はてなキーワード: 飛ばしとは
週刊少年ジャンプでグリーングリーングリーンズという漫画の新連載が始まった。
個人的にはそれなりに面白く読んでるが、どうも四話での主人公の言動がクズだとXのジャンプ感想勢でマイナスな話題となっているようだ。
しかし、これまで物事に真剣に取り組んでいなかった主人公がゴルフに対し必死になるようになったという描写であり、それがそのように読者が受け止められていれば、おそらくクズ行為としては認識されず、勝負への真剣さへの表れと受け止められただろう。
また、主人公と勝負しているのはプロを目指していて経験豊富な先輩であり、しかも飛ばし屋なのだから、ハンディをつけなければそもそも勝負として成立しない。
なので、ハンディをつけるという行為そのものは問題がないはずなのだ。
つまり仮に多くの読者が主人公がクズと認識してしまったんだとしたならば、クズ行為そのものではなく別の部分で問題があり、その結果作者の意図通りの印象を読者に与えられていない、というのがより正しい状況であろうと思われる。
その原因について考えてみるとおそらく最大のものは、勝負の位置づけの軸が物語の展開と合っていないという部分だろう。
この勝負では主人公のバイトのクビをかけてるが、クビになったら主人公は実質的にゴルフを練習する環境を失い、ゴルファーになる道を断たれることになる。
そして物事の原因は先輩の恋煩いによる一方的な逆恨みなのだから、人生を賭けた勝負を引き受けなければならない理由は全くない。
そのため主人公が軽率に人生に関わる勝負を受けて勝手にピンチになってるただの間抜けになってしまっている。
主人公が単に勝負に対して真剣になっているという描写をしたかったのであれば、賭けるのはバイトのクビではなくもっと軽いものでよかっただろう(例えば今日一日ヒロインと会話するな、とか)。
それなら遊びの勝負でも真剣になる、という描写にすることができた。
そうです。凄い大変だったのです!
ごめんなさい嘘です。むしろそれを名目に仕事すっ飛ばして、バスの時間になったら戻ってくると言うことで周りをすっかり観光して、美味しいラーメン食べたり、handsをぶらぶらしたりしてて実はそんなに大変じゃ無かったですすいませんすいません
ネットをはじめとした各種メディア上では、昔から被害妄想の強い傾向を示す統合失調症の人間の挙動が目立つようになっている。
これは人間が感情の伝播を情報伝達の原動力にしている原理を意図せず利用し、ハックしたかのような現象だ。
病気によって感情の増幅が止まらなくなる人による、事実を曲解した言動、虚言の類が、メディア上でも速やかに増幅され伝わってくる(=バズる)理由でもある。
また、この性質を意図的に利用しているのが、ゴシップや「飛ばし」をセンセーショナルに報じる一部メディアだ。
もとより(うつ病患者以外の)人間は、自分の信じたいものを信じるようなポジティブな曲解をする性質を持っているので、メディアは事実確認や表現の微妙なニュアンスに至るまで気を配ってやる必要がある。
その責務を放棄したジャーナリズムに欠けるメディアは古くより三流とされてきたが、ネットの普及により本来低俗な足ガバおっさんしか読んでいなかったタブロイド紙的な文章を分別つけずにシェア・拡散する人が増えた。
それにより、一般ネットユーザーにまで思考汚染が拡大し、統合失調症でもないのに統合失調的な曲解論を自分の中に取り込んでしまう人が増えている。
陰謀論などはその極端な例だが、そこまで行かずとも、些細な事から日常のすぐ隣まで蔓延っている。
実際に体験したわけでもない事柄に関する偏見や嫌悪の刷り込み元は、ほとんどの場合そうしたメディアである。
増田で盛んに吹聴されている、性嫌悪、弱者(少し前はKKO)嫌悪、オタク嫌悪、ウヨ・サヨの党派性嫌悪なども、その類に他ならない。
ではここで、ワイが昔書いた日記を本邦初公開するやで
客のいる売り場で怒号を飛ばしたり、無断欠勤を繰り返したり、人を選り好みし無視や陰口を繰り返したり、
人の過去の恥を嬉々として話したり、文章で知識を共有する取り組みを今更恥として非難したり、他人が意にそぐわないとすぐ不機嫌をあらわにしたり、
主語の欠けた曖昧な説明を投げておきながら受け手の理解度不足や要領の悪さとでも言いたげな態度をとったり、
というのは、この私が2年半この職場で働いて実際に見聞きした有様である。
改めて列挙してみると、ほんとうに以前の職場やそこで関わった同業他社の方々とは異なるというか、根本的にマインドが低いと言わざるを得ない。
私とてそこまで意識高い系のつもりではなかったが、この職場のあなた方が、心底軽蔑せざるを得ないほど人間を雑に扱い、
内輪に引きこもり外界を拒絶し、部族の慣習に従わない人間を排撃する、底辺を地で行き一切の自省なく、
走性のみで挙動を成している昆虫がごとき生き方を晒して何の疑問も恥も抱かない人々であるがゆえに、
私程度の人間ですら相対的に意識高い系にカテゴライズされてしまうのである。
