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「世界の100人」に宮崎駿氏 米誌タイム、上野千鶴子氏も選出
宮崎氏を「アニメ界の歴史で個人として最も影響力のある監督」と評し、最新作「君たちはどう生きるか」は多くの人を引きつける「名作だ」とたたえた。上野氏については著作が中国で人気となり、フェミニズムの概念を広めるとともに、結婚と出産を巡る重圧に抵抗する中国人女性らの「ロールモデル」になったと紹介した。
マルサス以来誰も出来なかったんだよ。
社会を変えた貢献はそれ以上では。
上野先生が文系のノーベル賞のいくつかを授与されても不思議じゃなさそう。
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
お前みたいな低能中小企業経営者なんてみーんな言うこと同じなので
そういう寝言は百回聞いたわ。
もっと言うと歴史的にも経営者ってのはそういうことを言い続けてきたわけ。
「安い児童労働力が禁止になったら誰が企業経営なんかしますか」
「労働時間の制限なんてされたら経営者はみんな首を括るしかありません!」
この程度のことも知らず、想像力もなく、
ありふれ切った寝言を「という経営側の意見を聞いたことがあるか」とかいって鼻息フンスフンスしてる時点で
お前が滅茶苦茶頭悪くて、世間が狭くて、もの知らずで、ゴミのような低能であることが分かっちゃうんだわ。
なんだろう、バカのくせしていっちょ前の口利くのやめてもらっていいですか?
ほんと目障りだし社会の害なんだよね。
あのさあ。
お前みたいなバカは客観的な思考や視点なんか持ち合わせないんだから
お前のパースペクティブからの超近視眼・超主観のポジショントーク以外しようがねえんだわ。
「ポジショントークをするつもりはありません」なんてのは主観と客観の切り替えが出来るそれなりに高い知能の持ち主が言うセリフなの。
別にここでの姿勢に限らず、お前の人生全部ポジション思考なんだわ。一生変わらずそうなの。頭わりーから。
どっちやねんw
■最低賃金が上がった場合、経営側の行動変化は以下になるでしょう。
まず「時給1500円以下の仕事」って言葉遣いで「あ、低能だな」ってわかるんですよね。
お前は絶対に、一人の労働者を雇ったときの経常利益を分析したことなんかないよな。
「時給1500円の仕事」ってなんやねんw お前の感覚、ドンブリ勘定だろ?
ゴミみて―な中小企業が未だにそういう経営してるのを俺はよく知ってる。
いやいやいやw
なんでそいつらに被せるねんw
な?どこまでも自分に甘くて筋の通らない変な思考を自明としてるのがバレバレだろ?
別にいいけどさ、生産性の高い人にその意味不明な理由で賃下げ勧告してもさ。
最低賃金が大幅に上昇してればより交渉力高い高技能労働者の市場も変化してるわけで
ただまあ、それ以前の問題として、そもそも最低賃金でピーピー言ってるような生産性底辺のチンカス商事に「生産性高い人」なんかいねえだろw
仮にそいつのポテンシャルが高くても糞みたいな立て付けの事業に従事してれば生産性はあがらねんだわ。
見栄張るなよチンカス。
それを目的とした政策なのも理解できないのでこんな意味不明なドヤ顔をする。
な?頭悪いチンカスだろ?
中小企業ってマジでこういう、その辺のF欄のガキより思考力劣るような生ゴミ経営者が結構いるんだわ。
※結果として以下のような社会情勢になることが想定されます
いーえー?
そもそもその状況で一番困るのってお前の会社みたいな生産性底辺のチンカス商事じゃん。
チンカス君の知能でもなんとかやれるような何の工夫も経営手腕もない事業なわけじゃん。
それで?w
いい大学出てたり高度な技能持ってたりする高賃金人材使いこなしてそれ以上の利益出すような事業がチンカス商事にあんのか?
ねえだろお~~~?
「ふん!なら高卒なんか雇わないもん!」なんて言ったところで、それ以上の人材なんか猶更使いこなせないし利益が出せない。
だからお前のようなチンカスは結局、最低賃金1,500円で高卒を使うしかない。
今まで頭も使わずに確保してた利益って実はただの搾取なので、そこが大幅に減っちゃう。
お前の実入りが大幅に減るし頭使わなきゃ潰れちゃう環境になるけど、まあ頑張ろうねって話。
お前よりはるかにもの知っててたくさん勉強して頭のスペックも高い経営者でも「想像」なんかしねえんだわ。
データ集めて、考えて考えて分析して、分析の手法がおかしくないかも何度もチェックして、それでようやく計画立てるのよ。
それに比べて
お前みたいに頭悪くてもの知らなくて思考法すら知らないチンカスちゃんが横着に「想像」して、的確な予想なんかできるわけねえじゃん。
「ボックンの気に入る未来」がせまーくぼやーって見えてるだけ。
お前みたいなのにポジショントーク以外できないってのはそう言うこと。
お前は客観的思考とか、客観的未来予測とか、無理じゃん。頭わりーから。だろ?
