はてなキーワード: あの日とは
半休を1日休に変えた。
またひとつ歳を重ねるその前に、なにか行動を起こさなくてはと思い立ってのことだった。
オンラインでチケットを予約して美術館へ行く。この間マッチングアプリで知り合った男性が指摘していた、「オンラインチケット制になってから、人はその日その時間、確実にそこをおとずれるようになったから、美術館なんかは混むようになった感覚をいだく」。
会場に着けば、開館前から並ぶ人。人。人。会期末であったことも災いしてだとは思うが、まさにその通りだなあと思った。
列をなして作品を観るのは好きでない。観るというより、観させられている感じがするからだ。
そういう時はいつも一番混んでいないエリアめがけて人の間をすり抜けては、順番を無視して鑑賞をする。構成なんてまるで無視。学芸員泣かせかもしれない。
美術に限らず、世のあらゆる事柄において、わたしはこういう物の見方しかできないなとしみじみ思う。点々としているんだな。
そこからは山手線と京浜東北線と、東海道線とその他もろもろの列車が発着するところを見ることができる。電車はわたしにとって、時間の象徴だ。こうしてぼんやり眺めているうち、またひとつ歳を重ねていくんだ。何十本もの電車を見送って、気づいたらどちらが風景になっているのかしれないね。
外に出るとあんまりに天気が良くて、日光の眩しさから繰り返しくしゃみをした。
横断歩道をゆく向かいの知らない人に敬礼をするように、掌で日差しを遮りながら都会の道を行く。そのうち皇居に出た。3週間前にも同じ場所にいたな。。とかなんとか、唐突に思い出したかのような振り返り方をしたけども、意図的に来た。おセンチになりたかったのだ。
あの日は2人だった。ちょうど風はあの日と同じくらいに吹き付けていて、日陰では少し寒い。
そんな他愛のない話をしながら、ベンチに深く腰掛けていた。ビルもそうだが、反対側に夕暮れ沈むその先を眺めてもいた。綺麗な空だった。鼻水をかみながら雰囲気も何もあったもんじゃないが、わたしはこのまま、絡め取られてしまいたいなと思っていた。なにに。
いつも夜にしか会わない人と、はじめて日中に会った日だった。はじめてのデートが皇居って、よくない。いつでもテレビに出てきて、その度思い出してしまうから。
今日ここを訪れてしまったのも、ぐずぐずとした思いに同伴する形だ。わたしはそれを置いていきたいのか、持ち続けていたいのかも判断しかねている。来ればわかるかと思ったけれど、他人との思い出は、そう自分勝手には処理しきれないのだということがわかった。
次に彼と会うときに、話してみよう。
映画でも観て帰るかなとも考えたけれど、日が落ちる前に帰宅することにした。
友達から借りていた本をしっかり読み終えて、7時にはお風呂に入ってソファでごろごろしている今。
真新しいことをしたわけではないが、穏やかな気持ちで終始いられたのは良かった。誰とも話していないから、明日はいささか声の出が悪そう。
2週間の合宿期間中、続(監督の名前)は、夜のミーティング時間を利用してくり返し整備の大切さを生徒たちに説いて聞かせた。
すなわち
用具を大切に出来ないものは、野球に限らず、その道での上達を望めない。
用具の中でも、まず大切なのがグラウンドだ。
練習をするうえで、すべての土台となるグラウンドが荒れたままでは、技術の進歩はないし、何より野球をしていて楽しくない。
グラウンドを粗末にすると痛い目に遭うとか、罰が当たるとか、そういうオカルト的なことを言うつもりはないが、荒れたまま練習をしたのでは、全くの時間の無駄となってしまうのだ
と、続は説いた。
ここで続は、平成元年のプロ野球ペナントレースにおける、あるエピソードを持ち出した。
その年のパ・リーグは、近鉄、西武、オリックスが、終盤まで激しい優勝争いを繰り広げていた。
近鉄は、ブライアントの奇跡的な連続ホームランで連勝を遂げ、優勝をほぼ手中に収めた。
このダブルヘッダーの第二試合、近鉄に負け、優勝の望みをほぼ絶たれた西武ナインは、
大きな落胆と共に、自らのホームグラウンドである西武球場を引き揚げていった。
その際、当時西武の主砲であった清原和博は、帽子を取ると、グラウンドに深々と一例をしてからベンチを後にした。
目の前で優勝を持ち去られるという大きなショックを受けていたにもかかわらず、例を忘れなかった清原のこの行いは、テレビ中継でも放映されたから、ちょっとした話題となった。
その年のオフ、テレビ番組「プロ野球ニュース」の企画で、落合博満が清原と対談した。
その席で落合は、「どうしてあの場面、グラウンドに礼をしたの?」と、清原に尋ねた。
落合の目には、清原の行為は奇異に映り、それを一種のスタンドプレーか、あるいは何らかの意図を持った行動と勘ぐったのだ。
しかし清原は、そんな落合の邪推とは裏腹に、こともなげな顔をして
「いえ、あれはいつもやってることなんで、あの日もそうしたまでです」と答えた。
つまり清原にとって、グラウンドに感謝の礼をすることは、単なる日常的な行為であった。
いつも行っている、当たり前の習慣だったのだ。
そうして清原は、かつてないほど大きなショックを受けたこの時も、そのことを忘れなかった。それほど、肝の据わった男であった。
「つまりおれの言いたいのはそういう事だ」と、続は言った。
「このエピソードから、何を感じるかは皆次第だが、俺は何かを感じた。
端的に言えば、そんな清原を格好良いと思った。だから、おれはそんな姿勢を見習いたいし、皆にも勧める。」
続は、生徒たちにそんなことを話して聞かせた。
するとこの話は、生徒たちにそれなりの影響を与えた。
次の日から彼らは、グラウンド入出時の礼を欠かさないようになった。
そうしてこの習慣は、迷径学園野球部同好会が部と昇格した以降も、変わらずに受け継がれる伝統の一つとなった。
一つだけ言っていい? 読点おおすぎない? あと整備の話なのに礼の話になってない?
