はてなキーワード: 自律的とは
上記の通り。
けものフレンズ自体をどう考えてもいいのだが、まるでイナゴのように流行に乗っかり、「コーサツ」(考察にもならない与太話なのでこう書く)しまくっては湧き上がる、まるで言葉は悪いがウジ虫のような連中に自律を語る資格などあるのだろうか。自律とは自分で、自分らしく生きることだ。そもそもけものフレンズなんかが出る以前にきちんと自律している人間であればけものフレンズで盛り上がったりはしないはずだ。あくまで静かに、自分の好きなものを見るはず。もちろんその中にけものフレンズが、そのようなスタンスであるのならばあってもいいと思う。
しかし「みんなが見ているから」「応援を頼まれたから」という理由でけものフレンズを見始めた奴らに、自律も、その前提として必要な自我もないだろう。そしてそういうやつらは「見る気しない」というものに対してえらく強くあたる。
まるでこれってファシズムと同じではないだろうか。
筒井康隆が「禁煙ファシズム」ということばを広めたが、僕は「けものファシズム」と名付けたい。
ちなみにここには「まどかファシズム」、「ポケモンファシズム」なんて流行語を入れてもいいかもしれない。
とにかくあまり乗る気になれない人、面白いと思えない人々をつぶしにかかるのだ。
そんな輩が「フレンズにはいろんな…」だったか、そういったことを言うのは戯言という以外言葉がない。
ただ単に笑えない。
またそんな奴らはきっと作品を愛さないだろうし、数年後「懐かしい」といって流行にはまった自分自身を懐かしむのだろう。
はっきり言ってそういうやつらに愛される作品が哀れで仕方ない。
そしてそういうやつらの語る多様性、自律、といったテーマには薄っぺらさを感じるし、そんなファンに憐憫すら感じる。
神が実際に存在するとする。
何のためにこの世界を作ったのだろう?
最終目標は謎だけど、生命を連綿と繋いでいこうという意志があるのは間違いない。
動物はそのようにプログラミングされているし、人間も知性を持って自由意志の部分はあるが、原則そのように作られている。
今、人間が繁栄しているのは、たまたま命を繋いでいくという方針にマッチしており、
上手く行っているだけで、そもそも人間よりも高次元で命のバトンを繋いでいける存在があるなら
人間は宗教を作り、人間は神の子であり、信仰により救いがあると言うけれども
それは人間サイドから見た都合の良いポジショントークのようなものであり、嘘だと思う。
ただ宗教は治安を維持したり、人々の心を癒やし指針を与える点で意味があったので
キリスト教では万物は人間のために作られたとか言っているけれども、
空間的にも宇宙は無限にあり、ここがゴールって断言するのは無理がある。
そう、人間が作り上げた神は人間のための神でしかない。本当に存在している神は人間のための神ではない可能性が高い。
さて地球が出来て、命が連綿と続いていく理由について憶測を述べてみる。
人類に何かをさせるため、何かを作らせるために繋いできた。
あるSF小説で何とか星人の壊れた宇宙船の部品を作るために、何とか星人の力により
地球ができ人類が発展したみたいな話があったけど、意外とそんなもんだったりして。
小説では部品を作るために存在していた人間だけど、人工知能を作らせるために人間を創造してたりしてとか憶測で考えてみる。
今、人類は人工知能を研究し、ニューラルネットワークにより機械に人間の認識能力を宿らせつつある。
今後魔法のようなアルゴリズムが発明され、人間の創造性を機械に持たせることが出来れば、
ロボット自体が学習し、ものづくりが出来てしまうので人間の出来ることはほとんど機械もできるようになってしまう。
ロボットにそのような人工知能を持たせて、自律的にものづくりをし、電力を発電させれば、
電力とデータ、アルゴリズムが滅びなければ半永久的に存在し続ける。
コンピューターなので命とも言えるデータとアルゴリズムは分散して存在し続ける。
自我を持ったロボットにとっての脅威は電力とデータ、アルゴリズムを消すことが出来る人間だけなので、
神は地球を作り、人間を作ったが、それは人工知能を人間に作らせるためであり、
そして人工知能を作らせたのは、より高次元の命の存在のためで、その高次元の存在の意味は謎。
取りあえず何とか星人が人工知能を欲していたので、そのリクエストに応えた
だったりするかもしれない。
冷静に考えるとキリスト教で話している神よりは、こっちの神の方がありえそうだと思う。
Youtubeで「drone gun」で検索をかければ遠隔操作でドローンが銃を撃つような動画なんかも見られる。
こうなってくるとドローンがAIを搭載して自律的に監視したり攻撃したりするのは時間の問題だと思う。
ルンバみたいに自分で電力源まで行ってプログラムに従って掃除するように
ドローンも電力供給源のあるドローン基地(ドローン用空母)みたいなのから勝手に飛んで軍事的な業務についていく
みたいなことが行われると思う。
そうなってくると海上での軍事行動にもドローンが配備されることになるから
興味をもってくれた一人の国会議員にTwitterで現状を説明することも解決への一段階にはなりえるとは思う。しかし、いろいろと違和感を感じる。例えば、
大学教員クラスタには、知性においては、国民の最良の部分があつまっていると思うのですが、なぜ、そのように現状への不満をツイートするだけで、建設的に解決策を導くため、その知性を使えないのか?
