はてなキーワード: 試行錯誤とは
https://blog.8arrow.org/entry/2019/09/19/080000
をぼんやり読んでいて、SI企業に勤めていて、色んな案件があり、その中に当然OSSがあるわけだ。
で、我々はSIerはソースもロクに読まず(英語は読めないのでマニュアルも読めない)ググり、やり方を試行錯誤するわけだ。なお、仕様書がないのを不満に思っているお年を召した人もいるけど、まぁそれは別の話
あと、俺詳しいぜ系の人でもOSSにソース書いてるなんて話聞いた事ないなぁ。評論とかウンチクはめっちゃするけど。
機能がないからと文句は言うが、プルリクは出す気はないし、当然ソースを書く気も工数もない。っていうか、GitHubへの投稿なんて制限されている。
最近ね、頭頂部が薄くなってきたんですよ。髪が細くなってきて、伸びるスピードが遅くなってきた。あぁ、男はこうやって髪の毛が薄くなるのかと思った。髪をつまむ、明らかに前よりも細くてふにゃふにゃしている。
髪が細くなり伸びるスピードが落ちてくる。だけど何で頭頂部だけ?全体的に同じ様に下がれば全体的に薄くなったと思うだけなのに何でそこにわざわざザビエル的な風味を追加するのだ我が体よ、ホルモンよ。
と思っていたのだけど、最近ふと「あ、自分は死に向かって軌道修正をしたのだな」と思うようになった。離陸した飛行機はいつかは着陸する、この着陸に向かって高度を下げ始めた感じといえばいいだろうか。軟着陸してほしい。ハードランディングは避けたい。
死に向かっていると感じたときに急に人生の意味なんて別にないんじゃないかとか、若者たちがありもしない人生の意味を追いかけて必死になっているさまを見て何アホなことやってんだろうと思うようになった。なんか一生懸命鼻息荒くやっているけどそれがお前の設定した目標になにか近づくの?とか思うようになったが盛り上がった若者に説明するのなんか単にしらけることを言う嫌な奴としかおもわれないから何も言わない。
多分人間はこうやって老害化していくのだろうと思った。要は若者たちのやっていることがアホなことに見えるようになったからだ。
ただ、自分のやっていることが素晴らしいと思えるほどに自信家じゃないので老害化はしているが公然と嫌味を言ったり批判したりという人間にはまだなっていない。ただ、そんな意味もなく人生を浪費している彼らを見て「自分そのもの」について考えるようにはなった気がする。
多分人は成長の中で意味のある20%の、意味のない80%の試行錯誤を繰り返すんだろう、とか漠然と思うようになった。そして多分自分もそうだ。やってみて単に時間をお金を費やしただけ、ということはけっこうある。学びもあるが費やした時間とお金に見合っているかというと疑問を感じることも多い。
社畜として生きていた自分、会社は会社に俺がアウトプットする業務とその成果に興味はあるが俺そのものには興味はないと思う。夫として生きていた自分、家族は家庭に俺がアウトプットするお金やヘルプに興味はあるが俺そのものには興味はないとおもう。
振り返ってみると、何かをして「ありがとう」と言われることはあった。だけどそこまでだ。ありがとうの先はない。ありがとうの先に何があるかというと自分を人として尊重する、ということだと思うが、仕事をして家庭を持って、趣味をやめ、遊びをやめ、起きてから寝るまでの間自分の自由な時間なんか殆どないがそれを「ありがとう」で片付けられている。ありがとうと言っている側は趣味に習い事に遊びに時間をふんだんに使っている。ありがとうと言っている側は懐がどんどん潤っている。
ありがとうの対価に会社は利益を得ているようだし、家族はより良い暮らしを手に入れているようだが、それらが自分になにか還元されているのだろうか?ありがとうと言われているうちに週末にどこかに遊びに行きたいとはもはや言えなくなった。家族が遊びに行くから運転しろとは言われる。行き先の選定に自分の意見が入ったことはない。つまり週末も自動的に自分の時間は奪われている。
自分の予定を入れていても結局変更させられる。「それって来週にできないの?どうしても今週じゃなきゃだめなの?」と言われる。「じゃぁ来週にずらすよ」と言う。「ありがとう」と言われる。翌週も同じことをする。「ありがとう」と言われる。消化されないやりたいことは山のように溜まっていく。それを覆い隠すように更に大量のありがとうが降り注ぐ。
周囲の人はみんな「ありがとう」を忘れない。これまでは自分もそれでいいと思っていた。だが、「死」を意識したときに急にこの「ありがとう」が自分にとって何の意味もないものに成り下がった。
「ありがとう」というから限界ギリギリまで、たまに限界を超えてまで一生懸命仕事をするんでしょ?
「ありがとう」というから自分の都合を全部後回しにして周囲の人を優先するんでしょ?
なにか自己主張する、許されない、ごめんなさいと言わされる、土下座をさせられる。そしてありがとうと言われる。
このありがとうってどういう意味なんだろう?相手の口から放たれた「ありがとう」に対して「いやお礼とか良いからいい加減自分の尊厳を主張させてください」と言ったら土下座させられるんだろうか?