最低賃金で雇い続けないとなりたたないチンカス商事の「職業訓練」ってなによw
残念ながら、お前んところのゴミみたいな生産性の仕事に携わること自体が労働者の不幸にしかならねーんだわ。
もしお前のところでスキルが付くなら、スキル付き次第お前のとこなんかどんどん辞めていかないとおかしいじゃねーかw
いいかー?何のスキルにもキャリアにもならねえ仕事は職業訓練って言わねえの。
まして若者がお前んとこみたいなチンカス系中小企業に就職してしまうのは、
その若者がそれなりに出来悪いぼんくら高卒であっても社会の損失なんだわ。
実は、最低賃金上昇で失業率が上昇するってデータはないんだよね。
あるなら持って来てみな?
バカがデータもなんにもなく「想像」で言ってるだけだからそんなこと言われても困っちゃうだろうけどなw
さて、誰が得して誰が損するのでしょうか。
特にお前のような、最低賃金労働者に頼らないと困っちゃうような
何の能力もない生産性最悪な企業を経営して社会に害を撒き散らしてるチンカス系経営者。
何が言いたいんだ?w
チンカスは妄想も面白いな。そんな政治力のあるワープアってどこにいんのよ。
低能は陰謀論すらまともにやれない。トランプ信者の方がまだ辻褄合うという恐怖。
じゃあ得する人は誰か?
最低賃金ずーっと止めてる間に日本社会は一人負けして生産性では韓国にも負ける国になったんです。
日本の活力(笑)とかいう各種の優遇と最低賃金の安さのおかげで頭蓋に味噌のかわりにチンカスつまった低能が経営者でございしてきた。
そんなことのためにそれ以外の全ての人が迷惑する社会ができてんだわ。
[補足]
私は生産性が高くちゃんと働いてるのに収入が最低時給以下なのである!
という方もいらっしゃるでしょう。
まず「この政策を支持してるのは最低賃金のワープアである」っていうのが
でも実際はワープアじゃない人間にも支持するインセンティブがあるし、実際支持してるから大きな声になってるわけでな。
そういった方は、ご転職なさるとよいと思います。仮に転職しても給与が上がらなかった、あるいは転職活動をしても内定がでない。
という方はつまり「生産性が低く自身の生産性よりも収入の方が高い」という状態にありますからそのままでいるほうがおトクかと思われます。
これはもう使い古された詭弁だよね。
摩擦のない完全競争なら、1円でも時給が高い職場が現れたら次の日には労働者がみんなサーっとそこへ流れることになる。
けど実際にはそうなってないだろ?
労働者側の転職は容易ではないので、新古典派みたいな労働力の需要供給モデルは実際には存在しない。
市場競争を離れたところで賃金には下降圧力がかかってるから、最低賃金を設定する必要があるしそれを適切なペースで上げていく必要があるの。
(ごめんこの説明はチンカス君にはたぶんよくわかんねーよな。「バカは新古典派」はウソだわw)
実際に最低賃金を設定して上昇させ続けてる国はうまく行ってて、
最低賃金はあるけど全然上がらない日本は一人負けしてきたのが現実なわけでな。
まして最低賃金を撤廃するなんて言うチンカス政策はチンカス島にチンカス国立ててチンカス君の家族だけでやっててくれよ、な。
最低賃金を1500円にすればその人達も1500円の仕事には付けるのよね。
それだとチンカス系経営者さんが死んじゃうーー!? 死んだら?