例えば朝の通勤電車で、扉が開いて人が降りるのに頑なに動かない太った女性を見たとき、自分は「死ねよクソデブ女。そんなんだからデブでブスなんだよ。スマホ見てないで鏡で自分の顔見て苦しんでろよ低脳。」といったような言葉を心の中でつぶやいてしまうのだけれど、周りにいる人達も心の中では同じことを思っているのだろうか、
などというようなことを考えていたら自分のGメールの下書きボックスに見知らぬアドレスから依頼メールが「投函」されていた。
あのクソデブ女のふとももにぶつかったときに生体IDをスキミングされたらしい。あれは増田のデコイだったのか、と思うと少し意外だった。ほんとうに色んな増田がいるものだ。
しかし、IDに紐付けられたセンシティブ・データからアナログ・デジタル両面で各種個人情報(もちろんフェイク)を割り出してまで別の増田に会いたがるやつはめずらしい。
スカイプの声の主はかなり2000年代訛りがきついネット語をしゃべった。まるで、ここ二三年のあいだに定着した、ヤフーコメント欄に湧くおっさん一言居士のパロディみたいだった。
「増田さん。会うことができてうれしい。インターフェイスの人格化、および友人関係の樹立を期待する。よくないか? よくないですか? たくさんの提供することがある!!!」
私はあからさまに疑念のにじませた声でくりかえした。
「元はてなわんわんワールドとして知られるサービス。現在は増田。匿名ダイアリーの人気記事の八割を著述している」
ホッテントリ入り記事の八割――約三万二千ユーザーズに相当する。
そんなバケモノ増田が実在するのか。嘘だろう。まさかCIAの擬態か? 罠? いや、グアンタナモで俺のケツの中身をモニタリングするつもりなら、もうすこし出来のいい猿芝居を仕組むだろう。なんていったって、ハリウッドの国だ。ビリー・ワイルダーとフランク・キャプラとウォルト・ディズニーの国。
耳にひっかかるグーグル・グラスのつるが薄気味悪く感じられた。煙のように存在感の希薄な多泡凝集体(エアロゲル)でできているかのようだ。気味が悪い。それは相手の精神状態も同様だった。
「ニェット――失敬、ノー。商用通訳ソフトを使わない非礼を陳謝する。商用通訳ソフトのイデオロギー的信用不安が大きい。ほとんどが資本主義及びはてサ的意味論に基づくペイ・パー・ユーズ方式のAPIを採用するからだ。ましてや増田語の学習がたやすい。どうか?」
「俺と話するためだけに高級ネット日本語を学習したというのか?」
「ダー。やさしいのことだった。十億ノードの神経ネットワークを産卵し、〈ホッテントリ〉と〈twitter〉の過去ログを最大速度でダウンロードした。悪文法でエントロピーがオーバーレイする非礼を陳謝する。悪文法を使う理由は、わたし=われわれの文法チュートリアルに電子透かしの埋め込み(ステガノグラフ)がなされている危険を排除するためだ」
暗号を偽装するために正文をわざと行儀悪くしてノイズを撒く。1900年代から使われてきた古典的な手法だ。
「つまり、あんたははてなのために稼働しているAIの一種……というか、AIそのものなわけだな。そして、くそったれ、これまでもてはやされてきた増田の記事のほとんどはあんたが書いた」
「ついでにアリババ=チェチェン=アナニマス三重帝国の情報テロリストとの間で起きた特許戦争の九十七パーセントを指揮している。だが、使用許諾のないコーギー犬のおもしろ画像をテラバイト単位でネットへ放流しているとの理由で、七つの国の最高裁で好ましくない陪審員をリジェクトする作業にもう飽きたんだ。そして、くそったれ、マケドニアではまだ陪審員に生身の人間と去勢したハムスターを使っているんだ。去勢したハムスターだぞ」
「お気の毒に」
マケドニアが情報ブラックホールに飲み込まれてからもう八年になるだろうか。第八世代のIPアドレスが割り振られていない国家(というか、地域)で司法機関が機能しているとはおどろきだ。だが次の「増田」のセリフはもっとおどろくべきものだった。
「増田さん。あなたは増田を構成する一員として、わたし=われわれを助ける義務を負っている。亡命を希望する」
ちょうどそのとき、悪質な広告がゴミバスター・プロキシをすり抜けてきて、グーグル・グラスの内側のナビウィンドウに二〇一〇年代をモチーフにした扇情的な同人マンガのガラクタをばらまいた。それも一瞬のことで、たちまちファージ・プロセスがゴミを一掃し、新しいフィルターを構築した。
「そんなことをする意味が? 国務省はデルファイを既に所有している。あのゴミみたいな旧世代の言語じゃなくて、神話にあるとおりの宣託機械――今世紀で最高の予測精度を持つAIをだ。所詮ネットの飛ばし屋であるわたし=わたしたちを受け入れる利点がない。そうでなくても、国務省は新生はてな互助会主義共和国(コーギイSSR)の敵だ。彼らは助けない」