残念ながら、所詮はこれが手に職をつけること能わずな人々が集まる肉体労働年収200万円台の世界である、ということか。
私が生ゴミなら、あなた方は何なのか?信念も自己客観性も哲学も何も持ち合わせていないあなた方が得ているのは自由ではなく無秩序であり、
(自分に都合のいい)ルールを守る、(自分の気分を害さない範囲で)マナーがいいって書いとけ
多勢がマナー守ってたら従ってるだけで守らない方が多数になったら守らないでしょ
オタク以外と変わらんよ
X(旧Twitter)でコミケ来場目安の10時に到着した人の「既に列が形成されてるんだけど、目安を守らないなら始発でも徹夜でも変わらんやろ」って愚痴に
「始発の何が悪いんですか?来場目安が何を意味するかわかりませんけど」みたいに返してた話の通じない人とそれに同調してたやつらな
意味がわからなすぎて何か読み飛ばしたかのかと思って何回か読み返したよ
せっかく初参加っぽいい人がルールを守って楽しもうとしてたのに、嫌になって参加しなくなったりルールを守らなくなるようにわざと誘導してるのかと思ったわ
お、それなら分かるぞ
The Game AwardのThe Best Mobile Games Of 2023、Appleの今年のベストiPhoneゲーム、Google Playのベストゲーム2023を受賞し、
新規限定キャラをガチャ実装と同時に全員配布する異例の振る舞いを告知している崩壊:スターレイルっていうマッチングアプリがあるんだ
これの月額課金である列車補給証票610円と、バトルパス課金であるナナシビトの褒章1220円に入っておくんだ
それによって無課金じゃ追いつかない育成リソースを得て、いっぱしのプレイヤーに擬態することができるんだ
そうしたら、一番育ったキャラを巡星ビザからサポートキャラに設定して、世界中の人にフレンド申請を飛ばし、イケてるナウなヤングと交流することができる
それからHoYoLABという公式コミュニティに参加し、ゲームの感想や攻略やネタトピックを投稿していくことで、日本の学生や20代30代くらいの活動的な人々と仲良くなることができる
コミュニティ活動の中身次第では、信頼され一目置かれる存在となることもできるだろう
美男美女が登場するゲームなので、男性プレーヤーは女性キャラの、女性プレーヤーは男性キャラの話ばかりをしがちになるところを
異性の嗜好にも沿った話をして理解を示せる存在になればきっとモテること間違いなしだ
特にコミュニティにいるのは低年齢層が多いので、大人な態度を示せれば頭角を現すのも難しくないだろう
では貴君の健闘を祈る! さらばだ!
ダサさというのは自分のセンスと相手(世間)のセンスの差で起こる
この条件下ではダサさは生じない
ダサいというのは思い通りの服を着れないか、思い通りに着たのに世間からダサい認定された時に生じる
このとき、「自分では良いと思っているのに世間ではダサいと思われている」ことに気づき、それを認めなきゃならない
これにはコミュ力や空気を読む力が要るので、陰キャはこの壁が苦手である
あと謙虚さがない人もこの壁が苦手、周りにイエスマンが固まってるとか
(私は大学生だった、中学生はそれ以前「お母さんセレクト」だった、お母さんセレクトはセンスが前時代でありダサさの象徴である)
あるいはマネキン買いとか、ファッション雑誌丸パクリのような、何かしら解決策を見つけられた人も良い
それ以外のセンスのない人は苦しむことになる
ファッションは非常に難しい、言語化されていないし、個人差もあるし、時代によっても違う、足し算すればいいわけでもない
おまけにほとんどの人はスタイルが良いとか美形であるというポテンシャルもないから有名人の真似をしてもダサいままだ
(服がなんでも合いやすい人、服がなんでも合いにくい人がいる。後者は地獄だ)
調べるのがとても難しい
とにかく勉強し、色んな人の意見を聞いて試行錯誤していくしかない
この時調べるべきは一般的な知識もそうだけど、自分にそれがあってるかどうかも調べなければならないから難しい
つまりセンスの良い友達や家族と服の話をするとか、複数の店員にひたすら聞いて深掘りして聞いていく必要がある
(私はぼっちだったので後者を選択した、店員は嘘もつくから複数の店員の意見を総合する必要がある)
自分のスタイルを崩さず、オリジナリティを突っ走り、かつスタイルが良く美形な人、あるいはキャラクター的である人
なんならフォローされ真似されたりもする
服に悩んでる人は究極彼らに成りたいのだが、成れないため悩む
ただ、戦略的に天然を装ってる人もいる
これは物差しで測れない領域に行くと人のセンスセンサーはバグるので、それを狙ってる人だ
毎日同じ服を着るのもこれに該当すると思う
「◯◯さんはそれでいいと思う、むしろそれでいてほしい」と言われたら勝ちだ
養殖と呼ぼう
市場調査をし、自分にとってそれなりに最適解である服を選べるようになったとする
ここまで到れる人は6割は居ると思う(苦手な人にはこの割合が信じられない)
