はてなキーワード: 中間派とは
Twitterを開けばcolaboの話題ばかりで本当にうんざりしている。デマとかそういう以前に、あまりにくだらないとしか言いようがない。
そもそも「公金の不正使用」とか「税金の無駄遣い」とかの問題にやたらに熱心な連中は、相手にすべきではない。
第1に、実のところ問題にしているのは「公金の不正使用」などではないから。10数年前に官僚・公務員の「税金の無駄遣い」を執拗に攻撃していた人たちが、安倍政権下のモリカケ問題を熱心に擁護し、現在の五輪汚職でも何一つ反応していないのがまさに象徴的だ。本来の主張を正直に主張すべきなのだが、それだけと支持者はごく限定的になってしまうという計算から、「公金の不正使用」「税金の無駄遣い」の問題にすることで、中間派を騙して釣って味方につけようとしているわけである。悪質としか言いようがない。
第2に、colaboの「公金の不正使用」を暴き出すことに成功したとして、そうした扇動的な世論の盛り上がりの結果起こることは、業務を委託されている公益団体が「不正をしていない」ことを証明するための余計な業務が激増するか、めんどくさいからすべて民間の営利企業に丸投げするかになるだけで、おそらく社会的弱者にとっては何一ついいことがない。兆単位の金額の不正や政府や政権の中枢が関与しているというならともかく、一NPO団体の「不正」に血なまこになる理由がどこにあるのだろうか。今のところ、悪質な詐欺や犯罪的なことに手を染めているわけでは全くなく、その「不正」に対する怒りとしては度を越しているとしか言いようがないだろう。
この問題の発端である暇空茜氏は完全に馬鹿馬鹿しい陰謀論に染まっており、最大限好意的に見ても立花孝志と同じレベルの人物で、まだ真面目に付き合っている人が多いのが不思議である(特に弁護士など知的職業に従事している人で)。
(追記)
正面からの批判ではなく、揶揄・嘲笑で批判するというのはこれまでもよくあることだけど、それに「そんな話題に興味持っているのお前だけだろ」みたいな新手の揶揄が登場していることが驚き。
増田のホットエントリも一時期この話題だらけだったから、否応なく目につくし、興味を持つなというほうが難しいはずで、「そんな話題に興味持っているのお前だけ」は嘘と断言していい。
今マスコミが一番狙っているのは四女のスクープ。(報道関係者の内輪話を聞いて盲点を発見)
忘れないうちに一応メモ。
麻原は、自分のことを詐病だと言っていた四女を遺体引受人に指名したという。
(江川紹子さんも四女の虚言に騙されていた)
理由は、面会時に麻原が四女にだけ分かるように話しかけてきた、ということ。
「さとか…」それは、私にだけ聞こえるくらいの小さくて懐かしい父のこえでした。
父は右手で自分の口を覆い隠すようにして、笑い声でごまかすように、私の名前を呼んだのです。
看守は気付かなかったようですが、私には聞き取れました。
ということは、四女と麻原との間に会話が成立していた。
(他に会話が成立したという人は、東京拘置所の職員を含め誰もいなかった。)
オウム真理教の松本智津夫元死刑囚が6日の執行直前、東京拘置所職員に、自身の遺体を四女に引き渡すよう伝えていたことが7日、関係者への取材で分かった。
とするなら、麻原と四女との間に、何らかの「取り決め」があったから、四女が選ばれたと考えられる。
四女は過去に、アレフのトップに立とうとしたり、新しい教団を作ろうとしていた。
――その事件で村岡さんはA派から中間派に転向したと言われるわけですが、一時は村岡さんたちが四女を担ごうとしたわけですね。
これらの事実を踏まえると、「四女を教祖とする新教団を作りなさい」という麻原の指示があり、四女はその指示に従って行動していると考えられる。
麻原と四女の間に何があったのか?
