はてなキーワード: 等価とは
普通にジャンプして着地したとき、相対速度で考えると、その人に対して、
地球の運動エネルギーが着地する瞬間のその人が落下する速度と同じだけの二乗掛ける地球の質量の半分だけ流れ込んでくることにならないんですか?
なるとすればそれは電車にひかれるより明らかにはるかに大きい運動エネルギーが人体にかかることになって木っ端みじんじゃ済まないはずなんですが、実際そうなってないということはこの運動エネルギーの考え方は間違ってるわけですよね。
どう間違ってるのか具体的に教えてくれませんか?一応高校物理は高校のころアクセスは全部解いて理解した経験があるぐらいには身についてるはずなんですが。
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地球自体がこちらにジャンプの速度で迫っているならそうなるでしょうが人間側から近づいているので地球にほとんどの力が流れまし地球は動いてないので人間側に地球の質量の半分が流れる事はなく地球内で人間の質量の半分のエネルギーが霧散して終わります
電車なら電車が人間にぶつかったとしてもそのダメージは電車にはほとんど行かず人間にエネルギーが流れる為ですね
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人間側から近づいているってことと地球側から近づいているってことは物理的には同値じゃないんですか?同値じゃないとすればどうやって区別するんですか?
人間からみればまさに地球がこちらが着地する速さで近づいてくるわけじゃないですか。
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運動エネルギーがあるかどうかですね
人間側がエネルギーを持っているのでそのエネルギーを地球にぶつける事になるので
人間にぶつかっても人間には地球に当たり反発した一部のエネルギーしか帰ってこないわけです
その為地球と人間どちらがエネルギーを持っているかの違いでダメージに大きく差があるわけです
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でも、人間の質量をm、人間が着地したり電車と衝突するときの速度をv、電車や地球の質量をMとしたら、自分の理解してる範囲で公式を適用すると、人間が持つ運動エネルギーは(mv^2)/2、電車や地球が持つ運動エネルギーは(Mv^2)/2です。
人間と電車の衝突と、人間の地球に対する着地は、数式上は等価に思えます。
そうでないとすれば、そもそも公式の適用の仕方に対する先生の教え方が不適切としか思えません。こう理解してる人は私以外のも絶対一定するいるはずです。そういういわば「理解の本質」を問う問題を出さないから点は取れるというだけでね。
なかなか日本の美術館で作品を心ゆくまでじっくりと鑑賞することは難しい。
私のように気の弱い人間には。
そういう人間にとってじっくりと作品を見れる機会が得られるのであれば高価なことと等価の交換価値があることだろう。
また、これは順序が逆になってしまったが世界中の作品が家に居ながらにして鑑賞できるというの素晴らしいことだと思う。
もしも本当に現実に自分の目で見るような、あるいはそれ以上に高精細に作品が鑑賞できるのであればそのためのチケットを購入するのも当然のこととして受け入れる。
返信ありがとう。
知的障害や認知機能の低下によって自由意志の表明が困難な場合というのは難しい問題だが、たとえば自由意志を表明する能力がない人間には契約をする権利がないわけで、安楽死もそれに準じたものとして考えるほかないと思う。認知機能の低下によって意思表示が困難になった(けれど痛みだけは感じている)場合は、ブコメでも出ていたが、事前の意思表示を尊重するというのも考えられてよいかもしれない(もちろん、その意思表示が「最後の瞬間まで治療しろ」であれば絶対に安楽死させてはいけない)。
植物状態については、なぜ植物状態の人を安楽死させる必要があるのか? 以外の答えができない。俺の理解が間違っていたら申し訳ないが、植物状態というのは完全に意識がなく、したがって痛みや苦しみを一切感じない状態であるはずで、そうであるなら安楽死の必要なんて存在しない。安楽死は避け得ない痛みや苦しみを終わらせるための制度であるべきで、植物状態の患者には不要だ。
人を助けないことと人を殺すことは等価ではない。たとえば、見ず知らずの他人が道で倒れていても(あなたが轢いたのでない限り)救命措置を行う義務はないし救急車を呼ばなくとも罪ではないが、その他人にとどめを刺すことは許されない。
仮釈放、というのは、受刑中の受刑者を「仮に」刑務所から出して一般社会で生活させることを指す。当然、これはあくまで仮の釈放なので、たとえば仮釈放中に万引きをしたら刑務所に再収容される。この場合、たとえば移送先の所外の病院で「やっぱ安楽死は嫌だ」という意思表示がなされたら、仮釈放を取り消して医療刑務所に再収容すればよいのではないか。