当然都会の方が多い、都内の大学生あたりは若いうちにここまで来ている
ただ、ここまで来れた者たちはほとんど同じ格好になる
すると残酷なことに、いつしかダサい認定されていることに気づいてしまうんだ
真似する人・空気読む人という姿勢がまずダサいとまで言われてしまう
(キョロ充とか呼ばれることがあるが、天然との対極にいる存在だ)
ここから「無難からの脱却」をする必要が出てくるが、下手にやると壁2に逆戻りする
この先は本当にセンスが要る
無難から脱却した人たちというのは、ある程度センスが有る人たちばかりだ
「センスよく見られたい」などという邪なモチベーションで来た者には出せないものをもっている
センスない者は結局その「どれをパクるか」を選択しなきゃならないわけだが
そのファッションというのは結局その人やその人の属するコミュニティ、TOPにとっての正解であって
その条件を間違い、安易にパクると途端にダサいゾーンに入ってしまう
センスを一回パクってみるとわかるが、見る人次第で「いいね」という人と「ないね」という人が出てきてしまう
ある場面ではおしゃれな人達からおしゃれ認定されるし、他の場面では直接ではなくとも間接的に「アレはないよね」と言われてしまう
人の顔色ばかり伺って最適解を探そうとしてきた人はここで壊れる
結局自己満足で服を着ていたセンスある人が正しいんだと気づいて、じゃあ今までの苦労はなんだったんだと思い、でも自分が自己満足で着ると酷いことになるんだよなー、などとぐるぐるし始める
この壁を突破して、「無難+自分のポリシー+TPO」という自分なりに答えを出せる人はそう多くないと思う
究極言えば服は「どう見られたいか」「どうありたいか」という哲学的な話になってくる
「界隈の無難」を使い分ける手だと思う
界隈のユニフォームみたいなのあるだろ?あれをその場に応じて使い分ける
化粧もそれに応じて使い分ける、キャラクターも使い分ける
ここらへんが凡人の限界であり、ここでいいんだと思う
これを「擬態」と呼んでいる
(私はここの割り切りがどうしてもできず、ちょっとオリジナリティを出そうとして浮いて羞恥するザコである、羞恥するのはポリシーがないからだ)
完全に諦めたらここになる
最強である
「解脱者」と呼ぼう
ひどいと「新しい服を3回着たらもう着れない」みたいな人もいる
女子に多い、友達にいるがバカジャネーノと思いつつちょっと可哀想でもある
無垢な幸せ者がカッコいいと言う服、それはつまりダサい服である
その人に好かれる最高の服はダサい服であり、無難な服ではない、そこが面白いと思う
足しすぎないとか、色を合わせるとか、Aラインだの、骨格だの
それらは一見虎の巻に見えるが、これを覚えても実践との差がある
それに、これらを超越してるセンスの人たちも当然いる(例えば大阪のおばちゃんとか)
厄介なことに、これらを超越してるセンスの人の中にもセンスが良い人がいる
これまじ
ただし体型をよくするとそれをアピールしたくなる病気にかかるから注意でもある
(筋トレしてみるとわかる、私はダイエットに成功した時細くてピッチリした服を求めてしまった)
次に出てくるのは「こうしたほうが良いよ」である
心を強く持たなきゃならない
極稀に「母がセンス良い」という家庭があるがただのラッキーな者なので妬んでやろう
しかし父母世代のセンスの中にも光るものが必ず有り、それはやがて復刻する
復刻した時、ダサい認定していた世代は着れないが、その下の世代は着るので、そうやって流行のレイヤーができる
むしろ子供世代が「父母世代センス否定の呪い」にかかってるからこそ、更にその下の孫世代は安心してそれが着れるわけだ
それは下の世代のウケはいいけど、同年代からのウケが最悪になるから
結局さ、君は本当に被害者かも知れないけど
客観的に見れば、全然関係無い大人しそうなタイプの男性に八つ当たりしてるだけなんだよね
https://anond.hatelabo.jp/20230916071759
どこかの誰かに殴られたからって、別の誰かを蹴り飛ばして良い権利は無いの
どうも女性って「ワタシが辛い思いをしたのだから、他人にも辛い思いを味わって欲しい!」
って感情が強い人が多いよね
そういった人間が、無自覚であれ自覚的であれ、「警戒」という名の「セクハラ・性加害」をするんだろうね
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231213191557
直情的なタイプだった。怒りだろうと悲しみだろうと、感情の振れ幅が大きいタイプである。
最初の方で説明した場面で、職場のコピー機が置いてある台を蹴っていたのが彼になる。傍目から見ても、「どうして採用されたのだろう……」と疑問が湧いてくるほどだった。
ストレスには耐えられないし、自分勝手なスタンドプレーは多いし、立場が弱い人間には辛く当たるし、自分は凄いといった主張をしていた(「俺の親、若くして自治会長だから!!」など)。相手の意見を曲解することが多かった。