私はハゲている。
毛は勝手に生えてくるし勝手に抜ける。生えてほしいところには生えてくれないのに、要らないところの毛はやたらと伸びる。
自分の体に生えている一番長い毛は乳首の横に一本だけ生えているチーくん。もはや友達だ。大切に伸ばしている。
女性が脱毛にお金をかけるのは自分のコントロールの効かない部分を制御するためなのだ、という文章をどこかで読んだ。たしかに自分も自分のコントロールの効かないハゲに頭を抱え、更にハゲを助長させている気がする。
ハゲはつらい。部下の女性と目が合わず、彼女の目線が上の方に行くのが分かる時が何よりつらい。風が多少なりとも吹いている日は前を向いて歩けない。濡れるとさらに悲惨だ。海やプールへの誘いを一体何年断り続けているのだろう。ちなみに私はまだ20代なので、同僚たちのフサフサで艶のある髪を見て自尊心が傷付けられる。
ちなみに皮膚科に通っている。肌が弱いのがハゲの原因の一つにあるみたいだ。でも治療の成果が出ている気はしない。AGAについても調べたが、薬の副作用が怖いなと思って以来気が進まない。スキンヘッドにする勇気はまだない。頭の形が悪いし、頭皮に湿疹があるからできるだけ隠したい。
その人類は毛が一本も生えない。その代わり、オシャレカツラ産業がとても盛んだ。人々は自分をオリジナリティ溢れるカツラデザインで表現する。カツラの色や形にも流行や世代があって、カツラを見ればその人がだいたいどんな人間なのかが分かる。
まつげやまゆげが無いのは目に悪い気がするから、目を保護するためのつけまつげ、つけまゆげが普及している。あとつけ鼻毛も。つけ陰毛で愛を表現する人たちなんかも現れる。
人類は毛をコントロールし、デザインし、肉体のすべての制御を手中に収める。人類がまだ制御できないものは死とうんこくらいだ。
そんな世界になったら、チーくんと離別することにはなるものの、ハゲによって磨り減った私の心は輝きを取り戻し、海に行ったり風雨の中を堂々と歩いたりできるようになるのだ。自分が制御できないもので判断されることは減り、我々は我々のことを自分の思うままにデザインすることができる。
でも、私は飽くなき人類の一員なので、毛の制御だけに飽き足らず、健康な肌や、凛々しい目や、高い身長に憧れて、それら全てを制御できる世界を夢見ることだろう。そんな世界での外見は、インターネット世界のアバターみたいなものなのだろうか。
だいたい皆同じような美しい体や顔を持っていて、派手な装飾品やありえない色合いで差異を付ける。しかしそんなアバターばかりが増えてくると、自分のありのままを受け入れる「自然派」が一番だみたいな主張をする人たちが現れる。
世界は「アバター派」と「自然派」と「中間派」に別れ、それぞれに所属する人間たちにはなんとなく特有の傾向が生じてくる。そして終わりのない論争が起きる。昼下がりのワイドショーでそれぞれの派閥に所属する人間たちが唾を飛ばし合う。
「人間は与えられたものを受け入れるべきだ」「いいや、与えられたものだけで生きて行くのに苦痛を感じる人だって居る」「自分が苦しいと思うものだけ改善すればいいじゃないか」そんな怒号が飛び交うワイドショーから『今日のわんこ』にチャンネルを変えるところまでを想像し終わると、私はいつも考えることをやめて、頭皮に軟膏を塗り、チーくんが今日も元気かどうかを確認する。
オタクが「表現の自由戦士」と笑われているけど、リベラルもゾーニングを推進しすぎて大概だわ。
でも、原理主義みたいにそれを推進したら、うまくいくはずない。
例えば最近話題のコンビニのエロ本問題だって、すでにゾーニングが実施されている。
そういう本は店の片隅に置かれていて、子供は立ち読み・購入を禁止されているが、これはゾーニングの一つの形態である。
子供たちはそういう卑猥な本を軽蔑するようになるし、それを買っているエロオヤジのことも軽蔑するだろう。
私は撤去しなくても、この現状のゾーニングでちょうどいいと思うけどね。
もし店内でエロ本を立ち読みするオッサンが怖いというなら、本をビニールで包んで、大人も立ち読みができなくするくらいの対策はしてもいいかもしれない。
ただ、コンビニに陳列してあること自体が問題だというのは、私の感覚ではちょっと理解できない。
リベラルが言っている「見たくないものを見ない権利」は、行き過ぎた過激思想ではないか?
