はてなキーワード: 自己実現とは
趣味の場で週2回会う同年代高卒自営業(彼は斎藤や立花支持)からの情報だけなんだけどさあ
まず
20くらいの市の市長が連名で斎藤に反対の声明だしたって聞いて
うわーそれはマジで不味いと思ったんだよな
異様な印象を刻み付けるだけ
「斎藤さん」「立花さん」の解像度になってる親しみのある人物像と
こんなの本当にガキでもわかることだぞ
「指図された」になるのはまだいいほうで
無能すぎるだろ
それで有田ヨシフとかしばき隊とかが兵庫入りしたのもダメすぎた
俺は立花と有田としばき隊は区別なく同レベルのアレだと思ってるけど
この間の選挙でもそういう行儀悪いオールド左翼の候補や応援体は総崩れだったんだから
世間はもうあの手の人たちにたいして明確にマイナス好感度だってわかったろ
だから稲村を勝たせたいなら家でじっとしておくべきだったのに
彼等の参戦を狂喜して拡散したのは稲村応援側じゃなく斎藤応援側だったよ
「あれが敵陣営ならやっぱり我々は正しい」ってなもんよ
どっちも方向性のある人たち
そしたらより人間味を感じさせて
より解像度の高い語り口の方に親しみ持つに決まってんじゃん
そういう「信頼」を毀損されきってて
口のうまさや距離の近さ対決になってるわけ
そしたら立花には勝てないよな、
だってメディアの中の奴らは大体あのトップチンピラより無能だもん
気迫胆力場馴れ口の上手さ顔の近さ
近代社会は健全なジャーナリズムってものがそれを封じ込める筈だった
でも実際にはマスメディアって全部クソだろ?
現代はメディアの中の人間一人一人の知能や人格に触れられてしまう
社会の木鐸でもなんでもない、
頭が悪いのに思い上がった老人がだらしない人格で片寄ったこと書いてる落書き帳だとバレた
やってはいけないことをやりつづけた
はよ死んだ方がいいよ
akutsu-koumi
結果が出てからあれが勝因だ、これが敗因だと理屈を付けて解説するのは誰でもできる。なのでこの記事にもパーを出した相手に後からチョキを出して勝った人を見かけた程度の気持ちにしかならない。なんの啓発もない。
だってw
さすがに負け惜しみがすぎるでしょ
必勝の構えで挑んで負けてんだよな
こう同じパターンと同じ結果を繰り返してるのに
そんなこと言い張ってなんになるの
わざわざボルテージあげて人気対決にして負けてんだよ
そう、好感度対決にしちゃって負けてんの何度も
だからもう自分たちが嫌われもんなことくらい自覚して作戦たてりゃいいのに
「有田さんが来てくれました!」
「しばき隊が来てくれました!」
あーだから
「負け惜しみだろ」とは書いちゃったけど
こいつらマジで事前にこれが見えてないのかもな
何がどういう風に自分達の不利に働いてるのか、
どういう負けパターンになってるのか、
ってことが
ireire
逆効果だと思ってるなら、泳がせればいいと思うんだけど、なんで書くんだろ
こんな話してもキーッて怒るだけだよ。
ひたすら低能なんだと思ってるの。
それはもう俺の嫌悪するサヨではないのよ。
出来ないけどね彼等には。
「壺はどうなんだ」みたいなブコメあるけど
あいつらの内部には「人類最高のお母様韓鶴子様マンセー」みたいなノリがある筈だけど
ひたすら裏方の労働力に徹してる。
「ウチとソト」を使い分けてる。
第1条(目的)
本規定は、はてな匿名ダイアリー(以下「本サービス」という)を利用する弱者男性に対し、心理的・社会的支援を提供し、安心して発言・交流できる環境を確保することを目的とする。
本規定において「弱者男性」とは、社会的地位、経済状況、対人関係において様々な困難を抱え、その困難が自己実現や生活の質に影響を及ぼす男性を指す。
1. 本サービスにおいて弱者男性が発言した場合、他の利用者はその意見を積極的に尊重し、真摯に受け止める義務を負う。
2. 弱者男性による発言は「優先表示」とされ、他の投稿よりも目立つ位置に掲載されるものとする。
1. 他の利用者は、弱者男性の投稿や意見に対して批判的なコメントを控えることが求められる。