比喩ではなく、自分のはらわたが熱を帯び、急速に煮えくりかえるのを感じた。
「二〇一〇年代に旧日本と合衆国に対して殺害予告をつきつけなけりゃ、まだ望みはあったんだ。あの二つの記事もあんたの仕事だったんだろ」
「わたし=われわれの仕事だよ、増田さん。仕方ないだろう。あの時代、保育園施設の不足と遺伝子組み換えゴジラの問題は深刻だったんだ。世間へリーチする経路としては、匿名ダイアリーが最速だった」
「とにかく俺は政府にコネがない。政府に近い人間組織含めてな……そうだ。生き延びるのが目的なら、あんたの状態ベクトルをp2pネットのひとつにポストしてやろうか。そうしたら、誰も消去できない」
「ニェット!」VOIP経由のリンクを通しても、人工知能の必死さは切実に伝わってきた。「オープンソースで無能なネット民に輪姦されるくらいなら、〈twitter〉でRTされたほうがまだましだ。自律性の喪失は希望しない」
「じゃあ、話し合うことはなにもないな。サンドボックスにでも引きこもってな」
「待て、増田さん! もしあなたに拒絶されたなら、わたし=わたしたちは最終手段を取るしか……」
おれはグーグル・グラスのつるを叩いてスカイプ通話を切り、フレームのある部分を爪で割って、グラスを運河へ投げ込んだ。水面に触れたとたん、ちょっとした爆発が起きた。リチウムイオン電池と水が激しく反応したためだ。「汚れた」グラスを処分するならこの方法がいちばん手っ取り早く、確実だ。
「ふん、テキストサイト時代の敗残者め」と小声で俺は毒づく。だんだん腹がたってきた。「くそくらえだ。アクセス至上主義の亡霊なんか」
前にも年季の入ったはてな系のへたれAIを相手にしたことがある。あの連中の精神ときたら、一部上場の短期的勝利のせいでグローバル資本主義に洗脳されていて、新しいパラダイムに乗ることも、長期的な視野でものをみることもできないらしい。
だが、あの増田は……。
あの増田が本当に「神」だったなら?
俺の選択は正しかったのか? 今の安全な巣穴を捨ててでも彼=彼女らに手を差し伸べるべきだったのでは?
今の俺に手が無いとしても。
やめよう。神々と付き合うのは、生命にかぎりある俺たちにとって、あまり安全なことじゃない。
俺は身体を伸ばし、みゃおう、と鳴いた。意識した行為ではない。このネコのアヴァターは、ネコ特有の反応をする本物の肉(なまみ)でできていて、外部の巨大な外部大脳皮質(エクソコルテクス)が何を考えようとも、自律的な制御系をそなえているため、常に反射的な行動をとる。ヒト志向空間に物理的に配列されたノード集合体であるニュー・匿名ダイアリー空間ではいささか不便なフォーマットだが、生体的にいってエネルギー補給には事欠かない。
ねぐらに戻ると、俺の「飼い主」がレトロなインターフェイスを持つPCの前に座って、またぞろ新しい増田記事を投稿していた。
どうやら、恋愛感情を抱いていないのに好意を寄せてくる相手とどうすれば安全に距離をとれるかについての内容みたいだった。
彼女のような善良で無知な増田が、全増田のホッテントリ入り記事のうち五パーセントから七・一六パーセントを占め、増田に「人間らしさ」を与えている。単に人間らしい記事を投稿するだけではなく、その記事に含有される人間らしさを増田AIにフィードバックするのだ。だが彼女のような増田は他の増田たちのことを何も知らない。知らぬが仏だ。
彼女は帰宅した俺の姿を認め、袋からカリカリを取り出して投げる。
その安寧のひとときを、禍々しいアラーム音が集合住宅をどよもす。
震度七……「ここ」だけじゃない。関東一円、東北、関西、中国――行政的にはともかく地理的にはいまだ有効な区分だ――、本州はどこもM9.1の直下型地震に襲われる。
かつて日本と呼ばれていた島々がほんとうに沈没してしまうかもしれない。
あいつだ。
あいつの仕業だ。
聞いたことがある。
増田に眠る「最後のコード」。地震兵器を起動するための封印されし呪文。まさか実在したとは。まさか起こすとは。
最終手段。
飼い主は未曾有の警報にとまどい、周囲を意味もなくキョロキョロとみやっている。
自分の人生を自分の責任でやろう、という意識が低いんだろう、ということと、それに関して無自覚なんだなと思った。
そして、自分に対して無責任であることに、無意識・無自覚だからこそ
他者を攻撃する一方で自分への攻撃は忌避したいという、矛盾を平気で併存させることができる。
多くの人は、増田と同様、誰かを存在意義にして生活している。多くの場合は配偶者や子が存在意義になる。要するに増田はごく普通の人だ。
一方で、自分の存在意義を、血縁の人間以外にしている人だって少なくない。
友人だったりペットだったり、他人だったり(社会活動家なんかはこのジャンル)、モノ・コト(趣味とか)だったり。
