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2013-09-23

なぜフランス革命は分かりにくいのか

フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である

のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています

平民(第三身分)は、農民都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わず家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワ民衆との境界層です)。しかブルジョワ民衆意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。

ブルジョワ民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります

実際にフランス革命の流れを追ってみます

革命が始まるまで

普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオン総裁政府軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます

しかしその当時フランス社会構造がどのようなものフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります

わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきますブルジョワ民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた

などを読んでみてください。

またもっと伝統的な、革命の精神を称揚するタイプの解説として

があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。

革命の始まり(1789年 5月~10月)

(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)

1789年5月5日ヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。

しか7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵組織します。

7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まりバスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます

新たに組織されたパリ市当局ブルジョワ民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります

一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります

自由主義貴族だけでなくブルジョワ議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます

8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます

これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます

しかし王は特権廃止の法令人権宣言批准せず、9月末には治安維持名目ヴェルサイユ軍隊を集結させます

10月5日食糧危機を訴えるパリ民衆ヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令人権宣言批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会パリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内政治分裂も本格化していきます

91年憲法の制定まで(89年末~91年9月) (革命勃発後1年目、2年目)

(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)

議会パリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます

1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます

また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります

さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こりますカトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるものフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります

91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります

これを受けて、外国支援された亡命貴族が攻めてくる、外国侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制しかます

7月には主要な政治組織であるジャコバンクラブが、王の廃位共和制要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。

8月にオーストリアプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます

そうしたなか9月3日立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。

開戦、王権停止(1791年10月~1792年8月) (革命勃発後3年目)

(インフレ物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます国内の多数が開戦を支持するなかオーストリア宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会召集を決議します)

憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員ほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派フイヤン派議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます

なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります

また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります

議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義あくまで守るのか、民衆要求を受け入れるのかも問題になっていきます)

これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治イニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉対外戦争あおります民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。

92年3月、フイヤン派大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリア宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争ナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。

しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆政治的組織化されていきます

そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。

ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会召集を決議します。これでフランス共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります

王の処刑、戦争の拡大、ジロンド派の没落(1792年8月~1793年6月) (革命勃発後4年目)

(戦争フランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土占領します。93年1月には国民公会裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土占領国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります議会ではジロンド派山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派逮捕議会から追放されます)

8月10日王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命裏切り者排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。

そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。

この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります

一方、この事件国外からの印象を非常に悪いものします。宥和政策を取っていた隣国スペイン首相宥和政策撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます

戦況にも変化が生じますフランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパ情熱と苦悩』)。

そのヴァルミーの戦いと同日、国民公会が開会します。

普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められていますフイヤン派出馬していないので議会におらず、共和制穏健派ジロンド派共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派ジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)

ジロンド派経済的政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則あくまで重視し、山岳派革命の推進と防衛のためには民衆要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。

……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。

93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派一党独裁(ただし基盤の脆弱独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります

2012-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20121115180145

逆に言えば全国の小学生の生き残り6993374人の平均寿命80年だから概算で559469920時間まり63,866年、を保つためのコストとして799年払う計算だよな。元増田トンチンカン算数によれば。

800円出したら6万3千円超分が買えるってどんな取引だよ。

http://anond.hatelabo.jp/20121115175235

で、時間資源比較として799年と80年×2の比較が成り立っていることは理解できた?

阿呆。天秤にかけるなら生き残った時間同士をかけるべきだろ。

追記した前トラバ論破してからしろ

そして、おかしおかしいと言うのなら、時間資源として比較する上で適当単位を持ってきてよ。俺は時間のもの単位を合わせて比較するのが、妥当だと思ってるけど。

時間のもの単位を合わせるなら延べ計算できないか799年という計算にはならないんだって何べん言ったらわかるんだこのド低能がァアーーッ!