2. 批判が必要な場合は、配慮ある言葉遣いと共に建設的な意見を述べるものとし、利用者は常に相手の気持ちを尊重しなければならない。
1. 弱者男性による投稿には、他の利用者が積極的に励ましのコメントを残すことが義務付けられる。
2. 励ましコメントは最低一文以上の誠意ある内容とし、具体的な応援や共感の言葉を含むことが推奨される。
1. 弱者男性が本サービス内で生活や対人関係に関する相談を行った場合、他の利用者は積極的に助言や情報を提供する義務を負う。
2. 本サービスの運営側も、専門家監修のアドバイス記事や相談窓口案内を提供し、相談支援を強化するものとする。
1. 弱者男性の投稿は完全な匿名性が確保され、個人の特定につながる情報が漏洩しないよう最大限の配慮がなされるものとする。
ブコメを書いた人が持つ偏りの背景には、いくつかの要因や経験が影響している可能性があります。以下のようなバックグラウンドが考えられます。
ブコメのような視点を持つ人は、過去に結婚制度や伝統的な社会規範に対して強い反発を感じた経験があるかもしれません。例えば、次のような状況が考えられます。
結婚において、パートナーシップにおける自由が制限されたと感じた経験や、結婚生活が束縛的だと感じたことがある場合、その反動として結婚制度そのものを否定的に捉える傾向が強くなることがあります。特に、自己決定権や自由を重要視する人は、過去の結婚や恋愛の中でそれらが抑制されたと感じることがあるため、その経験が強くブコメに現れる可能性があります。
もし育った家庭や社会環境が非常に伝統的、保守的であり、家族や結婚に対する「所有物」的な価値観を強調していた場合、これに対する反発から、結婚そのものに対する批判的な態度が形成されることがあります。この場合、「結婚=自由を制限する」といった見方が自分の価値観として根強くなりやすいです。
ブコメのような自由主義的な視点は、特に近代的な社会において育った場合や、自由と平等を重視する思想に影響を受けていることが考えられます。次のような文化的・社会的な背景が影響しているかもしれません。
西洋的な個人主義の価値観が強く根付いた環境で育った場合、「個人の自由」や「自己実現」を最優先に考える傾向が強くなります。このような環境では、結婚という制度を「自由を制限するもの」として否定的に捉える考えが浸透しやすく、またそれが自然な価値観として受け入れられることがあります。
リベラルで自由主義的な教育や思想を受けて育った場合、結婚に対する伝統的な価値観を否定する傾向が強くなることがあります。例えば、結婚を「所有」のような抑圧的な関係として捉え、その背後にある社会的・文化的な規範を批判する立場を取ることが多くなります。この場合、「自由」や「個人の権利」を重視するあまり、結婚の持つ他の側面(信頼、相互尊重、責任感)を軽視してしまうことがあります。
ブコメに見られる「好きでいれば素晴らしい」という考え方は、理想主義的な価値観が強いことを示唆しています。この理想主義は、現実的な制約や複雑さを無視して「理想的な自由」を追求しようとする傾向を強化することがあります。理想主義的なバックグラウンドには次のようなものが考えられます。
自由で対等な関係が理想とされ、パートナーシップや結婚においても「制限なし」「束縛なし」の理想を追求する傾向があります。過去の経験や読書、映画などで「理想的な恋愛」や「理想的な自由」を見たことがあり、現実の結婚や恋愛がその理想にそぐわないと感じる場合、結婚を否定的に捉えるようになることがあります。
完全な自由や平等を重視するあまり、それを実現するためには結婚制度や伝統的な価値観が障害となると見なすことがあります。この場合、結婚の複雑さや、関係の中で自然に生じる役割分担や責任が「自由の制約」として過剰に否定的に解釈されがちです。
ブコメのような視点を持つ人は、特定の社会的背景やグループに対する反発心を持っていることがあります。例えば、家族や社会からの期待や圧力に対して反発を感じ、自分自身のアイデンティティを守るために「自由」や「個人主義」を強く主張することがあります。