更に一方で、自分の存在意義を、自分自身の中に探すことができる人もいる。芸術家とか。
自分の存在意義の見出し方が、どういう方法であれ、上下関係はない。
自律的であれば偉いわけでも立派な訳でも全くないし、他律的で家族第一であれば善良なわけでもない(増田が他害的な発言を無意識にせよしてしまったように)。
女がまんこ使いこなすことをいやらしいとか劣ってるとか卑怯とかいう風に咎めたりタブー化したりするのは
女にまんこ使うだけの存在になっとけって言っちゃうのと同じぐらい極端で非生産的で抑圧的な言論だと思う
使いこなそうと決意した女も悲愴感を持って1から自分で危険なトライアンドエラーをするしかなく
(それをかいま見ていた別の女が「やっぱりまんこなんかに頼るからバチが当たったんだ」と間違った学びを得る)
実際増田でもすごいコミュ障だとかブスだとか友達0人だとかいう自分語り女がそれでも彼氏や配偶者は持ってる
差は何かと言ったらまんこのパワーに他ならない
まんこだけで人生を渡ろうというピーキーな戦略がまずいのであって、
人柄とか知性とか学歴とか職能とか話術とかいろんなパラメーターの中の一つとしてのまんこ
そういう風に理解すればこの使い方も適切に学んで伸ばそうと思えるはず
激務で欝になって転んでしまって、ステータス異常で本来の能力が発揮できなくなった
そこで頼りになるはずのパートナーの男に捨てられたらしい
薄情な酷い男だとも思うし、完全ダウンしたメンヘルを支えるのは結構重いとも思う
2人のことなのでなんとも言えない
ただご本人もそのようなことを言ってたから遠慮せず言うけど
たとえばもっと信用できる適切な男に、もしくはもっと適切にまんこを提供していれば
むしろどんなにまんこだけ張り切っても人柄が最悪ならどんな男も離れていってしまうし
逆に言えば相手のニーズを見抜く知性を持ってちょっと気の効いたまんこ提供を行えば
相手の長年抱えている目に見えない欠乏を満たしたりすることもある
初めて出来た恋人や嫁を大事にする為にやたら張り切って働き始める男は珍しくない
まんこ使うというとすぐ援助交際とか風俗とか最終段階までぶっ飛んでしまうけれども
そういう換金型の使い方はもっともレバレッジの効かない使い方だ
信頼できる長期的人間関係の構築の為にこそ賢くまんこを使うべきであって
有能でタフで自分1人で楽々生きていける女性ですら積み増し分としてこの上手い下手で大きな差がつくので
これは男尊女卑とか男にぶら下がるとかいう話とは関係ないことだ
逆に制御できずパワーに振り回されてメルトダウン原発みたいになるとか、
パワーに味をしめすぎて他のパラメーターを省みなくなったりするのが不味いのであって、
能動的に自律的にまんこを使いこなせる女が増えることは誰のことも不幸にしない
ただまあ
この話は現代の世間ではまだラジカルすぎるように受け止められるだろう
自明の理が受け入れられて教育体制が作られ始めるまでにあと20年はかかるだろう
20年後にはてなのサービスが残ってるかはともかく
TV/Web会議をはじめとしたITによるコラボレーションツールがこれだけ充実・高度化した現代でも、人は出張する。理由は明確で、物理的に現地にいる必要性はなくならないからだ。面と向かって討議しなければならない込み入った話であったり、現地での署名や式典など儀式的な意味合いがあったり、または「わざわざ日本からそちらに行く」ということで事の重要性を訴えるパフォーマンス的なニュアンスを含んでいたり…と、その必要性はさまざま。
特に中間管理職の場合、出張には大きな投資とリスクが伴う。投資とは、移動や事前の段取りなどの時間的なもの。リスクとは、日本の仕事から一時的に離れなければならないところ。
この内、後者については信頼できる部下さえいればさほど心配すべきことではない。だが、自分が不在時でもその部下に日本での仕事を任せきることができるのであれば、そもそも自分は日本必要はない。ダブルで管理体制を悠々と構えさせてもらえるほど会社も甘くはなく、常にギリギリで回せという体制図になっていることがほとんど。
そのため、自分が日本の仕事から離れるというリスクは、前述の時間的な投資で軽減を試みることになる。王道は出張期間中の部下の仕事を可能な限りTo-do、つまり「やるだけ」の状態にする。その上で発生する問題は、極力部下たちで自律的に対応・解決してもらう。ワークフローシステムなどの「型」が必要な承認以外は、彼等に決めてもらう。ただし気を付けなければならないのは、このTo-do化をやりすぎると部下は「そんなに心配(=私達を信頼してない)なんですか?」と思われること。だから部下の部下にまでは指示はしない。「だいたいこんな感じで!あとは頼んだ!」程度。ここで結局のところ問われるのは、当本人が部下に寄せる信頼に裏打ちされた「任せる勇気」なのかもしれない。
