあるが、ウェブトゥーンというだけでも珍しい今、目立つための有効戦術ひとつとして覚えておいて損はないだろう。なおどちらのウェブトゥーン作品も、単行本化は難しいようだ。ジャンプブランドをもってしてもである

氷の城壁はともかく、タテの国は演出が縦型に特化しすぎており、本宮ひろ志「新グッドジョブ」のようにページを半分に分割するか(それでも入り切らないコマがありそうだが)、いっそゲームサウンドノベル)化でもしないとソフト化は困難だろう。結局縦ならではの演出なんて正直者が馬鹿を見るだけで、単純なコマ運びの方が単行本化=マネタイズやすい。クソである

自称「俺、韓国ウェブトゥーンに詳しいよ!」おじさん

じゃあなんで「あのジャンプの!Dr.STONEの!」Boichiの話ばっかで、尹仁完説明が「知らんけどLINE漫画のCCOの人らしいよ」止まりなんだよ。尹仁完といったらあの「新暗行御史」だろうがっ!しかも公開されたイラスト衣装ピタピタ具合とかどことな山道ちゃんに似てるよね?

どうせDr.STONE子供クラス流行ってたか何かで聞きかじっただけなんだろうな…。サンケンロックすら知らないんじゃねーの?少年誌では書けなかったバイオレンスエロスの大爆発が期待できるけど。ほんっと金の話しかしねえのな…。

なんか、コロナ韓国行けないからか「ぼくの考えた最強の韓国」像が蔓延しててすごい怖い。そもそもウェブトゥーンなんだから検索すればすぐなんだが。

海外では色がついてないと未完成って笑われると聞いたけど

じゃあアニメ見せとけ。色ついてんぞ。大体ソースどこだよ。どの国のどの出版社のどの編集長のご意見なの?何時何分何秒?え、そこら辺の読者の感想?話にならない。でカラーにしたら飛ぶように売れたの?数字は?リクープした?

漫画家の人)ウェブトゥーン勉強しなくちゃ!興味はあるんだけどな。コマ割り難しい

いやさ、読めよ。まず。面白ウェブトゥーンを夢中になって読めよ。毎日何本でも読めよ。そっからだろ。まさか読んだ事もないのに描こうとしてんの?サロンか何かで描かされてんの?ていうかさ、ジョジョ読んだ事ある?本当に興味がある人は、「興味ある」なんて言わねーんだよーッ!

なんで韓国人の名前日本風にローカライズするの?

お前みたいなめんどくさいオタクターゲットじゃないんだよ。ウェブトゥーンの客層はそんな細かい事気にしてない。なんならカタカナ多すぎたら難しくて読めないしな。彼らは六本木クラス日本漫画だと思っているし、問題なく楽しんでいる。

っていうか昔から韓国では日本漫画をがっつりローカライズしてたから惰性で続けてるだけだと思うけど…

縦でカラーならウェブトゥーンなんでしょ?

韓国では確かにそう(一般名称)なんだけど、実は日本ではNAVER商標登録しちゃってるんだよね…。だからスマトゥーン」だの「タテスク」だの名称が乱立しちゃってるんだろうな。まじめなとこほど避けるだろうし…。

K-POPみたいな「みんなで一丸となってこの文化を盛り上げていこう!」っていうわかりやす愛称がないと、なかなか広まっていかないと思う。こんな足の引っ張り合いみたいな事をやる界隈に、未来なんてねーわ。

あと韓国特に若い人の場合はどんどんウェブトゥーン漫画境界曖昧になってて、TwitterとかInstagramの横にスライドするひとコマ漫画でもウェブに載ってれば全部ウェブトゥーンでよくね?何が違うの?って人も普通にいる。何回も言うけど、東村みたいな自称詳しいおばさんじゃなくて現地の情報に当たれよなー。こんな増田をシコシコ読んでる時点で期待出来んが…。

昔のMMORPGみたいな違法ダウンロード対策じゃないの?

それがウェブトゥーン結構勝手コピーされて翻訳されてロシアとかで大量に出回ってるらしいんだよなー。スクショ禁止だったりするけど完全じゃないんだろうね。ちょっと韓国ウェブトゥーン作者をウォッチしてたら「きちんとお金出して買いましょう!」みたいなツイート頻繁にしてる。どこも大変だのー。

漫画が読めない子供が増えてる!このままでは漫画読者は滅亡する!

な、ナンダッテー!!

…あ、あのさー。韓国ではもうウェブトゥーンが登場してからもう20年くらい経過してんだわ。

そんな漫画が読めない子供が増えてるだとか、全然売れないなんて話聞いた事がねーんだよ!!

というか学歴社会韓国では子供に大量の学習マンガを買い与える風習があるよ。カラーだけど、普通に紙の本だよ。WHY?シリーズなんかは日本語訳もされてる。

しろ先程も書いたようなウェブトゥーンアプリ韓国語に翻訳された日本漫画バラ売り課金サクサク読めるんだわ!

な?むしろウェブトゥーンに飽きた韓国人が昔の漫画を読むっていう好循環が生まれてるまであんの。ハングル読めないバカでもONE PIECESPY×FAMILYやH×Hくらい検索できまちゅよねー?怪しいおじさんに教えてもらわなくたって現地の評判わかんだろ?手に持ってるスマホは飾りか?

なんで遅れてるだの終わりだの言うくせに、「先進国」で実際に起きてる現象は都合の悪いところだけ隠して脅すような事ばかり言うんだろうね〜?あれれ〜?

なろうのパクリでしょ?