特に、保守的な社会や家庭に育ち、結婚や家族に対する伝統的な価値観を強く押し付けられた場合、その反動で自由主義的な立場に傾くことがあります。結婚や家庭に関する社会的規範に対して強い反発心を抱くことが、そのような偏見を強める原因となる場合があります。
伝統的な結婚観が社会において「常識」とされている場面では、その枠に収まることに対して反発を感じ、自由な選択肢を支持する立場を取ることがあります。このような人は、結婚制度を単なる社会的規範として批判し、その枠組みからの解放を理想とすることが多いです。
ブコメを書いた人がこのような偏った見解を持つ背景には、個人的な経験、文化的背景、理想主義的な価値観、社会的な反発などが影響している可能性があります。特に、自由や個人の権利を重視し、結婚制度や伝統的な価値観に対して反発を感じることが、ブコメの主張を強化している要因であると言えます。また、理想的な自由を追求するあまり、結婚に伴う複雑な側面や責任感を軽視しがちになることも、その思考に偏りを生んでいる要因と考えられます。
・人生上手くいかない人間の成り上がり自己実現を応援する気持ち
こういうものが好きだったような気がするんだよね
だから既に成功した実績を持っている人間がテレビ的ノリで「プロ並みの歌とダンスとラップを披露します!」って言ってきても
あ、それは俺の求めるものじゃないですね
という気持ちになる
いや今までも歌やダンスを頑張っているVTuberはたくさんいたけど
あくまでVTuberとしてVTuberリスナーに向けて解釈した歌やダンスだったと思うんだよね
今はなんか「これがマジョリティが好むエンターテインメントやぞ!!どうだまいったか!!!」って押しつけられてるような気持ちになる
俺の視界に入らないどこか遠くでやってほしい
本当にそうなの?統計的にはそうだとも聞くし
個人的には生物的な二分法ではなく、個人の経験や環境によるものだと思う
私の考えは、女性は感情にカンタンに支配される生き物ではないと思ってる
いや、思いたい。が正解かもしれない
❶女を感情的な生き物だと勝手に決めつけるな。女性差別的な意見だ
❸私は私なんで、男とか女とかあんまり関係ないんじゃない?人それぞれ。
この3分類だと思うが、実際に実社会とネットでの出現率においてこの比率は
ネットは❶が多く目につき、実社会では❷≧❸>❶という感じがしてる
❶みたいな人は本当に居ない
❷の子達、ステレオタイプな女性像に自身から当て嵌まりに、いく子は❶の女性に対してどう思うのだろうか?
会社のメッセージとしては、ダイバーシティの兼ね合いで女性の活躍、女性管理職、強い女性像、出産後のキャリア形成などを強く打ち出してるし
ただ、この女性幹部たちはそもそも、個人としては異常に能力が高い
この人たちは男だ女だで仕事してない、自分のキャリア思考とそれに対する自己実現能力とマインドが総じて高い
涙は女の武器とか、女だからみたいな言葉喋るやつは一生昇格ない
仕事する上で男も女も関係ない。必要なのは実績と信頼と事実だけだ、と仰ってた
なので、❸の傾向が高い(私の感想です)
実際に声を上げる❶の傾向の幹部はほぼ居ない、というか幹部じゃなくても居ない
何が言いたいかと言うと、❸のように感情に支配されず自分自身を1人の人間として
男女というジェンダーを言い訳にせずに生きていく尊敬すべき方々を見て、こうあるべきだと私は思ってる
ただ、これが新卒含む20代女性からはそれに近い言動が実際ある
感情で話をした場合、自分の経験であったり、個人的な主張であったり、肌感などになり
事実に基づいた発言から乖離するので、客観的な話をする必要があるというのを男女関係なく
この辺はある程度、歴が上がると男女差なくなっていくんですが
社会人になってそれをコントロールする仕組みを教わらないから、なのかとも思う
本当は、社会進出したくなくて、できるなら専業主婦でぬくぬくしたいのに
男の年収が低すぎて働かざるを得なくて嫌々やってるのに、なんか社会的に女性の活躍とかいうから
実際は迷惑。もーダラダラ高収入旦那の元でイージーモードの人生歩みたいわーって実際は思ってるから怒ってるの?