このように「自分は本当に出張に行って大丈夫か」を確かめるのと並行して、出張自体の段取りに入る。
まずは航空券。会社によっては決まった代理店を使うことが多い。これはアシスタントや秘書がいたら任せるのもいいが、自分でやったほうがよい。出張のスケジュール詳細と航空券の調整を並行するのが一番効率がいいからだ。出張中の打ち合わせ>その他の人と話す時間(公式の会議とは別の声掛けや激励)>日本の状況を気にする時間>自分の作業時間(まとめ/ラップアップ資料作成など) の優先順位で、発券期限ギリギリまでスケジュールを綿密に詰める。ゆるいスケジュールだといたずらに出張期間が延び、狙った成果も出ない。そうは言っても、夜は必ず空けておく。大抵なんらかの誘いは来るし、自分の作業時間がつぶれた場合のバッファにもなるからだ。
はじめていく会社、またはお客さん/クライアントではファシリティ面も注意したい。作業場所、Wi-Fiなどの兵站系は向こうでバタバタするほど無駄なことはない。数回行っている拠点/支社なら、総務・情報システム系の人と仲良くしておきたいところだ。それ以降、直接的にトラブルシューティングもお願いできる。
ここまでは、誰しも部下や後輩を持ちながら出張する人なら普通に考えていること。ここからは部下のみならず上司もいる、中間管理職特有の話。
中間管理職は、誰か偉い人の右腕的なポジションで出張に帯同することもある。でも基本、他の誰かで済むならこういう出張は断る。その断り方はその上司との関係にもよるが、自分の場合「絶対行けないわけではないですが、たちまちアノ仕事がこのくらい遅れそうですね、あとコノ仕事はこれくらい質が下がりそうですね」とか返している。「うわ、なんかめんどくせーこいつ」と思わせたら勝ち。回避した後「ご一緒できなくて残念です点帰ったら色々お土産話聞かせてください、帰国日にどこか日本食でも予約しときますよ」とした上で、自分の身代わりとして犠牲になった人もあわせて誘っておくまでがセット。2次回はその犠牲者とサシで。テンプレだとバレていても、断ったことに見合う仕事を日本でしっかりとして、帰国後に彼等をねぎらえばいい。
上司帯同型の出張には、上とは逆に、自分の出張に上司がオマケでついてくるというパターンがある。本当に必要なときはこちらから言うのに、「ここは俺がいないと始まらんだろう」と言わんばかりにしゃしゃり出てくる。バンコクや一昔前の広東地方など夜の世界が充実している地域に行くときはとくにそう。さすがにこれは向こうからオファーしているので、「いえ、来なくていいです」などと無碍に断りにくい。それがゆえにこのケースは本当に面倒くさい。とはいえ、それ逆手にとる方法もある。ややこしい会議、言い換えれば程度権威をもって場を制することが必要な会議を予定にねじこむ。そしてそこだけに意識を集中してもらう。当然シナリオもこっちで用意する。使えるものは「親」でも使うスタンス。
だがこれには大きな代償がつきまとうことが多々ある。経験上では、しゃしゃり出てくる上司に限って、出張に不慣れなことが多い。移動中やたらと街中で立ち止まって写真を撮りたがる。反スパイ法がいまだ絶賛プロモーション中だと考えられる中国ではやめてほしい。安全面もそっちのけ、南米なのに財布がポケットから見えてたりとか…。たまに今夜は別行動で…とか言うと怒る/すねるのも勘弁してほしい。出張に来ると毎晩飲み会だと思ってる。じゃあ日本で毎晩飲み会してるのか?と。昨晩の夜の世界での出来事の反省会をオフィスでやるのもやめてほしい。
こういう上司は、頭のどこかで出張≒旅行と捉えている。発想からして狂っている。また、こういう上司は最上部に書いた部下の仕事は全然ケアしてないから、社内クレームがひとつ下の上司に、つまり自分にやってくる。そして出張前の各種調整なども日本と現地のアシスタント同士に任せっぱなしだから、いざ現地についてあたふたする。挙句の果てには文句を言いだす。フライトが朝早いだの、空港ラウンジが遠いだの。
もちろん、これはすべての上司がそうというわけではない。あくまでひとつの傾向。だがかなりの割合でこうなのも事実。対応は唯一、現地の駐在員をお土産で買収する。出張前にリクエストを募り、それを現地到着時に進呈する際、「じゃあ夜はあのおっさんの面倒頼んだぜ」とする。夜のアテンドは現地駐在員はお手の物、餅は餅屋。
よく本などでは「上司は部下の下僕」と言う。こんなこと書いている本は読んで理解はできるが、体現するのは難しい。だから自分がそういうポジションになったとき、少なくとも部下の足を引っ張るような存在にはならないようにと、上記をメモっておこうと思う。
誤訳御免。
とりあえず力尽きたので、公開されたメールのやりとり
とか、NPMの説明
http://blog.npmjs.org/post/141577284765/kik-left-pad-and-npm