最近、一人息子が電車にはまりYouTubeでいろんな電車の動画を見ているのだが、その中に地元のローカル沿線が雪景色の中を走る動画があり、
俺の心にしまっていた淡い恋心を思い出したので当時の思い出をつらつらと書いてみる。
俺が片思いしていた子とは高校3年で初めて同じクラスになった。最初の半年は友達の友達(俺の友達の女友達がその子)という感じでちょっと距離のある関係。
彼女は活発で明るい性格だったので、男友達も多かった。ただ、その中には俺が嫌いなやつもいたので、彼女の印象も最初は良くなかった。
だけど、同じクラスで文化祭やら体育祭なんかのイベントを重ねるうちに気が付いたら仲良くなっていて、俺は彼女を好きになっていた。
ハンドボール部所属のスポーツ少女、頭の回転が速くて会話にユーモアもある。結構気が強くて言いたいことをズバズバ言ってくるし、こっちが言い返しても怒るどころか笑いに変えてくれる。
笑顔が可愛くて、一緒にいるといつの間にかこっちまで笑顔になってる。とにかく大好きだった。
そんな彼女は男女問わず人気者で、もちろん彼氏(俺とは顔見知り程度)もいた。その彼氏は、これまた面白くて良いやつでイケメン。俺が勝てるところはほぼなかった。
だけど、俺は幸運にもそこそこ勉強ができたので彼女からは勉強を教えてくれと、放課後は一緒に教室や自習室で勉強したりして、結構二人でいることも多かった。
通学に使っている電車(冒頭で書いたやつ)も一緒で、授業が終わったら教室から駅まで二人で楽しくおしゃべりしながら帰ることもあった。
だから、高3の冬ぐらいになると彼女に彼氏がいても結構良い関係で、”俺にもチャンスあるんじゃないか・・・!"なんて考えていたこともあった。
ある雪の降る日の放課後、彼女と二人で学校から駅まで馬鹿話や雪合戦をしながら歩いて、ホームの待合室でも爆笑しながら電車を待っていた。
すると、同じく電車通学している彼氏が一人でホームに上がってきた。彼氏に気づいた彼女は俺との話を「ごめんね!」とさえぎって、雪が降る中で待合室から出て、俺に見せたことない笑顔で彼氏のほうに小走りで迎えに行くんだ。
ホーム上で屋根があるのは待合室だけなので二人は待合室に入ってきた。そこで俺は「お、彼氏きたじゃん!お邪魔虫はあっち行ってまーすwww」なんて精一杯の笑顔とふざけたテンションを作って、そそくさと待合室から出ていこうとした。
彼氏は気を使ってるのか「3人で一緒に電車待ちましょうよ?」なんて言ってくれたりするが、なんだかみじめな気分になるので、断っていたそそくさと待合室から逃げるように外にでた。
で、雪が降る中、屋根のないホームの端っこで携帯いじって電車が来るのを待っていた。
差している傘に積もる雪と、俺の心に積もるみじめさがなんだかリンクして、体も心も凄く冷たく視界からは色がなくなったように感じたことを覚えている。
結局、二人は高校卒業まで付き合っていて俺は彼女に想いを伝えることはなかった。
そのまま違う大学に進学し、たまーに連絡取ったりしていたが、社会人になってからはそういうことも一切なくなった。
今も俺の心の奥底にある淡い恋心は、当時告白を果たせなかったことに対する後悔があの日傘に積もった雪のように解けずに残っているものなのか分からない。
という話を不倫相手の会社の後輩にピロートークでしたら、「今の私と当時のあなたは一緒ね。あなた、家族といるときは私に見せたことない笑顔してるわよ」と言われ、あの日の雪以上に冷たい悪寒が背中を走った。
結婚前に夜職で働いていた顔の整った母親は、離婚後また夜職に復帰した。
直後に知り合った妻子持ちで一回り上のおっさんに水揚げされ、マンションの一室を借りてもらい私と母はそこに住んだ。
メンタルがあまり安定していないおっさんは、母親の見えないところで私のことを低頻度に重たく虐待した。
押し入れに閉じ込め、布団用のビニール袋に閉じ込め、自力で降りられないタンスの上に座らせ飛び降りさせ、水を張った洗面台に頭を押さえつけ、手足をガムテープでぐるっと巻いてベランダに出し、また別の日には雪の降る深夜にパンツでベランダに出し、鼻血が出るまで頭を叩く。
紙ガムテープで巻きが少ないと案外蒸れで剥がれるのと、ベランダで排尿するとめちゃくちゃ臭いシミになることを知った。
あまりの寒さにプランターの土の中に足入れたら暖かいかな?と思いつつも虫が怖くてできなかった覚えがある。
雪ベランダ鼻血事件は雪国とかではなく東京住まいだったのと、さすがに母親が見つけて止めたので大事にはならなかった。
大人になって聞いたけど、ベランダに出されたこと以外のことは知らないらしい。
ただ、普通のベランダ事件の時は「余計怒らせそうだったから、奴が帰ってから申し訳ない気持ちでベランダを開けて助ける形になった」と言っていた。
その場ですぐ助けないならそのどうでもいい反省文は正直一生聞きたくなかった。
どうにも家賃と光熱費をおっさんが払っていないらしく、ライフラインが止められ、やくざのような振舞いと見た目の大家と保証会社と不動産が頻繁に家に来るようになった。
私と母はクローゼットに隠れる術を覚えた。
これぐらいの頃から母親はおっさんと別れる別れないの話をしだしたらしい。
私はと言えば学校で毎日行われる帰りの会での1分間スピーチが嫌すぎて不登校になっていた。
なんだかんだあって引っ越すことにはなるが、道を一本挟んだ先なので引っ越し後も保証会社の怒涛の取り立ては続いた。
顔がよくできている母親にはマイルドに接する保証会社の人間が、当時まだまだガキの私に当たり散らすのを見て結構引いた。
引っ越した後の母親は夜職に復帰することはなかったが真面目に働くこともなかった。
バイトの面接を受けて合格しても行かない、そもそも面接もばっくれたり、
ちょっと続いたかと思えば何の仕事か知らないが収入ムラがかなりあるいかがわしそうなバイトで、帰ってきて深夜にコンビニやファミレス、ドンキで何千円も買い物したりした。
ただ正直子供心にこの深夜おでかけは楽しかった思い出でもある。
でももちろんそんな浪費をしていれば払うものも払えないので今度は完全に母親の責任で家賃を滞納する。
お小遣いも一応もらっていたが、結局生活費にされたり、買ってもらったゲームも「お前は何もしないんだな」と売られた。
こう考えると今の世のダウンロード販売って最高!
母子家庭に数か月に一度振り込まれる給付金のようなものがあり、
中学校の制服はそれで買う予定だったのだが保証会社が区役所に電話して「住んでいるか・生きているかわからない」などと宣い期日に振り込まれず、私は以降自分用の中学校の制服を手に入れることはなかった。
結局制服はレンタルできたので困ることはなかったのだが、まあ生活でも躓いているし徒歩で行くにはちょっと学校が遠くてだるくて結局ろくに通わなかった。
住んでいる部屋の向かいの部屋が大家さんがサブで使っている部屋で、時々鍵が開けっ放しだったのもあり電気を拝借したり食べ物を盗んでいた。
あまりに困窮していたのでその事象を当時は受け入れなんなら楽しんでさえいる瞬間もあったが、まあ普通に全然マジで到底許される行為ではない。
そうこうしているうちになんだかんだで生活保護を受給することになる。
元々治療法が確立されていない(ただし死ぬようなものでもない)病を持っていた母親と、義務教育の娘が居るというのもあり爆速で受給が決定。
更に引っ越した先では保証会社が取り立てに来ることもなく、母親が持ち前の癇癪を起こしたり暴力を振るう以外はあまり問題なく比較的穏やかで人間的な生活が送れる、かと思った。
母親が一週間全く眠らないままインターネットでナンプレをしては気絶したように眠り、眠っている間に急に痙攣して吐血するようになった。
また、浪費癖は別に治っていないので最低限の生活費を頂く生活保護下では普通にゴリゴリに困窮していた。
なんなら母親は喫煙者だったので、外で吸えそうな吸い殻を拾ってこいと怒鳴られたし、
