はてなキーワード: 指定校推薦とは
回避性パーソナリティ障害は、自己否定が強く、失敗や批判を極端に恐れ、対人関係や社会活動において臆病になってしまう障害だ
診断を受けたのは回避性パーソナリティ障害と気分変調性障害
長いことうつ症状と付き合っている
過干渉の母親とネグレクト父親のもとに育ち、小学校・中学校・高校では理不尽な難癖をつけてくる教師達に勉学と道徳を説かれた
当時、容姿が悪く性格も捻くれた私にとって勉強は唯一誇れるステータスだった
特に決定打となる具体的なきっかけは無かったが、明らかに肉体的にも精神的にもエネルギーが枯渇していた
徐々に学校にも通えなくなっていき、しまいには実家の自室に籠りっぱなしになっていた
毎朝自室に起こしに来る母親に対して「胃が痛い」「頭が痛い」「動けない」と言い続けるのは苦痛だった
「気のせいだから学校に行きなさい」とまくし立てる母親に対して、口が裂けても「死にたい」だなんて言えなかった
高校は、当時の担任(私が唯一感謝している先生)が尽力してくださったおかげで不登校ながらもなんとか卒業できた
最初の数カ月こそ解放感にハイになっていたものの、すぐにまた引きこもりに戻ってしまった
親に金を出して貰ってまで一人暮らしの引きこもりをやっていること、
自分より遥かに成績の悪かった連中がAOや指定校推薦で難関大や医学部に行き、未成年飲酒の様子をSNSに垂れ放蕩の限りを尽くしていること、
心が進学を望んでいるのに体が言うことを聞かないこと、
全てが酷だった
それでも進学を諦めたくなかったので一人暮らしで浪人生活を続けていたが、翌年遂に進学を放棄し、引きこもりニートが完成した
ずっとバイトを探しているが、ここで回避性パーソナリティ障害が真価を発揮している
まず、一番求人件数の多い接客業であるが、厄介な客1人にでも出会おうものならすぐに辞表を叩きつけるであろうことが目に見えている
10代にして大人達の醜さに触れ、理不尽さへの耐性が異常に無くなってしまっている
コロナ禍においてマスクの欠品が相次いだ時、マスクが無いからと店員にキレる客が社会問題となっていたが、もし私が店員だったらすぐにでも自死していただろうと思う
接客がダメなら事務系か?とも思ったが、求人サイトで事務系として募集している仕事内容にはだいたい電話応対が含まれている
それを省いたとしても残る求人件数は数少なく、社名を検索すれば悪評が湧き出てくるようなものがほとんどだ
私は某求人サイトでヒットした事務系の求人の社名を全て検索し、ああでもないこうでもないと虱潰しに探していったら全てダメだった経験がある
頭のどこかには「やってみたらなんとかなることもあるだろう」という考えはあるのだが、それよりも「失敗が怖い」という感情が遥かに上回ってしまう
あらゆる職種に就こうと思えず、かといって今更進学を目指す気持ちにもなれない今、本当に行き場を失い、詰んでいる
誰だって失敗は嫌だ、ただ逃げているだけだ、甘えだ、そう思われるかもしれないが、
私にとってこの問題はそんな言葉で片付けられるほどのものではないのだ
人の感情を矮小化する行為ほど無礼なものは無いと私は思っている
10代にして人への信頼、新たなことに目を向けるエネルギー、ここぞという時に踏ん張る力、自己肯定感、
あらゆる人生の楽しみを失ってしまった私は、これから先どうすればよいのか
私はもう疲れてしまった
平日は普通に出社してるのに、土日はコロナのせいで家にこもって鬱々とした気持ち。鬱々ついでに今まで書けなかったことを書いてみる。自分語りでごめんね。
公立中学から公立進学校に進み、部活をやりながら指定校推薦でMARCHへの入学が決まった。高校の友人(特に部活の子)たちとは、卒業後も遊んだり合コンしたりしていた。大学は留学することもなければ留年もせず、可もなく不可もない成績だった。けど、思いがけず就活で苦労した。
先輩たちから就活の体験談は聞いていたけど、彼ら・彼女らはなんだかんだで有名企業に内定をもらっていた。だから、甘く考えていたところもあったと思う。少なくとも大学名で足切りされることはほぼないし、成績も素行も悪くはないから、どこかにはひっかかるだろうと。でも、早い段階で選考が始まる大手には見事に全落ちした。特に好きなものも熱意もない私がほんのり持っていた「やりたいこと」は、「大手企業のゆるキャリ事務職」だったのに、早々にその芽は潰えてしまった。
その上、私の就活時期は地震の翌年で、3月以降は中小企業が選考をとりやめたり、内定を取り消したりして、就活生には厳しい状況が続いた。…そんな中でも、やはり決まる子は決まるのだ。同じ大学の友達はもちろん、高校の友達も。私よりランクの低い大学の子や、「就活厳しい」と笑っていた、聞いたことのない美大の子まで。
4年の12月までかかって、やっと今の会社に内定が出た。誰も聞いたことのない、小さな会社だ。業界にも業種にもまるで興味が持てなかったけど、嬉しかった。あらゆる企業に不要のハンコを押された私を救ってくれた気がした。
女友達とは、社会人になってからもずっと会っていた。話題は学生時代とあまり変わらず、最初の3、4年は楽しく過ぎた。けど、20代も半ばになると明らかな差が表れる。仕事のレベルが開くにつれて、生活レベルもスタイルも違ってくる。「既婚者と独身じゃ変わっちゃうよね」みたいな話じゃなくて、同じ独身でも、経済的な理由でひとり暮らしのできる子/できない子、自分にお金をかけられる子/そうじゃない子、あとは、周りに色んな知識を持った人がいる子/いない子…などなど。稼ぐ力の差は明確に出るし、これからもどんどん開いていく。
今の会社にはもうすぐ8年務めることになるけれど、給料はびっくりするほど安い。かろうじてひとり暮らしができているけど、貯金はできないどころか実家暮らしの頃の貯金をたまに切り崩して、ボーナスで補填する有様だ。
その上、これほどリモートワークが浸透してもうちの会社は対応していない。せいぜい時差出勤で、マスクを消費し、怯えながら出社している。自分よりずっと高収入な友人が、リモートワークとUBERイーツで家から出ずに働いている状況をSNSで確認しながら。
いやらしい話だけど、稼ぐ子の彼氏は高収入だ。いやむしろあなた、無職の男性養えるよね…?ってくらい稼げてる子でも、そういう例ってほんとに見ない。まぁ、仕事や趣味の場で知り合うことが多いから当たり前だけど。いくらマッチングアプリが市民権を得ても、やっぱりそういう、周りの環境ふくめた恋愛の方がお互い本命になりやすいんだと思う。マッチングアプリは、関係がふたりの間で閉じすぎていて嘘がまかり通ってしまうし、信頼関係を築くまでに時間がかかり、しかもお互い同時に複数の人とやりとりをするという難しさがある。結局、高収入な男性と結婚したければ、高収入な男性のいるコミュニティに入るのが1番だったのだ。
勝ち負けで考えるのは良くないとわかっているけど、私の人生は負け、なんだと思う。
好きなことも得意なこともなく、それを見つけようともせず。明らかに大学卒業後から、描いていた将来図からズレた。結婚に夢も持てないけど、結婚しないと私はますます辛いと思う。結婚する・しないを本当に選べる女性って、余裕を持って自分を養える人だけだと思う。だから私みたいなのは焦れるのに、アプリにも疲れてしまったし、コロナもあるしで何もしてない。言い訳ばかりの人生で涙が出る。
地元の私大には馬鹿ってバレてるから推薦もらえないのに、遠くの日本トップレベルの誰が聞いても羨む有名私大から推薦もらえるって何?意味がわからない。
体育祭、文化祭はコスプレ大会。卒業式はヘアメしてティアラつけて馬鹿でかい花束持って。絵に書いたような馬鹿高LIFE送ってこっちが3年間勉強しても受からない私大の推薦もらえるなんてほんと人生イージーモードだよね。
こっちは1年の頃から毎日授業でも朝でも帰りでも小テストやって、土曜日も学校に行って、朝補習もあるし夏休みも冬休みも半分以上補習。体育祭はメガホンさえ持たせてくれない。当たり前だけどスマホ禁止。
自分はまあ国立受かったからいい。いいけどさあ、周りにはまだFラン私立しか合格なくて後期まで私立受けて未だに不安抱えてる人だっているんだよ。
そんなに勉強してそれかよって思われるかもしれないけど、それはそうだけど、でも馬鹿高のトップよりは勉強できるわ。