実際には「どっちでもいい」と考える人たち、または「どちらかというと不快だが許容範囲」くらいの中間派がたくさんいるはずだ。
現役教員の自分から見るとそうやって訴えてる人をみると「働きたくないでござる」感を感じてしまうのは気のせいだろうか。
休日出勤なんて今の日本でどれだけ行われていて、人権無視した労働をいくらでも行わせているところはあるわけで、ワ○ミとかね。
必ずしもそれを「是」と肯定するわけではないが、今の部活動問題に「働きたくないでござる」感が漂うのはなんでだろう。
教育にかける情熱はみなさん同じのはず、なのに部活動をやらない教員に対してやっている教員からみると「働きたくないでござる」感を感じ取ってしまうのはなぜだろう。
それは自分がもはや洗脳されているからなのかな。「学校」というシステムに。
今日も部活動の指導をしてきた、6月は何かとイベントが立て込んだので、明日ようやく6月で初めての休日がもらえる。
1日のみの休日なんて翌日の準備やたまってた私用を片付けてたらあっという間に終わってしまう。
趣味のゲームもパズドラのスタミナがダダ漏れになるし、新作のゲーム(オーバーウォッチ)も買いたいが買う踏ん切りがつかないぐらいには時間がない。
平日の帰宅後の過ごし方をもう少し無駄がなくせるかもしれないが、1日が終わると割と疲れてしまう。
そんな生活送ってる1日の最後にTwitterを見て、部活動を指導しない教員が声高に運動をしている姿をみると「働いてないのに、うっせえ」と心のどこかで思ってしまう自分がいるんだよね。
ひと段落して思う。
やっぱり自分は学校というシステムに洗脳されかかってる。確かに何とかしないと。
でも、運動している人たちにいいたい。
今部活動問題プロジェクトの主張していることは、確かに実現できれば素晴らしいことだよね。
ただ、「実現するための具体的なプロセスや予算がどこにも書いてない。」んだよね。
賛成派、反対派、中間派のそれぞれから、相当数のヒアリングをして、案を作って、どこかモデルケースを作って、予算をつけて、最も建設的な提案をしないと。
理想を掲げるだけじゃ世の中は意外と冷たいんだよ。子どもにはそれでいいかもしれないけどね。大人は理想だけでは誰も共感してくれないんだよ。
理想や願う姿を振りかざして運動するのが実に教員らしんだけどね。
でも、部活動問題を解決するためには教員の力だけじゃどうにもならない。
たぶん1ヶ月くらい?で視聴できなくなるので、今のうちに見て思った内容を書き留めておく。
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【前編】
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d151112_0.html
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【後編】
山田氏は、紅卍会の4万、崇善堂の10万、日本軍による揚子江に流した数千以上を根拠にしていたが、
崇善堂の記録は鵜呑みにできない事は歴史学者でも多数だと思うので、それを本気で根拠だと思うなら
当時の南京の人口は135万、ここから80万が脱出し、それに中国軍人も加えて60万はいたと推定していた。
ここだけ若干歯切れが悪かったような印象、陥落時の人口問題は確かな史料が無いからそうだろうねえ・・・。
それ以外は終始無難なやりとり。
これまで南京事件論争ではあまり名前の出てこなかった人だけれど、この中では一番若いせいもあるかもしれない。
秦氏は山田氏と違って、まぼろし派に対して攻撃的な発言が目立った。
やはり笠原氏らと共に長年論争の中心にいたため、特に学術的態度の悪いまぼろし派に対しては
色々と思うところがあるようにみえた。
推定数は4万と明言していた。
著書の「南京事件」は、後の増補版にて「4万をずっと下回る」と追記しているが、
積極的に「4万よりずっと少ないはず」と主張する気はないようだ。
幕府山事件の捕虜処刑について、「長勇がやっちまえって言ったから、軍民まとめた殺しちゃったんだ」