さらに言えば近所のスーパーでめちゃくちゃ万引きさせられていた。
その影響かは分からないがめちゃくちゃ防犯カメラが増えたのと、数年後にそのスーパーはなくなった。
全然勉強していなかったがやればちょっとできる人間なのが幸いして近所の高校には合格した。
制服も買えたし、彼氏もできたし、一応月のお小遣いをやりくりして友達と遊ぶとかができたので学校生活は今考えても中々満足している。
ただ母親は不眠症もひどく、登校日の夜中30分おきに私を起こして起きなければブチギレるのは勘弁してほしかった。
twitterにそれを若さゆえのめちゃくちゃな暴言で愚痴ったらバレて携帯を折られた。
彼氏と親戚に泣きながら電話して、彼氏のご両親の計らいで泊まらせてもらった。
深夜に警察から電話がかかってきて、覚せい剤所持で母親が逮捕されたとのことだった。
まあガッツリ使用もしていたようなのだが、緊張で全く採尿できず、できる頃にはもう検出されなかったとかで使用の罪はつかなかったらしい。
やたら外に吸い殻を探させに行ったのはガラスパイプで覚せい剤を吸うために家から追い出したかったからだった。
しかもきっかけは、新居にも持ち込んでいた旧居からあるかばん。
「以前付き合っていた(この記事では冒頭に出てきた)おっさんのかばんにガラスパイプと少量の覚せい剤が入っていて興味本位で」だそうだ。
私の人生、正直このおっさんが居ないだけでもっと色々違う気がしてくる。実際どうかは知らない。
でも「興味本位で手を出した」だと罪が軽くならないとかで「交際男性に性交感覚を高める目的ですすめられた」ということにしたらしい。
裁判にも出廷したが、制服で出廷するのはめちゃくちゃ目立つのでおすすめしない。あと傍聴席意外と人間がたくさん居る。
この覚せい剤事件、当時はあまり私の心に傷を残していないのだが数年後じわじわと着実に蝕んできた。鈍感。
彼氏には罪状を伝えていたが、ご両親にはさすがに言えなくて、でも逮捕されたことだけ伝えた。
マジでいいご両親だった。
2か月半ほど留置された母親は懲役1年6か月執行猶予3年で桜が散った頃に出てきた。
初犯は大体この感じで出てくるらしい。
あの日々の暴言と暴力が覚せい剤のせいだったらと願ったが別にそんなことはなかった。
たださすがに悪いと思ったのか母親もやや大人しくなり(当社比)覚せい剤分の出費が減ったおかげで生活はやや楽になった。
一方私はバタバタ生活保護になったこともあり進学を希望していたが、そもそもできるのかよく分からないままモヤモヤしつつ就活をした。
1つもらった内定は面接時点で分かる驚きのブラック加減で、高校の進路室の先生が辞退させてくれたものの以降内定をもらうことができないまま卒業。
彼氏の母親は熱心な宗教2世で学会に入らないかと親子ともども勧誘を受けて最悪だった。
それが理由じゃないけどしばらく後に別れた。
1年ガチニートをキメたあと、親戚の伯父に頼んで教育ローンを借りてもらいつつ(返済は自分)奨学金も借りて専門学校へ進学。
生活保護上の世帯分離を行っているので、いくらかは納めないといけないがバイトもしてある程度お金に自由ができて楽しかった。
が、やはり就職できないまま卒業してしまう。160時間のインターンを乗り越えて尚落ちる。落ちたけど外注の仕事(報酬はゴミ)はいくつかもらえた。
ただこの就活失敗から親と教育ローンの借主である伯父との関係は最悪になった。
生活保護課の人間にも説明はしたので教育ローンの返済を伯父にしているのは容認してもらっているし、
バイトは継続していたので控除額で大半は払えていたがまあ「進学しといて就職できないゴミカス扱い」がひどく最終的に私は親戚と連絡を断絶した。
私がもちろん悪いのだが、如何せん死んだ方がマシ、生まれたことが失敗レベルの暴言を毎日4時間電話で親と親戚が話しているのを聞いていればそこそこ首を吊りたくなるのには充分だった。
ちなみにこの伯父は私の月々返済している教育ローンと同じぐらいの額面で、奥さんに内緒で借入中であるレイクの利息をうちの財布から払っている。(2023年現在も)
一定時期からインターネットきっかけで彼氏ができる。(直接会ったりする健全なお付き合いである。)
2つ3つほど年下だったので、相手の就職タイミングぐらいで同棲できたらな...というのと、区役所の圧もあるので就活に乗り気になった。
相手が就職したタイミングで転職しやすいぐらいの年数働いて、同棲できたら社会的にも真っ当になれるしいいことづくめだなと。
なっが~い年月同じ場所で働く気でもないのでかなり気楽に就活して、数か月後に内定をもらった。
めっちゃ嬉しかったけど、分かってくれたのは彼氏だけで親や親戚には「なんで今更?」「時期が悪い」「保護費に(調整が入るので)差し支える」と散々だった。
で、最終的に4日でやめた。
実際、勤務初回2日のあと3連休があったが休み明けも普通に出勤した。
内定承諾書の保証人欄に署名してもらえる人間が居なかったからだ。
伯父は無理でもさすがに親にはお願いしたが「続くかわかんないもんに署名はしない、お前のことなど保証はできない」とのことだった。
会社の人に誤魔化しつつも書いてもらえなかったと説明した時の空気が耐え切れなくて次の日から行けなくなってしまった。
就職に合わせてバイトもやめてしまったので控除もなくまるまる保護費からのローン返済で生活はカツカツになった。
ちなみに数年後、この4日のうちに仕事を覚えるべくめちゃくちゃとったメモを親が発見して「こういうの見してくれれば署名したのに馬鹿だなw」と言われた。
あとこの時のインターネット産彼氏はモラ気質がすごくて最近別れた。
数年前にここで愚痴記事書いたら思ったより多くの人に読まれ、焦って消してしまったレベルのモラだった。
元々私はインターネットで創作活動をしており、しばらく後にはそれで小銭を稼ぐ機会に恵まれ始めた。
けどこのお金を正しく申請すればローン返済の足しにはならない。
申告時期に使用していなくてうっかりと申告していない銀行口座がある。そこに入金してもらえばバレなかった。
ローンの返済がそっちで賄えるようになってから生活は楽になった。
でも相変わらず毎日首を吊りたいし、親や親戚の死ね圧は消えない。
いまだに人間としての扱いをしてもらえず、親が呼べば何をしていようが駆け付けねばならない。
たとえその用事が親の手の届く範囲にあるペットボトルを渡すことでも。
何かに疑問を持ったり、機嫌を悪くしたり、大きな声で喋ってもいけないとされている。
そうしなければ所持品はすべて捨てられめちゃくちゃに暴力を振るわれる。
いつ区役所にばれるかも分からないし、税務署も怖い。でもローンは返済しないといけないし家を出ることもできない。
就活に使える己の自信なんてとうにない。色々アングラすぎて人には相談できない。
どうしたらいいんだろうなこれ。
親と別で受給とかできたら、きちんと全部申告しつつ生活もできていずれ自立とかできるのかな。
別で受給とか無理そうだけど。急にスパダリとか沸いてこねえかな。
アングラ部分についての批判がもっと出るかと思っていたので少し安心しました。
他所の機能不全家族がどうかは分かりませんが、少なくとも母親の機嫌次第では我が家は笑って過ごす日もあります。
また、ちょうど比喩として首を吊りたくなった直後に書いた記事でしたので、母親の負ばかり取り上げていますが私自身も逃げ癖アリ意気地ナシなどの問題を含みます。
現在の形は結局不正受給にあたるため今後どうなっていくかは分かりませんが、読んでいただいた方々ありがとうございました。
仰る通り、今になって思えば他に打つ手があったなと感じています。
https://anond.hatelabo.jp/20211120220251#tb
の記事を書いていた時の私へ。
この後無事に推し(カプ)と出会い、沼に落ちることができましたよ。