指定校推薦の人は吐きそうになりながらセンター試験受けたりなんてしないでしょ?白髪になったり円形ハゲになったりもしないでしょ?どんだけ辛かったと思ってんの。センター試験は模試だと思って受ければいいとか信じられない。
まじで指定校はクソ。
合格実績
東大0
京大0
東工大1
一橋0
国公立医0
地帝0
慶應1
上智3
明治29
法政42人
現役時点でMARCH以上の大学に合格できるのは学年上位1割までという大魔境でした。
自分では赤っ恥だと思っていたのですが、いざ蓋を開けてみれば、こんな大学でも現役で受かれば学年平均より上だったのでおどろきました。
愛知県のように地域4番手(≠4番目)の高校でも名古屋大学に複数人受かるような田舎の人には信じられないと思いますが東京都立高校のレベルは本当にこんなもんです。
てか、後に調べてみたら東京に限らず神奈川や千葉や埼玉の偏差値60台前半のローカル名門校もこのくらいグズグズな進路レベルでした。
もうすぐ最後のセンター試験である。もっとも、諸々の仕様変更があった結果来年度以降の「共通テスト」も現行のセンター試験とあまり変わらなそうではある。結局センター試験+個別の2次試験というシステムはベストではないがベターな仕組みなのだろうと思う。
高校時代1人の友人がいた。彼は学校の先生になりたかった。そのためには教育学部(いわゆる教員養成系、旧帝大の教育学部は名称こそ同じだが教員を目指す課程ではない)に入る必要があった。教育学部の中で一番レベルが高いのが東京学芸大学であり、第一志望は学芸大だった。ただ、教員養成系というジャンルの特性上、一番レベルの高い学芸大でもセンターボーダーは7割5分から8割程度で、旧帝一工のようにべらぼうに高い訳では無い。したがって、元々頭の良かった彼はかなり余裕をもって学芸大に受かった訳である。
YouTuberグループ東海オンエアの虫眼鏡氏も概ね似たような経緯で愛知教育大学に入っている。一定数その手の人間はいるようである。
俺の周りで第一志望に受かった人物というのは指定校推薦組に加え、一般組でも実力に対してかなり控えめな大学を目指した人間が殆どであった。そうでなければ、早慶や国立を目指してMARCH、MARCHを目指してニッコマといった人間が大半で、明治を目指して法政なら勝ち組だし、早慶を目指してニッコマというのもざらにいた。
大学受験界隈ではやたらと“第一志望”という言葉が煽り文句に使われる。しかし結局のところ大学受験は元々の地頭による部分が大きく、なるようにしかならない。現状最適という意味でよりレベルの高い大学に入るに越したことはないし、就職活動でもSPIや公務員試験において高校時代勉強した経験は活きる。その一方で、第一志望に落ちたところでそれが普通であり、別に何が起こる訳でもない。就職活動に失敗したとしてそれは大学名ではなく本人の資質の問題である。
最初に言うと私はいい会社に勤めている。人間関係もほどほどで金には苦労していない。旦那とは違う会社だけどお互い正社員でバリバリ働いてて、長期休みには海外に行っている。
ただ、私はいい大学を出ていない。MARCHよりワンランク下の大学で、指定校推薦枠が半分以上を占めているようなところで4年間過ごしていた。
いい大学に行きたかった。旦那は業界の大学OB会(何かにつけて集まりがあるやたら大きい大学)にたまに参加して、ものすごく満足げな顔をして帰ってくる。大学時代の友達も立派な人が多くて、Facebookのやりとりもすごく楽しそう。
私はサークルの同期の多くはサービス業で、あまり貯金もせずに遊びまわっている。ゼミの集まりに参加してみたけど、地銀の一般職だったり契約社員だったり。男の子も同じような感じで、趣味もなく酒とタバコに溺れる日々みたい。
中高はよかった。都内の歴史ある女子校で六本木にも近くて日々刺激的だった。大学は何も面白くなかった。ただいいところに入るために資格を取り、経験を積む場所だった。
子供ができたら絶対に良い大学に行かせたい。いい大学では学歴以上のものが手に入ると思うから。私みたいな経験をしてほしくないから。
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/07/14(金) 19:01:43.45 ID:Dzv2H1wT0
半分近く推薦で草
15: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/07/14(金) 19:03:58.32 ID:Dzv2H1wT0
半分近く受験しとらんやんけ
今年の一般定員630人
今年の入学者1223人
なお商は58%、法は3割台
ここ2014~2016の一般定員120人減による偏差値操作の傾向からするに数年後にまた減らすだろう
このままあと150人減らすと経済も3割台に足突っ込む予定
45 1 1
47 2 2
49 1 1
51 2 2
53 2 2
55 14 11
57 27 21
59 45 22
61 78 37
63 108 2
65 131 3
67 131 3
69 83 2
71 41 1
73 4 0
75 3 0
76 1 0
44 1 1
47 1 1
49 1 1
51 3 3
53 2 2
55 16 16
59 44 21
61 88 32
63 101 4
65 112 2
67 123 2
69 75 1
71 32 0
73 3 0
75 3 0
76 1 0
ちょっと厳しい言い方に聞こえるかもしれませんがご容赦を。
補足を読んだ限り、学問に対する心構えも職業に関する心構えも受験偏差値の枠でしか考えられていないように見えます。
県内国立(悪い言い方をすれば駅弁大学)に受かるかどうか自信がないのにFランをバカにしたり、同じくらいの成績の同級生が早慶マーチレベルに指定校推薦で行けるのはズルいと言ってみたり。
法学系を志望するということは、法曹(裁判官、検事、弁護士)を目指すか公務員(中央官僚、地方公務員)を目指すかです。もちろん一般企業でも活躍の場はたくさんありますが企業内法務を最初から目指す法学部生はあまりいないと思います。
法曹を目指すのであれば、勉強を苦にしていては司法試験は受かりませんし、任官してからのハードワークは受験勉強の方が楽なくらいです。
司法試験改革の失敗以降、低所得に甘んじる弁護士も多くなっています。
中央官僚は、基本的に東大京大早稲田慶応以上の世界です。駅弁大学出身で厚生労働省の次官になった村木さんという女性もいるので、駅弁大学もそう捨てたものではありませんが。
実は推薦入試で入学した学生は、企業からの評判はあまりよくありません。基礎学力が劣るといわれているのです。早稲田で約1万人、慶応で約5千人も一学年にいるのですから、早慶の中で上位にいかなければイージーモードの就職は難しいです。私立大学の入試偏差値は一般入試の人数を調整することでなるべく高く出るように工夫している面もあるのです(昨年くらいから定員は厳しくなりました)。
家から出て都会に進学したいという気持ちは痛いほどよくわかりますが、地縁血縁をぶった切って都会で一人で生きていくのは思った以上に大変ですよ。
決して裕福とは言えない家庭に生まれ、狭いコミュニティの中でそれなりに楽しく生きてきた。
常に周りには友達もいて、運動神経も良く、勉強もクラスの中では10番目以内に入るなどスクールカーストでは最上位にいただろう。
その地域では進学校と言われていた出身高校も就職と専門学校の割合が多く、一部の頭が良い人たちが大学に通う程度だった。
当時大学は頭の良い人が行くものだと思っていたし、偏差値なんてものはあまり気にしたことがなかった。
自分は指定校推薦をもらい、その高校からは入ることが難しいとされていた私立大学に合格。
大学の場所は県庁所在地にあり住んでた地域では都会扱いされ、そこに住み大学に通うなんてことは夢のようだった。
実際に大学に通い始めると多くの苦労が待っていた。
高校では優秀とされていた自分も講義に着いていくのがやっとなのだ。
しかし、これはまぁ想像していた。なんせ自分はあの難しいとされていた大学に通っているのだから。こんな高いレベルで講義を受けられるなんてむしろ誇りに思っていた。
その時期から少しずつ課外活動に興味を持ち始め学生団体に所属した。そこで他大学の人と出会う機会があり、その地域で一番優秀とされる大学出身の人に出会った。
そこで初めて劣等感を感じるとともにその人たちと一緒に団体を運営してることに対しての優越感も同時に感じていた。