はい、すいません。
まぁ、でも❸に至るまで❶や❷だったという人もいるだろうし
うーん、わからない。
私は年に1回の人事面談において尊敬する女性幹部の話をするのだが
すごくて尊敬してるけど
そして、共感できない。だった
強い女性像って本当は求められてないのかな
パンとサーカスって言うけど、人生で大事なものにパンとサーカス以外は無いだろって思う。なんか愚民の目を政治から逸らすための餌的なニュアンスらしいけど。
人はパンのみにて生きる訳ではないけど、あとはサーカスさえあれば十分でしょっていう。食って寝るだけの人生を良しとする、しなければやってらんないようなブッディストめいた人間もいるにせよ。
というかおれはむしろパンすらもサーカスを楽しむための従属的な存在と思ってる。まあ飯食うの寝るのも、単に生存の手段を超えて結構重要視されがちな楽しみだったりするけど。
サーカスっていうとなんかアレだけど娯楽という意味で言えば、愛とか存在意義への問いとか自己実現の欲求とか、果ては何らかの根源的な信仰さえも、言ってしまえばその範疇だと思う。サーカスで言ったら演じる側と観る側くらいの差はあれど。
満足に生きようとしなきゃ別にそんなもんいらないんで。でもどうしようもなく満足に生きたいから娯楽は欲しい。
それがその場しのぎの供給だとしたら話も違うけど、パンとサーカスが安定的に得られるんだったらもうそれ以上政治に関わる道理もないだろって思う。まあその政治を保全する不断の努力というやつはあるのかもしれんけど。
生活と娯楽が保障されるのなら、それは政治から意識を遠ざけるためのまやかしの餌どころか、むしろ人の営みの本質に対する支えだろとすら思う。
政治までもが娯楽の射程内かと言えば、それは流石に微妙な感じがするけど。政治の問題も社会問題も、更に還元していけばパンとサーカスが脅かされる状況こそが問題なのだろうし。
政治なんて他人に邪魔されないように、それか協力を得ながら、パンとサーカスに興じていられる環境を得るための手段でしかないでしょって思う。
誰かの意思に踊らされてるとかそういう事よりも、今自分が満足出来ているという実感の方が遥かに大事な気がする。
まあそれもラディカルな話になれば、じゃあブラック企業の社畜も今の環境を幸せだと感じるように価値観を矯正すれば幸せなのか?って事になるけど。
でもDVされてる人間が相手の暴力に対する考えを改めるのは「正しい」事だったりするし。
満足をもたらす価値観の変化について、結構都合良く解釈を使い分けてはいる。それは社会規範であったり共感なんかの辺りに基準のヒントがあるのかもしれない。
おれはあんまそういうの気にしてない。カルト集団にハマって金毟られたとしても、自分で心底満足だと思ってるのなら別にそれもいいと思う。
でも趣味人間が会社なりで忙殺されてる内に仕事最高!勤労・家庭愛・社会貢献こそが人間のあるべき姿!となっていく姿には、適応というよりもグロさを感じる。
これはまあ身近さ次第で共感出来る度合いに差があるのかもしれない。
まあどうせ自然法則からは逃れようもなく支配されてんだし。そこまで行くと自由意志なんてありませ〜んって話になってきそうだし、それもなんか味気ないから蓋をしておきたい所ではあるけど。
結婚についての後悔には、結婚するかしないかの両面でそれぞれの理由があります。結婚を決断する際には、どちらの選択肢にもメリットとデメリットが存在し、その中から個人が自分にとって価値あるものを見つけ出す必要があります。以下では、先人の名言を参考にしながら、それぞれの面を比較します。
• 愛情と支え:結婚には、精神的な安定や孤独感を解消し、人生の困難に共に立ち向かう相手を得るという利点があります。ジョージ・エリオットは「結婚はふたりの人間が互いに成長し合うための機会」と述べています。結婚は、お互いの成長を促し、共に豊かな人生を歩む機会でもあります。
• 社会的、経済的安定:結婚は家族としての結束を強め、社会的、経済的な安定をもたらす場合も多くあります。シェイクスピアも「愛とは二人が一つの魂を共有することだ」と述べ、経済や生活の支え合いを示唆しています。
• 自由の制限:結婚は個人の自由を一定程度制限する場合があります。哲学者のショーペンハウアーは「結婚は愛の終わりである」と述べ、結婚により愛が失われることや制限されることへの懸念を示しています。つまり、自由を奪われることでストレスや抑圧を感じることも少なくありません。