幼少期からオタクとして生きオタクとして育ち、中学時代にはBLに手を出し遠征や聖地巡礼をし、同人誌を買い漁っていました。「オタクである私」これを恥ずかしいともなんともないと思える、つまりアイデンティティにすら感じていた私が、まさかのオタクを離れ約10年。
きっとオタクとしての私はもう死んだ。推し活に楽しむ周囲を羨みながら死を覚悟した私は、「オタク」というアイデンティティを失った私を新たに形作るべく、30歳だし新たな節目に、新しい趣味をみつけたいなと思っていました。
そう思っていた矢先のことでした。
とあるアニメに出会いました。BLらしいと噂で聞き付け、見てみたのです。初見は挫折しました。登場人物の名前がややこしかったからです。
でもどうしても気になって忘れられなくて、また時間をあけてもう一度観てみました。しんどいストーリー、目が離せない二人の関係性……気づけば原作小説を買い、読み耽りました。
胸のときめきとはドキドキと言いますが、私はギューと締め付けられるような感覚に陥りました。二人のことを考えると嬉しくて楽しくて仕方ない。私は、オタクとしての喜びを再び味わいました。
その後どうしても抑えきれない萌えを発散すべく、二次創作を開始。半年前の私がやりたかった、「30歳になったら新しい趣味を始めたい」オタクに復帰できた上に、これを叶えることになったのです。
未来のあなたは二次創作で30にして初めて小説を書き、仕事と育児の隙間に投稿しています。一日に作業できる時間は通勤電車内の40分とかそんなんですが、新たな作品に出会ったり、書いた作品を読んで共感してもらえたりするのが、楽しくてたまりません。Webオンリーですがイベントにも出ました。このジャンルを通じてお話する人もできました。実を言うと仕事にも僅かに生かされています。
そして昨夜、ありがたくもそのアニメの放送最終回をリアタイで見届けることが出来ました。ハマった時にリアタイ放送、まさに奇跡のタイミングです。
この作品は海外のもので表現規制が年々厳しくなり、翻訳版上陸すら怪しかったところを、日本や本国のスタッフさん達の頑張りで、この目で見ることができたんです。本当に嬉しく思います。
しかも本当に制作スタッフの愛を感じる作りなんです。表現規制に引っ掛からないようにギリギリを攻めてたりしてカプ表現してくれました。原作小説の長い話をアニオリを混ぜつつ、うまい構成にまとめてくれたんです。作画のクオリティも凄いし音楽もいいし、主題歌ももちろん作品に沿った歌詞でとても良いんです。
ひとつのジャンルが終わりを迎えてしまうことはとても寂しいけど、今はその瞬間に立ち会えたこと、そしてこのジャンルにいて得たものを思い出してその喜びでいっぱいです。
あの日呻いていた過去の私へ。よかったね。オタクとしてのお前はまだ死んでないよ。
そしてこの作品とアニメ版にありがとう。このアニメがなければ私はオタクに舞い戻ることは無かった(もしくはもっと後だったに違いない)。愛ある作品を作ってくれてありがとう、日本に上陸させてくれてありがとう。来てくれてありがとう。
いや、タイトル通り1日目だけ現地行ったんだけど、ふざけんなと。金返せって話。
日がたった今ですらいや、まあまあキレなさんな…wとかいうオタクのツイート見ただけで瞬間湯沸かし器のごとくブチギレて物にあたってしまったので、もうこれはトラウマのようなものをあの日に植え付けられてしまったのだと思う。
1日目に敷いた伏線どこかで回収したか???してねえだろ。この1点でクソ。
なんか解説付き配信??とやらやるらしいですがそんなんに金払えるわけ無いだろ。一度あんな感情にされといてもう1度見ろとかアホか。無料の生配信とかで教えろや。
こんなんなるなら2日目見なくて良かったわとか言いたいけどあんなに不穏要素残しておいて見る以外の選択肢残さないような状態にしてるのもかなりクソ。
これが演劇とかならまだしも、ライブだぞ???シャニマスというコンテンツのライブということは前提にしたって、この構成はあまりにも無いでしょう。
このライブを楽しみに日々を頑張って過ごして、その結果としてこれ見せつけられるのあまりにもクソ。
ノクチル制服、ストレイ和楽器バックやナンバリングライブでは久しぶりの楽曲披露と良い点もあったはずなのに、それをすべて台無しにされた感じで。
2日目の後現在進行系で続いてる感想とか振り返りツイート見るたびにまたさらに怒りというか悲しさに似た感情を覚えてきたので、もうコンテンツとして追うの厳しいかなと思います。残念ながら。
5年間、細く長くコンテンツ追っかけてきたけどそれを見事に踏みにじられた気分になったので、ここが手打ちかなと思います。
普通に他のコンテンツ追うのにすら支障が出るレベルでメンタルダメージ負ったので、このコンテンツ追うのはここまでです。
いやまあこんな事やるのシャニマスぐらいだろうけどさ…
あ、一応アンケートにはシャニマス今回のライブのせいでやめますと書きました。
不幸な思いするのは俺だけでいいよ…もう。
GPT-4ちゃんを楽しく使って一緒にオセロしたりして遊べるだけかと思っていたけど、
実際ちょっとマジで5秒で英語でメールのやり取り試しにしてみようと思って試してみてみたら優勝したので笑っちゃったわ!
それもなんか本当にこれ正しく訳せてんのかな?って
今はそれより良いと巷の横浜の横須賀の港で噂で評判のDeepL使ってんのね。
でさ、
翻訳英文とかにする時って英文がちゃんと翻訳できるよう日本語も英語に訳する前提で
例えば「私たち」とか「あなた」とか「部屋」とか「ワイシャツ」とか「わたし」とかって
普段あんまり平松愛理さんの曲の歌以外でしか使わない単語とかをあえて含めて訳す方向を正しく指し示してそうなるのかな?って思って含めるじゃない。
それGPT-4ちゃんでやってもらうのそれすらの指示も必要なくて、
お客さんへ返信する概要を、
これできる、できない、お金のやり取りはどうのこうと言ってスイス銀行を通じて入金ってそれなんてゴルゴ13アイスクリームみたいな
概要だけを書いて伝えたらばっちり意図をくんで分かってもらって
縦の意図はあなた横の意図はGPT-4ちゃん!ってもう中島みゆきさんのその曲がもうえげつない数のほどのシンガーにアレンジで歌われ続けているぐらいに
『猛烈面倒くさい列伝』第1巻の巻頭カラー6ページ目の冒頭で出てくる面倒くささナンバーワン選手権でいきなり優勝!のあの有名なシーンのエピソードを彷彿とする感じだったんだけど、
私の意図を説明してお客さんに返信する英文を書いてってGPT-4ちゃんに言ったら
ものの秒で!
日本語で考えるより英語の方がもの凄く素早くレスポンスが早くて素早くて美味くて安くて、
かの牛丼チェーンの美味しい牛丼のキャッチコピーのようなマジで美味しい英文を私のオーダー通りに秒で仕上げてくれるの。
一応対訳してみたら、
なんか私が一生懸命考えた日本語を英語に訳した文章よりもなんか英語のベシャリがこなれている感じでの英文になっていて、
これマジで英語の今まで『猛烈面倒くさい列伝』に出てくるぐらい面倒くさかった作業が一瞬で出来てしまって、
これGPT-4ちゃん恐ろしい子!ってベルサイユのバラ級に私白目になっちゃったわ!
予想以上のはるかに私が思っていた2のべき乗いや2のエヌ乗でとにかく凄い勢いで凄かったのよ!
これ試しに本当にお客さんに返信それでしてみたから上手く通じてると思うわ。
そんでお客さんの返信も秒で返ってきたから普通地球の反対側の時差でたいていは秒では返信が返ってこないんだけどさ。
さっきの何々のお客さんの文章の返信を、
「もしかしたらタイミングによっては条件が変わる」って意図のその内容を付け加えて書き直してちょんまげ!ってちょんまげマーチ調で書いて言っても、
GPT-4ちゃんのこのセッションの中の私が誰のお客さんのどのことを言ってるのかもペキカンに理解してくれてるので、
あの日あの時あの場所でって小田和正さんばりのあの歌の曲のように
あの時のあのお客さんの文章をまた別のお客さんに向けてこれを足して書いてみて!って言うと言うとよ!