自分はこいつらは違うという意識が芽生え始め、学業より学生団体の活動を中心とした生活を送るようになった。
セミナーやシンポジウムへの参加、団体メンバーと社会課題やビジネスについてディスカッションしている時間が自分の好奇心を満たしていた。
学生ながらにして出来るビジネスは大抵決まっており、小資本で始めることができるインターネットサービスが定石だ。
自分もビジネスをするためにHTML, CSS, JavaScriptとWeb制作をするための最低限の知識を挫折しながらもなんとか身につけた。
しかし、やればやるほどWeb制作は事業の面白みもなく、技術的な好奇心も満たしてくれないことがわかった。
周りの目も気になり下手な企業に就職するのは自分のプライドが許さない。
そこでさらにスキルを伸ばすために休学をすることに決めた。調べれば調べるほど休学にはメリットしかなかったのだ。
色々と悩んだ結果、東京でインターンシップをすることに決めた。
本当は海外に行きたいところだったがお金もなく、しぶしぶ東京に決めたところもある。
日本の中心地東京は夢の場所であり、勝手に怖いイメージを持っていた。
しかし、ここまで積み重ねてきた自信から「自分ならなんとかなる。」 とそう言い聞かせた結果、思ったよりもインターン先はあっさりと決まった。
バイト代をもらいつつエンジニアとしてもスキルを伸ばせる最高の環境だ。
社員と同様に週5で働き着実にスキルと自信を身につけていった。
そのまま東京で就職活動を行った結果、スムーズに夢の企業から内定が出たのだ。
給料は新卒平均年収の2倍はあり、内定者の多くは東大、京大、慶應、早稲田など名だたる大学ばかりだった。
自分は偏差値40代のF欄大学生であり、就職してからはとにかく劣等感ばかり感じていた。話してる内容も理解出来ないことが多くついていけない。
そこで初めて自分は全く優秀ではないことに気づき、ただただ小さいコミュニティで満足して生きていたことを知った。
本当に優秀とされる人の前ではあまりに無力で自分の実力のなさが見に染みてわかるようになった。
しかし、ここを逃げて田舎の小さいコミュニティの中で生きて行くのはこの世界を知ってしまった以上出来なかった。
本当に優秀な人たちに囲われて自分も優秀なふりをしながら常に劣等感感じて生きるしかないのだ。
自分に嘘をつき続けながら生き続けた結果、今ではとある企業から役職をもらうまでとなった。
自分は優秀なふりをするのが上手いらしい。
実力が伴っていないのは自分が一番わかっている。
しかし、もう後戻りはできない。
幸せってなんだろう。。。
高校までは一定数存在したクリーチャーレベルの醜女は、大学に行くと見かけない。私は複数の大学に在籍したことがあるのだが、どうもこの現象は偏差値にはよらない気がする(女子学生の容姿の平均レベルは偏差値と正の比例関係にあるとは思うが)。
化粧の為せる業なのだろうか。いや、ボストロールにいくら細工をしたところでおかめくらいになるのがせいぜいだろう。
おそらく彼女たちは大学に進学しなかった、あるいはできなかったのではないだろうか。
虐げられる日々の中で成績は上がらず、指定校推薦を得ることもなく、勉強が苦手でも入れそうな私立の医療・保育系は接客業の色が濃いので忌避する。残るはガチFランだが、民度の低い連中に虐げられるのを嫌ってそれも却下するのだろう。
こうして彼女たちは高卒ででき、かつ接客を必要としない労働に従事するために、あたかも消えたかのように見えるのではないだろうか。
見慣れない漢字4文字だと思うが、実はなっているという人が多いものだと思う。
眼瞼下垂とは、まぶたの筋肉が弱くなったり、まぶたの皮膚が重かったりするために、まぶたが本来の位置まで上がらない病気だ。
まぶたをあげるために目の筋肉をフルに使うために目の疲労感が激しく感じられたり、ミュラー筋が使われ続けることにより交感神経が刺激され続け、自律神経が狂うという、発症するとやっないな病気だ。
後天性の原因は、主に目をこすったりコンタクトのつけ外しによる、まぶたを過度に引っ張る行為だ。
俺が発症した原因となった行動は、おそらく小学生の頃コンタクトのつけ外しを母にしてもらっていて、その時に強くまぶたを上げられたことだと思う。
以下、発症の経緯と手術を終えるまでを書く。
3年ほど前、ずっとコンタクトを使用していた生活から眼鏡中心の生活に変えた時に、眼精疲労が朝から一日中続くようになった。
同時に、首や肩のコリが激しく、常に体に力が入っているという状態になってしまった。今から思うと自律神経が乱れていたのだと思う。
最初は眼鏡の度数があってないのかと思い、何度かレンズを変えるも全く解消せず。
ここから約2年半の間は、この謎の症状に名前をつけることに必死だった。
当時田舎に住んでいたため、眼科は近くには1つしかなく、何度もそこに通ったが、結局出されるのはドライアイの薬だけだった。
眼精疲労解消法では効果がなかったため、俺は斜位を疑うようになった。
しかし、田舎の眼科ではこれを訴えても正確に診断してくれることは一切なかった。
この時ちょうど大学受験の年だったが、眼精疲労や自律神経の乱れからとても勉強に集中できる状態ではなく、行きたい大学に受験することを諦め、指定校推薦を使い東京の私立大学に行くことになった。
2年前に上京した時は、有名な眼科や眼鏡屋があるため期待していたが、眼科には田舎の病院と同じようなことしか言われなかったので眼鏡屋を信頼するようになった。
しかし、眼鏡屋ではちゃんといろいろな検査をしてくれ、斜位に関しても細かく調整をしたレンズを作ってくれたのだが、眼精疲労が治ることはなかった。
大学生で高いレンズに手が出ず、親に沢山のお金を払ってもらったのは心が痛んだ。
結局、大学1年生の冬頃には、「斜位は見た感じわずかしかなく問題はない。コンタクトを長く使っていた人は眼鏡になれないから眼精疲労が起こっているのではないか」ということを言われ、これ以上何をしてもムダだという思いと、高いレンズを買ったのにという思いからくる絶望感もあり、斜位を治すという方向で動くのは諦めた。
眼瞼下垂は実は斜位を疑い始めた頃からこれもありえるな〜と思っていた。
「まぶたを手であげれば力が抜ける」簡単な診断方法でも当てはまったからだ。
しかし、手術が必要ということでやりたくないな〜という思いがあり、一度形成外科に行ってみたが「違うでしょう」と言われたのでしばらくは疑わず、斜位の眼鏡を作ることにしていた。
前述の通り治すことを諦めてしまい、しばらくは何をするでもなく、このまま一生を過ごすんだという暗い思いを抱えながら過ごしていた。
顔はストレスで肌荒れがひどく、精神的にも余裕がないため人間関係でも失敗しまくり、精神科にも通っていた。
ツイッターでアイプチという商品があると知り、気になり調べて見ると、どおやらまぶたを少し上げて二重を作るものだとわかった。
俺は一重だったので、二重の自分が気になりやって見ると、なんと体が少し楽になり、眼精疲労も少し改善されたのだ。
調べてみると、まぶたにはミュラー筋というものがあり、これは交感神経で作用しているため、眼瞼下垂でまぶたが落ちてくると、目を開けようとここが刺激され続け、交感神経も刺激され続けるため力が入るということらしい。
こうして、いよいよ眼瞼下垂を疑い始めた。
最初は、手術というハードルは高く、別にこのままでもいいやという落ち込んだ暗い気分で、そこから何をするでもなかった。
しかし、同時期海外旅行に行った時、飛行機の座席で、眼瞼下垂からくる体の力みから眠れずとても辛い思いをし、さらに隣の席の人はぐっすり寝ていたのを見て「明らかにこれはおかしいだろう!絶対治してやる!」と決心した。
帰国した後、さっそくネットで眼瞼下垂の名医を探し、レビューもよく見て、1つの病院に行った。
前述の通り、最初に1度、眼瞼下垂ではないと診断されているため、今回はどれだけしつこくても眼瞼下垂を認めさせてやろうみたいな気持ちで行ったが、いざ診察を受けるとあっさりと眼瞼下垂症と診断された。
やっとこの謎の症状に名前がつき、治るんだという安心感と喜びで、家に帰って軽く涙したのを覚えている。本当にあの時は嬉しかったし、希望みたいなのを感じることができた。
昨年の秋、いよいよ手術の時が来た。
保険治療ではまぶたを切開する手術しか出来なかったのでそれにしたが、正直むちゃくちゃ怖かった。
まぶたを切って糸を通して筋肉を縮める!?何言ってんだお前!?