別に生物的に死ねとは言わないんだけど経営者はやめたらいいじゃん。
一番ランクの低い労働者が時給1000円しかもらえないのは、そいつらが1000円の価値だからじゃなくて最低賃金がそこだからというだけ。
最低賃金が上がることで困るのって
生産性の低い事業しか思いつかないのに経営者をやりたいって言う身の程知らずで迷惑な低能だけ。
そんなチンカス経営者は会社潰して1労働者なりナマポなりになってほしいっていう、それだけなんだよ。
むしろ今までが甘やかされてただけだったんだし。
「俺の会社がつぶれたら失業者ガー」が最後のお決まりの抵抗だけど、
はっきり言って企業の倒産と失業率もそこまで相関関係ないのよね。
ダメな会社がつぶれたら、より生産性の高い企業が労働者を吸収していくよ。
ブコメにも「賃金が上がっても同じだけ物価が上がるから気分が上向くだけ」とか幼稚なブコメに星がついてて
バカはデカい顔をせずそれなりに弁えてしかし幸せに暮らせる社会
これを目指したいよね。
自覚無いバカがしゃしゃると社会の害だから自覚だけ持とうって言うそんな感じ。
チンカス系経営者くんも迷惑な企業経営辞めて1ナマポ・1労働者として生きてくれれば全然OKだよ。
おわり。
「人件費の上昇は使用者のお前がかぶるんだよ」←いや、最低賃金の上昇分は、経営者、株主、他の労働者、消費者等によって負担される。経済学で言う税の帰着と同じ話。
別にそれに異論はないけど、どこに転嫁出来るかってのがまさに経営者が考えることでしょ。
消費者に転嫁できるなら立派な経営者だわ。人件費向上で発奮して、付加価値の高い商品開発したんやろなー。
でも今そんなレベルの話してないだろ。
チンカス君の「生産性高い人の給与を下げる!」にそういう経営者の責任感とか合理的な判断とか感じる?
強い被害者意識と自己中心的で支離滅裂な思考しか読み取れねーよ。
単に「最低賃金を上げるなんて我々への不当ないじめ!ならば自分より立場弱い誰かに押し付ける!」って鼻息荒い被害者面で吠えてるだけ。
そうじゃなくておまえが頭使って転嫁先を考えたり稼ぎ増やしたりするんでちゅよー、それが経営者の仕事なんでちゅよー(出来ないならおまえがかぶって死ねや)、って説諭してんのよ。
ついでにいえばこいつ
「最低賃金が下がったら生産性高い人の賃金が上がる」とか大ウソぶっこいてるじゃん。
搾取強めて浮いた利益から割り増し給与なんて払うと思う?こういうやつが。
「僕の経営手腕で稼得した利益だぞ!」って本気で思い込んで終わりよ。
そういうレベルの話をしてるのを読み取ってほしいな。わかるように書いてあるはずだよ。
左翼の人達がちょっと気に入らない相手だと「下」に規定して侮蔑するのを何度も何度も見た。
知能が下とか経済的に負け組とか学歴が低いとか異性にモテないとか。
これを見た瞬間に感じるのは左翼のほうが数段難しいということ。
左翼をちゃんとやれるぐらいに人類が種全体で進化出来たら左翼の方がすばらしいのはわかる。
けれどもそれは絶対無理なので左翼は捨てて、右翼にも警戒し、なるべく中道を探るというのが現実案になるのだろう。
このように左翼になるか右翼になるかの二つに一つだよ、のように
整理してると見せかけて選択肢をその二つに絞って提示するのは嘘だし有害だよなと。
左翼か右翼のどっちかにならなきゃ駄目といわれたら政治に足を踏み入れたくなくなるだろう。
左翼おじさんも右翼おじさんも自分達の醜態に気づいてない&自分と自分の敵以外の道が無いと思ってるところが老人だと思う。
『労働者』と『資本家』ならそう書くべきところを「下と上」と書いた以上はそこに別の情報や別の意図を見出すのは当然(今回取り上げた人だけが使ってる言い回しでもない)であって、『労働者』と『資本家』だとして読むべきなんだよ、と言いだされても困る。『労働者』と『資本家』があまりにもアナクロになったので別のアングルや別の敵を求めた結果「下と上」のような言い回しが使われ出してるのであって、個人の言い間違いではないのだから。
別の人が(後出しで)「って話なんだけどね」と別の話を言い出してるわけで、それは別の人の別の見解として自覚を持って言ってるならいいけど(それを私に言われても困るんだけど)、元となってるnagaichiさんやそれを支持する人たちについて解説・擁護してるつもりならおかしいよね。