ちゃんと
縦の意図はあなた横の意図はGPT-4ちゃん!ってもう中島みゆきさん以下省略!ってぐらい小田和正さんなの!
意図も理解してくれて何これ私より優秀じゃないって当たり前だけどクラッカーだし、
鏡にルージュで伝言を書いて後でママに鏡に口紅で落書きしちゃダメですって怒られるほどの、
遊びばかりにふざけて使うばかりがGPT-4ちゃんの真価じゃないのね!
普通にビジネスメールと私がどんなにでんぐり返しをしてもなんか変な日本語を英文に直していたよりスマートでお利口な文章をGPT-4ちゃんが書いてくれるので、
これマジそう言う用途で使う必要に駆られまくりまくりすてぃーな人がいたら
試してしてしてみる2のべき乗だわ!
笑っちゃうので1回みんなも笑ってニッコリ笑顔になってみてよ!ニッコリよ!
今までのなんか英語圏とか他国語圏のなんか眉をしかめて難しいことやってます山脈に向かってヤッホー!って叫びたい気持ちが本当に笑顔になるんだから!
そして割と結構正確っぽい!
本当に有効に使うなら遊んでる場合じゃない事も私たちは理解するべきだわ。
なるほどー!
あんまり使いすぎるとすぐ使用量上限に達してしまう山脈に向かってヤッホー!って叫ばなくちゃいけなくなるのよね。
なんたるちゃー!
そんな間に増田を書いている私も素敵!なんつってねー!
ただただ感心してしまうばかりだわ。
マジそう言う多国語でなんかやり取りしてる人がいたらぜひお試しいただきたい山脈に向かってヤッホー!ってもう叫んで欲しいわ!
あともうもの凄いのはGPT-4ちゃんはもの凄くアイデア出してくれるのよね。
ざくっとしたアイデアを羅列してどんどん書いてくれたりもするから、
でもあんまり煮詰まっちゃうと言葉数がGPT-4ちゃん少なくなってくるんだけど、
なんかまたしばらくしたら全うなアイデアをたくさん出してきてくれるようになったり、
出してくる文章の量がエグいわ。
こないだ色々アイデア出ししてもらったテキストをまとめて印刷しようとしたら65535ページになったので、
印刷してもそれでも32ページとか!
スゴい量考えてくれるから何かしらのアイデア出しが必要な人も使ってみると
ただ今もうすでにGPT-4ちゃん使用量上限に達してしまっているので、
仕方なく何も手も足も文字通り出ないところが私たちヒューマンの限界なのかも知れないわ。
なので、
これらを精査して厳選してくれるお利口な人工知能があればさらに捗るかも山脈に向かってヤッホー!って叫びたいわ!
考えさせるだけ考えさせてみてあげないのもGPT-4ちゃんに気の毒ってもんよね。
私は疲れないのでどんどん使ってあなたのお役に立てたら嬉しいですニャンって急にファミリーレストランの配膳猫ロボットの口調になっちゃったのはビックリだわ。
ユーモアレヴェルマックスでって言っていたのを私すっかり忘れていたし、
元に戻っていいよ!って言って切り替えないとユーモアレヴェルがマックスなままみたいなの。
運転手さんがリナさんですよね?リナさんですよね?ってレイナさんだった時のタクシーの運転手さんが、
なんや!レイナかーい!って言ってどっちにしろマックスさんなのには変わりないんだけどねって、
マックスレヴェルを切り替えるのを忘れていたわ。
高度に発達したAIと言えどもマックスさんのリナさんとレイナさんの見分けは付かないみたいね。
だってそのタクシーの運転手さん無人AIタクシーだったんだもん。
よろしーんかーい!
早くGPT-4ちゃんが外部テキストや提供した画像を読み込ませて学習できるようになって欲しいものね。
うふふ。
照り焼きの感じが濃い味が利いているわ。
ピンクグレープフルーツを輪切りにしたものと苺ちゃんも調達してきたので、
炭酸レモンピンクグレープフルーツストロベリーウォーラーってところかしら。
近所の桜も通りすがりの木もいくつか何輪かの花が咲いていたから、
桜の季節到来ね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今日のランチはもうね、むちゃくちゃな感じで素敵な出会いがあったのよ!インドカレー屋さんでね、初めてビリヤニっていう料理を食べちゃったの!なんだかワクワクしてしまうくらい、謎の魅力に溢れた食べ物だったわよ。
お店に入って、メニューを見て目がキラリと光ったのはビリヤニっていう名前の料理。これがね、どうやらインド料理でご飯にスパイスと具材を混ぜた炊き込みご飯のようなものらしいの。こんなものがあるなんて、感動しちゃうわね!
食べてみたら、もう味も見た目も超むちゃくちゃ!カオスだけど美味しいのよ。スパイスがご飯に染み込んでて、具材もごちゃごちゃだけどなんだかうまく調和してるの。これぞまさに美味しいビリヤニなんじゃないかしら?
ランチの後、早速ネットでビリヤニについて検索してみたら、なんとこれがインドだけでなく、パキスタンやバングラデシュでも食べられるらしいの。それぞれの地域でアレンジが加えられていて、いろんなビリヤニがあるんだって。どれも食べてみたくなっちゃうわね!