長勇みたいな勢いで幕府山でも処刑しちゃったんだ、って意味で語ったのかもしれないけど、あの流れでは誤解されちゃう。
(ひょっとしたら、秦氏は最近南京事件の研究から遠ざかっていて、記憶があやふやになってるのかもと個人的印象)
藤岡氏は相変わらず。
南京の陥落時人口は20万でほかは無人だったから30万は無理説の古臭い論法。
秦氏が「無人なわけない、日本軍が入った時はみな隠れて様子を伺うんだから、みてないのは当たり前」というツッコミにも、
藤岡氏は「入った時に人はいなかったって日本兵が言ってんだから」で押し通していた。
秦氏のツッコミも城内の安全区外が無人かどうかに終始していたのは残念だった、虐殺の多くは城外なので。
ベイツら安全区委員会が残した具体的被害記録も、死者はゼロなんだと主張するお決まりの詐術を使っていたが、
それは中国人から聞いた死者は伝聞だからノーカウントという、まぼろし派の恣意的フィルタをかけているからだ。
安全区内、金陵女子大学の程瑞芳が記録した日記についても「日記に記した死者はゼロ」と強調していた。
だが程瑞芳日記は女子大学という性質もあって、日本兵による強姦が多く記されているが、藤岡氏はそれには意図的に触れない。
こういうやり方はやはり学術的に不誠実な態度であると言わざるをえない。
現在では一番確定的史料の残っている幕府山事件については、さすがにもはや自衛発砲説について触れる事はなかった。
しかしこの幕府山事件、山田氏・秦氏共に歯切れが良いのに対し、藤岡氏は最初言い訳を考えるのにしどろもどろの印象だった。
最終的には拘束後の処刑も「戦闘中ですから問題なし」と強引に解釈する論法で突破を試みていたが、
それに対してはさすがに司会者も「え?戦闘終了後ですよね?」とごく当たり前な反応をみせていた。
「あれは戦闘中なんだ」と藤岡氏が強弁する横で、秦氏と山田氏は「そんなわけないだろう」
という表情で顔を見合わせていたのも印象的であった。
各氏、番組に出てもらってるので、あんまり番組上で論破して面目を潰してしまうようなマネは
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
※個人的な意見・憶測が多く含まれます。
(2)あんまり信じてないけど活動家に誘われたら学会活動に参加する人(中間派)
(3)信じてないし活動もしない人(未活動派)
(4)学会に批判的な人(批判派)
おおまかに分けたけど、それぞれの境界にいたり、どっちも兼ねてたり、
しんどい時だけなんとなく信じてみたりする人もいると思う。
学会に疑問を持つこともあるので4も入ってるかな。
昔は1タイプにならなきゃいけないともがいたり
いろいろあって4のど真ん中まで行ったりしたけど、
案外どーでもいいんだって心境になり、現在に至る。
選挙前に電話してきたり、新聞を取るようお願いしてきたりする人。
(1)のタイプの人はあんま気にしてないんじゃないかな。
「外部からの妬み嫉みはほっとけ!」って割り切るかんじ。
でも「学会」じゃなくて「学会員」に対する批判に関してはわからない。
「選挙前だけ電話してくんな」とか「彼女に折伏されて鬱」みたいなのには
やっぱり思うとこがあるかもしれない。
内部にいないとわからないような情報が流れてるし、
実際の内部からの批判も目にするから、
(批判を心の中だけに押しとどめている人も当然いる。)
(4)のタイプを更に細かく分類するとしたら、
a・具体的な批判材料を知ってから批判するようになった人
ずっと執着を持って批判してる人には(4)bタイプが多い気がする。
まずわかりにくいので「未活動」という言葉について。
学会活動に一切参加しない人のことを活動家が「ミカツ」と呼ぶことがあって、
直接どういう意味か尋ねたことはないんだけども
おそらく「未活動」の略だろうと考えてこの名前をつけてみた。
今はまだ活動してないけど、これから活動していくだろう人ってニュアンスかな。
小学生の時にはたくさん地域の会合に来ていた同年代の学会の子が、
社会人になる頃にはぱったり……というのはよくある話。