うーん、なろうっぽくないウェブトゥーン韓国にはたくさんあるんだな。ピッコマ社長が言ってたけど戦略的ジャンルを絞って翻訳してるだけで。フランスだのインドネシアだのあちこちに輸出してるみたいだけど、恐らく国によって「ウェブトゥーンって◯◯ばっかりだよね」というイメージは違うんじゃないか

例えば、日本でいうコミックエッセイジャンルなんかはウェブトゥーンでも人気がある。ただただ一人暮らしを楽しむだけーとか、猫飼ってるだけー、作者がいろんな料理に挑戦するだけー、とか。そもそもウェブトゥーン黎明期はそれらが主流だった。個人ブログに描いた絵日記のようなもの。つか、だからスクロールなんだわ。

あと、なろうっていうか韓国のなろう小説原作だったりするのは本当。韓国にもなろうみたいな小説サイトがあるんだよね。これだけウェブトゥーンが普及してる韓国でもやっぱり文字で書かれた小説を読みたいってファンはたくさんいるし、ウェブトゥーンから入って続きが気になるから原作小説を先に読んでしまファンだってたくさんいる。いい循環が生まれてる。ってこの話さっきもしたな。

なろう系のウェブトゥーンドラマ化も難しいしねー。職場イケメン上司契約結婚しますみたいなのは根強い人気。なろうっていうかハーレクインに近い?

ビレラみたいな斬新なウェブトゥーンもある。アメリカアイズナー賞にもノミネートされている。

うん、バレエテーマ漫画も、高齢男性主人公漫画も、男性女性的とされていることに挑戦する漫画も、ここに書ききれないくらい大量にあるけどね!

ドラマ化するのは珍しい?日本に勝った?じゃあ漫画業界ではなくドラマ業界が見る目ないんじゃね?バレエできる男性俳優も少ないだろうし。NHKの深夜とか結構変な漫画原作ドラマあったりするけどな。ああいうのをNetflix配信してほしいもんだわ。

あとアイズナー賞って日本漫画もたっくさん受賞してるからね。ノミネートされたのはすごい事だけど、そんな前人未到の快挙みたいに言われても正直困惑するわ。

でも漫画アジア全体で盛り上がって、ライバルが増え、切磋琢磨できるのは本当に素晴らしいことだと思うよ。正直な気持ちだよ…。

ウェブトゥーンの最新情報シェアするイベントTwitterスペースで開催します!

これなんなんだ?多すぎ。マジで気持ち悪いんだが。文章に残すとなんか不都合なことでもあんのか?ほんとサロン界隈と親和性が高いっつーか…

まとめ

疲れた…。

結局「いいからその世界を席巻しているバチクソ面白ウェブトゥーンとやらを屏風から出してくれよ!」の一言に尽きる。俺レベはつまんなかったから他のね!

以上!おわりっ

あー宝石の国楽しみだー

2022-04-14

アイカツ!ゾンビが完全新作映画アイカツ!留年ゾンビになった

アイカツ!シリーズ10周年を記念して

アイカツ! 10th STORY未来へのSTARWAY~」同時上映されます

https://twitter.com/aikatsu_anime/status/1514423630394195969

い゛やっだぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

きたきたきたきたきましたよ新作新作完全新作!!!!!!

どんな話だ!オンパレード!では盛大に楽しませてくれたからな~~~またスターライトのみんなでライブするのかな!?!?ねらわれたアイカツカードの全員ライブは凄かったな~プリキュアとタメ張れるぐらいに勢揃いでさぁ!!

本編後のお祭り映画なんてああいうのでいいんだよな!頭空っぽにしてきゃわわアイドル達が楽しそうにワチャワチャしてんのがいいんだわ!

キービジュではコスモスから二人のステージがいよいよお披露目かな!?フォトカツ!の新曲ハチャメチャにあかい楽曲だったから盛大に楽しみだな!!姐さん!?蘭は!?スミひなは!?んもーーーー楽しみ過ぎて三か月早く過ぎてほしいですね!!!!!


あかりスターライトクイーンに輝いたのち、いちごあかりは、二人のユニットコスモス』として、初めてのライブを行い大成功

こうして時が過ぎていくなか、スターライト学園・高等部3年のいちごたちは、半年後に迫る卒業意識し始める。卒業しても、アイドル活動は続く。しかし、卒業は通過点であり、ひとつ分岐点でもある。

いちご・あおい・蘭たちは、アイドルとして、これからどんな道を歩んでいきたいかを、ひとりずつ、大切に考え始める。



い゛やっだぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

やだ!!やだやだやだやだ!!!!!!!!!!!やだああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!

卒業!!!!!!!!!!!ヤダ!!!!!!!!!!!!な…なんで!なんでさ!!なんでしんみりさせんだよ!なぁ!!おい加藤さんどういうこったよ!!!

卒業ったら…卒業ったらもう終わりじゃねぇかよ!!!もうないんだよ!!!スターライトという学び舎から去っちゃったら!!!去っちゃったらさぁ……!!

もっと!もっと見せてくれよ!!あいつ等がスターライト学園でアイドル活動!してる姿をよぉ!!!!!朝早く仕事朝練する娘は同室相手起こしちゃ悪いからってそーっと部屋抜けてさぁ!!日がまだ昇り始めた位から活動ちゃうんだ!!昨日テレビ見たよー!とかあのアイドルステージすごかったねー!とかキャッキャウフフしながら学園生活しんじゃうんだ!!もっと学食で飯食ってるとこ見せてくれよなぁ!!ジョニー先生がいつものノリで指導してるとこ見せてくれよなぁ!!!!!図書室とかさぁ!!木陰で本読んでるララァみてーなアイドルもさぁ!!遅く帰ってきたあの娘のために枕元に置手紙置いちゃうんだよなぁ!!デジタルだと!自分の想い伝わらないからさぁ!!!!!!!!!!!!!!!

公式様にとどめを刺される!!!!!!!!ヤダアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

いやだいやだいやだ!!まだまだ学園で学んでくれ!ストレートしてくれ!!ワーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!