私も手痛い思いをしたことがある。私がいた指導課には住民基本台帳ネットワークシステム(戸籍課や税務課の職員が使っているものと同じ)があったのだが、B君は特に許諾もなくそれを操作し、職務遂行に必要な個人情報を入手していた。本来であれば事前申請を要するし、厳しい自治体だと戸籍課以外の職員によるシステム操作を認めない。これが普通である。
ただ、ほかの部署から個人情報取得の依頼があった場合でも、身内だからということで、口頭による承認で住基システムを使わせることはあった(課員への一言)。能率を考えてのことだ。が、B君の場合は明らかに一線を超えていた。職務遂行に必要であることがわかるが……一度だけ、彼を思い切り叱り飛ばしたことがある。以降は、口頭で課員の承認を得てからシステムを使うよう徹底させた。
ところで、あなたの職場にもいるのではないか? 仕事でも家庭でも趣味でも、何でもいい。ストレスで精神的に潰れかけた人間の姿である。B君は、元々コミュニケーション能力に難があった。いわゆる話がわからないタイプだった。
残業も多かった。指導課や学事課の教員出身者と同程度と仮定すると、おそらく月60h~70h程度か。彼の上司は「仕事をたくさん振っていないのに……なぜ?」というスタンスだった。
市職員の場合は、予算がある限り時間外勤務手当が支給されるという。私が若い頃だと、時間外勤務をしていないのに、予算消化のために闇残業を認めるという慣習があったほどだ。
教員出身者の場合は、月20hまで支給されていた。学校現場から教育事務職に移った者にとって、長時間労働やサービス残業は避けて通れない。この試練があるからこそ、一定の基準に達した教育人材を育成することができている。
人は光を求める。そして、その光の見える方向へ動いていく。教職員にとっては、教育に関する哲学、という光を見出すための修行の場こそが教育委員会である。量・質ともに圧倒的なレベルでの修行。厳しい体験を幾度となく積み重ねるから人格や能力が磨かれ、玉になっていく。
さて、彼の上司はB君を徹底指導して残業縮減に務めた。だが結果は出ない。残業縮減の効果は僅かだった。ところで、B君の場合は学校歴がよかった。地元の名門公立高校を卒業して、大学も相応のところを出ていた。地元的には血筋もいい。それが採用に繋がったのだろう。
縁故が悪いか? といえば時と場合による。一概に悪いとは言えない(ex.公共の学童クラブの指導員は、その多くがスカウトである。特に、男性の場合はほぼ100%だ)。教職員の採用試験においても、学科・面接試験の点数以外で、非公式に評価すべき点というのは確かにある。
行政一般事務の職員のことはよく知らないが、彼らと仕事をしていると、確かに地元において血筋がいいとされる人に仕事のできる人が多かった。※主観的な統計である。
高等学校の入学試験ですらそうだ。学科試験以外で評価される要素がある。内申点などは、その典型である。本人の人柄や人格、学習態度や常識力、社会への順応性が点数化される。内申点以外にも、+-の評価がされる要素も一応はある。
プラス評価の例としては……今では絶滅した慣習であるが、昔は公立校でも縁故による入学があった。とある高等学校の名門運動部などが、どうしても○△中学校のあの子がほしいという場合、事前に保護者・児童や中学校側と話をつけておく。かくして3者が合意に至った場合、入試前に合格が決まっていた。内申点は中三期を満点にするなどして対応する。
マイナス評価の例としては……生活習慣だろうか。公立高校の入学試験の基本は、学科試験+内申点の合計で決まる。とはいえ、点数に関わりなく不合格になるケースもある。こちらは犯罪行為であるとか、補導されるのを繰り返したとか、入学試験の際に相当奇抜なことをしない限りは関係ない。
ただ、その子が合格基準点に達していた場合でも、入学試験の要綱要領に定めのある範囲で不合格になることはありうる。欠席数が極端に多かったり、在学中に異常な行動を繰り返したなどが内申書に書いてある場合だ。学校教育とはいえ、高校側も不用なリスクを取りたくない。名門とされる公立高校に問題児が少ない理由のひとつである。
B君の話に戻ろう。その年の夏頃に聞いたところだと、どうやら事件を起こしたらしい。
梅雨が明けた頃に、霞が関の新卒キャリア官僚が研修にやってきたという。T区の各部署を廻って地方行政の実務を学習するのだ。T区は、その年の中央省庁の研修先のひとつに選ばれていた。
キャリア官僚達は、ごく普通にT区の歴史や成り立ちを勉強して、地方行政の実務を視察して、心ばかりの現場仕事をこなして、一週間ほどで霞が関に帰る――はずだった。
最後の日に行われた交流会(飲み会)で、B君はやってしまった。喫煙所のよもやま話で聞いたところだと、以下の流れだ。
ex.研修先部署の部長の肩に手を置く、女性職員の体に何度も触る、別省庁のキャリア官僚に「ぶっ殺す」と発言するなど
③国交省キャリアが「お前の区の国庫補助金ゼロにするからな」と言ったところで、B君がキャリア官僚を蹴り飛ばし、馬乗りになる