いざ手術すると、もちろん麻酔で痛みはないのだが、まぶたの脂肪を焼き切るという作業の際に、リアルに焼肉などで脂肪が焼ける匂いが感じられ、とても生きている心地がしなかった。
終わって見ると、目がとても腫れており、明らかに失敗で異質な目になってしまったと軽くショックを受けた。
しかし体はとても軽い!目の痛みもない!ストレスが嘘のように消え、頭もスッキリした気分であり、ああ自分はやっと普通になれたんだ、これで自分はやっとまともな生活に戻れるんだという思いでいっぱいだった。
麻酔が切れるにつれ術後の痛みが出てきたが、薬を飲むことで痛みは抑えられた。
1週間はとても人前に出れるような姿ではなかったが、抜糸を終え腫れが治るにつれ、綺麗な二重の目になった。本当にいい先生だったんだなと、今頃感謝した。
しかし、以前より目の形は当然だが変化し、バイトや大学の友達からどう思われるかという問題があった。
眼瞼下垂という複雑でマイナーな病気をうまく説明できる気もせず、手術も二重整形の手法と全く同じなため整形と最初は間違われた。
しかし嬉しいことにけなされるなどということはなく、むしろイケメンになったということも言われた。いい友達で本当に良かった。
この後1度、左目が少し開きが落ちてきたため再手術をして今に至る。
やっと3年間の戦いが終わったような感じで、人生を明るく捕らえられ、気の持ちようも随分変わった。
肌の調子も変わり、フケや肌の角質がボロボロ落ちることもなくなり、とても嬉しい限りだ。
眼瞼下垂というのは、コンタクトのつけ外しによっても起こり得る病気であり、潜在的に当てはまる人が大勢いると思うし、これから増える病気だと思う。
まぶた一つでこんなにも体に影響が出る恐ろしい病気の知名度が低く、普通の眼科では見つけてくれないというのはとても怖い。
もしこれを見ている人で、同じような症状に苦しみ、まぶたを手で少し上げてみるとそれが改善するようなら、眼瞼下垂を疑ってみてほしい。
また、コンタクトをつけ外しする時は、出来るだけまぶたを引っ張らないようにした方がいいだろう。まぶたというのはデリケートだ。擦ったりするのもなるべく控えよう。
お前はバカだからそんな大学にしか行けなかった。指定校推薦で進学したやつもバカだ。
・授業、ゼミは最低限
バカがいくら勉強してもバカだから諦めろ。四年で卒業することを目標に生きろ。
・バイトは選べ
バカには思考能力が無い。その少ない脳みそ使って精一杯考えてたくさん稼げる仕事を探せ。時間あたりにたくさん稼いで、もっと自由時間を作れ。
・TOEICで900点を取れ
大学受験に比べればクソほど楽だから一年かけて勉強しろ。参考書を繰り返し解いて頻出単語や言い回しを頭に叩き込め。900あれば見る目が変わるから。取れないやつは池沼。
・運転免許を取れ
・簿記二級以上を取れ
ここまでクリアしたら少なくとも書類上は早慶下位学部の奴と同程度の強さになれる。マーチの奴らは見下してよし。
・声を大きくしろ
小学生でもできる。声帯を使って力強い声を出せるようになれ。ここぞという時にどっしりした声で受け答えすれば効果は抜群。
・笑顔を作れ
大体高学歴の学生はコミュ力に欠けることが多い。身振り手振りで差をつけろ。
面接官も所詮社員だ。お前らみたいな低学歴を採用するには言い訳が欲しい。語学力、会計の知識、自信ある態度の他にもう一押し欲しい。それがあれば面接官の奴らも上司に言い訳できる。
・他の面接者を気遣え
みんな緊張してるんだから少しくらいは優しくしてやれ。周りに気を遣えるキャラになれ。面接の時だけでもいい。
・見た目に気を遣え
高専卒の方のエントリーが上がっていたので,レアな存在である高専について私も語ってみる.何度目の焼き直しになるかわからないが.
15年前に卒業.化学系学科.情報としては古い点も多々あるかと思う.ただ学生会長で全国高専につながりを持っていたので、情報ソースは1校のみではない.
①進学が容易
後述する.
高校1年次から専門教育を受けられる.全課程が専門教育というではなく,高校や大学で履修する一般教養とのミックスになっている.年次が低い段階では一般教養の比率が高く,年次が上がるにつれ逆転するという塩梅だ.まともに単位を取っていれれば5年次は週の半分は研究だった.
①進路が固定されやすい
大多数が工業系の道に進む.進まざるを得ないといっても過言ではないだろう.感覚的に同級生の8割はメーカにいる.世界が技術系一辺倒なので,その他が見えにくい.入学時点で15歳なので、染まりやすく視野を広く持つことも難しいという点もあったかも知れないが,情報網が発達した現代はまた異なるかもや知れない.教員も普通の研究員なので,理系のアカデミアで純粋培養されたような癖が強い人がごろごろ.コースを変更しようとしても,マイノリティになるため後押しもロールモデルが少なくハードルが高い.
専門性が高い故、入学後に技術に興味がないことに気づいてしまった場合,モチベーションが下がりついていくのが困難になる.高専は受験日が普通高校に比べて早いので,度胸試しで受けてみたら受かってしまった,偏差値が高いのでなんとなく来た,という層の一部がこの状態に陥る.一念発起して3年次にセンター試験を受け大学に進学、文転したものもいた.これはレアなケース.
③恋愛チャンスは共学に比べ少ない.15-20歳という多感な時期に恋愛経験はまあ一般的に重要だろう.学科構成に依るとは思うが伝統的な学科であれば女性が少ないので競争は激しい.然しながら化学専攻などは女性比率が高い,それでも半分程度だろうか.
授業時間は90分.1年次から週1-2回のペースで半日かかる実習or実験があり,1年次から毎週毎週濃密なレポート提出を課せられる.締め切りや採点も厳しく,図書館での追加調査を含め毎週5-6時間をレポートだけで費やしていた.科学的文章の書き方の下地はここで醸成されたと感じる.専門科目が入っている分,一般教養が割かれている.歴史はなく,地理も確か1年前期しかなかった.その他普通科高校と比べて色々なものが削られていたに違いないが、よく分からない.
また,数学が難しかったことを殊更に覚えている.入学後すぐに三角関数,確率,2年次に上がる前に微積,線形代数.2-3年次で重積分,偏微分,常微分・・・.4年次以降で複素関数,曲面,群論,ラプラス変換,ベクトル場等の応用数学に入っていく.他にも電磁気,化学,熱力,固体物理・・・うっ.
①就職
就職率100%.求人倍率~20倍.県内の有力企業,大手の現業職(現場職長候補)に比較的楽に就職できる.ただ高専生は世の中のことをよくわかってないので,企業や業態研究をせずに適当に就職してしまい数年後に後悔する同級生はそこそこいた.先生も技術バカが多く,経済的なリテラシー教育はほぼなかった.私のころはインターネットの情報量も多くなく,現在はまた違っていると思われる.
②進学
大きく2つに分かれる.専攻科か大学か.
専攻科:
自校に残り,2年間の延長教育を行う.大卒の資格を得られる.ほぼ研究メインの生活を行う.研究8割,授業2割くらいか.卒業後は旧帝や技術系大学院(奈良先端科技大/豊橋技科大/長岡技科大)などに院進する人が多かった.就職する場合世間的にはレアな存在であり,専攻科?そんなのがあるんだ?という反応をされ,研究漬けで辛い生活を送ってきたのにも関わらず就職アピールとしては弱いと友人はボヤいていた.
進学(3年次編入):
ここが最大のうまみであろう.