や、まぁ……分かるんだよ。本編であそこまで綺麗に終わらせてくれてさ、この後も彼女たちの輝かしい未来が待ってるよって見せてくれただけで充分だったんだよ……映画とかオンパレード!、フォトカツ!にDCDは全部ロスタイムだ。贅沢過ぎる経験をさせてもらったよ…。

そのあとを書くとなったら、そりゃあそれしかないじゃんさ……でもさぁ…寂しいよ。

こういうのを一つのテーマにする以上絶対避けては通れないのは分かってるけどさぁ…アイカツ!アイドルものであると同時に学園ものでもあることを思い出したわ。

最初こそ新作じゃん!やったー!!ってめちゃくちゃはしゃいだけど少し経って冷静になったら「卒業」の二文字に押しつぶされた。

実際に卒業するか分かんないけどその後の進路は大体決める話なんだろうなってことは分かる。

姐さんはこのままアイドルやんのかな。蘭はモデル業に比重置きそう。おとめはさくらもいるしぽわぷりはまだやってそうだな。ユリカ様はかえでとアメリカ飛んでほしい。

つーかあいつ等寮出たらどこ住むんだろう。一人暮らしか、実家帰るかだけど…いちごスパっとアイドル辞めてなんでも弁当継ぐくらいしそうな気がする。美月さんに誘われて経営手伝うとかも良さそうだな。

あかりちゃんは…さよならのその瞬間まで笑顔でいるのかな。いて欲しいな、一人じゃないしな。

一緒に歩いてる時には、みんなで同じ道を進んでいるように感じるけど、本当は違う。

みんなが違う、自分だけの道を歩いているんだ。

その道は始まりも違えば終わりも違う。

決して同じではない、自分だけのそれぞれの道。

この道の続きに待っている、あいつらの素敵な未来に出逢いたい。

ARIA Navigation69 未来(アッヴェニーレ)」を読んでくれ…ARIAはいつも人生大切なことを教えてくれる。

正直当日劇場で平気でいちご達を見送れる自信がない。引くほど泣くかもしれない。今からかなりビクビクしてる。

からいずれは変わっていく今を、この素敵な時間を大切に…ね。

「ゴールはスタート」だしな、アイカツ!もいいこと言うじゃねぇか。

とにかくアイカツ!ゾンビアイカツ!留年者にならんことを祈る。

プラネット!は無印前座じゃねーぞ」「無印10周年じゃねーか」「ズーブルズ10thを祝え」

とかとか言いたい気持ちもわかる、分かるがまぁ一旦深呼吸しようじゃねーか。そんであいつ等に想いを馳せようぜ。

俺は笑顔あいつらを見贈ってやりたい。

そんで多分これ見た後に流れるアイカツプラネット!で笑顔になって劇場を出たいぜ……。

2022-03-31

anond:20190112221400

https://gigazine.net/news/20220330-bilibili-jd-com-calls-sackings-graduations/

bilibiliなど中国IT大手が「解雇」のことを「卒業」と呼び始める

解雇卒業扱いって両津大原部長からやられていた気がする・・・・。結構新しい方の話だと思う。

多分186巻かな。

2021-09-23

anond:20210923104113

まとめ読んだけど、そのお婆さんお華族出身お姫様だよ。戦時中に食い詰めたくちじゃないだろう。

学習院女子「卒業」したというので顔か性格が極度にマズいんだろう。まあ少なくとも性格には問題ありそうだね。普通卒業する前に寿退学するもんらしいし。

戦時中体験関係してるとすれば、餓えてる庶民インスパイアされ過ぎて、庶民差し置いて豊かに暮らす身内に反感持ってたとかじゃない?いいとこのお嬢様庶民を見る機会があったかどうかは知らんけど。

戦争関係なくても、糞憎らしい相手趣味美食だったという可能性はなくもない。

2021-08-24

加齢によって情熱を注いでいたこから心が離れていくこと

「卒業」というな。

せめて「退学」といえ。

2021-08-22

anond:20210820192755

まさにその世代だけど、確かに小学生時代ジャンプ漫画とそのアニメ大正義だった。

ただ、ガンダムあたりのリアルで「大人の鑑賞にも耐える」アニメ路線も途絶えてて、ビックリマンSDガンダムみたいなジャリ向けアニメラインナップを観て育った。

から中学入ったらアニメはいったん卒業して、大学一人暮らしすると同時にネット始めたらそこがオタクだらけだったので影響されて、ファーストガンダムはじめ古典名作をツタヤで借りまくってにわかオタクになった感じ。

はてなに多い昭和50〜60年くらい生まれ世代の連中は学生時代少年ジャンプ

全盛期だったせいか、とかくアニメ漫画ばかりを必要以上に過剰に持ち上げて、

当時洋画に押されて元気が無かった日本特撮を幼稚だショボいだとメタクソに貶す輩が多い。

うそう、俺も仮面ライダーブラックメタルダー、子供の時に好きだったけど、特撮小学校の高学年にもなれば卒業するものって感じだった。同級生の間で。

結局、平成ウルトラマンライダーも未だに観てないし。

一人暮らし自由にできるPC手に入れて速攻でエロゲオタになったけど、「Fate虚淵パクリ元の一つが最近仮面ライダー」という話を聞いて、「特撮もジャリ向けから進化してるんだなー」という感想を抱いたっけ。