④ほかのキャリア官僚とB君の部署の係長が、彼を羽交い絞めにして止めた
……気持ちはわかる。侮辱されて悔しかったのだろう。だが、いくら何を言われようと、暴力だけは駄目だ。確かに、若手官僚の場合、調子に乗っている者は一定数いる。子どもの頃から勉強に勉強を重ねてきた自負があるとともに、仕事では自分の親ほどの年代から神輿を担がれるような扱いを受けるのだから。調子に乗るのも当然である(上に出てきた国交省キャリアは東京大学卒だった)。
かくいう私自身も、文部科学省の事業査定担当官であるとか、会計検査院の検査官から相当辛辣なことを言われたことがある。だが、怒りの感情に囚われてはいけない。駄目なのだ。
人間はいかなる状況の下においても、自己の衝動をそのまま表に出してはならないし、出すべきでもないし、さらに言えば、出したいとも思わない、という主張はまったくの真実であり、妥当な見解であると私は考える。衝動は制御することができるし、制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。突き詰めて考えるならば、人生には実存的葛藤や解決不能な問題、さらには、あることのためには別の何かを諦めなければならないというような状況が数多く存在しているのだ。こうした状況こそ、人間が生きる上での本質的条件となっているのである。何らかの葛藤が常につきまとい、ある方向へ進もうとすれば別の道を諦めざるをえない。人間はこうした状況に苦悶しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。 完全なる経営(2001) A.H.マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.295
私とB君が教委事務局で一緒だったのは一年だった。その年は、社会教育課にとって厳しい年だったらしく、彼は相当追い詰められていた。年度末の三月時点では、まるで50代のごとく自分が思ったことを脊髄反射で口に出すようになっていた。
声をかけようか、とも思った。あまりに辛そうだったからだ。係長も課長も、彼を見放しているところがあった。どれだけ残業が積み重なろうと、仲間によるフォローを呼び掛けたりはしなかったし、むしろ失敗に対して反省文を書かせていた。
B君は、口に出すのが憚られるほど救いようがなかった。もし、上司や仲間にとって彼が『かわいい奴』だったら、こんな事態にはなっていない。彼は、実際に不良な人間だった。職場の仲間から非人格的な言動を咎められるのはまだいい方で、はっきりいって見捨てられていた。自業自得だった。
しかし、やはり可哀想に感じることがあって、廊下をすれ違う時やトイレなどで「元気?」「今日は温かいね」「辛くないですか」など声をかけることがあった。
それから、彼がどうなったかというと、真相を確かめたわけではないのだが……私が定年になる前に退職したらしい。別の部署に異動しても活躍できず、しかしながら、何の因果だろうか――霞が関への出向を命じられたという。省庁までは不明。
本来名誉であるはずだが、その出向期間中に退職を申し出たということだ。もしや、生贄型の出向だったのだろうか?
現代社会において、感情が表に出るタイプの人間はしんどいのだと思う。彼が今、どうしているかはわからない。ほどほど幸せにやっていることを祈っている。
先ほどの2.3.でいうところの係長にあたる人物だ。この人は、冷血漢と呼ぶにふさわしい人間だった。サイコパスとは書いたが、私は臨床心理学の碩学ではない。仕事熱心で、結果を求めるタイプだったのかもしれない。目的のためであれば何でもする人だった。思い出してみる。
例としては、部下の叱責だ。普段は物静かで、部下の相談や報告を聞いている。が、一定レベルの何かに触れると怒号を発する。
C係長「お前、こないだできるっていったよな!」
若手部下「すいません」
「なんでできねーんだよ」
「……なんとかします」
「言ったな? じゃあしろよ。今週末までだ」
※部下ができなかった場合は、定時を過ぎても何十分でも説教していた。そして、できるまで残業をさせる。
後は、イベントだろうか。市区町村においてイベントを主催する部署はいくつかあるが、教委事務局もそのひとつである。教育○○大会などの厳かな発表会もあれば、○○総合フェアなど若い人や家族連れが多く集まる文化的なものもある。
さて、そのT区にとっての○○総合フェアの時だった。毎年過ごしやすい季節に、とある大公園で実施されるのだが、50以上もの出店が立ち並ぶ大イベントだった。
その年のイベントは、残念ながら雨天だった。初日は少雨で済んだものの、翌日以降の天気は崩れる可能性が高い。社会教育課は、教育総務課・指導課と並んでイベント主管課のひとつだった。
その初日の、夕方~夜にかけてのことだった。教育長を始めとする幹部級職員が現地に残って、明日以降の対応を話し合っていた(ほかの教委スタッフは全員帰っていた)。主な論点は次のとおりである。
□ イベント会場は維持できるのか?