私はいわゆるサラリーマンで、平日仕事をして給与を得て暮らしている。妻と子も居る、どこにでもいる家族だ。
どこの家庭でもそうだろうが、子供や家族の将来に対する備えについてアレコレ考えて実践していると思うけど、収入がもっとあればなと感じる事は多々あると思う。
そんな時にいつも頭をよぎるのがタイトルの事で。
若い時にまともに勉強もしていなくて、スケートボードと音楽にしか興味がなかった。20歳前後の頃。周りのみんなが将来の為、自分の為に色々な事を積み重ねている間ずっと遊んでばかりいた。本当に愚かだった。
愚かな奴にも欲しいものややりたい事があってお金は必要だった。
愚かだったのでまともにアルバイトで得る時給1000円だとか日給1万円じゃわりにあわない、もっと稼ぎたいと思っていた。
当時法改正前でいわゆる出会い系サイトが乱立していて、その殆どがサクラをアルバイトとして雇ってユーザーにポイントを買わせて儲けていた。もちろん世の中にポジティブな金の稼ぎ方じゃないし、リスクもあった。だけど愚かだった私はこれなら自分でも出来るし、儲かるなと踏んだんだ。
いくつかのサイトにサクラのアルバイトとして働いて、客のデータを抜いてはやめてを繰り返して客のリストを作った。当時は一つの会社が複数のサイトを運営していることが殆どで、かつ会員も重複していた。一つのサイトに登録すると勝手に他も登録されてたり色々粗かったんだ。
で、それらのサイトからぶっこぬいた客のリストを新しくサイトを作ってシステム借りて、ぶち込んで営業を始めた。初めは自分でもサクラやりながらだったけど、当時のユーザーに間抜けが多かったせいか、すぐに事務所借りてアルバイト雇ってくらいの儲けはでた。
結局そのままサイト3つ作って名簿屋からアドレス買ったりしながら続けていた。
当時の収入は経費とかもろもろ差っ引くと月によるけど少なくとも100万を下回る事はなかった。
もちろんその時はお金を使った。欲しい物はなんでも買って、うまいもの食べたり、思い立って旅行に行ってみたり。けどな、そのくらいしか出来なかったんだ。
ビジネスを広げることもできない、何かに投資するなんて考えの埒外、金銭感覚だけが周りとずれてしまって遊ぶ仲間も減って疑心暗鬼になった。ましてやこの金の稼ぎ方だ、何かに貢献してる感覚もなければ小金を持ってるせいで妙な優しさや憐憫を身につけて罪悪感だけが増していく。
メンタルが限界になって全部辞めた。やりたいことでもなければ誰の得にもならないことを金の為だけに続けるには私は向いてなかった。
それで得た身の丈にあわない金を使う才能もなかった。
20代前半を使って得た、学んだ事はそれだけだった。
リーガルでもイリーガルでも金を稼ぐ人や、多くの金を使える人はやはり何かに選ばれてるんだと思う。
私は向いてないし、もっと収入が増えればと思いながら色々と試行錯誤してることが身の丈にあってるのかなと思う反面、妻子にはもっと楽させたいと思ったり。
未だに愚かなままで、このまま死ぬまで愚かなままなのか。
全ての依頼が必ずしもこうであるとか、こうなるべきというような社会的な意味は全くない、
自分は小説を趣味で書いている。もちろん出版とかしているようなものでなく、
ある日、ふと「キャラクターのイラストがほしいな…」と思い立った。
なんというか看板のようなものというか、小説を一発で理解できるものというか……。
小説は単純にその作品を知ってもらうためにかかるハードルが大きい、
自分は「思い立ったら即行動」のタイプなので、さっそく絵師さんにイラストを依頼できるタイプのサービスを探した。
いくつかあったが「Skeb」がかなり手軽でお得な感じがしたのでそこにした。
そして、絵師さん探しだが、これは逆に難航した。
それを得意とする人は多く、コミッションでイラストをアップしている人も多く、
誰に依頼しても天才なので完璧なイラストが来るだろうと予測された。
自分は悩んだ。
全員に依頼しようかとも思った。それはそれでいいな……とか思ったが、
流石に色んな絵師さんのイラストを雑多に並べるのはなんか失礼な気もしたが、
とりあえずめちゃくちゃ頑張って一人に絞った。
そして、三行くらいで「こんな感じのキャラです、小説の登場人物です。衣装は服を着てるほうが恥ずかしい感じのえっちな服でお願いします」と書いて送った。
翌日「承認しました」みたいなメッセージが届いた。Skebの決済がされていた。一万円いかないくらいだったと思う。安い。お手軽。
するとなんか一週間くらいでメッセージが届いていた。
「完成しました 確認お願いします」みたいな短いメッセージとともにイラストが添付されていた。
わくわくしながら開いた。
完璧だった。
なんというか、自分の脳を切り取って、それをイラストにして出力したのかと思うほどに理想的だった。
衣装は希望通り、何なら全裸のほうがまだ健全であるほどのきわどいがかつ健全な衣装で、
表情はそのキャラクターを知り尽くしているとしか思えないほどの的確なもの、もしかして小説現行を全て3回読み返したのか?と思うような出来栄え。
肌の質感はもう言葉で語りつくせない。匿名ダイアリーでなければイラストドーンって貼って終わらせるくらいすばらしいものが届いていた。
あまりの衝撃に意識を失っていたが、お礼を言っていない事に気がつきすぐにお礼の連絡をする。
それに対しての返信はサムズアップみたいな軽い感じだったと思う。
「自分の理想どおりのイラストが、数千円出せれば出てくる……?」
翌週の更新分では、すごく筆が乗った。
自分のキャラクターに命が吹き込まれたような気分だったからだ。
頭の中で動かすときに、明確なデザインとイメージを持って動いてくれる。
ああ、小説ってこんなに楽しいものだったんだな……としみじみ思った。
理由はここまで読んでいただいた人ならわかるだろう。
小説はあくまで、文字と、自分の頭の中で動くキャラクター達の物語だ。
しかしそれを、もっと他の、色々な人と共有するためには、「外見」が必要になってくるのだろう。
以前感じた、キャラクターに命を吹き込む行為を、自分でやりたくなったのだ。
試行錯誤しており、全然上手くかけないが、お絵かきは中々楽しいものだ。
きっとやみつきになる。
ここは深い沼だと思うが、それでもいいという人は、是非、自分と一緒に沈んでほしい。
楽しいぞ。 おいで。
こんなタイトルにしましたが自分語りが殆どです。ツイッターの裏垢に書くにも長すぎるのでここに失礼します。乱文ですが読んでいただけると嬉しいです。
サカナクションが大好きだ。敬愛している。とはいえども2018年の秋にハマった新参者である。それまでは「サカナクション?新宝島しか知らない」人のうちの一人だった。
初めてサカナクションを見たのは多分小学生の時、「ミュージック」をテレビで演奏していたところをチラっと見た。機械とか使ってたけど子供には正直なんだかよくわからなかったし、まあまあ気になったけどタイトルとか調べるすべもなかった。2回目は映画「バクマン。」の主題歌「新宝島」が大ヒットした時。私は当時T-SQUAREに興味があった。「好きな曲は何ですか?」という質問に「宝島」と回答したところ、中学校の先生に「あ〜あれね。サカナクションね。先生も好きよ。」と言われて反応に困ったことがある。それくらい当時サカナクションには関心がなかった。「ミュージック」を覚えてなくて、「新宝島」しか知らないのだから当然である。
3回目でやっとハマった。高校2年生、家族の影響でサカナクションを聴いて育ったような友人に何度もオススメされ、5回目くらいでやっと聴こうという気になった。何から聴けばいいかわからなかったので、とりあえずその人のLINEのプロフィールに貼ってあった「ストラクチャー」を聴いた。初めて聴いた時の感想は「うわ気持ちいい」。とりあえずそのまま「sakanaction」を流し再生していたら「ミュージック」と奇跡的な再会(と勝手に思っている)を果たしてびっくりした。プンププンップップップップップップンプというイントロが聴こえた時「マジで?」と思った。感動した。そのまま他の曲を全部聴いた。
私の友人はオタクが多かった。バンドをはじめ、ジャニーズ、アニメ、韓ドル、舞台俳優、マンガなど、夢中になれるようなコンテンツがあるのは心底羨ましかった。ライブやコンサートに行ってきた次の日の、友人のうれしそうな表情がとてつもなくかわいかった。さっきまで信じられないくらい落ち込んでたり、怒ってたのに、推しの動画を見たら機嫌を直して勉強し始めてるのが不思議だった。「いやそんなことある?」と思っていた。今ならわかる。もうサカナクションなしでは生きられない。
サカナクションの曲は全部「サカナクションぽいな〜」とわかるのに、「似たような曲だな〜」とはあまりならない(mellowとナイロンの糸など、派生させた曲もあるが)(あれライブとかで繋がって流れたらめちゃくちゃよさそうだな〜と思う)。でもメロディーラインだけ見たらちょっと似てるときもある。サビはほとんどの曲で1オクターブくらい上がる。清水ミチコさんの「サカナクション作曲法」にもあるようにヨナ抜き音階が結構ある(でも無作為だと思ってるけど、どうなんだろう、山口さん教えてください)。全部すごい別の曲。コード進行が凝っているからだろう。めちゃめちゃに凝っている。7thも9thも12thも、その展開形もめちゃめちゃ使われる。もうめちゃめちゃ難しい和音とかある。けど全然重くない。基本形などのシンプルな和音とのバランスが良い。使うタイミングがよすぎるしチョイスのセンスがやばすぎる。試行錯誤を繰り返し繰り返し完成された神バランス。ものすごい努力の結果の激良音楽。何を食べたらあんなにすごい曲が作れるんだろう……
ハマりたての時に思ったことは、「山口さんの声は楽器みたいだな〜」ということ。サカナクションの音楽に山口さんの声の、良さ。ほんとよすぎる、、、
もっちのギターはプロみが感じられてめちゃめちゃにかっこいいし、エジーのドラムは心にダイレクトに伝わる。ねえさんのベースはとにかく気持ちいいし気持ちいい。ザッキーのシンセはDNAに素早く届く。
今日はなんだか頭が回らないわ。
うまく行きそうなことがやってみたら動かなくて、
うーんとどうしたらいいのかしらと試行錯誤中なのよ。
円での決済はうまく行くのに、
ドルの決済がうまく行かないの!