このむちゃくちゃな出会いがあって、ビリヤニにハマっちゃった水野曜子だけど、これからもインド料理を楽しんで、美味しいものをたくさん食べていきたいわね。ビリヤニ、初めて食べたけど、これからもっとおもしろい仲良くなれそうな感じがするのよ、うふふ。
単行本は毎回発売日に買い、連載の長期休載時には何度も初めから読み直した
読み返すと、当時と違った感想を覚えたりもした
そんな増田の半生と共にあった漫画の最終巻が一昨年の3月に発売された
当然、発売日に。休みをもらって。書店が開店する前から待機して
買った
逸る気持ちを抑えて家に急いだ
あの日ほど、家までの道のりが長く感じた日は無い
いざ読み進めようと手に取った
表紙には、笑みを浮かべた主人公がいた
最終巻だ、終わってしまった
涙が出そうになったのを覚えている
そして、手が動かなくなった
持っただけで、表紙をめくれない
結末を知りたいが、終わりを受け入れられない
とっくに、連載が終了していることは分かっている
手に取り、表紙を眺めて戻す、ということを繰り返している
2016年に大学を卒業して、新卒で入ったところが若手はセミナーや講演会にドンドン行ってこい方針の会社だったので、社会人1,2年目の頃は学ぶ意欲半分、仕事サボりたい欲半分に色んなところに行きまくってた。
せっせと足を運んだところで、偉い人たちの話を聞いても大学出たての自分には何を言ってんだかよく理解できなくて、受講報告書に何を書くべきか悩み、いつもウンウン唸っていた記憶がある。
そんな中でも唯一「これは!」と思ったものがあって、あるベンチャー企業社長の講演で「めちゃすごいスパコンを開発して、不労社会を目指してる」という話。
なんて素晴らしい理念だ!といたく感動し、帰社してから同僚たちにも「最高にクールでホットなベンチャーがあったぜ!」と吹聴しまくったのだが、少し後にその社長は詐欺で捕まっていた。信じていたのに、悲しい。
まあ社長が詐欺で捕まった話は置いておいて、そういった講演会に行くたびに耳にしていたフレーズで「シンギュラリティ」という言葉があった。
社会人になる少し前からそういう概念があるということは知ってはいた、が、正直、都市伝説のようなものだと思っていた。ノストラダムスの大予言みたいな。それの現代版。
セミナーや講演会に行く度、日本を代表するような企業の役員の口からシンギュラリティという言葉が出て、それを当たり前のものとして扱っていることが違和感で仕方がなかった。みんな関暁夫になっちゃったの?って思ってた。
ちょうどその頃あたりから、人工知能がどうとか、深層学習がどうだとかが当たり前のようにテレビなどのメディアでも目にするようになった。
新発売の電化製品の売り文句はどこもかしこも「AI搭載!」だった。良いものもあったが、素人目にもお粗末だと分かるものに対しても何でもかんでも「AI」と名付けられていて、まあ所詮は人類にできることなんてこんなもんよな、冷ややかな目で見ていた。
しかし、自分が鼻くそほじりながらポテチ食ってYouTubeを眺めている間に、世界の技術者たちはガチでそこに向かって進んでいたらしい。
DeepLを初めて使った時、翻訳の精度はともかく、機械ってもうこんなに違和感のない日本語を作れるんだ!と感動した。
エキサイト翻訳で再翻訳してゲラゲラ笑っていたあの日が懐かしい。もう15年以上も昔のことだったか。
そしてBingAIやChatGPT、あといろんな画像生成系のAIもよく分からんがとにかくすごい。今まで自分の観測範囲になかったからか急に現れたように感じたけど、技術がドカンと一気に進化したように思えて、なんかもう恐怖すら覚えた。
これから世界はどう変わっていくんだろう。あの社長が言っていたような社会に、本当になるのかな。シンギュラリティは本当に来るのかな。
あなたにはネットメンターはいるだろうか。あなたが尊敬しているところの、例えばブログとか書いてる人で、考え方が人生の参考になるような人のことだ。
自分は今30代になったばかりだ。これまでにネットメンターは四人いた。それぞれ、当時は夢中になってブログを楽しんでいた。
今となっては活動をやめている人が多い。でも、やっぱり今でも感謝というか、これは灌漑というのだろう。自分という人間は、その人らの考え方を楽しむには齢を取り過ぎてしまったのだなぁ、と感じることがある。
今回は、素人の拙い文章になるけど、懐かしい記憶を堀り起こしてみたい。なお、皆さんおそらく存命だと思うので、ブログへのリンクとかは貼らない。迷惑をかけないためだ。
1人目 げっべさん
未成年の頃だ。当時、携帯電話を買ってもらったばかりの自分は、mixiに登録していた。それで、コミュニティを探していたところ、「笑っちゃダメな時に笑っちゃう」というのを発見した。
どういうコミュニティかというと、文字どおり笑ってはいけないシチュエーションで噴き出してしまい、周囲から冷たい視線で見られた、恥ずかしい思いをした体験を参加者が綴っていくのだ。
人間、飲み会なんかで皆が笑っている時に黙っていたりするのは、まだ何とか許される。しかし、葬式の最中にいきなり爆笑したりなんかすると、周囲の視線が冷たいだろう。このギャップはなぜ生じるのか。当時、中学生だった自分には新鮮な疑問だった。
それで、この当時から登録者20数万人を抱える当コミュニティの管理人がげっべさんだった。過去日記を見たところ、ナチスドイツのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相大臣から名前を拝借したと思われる。
過去日記で、いろいろ面白そうなやつがあったので覗いてみたところ、これがまた最高だった。視点が斬新で、文章力があって、知性が抜群だった。
あとは、この人はDLsiteでR18の同人作品を作って売っていたのだが、その関連で創作における女性性について語るところの新鮮みが凄かった。あんな論説は見たことがないし、今後も見かけることはないだろう。シロクマ先生でもメロンダウトでもフミコフミオでも書けない。基本読書の人ならなんとかなるかもしれない。
実は、メッセージを何度かやりとりしたことがあるのだが、当時中学生だった自分にも優しく接してくれて、まさにTHE★大人だった。神だった。この御方こそが人生最初のネットメンターだ。
30代になった今、久しぶりにmixiにログインしてみた。友達だった約50人は全員mixi利用をやめていた。確認しなくてもわかる。確信があった。
プロフ画面を眺めていたところ、若かりし日のアルバイト先でみんなに可愛がられていた高校生の『ゆめちゃん』が、今では32才になっていた。あまりにリアルな現実だった。信じられないよ……。
感傷はなくて、温もりのある懐かしさがあった。薔薇の香りや、紅葉の美しさがわからなかったあの頃の、子どもっぽくて拙いコミュニケーションの思い出が蘇ってきた。私は、あの頃はどんな思いで人生を過ごしていたんだろう。感慨が込み上げてきた。それから小一時間、mixiの思い出めぐりを楽しんだ。
で、げっべさんの話に戻るんだが、今ではあの人について何となく理解できるつもりだ。おそらく、今でいうところの発達障害とか、自閉症とか、そういうTypeの人だったんじゃないか? と思う。いや、当時のメッセージのやり取りとか、あの人がDLsiteで売っていた作品を再度鑑賞したり、ほかにもいろいろ思い出してみたけど、たぶんそうだ。
いわゆる、人生を生きるのが難しいタイプの人だったと思う。でも、そんな苦しい状況の中でも、mixiで屈指の人数を誇っていたコミュニティの管理人を務め上げて、創作活動もしていて、何より哲学的かつエロティックな日記が神髄の人だった。
今改めて、感謝を申しあげたい。当時は生意気な中坊~高校生だったと思いますが、いろいろとありがとうございました。
2人目 伴さん
この方を知ったのは、当時新卒で入った組織で苦悩していた時だ。偏差値45ほどの大学を出て、生まれ故郷の市役所に勤めることになったのだが、まあこれが辛い日々だった。
地方公務員ってさ、どんな人が職場に適応できると思う? ブクマカなら知ってるかもだけど、小学校や中学校で内申点が高くて、地元名門校に入学できるような人が地方公務員に向いている。早い話、クラスのリーダーとか、ムードメーカーとか、生徒会長とか、スポーツ万能とか、とにかく何らかの形で先生から高い評価を受けていた、そんな感じの人だ。