そのとおり。「本来の意味」や「本来の用語」を捨てたことには必ず意味や秘められた意図があるので「下と上」について論評するのであり、そこに「正しくは資本家と労働者だ!」なんて基本的なことをドヤ顔で言われても困るのであり、一人目の人はもうちょっと考えてから書いてほしい。
この人は、本文で言っている平等が「同じ程度に心が弱い」という人間の仕様の根本の話をしていることを理解できず、偏差値や知能のような末梢のスペックの話を思い浮かべてるのだと思う。
そういう単純で硬直的になったパラダイムに反対する、という話も読めてないのだと思う。
残念ながらそういうきれいごとは結果的にとっくに嘘になっていて、「下と上」というパースペクティブを持つせいでひそかに(または公然と)人間に上下をつけることは左翼の方が右翼より激しくなっている面すらある。
右翼は自分達の”当然の権利”を守ろうと言う権利護持活動になっていて、左翼は”下の者”にわからせようという劣等攻撃活動になるという転倒現象を見たことがない人は少ないと思う。
左翼が”下の者”を苛烈に侮蔑して興奮しているのを何度も見ることは冒頭に既に書いた。
左翼が右翼に劣ると言ってるのではなく、同じ人間なので同じ程度の知的能力があり、思想は左翼思想のほう目的地も難易度も高いために人間に実装すると左翼のほうが嘘や矛盾が多くなる、という話をもう1回繰り返す羽目になった。
この方も。本文の「能力」が何を示唆するか読解できずに学歴等の話だと思い込んでる時点であなたの好きなそういう末梢の指標で言えばあなたは劣等だよね。(個人的にはあんまりそんなところに意味は感じないんだけど私の偏差値はたぶんはてなの殆どの人より高いです。)
元のコメントは恐らく松尾匡先生の言葉を引っ張ってきていて、そこで言う上、下は資本家と労働者階級のこと(松尾先生はマル経なので) 世界を一面的に切り分ける方法が人により違い、それが思想になるということだ
その思考法やカテゴリ分け自体が脳硬化した老人のパラダイムなので若者にいきなりぶつけて若者の脳味噌を狭めないでほしい、という話をしているんです。
実際多くの人は完全な右や左の思想を持ってる訳ではなくて、話題によって賛成も否定も無関心ある。どんな政党の主張でも政策ごとに支持も不支持もする。一部のネトウヨやアベガーの人達が超現実を生きているだけだ。
おっしゃるとおりなので(ネトウヨとかアベガーすら脳硬化の香りがするので好きな言葉ではないが)、政治の話と聞くと古臭い二分法パラダイムを持ち出す(右や左と言う分け方、右の中で内や外、左の中で下や上という分け方、)人がしゃしゃりでて人気上位コメントになる現象の老人臭きつすぎると感じる。
「わしらと同じ単純な切り分けをしない奴は半端もん」。老人怖すぎでしょ。
Cunliffe 間違いなく下半分というか1割に入ってしまうネトウヨ、リフレカルト、ニセ科学批判カルト、原発推進派に憐れみ掛ける奴なんていないでしょ。 これはひどい しねばいいのに こいつバカ
「左翼はそんなんじゃない」とか白々しくとぼけられるとめんどくて困るので実例ありがたいです。
filinion 「下の味方」というのは、貧困層やマイノリティなど社会的弱者に味方する、という意味であって、倫理的に下劣な人間の味方をするという意味ではない、というだけの話。経済力や知能が低い人は社会の保護が必要。
だからそうやって「倫理的に」「下」とか「劣」とか見極める能力や資格があんたにあると思うのは巨大な思い上がりで、一度そういう思考法を許したが最後「下」や「劣」を見下すことに熱中するしょーもない人間に成り下がるんじゃないですかね。
というかもう成り下がってるからこういう話が理解も出来ないし、理解できないなりに自分達の”権利”に是非をかけられて脅かされてることだけは敏感に察知して激しく反発してるんだよね。
っていうのも何様なんだよ。貧乏人や低知能がいつあんたみたいな偉そうなだけの無能に救われたいなんて言ったかね。幻聴もいい加減にしたら?
しかもさ、「社会的弱者に味方する」とか見栄切っておいて「社会の保護が必要」ってずいぶん後ずさった他人事じゃん。
実際あんたはあんたの言ってる「社会的弱者」や「経済力や知能が低い人」を助ける活動を何か日常的にしてるの?偉そうな勘違い馬鹿でも最低限それをやってるなら認めるよ。
たとえば毎休日つぶして貧乏な家の子のために身銭や労力切って食堂や寺子屋やってるならそういう左翼は超尊敬する。してるの?どうなの?