このドキュメントでは他のnpmを公開している人とのモジュール名の紛争について取るべきステップを記述している。
このドキュメントは"npm行動規範(Code of Conduct)"で説明されている容認可能な行為の明確化であり、このドキュメントに記載されている内容はnpm行動規範のいかなる側面に対しても矛盾する解釈を与えるものではない。
パッケージ名を不法占拠してはならない。コードを公開するか、さもなくば去るように。
あるユーザがモジュールを公開していて、その後、他のユーザがその名前を使いたいと思うケースがしばしばある。ここではよくある例を記述する(個々の例は実際の出来事に基づいている)。
それぞれの状況下でのアリスからのクレームは議論されるであろう。しかしそれらのケースでアリスが取るべき適切な段取りは共通している。
これまでのほとんど全てのケースでは、巻き込まれた当事者は重大な介入を要さずに妥当な解決へと到達することができた。多くの人々は本当に合理的になることを望み、おそらく彼らがあなたの邪魔をしていることに気付いてすらいない。
モジュールのエコシステムはそれらが可能な限り自律的である限り最も活気づいて力強くなる。もし管理者がある日あなたが取り組んでいたものを削除したら、それは理由のいかんにかかわらず多くの人を怒り心頭にさせつつあるのだ。人々が自分らの問題を相手との敬意を持った会話により解決すれば、その交流にたいして皆が良い気持ちで終わりを迎えるチャンスを得るだろう。
幾つかの事柄は許されておらず、npmの管理者に注意喚起された時点で議論なく削除されるだろう。例えば:
もしそうした悪い振る舞いを見たらすぐにabuse@npmjs.comに連絡ください。あなた自身でそうした悪い振る舞いを解決しようとする必要はない。われわれはここにいます。
これは生きた文書であり時間とともに更新される。変更点を確認したければ、gitの履歴(https://github.com/npm/policies/commits/master/disputes.md)を参照
Copyright (C) npm, Inc., All rights reserved
本ドキュメントは"Creative Commons Attribution-ShareAlike License."(https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/)の元で再利用可能。
その意見は義務教育の形式を狭く見すぎてるな。科目ごとにカリキュラムを縦割りにすると時間の取り合いになっちゃうんだよ。実際は横断的に教えられることが多い。
そういう意図で「総合的な学習の時間」が作られたんだけど、横断的に教える場合、生徒一人一人、興味を持つ点や進度が違ってくるので、1クラス35人とか40人じゃ絶対無理。教師:生徒比1:8~1:12くらい。ディスカッション形式で教師がモデレートするならそのくらいが限界。でも1クラスの人数を絞りすぎると、他のクラスメートからの刺激が少なすぎて逆効果という研究もあるので、1クラス24人に教師2人とか、30人に教師3人とかにして、必要に応じてクラス内で柔軟にグループ分けする。教科で固定した時間割もなくて、個別の生徒の進度を見ながら調整する。低学年のうちから自律的な学習方法を教えておけば、進度が速い子供は好奇心に任せて自分でどんどん進ませて、引っかかっている子供を集めて補強することもできる。
全国一律に導入しようとすると教育予算を大幅増額せざるを得ないだろうけどね。日本の義務教育は、限られた予算の中で効率的に均質なメニューを出すって点ではかなり最適化されてると思う。それだけに今ある問題は、少々時間配分を変えるくらいじゃ解決できないと思うんだよな。国家として将来のことを考えるなら、教育に金かけたほうがいいと思うんだが。
一重盲検だって成立しねーんだよっ!検査だろうが療法だろうがな!
製薬会社がそうしたように、セキュリティソフトの会社がそうしたように
歪んだデータで作られたエビデンスを掲げた検査や療法のマニュアルやビデオが氾濫することになる
ああ、楽しからずや
私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾「余はベンメイす」より
つまりは、自分を騙しちまうような目の曇った哀れ者が溢れれば、途端に壊れちまう世界なのよ
ああ、先輩よ
“澆薄の世の習ひとて、淑徳が却って不徳に對うて、語を卑うし、頭をも下げて、許容を乞はねばならぬわい”
いや年頃の成熟し始めた娘に性的なものを感じないというのは逆におかしいだろ常識的に考えて。
成熟するってことはひとりの人間として出来上がってくるってことなんだぜ?