あと、その時期には戦隊メタルヒーロー、平成ゴジラがあっただろって指摘。これはごもっともだ。

でも、この辺を幼年期に熱心に見てたのにも関わらず、貶す奴が異様に多いんだよ。

追及してくと「あ、サンバルカンは見てたわ・・・」とか「ごめん、ギャバン好きだったか・・・」とか白状するんだよね。

多分通過儀礼として特撮「卒業」して、洋画アニメ流れるっていうしきたりがあったのでは、と勝手に推測しているが。

俺の周囲だとガンダムとかリアルロボット好きな奴に多いんだよな。俺はガンダム普通に好きだからその手の発言出会う度に悲しくなる。

2021-08-20

はてな世代日本特撮蔑視はクソ

庵野秀明松本人志 対談」を見る。

庵野が「シン・ウルトラマン」&「シン・仮面ライダー」が控えていることもあり、

かなり濃ゆい昭和特撮談義に花が咲いていて非常に興味深かった。

あの二人のクリエティティの源泉は昭和特撮だ、と言ってしまっても過言ではないと思う。

さてここで本題。

はてなに多い昭和50〜60年くらい生まれ世代の連中は学生時代少年ジャンプ

全盛期だったせいか、とかくアニメ漫画ばかりを必要以上に過剰に持ち上げて、

当時洋画に押されて元気が無かった日本特撮を幼稚だショボいだとメタクソに貶す輩が多い。

この世代より生まれが5年以上早いと昭和特撮は本放送再放送で目にしてることが多いし、

5年以上遅いと平成特撮テレビなり劇場で見たり、あるいは昭和特撮

レンタルで見てきた連中も多く、そこまでの拒絶感や蔑視ほとんど感じない。

最近の子供もサブスクで新旧作品が観られる分、日本特撮リベラルと言ってもいいと思う。

年寄り除くとこの限られた世代けが日本特撮を取るに足らない低俗なモノとして、蛇蝎の如く嫌ってる。

その時期にノリダーとかゴレンジャイやってた悪影響もゼロじゃないけど、

それにしても嫌い方が酷推ぎてこの世代あんまり近寄りたくないんだよな。


そのくせ日本特撮オタクタランティーノティム・バートン、最近なら

ジェームズ・ガンギレルモ・デル・トロなんかの作品は神の如く崇めたりしちゃってさ。

それこそエヴァシン・ゴジラもそう。お前らが好きなもんの構成成分に日本特撮は相当含まれているんだ。

一旦、色眼鏡を外して純粋作品として楽しもうや...って言っても、もう無理だろな。彼ら既に中年差し掛かってるから

追記

なんかワクチン打ちに行って一休みしてる間に思いの外、伸びてた。

ほらな、トラバにもブコメにもいっぱい湧いてきただろ?

脊髄反射で「ショボい」を連呼する輩たちがワラワラとさ。こいつらだよ、俺が糾弾したいのは。

なんつうか「特撮」と聞くと単に映像技術の事と捉えてるんだよな。

特殊技術現代視点から見るとショボいという表層的な事で作品そもそも価値や優劣が決まると信じ込んでる。

俺が言ってるのは撮影技術は勿論、緻密なデザインストーリー、設定・世界観構築なども含めたトータルの話なわけ。

先の対談で松本が触れてたように、ウルトラセブン地球人=善、宇宙人=悪という構図に常に疑問を投げかけてた。

すなわち「正義vs悪なんていうキリスト教二元論そもそも疑ってかかるべき」、という超リアリスティックスタンスだった。

その思想権化が「超兵器R1号」や「ノンマルトの使者」というエピソードだ。説明めんどいからググってくれ。

そら今じゃその手の物はありふれてるだろうが、よく考えてみろよ?1967年製作の子供向け番組だぞ?めちゃくちゃ慧眼だろ。

次作の帰ってきたウルトラマンでは、宇宙人聴覚障害者無垢少年に化けて侵略を企てる、というエピソードもある。

この宇宙人は、周囲の人間には聞き取れないテレパシー主人公ウルトラマン挑発し続ける。

「こいつが宇宙人だと叫んで私を引っ捕まえるか?止めとけ。周囲からきちがい扱いされるぞ。ははは。」とか嘲笑ってな。

良識ある大人たちは「聴覚障害者無垢少年」を疑って尋問するなんて真似は道義的にまずできない。その弱みを突いた。

ダークナイトジョーカーも青ざめるような道徳ジレンマを容赦無く投げつけてくるわけ。これで1971年製作ね。

俺が見て欲しいのはこういう根っこや芯、いわば思想の部分である。上っ面でバカにしたり、貶すのはやめろ、って話だ。

あと、その時期には戦隊メタルヒーロー、平成ゴジラがあっただろって指摘。これはごもっともだ。

でも、この辺を幼年期に熱心に見てたのにも関わらず、貶す奴が異様に多いんだよ。

追及してくと「あ、サンバルカンは見てたわ・・・」とか「ごめん、ギャバン好きだったか・・・」とか白状するんだよね。

多分通過儀礼として特撮「卒業」して、洋画アニメ流れるっていうしきたりがあったのでは、と勝手に推測しているが。

俺の周囲だとガンダムとかリアルロボット好きな奴に多いんだよな。俺はガンダム普通に好きだからその手の発言出会う度に悲しくなる。

その時期のビデオ劇場オンリーウルトラマン仮面ライダー挙げてる奴いるが、流石にそれ系は観る人が相当限られてたと思うぞ。

俺も好きだけどね。パワードとかZOとかさ。でも悲しいけど、一般知名度は無いに等しいよ。誰も知らないよ、ケイン・コスギウルトラマンだったなんて。

追記2:

ちょっと気になったので、最後にこれだけ言わせて。

単にこの増田ウルトラマン以外を特撮だと思ってないだけだった

一例として挙げたまでだよ。そんくらい分かるでしょ。俺だって話したいよ。

例えば大魔神ミニチュアの素晴らしさとかスペクトルマンの毒々しい怪獣デザインとか、

メタルダーの凱聖クールギンの常軌を逸した格好良さについてとかさ。

でもそんなマイナーなこと長々と書いても誰も見ないっしょ。

10年で区切った上に前後5年約20年間の世代を一括にしてバカにした上で

俺の周囲だと異様に多いって観測範囲も狭いし、全トラバ16個でブコメも超拡大解釈してもせいぜい悪く言ってるの10個そこらなのに

ワラワラといっぱい湧いてきたって自分喧嘩を売った人数に対してしょぼい反応なのに騒いでる。

これ、ちょうど良い比較サンプルが同時期に出てきててさ。

このファーストガンダムに関する記事

https://anond.hatelabo.jp/20210404105223

あんたみたいにわざわざ集計するのめんどいからしてないけど、

「絵やデザインが古すぎて見たくもねえわ」「ショボいしダサいし興味ない」

「でも幼稚だからな」その手のトラバブコメほぼほぼ見受けられないんだよな。

俺が指摘してるのはこの扱いの違い。印象だけの思考停止否定する奴の多さよ。

俺がマイナス方面の問いかけをしたかマイナスの反応が返ってきたと言わんばかりだけど、

実際特撮が良い方面話題になってもこれとさして変わらない反応が毎度の如く見受けられるからな。

他にも「そんな奴見たことねえよ」とか言ってる奴がいるが、ほら現に居るだろうがよ、って話。

2021-08-03

anond:20210803142932

じゃぁ、その保有している川口春奈コレクションは全て処分するんだよねw

処分も出来ないのに「卒業」とか...ミレンタラタラヤン

川口春奈卒業した

クノールスープCMで颯爽と登場して以来、俺はずっと川口春奈を見守ってきた。

あん天使女の子がこの世に存在していることに俺は驚いて、それ以来彼女のことだけを考えて応援して来た。

清楚で真面目で裏表がない春奈に、俺は心底惚れた。

から水着姿を見ても絶対オナニーしなかった。そんなことをして彼女冒涜するのはイケナイと思ったからだ。それが俺なりの彼女への忠誠心だった。

だがつい先日、俺はその禁を破って春奈で抜いた。

ネットに転がってる彼女水着画像の中でも1番のお気に入りで2回抜いた。

いろいろ思う所があってのことだった。

これをもって、俺は川口春奈「卒業」したんだ。

罪悪感でいっぱいになったが、それも仕方がない。

いずれはこうなる運命だったんだと割り切るしかない。

春奈だって一人の女性なんだ。

俺はそれに気づいてしまった。

永遠偶像なんて存在しないのさ。

ヨナラ、春奈。

2021-06-30

anond:20210630000504

個人的には負の影響を受けてることも一種依存と捉えてるんだよね。負の感情でも人と繋がれるし、人を生かすから。「親から褒められなかった、だから俺は人を褒められない」というのはある意味「親から卒業」できない・親に依存している、と考えてます

からいつか人を褒められるようになった時に、「親から卒業」したとも言える。そこの説明すっ飛ばし卒業の話になったかちょっと違ったかも。

親以外から無償の愛で、褒められたり優しくされることはあるだろうからね。その人のおかげで、もしかしたら折り合いがつくかもしれない。そういう意味で、「卒業」や「自立」が思いあがり=人間には解決できないものとして扱っていた彼が、どうやって対処しようとしてるのか気になった。