ほっとんどの左翼はしてないよね。毎日毎日人助けもせず暇な時間は全部ネットにつないで「下」を見下してるだけじゃんか。あんたらが何の役に立ってるんだよ?
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。
小生はもともと洋楽派で
ですので、あまりJPOPなどは聞きませんし、歌詞自体にあまり関心がありません。
ただ、街中にいたりショッピングでお店に入ると、
今が旬のJPOPが耳に入ってきます。
よく聞くフレーズ
「あなたに会いたい」
「一緒だよ」
ボキャブラリが非常に少なく、
みなさん、この光景ってどこかで見たことございませんか?
橋本「コラとはなんだコラ!」
長州「うるさいタコ! コラ!」
長州「なんだと、はすもと! ....」
以降、延々二人で、「この野郎」「コラ」「タコ」という、ほぼ3単語をフルに駆使し、論争を挑みます。
このコラコラ問答で見えてくるボキャビル量と近年のJPOPの歌詞のそれとの間には、
川端康成などをもっと読んで、表現・言い回しを学んでほしいのです。
なんだと!コラ!
精神的自由についてだけど、教養の少ない状態っていうのは、自分の経験によってしかものごとを見られない、極めて不自由な状態なのね。自分自身の意志に従って行為していると自分で思っていても、その判断基準は、偶然自分が通ってきた経験によって大部分規定されている。
ものごとについて一つの視点からしか見られないってことは、「立場が違う他人にとってそれはどういう意味を持っているのか」ということを考えにくくするし、全てのものごとを自分にとっての損得や好悪で判断しがちになる。自分に縛られた状態だな。
この「他人」っていうのは同時代の人々だけでなく、過去や未来も含む。特に、今ある世の中の仕組みや、産み出された作品っていうのには、それを作り出した人々がいるわけで、それを作り出した過去の文脈からものごとを眺められると、自分視点だけで見ていてはわからなかったことがわかるようになったりもする。
専門を学んでゆくことでその分野についてのパースペクティブは得られるけれど、日常生活や社会を成り立たせているのはひとつの専門分野のアウトプットだけじゃないからね。
もちろん、人間、完全に他人の視点を獲得するなんてことはできないんだけれど、少なくとも自分を縛っているものが何かについて自覚的できれば、その外側に踏み出して眺めてみるって努力もできるだろう。そうする時、少しづつ自由になってゆく感覚があるよ。
最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。
また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。
また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。
彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう
最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。
彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう
今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。
また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。
その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。
今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。
企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。
生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。
たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。
駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。
彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。
初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。
昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。
痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。
>>在韓米軍従軍慰安婦はアメリカ兵も2000年代に入っても利用してたって負い目
こういうデマに引っかかってるから、勝てるポイントすら見逃すんだろうか。
>>民間レベルでイメージ戦略するならタイライハンを広めて、こんなことをやった韓国政府がイチャモンつけてるだけですって方が強い気がする。
全然違う。まじで、こんなふうに捉えてるから、負けてるんだよ。
「なるほど、韓国はベトナムにひどいことをしたんだな。」→「つまり、韓国が日本の慰安婦問題にイチャもんつけてるだけだな」ってなるかよ、どんな論理だよ。
そんなのは、日本の都合のいい右翼の脳内にしかない論理構造だよ。なんで、気づかないんだろう。
そこはあんま効果的じゃないポイントだって。「韓国にも黒歴史があるんだろ」ってのを指摘できるってくらいのポイントだよ。韓国にダメージを与えれるけど、日本の慰安婦問題にメリットはない。
一方、「韓国の朴正煕自身が米軍基地村で慰安婦を管理していた」ってのが、日本の慰安婦問題に対するパースペクティブを変えるうえで圧倒的に重要な事項だと思わないのか。
多分、この感覚は英語でニュース読んでたら分かると思うんだが。というか、読んでなくても、海外の人たちがどう捉えるかくらい想像つくでしょ。
はっきり言って、この「朴正煕が米軍慰安婦を管理していた」ってのが、「まともな」欧米メディアが取り上げたら、英語圏でめちゃくちゃバズると思う。そんくらい感覚にズレがある。
俺はそうなるのを願ってる。だから、日本人がもっとこの事項に絞って、騒ぎを大きくしろ、そうすりゃ韓国も反応するし、欧米メディアも取り上げるのに、と思ってる。
いま20代後半の君は、そのちょうど1/3を「消費した」ことになる。
時間は戻らない。
1/3も、もう使ってしまったんだ。
そのことについてどう思うのか?