①いくつも受験が可能.大学毎に試験日程が統一されていないので,費用と日程確保さえできればいくらでも.自分の場合は4大学に出願し,3大学目で決めた.偏差値が低いほど早めに行う傾向があった.
②受験科目が少ない.例えば東大は数学と英語だけだった.(東大のみ2年次編入だったが)問題も奇天烈なものでなく,真面目に授業を受けてしっかり対策していれば十分に解ける範囲である.
③高専によっては提携大学がある.私が卒業した高専では所在県の大学,提携の私立大学(関関同立など)は指定校推薦でほぼ全入していた.高専から私立大学に行く人は少ないので,競争率も低かった.就職したくはないが勉強も好きではないモラトリアム層は延命策としてこの選択肢をとっていた.大学編入後は一般教養はほぼ単位認定(=免除),専門教科も高専で齧っていることが多く,比較的楽.実験,研究発表においては経験の差が歴然.学部レベルでは専門を変えない限り大きな問題はないだろう.私も彼女が欲しくてテニスサークルに入ってみたが,雰囲気についていけずすぐ辞めたというオチ.
ピンキリ.トップレベルの明石高専や豊田高専などは偏差値60後半でそこらへんの進学校を超える難易度だが,商船高専などは50前後.学科としては電気がいつも大変そうだった.数式だらけで理解するのが大変.材料や土木,環境,その他新興分野はおぼえればいい科目も多く,比較的楽.
全寮制の高専は確かなかったと思うが,大概他県や遠隔地からの学生用に寮が用意されている.寮ではゲーム相手に事欠かない,発売日に漫画がすべてそろう,ありとあらゆるジャンルのエ〇本を閲覧できるなどのメリット(?)もあるが,大きなデメリットとして私が通学していた20年前では上級生による「しつけ」という名の体罰が行われていた.木曜日の夜に1年生を呼び出し,暗闇の中で数時間正座をさせて悪事を白状させるというもの.(風呂掃除に数分遅れたとか,寮の敷地内で先輩を発見した際百m離れていても90度おじぎをして挨拶を”叫ぶ”必要があるが,そのお辞儀角度が足らなかったなど)一定数白状しないといつまで経っても終わらないため,どうでもいい些細なことを報告するのが常であった.正座のみならず1時間両手を上げっぱなしにさせるなど.終わった後は体が痛んだ.脚が痺れを通り越して暫く立てないレベル.なぜ木曜の夜かというと,金曜になるとみんな帰省してしまうため.
さすがに今はもうないだろう.しかし,中学校を出たばかりの小僧に大学1-2年生相当の先輩たちはとても怖い存在で,且つ退寮して親に金銭的負担をかけられないため多数は我慢を選択する,という構図だったし,私の親も鍛えられてこい,という感覚だった.家が比較的近いやつは馬鹿馬鹿しくて通学に切り替えていた.私のころはなかったが,以前は先輩から達しが出るや否や吉野家の牛丼を30分以内で代理購入してくるという「吉野家ダッシュ当番」なるものもあったそう.尚,年次により寮内でのルールは緩くなっていく.年次による権力を揶揄した称号があり,1年次から「奴隷」,「見習」,「平民」,「貴族」,「神」.1年次においては共有スペースの炊事禁止,テレビ閲覧禁止,風呂掃除や朝食準備などの各種当番,祭りでの汚れ系出し物など.2年次になると共同場のテレビ閲覧可,3年次から個室があてがわれ、テレビも自室に設置が可能となる.今思い返せば,陰湿な日本文化を如実に体現しており,乾いた笑いが出る.
私は上級生になった際このシステムを廃止しようと試みたが、全体的にそれを維持したいという空気が流れており結局叶わなかった.ただ親元を離れて集団生活を送ったことで自身も随分たくましくなったと思う.
メーカを何社か転職し,現在はITでデータ解析職.製造業に興味がないことに気づくのに大分時間がかかり,また気づいてからも収入を維持しながらも他業種へ脱するまでが大変だった.現在は34歳で年収950万円.奨学金は500万ほどあったが30歳前に完済することができた.
【2022年追記】現在37で1700万.幸運が重なり待遇の良いコンサルへ転職することができたが,周りの優秀さに埋もれつつありキャリアピークも近いかと感じている.がんばりたい.
私は都内で偏差値58くらいの高校に通い、指定校推薦で大東亜帝国レベルの大学にいきました。
それで自分としてはこのくらいのレベルって中の下くらいだと感じてるんだよね。大学名を言っても頭が良いとは思われないけれど、箱根駅伝で有名だよねと言われるくらい。
まぁそれで縁があって就職できたのがIT業界だったんだけど、そこで今の彼氏と出会ったんだ。
この前彼氏の両親とご飯を食べにいくことになったんだけど、お母さんから「あなたはどこの大学出身なの?」って聞かれて、大東亜帝国ですって言ったんですよ。そしたら「彼氏は国立(筑波大学)を出てるから、もし子供が産まれたら彼氏の頭の良さが引き継がれるといいわねぇ」って返されてショックだった。
今まで可能な範囲で学びたいところを選んできたつもりだったけど、偏差値と学歴は一生ついてまわる。自分の評価にダイレクトに影響するんだ。しかも自分は中途半端に馬鹿だから、もっと名前を聞いてもあんまり知名度がないような大学でそっと暮らしていればよかった。
彼氏の両親というか家系がエリートみたいで、父親は東工大で母親はフェリス女学院だったらしい。
偏差値なんかなくなればいいのに!
参考になるか知らないが、適当に綴ることにする。
3歳になっても言語を全く話せず、クレーン動作を始めとした典型的な自閉症状を示していたため、児童センターを介して専門機関で受診したところ、聴力も問題なく知的障害(自閉症)との確定診断。
応募した私立保育園には全て断られたものの、自宅から少し離れた市立保育園へ無事入園。
「知的障害児」ということで、ほぼ専任のような保育士さんを増員していただき、時々奇声を上げて脱出を企むながらも、最後まで追い出されることなく何とか卒園。
保育園の間は、ずっと会話は不成立。
3歳でビデオデッキの操作(VHSカセットの交換・スロー再生・逆再生等々)をマスターしていたものの、毎日テレビの前でビデオ操作しながら、全く同じシーンを延々繰り返しながら奇声を上げて踊ってる有様。
確か「お母さんと一緒」のビデオだったと思いますが、キメのポーズのところで一緒にキメて、そりゃ見てて可愛いわけですが、親からの会話は理解できていない。
テレビに映った、いわゆる芸人さんの笑いを(意味も分かってないくせに)オウム返しし始めたあたりで、これはヤバいと感じ、(当人は知らない)裏のコンセントをコッソリ抜いて「テレビさん壊れちゃったみたい」ってやってやりました。
しばらくは寂しそうにしていたのですが、何ヶ月かしたら、直ったか試すこともしなくなったので、未練がなくなったのだろうとテレビごと廃棄。
たしか4歳か5歳の頃だったと思いますが、この時から自宅からテレビがなくなりラジオだけの生活になりました。寝る時に子守歌かわりの童謡のCDを流す習慣にしていたのですが、高校1年くらいまでは寝る時に自分で操作して鳴らしてましたね。(ずっと川の字です)
テレビがなくなると空いた時間を埋めるべく、絵本をめくったり、オモチャを手にしたり、パソコンに興味を示したりするようになりました。テレビは捨てて正解だったと今でも確信しています。(モニターでDVDは視聴可)
発語はあるが会話は成立しないのですから、小学校は当然にしてストレートで特別支援学級です。
集団登校には親の同伴を求められたので、6年間ずっと同伴通学でした。(とは言え、後半は列の後方から見守る程度ですが)
「環境の変化」と「予想しない事態」に極度のストレスを感じるのが自閉症児の特徴なのですが、特別支援学級の1年生~5年生まで、担当教諭の異動がなかったことが幸運。安心すると精神状態が落ち着くんですね。
特別支援学級の教諭って、ナニかワケありで左遷ポストみたいな雰囲気があると思うんですが、1年生~5年生まで担当して下さった教諭は全く違ってました。
言葉で書き尽くせないのですが、自閉症児では健常児以上に苦手なところが多いのですが、無理矢理に克服させようと正面突破させるのでなく、苦手なところを避けて歩く方法みたいなことを息子に伝授してくれたように感じます。