どのような終末のありようが健全かというのを、国や社会が押し付けるべきとは思えない。大事なのは、積極的な安楽死は能動的に他人の生命を奪う行為なのだから、実装するとしたら本人の意思表示に基づくべきで、本人の自由意志に基づかない安楽死はただの殺人である、という点だ。ここは譲ることができない。
からでしょ(恋人や夫婦のあいだでは、ムードを大事にして言葉で同意を取らずに身振りでOKを示すことはよくある、と風の噂に聞く)。公証人なり複数の医師なりが同席して定められた手順に従って意思表示すりゃいいんだよ。
医者がやるとしてメンタルへの負担すごいだろ。慣れるものでもないし。意思を尊重して欲しいから貴方には殺人者になって欲しい、って感覚もよく分からんのよな。
安楽死については応召義務の例外とし、個々の医師による安楽死拒否を事前に明示しておいて、安楽死しません派の医師は安楽死を拒んでも可(ただし土壇場で拒否するのは禁止)としたうえで、地域の基幹病院とかには安楽死を受け入れる医師を一定数確保することを義務づける、とかどうだろうか。
本当にその二つの言葉が等価、もしくは比較に足るものだと思っているなら、
俺は心底がっかりするよ
「正気を失っている」ってのは、どちらかというと心配も含んだ言葉なんだよ
おまえは本当に錯乱している
呼吸を整えて落ち着いてもう一度読み返せば話題に復帰できるかもしれない
対するおまえは「発狂している」だ
話が通じてないなと思っていたけどな
俺はお前に最低限の敬意を払ってきたつもりだ
おまえは、ここまでお前の相手をしていることに対する敬意がまったくないよな?
だからもう、お前の話には付き合わず、からかうことに専念するって言ったんだよ
呆れて諦めたんだよ
そうやってADHDは見放される
俺はお前を見放しただけで、一連の会話にとする新局面があらわれたわけでもないんでもない
なぜなら、お前は俺の質問にそもそも答えずに5回以上逃げているからだ
話にならないんだよ
ブラックホールの特異点では質量が一点に集まるために重力が無限大になるといわれている。
「一点」とは数学的に面積や体積を持たない点である。そこに質量が集まるとなるとたとえそれが1gだとしても重力が無限大になるバグが発生する。
これはゼロ除算の結果が無限大になると無理矢理定義してしまった状態だといえる。
もし現実的に質量が一点に集まるとしたらその計算方法を新たに考えなくてはならない。
そもそも「無限大」は具体的な数値ではないので精確な計算はできない。
問題としてまず重力が無限大ならこの宇宙のすべてに無限大の重力が反映されないとおかしい。即ち特異点が生まれると同時に宇宙全域がブラックホールと化す。
しかし無限大になるのはあくまで一点だけなのでその影響範囲も一点の中に収まると考えると矛盾はない。
実際に宇宙全域がブラックホールになっていないのを見るとそう考えるのが妥当とも思える。
特異点を除外した物理の考え方では重力が無限大とは質量が無限大に相当する。
無限大に質量が集まることはないし、そんな天体が存在するとすれば慣性の法則で軌道を変えずにまっすぐ進む。
数学では一点は一次元として扱われる。もしかしたら特異点は次元が折り畳まれ一次元になっているのかもしれない。
影響範囲が限定的でない(一点に収まらない)場合は元の質量から重力を計算できそうだが、そうなると特異点を否定しなければゼロ除算の問題が残る。
・私の予想
E=mc²
ブラックホールの中心では物質はエネルギーに変換され存在しているのではないか?
宇宙初期にエネルギーから物質が生まれたようにブラックホール内部の極限環境で物質がエネルギーになったとしてもおかしくない。
しかし、質量mを持った物体がmc^2だけの力を有するので、質量とエネルギーが等価であるというのは一般に知られているから、「質量mと加速度aがFという力になる」とってもあながち間違いないのでは?
常々思っていること。
「数学」と「物理」は、同じように「数式」を用いて表記するが、その意味するところ、読み方は大きく違う。
1+1=2
この右辺と左辺に因果関係も上下関係もない。1と1を足したら2になるし、2は1と1に分けられる。
F=ma
と書くとき、ここには「読み方」の順序がある。
ニュートンの運動方程式の場合は、左辺が「原因」、右辺が「結果」を意味している。
「Fという力が加わると、質量mの質点に、aという加速度がかかる」と読まなければいけない。
決して、「質量mと加速度aがFという力になる(?)」という意味ではない。そんな因果はない。
こういう、数学的な等価性の読みを、数学以外の科学に持ち込むことで、混乱を招いている状況が非常に多い気がする。
等式の左右は同値であっても平等ではないし、プラスとマイナスはただ符号を入れ替えたものではない。
数式は、科学を記すにはまだちょっと不完全な方式なのではないかと思うね。
※追記