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生誕 ▼なう 還暦 死亡時刻の期待値 ほぼ100%の人間がここまでに死去
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こういう図で考えてみると感慨もひとしおではないのか?
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さて、死亡時刻の期待値までの三等分されたライフステージに適切な名前が欲しくないか?
第1ライフステージを「準備期」と名付ける。
育児を受けて成長・発達し、教育と社会経験により知識・技術・考え方を身につけ、自立した一人前の大人になるための準備期間だ。
この準備期の最初には学習と模倣が知的活動の主体だが、最後に近づくにつれて思考と決断が知的活動の主体となっていく。
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第2ライフステージを「発展期」と名付ける。
準備期で身につけた知識・技術・考え方を用いて、自己実現と社会貢献をしていく期間だ。
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人生の後片付け。やり残したことをやることで、心を安定させる。
また、趣味に打ち込むことで精神の深い部分での「安定」を図る。
そうすることによって、「現実」を納得でき「死」を納得できる境地に向かうことが望まれる。
いまの君には分からないかもしれないが、身近な人間の死を繰り返し目の当たりにすることで、
死をいやでも意識するのであり、死の納得が大きなテーマになるのである。
そして死の納得は生の納得ひいては現実の納得でもある。
老後の趣味というのはそういう側面が強い。
.
参考 孔子のことば
.
『子の曰く、吾れ
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、
矩を踰えず。』
.
わたしは十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持ち、
四十になってあれこれと迷わず、
六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、
七十になると思うままにふるまって、
それで道をはずれないようになった。
著者はドイツ系アメリカ人。原著の刊行は1998年で、世界中の専門家の間に論争を巻き起こした。
本書におけるメッセージは、冒頭書き出しの1文に凝縮されている。
本書において私は、既存のヨーロッパ中心的な歴史叙述および社会理論をグローバル学的パースペクティブを用いて転覆しようと思う
「西欧=先進国、アジア=発展途上国」という、我々が慣れ親しんだ世界の図式は、たかだかここ200年程度のことに過ぎない。西欧諸国はむしろほとんどの期間を通じて世界の傍流にあった。本書において、著者はこのことを繰り返し強調する。
フランクは、まず1400~1800年の交易データを検討し、次のようなことをインプリケーションとして述べている(2章)。
最大の経済大国は中国だった。中国は絹織物、陶磁器、水銀、茶の生産などで圧倒的な輸出競争力を誇っていた(全地域に対して貿易黒字)。インドも負けてはおらず、綿織物という輸出産業があった。東南アジアも同様、香料や胡椒があった。一方で、ヨーロッパはアジアに対してほとんど何一つ輸出競争力を誇る製品をもち得なかった状態で、一貫して貿易赤字を計上していた。その結果、欧州から中国などアジア諸国への銀(貨幣)の流出が常態化していた。しかもこの銀も、もともとはアメリカ産のものを奴隷貿易でぶんどってきた物だから(当時、銀の主要産地といえばアメリカ大陸と日本ぐらいしかない)、ヨーロッパ自体は、実は世界交易について何ら価値創出に寄与しなかったともいえる。
また、大航海時代以降、海上ルートがユーラシア大陸の隊商交易にすぐさまとってかわられたという主張も、誤りとして退けられる。アフリカ周航のルートは陸上輸送とくらべて決してコストが安かったわけではなく、ポルトガルの喜望峰周りの交易も短期間しか続かなかった。(223p)
定量的には複数の歴史家の推計を引き合いに、アジア諸国の生産性の高さにも言及する。曰く「アジアは1750年において、依然として世界人口の66%未満であったが、世界総生産の80%を生産していた。つまりアジアは欧州、アフリカ、アメリカよりも生産性が高かったことが示唆される」(p305)
科学技術についても、近世以降は西欧がアジアを優越していたという”常識”を西欧中心主義の誤謬だと批判する。例えば、当時の「ハイテク産業」でもあった造船業。中国の船は、ヨーロッパよりずっと数が多く、かつ大規模で、長期り輸送が可能な代物だった(342p)。印刷業も、中国は世界のどこよりも早く木版印刷を開始し、1500年代の早くには5色刷りの技術が存在し、日本や朝鮮に技術を輸出していた。