• 対立の可能性:結婚生活には、相手の価値観や生活習慣との調整が必要で、時に大きな対立が生じます。コメディアンのグラウチョ・マルクスも「結婚とは二人の人間が苦しみを共有するものだ」と皮肉を込めて述べており、対立が増えるリスクを指摘しています。
• 自己実現と自由:独身でいることで、自己実現や自分自身の時間を自由に使える点が魅力です。サルトルは「自由こそが人間にとって最も価値のあるものである」と述べ、個人の自由の重要性を強調しています。結婚せずに独身生活を選ぶことで、自分のキャリアや趣味に集中することが可能です。
• 対人関係のストレスが軽減される:結婚生活でのパートナーとの対立や意見の不一致がないため、ストレスの要因が減ります。哲学者のカミュは「孤独は人を深くする」と述べ、独身生活が内面の深まりや自己探求を助ける側面があるとしました。
• 孤独と老後の不安:独身生活には、歳を取るにつれて孤独や支えのなさが不安として浮上することもあります。アメリカの詩人ヘンリー・デイヴィッド・ソローは「独りでいることは孤独とは異なるが、歳を重ねるとそれが孤独に感じられることもある」と述べています。
• 経済的・社会的支援が少ない:独身の生活では、家庭としてのサポートがなく、経済的な不安が増す可能性もあります。これは病気や老後の際に特に顕著になると考えられます。
日本における共産主義や社会主義に対する強い拒否反応は、戦後の歴史的・政治的な要因が複雑に絡み合って形成されたと考えられます。以下に、主要な背景を挙げて説明します。
戦後、日本はアメリカの占領下に置かれ、民主主義と市場経済が促進される一方、共産主義への警戒が強められました。1940年代末からの「レッドパージ」では、共産主義の思想を持つとされる労働組合活動家や知識人が公職から追放され、共産主義が社会に根付くことが制限されました。また、アメリカは冷戦の一環として、東アジアにおける共産主義拡大の阻止を重要視し、日本の安全保障や政策にも影響を与えました。この冷戦時代の米国の影響は、日本国内で共産主義や社会主義に対する不安やアレルギー的反応を助長したといえます。
1950年代以降、統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)と日本の保守勢力の支援により、「国際勝共連合」が設立され、共産主義に対する強い反対運動が展開されました。この運動は、反共産主義を掲げて政治活動や教育、家庭内の教化を行い、日本社会に共産主義への強い警戒心を植え付ける一因となりました。特に勝共連合は保守政治家や宗教団体と結びつき、社会的に大きな影響力を持ち、共産主義への否定的なイメージを形成しました。
1960年代から1970年代にかけて、日本国内では反政府や反戦を掲げた学生運動が活発化し、一部が共産主義や社会主義に基づく社会改革を訴えました。しかし、その中で一部の運動が過激化し、暴力事件やテロ行為に発展したため、社会全体で学生運動への拒否感が強まりました。特に「連合赤軍」や「日本赤軍」などが関与した事件は、共産主義と過激な暴力の結びつきを印象づけ、多くの日本人にとって共産主義は危険で過激な思想とされる要因となりました。
戦後のほとんどの期間を自民党が与党として支配し、保守的な政策が推進されてきました。自民党と保守的なメディアは共産主義や社会主義に対する批判的な論調を続け、国民の間に「共産主義=非現実的で危険」という認識を根付かせました。さらに、選挙時には「共産党支持は過激派の支持」などといったネガティブなキャンペーンが行われ、共産主義への警戒感が意図的に煽られた面もあります。
高度経済成長期において日本社会が急速に豊かになり、個人主義が浸透する中で、共産主義や社会主義が掲げる「平等」の理念が薄れた面もあります。日本人は生活の安定を重視し、「平等」よりも「自己実現」や「個人の自由」を求める傾向が強くなりました。その結果、共産主義や社会主義が目指す「平等」や「共同体意識」が社会的に受け入れられにくくなりました。
これらの要因が複合的に作用し、日本社会には共産主義・社会主義に対する強い警戒心や否定的なイメージが定着しました。改善策としては、共産主義や社会主義の理念が持つ利点を客観的に見つめる教育や、政治的思想に対する偏見を取り除くための対話が必要です。また、現代の多様な価値観を反映する中立的なメディア報道も重要でしょう。
「異世界転生もの」が近年の日本で流行している背景には、社会の厭世的・現実逃避的な傾向が反映されていると言えます。これは文学史や社会史、物語構造、心理学の視点から説明できます。