うまくいったらお慰み!
いちいちグーグル翻訳にコピペして読み進めていくドキュメントは私のいわばドキュメンタリーだわ。
んもーって感じよ。
一旦脱いだ上着をその勢いですぐまた着る感じよ。
各国の国旗の三角旗のフラッグガーランドが私の頭の中に張り巡らされるわ。
ずっとPayPalのドキュメントとにらめっこだからこの辺にしておくわ。
ところでPayPalの弩弓級なペイパルサーガのドキュメントってネットの何処にあるのよ!?
今から風の大陸全巻読めって言われたらさすがにPayPalドキュメントの方が楽チンそうだけど、
いやいや楽チンな方に流されてはいけないわね!
意気込みは風の大陸全巻読む勢いよ!
まあ頑張るわ!
ではでは、
アミーガ!
私のチョイスする率は少ないので、
他の物を色々試してみてるんだけど
トップバリュのプレミア麦茶もなかなか良い味醸し出してるかも知れないからお店で見かけたら試してみて欲しいわ。
また水出しより煮出す方が美味しいのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
保育士の仕事を侮っている人は知識を覚える事と実践する事の区別がついていないじゃないかと思う。
例えば下記(実践すべきことの一部だけど)を覚えたからって、簡単に実践できる人がそんなに多いのかという話。
想像だが保育士の仕事を侮っている人は暗記は出来ても実践は出来ない人も多い気がする。
https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000160000.pdf
① 保育士等との信頼関係に支えられて自分自身の生活を確立していくことが人と関わる基
盤となることを考慮し、子どもが自ら周囲に働き掛けることにより多様な感情を体験し、
試行錯誤しながら諦めずにやり遂げることの達成感や、前向きな見通しをもって自分の力
で行うことの充実感を味わうことができるよう、子どもの行動を見守りながら適切な援助
を行うようにすること。
② 一人一人を生かした集団を形成しながら人と関わる力を育てていくようにすること。そ
の際、集団の生活の中で、子どもが自己を発揮し、保育士等や他の子どもに認められる体
験をし、自分のよさや特徴に気付き、自信をもって行動できるようにすること。
③ 子どもが互いに関わりを深め、協同して遊ぶようになるため、自ら行動する力を育てる
とともに、他の子どもと試行錯誤しながら活動を展開する楽しさや共通の目的が実現する
喜びを味わうことができるようにすること。
④ 道徳性の芽生えを培うに当たっては、基本的な生活習慣の形成を図るとともに、子ども
が他の子どもとの関わりの中で他人の存在に気付き、相手を尊重する気持ちをもって行動
できるようにし、また、自然や身近な動植物に親しむことなどを通して豊かな心情が育つ
ようにすること。特に、人に対する信頼感や思いやりの気持ちは、葛藤やつまずきをも体
験し、それらを乗り越えることにより次第に芽生えてくることに配慮すること。
⑤ 集団の生活を通して、子どもが人との関わりを深め、規範意識の芽生えが培われること
を考慮し、子どもが保育士等との信頼関係に支えられて自己を発揮する中で、互いに思い
を主張し、折り合いを付ける体験をし、きまりの必要性などに気付き、自分の気持ちを調
整する力が育つようにすること。
⑥ 高齢者をはじめ地域の人々などの自分の生活に関係の深いいろいろな人と触れ合い、自
分の感情や意志を表現しながら共に楽しみ、共感し合う体験を通して、これらの人々など
に親しみをもち、人と関わることの楽しさや人の役に立つ喜びを味わうことができるよう
にすること。また、生活を通して親や祖父母などの家族の愛情に気付き、家族を大切にし
ようとする気持ちが育つようにすること。
が、そのためか、プログラミングの得意な人からしたら「ええ・・・」となるような行動を初学者が取りがちに思える
そこで、とりあえずこれだけ守ってほしいというアドバイスを書きました。
あれこれするより先にエラーメッセージを読め。ぶっちゃけ、エラーメッセージを読むだけで上位10%だ
あと、エラーメッセージとWarning messageは違うものだからな。行間を読む前に行を読め
エラーメッセージの内容がわからなかったらエラーメッセージをコピペしてググれ
Stack Overflowにだいたい同じエラーで困ってる人が既に投稿してる
定義した変数の中身を逐一確認して予定してる内容になってるか確認しろ
試行錯誤しすぎてわけがわからなくなったら変数を全部削除して一番上から実行し直せ
実行し直してるときに、一行ずつ予定通りの挙動になってるか確認しろ
予定通りの型になっているか?特に、因子型と数値型、因子型と文字型の混同で生じるミス多い
「関数名 R 」でググれ
いきなりやりたいことを全部書くんじゃなくてデータを縮小 (例えば、一部の日にちのデータ) したり、処理を簡略化して小さいプログラムを作って徐々に拡張しろ
関数名でググれ
例えば・・・
group (変数のグループ化、例えば「条件毎に折れ線を引く」)
facet (「●●ごとに図を描く」)
alpha (透過度)
tick (目盛り線)
axis (軸)
background (背景)
例えば「●●条件毎に線を引きたいけど、geom_line()でどうしたらいいのか?」と思ったら「geom_line group」で検索したら、だいたいやりたいことをやってる画像が出てくるので、それを参考したらいい
“how to” と入れるとだいたいヒットする
例えば「how to change colors gradient ggplot2」でググると色をグラデーション様に変える方法が出てくる
「○○でうまくいきますか?」「〇〇だとダメですか?」と質問してくる人、本当に多いけど、その質問は、以下の2つの理由で良くない
・そもそも、プログラムなんて同じ目的を達成するのに何通りも答えがあるので、「○○でうまくいきますか?」という質問には「それは書き方次第だなぁ」としか言いようがない
・試せばわかるのだから、人に聞くより実行してみたらいい。エラーの数だけお前は強くなる。エラーを受け取るのを恐れるな
「○○を実行したら、こういうエラーが生じるんですけど、エラーの内容が理解できません」
「○○という形のデータを作りたいんですけど、この処理だとこの形にならないのはどこが原因ですか?」
というのが持論だ。
ちなみに自分の趣味や興味のあるジャンルは、パソコン本体の増設やデジタル小道具類・ウェブサイトのデザイン、ウィキペディアの閲覧以外だと、