予期しないことが起きるとパニックに陥って奇行が始まるのですが、先に予定が分かっていて、その予定どおりに進行すればパニックは起きにくく、そういう特性を最初から見抜いて下さって、本当に上手に導いて下さいました。
伊藤先生、今でも感謝しきりです。(年賀状は欠かさず(息子に)出させてます)
息子にはとにかく外界からの刺激が必要だと思って、ほぼ毎週、公園だの何だの、とにかく外へ連れ出しました。200キロの距離にある実家へは毎月通ったり、とにかく土日2日とも家に籠もっていたことは年に数えるほどだろ、という位に連れ出しました。
電車が好きだったので、環状線一周(全ての駅で降りて看板と写真を撮る)みたいな、そんなオタッキーなこと喜ぶ児童がいるのか?みたいなことやってました。時効だから打ち明けますが、1区分の切符でずいぶんと遠回りさせて頂いたこともあります。
地名や駅名とかはすぐに覚えましたね。
実家へは(下道で行くと)幾つものトンネルをくぐるのですが「このトンネルが最後」みたいなこと言ったり、いついつにこういうことがあった、みたいな何年も前のことを年月日まで揃えて呟いたり、とにかく記憶力だけは半端ない。
ちなみに息子と年子の妹(健常児)がいるのですが、彼女の存在も大きかったように思います。友だちのいない息子にとって、唯一の同年代の子どもが妹だったのですから。
特に小さい頃の妹は兄の障害のことが分からないので、時々は手を繋いだり引っ張ったり(兄のほうは照れて逃げ回ったり)、それはそれは友だちのように接してくれたのですから。
家族での外出のほか、JRが沿線で企画するウォーキングに猛烈に参加しました。
参加するとスタンプが貰えるのですが、有効期限内にフルコンプリートして最上位の景品を貰えるくらい、1級障害者じゃないので運賃は安くならず、相当お金はかかりましたが。
他の子達と同様、かならず電車の最前列に張り付いて、運転手さんの呟き(点呼)をオウム返し。運転席に手が届くような、どこぞの超ローカル線に乗った時は、運転手さんが息子の点呼(出発シンコー)に合わせてマスコン操作してくれたりで、電車が大好きになったようです。
あと英語のナレーションも覚えたみたいで、英語が流れないローカル線でも自分で英語で This train ・・・ Bound for ××× Thank you! って大きな声で「通訳」すると、周囲の大人が褒めるもんだから、より調子に乗って・・・みたいな。
10キロとかの健脚向けコースに参加しているときなんかは、おばちゃん達が「小さいのに偉いねぇ~」って飴ちゃんくれたりするものの、会話が成立しない(がんばって1往復)うえに当人は飴なるものを口に入れたがらず。
食へのこだわりが強烈で、少しでも怪しいものは決して口に運びません。妥協なんてありえないのです。
ヤフーキッズをブラウザのデフォルトにしたのと、使用時間に制限(夜の9時だかを超えると使えなくなる)したくらいで、基本的にノンフィルターで使いたいように使わせました。
パスワードはかけてなかった(息子も自分でかけようとしなかった)ので、時々何をしてるか監査してましたが、Youtube で馬鹿な映像を見てるほかは名探偵コナンを追いかけてる風。あとドラえもんとプリキュア(笑)
年頃の男の子が興味を示すサイトへは立ち寄った形跡もなし。アニメや芸能関係の Wikipedia の更新もやってたみたい。
基本的には「泳がせながら監査」という状態を続けましたが、ずっとパソコンで遊べるわけじゃありません。
時々妹がやってきて「私もパソコンを使いたい」って言う話になれば、兄に勝ち目はないので、みすみすパソコンを奪われることに。
まぁずっとパソコン漬けはよくないし、時々はパソコンを奪われたほうがいい(占有じゃなくて分け合う)と思うので、パソコンを追加することなく喧嘩させる選択(妹相手に喧嘩の練習をしておけ、と)
3年生か4年生くらいになると、少しずつ会話が成立し始めました。
その奇行ゆえ、運動会では常に、どんな遠くからであっても、あれが自分の息子だ、って識別できていたのですが、5年生の運動会くらいからでしょうか、一生懸命に探さないと見つけれなくなりました。
小学校の入学当初は「修学旅行へは親さんも同行してもらうことになりますから(同行できないなら修学旅行は無理です)」って言われていたのですが、伊藤先生の後任の女性教諭も「大丈夫でしょう」と。
無事に一人で(同級生と)行ってきました。
プラスチックの刀を土産に買って帰ってきましたが、どこが気に入ったのか今でも理解不能。
養護教諭のフォローなしに壇上で卒業証書を受け取る息子を見て涙が出ました。
奇行も減って落ち着いてきたので、普通学級でも辛うじて何とかなるかも?って言われつつも、他の生徒さんに迷惑がかかるといけないと思い特別支援学級を希望。
2人の学級で、これまでは異学年の混合授業だったのが、初めての同級生が出来ました。
しかも女の子! だけど家庭の事情(引っ越し)で1年で転校して行ってしまいましたが、別れの日は私物を整理して親と一緒に帰る時間に見送りに行ったようです。買って持たせた花束の中に、コッソリ前年の年賀状の余り(自宅の住所が印刷されている)を忍ばせておいたのは私なのですが、お礼状と共に今でも年賀状の往復だけ続いています。
その子もワケありなんだけど、息子とは特性が違う(不得意分野が違う)ので、嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ~とは心の中の声。
気に入った女の子が出来たみたいなのですが、息子の挙動があまりにキモかったらしく、当人から拒絶されたうえに親にも厳重注意
(性的なことをやったわけじゃありません)
当人は加減を知らないし、女の子のほうも自閉症児につきまとわれるのは嫌でしょう、分かります。
中学校の特別支援学級の担任は、父兄の間で評判の良くなかったらしい教諭が着任して翌年に異動とか、産休予定の教諭が数ヶ月だけ担当して交代とかアレな風でしたが、本人には良い意味で刺激になったよう。
3年生になり進路が気になるころ、どこへ進学するかはともかく、特別支援学級という超少人数学級じゃなくて普通学級にも慣れておかないと選択肢がないと思い先生に相談。
数学や理科は進度が全く違うという理由で NG が出たものの、それ以外は何とかなるだろうと(授業の妨げになるなら追い出す条件で) OK。
7割は同じ小学校から上がってきた生徒で一応は幼なじみ。1学年50人ちょっと(ギリギリ2クラス)という少人数な学校だったこともあり、先生の目が行き届きやすいという判断もあってのことだろう。
JRのウォーキング企画を始めとして外にばっか連れ出したおかげか、地名(都市の位置関係)に関しては健常児を超えていたと思う。
理科は小学校から全く履修していなかった(見込みなしと見捨てて他の教科に割り振られた)のだけど、履修してない教科があったのに卒業できてしまうとは。
その下は定時制しかないというランクのところではあるものの、「荒れてない」という理由だけで選択した公立高校に無事に合格。
たまたま定員割れしていた年で、落ちた生徒はいなかったと思うのですが、翌年は定員超えしていたので1年ずれてたらヤバかったかも。
9年間、無遅刻・無欠席ということで学校と市から表彰されました。
ちなみに一つ下の妹のほうも同じく9年間無遅刻無欠席。
4歳だか5歳の頃に妹のほうがキャンプに行きたいというので「キャンプ場は遠いよ」って言って大正池から徳沢まで歩かせたり、お山に行きたいと言われれば「山小屋は売店であって泊まるとこじゃない」と諭してテント背負ってガチな登山に連れて行ったり、ロープウェイに乗ってみよう!って誘っておいて「入り口は上にあって登らないと乗せてくれない」って登らせて下りだけロープウェイとか、とにかく欺しまくりました。
温泉に行きたいって言われて湯俣温泉に連れて行った(吊り橋の先の河原で掘って「これが温泉だ」って)のが最凶だったと自覚してます(小2+小1)
よって、うちの子たちは本当に頑丈です。
中学までの26~27人学級と違って、40人近い教室で、一人も知り合いのいない学校。つまり他の生徒も息子の特性を知らない。