自分は違った。コミュ障だったり、ネクラだったり、納豆だったりして、クラスに馴染めなかった。「置かれた場所で咲きなさい」とはいうけれど、発芽すらしなかった。そんなモノが社会人になっても通用するはずがない。
そんな時に、伴さんのブログに出会った。この人は防衛省に勤める国家公務員だった。自分と同じく、公務員に適応できないタイプの公務員。ただし、自分と違って仕事ができるし、頭はキレるし、嫁さんもいるし、お金持ってるし、なにより理想に向かって匍匐前進している感じが格好良かった。当時は、目に穴があくほど彼の記事を読んだものだ。
で、この伴さんは協調性のなさが災いして、職場でいろいろひどい目に遭っていた。それでも努力をやめない姿勢がすごかった。当時20代半ばだった自分は、それらを見習っていた。
伴さんのように米国株投資を始めて、FXも始めて、タバコを吸い始めて、仕事でマウント取られたらニコニコと受け流して、いつの日か相手がボロを出したら攻めて攻めて攻めまくって、野良犬がキャンキャンと吠えて逃げるまで攻め立てて、相手が討論中にメンチを切ってきたら大声で威嚇して、相手の傍まで寄っていって「殺すぞ!!」という感じでこちらもメンチを切った。
実際、自分が伴さんみたいに行動するようになって、みんなの見る目が変わった。前みたいに馬鹿にされなくなったし、男性ホルモンが増えたみたいになって仕事を頑張れるようになったし、実力が上がったし、今は市役所の庁舎管理の仕事をしてるんだが、上司から1件につき20万円までは好きに契約事務をさせてもらえるようになった。
さて……実は、自分は失敗した。伴さんがやってるみたいに、男性ホルモン全開で仕事を進めていったところ、致命的なトラブルを起こして仕事を干されたことがある。まあ、初めての大失敗だったから、結局許してはもらえたんだけどさ。あれは反省した。
今ではわかることがある。結局さ、人間で一番大事なのって、仕事ができることじゃないよな。相手を尊敬するとか、嫌な仲間とでもうまくやっていくとか、話の通じないお客さんがいても精一杯やりとりするとか、悪いことしてる人がいたら怒ってでも咎めるとか。人間にはそういうのが大事なんだよな。
実力とかお金とか持ち物って、その人が死ぬ時には実質意味がなくなってるけど、人柄とか人格って、命が途切れるその瞬間まで残るじゃん。もしかしたら、あの世までもっていけるかもしれないじゃん。
実際、伴さんは、あの人が自ら言っていたように社会不適合者なのは間違いないと思う。いつも何かに怯えていて、他人の視線が怖くて、しかし戦わずにはいられない。いい結果を出し続けて、みんなをギャフンと言わせてやる、自分を認めさせてやる!! そんなスピリットでひたすらに頑張っていた。それは、自信のなさの裏返しだった。
で、結局この伴さんは、嫁と子どもがいる状態で国家公務員を辞めて、民間企業に営業として入って、しかし通用せずに大失敗して1年で辞めてしまったらしい。その後は、「自営業としての記事代行サービスでメシを食ってる」みたいな記事を拝見した。
残念ながら、数年前のそれが最後の更新になった。たまにサイトを見に行っているが、更新される気配はない。
伴さんに倣っていいこともしたし、悪いこともした。後悔していることもある。特に、不用意な言動で仕事仲間を傷つけてしまったことだ。
けど、伴さんがいなければ、男性ホルモンをめらめらと燃やす自分に出会うこともなかったと思う。そんな体験がなければ、目の前の人間を尊重すること、いたわること、常に気にして動くことに関心が向かないままだった。
そのことに気づかせてくれたのは、紛れもない伴さんだった。コミュニケーションを取ったことはないけど、俺はあなたに感謝してる。本当にありがとうございました。
三人目 高田机上さん
2018年頃から活躍しているブロガー。2019年頃だったか、自分が恋愛のうまくいかなさに悩んでいる頃にブログを拝見した。確かバズった記事があって、はてなブログのトップの方に載っていたのだった。
恋愛の一般論から始まって、男性のダメなところを取り上げたり、女性の心の視点に立ったり、恋愛に必要な各要素(清潔感とか...)を論じていったり、男女の付き合い方を細々と説明していたり……。
当時は、これだ!! と思った。ここまで体系的に男女別の視点から恋愛を論じたブログは初めてだった。恋愛指南のサイトは数あれど、それらはほぼ商業サイトであり、噓八百でも面白ければよかろうなのだ!!(勝てばよかろうなのだァァァァッ!!)、みたいな記事ばかりだった。でも、この高田机上さんは、元モテない男性として等身大の自分を出していた。
が、風向きが変わってきた。2020年頃までは、恋愛のTipsを事細かにひとつずつ紹介していたが、次第にモテない男性をバカにするような内容が目立ってきた。
特に、2022年に始まった男女差LINE学がそうだった。LINE的に非モテムーブを取る男性を論い、ひとつひとつ侮辱的な言葉でダメ出しをしていく。挙句の果てには、女性がする恋愛上の遠回しな「お断り宣言」(婉曲な言い回し)を説明する際、自分の本の出版を編集者に暗に断られた際の恨み言を述べていた。
半年ほど前から、高田机上さんのブログを読むのをやめた。男女差LINE学長すぎやろ!! と感じたのもあるが、何より自分の読者層であるモテない男性を馬鹿にしていて腹が立ったからだ。実際、この人の記事のブックマーク数はほぼゼロだ。昔はバズった記事があったけれども、近年は閑古鳥が鳴いている。
もし、男女差LINE学みたいなシワいコンテンツじゃなくて、もっと面白いシリーズが出たら読もうと思っていたが、一時引退するらしい。「専業作家に挑戦し、なることができたら戻ってきて記事を書く」とあった。
ネットメンターには、こういうこともある。どれだけ面白くて尊敬できる人でも、年月が経つといろいろ変わってしまうのだ......。また記事を読ませていただく機会を楽しみにしています。
高校生~大学生にかけて、この御方のブログを読んでいた。どの書籍にも書かれていない視点で、勉強になる内容が多かった。ほどほどに重たいテーマが多いけれども、たまに笑いもある。歴史や政治を扱った記事が多い。
文字どおり沖縄生まれの人になる。若い頃、大阪府に大学生としてやってきたようだ。壮年なんだけど、文体は若々しい。なぜこの名前にしたかというと、琉球の歴史を鑑みるに、「自分は沖縄県民ではなく琉球王国の一員」ということらしい。
mixiでは人気のブロガーであり、数年間活躍した後は、別のブログサービスに転向した(はてなブログだ)。この人は、上の三人と違ってまだ活動している。個人的にお気に入りのブログ記事をひとつだけ挙げたい。
#成人式 より #未成年バカ祭り を!~ヤンキー&花魁なバカ成人こそ地元の宝である。
https://nationoflequio.hatenablog.com/entry/2015/01/11/222419
この日記の日付は2015年だが、実際はもっと昔のmixi時代に投稿している。当時の私は大学生で、これから成人式!! という時期だった。
上の記事の内容は、まさに目から鱗の一言であり、この体験がなかったら、未だに「暴れる新成人」なるものを勘違いしたままだった。
さて、こちらの在日琉球人さんのブログだが、社会人になってからは見なくなった。理由は、更新頻度の低下だ。一応、それなりの頻度で更新はあったが、前の記事の焼き直しや再投稿がほとんどだった。新しい記事が生まれなくなったのだ。
で、その原因というのが加齢だった。本人談になるが、齢を重ねる度に気力が湧かなくなっていき……と、ブログ内で呟いていたのを覚えている。
私も、在日琉球人さんとメッセージのやり取りをしたことがあった。理知的で、ユーモアがあって、ごくまれにキレるけど、己の知性を高めるために日々尽力している人に思えた。自分よりもはるかに賢いはずの人間がブログ記事を書けなくなってしまうなんて、年を取るのは悲しいことなんだな、と若かりし頃は思った。
今でも、在日琉球人さんのブログは年に一度はぐるっと目を通す。やはり、斬新かつ奇をてらっていない。今でも世間に通用するブロガーだと思うが、なぜかあまり人気が出ない。面白いと思うのだが。
最後に~