>切り離せない関係性を個人の頭の中で無理に脇に押しやるのは、確かに健全だし、反動がありそうだ。

これは同意、やっと不健全反動意味がわかった。

友達との親について語らいの話は、微妙かな。うまくいってないと正直に伝えるのも「自立」してると言えるし、その事実を言う必要もないし。

2021-04-08

あえぎ声を書くバイト

大学時代、ひたすらあえぎ声を書くバイトをしていたことがある。

先輩から紹介してもらった、エロゲメーカーバイトだ。

その会社エロゲストーリーに力を入れていて、所属するライター自分文章プライドを持っている人ばかりだった。

彼らからすると、Hシーンのあえぎ声を書くなどというのは苦痛しかなく、学生バイトにでも任せておけということになったらしい。

仕事がどういう感じだったかというと、

1. まず、「チャックを開けた」とか「腰を動かすスピードが速くなっていく」といったHシーンの「ト書き」部分だけを渡される。

2. ここに私が「んっ……」とか「あんあんっ」といったあえぎ声をてきとうな塩梅で足していく。

3. シナリオライターのチェックを受けて終了。

という流れだった。

簡単に思えるかもしれないが、これが意外に難しい。

まず、Hシーンにはある程度の長さがあるので、その範囲内で的確に盛り上げていく必要がある。

使う音に緩急をもたせ、飽きさせず、かつ少しずつボルテージを高めていかなければならない。

さらに、テキストの長さを調整することも重要だ。

短すぎると気持ちいい感じが伝わらないのだが、かといって長すぎるとボイスが冗長になる。

このように、エロ俯瞰的に捉えるバランス感覚と、計画的なペース配分が求められているのだ。

思うままにキーボードを叩いていればいいなどという仕事では決してなかった。

最初仕事は「妹もの」だったが、2回目のHシーンという設定で、「あ」の音の配分に苦労した。

はじめから「あああああ」など言ってると手慣れた淫乱みたいだし、かといって「あん」ではエロさが足りない。

苦労の末に完成させたものの、ライターには「もっと速く上げられない?」と言われる始末。

どうしたものか……と、前任者が残したパソコンキーボード「A」だけ妙にテカテカしている)の前で悩んでいると、あるファイル存在に気づいた。

「あえぎエディタ.xls」と題されたエクセルファイルは、前任者が残したあえぎ声専用のマクロであった。

縦に並んだセルセリフを一つずつ入力していくと、各セリフに含まれ母音・子音等の音声的要素が自動で数値化される。

さらに、その数値を足し引き計算することで、「絶頂度」と呼ばれる値が算出される仕組みになっていた。

この「絶頂度」がミソで、この値がシーンの最初から最後に向かって少しずつ上昇していくように文章を組み上げていくと、理想的なあえぎ声が出来上がるのである

かくのごとき驚くべき神エクセルを、前任者は独力で作り上げたようだった。

そして、秘密ツールとして上司には隠しつつ、後任である私にこうしてこっそり教えてくれようとしたのだろう。

このツールのおかげで、私の仕事はずいぶん楽になり、安定したクオリティであえぎ声を出し続けられるようになった。

そうして仕事をしているあるとき、私はあることに気づいた。

あえぎ声を入力するセルには、理論上どんな文章も入れることができる。

まり、あえぎ声以外のテキストでも、その「絶頂度」を算出できるのだ。

そこで私は、試みに文学史上の名作の「絶頂度」を出してみた。

たとえば、「私はその人を常に先生と呼んでいた。」は12、「親譲りの無鉄砲小供の時から損ばかりしている。」は30という具合だ。

予想もしていなかったことだが、こうして調べていくと、傑作の多くは私の仕事と同じ原則で書かれていることがわかった。

まり最後に向かうほど「絶頂度」が高まっていくのである

とくに顕著なのは芥川で、「下人の行方は、誰も知らない。」など絶頂度367だ。

薬漬けになった人妻が白目を剥いて失神するシーンでもせいぜい330程度なので、どれほど驚異的な数字かお分かりいただけるだろう。

絶頂度」はあらゆる文章通用する普遍的法則だったのである

この事実に気づいた私は、それからあらゆる文章をあえぎ声だと思って書くようにしてきた。

そして、人生のあらゆる場面で成功をおさめてきた。

就活エントリーシートでも、重要なのは絶頂度」の配分である

たとえば学歴欄でも、「絶頂度」の高い名前大学中退し、最終学歴とすることで、ずいぶん見え方が変わってくるようだ。

大学名によっても異なるが、概して「卒業」よりも「中退」のほうが絶頂度は高くなる。)

さて、お気づきの方もいるかもしれないが、この文章もここまで少しずつ絶頂度を高めるように書いてきた。

↑この一文の絶頂度は290だ。

かなり高まってきているので、この辺りで文章を終わりにしたい。

んほぉぉぉぉ! あああぁぁん!!

2021-04-06

anond:20210406101100

じゃあ「うっせいわ」と、「ギザギザハートの子守唄」とか「卒業」比較論って、30代前半以下には、そもそもまったく意味が分からないんだ。

anond:20210405100130

「うせっせいわ」って、「ギザギザハートの子守唄」とか「卒業」レベルに、世代を超えて残っていくとは思えないんだよな。

その辺ターゲットの子供はどう思っているんだろ。

2021-04-04

卒業~ビバナミダ

キモイ」男の隣の席に座りたくない女が涙を流す https://anond.hatelabo.jp/20210321094643

※本作はブコメコピペしますが特定の誰かになにかいいたいわけではないのでIDコピーしません

これをみて多くのひとが反応してます。こういう具合に。

キモい女は泣かれはしなくてもオエーッ!!とか吐き真似されたり絶対机くっつけんなよ!!と脅されたりはするよ。学生時代キモい人への態度は男女問わず残酷だと思う。大人になってもやるやつもいるけどね…

これポイント「涙」にあると思う。

泣く側の心理としてはキモイから嫌なのではなく、友達の近くでないとか思い通りにならなかったから泣くという側面も大きいので「泣く=庇ってもらえる」という負の成功体験を積ませないことが大切かもしれない。

これなんかおもしろい。

友達と近くでないことに泣く。泣くこと自体感情を抑えられない結果ではあるが、その理由である友達と(席が)近くではない」ことをストレート表現するのはなにかいろいろと不都合があるんだろう。「いろいろ」を具体的に表すとしたら大事人間関係への変化があるとか。それをカモフラージュするために気持ち悪い男と隣の席になったことで泣く。んまあ、同情を引くってのもあるし、次の席替え下駄を履かせてもらうって計算もあるんだろうけど。

かように、とても複雑な過程を経ての泣くという行為なのですね。

そこで「卒業」です。斉藤由貴の歌です。

(25) 斉藤由貴 - 卒業 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=oSqTaVzqPIk

サビの歌詞

ああ 卒業式で泣かないと

冷たい人と 言われそう

ももっと 哀しい瞬間に

涙はとって おきたいの

これ。本当に大事な人との別れの前に涙をとっておくということですよね。

逆に言うと、卒業式で涙をポロンとするのはお茶の子さいさいってことでもあるなと。

上記コメントでわかりましたよ。

気持ち悪い男のための涙」というのは非常に計算された上のものだ。

感情の高まりによって出たものか、あえて感情を高めての上のものかはたぶん本人でもわからないだろう気もするが「NO」の意思であることはまちがいないわけだ。

泣かれはしないけど、あーあー!(コイツの隣とか)まじかよー!!!って大声で男に言われてる女はいた。手滑って殴りそうwwwとか加害予告もある。めちゃくちゃ怖いけど先生スルーしてるよね

実際、気持ち悪い女と隣の席になった男が泣いたらどうなるでしょうか? 泣く代わりの行為ですよね? さて、女が泣いた場合先生はどうしてますか? 「泣くなよ」とはいわないでしょ? つまりスルーでしょ。つまりこれらと同じ行為ですね。暴力です。

思えば、何度、「女は泣けばいいと思ってる」ってグチを聞かされたことでしょうか。

泣くと殴ったことになるのは便利でいいですよね!

2021-03-12

シン・エヴァンゲリオン感想(ネタバレ有り)庵野と安野によせて

昨日(3/11)にシン・エヴァンゲリオンを見てきたので

感想を殴り書きで書きますネタバレありです。

キャラ感情の揺れに重きを置いてます

パリ

マヤが「これだから若い男は」と言ったのがよかった。

 エヴァでは「女性は弱い」という描かれ方が旧劇からされてないので良い

マリの「どこにいても見つけ出してみせるからワンコ君」への違和感。そんなにシンジ思い入れある?

三村

・トウジー!生きてた

綾波が「私は綾波レイじゃない」というと、「そうなの、そっくりさん」という流れで自然肯定されてたのがよかった。

 「綾波レイ」でなくても存在肯定されている感じ。

・その後もレイプラグスーツを脱がないけど、「汗水たらして働いて」周りに受け入れられるにつれ、

 「エヴァパイロットではない自分」としてのアイデンティティ確立できて、プラグスーツを脱ぐことができるようになったのがよかった。

レイ委員長に「おやすみって何」「おはようって何」ってたくさん聞いたとき(それこそ赤ちゃんのように)、委員長の答えがお母さんのように優しくて、

 よかったねという気持ちと、女に母性を求める意図が透けて見えて気持ち悪かったという気持ちの両方があった。

・トウジやケンスケがシンジに話しかけるシーン、自分大人になったのにいきなり14歳のままの同級生(シンジ)が出てきたらどう接していいか戸惑うだろうなと思った

ケンスケのことをアスカが「ケンケン」って呼んだのが一番衝撃だった。そして全裸アスカ。動じないケンスケ。あっ・・これはやることやってませんか?