お前は時間資源時間資源と言っておきながら実質労働資源を測っているの! 自覚しろスカタン!!

http://anond.hatelabo.jp/20121115173528

から元増田は「0ないし2人」を助けるための資源として1年に799年かかってるという計算にしてるでしょ?

でもそれは頭が狂った人間所業なんだって今まで散々説明してきたよね?

1年間に799年時間資源が使えるという発想が狂ってるし実際に使われる労働資源にしても救助活動への資源で計上するんだって言ってるよね?

元増田799年10人分の「人生」って言ってるんだから最初労働資源じゃなくて時間資源認識していたことは明白なんだよ?

お前は途中まで時間資源労働資源の区別もついてなかったくせにここまで指摘されてやっとわかったからって阿呆なのを開き直るなよ?

論点はそこじゃねえとかいうけど最初から論点はここだったし結論も元増田計算はオカシイってことでFAだったよ。

コストベネフィットで考えるなら、生かすための失われる延べ時間と、助かったことによって得られる人の残り寿命の延べ時間比較するのは、妥当だろ。

これと比べたら実際の救助活動や治療にかかる時間なんてものは、それほど大きいものとは思えない。

なにを言っているのか意味がわからないレベル

生かすために失われる延べ時間799年の事か? 残り寿命とやらは多くて2人死ぬんだから6993374人、平均寿命80年だから概算で559469920時間まり63,866年ってことか?

799年支払って6万年超買ってる計算なんだが?

こんなお買い得な話があるかよ。

http://anond.hatelabo.jp/20121115172519

から、「0ないし2人」を助けるための労働量とは実際の救助活動や治療にかかるコストとして算出するのが適当であって、799年かかってるという計算にするのは頭が狂った人間所業なんだよ。

それに799年かかってるがゆえに0ないし2人の被害で済んでるんだとしたらどうすんだよ。

避難訓練無い時代火災被害人数でも引っ張ってこないと避難訓練コストがどうこうなんて言えねえんだよ。

馬鹿すぎるだろ。

http://anond.hatelabo.jp/20121115171134

端的に言えば、日本資源として利用できる時間は、365日じゃなくて約1億2000万人×365日なの。

違うよ。全然違うよ。

日本だろうがアメリカだろうが「資源として利用できる時間」は365日だよ。

お前の計算式で産出されるのはいうなれば労働量であり、それがつまり作業量や売上金額という形でより具体的に数字化されるんだよ。

1人が1時間無駄にするのと、6993376人が1時間無駄にするのとでは、コストとして比較にならないことが何でわからいかな。

何人で無駄にしようと「資源として利用できる時間」で考えるなら1時間は1時間だよ。

6993376時間すなわち799年無駄になったという計算にはならないんだよ。

なぜなら6993376人が時間的に同期しているからだ。

799年無駄にしたという計算は6993376人一人一人それぞれに一時間ずつ割り当てて訓練した場合にのみ成立する。

その場合労働量をこそ延べ6993376時間すなわち799年分と計算することができ、かつ799年分の労働量を1時間で成し遂げられるので学校での年一回一時間避難訓練時間有効活用していると結論付けることになる。

本当何でわからいかなこんな当然の計算が。もしかしてひきこもり学校行ってないとかなのか?

悪いこと言わないか小学校から通い直せ。

こいつホントはわかってんだよ

ただ自分のアホすぎる誤りを認められないだけなんだよ…

だってありえねえだろああい計算で損失799年て。

流石にわかってるよ。ただ言い出しちゃったから引っ込みがつかないだけだ…

http://anond.hatelabo.jp/20121115170236

http://anond.hatelabo.jp/20121115165944

おいおい頼むよ勘弁してくれよ

またそこに戻ってくるのかよ…

それはつまり、ロスされる時間をそのままコストとして計算していたことが文章から理解できなかった

「ロスされる時間」っていうのは一年に一回一時間なの。元々。

それを延べで799年と計上することが狂ってるの。そういうコスト計上は出来ないの。延べ計算対象じゃないから。

元増田記事はその記載内容を正しく把握され、かつその記載内容の狂いっぷり故に突っ込まれているの。

ドゥーユーアンダスタンンンン!?

http://anond.hatelabo.jp/20121115164945

なにこれ。この1時間に時給でもつけて金額計算しないと比較できないの?