・ニュース報道ほかで発生する『意図しないバカ画像』の収集や、それを元にしたコラージュ画像の作成
そしてこれらは、どちらかというと著作権的にグレーだったり、社会風紀的によろしくない物が多い。
ゆえに、そういった分野に関する興味ほど、まさか表立って近隣の誰かに聞くようなわけにはいかないし、そもそも「近場にそういう事に詳しい他人が居ない」ものである。(ただし中には、会社内で部長辺りの役職者で、エロネタへのアクセス方法を失礼にも部下に依頼する例もあると聞くが、これはあくまで例外だろう)
自分もよく、家人のスマホでのトラブルや近所の店舗・役所の開業時間や行き方、航空機のチケット予約などをパソコンやスマホで検索・代行し、「どうやったら、○○ちゃんみたいにそんなに詳しくなれるの?」と聞かれる人なのだが、最初にも言ったように「ひとには聞けない情報をどうしても知りたいため、いろいろと試行錯誤しウェブで調べたりしていたら、いつの間にか『調べ方上手』になっていた」、というだけの事なんだよね。
だからそういうプロセスを辿っていた事を、どうやったら家人にうまく伝えられるかで、自分は悩む。
あと、そういったグレーな領域の情報を得たりする中での最大の問題として、ウイルスなどいわゆる「マルウェア」被害をどう避けるか、というのがある。怪しげなサイトをブラウザで覗いた結果、怪しげなソフトウェアを仕込まれたりする事で被害に遇う例は、2000年代辺りで社会的話題にもなった。
例として、パソコンを起動するとすぐにアダルトサイト広告が出てそれを消せない・ハードディスクが勝手に暗号化されて中のファイルにアクセスできない・自分のパソコンの中の重要なファイルを(使用しているP2Pソフトを通じて)勝手に送信され、勤務先をクビになった・etc.
ただしそういった「不特定多数が被害に遇う異常事態」に関しては、これまた多数の有志の方々による被害対策まとめがすぐ作られるため、各自において対処が可能な事が多い。
そういった数々の「ネット・パソコン修羅場」事例を、現在の40代近辺の世代は「パソコンの進化と共に年月を重ねてきた」事で、会得している人が多い。が、その他の世代にその苦労を伝えるのがいろいろと難しい立場な現実もあって、今日もそれらの被害を「ゼロにはできない」事に、当事者世代の一人としてはいささか歯がゆい思いがする。
「コーチおやじ」というものが存在する。主な生息地は動画サイトに若者が投稿した演奏動画のコメント欄で、そこによく出没する。
主な生態としては基本的にダメ出し。やれ「ピッチが」だの「モタる」だの「音の粒が揃ってない」だの具体的な計測方法のない切り口でダメ出しをする。そして主に若い女の子がギターやベース、ドラムを演奏している動画に現れては、そう言ったダメ出しをすることを好む。
(あと最近気づいたのは、街角で弾き語りをやっている女の子にも何やら延々と喋ってるおやじもよく見かける。これはダメ出しなのか何だかわからないが、腕を組み得意げに何やら喋ってる。女の子は片付けをしたいらしく困惑した笑顔で対応するのだが、彼女のその困惑には気づかず笑顔にだけ気をよくしてペラペラ喋ってる。CD-Rを買ってあげてるのかはわからないが買ってなさそうだ。)
またコーチおやじは、女の子が習得する楽器に関してステレオタイプの先入観を持っているだめピアノ、シンセ、エレクトーンなどの鍵盤楽器の投稿動画にはまったくと言っていいほど姿を見せない。そこにも稚拙な演奏が相当あるにも関わらずである。だからロック系の曲を演奏するギター、ベース、ドラム専門に出現する。とにかく女の子がこれらの楽器がうまいことを許せないのだ。
たまにそのダメ出しに対して誰かがコメント欄で反論をすると「批評も許されないのか」「慣れ合ってヨイショコメントしかしちゃいけないのか」的な開き直りを見せる。ひどい場合はコーチおやじのダメ出しコメントばかりが動画に並び、いつしか投稿主は動画を削除してしまう場合もある。
コーチおやじの本質、それは「尊敬されたい」「愛されたい」である。「なるほど!わかりました!これからも指導お願いします師匠!」と言われたいのだ。とっくの昔に現役でなくなってる、もしくは現役時代そのものが存在しなかったかもしれない自分にだ。空想の、虚構の、眩い白日夢はこの上なく心地よいのだ。また相手が女性動画主だったらあわよくばねんごろになりたいってのもあるって言ったら邪推し過ぎだろうか。
だがコーチおやじの願望が叶う日は決して来ない。なぜならば若者たちが動画を公開するときに期待するものは「賛辞」と「励まし」だけなのだから。コーチおやじの「尊敬されたい」「愛されたい」とは対極の、はるかに青く純粋な衝動だ。コメントでもっともらしいダメ出しなんかもらわなくとも、彼らは再生数という言い訳の出来ない評価と対峙することになるのだから。こういうとコーチおやじは「再生数がすべてなのか」と半笑いで反論しようとするだろう。そうだ、すべてだ。
ここまで読んだ人は気づくと思うが、俺がまさにそのコーチおやじだった。
ここは「だった」と過去形で言わせてもらう。何故ならば俺はその空想の中の自尊心を、よりによって自分の息子に剥ぎ取られ、丸裸な状態の滑稽な初老の男である自分を突きつけられ、激しい屈辱と自己嫌悪とともに目が覚めたのだ。「コーチおやじの滑稽さ」に。(ちなみに息子は音楽はやっていないのだが、どう突きつけられたかは本題とそれるので省略する。ただ、涙ながらに訴えられ目が覚めたとだけ言っておく)
80年代に成毛茂という70年代のギタリストがやっていた深夜番組は、その骨太の説得力に薫陶を受けた何人かの門下生が凄腕ギタリストとなり、副産物として有象無象の門前の小僧を生み出した。ようするに「薫陶」ではなく「受け売り」止まりの奴らだ。俺はまさしくこのクラスタの人間。
そして90年代から00年代にかけてE〇Pとかの音楽専門学校に入ったはいいが、バンドやるでもなく真面目に授業受けるでもなく、身に付いたものはと言えば出会い系サイトのサクラのバイトによる昼夜逆転の生活習慣というだけの奴ら。
両方に共通しているものは、何ら後進が手本とできる見本となる演奏音源や映像を残すことも公開することもなく(そもそも今で言うところの「なろう」だったので存在すらしないかもしれない)、ただ曲と楽器と半端な受け売りの楽典の知識だけを元に、投稿動画をあれこれ批評と称してこき下ろす。全員が全員そうだとは言わないがコーチおやじの本質はおおむねこれだと思う。