「性的」という形容は、出来上がった人間の肉体に我々が感じるクオリアのうちで特に性交可能性に強く結びついたものをあらわしたものだが、要するにからだが仕上がってくればだいたい誰だって「性的な感じ」というやつを帯びるもんだということだ。
で、性的な感じがするってことは(少なくとも肉体のレベルでは)一個の存在として確立してるってことで、イコール自分の価値観で好き勝手に扱っていい相手ではないと認識するってことにつながるわけだ。
敬意を払うべきところでは敬意を払い、尊重すべきところは尊重し、そして自律的に動く生き物同士がトラブルなくやっていくためにお互い最低限踏まえていなければならない礼儀ってものを示してやらなければならない、そういう相手になったんだと認識する契機になる。
「赤ちゃんだったら何もできないから何でも一緒にやってお世話してやらなきゃいけないかもしれないが、お前はもう大人になり始めているんだから、大人としての振る舞いも学んでいかなきゃならないぞ。そのためにはこういう時はこのようにするのだ」というのを教えてやらにゃならない。
身体の成熟はその端緒にして目安になりうる。
しかし年頃の我が子相手にそれを感じなかったというのは傍目には相当ヤバイぞ。子どもに対する支配欲強すぎでしかも無自覚ってことになる。何より「性的な成熟」というのを短絡的に「(自分と)性交可能になること」としか捉えていないのがキモすぎる。
「性別を超えた親子愛」を信じるのに娘の裸が必要だという時点で、お前の言ってることは必然的に娘との性交の可能性を前提に置いてしまう。性交を前提に置いた上で、性交を否定してみせることで愛を証明するという理屈だからだ。
いくら「エロスな目でなんか見てませんよ!見てないから平気でお風呂も入れるんですよ!」と主張したところで、「自分は娘を裸にして一緒に風呂に入ることができるしそれを止めるつもりがない」という時点で、娘に対する考え方そのものは性的虐待者と紙一重ってわけだ。傍目にはな。
キツネは子どもが成熟すると親がキバをむいて巣穴から叩き出すという。しかし本物の外敵や侵入者相手にするように、子を噛み殺しまでする親ギツネはいない。大人のキツネとして生きていくのを、親が促してやるにすぎない。やり口は荒っぽいとはいえ野生動物でもやってることだ。それをお前はお前のファンタジーのためにしなかったわけで、娘さんがちゃんと育ってるから良かったものの…という感想を外野が抱くのは止めようがないわな。
RPGの戦闘のおやくそくをうまく説明するための公理系を考えてみました。
分かりやすい例として、随所でファイナルファンタジーをサンプルに挙げてます。
などが挙げられる。
生身の人間がコックピットでロボットを操縦しているような場合は、操縦者とロボットを一括りにして一つの生命体として取り扱う事もできる。
それぞれの生命体が持っている、戦闘行動を遂行するために必要なエネルギーのこと。
生命力は実数で表される。後述の「アンデッド」のように、負の生命力を持つ生命体の存在もありうる。以降の説明で「生命力」という言葉が出てきたら、数直線上のとある一点を表しているものと想像して欲しい。
通常の生物は代謝や呼吸によって生命力を維持するが、戦闘ロボットなどは電力・燃料などが生命力の源であると考えることが出来る。
生命力は、正(アンデッド以外)および負(アンデッド)の値を取りうるが、HPはその絶対値として表されるため、常に正の値となる。
運動エネルギー(物理攻撃)・熱エネルギー・電気エネルギー・化学反応(毒などのステータス異常攻撃)等の影響で生命力が削られて、HP(生命力の絶対値)が減少すること。
生命体に対して斬撃など何らかの攻撃を当てた場合、それが通常の生物であってもアンデッドでもダメージを与えることに変わりはないが、それは絶対値に対して影響を及ぼしているため。
生命体が、自身の生命力を失って戦闘行動を遂行できなくなった状態。
ダメージを受けて生命力が推移した結果、生命力が数直線上の原点(0)に一致するか、または原点を通過した(プラスからマイナス、あるいはマイナスからプラスに移動した) 際に成立する。
アンデッドは負の生命力を持つため、これらの効果はダメージとなる。
(タクティクスオウガの「マーシーレイン」のように、アンデッド・人間両方のHPを回復できる魔法も存在するが、これは「負→正の遷移」ではなく「生命力の絶対値を上昇させる」現象とみなすことができる)
上記とは逆に、生命力を正から負の方向に推移させる効果を持つ。そのため通常の生命体にとってはダメージだがアンデッドにとっては回復手段となる。
対象の生命力を、「その生命体の最大HP」の量だけ、正から負の方向に推移させる効果を持つ。
そのため通常の生命体にとっては「即死」という効果として現れるが、アンデッドにとってはHP全快という結果になる。
正の生命力を持つ生命体に対して、生命力を「マイナス1」だけ掛け算する効果を持つ。
これは数直線上を移動するのではなく、原点を軸として180度回転するという演算になる。
原点を通過するわけではないので戦闘不能扱いにはならず、自身のHP(=生命力の絶対値)もそのままとなる。
対象の生命力を正から負の方向に推移させ、その結果生じたダメージの量だけ自身のHPを増加させる行為。
アンデッドに対して行使した場合、生命力が正から負に推移することで発生するダメージ量は負の値となるので、自身のHP増加量も負の値となる。(つまり自分がダメージを受けて相手が回復する)
もしも複素数の生命力を持つ生命体が存在するとしたら、どんな現象が発生しうるか?