小学~中学は通しの生徒が多いせいもあって、息子がワケありってのは全校生徒のみならず、その親にまで知れ渡っていて、わざわざ寄りついてくる奇特な子どもはいなかったのだけど、高校では最初のうちは先入観なく普通に接してくれたみたい。
同級生から寄りついて来られたことのあまりなかった息子は話しかけられただけで「友だちができたかも」って思い込んで家に帰ってニコニコ自慢してましたが、それが「ぼく友だちいない」に変わるのはそう遅くはありませんでしたけど。
とはいえ、友だちが出来ないまま15歳まで過ごしてきてるので、全く気にならないようではあります。
年に数回、学校開放みたいな行事があって親も観に行っていい日には出かけたのだけど、偏差値が低い=ガラの悪い生徒が多い という先入観を見事に打ち破ってくれました。いやほんと、殺伐感の全くないノンビリした校風の良い高校で良かった。
迷惑をかけるのだからせめてもの恩返しということで、学校の保護者委員?(PTAに近いと思うが、もっとイージー)は進んでお受けし、時々校門にたって挨拶運動とかに参加したわけだけど、先生の命令に従って渋々挨拶してるような感じはなく、どの子も自分の言葉で挨拶してくれて、挨拶運動に参加するのはとても楽しかった。
高校になってから自我が芽生えたか、親と出かけるのを嫌がるようになり(本気で拒絶するほどでもないが)、親としても自立する方向に誘導しないといけないため、JRのウォーキング企画に一人で参加することを許可
前日までに行程(電車の乗り継ぎを含む)と予算を紙で提出すれば金は出すという条件で。
コンビニの外ベンチにDSを置きっぱなしのまま買い物に行って、案の定その間に置引きされたときがあるんですが、ちゃんと自分で交番に行って遺失物届を出してきたり、普通じゃないながらも何とかなる次元には成長
学校行事か何かで、家から最も近い私大(偏差値40~50クラスか?)の見学に行って、学食としてマクドナルドみたいなバーガー屋を含む何軒もあったりで感動したのか、コンビニなんてものが学内にあることに恐れ入ったのか、コナンに出てくる大学生のイメージと重なったのか、どういう訳でか知らないが大学なるものに興味を持った模様。ただし、最初に見に行ったそこだけが気に入ったみたいで、他の大学へは見学すら行かない。
高校になると授業参観なるものが滅多にないのですが、高校3年の最後の文化祭(平日)へは仕事を休んで観覧。
劇で何の役をやるのか教えてくれなかったので、観に行くことも言わずに黙ってビデオ回しながら見てたのですが、ステージの袖からナレーター(司会だったらしく)として登場したところで目を疑う。
名探偵コナンのナレーションを意識しているとハッキリと分かるのですが、恐らくは普段の息子と全く違うキャラだったこともあってか、会場の体育館は大爆笑の渦に。適度なアドリブ(意外性に沸く観客生徒に向かって「ありがとう!」って言ってみせたり)を交えたり、完全に自分の世界に没入していたのだろう、とにかく凄かった。
審査と表彰式まではいなかったのだけど、息子のクラスは最優秀賞を、息子は最優秀個人賞を、それぞれゲットした。
進路指導の先生からの「なりたい職業に応じて学科を絞って学校を選ぶべきだ」という助言を無視する形で、第一希望~第三希望まで全て前述の大学にある学科で、文系・理系おかまいなく・・・という風に進路希望を出していたので三者懇談では「本当にいいのか?」って迫られたけど、「息子が大学に行きたいと思ったキッカケは、そこの大学に出会ったからです」なのだから仕方ない。
いわゆる進学校ではないため、一般入試での合格は絶望的だろう、と先生から言われ、最初で最後のチャンスということで指定校推薦に応募
そもそも、その下には定時制しかないような、こう言うと悪いんだけど学力的には良くない生徒の集まる学校だったのだけど、挨拶運動で感じたようにガラの悪い生徒はおらず、確かに当たりは少ないけど外れはいない、そんな学校ゆえにか「指定校推薦」という枠が設けられていたのは凄い幸運だった。(誰しも外れを引くことを恐れるわけで)
第一希望の学科(息子はパソコンが好きだったのでそういう系)は成績が足りないと言われ、第三希望くらいのパソコンとは無関係なところだったら・・・みたいなこと提案に乗って応募。ちょまどさんだって文系の大学なのにプログラマやっててマイクロソフト行かれたんだから、その気があればどこの学科であってもパソコンの仕事はできるのよ。
劇のナレーターで最優秀個人賞をゲットした余韻もあってか、上手に面接をこなしてきたのと指定校推薦で落ちるのは難しいという条件が重なって、無事に合格の通知。
高校3年でやっと中学生?ってくらいの状態なので、大学を卒業できるか知らないが、ちょうど卒業時点で高校生くらいの状態になるかもしれない。
完治は無理、喋らなければバレない、くらいが限界なんだけど、健常児を遙かに超える得意な分野があるので、そこだけ見て、ダメなところは諦め。
ただ普通の子に近づいたせいか、幼少期に感じた「ありえない記憶力」とかの特殊能力は徐々に衰え、ヒゲも生えだして、すぐに忘れる平凡なオッサンに近づいてることに寂しさも。
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。
いろいろ考えたらモニョモニョして眠れなくなったので、寝る前に思っていることを書こうと思う。
深夜のノリでザーッと書き出したので読みづらい文章だったらごめんなさい。
少し前にこんな記事が流れて来た。
http://news.livedoor.com/article/detail/14627657/
すっごい簡単に書くと、田舎にいるとまともな教育を受けられない、受ける権利が侵害されている。っていう話。
そのあとに、
http://tmaita77.blogspot.jp/2017/08/2017.html?spref=tw
こんなデータを見た。
進学率の男女比を出したデータだ。2017年現在のものなので、少し古いかもしれない。
こんな私(女性)も田舎出身で、地方から出て来て大都市圏で理系大学に通い、仕事についている。
この記事と、データを見ていたところ、めまいがするような衝撃と同時に田舎にいた時の記憶が蘇って来た。
私が住んでいた場所は、この記事を書いた筆者ほど教育リテラシーが低い場所ではなかった。
ちょっと街に出でて、本屋に行けば赤本とか普通に売ってたし、ちょっと街に出れば美術館もあったし、一応Fラン大学も近くにあるような場所。
とはいえど、ちょっとどこかに遊びに行くといえばジャスコだったり、アリオだったりっていう土地柄でした。
だから、まだ高校卒業したあとには大学に行く文化はあったのかなと思う。でも、進学校といっても半分ぐらいは専門学校にいくようなそんな場所だった。
こんな場所で育って、一番強く覚えていて、今でも心に刻まれているのが
と家族に言ったところ
「そんなところ、女が行く場所じゃない。女なんて、医療の専門学校や、簿記の資格取っておけばいいんだ。婚期が遅れる。早く子供作って孫(ひ孫)の顔見せておくれ。」
正直、かなりショックだった。そのあといろいろあり親を完全に説得して、理系大学に入って今に至る。
(ちなみに、婚期は遅れませんでした!子供はまだ遅くなりそうだけど。。。)
私は、男女比の資料を見て、実際かなり納得した。田舎ほどまだこのような考えを持つ人が多いのは事実だったんだな。と。
高校の時、進路指導室に行っても指定校推薦みたいなものは確かに男性優先だった。。。のかもしれない。
正直、指定校推薦はも貰うつもりがなかったので、AO入試やら、自己推薦入試やらを活用して自分の力で入学を勝ち取った私ですが、
今思うと、高校の進路指導室でももしかしたら、話半分に思われていたのかもしれないと感じる。
実際、受かった時の進路指導室は大騒ぎでしたし。
ちなみに、田舎だとまだ理系は男の仕事という印象がかなり強いと感じています。だから余計に大騒ぎだったんじゃないかなと思う。
あともう一つ、今でも抜けない感覚がある。
「女は男に尽くすもの」
という感覚。
具体的には、
結婚して、夫に指摘されていろいろ気がつきつつある感覚なんだが、私が生まれ育った田舎だとご飯を食べるのは男性が先。
家事をやるのも、基本女性の仕事。お手伝いなにそれおいしいの。
女は男性を超えることは許されない。