成長していく過程で、名簿上だけの学会員になったという人はすごく多いはず。
そんなに熱心でない家庭とか、子供の信仰に関わらない家族であれば
前者はこじれると(4)の批判派に転じることもあるし、
学会員の家族を持つぶん、学会批判はかなり刺さってくる。(自分もこのクチ)
批判されても「そういや学会ってそうだよなー」って傍観視できるかも。
「あまり信じてないけど活動家に誘われたら学会活動に参加する人」と定義したけど
これは相当幅広い。人によってスタンスが全然違う。
なのでまた乱暴に分けてみる。
(境界にいる人やどちらの要素も持っている人もいるので要注意)
a・やっぱり信じた方が良いのかなーという気持ちを持って参加する人
c・心底行きたくないけどなんだかんだで連れ出されてる人
ここでいう「(中間派を誘う)活動家」っていうのは、地域の学会員だったり、
(2)aの場合はまだ自分の中の信仰が揺らいでいるので、
学会の内部の声も外部の声も気にしている状態。
学会批判を見たら素直に捉える子もいそう。
(2)bは、信仰についてaと同じように迷っている人もいれば
信仰については固まっているけど、人間関係を守るために付き合うという人もいる。
どちらにせよ学会関係の知り合い(家族・友人)を切り捨てられないって点は同じ。
(2)cも結局bに似てるのかも。
自分の意思としては学会に属するつもりはないけど、
学会関係の人にひっぱられて、はっきりNOと言えず……というパターン。
a・b・cに共通して言えることは、学会内部の人を意識しているということ。
学会の考え方に賛同はできないけど、学会の人との人間関係を壊したくない。
だからこそ学会批判は「自分の身内のものへの批判」として聞こえてくる。
例えるなら、お前の母ちゃんでーべそーを知らない人から言われてるかんじ。
母ちゃんをかばいたくても、母ちゃんがでべそなのは事実だから何も言えない。
でべそが良いか悪いかっていう議論が起きても、
自分自身「でべそはちょっとみっともないかな……」とか思っちゃってる。
でも母ちゃんは好き。たとえでべそでも自分にとっては大切な母ちゃん。
そんな母ちゃんもみんなから見たらただのでべそのおばさん。
こんなジレンマが中間派を悩ませる。未活動派の一部の人もそうかな。
ちょっと話が前後するんだけど、中間派と未活動派についての話。
親しい友人や先輩、家族からの学会活動の誘いを断るのは結構勇気がいる。
一般の人が、学会員(活動家)から選挙の電話を受けるのと大差ない。
「友人としては良いやつだけど創価は無理だわ」みたいな気持ちはどこかにある。
違う点は、今考えているのは二つ。
1つ目は、対象が「友人として」以上に身近な存在であるかもしれないこと。
一番多いのは親や兄弟。あんまりないかもしれないけど親友や先輩。
同じ家に暮らている人を「家族としては良い人だけど」って前置きして語るのは
たぶん不可能に近いと思う。どんなに小さくても葛藤は存在する。
信頼したいしされたいのに、信仰のためにそれが叶わなかったりもする。
ここらへんは前にも書いたとおり、相手との温度差による。
相手が人の信仰を気にしない人だったり、そこまで宗教に篤くない人であれば
2つ目は、「友人としては良いやつだけど創価は無理だわ」の後に続く
自分の家族が信仰を持っていること、自分が学会の近くで育ってきたこと、
学会批判に対して苦い思いをすることなど、
自分を「創価学会に関わっている人間」だと感じる機会はたくさんある。
今さら声高に学会批判して周囲を敵にまわすのもなんか違う。
学会員の良い面も知ってしまったから、もう外部の人と同じ感覚には戻れない。
要するに「きゃあ三色旗だあ、キモーイ」って言える立場じゃないってこと。
信仰心がない学会員の目線で書いたので、(1)活動家についてはかなり不十分。
活動家をひとくくりにするのも変なんだよなー。
一般的な「学会員」のイメージ通りにすごく干渉してくる人もいれば、
組織に疑問を持ちながら折り合いをつけて活動している人もいるので。
いったんこのエントリはおわり。
また関連したものを書いていくかも。