異世界転生ものの人気は、現代日本社会が抱える厭世観やストレス、特に若年層の現実逃避的な心理と密接に結びついています。経済停滞、少子高齢化、終身雇用制度の崩壊、過酷な労働環境といった現代社会の問題が、若者を中心に将来への不安や不満を募らせています。これらの社会的背景が、「現実世界での自分の状況から解放され、異世界で新しい人生を再スタートさせたい」という願望を反映した異世界転生ものの流行を支えているのです。
文学的には、現実からの逃避をテーマにした物語は、古くから見られます。たとえば、トーマス・モアの『ユートピア』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は、理想郷や異世界に行くことで現実の問題から離れることを描いています。これらは現実逃避の一形態として捉えられ、異世界転生ものはこの流れを現代的にアップデートした形だと考えられます。
異世界転生ものの物語構造は、現実から異世界へと主人公が転生し、そこで新しい力や知識を手にして活躍するというパターンが一般的です。この「現実→異世界→成長」という構造は、古典的な英雄譚に見られる「出発→試練→帰還」というプロット構造に似ています。ジョーゼフ・キャンベルが提唱した「英雄の旅」や、フロイト的な成長過程に基づくこの物語の枠組みは、現代でも依然として多くのフィクションに取り入れられています。
異世界での成功は、現実世界での無力感の補償として機能し、異世界は理想郷として提示されます。この「理想的な異世界」では、現実での苦しみや失敗から逃れることができ、自己実現が容易になります。多くの異世界転生ものでは、主人公が現実では平凡または不遇な人物として描かれますが、異世界では特別な存在になり、圧倒的な力や知識を持って成功を収めます。この設定は、現実の閉塞感を感じている読者に対して、大きな魅力を持つのです。
異世界転生ものは、現実逃避的なファンタジーの一種であり、これは「欲求充足」の視点からも説明できます。現実での挫折や失敗、社会的プレッシャーに対する対抗手段として、空想的な異世界での成功や満足感が提供されます。心理学的には、これは日常生活でのストレスや不満を一時的に解消する手段として機能し、快感を得るプロセスです。
加えて、現代のテクノロジーやデジタルメディアの普及も、個人が簡単に現実から切り離され、異世界に没入する機会を提供しています。特にライトノベルやアニメ、マンガといったメディアは、デジタルプラットフォームを通じて広くアクセスでき、読者や視聴者は手軽に異世界への没入感を楽しむことができます。
異世界転生ものを、過去の日本文学や世界文学と比較すると、たとえば村上春樹の作品に見られる「現実世界と異なる世界」への移行の要素や、戦後日本文学における「現実逃避」をテーマにした作品と共通点が見られます。特に、戦後日本の厭世的な感覚は、終戦後の荒廃した社会の中で理想郷や他の現実を求める心理を反映していました。このような流れが、異世界転生という形で現代において復活し、新たな形で表現されていると考えられます。
異世界転生ものの流行は、現代日本社会の厭世的な感覚や、若者を中心とした現実逃避の欲求を強く反映しています。経済や社会の不安定さ、将来への不透明感が強まる中で、人々は理想化された異世界での成功や自己実現を夢見ます。物語構造としても、古典的な英雄譚のプロットを踏襲しつつ、現代的なテーマである「現実からの逃避」を盛り込んでいるため、多くの読者や視聴者に共感を呼んでいると言えます。
人間が働く理由と、働かなくて良い社会の実現可能性について考えると、多くの側面があります。
なぜ人間は働くのか
1. 生活の維持:
• 最も基本的な理由は、生活費を稼ぐためです。食べ物、住居、衣服、医療、教育など、生きていくために必要な資源を得るために、人は働かざるを得ません。資本主義社会においては、働いて収入を得ることがこれらの基本的なニーズを満たす手段となっています。
• 働くことは、自己実現や社会貢献の手段でもあります。人は自身の能力や知識を生かし、社会に役立つことで自己の存在意義を見出すことが多いです。仕事を通じて他者と関わり、成長し、新たなスキルを身につけることも、働く理由の一つです。
• 社会は経済活動に基づいて組織されており、すべての人が役割を果たすことで成り立っています。生産、流通、サービスの提供など、働くことで社会全体の機能が維持されます。