上記3点のうち、2点目がなかなか結論に至らなかった。イベント会場には、テントも備品も野外展示物も並んでいる。風雨によって損傷する可能性があった。そして、2点目の解決手段を提示したのがC係長だった。
彼は、「業務委託している会場警備員がいるでしょう。数十人。彼らにやらせましょう。折り畳み式テント(※鉄パイプではない)の屋根を低くする作業や、野外展示物の収納もです」といったことを述べた。
私は「それは契約内容に入っているのですか?」とC係長に問うた。すると、彼は「緊急事態です。契約内容にあろうがなかろうが、現場の指示に従ってもらわないと」と言っていた。
教育局長は「後で問題にならないか?」と聞いたが、「私の責任で収めます」と彼は返した。教育長に「本当にできるんだな?」と聞かれると、「問題ありません。警備の発注は当課です」と返していた。ここから先はうろ覚えだが、C係長は警備会社の現場責任者と交渉を始めた。
夜7時頃だったか。私がトイレに行く途中で、社会教育課長とC係長、警備会社がロビーで交渉しているのを見た。当然ながら、相手方は渋い反応だった。
私はそのままトイレに行って、また帰り際にロビーを通りかかったところ、「契約切るぞ。ええんか!?」というC係長の声が聞こえた。この人は、気分が高まると大体こうなる。
以下、会話を手帳にメモしているわけではない。思い返してはいるが、やはりうろ覚えである。
「切るといっても来年からね。今年はもう契約してるし。来年は、こちらの権限でほかの警備会社と契約します。それでいいなら、あなたの判断で断ってください。テントの作業OKなら、これから私の責任で指示しますが」
「いや、でも。ちょっとの量じゃないでしょ? テントの数は何十個もあります。それをひとつひとつ、高さを下げていくんでしょ? それはもう――」
「あなたが決めるしかないでしょ。責任者なんだから。この時間、あなたの会社に上司がいるんなら電話で伺ってください」※このあたりから方言になる
「判断ができません」
「毎年、あんたの会社と契約しとるんやぞ。しっかも言い値で。本来なら正式に競争入札せんといかん金額やのに。こういう時のために、うちは権限使っとるんやぞ。官製談合みたいなこと、してやっとるんやぞ。俺らとあんたの会社のためを思って。で、上の人間に電話するか、あなたの判断で決めるかのどっちかや。あなたが決める場合は、契約切られても全部責任とるんやぞ」
「……」
「俺が責任を持つ。あんたが上司に怒られんようにする。後で言っとく。知り合いだから。頼む!」
「わかりました。指示をお願いします」
C係長のこの判断が正しかったのか、誤っていたのか。今でもわからない。
結果だけ見れば正しかった。その夜は雨も風も激しかった。(鉄パイプ式でない)テントを張ったままだと、風雨で確実に潰れていた。テントや野外展示物を片付けるといった作業は絶対に必要だった。それを怠って、一般スタッフを帰した私たち幹部の落ち度である。
手続き的には違法である。正しくない。警備会社をロハで使ってしまっている。C係長のことだから、きっと事後処理はうまくやったのだろう。あの後、彼やその上司が処分を受けたという話は聞いていない。
個人的には、C係長の行いは正しかったように思える。実際、あの場面だとああするしかなかった。組織のために泥を被ってくれたとも言える。ただ、それが未来に繋がる行為だったかというと怪しい。
例えば、テントが崩壊する未来を選んでいれば――教委事務局が「組織として学習」することができていた。それがいい未来につながった可能性もある。
(次part)
溢れ出るパトスそのままにここに書き捨てていく。自分の文章が難解だとよく言われることへの愚痴だ。
難解というかまず読まれない。これがとても虚しい。読まれようとしていないのもあるが、普通に書くとますます読まれないわけだ。
したがって非常にいろいろと精査して簡潔にしたり具体的にしたりぶつぶつ文句を言いながら改稿を繰り返す。これによって遅筆と化す。
思うがままに書いていくとねじれ文だのすっ飛ばしだのが表れて、自分では完全に把握できるのだけど周りにはなんじゃこれと思われるような文章が爆誕する。
人はよく言う。
北風と太陽のように、人に読んでもらうには風のようにびゅうびゅうと人に読ませそうとするのではなく、さんさんと照りつける太陽のように母性をもつのだと。
それで読んでもらえるのだと。
人間は読みたいものしか読まないのではないかというのが自分の考えているところだ。
だいたい必死に相手のことを考えてお膳立てしても、概念が難しいときはあらよっととスルーされることが多々ある。それは見事なものだ。親の心子知らずとでも言ってやろうか。
まるで恋愛のようなものだ。相手のことを考えて相手の欲するものをひたすら提示し続けても別に相手は振り向かない。
外見としてクールでファッショナブルでモテモテでいなければいけない。
コンテンツではなくアピアランスなのだ!オーソリティなのだ!コンフィデンシャルさも重要である!