どんな時でも男性が一番。男性のいうことに口答えするのは許されない。
私の夫は都会育ちなので、こういう感覚はないらしい。
私は、こういう感覚を気がついたら意識せず植えつけられていたらしい。
「女に三角関数を教えてなにになる」
みたいな発言をして大問題になりましたが、進学率が地方の女性ほど、私みたいな考え方を自然に植えつけられているのかもしれない。
だから、男性を越えるような行為を行うことはあり得ない、恥だと考えるような感覚が地域に染み付いているのではないか?と今私は思っています。
私はこのような感覚が100%ダメだとは思っていないです。性差で適材適所があるのが事実だとは思っているので。
とはいえど、この感覚で気がつかないうちに自分の才能や夢を諦めさせられている人がいるのは悲しいかなとは思ってしまう。
私はおそらくこのような文化を気がつかないうちにぶっ壊して、今の立場にいるのかなと思っています。
でも、この空気感、感覚が本当にできる人を潰しているのであれば、男女間の教育権利も侵害されているのではないかと思ってしまった、そんな一女性の嘆きでした。
去年の夏ごろから意識をし始めて、夏は1デーのインターンに行ったりしていた(選考があったところは全落したので)
1留かつ単位も残ってるのもあってこんな状態じゃ就職厳しいだろうなと半分パニックになってたら
結局ESも自己PRもまともに書けず、学校の方も留年は免れたけど4年にも3授業分単位が残ってるような状態になってた
3月に入ってからは、あらかじめ就活サイトの方で目星付けてた会社の説明会に行ってたりしたんだけど
満員だったり、行ってみたい説明会がバッティングしたり体調崩したりして結局週3ぐらいでしか動いてない
三週目あたりからはテストセンター行ったり無理やりひねり出して添削も受けてないようなES出したりしてた
それでも筆記で受けた所はパスしてたし、本当に読んでいるのか怪しいようなESも通ったりする
(まだ大きい企業は受けてないからかもしれないけど てか多分そう)
そしてこの1,2週間は面接をいくつか受けてきた
とにかく緊張で何も言葉が出てこなかった 慣れれば大丈夫 なんて言うけど多分自分は何回やっても無理そう
そもそも友達もいないしバイト以外では声も出さないような人間だから即興でなんか言えといわれても頭がフリーズしてなんにもでてこない
自分でも不十分なのがわかるESの粗を突かれるわけでもちろんしどろもどろの返答しかできない
付け焼刃でテストセンターのついでに志望分野に関連する資格を取ったけど(インターンで知ってはいたけど)なんの意味もない
このまま秋、冬までずるずると就活する自分が割とリアルに浮かんだ
しかも自分が死亡している業界が割とブラックなのもあって大企業にしがみつこうと思ったら6月までには決まってないと厳しいとも言われたのもあってパニックが炸裂している
ここまで文章を読んでもらった人にはわかって頂けると思うけど文章能力もなければキャパシティ、コミュニケーション能力もない
大学も指定校推薦で入った(めちゃくちゃ後悔してる 自分みたいに社交能力がない奴が入ると自力で解決できなくなるし受験の禊をしてない分打たれ弱いなって自分でも思う やめた方がいい)
さんざん就活の為に動く時間はあった けどバイトだったり授業だったり既に不利な立場にあるってところで真剣に向き合うのが怖かった 言い訳しかできない
一昨日、まともな会話にすらなってなかった面接の後に会社最寄り駅の桜を無になってみてたら涙が止まらなかった
桜を見て泣いている就活生っぽい人がいたら花粉症がさく裂しているだけなので宗教の勧誘とかは辞めてください
今日はweb系のところで未経験可、入社前から研修付の所を見たりして
ESに作成物のリンクがあったので大学の授業で作ったC++の簡単な数値計算のプログラミングを無理やりほぼやったことないjavascriptで書き直したりしてた 楽しい 大学情報系にすればよかった
どうなるのか メンタルがすり減り引きこもりorニートになるのか
わかり次第追記します
私にポエムを書かせてください
(受験生が携帯弄ってる場合じゃないかもしれないけど、打ったら気がすむと思うから投稿させてください。)
センター試験は3日後。
私は私立文系・三科目型ということもあり、国立志望の子や理系の子と比べたらまだ私は辛くない方かも?と毎日塾の帰り道で自分に言い聞かせてはなんとか合格を勝ち取るために努力してるつもり。ではある。
でも、毎日頑張ってるのに、勉強が直接的な原因じゃないことで、メンタルがやられてる。ここ3、4ヶ月の話。誰にも助けを求められずにいることがある。
9月に学年全体に指定校推薦の案内があった。偏差値は50〜5の学校なので、有名大学への進学率の上昇に奮闘中。
私の学校の制度は、頭のいい子から順に早慶に推薦出すのではないくて、一定の成績+役職(部長だとか)+自己推薦文なので、先生達は推薦に関して
「成績だけじゃ駄目だ。リーダーシップのある子をしっかり選ぶ。だから、勉強だけ真面目にやってる君達はそのまま真っ直ぐ努力してくれ。」
みたいなことを何度か言った。私はそれを信じた。
習熟度別のクラスは1番上。部活の部長。委員会の委員長。行事もクラス単位での重役を何個かやった。自分から進んで何かとやるタイプだ。自他共にそう認めてる。と思う。
でも
私は推薦に落ちた。
受かった子は学年で1番頭のいい子だった。
それまではまだよかった。
そこまでは。
今でも思い出すのは9/11のことだ。自己推薦文を書いた紙は職員室へ決められた時間帯に提出だったから、ライバルとすれ違う可能性が高くて、案の定私の場合はそうだった。目を合わせないように下を向いて私は歩いた。
運が悪いことに、受かった子と落ちた子(私)は普段のHRの席が隣同士。よく話す。(今となっては全く口聞かない)翌日の12日周りの友達にはお互いバレないようには接したし、私も普通に話しかけたりしていたが、休み時間に言われたことが、あの日からずっと心に深くて、痛い、引っかき傷をつけたままだ。
この後に続く言葉は「(私は昨日ずっと準備してきた自己推薦文練りに練って徹夜してまで懸命にやりました負けるつもりはありません)」だ。多分。
傷ついた。当たり障りのないそんな言葉で。私以外の誰も聞いてないその状況で。何ならもっとストレートに、意地悪に、その優等生という仮面を引き剥がして、言って欲しかった。
結局あなたは受かったじゃない、きっと3月になったら慶◯受かったよとか私に言うのかな、私はあなたとのプレゼンの準備の時だって原稿を家で書いたり資料集めたり率先してやって、あなたはそれを有難うと言うだけだったのに、私と違って部長でも委員長でもないのに、通ったじゃない推薦に。
でも、あなたは1番頭が良かったから仕方がない、ではもう妥協できないよ。
今のはおまけだけど(先生達が本当の基準を初めから言ってくれたならよかった)こうやって今までずっとじわじわ嫌いが増し続けていた。担任に何かの紙を単独で貰ってるのを目撃するたびに確信も増してくし。下手くそか。徹底的に隠すんじゃなかったのかよ。もう忘れるにも忘れられないし全部知ってんだよばーか。
でも席隣だし、でも毎日顔合わせるし、でも担任に「私、隣の席の子が私が落ちた◯應の指定校推薦受かったの知ってるんで、毎日心臓えぐりとれそうなくらい苦しいので、席替えしてください」は言えないじゃんやっぱり、言う勇気ないじゃん、もう18だし。
推薦に受かってからのあなたは良いよね、元がポーカーフェイスだから私をひどく傷つけただけで、誰も推薦だと疑わない。今までもこれからも。
この1年間ずっと席が隣だった(何度も言う)。世界史を教えてもらった時は助かったけど、2学期は憎くて仕方なかった。推薦通ったことじゃなくて、私のことを故意に傷つけたあの一言が全ての原因だ。頭が良いだけで考えが稚拙な人間なお前が半年先に合格決めたことが許せない。指定校推薦て何のためにあるんだ本気で。
マーチの指定校推薦とった奴も、私のこと2年間くらい集団いじめしてたグループの主犯格だし。クソが。
もう〜〜〜〜今年おみくじ引いてないから知らんけど、神様、こんなに私は別の意味で重苦しかったんだから、センター利用マーチは頂戴よね〜〜〜〜