 アスカシンジがくっつくものだと信じていたので、あこりゃだめっぽいなと少し悲しみがありました

 (と思ったけどこれ、ケンケン大人アスカ14歳の体だから動じなかっただけなのかな。そしてラストでは大人の体になっていたので無事ケンケンとくっつけるとか)

ケンスケ、加持さんに少し似てますねと思った

アスカにもDSSチョーカー。後で明かされるけどアスカ人造人間使徒入りのため?

・だんまりシンジアスカが無理やり食事をさせて、そこで無気力にしてるかと思ったら、勢いよく家出していって驚いた。鬱の人ってそんな衝動的に行動できる?

アスカレイに「サードのこと好きになるように設計されてる」と言ってたのが印象的だった。そしてアスカもそう。悲しい。

 アスカ人造人間だったんだ。式波改名されてたのも理由があったんだね。

 シンジ庵野投影だとすると、モテモテ自分みたいなのが透けて見えて少し嫌だった。

アスカシンジのこと「好きだったわよ」というのがよかった。過去形「卒業」という感じを受けた。

 なお、ラストシンジも「僕も好きだったよ」と返すの、さわやかだと思ったけど、庵野アスカ声優一方的に恋してたエピソードもあるので、

 「お互い好きだったけどうちらもう卒業だね(アスカにはケンケンがいるし、シンジにはマリがいる、あとボク庵野には安野がいるし)」みたいな良い話風にねじまげるのはちょっと…と思った

レイが渡したカセットプレーヤーを跳ねのけたのはどういう心境だったんだろう。ただの拒絶?プレーヤーを拾ってくれてたはずの本当のレイはもう死んじゃったから?

ペンペンがたくさんいてほっこりした。トウジと委員長ツバメのシーンでも思ったけど、子を産み、次世代に託していくことの尊さのモチーフがいっぱいあったね。猫とか。

シンジの「どうしてみんな優しいんだよ」の嗚咽、緒方さんほんとよかった。

 旧劇で「どうしてみんな優しくしてくれないんだよ」みたいな台詞があったけど、そのアンサーだと感じた

レイシンジに「名前を付けてほしい」とお願いするシーン、ラストのほうでユイゲンドウに「子供名前決めてくれた?」と尋ねるシーンとの対比でよかった

レイが目の前でLCLなっちゃうシーン、シンジにまた新しいトラウマを植え付けるなんてひどい…と思っちゃった

・加持さん!一瞬綾波式波みたくクローンかと思ったけど子供ミサトさん産休とったんだろうか?とる暇なさそう。

 あと死んだお父さんと同じ名前つけるってどうなってるの?呪い

シンジ乗船後にアスカサクラが話すシーン、アスカは「監視」としてシンジを引っ張ってたんだな・・・と切なくなった。ヴンダーに乗らなくてもいいとも言ってたし、それだけじゃないだろうけど。

ヴンダー

マリアスカにべったり。レズ的に好きなの?そういえば漫画版ではマリユイガチレズで…と思ったけどラストマリシンジ(ry 

・13号機がトリガーなの、13っていう忌み数関係あるのかな?

ヴンダーめっちゃ攻撃受けてるときクルーがみんな最速で状況伝達していてよかった。パリでのマヤとのやり取りと違って弱音を吐かない。

・リツコがためらいなく速攻でゲンドウに発砲したのよかった。旧劇では撃てなかったので…

 リツコのベリーショート昔の男(ゲンドウ)から「卒業」感を感じて好き。評判悪いけど。

ゲンドウが脳みそ拾うところちょっと笑っちゃった。要るんだそれみたいな。

ゲンドウが意味深カタカナ語いっぱい話すの、ビジネス用語を多用しすぎる上司みたいで笑っちゃった

・ところで六分儀ゲンドウっていう旧姓新劇ではなかったことになった件、考察必要ですか?惣流→式波改名意味あったわけだし…。それともユイ苗字綾波にしたかっただけ?

ミサトが一番好きなので、ミサトのサングラスが銃で吹っ飛んで彼女感情が見えるのがよかった。

 誰かが言ってたけど、ミサトとゲンドウはサングラス視線の全部を、アスカは眼帯で視線の半分を隠してシンジと目を合わさないという考察。これでやっとミサトの心が見えるようになる。

サクラ怪我したらエヴァに乗らんでいい、ちょっといかもしれないですけど我慢してくださいね」、その通りなんだが、めちゃくちゃだな…

ミサトがシンジを庇って「私がすべての責任を取ります」というシーン、よかった…よかった…

・そのあと、シンジと抱擁を交わすシーン、シンジ大人になったなあという感じ。親愛はあっても、その間にあるのは大人のキスではなく、他人である別の人間との適切な距離感

ラストに向けて

・「シンクロ率無限」はちょっと笑った。夢小説っぽさがある

・量子テレポート、めちゃシュバババってなってて笑うでしょあんなの…

・親子対決、いきなり特撮っぽいなと思ったけどミサト家や学校やらでいきなりスケール感のおかしエヴァが暴れてるの、どういう演出なの…?シン・ウルトラマン番宣ですか?

シンジゲンドウと対話したいと伝えたの、大人になったなという感じ

ゲンドウの過去、全く想像通りのやつがお出しされてそうだねとなった

ゲンドウがピアノ好きなの、Qでのシンジカヲルセッションが効く演出でいいなと思ったけど、シンジチェロ設定どっかいっちゃった?

・冬月はなんで(どういう理屈で・どんな感情で)LCLなっちゃったの?