そうにもかかわらず、「世界経済の中心国が16世紀はポルトガルで17世紀にオランダに移り18世紀にイギリスに映った」などという、まるでヨーロッパ人によって一貫して支配されていたかのような馬鹿な議論(ウォーラーステインの「近代世界システム論」])がまかり通っている。しかし「1688年に、アジア間の交易のボリュームは、いつかのインドの港からだけでも、すべてのヨーロッパ交易を合算した交易よりも10倍も大きかったのである」(p320)
であるならば、なぜ近代以降の世界経済をの主役はアジアではなくヨーロッパだったのか。この点についてフランクは6章で100ページにわたる議論を展開しているが、正直ピンとこなかった。その骨子は「アジアの景気循環的な衰退期がたまたま西欧の勃興期と重なった」というもの。まさかここで「コンドラチェフの波」を引き合いに出すとは思わなかった。これはひどい
その他、素人目に見て反射的に気になったのは4つ。
1.「一人当たり生産性が近代までアジア>西欧だった」という記述について。これの反証となるようなデータは俺でもすぐ見つかる(例えばアンガス・マディソンの推計「The World Economy」)。むしろ地域間の一人当たり生産性は、まだ優劣に決着がついていないとするのがおそらく妥当なところではないか。
2.貿易収支の考察について。1400~1800年までの2章の部分、「中国はどの国に対しても貿易黒字だった。その背景には圧倒的な輸出競争力があった」と著者は言い切っているが、ここもまた留保が必要だろう。中国の貿易保護策の影響はどうだったのか。そもそも、中国がそれだけ例外的な貿易黒字を確保していたのならば、中国のマクロ的な貯蓄率はかなり高かったといえるだろうが、その辺は、当時の中国史の中で言及はされているのだろうか。
3.フランクはまた「アメリカの豊富な銀資源を搾取してアジア世界の交易に割り込んだだけ。ヨーロッパ人自体に富の増大をもたらすようなものは何もなかった」と強調する。これも逆差別の感がある。資源や強力な輸出産業はなくてもヨーロッパ人は知恵を絞って自分のところに富を惹き寄せた、という解釈もできる。「ビジネスの仕組み」を考案した彼らの力については、それ自体十分競争優位になっている気がするがどうだろうか。
4・「オリエント」地域にあるヨーロッパの支配地域(インドにあるイギリスの所領など)を考慮にいれても2章の結果はロバストか。
5. では、近代以前のヨーロッパにおいて、オリエントに(経済力、軍事力、知識等で)負けているという認識はどれほどあったのか。NOならばそれはなぜ?YESならば、彼らはその状況をどういった風に克服しようとしたのだろうか。
1億人のチューチュートレインは、50cm間隔だと軸長が5万キロメートルになる。これは地球の赤道を1周と1/4する。したがって地上でチューチュートレインをやっても、その全貌を見ることは出来ない。仮に宇宙空間で出来たとしても全員に一糸乱れぬ動きをさせるには、同期の問題が発生する。
5万キロメートルは、光の速さでも1/6秒かかる。したがって、端でそろった動きを見るためには、光の遅延を勘案した動作指示が必要になる。
なお、パースペクティブの影響を緩和するには、端からある程度の距離をとったほうがいい。たとえば、地球・月間の距離程度は必要であろう。
われ発見せり
かつて真木悠介が『現代社会の存立構造』においてサルトルや廣松渉を踏まえて指摘していたように、疎外と物象化は労働の出来事なのではない。一般的等価物としての貨幣への物象化とは、貨幣経済としての資本主義、そしてその下で生じる労働疎外という現象の別の名なのだ。この両者の根底には、紙幣への物心的崇拝が潜んでいる。
ところで、二クラス・ルーマンによれば、近代社会とは社会的機能の機能分化が徹底して行われた社会なのだという。この徹底した機能分化により、教育や政治、経済、法、宗教などなどといった機能システムはそれぞれ他の機能システムとは無関連に自律的に作動するようになった。また、こうした特徴を持つ近代社会にとって、「社会を維持すること」とは「コミュニケーションを維持すること」を意味するようになる。そして、このコミュニケーションの接続にとって重要な鍵を握るのが、コミュニケーション・メディアと呼ばれる特殊なメディアなのであった(主なものとしては、経済システムにおける貨幣や、家族システムにおける愛などなどがある)。もしルーマンの言うように、現代社会が機能分化した諸機能システムと、その内部におけるコミュニケーションによって特徴付けられるとするなら、私たちはもはや物象化と疎外についても、それを経済領域だけに留めておくことはできない(また、当然ながら、経済領域は「土台」なのではない)。したがって、疎外/物象化論はその他の機能システムへも敷衍される必要があり、それぞれの機能システムにおけるコミュニケーション・メディアにおいて疎外/物象化が論じられなければならない。たとえば、「愛」をめぐっては、そこからの疎外として「非モテ」が論じられているが、しかしこれは「愛」というメディアへと関係性の価値を物象化、物神化しているがゆえに生じる議論なのだ。多極化/疎外状況を捉え、象徴的メディアへ批判を加えること。それが今なお可能な「唯物論」だろう。