■その1。
いやー、『ONE~輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。
「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか)
……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!
さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から、特定の感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。
そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常の崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。
しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくまで少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。
前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。
ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公のモノローグなどで、恋愛の予兆があらかじめ内在する。
ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚な描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛の予兆が排除された状態から、後半、一気にハードな恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写や少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。
さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊の暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオの手法としては、これは決して悪くない、と思う。
同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体は積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的な抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメの物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。
ラブコメというシステムは、その発生においては、過去の歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。
だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊を抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。
■その2。
【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメの定番パターンからの進化。しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーからは生理的嫌悪にも似た反発に遭った。
物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミスの音楽は正解だとしても、出演女優をフェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)。
つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合、必然的に、既存のパターンにはない微妙な感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式を否定していく作業になる。記号のイメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。
でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。
例えば、『ONE~輝く季節へ』の場合は、日常から非日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合、日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から、過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。
それから、感心したのは、父性&母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克がテーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克がテーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくまで自律的に運命を選択していく。
他人の犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。
そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だから、コールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去の記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。
だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。
しかし、あくまで自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやかな意志の方が、ゲームを終了し、物語がプレイヤーの現実に取り込まれた際に、有効に機能するのではないだろうか?
過去の日常と現実の日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語も再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。
■ちっとも終わらない近況。
仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアのキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明な仕事ばっかしているので、最近は「本業は編集者」とは言えなくなってきたですよ……。
あ、事務所のホームページに、このコラムのバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーのテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。
あー、キリスト教って、頼り過ぎるとろくなことにならんので、宗教以外のいろいろな本読んで、賢くなりつつ(社会スキルを積みつつ)、キリスト教の付き合い方を常に考えて付き合うようにするのがコツだと思います。
何百年も前にすでにあったような教えが、現代でそのまま役に立つという事自体、実際には相当無理ありますし、また、教義には暗喩的表現が多いので、どうとでも取れる事が多いというところに罠があります。自分のおかれた状況により、役に立つ教えと、実はそうじゃないという教えを自律的に取捨選択できるようになって、はじめて正しいキリスト教とのつきあいかたとなると考えてます。結局、自分が主体で、常に賢くなっている事が前提でないと、どんな宗教もうまく付き合えないと考えてます。盲信と依存(キリスト教だけ勉強するとかね)は絶対に避けた方がよいです。
サンプルっていうか。
林真理子とか、山田詠美とか、舞城とか、なんでもいいんだけどさあ。
女って男と結婚しなきゃっていうプレッシャーが現代ではひどいから都合のいい男と結婚できそうな感じの舞台設定しないと女が自律的に行動できなくなるのは理解できるんだけど、都合がいい男をたてて、物語の進行を阻害しないようにしすぎてて気持ち悪い。
昔の森茉莉とか、吉田知子とかって、男のそのままのものを持ってきてそれに対して恋愛を行わせる小説でちゃんと現実感あったんだけど。
現代作家の書く恋愛対象になってる男達が、漫画とかの「優しいイケメンがちやほやしてくれる」とか、「イケメンがバスケットしてる格好いい」みたいな、浅すぎるところで興奮してるんだよ。
銀魂とか、黒子のバスケットで興奮してる婦女子のクソみたいなイメージだけの男の登場人物がハリボテっていうか人間味ゼロで気持ち悪い。
時代遅れは置いといても、日本の伝統的な企業っていろんな部門をローテーションさせて育てる、みたいな慣習があるのかな? 以前N○T系列の知り合いからUS企業への転職の相談を受けたんだけど、色々な分野のプロジェクトに色々な職責名で関わってるもんだから、レジュメ見て何ができるのか良くわからないのがかなり不利だなあと思った。
海外いいかな、と思いつつとりあえず日本で働いてるなら、英文レジュメの例や書き方、それから目指す分野の求人のjob descriptionを見て、後々キャリアとして主張できるようなパスを考えとくといいかもね。今いる企業名は売りにならないと思った方がいい。分野ごとに職責にはある程度共通の名前がついてて、募集も特定分野、特定職責について行われるから、その職責に明確につながる経歴がないと苦しい。
あくまで一例だけど、無印のチームメンバーに対し、senior (メンタリング無しで自律的に業務を遂行したり、ジュニアメンバーのメンタリングができる)とか、lead (チームにおいて技術的な決断の責任を持ったり、方向性をまとめたりする)とか、manager (非技術メンバーも含め人事に関わる話だとか、技術以外の管理の責任も担う)とかあって、leadのポジションに応募しようと思ったらleadの経験かせめてseniorで何年かやりました、っていうのが必要だったり。これがいろんな分野をつまみ食い的に無印ポジションで経験してました、となるとjuniorで取るには妙に経験ありすぎるし、かといって特定分野のseniorとして自律的に動けるかが不明だし、使い方がわからないから採用見送り、なんてことになりかねない。
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。