あのな、ご同輩。今は時代が違うんだよ。まず機材が違う。昔のようにMDやテープを何度も聴き直して音を拾わなくてもコピーができる。アンプだってライン録りで遜色ない音もできる。8トラックでピンポン録音なんてアホらしいことだってする必要もない。だけど彼らはそうやって楽になった分のリソースをどこに注ぐと思う?彼らはやっぱりその分純粋に練習に注ぐんだよ。彼らは試行錯誤の必要がない分まっすぐに練習するんだよ。俺たちよりも合理的なやり方で、何よりも当時の俺たちと同じくらいの熱意でもって。今の若い子たちの演奏が(女の子のそれも含めて)抜群にうまいように聴こえるのは錯覚じゃない。本当にうまいんだよ。
だから彼らが、あなた方やかつての俺がかすかに期待する「尊敬」や「愛情」をお前らに向けることは未来永劫あり得ないんだ。とっくに現役じゃないかそもそも現役だった時代すら存在しなかったおやじたちに。だからコメント欄で偉そうなダメ出しするのはやめよう。気に入ったらlikeをクリックして、気に入らなかったらdislikeすらクリックせずに二度と観なければいいだけの話だ。
とは言えやはり俺もいまだに「尊敬」と「愛情」が欲しいことは否定できないので、
DTMと呼ばれるものに手を出すことにした。つまり若い連中が群雄割拠する世界に、かつて打ち込み専門の誰かが言った「楽器が弾けるというのはデカい」をわずかな希望として胸に秘めながら、ひっそりと足を踏み入れることにした。pro toolを始めとした機材を大人買いした。使い方を早くマスターするためにインストラクターに素直に教えを乞うた(オヤジは金があるんだよ)。これで俺も再生数に一喜一憂する奴らの仲間入りだ。指がすっかり動かなくなったというより広がらなくなって難儀してはいるんだが、まあコーチおやじよりは健全だと思ってる。
あんなガバガバコミュニケーションで結婚できるのが本当なら世の中どうでもよくなってくるけど
非モテの話題でああでもないこうでもないというブコメばかり見ていると私には絶対結婚無理と思ってしまう
また厳密には転移にも転生にも含まれないが一括りにされがちな類型として
などがある。
実際のところは近世くらいの設定も多く、近代レベルまで魔法文明が発達した世界もある。
よく言われるドラクエなどよりも、TRPG由来の設定が多いように思われる。
基礎的な設定をもとに主人公が独自の魔法を開発するようなものもある。
転生ものだと後者が多いか。幼少時から試行錯誤して新たな魔法を生み出すパターン。
言語については、神様チートの転生特典や、翻訳魔法・魔道具などで解決することが多い。
「過去に転生者がいたので日本文化が広まっている」といった解決の仕方もある。
ゲームが現実化した場合は、「元となったゲームが日本語だから」でさまざまな問題がクリアされる。
転生の際に神様から特典が与えられる転生チートと、主人公が持つ知識を活かす現代知識チートに大別される。
知識チートの場合、「なぜ主人公がそんな知識を持っているのか」という疑問を解決するため、主人公が学者肌の人間であることも多い。
転生特典で「インターネットに接続できる」「現代からあらゆるものを取り寄せられる」みたいな設定にすることもある。
逆に主人公が「チートできるほど知識がない」と早々に諦める話も多い。
現代知識チートを文明の発展に全振りするような話は「内政チート」と呼ばれる。
料理・グルメ系も一種の知識チートであろう。醤油。マヨネーズ。
ゲーム系だと「ハズレスキルだと思ったら使い方次第でめちゃくちゃ使った」みたいな話も多い。
王国=善、帝国=悪というのはフィクション全体のお約束だと思うけど、
なろう系の場合は皇族や貴族、あるいは魔族に転生する話も多いので、むしろ帝国のほうが舞台になりやすい気がする。
MMORPG的なスキルツリーを成長させていくだけでなく、「恐怖を感じることで【恐怖耐性】が上がる」といったような演出も多い。
「アイテムを鑑定する」「相手の正体を見破る」といった使い方で活躍することもある。
類似の便利機能としては、どこでも開けてなんでも入る「アイテムボックス」も人気が高い。
近所のスーパーに甘酒の特設コーナーがあり、「熱中症予防に甘酒を飲もう」という広告があった。甘酒は冬の名物と思いがちだが、甘酒はもともと夏に飲まれるものであり、俳句では夏の季語であるとのことだ。缶飲料や瓶詰など様々な甘酒が並べてあったが、私はレトルトパウチの生米糀(なまこめこうじ)を買った。ちなみに、単に米糀と表記すると乾燥米糀と区別がつかないので、生米糀と表記した。
そのまま飲める甘酒ではなく、生米糀を選んだのは大正解だった。おかゆのようにどろりとした生米糀をスプーンですくって食べたがこれがうまい。砂糖を大量にぶち込んだかのように甘かったが、原材料表記には「米」・「麹菌」としか書いてなかった。砂糖無しで米をこんなにも甘くできるのかと感動した。
かつて私はみりんをそのまま飲み、その甘さや旨さに感動してコラムを書いたことがあるが、生米糀もそれに匹敵するほど甘くて旨かった。私は1~2か月ほど前、昼間の暑い室内でみりんを大量に飲んで頭痛になって以来、酒を控えていた。酒の代替となるノンアルコール飲料や熱中症対策を考えていた時に生米糀と出会えたことは幸いであった。
生米糀の商品パッケージには水で薄めて甘酒を作るレシピが書いてあったが、そのまま食べた方がうまかった。上質な酒は、混ぜたり薄めたりせずにそのまま飲んだ方がうまいのと同じだ。試行錯誤の末にたどり着いた私の生米糀の食べ方を以下のレシピと共に示す。
食べ方
上記の食べ方は生米糀をおいしく食べるだけではなく、熱中症予防としても優れた方法であると自負している。熱中症予防には以下の3つが必要である。
(A)水分補給
(C)休息
近年では、水分だけでなく塩分の補給も必要なことは熱中症予防の常識となったが、休息も必要なことは世間の認知がまだ足りていない。スポーツドリンクの類は(A)(B)を素早く補給するには適しているが、そのかわりに休息をとることがおろそかになりがちだ。しかし、私の生米糀の食べ方なら必然的に時間がかかるので、その間休息することができる。また、摂取できる栄養素も熱中症予防に適している。生米糀で糖質・ミネラルを、梅干しで塩分・クエン酸を補給することができる。ちなみに、冷えた水はダメだ。胃腸が冷えると血管が収縮して、水分の吸収を妨げるからだ。
甘酒の原料として米糀ではなく酒粕を用いたものもあるが、これはダメだった。酒粕は100グラム当たり約8グラムもアルコールを含んでいるので、そのまま食べたら酔いで頭がふらふらしてしまった。水を加えて鍋で煮込み、アルコール分を飛ばした物も試してみたがこれもあまり良くなかった。アルコールの香りは消えなかったので脱水症状時に飲むのにはあまり気分が良いものではなかったし、鍋で煮込んでまた冷やすのがめんどくさかった。酒粕で作った甘酒は、単に私が個人的に好きではなかっただけなので、興味のある方は試してみる価値はあるだろう。