見るがいいこの黒々と生い茂って、ときどきカタカナ語で色味付けがされている、一見するとおもしろそうにない我が文章を。マグロやタマゴばかりでなくイカやヒラメも食ってみろ。
シンプルな文を作りあげるのに時間を要することが憎い。そして可能なまでにシンプルにしたほとんど芸術とでも言えよう我が作品をなんの変哲もないゴミのように扱うそのさま、憤怒で死にそうになる。
貴様ら恥を知ってくれ。なぜ自分の文章が読まれないのか。それはこの俺が悪いのではない。俺はAIとともに生きる。カス地球人野郎どもめ。ファックユー、リードミー。
萌え絵叩きを熱心にする層は今でも暇空に関係なく普通に叩いているし暇空にはなんの抑止力もなく、燃やされるw例は続いており勝利などしていない
温泉むすめ騒動の後で仁藤は保護女性を連れて私費で熱海旅行をしており、温泉地リサーチの中で温泉むすめを知りキモがったというだけの単純な話だろう
そもそも暇空は温泉むすめには興味がないキャラを一人も知らない、シュナムルの次に叩く存在としてなるくんが見つけてきたから絡んでみただけにすぎないと言っている
なるくんは「たまたまそこに仁藤さんがいて、仁藤さんの直近事例が温泉むすめだっただけ」と語っている
そのなるくんはドラクエプロデューサーに殺害予告を繰り返していたクリエイター軽視で表現の自由などどうでもいい人種
暇空は零細なろう小説に「堀口くんをモデルにして書かれている」とイチャモンをつけて作者にファンネル飛ばして公開停止に追い込んでいる人種
約三ヶ月前、社会人生活に区切りをつけた。当方は、はてなユーザーの中でも高齢である。一般的な定年はとうに過ぎている。社会人として40年以上生きてきて、得られた知見といえば……大したものはない。
ただ、今回どうしても書き綴ってみたいことがあり、筆をしたためることにした。書式については、ほかの増田の方に合わせるものとする。難しい漢字も、できる限り平仮名とする。
書き上げたのは本日12/12だが、推敲の関係で五回に分けて投稿する。土曜日には終わるだろう。
私の教員としてのキャリアは、都内にある中学校から始まった。大学を出てすぐだった。今思えば懐かしいが、あの時代に戻れたとしても今の方がいい。時代は進んでいる。
あの当時はアナログだった。電話はあるが、パーク保留(1機で複数保留ができる)といった機能はないし、パソコンは事務所に1台あるかないかだった。各学校にコピー機はあったが、今と違ってコピーされた物のコピーは悪手だった。印刷すればするほど色が薄くなる。濃淡調整機能などあるはずもなく。
学童についても、今に比べれば悪ガキがたくさんいた。今の子どもに比べると、暴言や暴力が明らかに多い。「人は教育を受けることで初めて人間になる」というのは、初等教育学のテキストにある基本的な考え方である。
さて、昔ではなく今の時代を観ていたいのだが、心がどうしても時代を遡ろうとする。この日記で表現したいことは、今から約十年前の出来事である。この度日記にまとめたのは、教委事務局に勤めていた時に最後に取り組んだ仕事のひとつである。残念ながら、教育そのものに関することではない。※当時の関係者は全員退職している。
要約すると、某地方自治体にある教育委員会の中に社会教育課というのがあった。その部署というのが、区役所の中のいわゆる問題のある職員が集まるところだった。区内の教員を指導する部門の長をしていた頃の私は、すぐ近くで醜い言い争いや、低次元な行為がなされているのを幾度となく目の当たりにした。
彼ら彼女らの言動には、ほかの教委職員も腹に据えかねていた。そして、ある年を境として、何度も本庁と協議・交渉を重ねた結果、教育委員会という組織から社会教育課を放逐することができた。
本当に苛々とした日々だった。その分、悲願が叶ったと知った時の喜びは至高だった。今でも解放感が脳裏に蘇ってくる。
これから私が話すことは、人によっては相当厳しい。負の次元に堕ちた地方公務員の姿を垣間見ることになる。それでもよければ、読み進めていただきたい。
私はもう経済社会を完全に引退している。書き綴る出来事もだいぶ前のことだから、元いた組織の迷惑にはならないだろう。何かあった場合は、私が責任を取る所存だ。
トピックについては、1.から6.まで用意している。具体的な職員のエピソードは2.~5.である。6.において、社会教育課との決着について書かせてもらう。
教育委員会(≒教委事務局。教委。以後は同じ意味として扱う)とはどんな組織か? というと、早い話が地方自治体の学校教育に関する意思決定と事務(企画・調整・一般的な管理行為)を行う組織である。
第180条の8 教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他教育、学術及び文化に関する事務を管理し及びこれを執行する。
教育長が責任者となって所掌事務や教育改革・首長への提言その他を総理し、教育委員が集まる会議(議会のようなもの)で可決された教育内容が自治体内の学校において実施される。