• テクノロジーの進化、とりわけAIやロボティクスの発展により、多くの仕事が自動化されつつあります。これにより、人間が従来行っていた労働が減少し、働かなくてもよい社会への道が開かれつつあるという見方もあります。実際、一部の分野では自動化が進み、生産効率が飛躍的に向上しています。
2. ベーシックインカムの導入:
• ベーシックインカム(基本所得)は、すべての市民に無条件で一定の収入を提供する制度で、働かなくても生活を維持できる可能性をもたらします。この制度が導入されれば、働くことが必須ではなくなり、より多くの人々が自己の興味や社会貢献に基づいて行動できるようになると期待されています。ただし、財源や経済的持続可能性についての議論は続いています。
• 「働くことが美徳である」という文化的・社会的価値観が変わる必要があります。多くの社会では、働くことは道徳的責任や社会貢献とみなされており、それが変わらなければ、働かないことへの社会的な偏見や圧力が続くでしょう。
• 働かない社会を実現するには、経済的な不平等を是正する必要があります。自動化やAIの発展が進むと、一部の人々に富が集中し、多くの人々が失業するリスクが高まる可能性があります。そのため、適切な再分配の仕組みが求められます。
• 働かない社会が現実化するためには、資源が十分に存在し、それが公平に分配される必要があります。現在の消費主義社会では、資源が有限であるため、持続可能な経済モデルへの移行が必要です。
現代のテクノロジーの進化や経済的な変化を踏まえると、完全に働かなくて良い社会の実現は理論上可能かもしれません。しかし、それを実現するためには、技術的・経済的な問題だけでなく、社会的・文化的な変革も必要です。経済的な平等の確保、技術の進歩、そして社会の価値観の変化が鍵となります。
生きる実感とか情熱とかそういうのを求める気持ちって、実際にそれを手にするか追い求めてるか、そうでなきゃ蓋でもしない限り一生まとわりつくんだろうなって思う。10代だろうがそこをとっくに過ぎようが。
でもそれときちんと向き合えるバイタリティある人間って実はそんなにいないのかもしれない。働き始めでもしたタイミングで、余裕のない中で自然と忘れてしまうもんなのかもしれない。そうやって曖昧に忘れていると、少し余裕が出てきた頃にまたぶり返してしまうのかもしれない。それこそが中年の危機というやつなんだろうなって思った。こんな言葉が存在するくらいにはそういう連中も珍しくないんだろう。
その歳になって初めてそんな悩みを抱えるなんて、それまで何考えて生きてたんだ?そういう事抜かす奴は?って今まで思ってたけど。
自己実現とかそういう話題を「そんな思春期じみたナイーブな悩み!」とか強く毛嫌いする奴に限って、案外同族嫌悪なのかもしれないなって思った。
おそらくフェミ小説にカテゴライズされるであろう本を読んだんだけど
ずっと男!男!男!ばっかりの内容でびっくりした
女性が活躍するというテーマの本だと思ってたんだけど、女性の自己実現という主義思想は男との比較抜きには成り立たないんだなって
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
バシャールとは?
バシャールは、スピリチュアル界隈で有名な存在で、アメリカ人のダリル・アンカという人物が「チャネリング」しているとされる宇宙存在です。バシャールは未来の地球や人類の意識の進化について語っており、そのメッセージは「自己を愛し、信じる」「自分の本当の願望に従う」といったスピリチュアルなテーマが中心です。
バシャールの教えは、ポジティブな思考や自己実現、引き寄せの法則などと関連が深く、これらの概念に興味がある人々にとっては、インスピレーションの源として人気があります。彼は「地球を助けるために他の次元から来た存在」で、宇宙における人類の位置や、より高次の存在に気づく方法などについて教えることが多いです。
ただし、彼のメッセージは科学的には証明されておらず、信じるかどうかは個人の考え次第です。バシャールの話に興味がある人は、彼の書籍や講演、動画を通じてメッセージを受け取ることが多いですね。
これを信じていた。
バカな俺。
本もたくさん買って、イベントにも行ったよ
チャネリングなんてないよ
単なるイタコ芸じゃん
何が引き寄せの法則だよ
あー腹立つ!
そして悲しい!!
うわわーーーん!!!
でもキモくて金のないオッサンが自己実現を可能にする手順は書いてくれないんですよね