最近私は、上記の生米糀レシピを最大限楽しむために、わざと軽度の脱水症状に陥ってる。昼間の暑い時間帯は、自宅のエアコンをオフにするだけで天然のサウナになるので、そこで大量の汗をかいている。ぜひとも、猛暑が続いているうちに、「脱水症状」→「生米糀」のコンボを健康を害しない範囲で、ここの読者も楽しんでほしい。
・ガンダムF90・4号機 スペースアーク共用仕様Type-Anonymous
サイコミュやバイオセンサーの影響によるものなのか、パイロットとモビルスーツの相性度合いによって、単純なカタログスペックによってモビルスーツの性能は測れない。
そう提唱したサナリィの開発者ハット・ボーは、パイロットとモビルスーツの相性についての研究を重ねていた。
中でも彼が注目したのは、一年戦争当時の学習型コンピューターの記録であった。
まだ、対モビルスーツ戦闘という概念が定本化されているわけでもなかった当時においては、パイロットの試行錯誤の過程がそこには残っていた。
この試行錯誤の過程こそが、戦闘という何が起こるかわからない場における解答を導き出すために必要な肯定であった。
彼は、その一年戦争当時の学習型コンピューターの記録を元に、モビルスーツの運用をサポートする擬似人格コンピューターを開発し、ガンダムF90に搭載されることとなる。
しかし、この疑似人格コンピューターは、当時のエースパイロットをベースにしていたこともあり、コンピューターがはじき出した結論を実際のパイロットには理解できないケースもままあった。
もちろん、そのAIの意見を完全に信用し任せられるようなパイロットにとっては、疑似人格コンピューターはとてもよいパートナーになるのだろうが、まだそのような人材は稀であった。
そのため、次の疑似人格コンピューターとして着目したのが、一年戦争当時のエースパイロットではないパイロットであり、かつ多くの戦闘を経ているパイロットであった。
そこで発見したのが、かのアムロレイと共にホワイトベース隊で活躍したガンキャノンの学習型コンピューターの記録だった。
このガンキャノンは、当時多くのパイロットが代わる代わる乗っていたこともあり、そのクセもそれぞれであったが、アムロレイと比較すれば良い意味で人間的な選択肢を提示する擬似人格コンピューターを作ることができた。
そんな、「Type-Anonymous」を搭載したガンダムF90・4号機はコスモ・バビロニア建国戦争で運用されていた機体。
フロンティアIVでのラフレシアとの戦いで、ヘビーガン、ダギ・イルス、ビギナ・ギナが大破したこにより、スペースアークが保有するMSはF91一機となっていた。
そのF91のパイロットであったシーブックアノー、その母親であるモニカアノーがサナリィの開発部門に所属していた縁があったためか、軍を介さずサナリィから直接的に授与されたMSがこの、F90・4号機となる。
当初は、MSパイロットでもあったベラロナが搭乗する予定だったが、彼女はその銘を利用した活動を中心としてたため、固有のパイロットはおかれずスペースアークの要員が代わる代わる運用していたようだ。
その癖のなさは、本業のパイロット以外も登場するケースがままあったホワイトアークでは重宝され、コスモ・バビロニア建国戦争末期まで活躍することとなった。
なお、この擬似人格コンピューターそのもののコスト自体が重かったこともあいまり、次期量産機には搭載されることはなかった。
ハット・ボー氏はその後、サイド3(当時もうジオンは共和国の自治権放棄をしており連邦の一部であった)で、AIに関する業務に携わることになる。
彼の作成した擬似人格コンピューターは、より高度な対話を成せるような優れたものになるだけでなく、そのAIの提案する選択肢を躊躇なく選ぶことができるデバイス・ツールの使い方がめっぽう上手いパイロットが増えた時にはより評価されることになるだろう。
また、余談ではあるが、「Type-Anonymous」のベースとなったホワイトベース隊のガンキャノンに搭乗していたジョブ・ジョン氏は現在まさにそのサナリィの上層部に名前を連ねており「カイよりは俺の方が上手に乗ってた」と言ったとか言わなかったとか……
Twitterなどで今回を最後にスタッフをやめるという報告が相次いでる。原因は様々だがどれも上層部と現場の意識乖離が根本にあるように見える。一方で我々サークル参加者や一般参加者とも離れていっていると感じざるを得ないところも確かにある。
米やん(米澤前代表)が亡くなってから3代表制に移行したころから、崩壊の序曲は始まっていたと思う。
米やんは確かに独裁的ではあったけど、「コミケの理念」に沿って多くの参加者が納得できるような行動をしていた。たまに納得できないこともあったけど、それでも説明責任は果たしていたと思う。それが三拡(現在の拡大準備集会)であり反省会であった。私が参加し始めた30年前位は、三拡の質問コーナーは質問したい人がマイクで直接米やんに質していくスタイルで、質問だけじゃなく意見表明もあったり、米やんなどの返答に対してさらに疑問をぶつけることも多々あった。だから質問した人も納得できたり、納得できなくても彼の意見には一定の評価をしていた。対話はとても大切である。だけどこんなのを何人もやっていたら時間が足りないので質問用紙形式になってしまったのだが、それでも彼は回答に対して更に再質問されることも見越して答えていたのはさすがだと思う。何よりもすごいのは、おそらく用紙形式になってからすべての質問に答えていたこと。つまらない質問、コミケと関係のない質問、既に前半で説明した内容、そういうのも省略することなく時間を多少オーバーしてでも回答していた。
しかし3代表制になってから徐々に「同様の質問」という枠でまとめられたり、コミケと関係ないからと省略されることも出てきた。集会終了後に質問に触れられなかった人がスタッフに詰め寄ってるのを目撃したことも1度や2度ではない。それでも最初は12時終了という時限があったから仕方がないと自分を納得させていたと思う。しかし運営に関わる自分の質問が他の質問とかぶっていないのにも関わらず紹介されないことが出てきて代表に対して疑念を持ち始めた。
サークル参加していると一般参加のときとは違ってじっくりスタッフを観察できることもある。(弱小なので暇(滝汗
例えば突発的な待機列の発生。昔は階級役職関係なく、むしろ古参で役職についているような人が積極的に整理にあたったりしていたこともよく見かけた。全員が汗をかいて動くのが当たり前だった。そうした中でOJTによって後輩に技術が継承されていく。コミケに限らず組織が継続するための基本だ。