やっとわかってくれたか!?

そうよ、「延べ」の計算は本来売上金額だとか作業量を測る場合しか使えないんだよ!!

まりお前の「6993376人の1時間=6993376時間799年」という計算からして大間違いだったわけ!!

アホってこええな

計算間違いなのはわかってるが敢えて乗ってやらあ。

ベネフィットの算出はどうなってんだよお前の脳内では。

1.4%の児童が被害に遭ったというなら、逆に言えば残り98.6%、実に689546874時間が訓練で救われてるんだろ。

78,715年。ほぼ8万年が救われるわけだ。

799年なんて誤差だ。

http://anond.hatelabo.jp/20121115163513

http://anond.hatelabo.jp/20121115163513

お前驚異的なアホだな。

わかってねえのはお前だよ。何がわかってねえかもわかってねえだろ。

元増田は、日本全体で薄く広く799年時間を奪うよりは、0ないし2人の人生犠牲になったほうが良いと判断したんでしょ?

避難訓練時間は、それがなくなれば個々人の活動に振り分けることができるんだから、これは延べ計算でいいんだよ。

避難訓練時間は、それがなくなれば個々人の活動に振り分けることができるんだから、これは延べ計算でいいんだよ。」

ヤバイ。本当にヤバイ。驚異的なアホだ。驚異を通り越して流石に怖くなってきた。

避難訓練時間一年に一度一時間計算だ。これは元増田が記事の中で実際にそうおいた仮定だ。

度数えようと一年に一度一時間一年に一度一時間だ。

何人が他のどんな活動に振り替えようと一時間は一時間であって799年に伸びたりしない。

本当にわからないのか? 何を述べで数えようってんだ?

http://anond.hatelabo.jp/20121115082912

どういうツッコミだよそれはw

単位別に年でも日でも時間でも秒でもいいんだが、365日は365日であって291390.666日にはなりえないよね?

「1年のうち799年時間をつかっている」って話としておかしいよね?

これがある仕事(作業)に対して必要とされる延べ労働量が何時間分とかいう話ならまだわかるよ。

でもこれ仕事の話じゃなくて訓練だから必要なのは作業成果っていうか訓練経験なの。

まりそういう理屈ならむしろ話は逆で、「仮に一人一人に一時間ずつ訓練を割り当てて行くとしたら全児童に訓練経験が行き渡るまで799年かかるところを、みんな集めて1年に1回で済むんだからコストめっちゃ安」っていうことになるわけよ。

こんなもん詭弁の初歩だよひっかかるなよ。

「皆さんが静かになるまで10分かかりました。わが校は300人生徒がいるので3000分かかった計算です。こんなに時間をかけていてはみんな逃げ遅れて死にます」とか言い出す校長がいたら頭おかしいだろうがよ。

http://anond.hatelabo.jp/20121115013634

すると、1年間に日本中で行われている避難訓練にかかる時間数は延べ6993376時間

これはおよそ799年に相当する。

0点。1年が799年に引き延ばされる道理があるかアホが。

書いていて自分はバカだなあ結論ありきだなあと思わなかったのか?

避難訓練とか以前に、普通にきちんと小学校に通いなおすべし。

避難訓練により毎年10人の小学生が亡くなっている

校長先生の「皆さんが静かになるまで10分かかりました」、消防士の消火実演でおなじみの小学校避難訓練

果たして、これは意味あるのだろうか?