ミサトさん…死んじゃって悲しいけど、加持さんのところに行けてよかったね

ゲンドウがシンジの中に「そこにいたのか」ってユイ見出してよかった。

 ユイがいなくなっても、いなくなったからこそ忘れ形見シンジ大事にしなくちゃいけなかった。

 ゲンドウが幼いシンジ大事そうに抱きしめるシーン、今まで描写がなかったので良かった。シンジと向き合えないっていう不器用愛情だけじゃなくて、やっと向き合えた。

 人は子を産み育てることが尊いという生命賛歌。生きてていいんだという存在肯定

・この辺旧劇とそれほど伝えたいこと変わってないのかな?と思ったので、こんな大々的に焼き直す意味はあったのかな

世界中を巻き込んだ盛大な親子喧嘩だったね

・どこだったか忘れたけどシンジの突然のすしざんまいに笑っちゃった

大人ゲンドウを子供シンジが見つめ、今度は子供ゲンドウを大人(少年)シンジが見つめるのがよかった。親のインナーチャイルドを息子が癒してあげたんだね。そういうことあるよね。

・【ちょっと追記

 マリシンジに執着するの、漫画版を読んでいたらマリユイガチレズ感情を持ってたためにユイの息子(シンジ)に執着してたって視点を持てるけど

 映画単体ではそこにたどり着くの不可能じゃない?

 ゲンドウの追憶で出てきた、マリゲンドウにユイを紹介したシーンでBSS(僕が先に好きだったのに)の波動を感じ取れと…?

 その流れから惚れた相手(同性)の息子(異性)に「だーれだ」「胸の大きいいい女」って躾込んでるって考えたくなくないですか…?【追記ここまで】

アスカケンケンカプを公式ダメ押ししててつらかった。そんな、余ったの適当にくっつけるみたいな…

カヲルの救済はなんで加持だったの?接点あった?あと渚指令ってなに?

・「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」とか意味深だったけど、円環とか言ってたかループ世界だったんだね。

ユイがこのためにエヴァにいたんだというのもよかった。子の背中を押して親は去る。

ラスト

・槍に貫かれて「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」はものすごくきれいだなと思った。ここでも「卒業」を感じた。

 シンジに、ゲンドウに、レイに、アスカに、カヲルに、すべてのエヴァンゲリオンに、そして『エヴァンゲリオン』という作品に。さようなら

シンジマリがくっついたの、旧劇にはいなかったマリ(安野)を手に入れて救われましたっていう庵野と嫁のストーリーだなと感じた。

 なんで神木隆之介なの?君の名は。?なんでスーツ着てるのに昼間から仕事してなさそうなの?

 そもそもシンジマリって接点あった?なんでマリはDSSチョーカー外せるの?

 ていうかDSSチョーカーずっとつけっぱだったんだ…

 チョーカー外すってモチーフエヴァ呪縛からの脱却ってわかるけど、それはエヴァを槍で刺したのとシンジが大きくなってるのでもう分かるし…虚構から現実への移行のトリガーとして外したの?駅構内で?

レイカヲルアスカが遠くにいて(遠くの虚構)、こっちにはシンジマリ(庵野と安野・現実)、そして宇部新川駅(庵野出身地)という現実に帰っていく。

 これは、シンジゲンドウに仮託した庵野個人的な成長ストーリーだったのだ…


え?感想?よかったですよね。エヴァー。


【終劇】

2021-01-16

算数教育における「みはじ」テントウムシが広まりすぎている件

 丸を三つに分けて道のり速さ時間関係を求めるやつ通称みはじについての話をしたい。

 自分田舎子どもたちの勉強の面倒をみている(教師でも塾講師でもない)。そこでの子どもたちを見ただけなのでデータとしては不十分だが、みはじを知らない生徒はほぼいない。とりあえず速さや割合問題に当たったら例の図をかいて考えている。生徒たちにとって、みはじは速さの問題特効のツールなのだ

 かつて自分はみはじ否定派だった。そんなもの使わなくても答えは出るし、加速度運動だと使えないし、必要のないものだと思っていた。そのため、速さを教える時もみはじ図を使わずに教えていた。

 しかし、教えていくうちに自分はみはじ肯定派に変わっていった。少なくとも小学生にとっては、みはじはある程度必要ものだと考えるようになった。

 自分小学生のころにみはじを教えられた。現代小学生と同じように、速さの問題をうまく解けるツールとして例のテントウムシを書いた。それを使うことによって速さの問題を解くことができた。

 中学生くらいまではテスト用紙のはしっこにテントウムシを書いていたと思うが、高校以降は書かなくなった。みはじの図よりも等式をそのまま変形した方が手になじむようになって、みはじから「卒業」した。

 小学校の段階では等式の変形を大々的に扱うことは少ない。割り算の導入で九九の裏(3×□ = 15の□を埋めていく問題)を少しやる以外は、ほとんど教えられていないのではないか。そのため、中学生以降は当たり前であるx = vt を変形したらt = x/v が出てくることも、小学生にとっては当たり前ではない。それを教えるために苦心した結果がみはじ図だろう。

 みはじの図は、比例関係をある程度よく表した図だと思う。これのおかげで助かっている子どもはかなり多いのではないか。いつかは卒業していくものとして、それらを教えることは問題ないと思う。

 

2021-01-01

anond:20210101165503

それは確実にあるだろうな。

日本でたとえAKB系列に入っても「卒業」したあと何にも身についてないってことになるからね。

漠然私大文系に進学するより看護大学行くようなものかも。

2020-12-12

anond:20201212121708

自己トラバ

わかった。

学歴アイデンティティな人はつまり受験」「学生生活「卒業」代表作みたいなもんなのか。

時間もかかるし大作だから、以降それよりでかいヒット作を飛ばすのも難しかったり、制作途中で看板に掲げる程じゃなかったりするのか。

すこし納得した。

それは誰だって大切に思うわ。

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