ところが先日の夏コミで見かけた光景はまるで違っていた。無役、おそらくほとんど初心者のようなスタッフが外周大手サークルの大行列を試行錯誤しながら切ったりつなげたり弄り回していた。その様子を何人もの上級スタッフがすぐそばのテントで涼みながら指差し笑ってくつろいでいる。休憩かと思ったら何時間もテント内で待機している。連絡係なんて1,2名もいればいいのにおかしい。たまに下部スタッフを呼んで列整理かなにかの指示をしたりしているが、彼らは何のためにコミケにスタッフ参加しているのだろうと疑問に思った。人身御供以外でスタッフの経験はないので組織の内容は知らないが、半日テントでのんびりできるほど人が足りているのか。
列の整理方法も、以前なら横移動は厳禁だったのに今回は何度も経験した。おかげで崩壊しかかったこともあった。中堅らしきスタッフがハラスメントばりのきつい口調で指示しているのも見た。その他いちいち挙げないが、とにかく空気が悪い。この原因の一端は、Twitterで書かれていたスタッフ待遇の改悪にあるだろう。
サークル参加していても、参加費の値上げは仕方がない部分があるにせよ、参加証の発送方法の変更で不達や遅延が増えたり、前述のような三拡の対応など、徐々に不満を積まらせる要素が増えてきたが、なんといっても黒バス事件での準備会の対応は、コミケの理念を自ら曲げてしまった悪手だったと思う。三拡では「場を維持するため」と言い訳を繰り返していた。長くなるので書かないが、あのような措置をとらなくても場は維持することが可能だった。もしくは場の維持はコミケの理念には元々入っていなかった。「年2回開催の維持」こそが黒バス事件や今回の夏コミにおける諸問題の元凶である。もうちょっと言えば年2回のコミケで生計を立てている人(企業)が増えてしまったことが問題。
「オリンピックがあるから1回(2回)パスします」と準備会が宣言すればそれでよかった。
(もしくは「黒バスで脅されて特定のジャンルだけサークル参加させないように警察などから言われたけど理念に反するので拒否したら会場借りられなくなった」とでも)
メインの東館が使えず西と南に無理やり詰め込み、中途半端にリストバンドを売ったり(これも理念に反する行為)東駐車場待機列の事故も「年2回」のための無理が祟ったと言わざるをえない。こんな状況で冬はともかく来年の春に他のイベントと共催してまで無理やり行うのはどうかと思う。オリンピックじゃなく災害で会場使えなくなったらどうするんでしょうね。それでもどこかで無理やり開催して「年2回」を意地でも通そうとするか。ちなみに詳しくは言わないけど津波でビッグサイトが浸水する可能性は十分ある。来年夏か冬まで休んで万全の態勢で再開することを検討するのはまだ遅くない。特に東駐車場では危うく死者を出しかねない状況だった。それを報道されたら
コミックマーケット準備会 @comiketofficial 8月12日
コミケットには「お客様」はいませんが、一方で「運営」もいません。我々が、そしてみなさんが参加者の一人として、それぞれの声に真摯に耳を傾けて対話していきたいですし、互いに新たに協力をお願いすることもあると思います。
などと自らの責任を放棄する始末。真摯に耳を傾けるのなら、まず三拡の質問に全部答えるところから始めたら?運営じゃないのならリストバンド売るのもおかしい。こんなちぐはぐなことしていたらスタッフが離れていくのも当然の成り行き。昔のような分裂騒動が起きてもおかしくない。もしかしたら3代表はもう割れているかもしれない。そう思わせる場面を何度か見たことがある。
冬までに問題が収束するとは思えないし、春は更に大きくなっていよいよ存続問題に発展するかもしれない。そうなったらクールジャパンとか言ってる連中もオリンピック前に冷や水浴びせられることになるかも。そうでなくてもスタッフだけでなくサークルや一般も準備会の態勢が嫌になってコミケから離れていくことは十分予想の範囲。未確認だが今回徹夜組が大幅に減ったという情報もある。これは企業ブースが青海に飛ばされた影響だけじゃないだろう。
高齢化、若い世代の人口減少、ネットの普及、頒布手段の多様化など、何もなくても近い将来参加者数が減少傾向に転じることは予測できる。
(一方で外国からの参加者が増えているのでまだ伸びしろがあるという見方もあるが)
同人誌自体も、アニパロなど二次創作の規制が進む流れがいつ厳しくなってもおかしくない。残念ながらそういう時代になりつつある。準備会は「場」を守ったけど参加者や同人界を守らなかったというオチが見える。
最近ツイッターで日本のジェンダー指数が低いとか性犯罪がわんさか起きているとか何を規制すべきかとか色んなものが流れてくる。
最初に断っておくと私は生粋のレズであり、女性が大好きだ。男が性的対象になった事は一度もない。えっちな夢も何度も見たことがあるが全部相手は女性だった。深層心理までレズ。
中学1年くらいまでは自分が女である事が嫌で、男らしい格好ばかりしていた。
ただそれで苦しんだかと言うと、多分ほんとに苦しんでいる人……性同一性障害障害の方とか……の0.5割も苦しんでないと思う。ざっくり言ってしまえば中高女子校で育ち、そこが滅茶苦茶に楽しかったので卒業する時に女で良かった、と思えたから。女子校は女でなきゃ入れないしね。
で、大学は理系に進んで周りは男ばっかりだった。最初からレズと女好きを先生にすら公言していたからここでもそんな嫌な目には合わなかった。とは言え君みたいなのがいるから少子化が進むんだよとか、一切女として見られたくない相手に「でも普通に女の子だよね?」って何故か上から目線で言われたりはしたけど、まぁその程度。ほんとにトラウマになるような事は無かった。男友達も普通にいる。
だから、男で良いヤツがいっぱいいる事も知ってる。何ならセクハラも判定グレーみたいなのを1発食らって微妙な気分になったのが1回あるくらいで痴漢も受けた事はない。よくツイッターにいるフェミニストが「日本人女性の殆どが性犯罪を受けています!」みたいなこと言ってるけど、私には当てはまらない。ちょいちょい嫌な事はあったもののまぁ概ねそこら辺の男と変わらない人生を送っている。今のところ。
でもさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜そんな私だって日本人女性の殆どが性犯罪に巻き込まれてるって言葉が嘘じゃない事ぐらい痛い程知ってるんだよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
男と対して変わらない生活を送ってる。私自身は被害に遭ったことない。