データを見てみよう。

建物用途ごとの火災発生状況 学校:292件

全国の小学校の数:22000校

学校で1度だけしか火災が起きず、かつ、そのすべての火災発生の時間児童がいる時間帯であったという仮定をしても、1.4%の児童しか避難訓練恩恵を受けておらず、残り98.6%の児童にとって、火災経験していないため、避難訓練不要ものしかない。

実際は、深夜の放火しかも特定の学校を狙った執拗な犯行といった偏りにより、避難訓練不要となる児童さらに増えるだろう。

これに対しては「万が一の備えが大事なのだ」と言う反論があるかもしれない。

だが、次のデータはどうだろう?

火災種別・建物用途別における死者の発生人数別火災件数 学校:0人

日本小学生の数:6993376人

そう、0人なのだ平成17年データを見ても、2人である

まり学校における火災による死亡の危険性は極めて低いのだ。

一方で、避難訓練にかかる時間コストはどうだろうか?

1回の避難訓練に1時間かかり、毎年1回避難訓練が行われるとしよう。

すると、1年間に日本中で行われている避難訓練にかかる時間数は延べ6993376時間

これはおよそ799年に相当する。

人生80年とすれば、10人分の人生だ。

そう、避難訓練により、毎年10人の小学生人生が失われているのだ。

この失われた10人分の人生日本中の小学生に薄ーく割り当てられているため見えづらくなっているが、小学校避難訓練コストリスクを上回っており、トータルでマイナスになっているのだ。

結論:小学校避難訓練は今すぐ止めるべき。

使った資料

統計ホームページ

http://www.stat.go.jp/data/nenkan/22.htm

平成22年(1月~12月)における火災の状況(確定値)

http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/houdou/h23/2306/230624_1houdou/01_houdoushiryou.pdf

総務省消防庁 平成17年(1月~12月)における火災概要(概数)

http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/statistcs/h17_12.html

2009-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20090831161712

yearのうるう年の処理

うるう年の処理は

  1. 400で割り切れる年はうるう年
  2. それ以外で100で割り切れる年は平年
  3. それ以外で4で割り切れる年はうるう年
  4. それ以外は平年

という処理なら分かる。でも実際のコード

  1. 400年から799年まではうるう年
  2. それ以外で100年から199年は平年
  3. それ以外で4年から7年まではうるう年
  4. それ以外は平年

という処理になってる。

あと、urの処理で頭が混乱してると思うので、

  • i年の秒数加算(urで判定させつつ)
  • (i+1)年のur(うるう年)の判定

で2パートに分けると、わかりやすくなるよ。

monthの処理

  • n月以上なら、(n-1)月の秒数を足す

という処理が、実際のコード

  • n月なら、(n-1)月の秒数を足す

という表現になっていて、3月以降の加算が無効になってる。

off-by-one error(一個外れエラー)にならず、正しく書けているところ、

3月以降に、ちゃんとうるう年の処理が入ってるところは素敵。

演算子を正しく理解すれば、上達するはず。

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327144334

歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。

以下、主要な長さの定義や起源wikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。

メートル(現在)

現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。

1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。

メートル(起源)

1791年フランスにおいて初めて規定された。

以下の3つの案が検討され第1案が採択された。

  1. 地球北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1
  2. 赤道の周長の4000万分の1
  3. 北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ

これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

キュビット

肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。

紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。

それ以外の多くの西洋の文化でもキュビットが使われた。

ヤード

0.9144メートル

キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤード起源とされる説は多数ある。

フィート

1/3ヤード

足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。

インチ

1/12フィート

男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。

これとは別に、イングランドエドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。

マイル

1,760ヤード

マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。

リーグ

3マイル

元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。

海里

元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。

現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。

10/33メートル

古代中国の殷の時代には既にあったとされている。

元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。

後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。

大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。

古代中国の周代に制定されたものである。

歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。

後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。

1/10尺。

当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。

周代に尺の10分の1とされるようになった。

漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。

6尺。

中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。

60間。

丁とも書く。

条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。

太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。

後に6尺を1間とする60間となった。

日本では36町、中国では500メートル

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。

日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。

律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。

ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

 
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