編集後記 今回の徹底議論のタイトルにある「スカラベ」は『マルドロールの歌』に由来すると同時に、等しく『中島らも列伝』に依拠する。太陽をころがして地平線に消えたスカラベは、暗闇のトンネルを抜けて、今はまたここにいる。永遠の不断製。生者と死者は分かたれず、反転されたパースペクティブにおいて過去はそのままで未来だ。※中島らもという作家は他者を知らない。彼に語りかけられる言葉は彼の言葉であり、またそれは私の言葉として偶然に開かれるページに飛来する。だからこう言おう――「私はスカラベは知らない。そして知っている。」※特集にあたって多大なご協力を頂きました中島美代子氏に感謝します。(Y.S)
ユリイカ 2月号 第40巻第2号(通巻547号)
発行人・清水一人
発行所・青土社
101??0051東京都千代田区神田神保町1??29市瀬ビル4階
電話・編集03??3291??2806/営業03??3294??7829
ISSNS 1342??5641
定価・1300円(本体1238円)
Eclipse経由を諦めてAptana IDEをそのまま使うようにした。
なんかこれは、まんまEclioseなのかもしれない。同じコードから作られてるのかな?
使いやすいよ。
昨日の続きでこれをやった。
Windowsで簡単にRuby on Rails:Instant Rails+Aptana
http://japan.zdnet.com/sp/report/story/0,2000056431,20352478-3,00.htm
まずは、図11のようにテーブル名の単数形である「category」、「recipe」でそれぞれモデルを作成する。「GO」ボタンをクリックするだけだ。
まったくもって何を言っているのかわからない。
そして図11なる画面をどこで呼び出すのかもわからない。
「みちこさん?パソコンを立ち上げるっていうのは縦に置けばいいのかいのぉ・・・?」
つまりはそういう感じだ。
うりうり探してたら、初期表示画面の画面下部のタグにGenerators画面があった。
scaffoldって絞首とか処刑とかそういう意味じゃなかったっけ?
で、なんなんだ!?
なんだかよくわからないまま連載終了。・・・くっ。
Aptana Eclipseプラグインで始めるRuby on Rails
http://blog.codezine.jp/editor/2007/06/aptana_eclipseruby_on_rails_1.php
前にも見たことがあるこれにもどってきた。
現段階の環境構成でAptana IDE経由でRubyのHello Worldを試す。さくさく。
おー。
この一連のコラムが、いままでの中で一番わかりやすかった。(目次はわかり難い)
http://blog.codezine.jp/editor/2007/08/ruby_on_railsscaffold_1.php
Aptana IDEのブラウザ内臓ってどこから呼び出すんだろ?
→下部WindowにあるServerタグのところにアイコンでLunchBrowserというのがあった。
設定ついでにワークスペースにエンコードの設定の欄を発見。utf-8に変換した。
(エンコードの状態をステータスバーなどに表示させておく方法はないのだろうか?探したが見つけられなかった。)
Generatorsタグが消えてしまった。
→パースペクティブがRubyになってた。これをRuby on Railsに。
Rake tasksを実行したりするとGeneratorsのプルダウンが出なくなる。なんでだろう?
なんとかならないものか。
http://blog.codezine.jp/editor/2007/06/ruby_on_rails_migration1.php
RailsではmodelファイルはDBのテーブルと対になります。
いわゆるO/Rマッピングというやつです。
へーーー!!そういう意味だったのか。
IDE系統でメモリ食ってるのかな?落とすと300MB近くあく…。
1Gまでもっていかれちゃうと終了もままならなくなるので注意が必要そう。
Hello worldレベルでこんなんなってちゃ世話ない。
複数を組込むにはどうしたらいいのだろうか。
さすがにheader/detailでDB参照したい。
追記:なんか少し調べたけどもしかしてRuby on RailsってO/Rマッピングオンリー…?
そんなまさか…。いや、いくらなんでも…。
http://www.web-career.com/seminar/ruby_on_rails.html
作る内容をもっとシンプルなアイディア勝負なヤツに変えようとおもう。