でも周りを見ていればいかに日本のジェンダー指数が低いかすぐ分かる。なんせ女の子の友達は沢山いるし、友達には中学生から今に至るまで散々相談されてきた。中学や高校の頃は痴漢に遭ったって話をされて私が登下校に付き添ってあげた事もあるし、友達と一緒に歩いてたら明らかに友達が座った瞬間にスカートの中身を見ようと屈んだオッサンを追っ払ったこともある。私がレジに並んだ瞬間に1人になった友達に握手を迫ったおじさんを見て慌てて撃退した事も。大人になった今では友達から初対面の会社関係の男にいきなりセフレを打診されたって電話が掛かってきてうぉ〜〜〜〜殺せ殺せ〜〜〜〜!!!!!って全然関係ない私がブチ切れたりしている。
まぁつまり何が言いたいかってちゃんと女性が周りにいて、その人を女としてじゃなくて人間として考えてたら明らかにおかしいって気付ける点、わんさかあるんだよね。そんで手助けできる時も沢山ある。
なのに何でか男ってこういう事実を否定する人が妙に多い。や、勿論このままじゃいけない!って思ってる人も当然いるとは思うけど異様に少ない。
なんかもう…人間の理性として当然、友達が困ってたらどうにかしてあげなきゃ!ってならない??大好きな友達が女ってだけで性的に消費されてんだよ??そんな事する奴は許せん!!!ってならない??てか友達じゃなくても赤の他人でも「特に悪くない人間が悪意に晒されて悲しんだり苦しんだりしてる」っての見て、まずは憤ったりしない???別に自分で力にはなれなくてもさ。ただそのツイート見てそんな奴がいるのか…本当に酷いな…と思うだけでも普通の感覚だと思う。てか大半の人はそうだろう、おそらく。
でもそういう性犯罪系のツイートって滅茶苦茶に被害者を叩いたりまぁ女性軽視のリプライが死ぬほどついてる。なんでそんなことすんの??純粋に疑問なんだけど。
私は顔も別に整ってる訳じゃないしスタイルが良い訳でもない。最初からレズを公言して男からのジャッジを受けないようにしているから面と向かって言われた事はないけど、多分男に感想聞いたら普通にブスって言われるだろう。でも別に可愛い女の子に嫉妬したりしないよ。まぁレズだってのもあるけど。何でか男は女VS女の構図作るの大好きだよね。女♡女の方が普通に可愛いし平和だし見ててほっこりすると思うんだけどなぁ。
なんか脱線しまくったけどとりあえずここまで一つ目。ツイッターで異様にフェミニストを汚い言葉で罵る男、周りに女いないのか?という疑問。
で、次にこうなった原因と何を規制するかって話。
なんか日本って幼女趣味とかAVの内容がおかしいとかエロ本が普及しすぎてるとかなんか……色々言われてるじゃん。
まぁ分からんでもない。分からんでもないけど、なんか、まずするのがそれ?と思っちゃう。
私はロリエロイラストとかも見るしもう匿名だし時効だという事にして言うけど小学生の時からAVも見てた。小学生ってやっぱりどっか残酷な面があるのかSMが大好きで縛られて玩具責めされる女の人見て興奮してた。今はなんか明らかにAVって分かる馬鹿な企画みたいなやつが好き。確かにAVって女性の人権無視してるような内容が多いと思う。AVに限らずpixivの作品とかもそういうのはほんとに多い。性欲と加虐欲と支配欲が一緒くたになってるようなやつ。
正直興奮する。もうこれは性癖だから仕方ない気がする。そういう空想の世界として考えてうぉ〜〜エロいな〜〜〜〜!!!って思う。
pixivの絵なら小学生のキャラクターが全裸でいるようなイラストもおぉ…って見ちゃうけど、現実の小学生に対して思う事なんてあぁ〜〜〜〜危ない前見て〜〜!!道路飛び出さないで〜〜〜〜!!!!元気でいいなぁ小学生は…今は夏休みか……ぐらいの事だよ。絶対性的になんて見れない。だって人権のある子どもだし。
女性に対してもそう。バスの中で大胆痴漢…そのうち感じてきてしまい…とか部下のOLを会議室に呼び出し身体検査と偽って……とか、そんなAV普通に見る。見てたら興奮する。でもじゃぁ自分の周りにいる女性に対してそういう事しようかって絶対思わない。そりゃつい目に入ってうわっあの人メッチャ可愛い…と思ったりうぉっ胸デカ……と思ったりするけどそんな見ちゃいけないなってすぐ目をそらすし誰にも言わない。
なんかこの、誰にも言わないってのが出来ない男多すぎない??
顔可愛いとか胸でかいとか、やっぱり思っちゃうのは仕方ないよ。よく男だから仕方ないよって言うやついるけど女だって女見てうわめっちゃあの子可愛いとか胸大きいとか思うよ。ごめんレズだからあんまり説得力ないかもしれんけど多分思ってる女の子は多いよ。でもそれを他人と共有して「エロそう」とか勝手なジャッジしない。一切知らない人間見て「あの子可愛くね?おっぱい大きいし揉んでみたい」みたいなこと絶対言わない。何故かそういうこと言う男、男同士ではそういう会話許されると思ってるよね。普通に周りに聞こえてるし死ぬほど不快だよ。
なんかまた話が逸れたな。何が言いたいかって結局はAVとかエロイラストが悪いんじゃなくて「それをフィクションと捉えて現実と乖離させる事が出来ない」のがいけないんじゃないのかと思うんだよね。
世の中には拷問シーンのあるようなスプラッタホラーだって山ほどあるし犯罪を扱った映画だってゴマンとある。でもそれ見て犯罪ってやっていいんだ!とはならんでしょ。だって現実じゃないこと分かってるし。
AVは見る側を興奮させようと試行錯誤した結果、リアリティが高まってそれを現実と考えちゃう馬鹿が増えちゃったのかな。今AVをもっと大人しい真っ当なものに変えた所できっと性犯罪が減ることはない。確かに暴力とかAV女優が望まないことをさせられるのとかは絶対無くした方が良いけど、そうじゃないものはもうフィクションとして受け入れて良いんじゃないかなと思う。それよりもっと重要なのは、現実世界の人間に危害を加えないという常識の刷り込み。それだけ。
もう言ってしまえばサイコキラーの映画でオナニーしてるけど現実で男女分け隔てなく個人を尊重して優しく接する事が出来る人と恋人同士のラブラブAVが好きだけど現実で痴漢したりセクハラしたりする人だったら前者の方が672094372864675倍マシじゃない???だって危害があるの後者だけだし。
そういう訳で表現の自由云々とかも騒がれてる中だけど、AVとかの規制に対してはそれより先に性犯罪者を去勢するとかGPSつけるとかそういう「現実に行動を移させない対処」をするのが先じゃないかなぁと思う。
まぁこんな事言われなくても普通分かってるべきだけどね。 だって作られた映像ってもうその時点で現実とリンクさせちゃいけないものだから。なんで分かんないのかなぁ……