かつての戦争の折、行政の暴走行為によって学校教育が歪められてしまった経緯がある。地方行政の主体から教育の機能を切り離して、教育活動全般に関する権限を有する行政委員会としての役割を与えた。
実際のところは、市区町村の本庁舎の一部を間借りしている教委が大半である。役所の中に多くある部署のひとつとして位置付いている。
(指導課)…都道府県教委が教員の中から高査定者を人事異動させる
(学事課)…指導課のような教職員出身者と市区町村職員による合同チーム
(学童クラブや児サポ)…教委が有望者の中から採用・選定をして運営
そういうわけで、私の場合は上記でいうところの指導課(各学校の指導方針を所管)や学事課(学校事務を所管)に籍を置いていた。あれは、新卒で教育現場に配属になって十年少々だったか。ある年の人事異動で、そろそろ別の学校に異動になるかと考えていたところ、教委事務局への配属を告げられた。
それから数十年、学校現場に戻ったのは二度だけだ。一度目は中学校の教頭として、二度目は校長として。その前後にも、私はやはり教委に籍を置いていて、より高い視座から教育活動のあり方を見直すことや、新しい学校を作る、あるいは廃止するといった仕事に取り組んだ。
最後は課長級職員としてキャリアを終えた。その後は、いわゆる名誉職といった扱いの教育の仕事に数年だけ取り組んで、先日正式にこの仕事から引退した。
タイトルにある出来事は、社会人生活の中でも相当後半にあたる。都内にある中学校で教頭としての務めを果たした後、ある年の人事異動で教委事務局に課長職として配置された頃の話である。期間としては三年間だ。
教委事務局の中でも、ほぼ真ん中あたりの奥側に指導課長である私の席があった。「ようやくここまで来たか」と思いつつ、課員全員が見渡せるデスクに腰掛けようとした時だった。言い争う声が聞こえるではないか。何時かは忘れたが、おそらく正午前だった。
社会教育課の事務スペースで、複数の職員が言い争いをしていた。若い子と、中年ほどの男性・女性の職員だった。どういう構図かは全く覚えていないが、低い次元の話をしているのはすぐにわかった。公務員以前に、社会人として使うべきではない語彙や、極めて高圧的な物言いが見て取れた。
話し合い(口論)を少しばかり眺めていたが、最後は男性職員が女性職員から詰問を受け、ちょうどかかってきた電話を取る形で逃げて終わった。若い職員は、舌打ちをしてその場を後にしつつ、コピー機が設置してある台を蹴っ飛ばして事務室を出て行った。
『なんだ、こいつらは?』
心の中でそう思った。これまで配属された教委事務局の中に、こんな連中はいなかった。この市区町村の教委事務局で働いていた時もあったが、社会教育課は別のオフィスにあった。
社会教育課、という部署名は伝統的である。霞が関にも同名の部署があるほどだ。本来であれば、歴史と実績のある部署のはず。では、なぜこんな連中が……? と思って気になったが、その時は時間の無駄であると考えた。
だが、そういうことにならなかった。社会教育課は、私のいる課長机から10mも離れていない。しかし、毎週のように何度も何度も、大きい声で怒鳴るわ、悪態をつくわ、イベント行事で問題を起こすわ、用事で来られた区民を怒らせるわで、こちらとしても仕事がやり辛かった。
私と同じ教職員サイドの職員に詳しい者がいた。この教育委員会(T区とする。豊島区は関係ない)の社会教育課について聞いたところ、なんとなく経過がわかった。
・その場所ではひとつの課として独立していたが、不祥事が多かった
・監視の意味も兼ねて、本庁総務部の人事課が教委事務局の中に移した
といったところだった。この時は、まさかこの連中のためにあれほど頭を悩ませることになるとは思わなかった。
ここから先は、個別職員の話になる。2.以降に譲りたい。長く詳細に書いても読者が不愉快になるだけだ。できれば各三千字以内でトピックを終わらせたい。
話があちこちに逸れることも多々あろうが、何卒お許しを願いたい。
(次part)
片腕のない上院議員だった故ダニエル・イノウエもそうだが、あの部隊は決死の突撃を数人で敢行し、決死隊がデコイになってるうちに手りゅう弾山ほど抱えた後続が前進して陣地を破壊する戦術を取っていた。
イノウエも北イタリアの戦いでデコイとして腕が無くなった状態で3つの機関銃陣地に突撃してこれを陥落させてる。
日系人のガッツを見せるために戦場で戦ったイノウエはのちに上院議員となってアメリカの民族差別と闘い勝利した。
陣地に籠ってイスラエル軍の戦車中隊15両を待ち伏せるも、いい様に狩られて潰走……
イスラエル軍は1両鹵獲、2両大破、12両中破で戦闘不能。兵員は投降・逃走で敗北
ヒズボラ側も600人以上死傷。ちなみに世界初の実戦でのドローン観測砲撃はここで行われた
この戦いはキリスト教徒も共産党員もヒズボラ側で戦い、劣勢の中結束できたという稀な例
イスラエルってロクでもねえ国だわ