月次な結論になるが、やっぱり若いうちはいろんな価値観に触れることが大事だと思う。自分は、中学生の頃からブログを読むのが好きで、それこそいろんな人の日記や作品を読んできた。勉強になるのもあったし、正直毒になるのもあった(ネトウヨやツイフェミがその典型)。
深夜に眼が重くなることもあったけど、あの日々では多くの学びを得ることができた……え、何? 個人のブログよりも書籍の方が勉強になるだろ、だって? それは言わない約束ということで。
はてなブログは週に一度はチェックする。書籍も好きだが、しかし自分は個人が魂を削って書いたブログの方が好きなのだ。これからもいろいろと読んでいきたい。
面白いうえに、人生のためになるようなブログを運営されている方々におかれましては、重ね重ね感謝を申しあげます。今までありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
母方の実家は福島の浜通り、ということで2011年に曾祖母はがっつり被災している。それ以来「様子がずっとおかしかった」と聞いている。心のね。
そりゃそうだろうって感じ。なんせそっちのほうの親類は流されて、未だに見つかってない人も、沢山居たらしいから。
私は顔も名前も知らないけど、それで亡くなった血の繋がった人はわりといたらしい。
最後に曾祖母に会ったの、私が小学生のとき。もう何十年も会ってなかった。会ったところで私と分からないかもしれないが、携帯も持たず施設にいて大叔母にあたる人が世話をしてたので結婚した報告もしてなかった。
両親に「お前は若いし忙しいんだから参列も香典もいらないからね」と言われたので、通夜の最後の対面の時に、私の代わりに謝っておいてくれとだけ伝えておいた。
古い考え方の人ではあったので、嫁入りしてきた祖母や、叔父らのお嫁さんたちとは折り合いがよくなかったことは知っている。鎌で蛇の頭狙い撃ちにしたり、素手でイタチとっ捕まえたり、豪快で偏屈な人ではあったけど、私には優しかったし、優しかったという年頃の記憶で止まっている。
10歳未満の子供なんて役に立たなかっただろうに、田んぼや畑に一緒に行って手伝いをして、大した仕事もできないのに、偉いねえって褒めてくれた。
ほかにも従兄弟がいるけれど、曾祖母とそうして過ごしたのは一番年長の私だけ。
軟膏や樟脳、線香のにおいがする曾祖母だった。腰が曲がってて、骨と皮みたいな手で、爪が丸くて。目と爪は、曾祖母と、母と、私は同じ形だなとか。
そんなことだけはよく覚えている。
この10年しんどそうだった、と今になって教えられたので3.11だし誰かに連れていかれたのかもしれないな、楽になったのであれば良かったんじゃないか、なんて思っている。
母方の実家の墓、車でないと行けないようなとんでもない山の中にある。数える程しか墓石がなく、戦没者墓地のほうが大きいような、山の斜面にあるような場所。
そこに曽祖父も、祖父もいる。ゆくゆくは祖母もそこにいくんだろう。もう後継ぎのいないあの家の墓に入る人は以降いない。
宿題と漫画雑誌を持ち込んで夏休みを過ごした、あの日本家屋はいずれ取り壊すらしい。そこに曾祖母はいないし、あの畑もない。仏壇もない。夜中に鳴り出す柱時計も、ネジを巻く人がもういない。掘りごたつに炭を入れることもないし、縁側の雨戸も腐り落ちていくんだろう。
もう一度くらい、顔を見せておけばよかったな。そしたらそういう思い出に上書きしてボケたなぁ、嫌な人になったなぁとか、可哀想だなぁと思ったかもしれない。そしたらこんなに寂しくなかったかもしれないし、こういう後悔もしなかったと思う。今日明日、曾祖母の葬式らしいので、もう少しだけ、曾祖母の顔を思い浮かべて過ごしてみようかと思う。
それならそれらに能動的である必要はない。改めてやりたくなったときだけ調べるというので構わないわけだ。
あまりにも口やかましく宣伝されるわけだからやりたいってときに「名前が思い出せない…」なんてことまずないわけだし。
よってこの態度で捻出した時間でマイナーなものをひたすら探すべきだ。
マイナーなものこそ自分から調べなきゃまず知り得ないわけで、しかもメジャーなものより遥かにたくさんあるのだから、その中から面白いものを見つけるうえでもより多くの時間が必要というわけだ(調べる量も多ければその分だけ調べたものから吟味するのも時間がかかるということ)。
しかし理想としてはそうであっても最近この行動態度を貫こうとするうえで心が折れかかってる。
画像検索を頼りに思いがけないコンテンツの発見を狙っても、画像の詳細を開くと関連画像がまたずらずら出てくるという再帰的なデザインを採用しているので、情報量はねずみ講式に増えていく。
しかも画像検索は同じ画像を元にしても日によって検索結果は変わっていくのだ。
あの日なんてことないと思った画像が次の日むしょうに気になっても二度と出てこないということがありえる。
なら出会った画像のurlを片っ端からブクマしとけば解決するかといえばことは単純にはいかない。
何万とブクマがたまってくると、あの画像が見たいと思い立ってもそうそう見つけられない。
見つけられないというか、かりに見たいと思った画像を見つけたときしても、「それが見たかった画像である」ということに確信が持てなくなってしまうだ。膨大な記憶の中に似たり寄ったりの画像が数多くあるとそういうことも起こる。
既に思い出しているのに、それが思い出したかったものだと気づけず素通りして思い出す作業を続けてしまうという経験がある人はそれなりにいるのではないだろうか。
まあこんな感じでひたすら深く自分の好みを追求するというのもなかなか限界がありそうな態度なわけだ。
そう考えるとなんでもかんでも浅く与えられたものを適当に楽しむっていう多くの人の態度も、まあ夢がなくて虚無主義的な気がするのだけども、やっぱり賢い気がする。身の程を弁えた余暇活動のあり方っていうかな。
あるよく晴れた、暑すぎる夏の日だった。
高校3年間と半年ほどを共にした恋人から、別れの電話を受け取った。本気の声だったけど、嘘を言っているのがわかった。たぶん、別れたい本質的な理由はそこじゃないのだろうと思ったが、どうせ別れる相手だと思って何も言わなかったし、言えなかった。何となく最近の振る舞い方から別れを切り出されるのはそう遠くないと思っていたし、辛かったが現実として受け止めるにはそう時間もかからなかった。幸せになってね、と一言だけ伝えて電話を切った。
それから1年が経ち、また暑すぎる夏がやってきた。共通の友人だったひとから聞いたのは思いもよらぬ衝撃的な事実だった。
え、あ。
へえ〜。
はあ、そっか。
言葉が出てこなかった。普段は感情を言語化するのが得意な私だったが、この時ばかりは空気みたいな言葉しか出なかった。
友人は面白がってるのか、私が嫌な思いをするだろうとか考えもしなかったのだろう。笑いながら、「そんな人どうせ幸せにならないって!」と言う。そうか、そんなもんか。まあそんなもんかと思うしかないよななんて自分が傷付かないために、心にある色々なブレーキを精一杯かけた。まあ高校3年間は楽しかったし。あの人のおかげで成長できた部分もあったし。何度も言うけど楽しかったし。正直、悪を正当化させるのに事実なんていらなかった。ただ「そう思いたい」という気持ちのみが、間違いではなかったと言い聞かせる材料になるのだ。
そんな衝撃的“事実”を聞いてからまた少し経ち、春が来ようとしていた。新しい恋人も出来て、私も私で幸せに生きていた。もちろん浮気をされていたということが色々な気持ちの弊害になっているのは確かだったけど、何とか新しい恋人を信じ切ることもできるようになっていた。順風満帆に見える人生だったが、不幸は突然やってくる。
元カレと、新しい彼女……浮気相手だったという子のプリクラを、本当にたまたま見てしまった。SNSアカウントも、何なら新しい彼女がどんな子かも知らなかった。なのになぜか嫌なものは回ってきてしまう。
それを見て、それが何かをきちんと理解した瞬間、私の心のブレーキは一気に効かなくなった。突然、何もかもが見えなくなるような気持ちになった。
こんな簡単な言葉にしたくはないけれど、辛かった。本当に辛かった。私は浮気相手になってしまった子と同じ高校に一瞬でも通ってしまっていた。私と一緒に作った思い出は、浮気相手と話を盛り上げる手段になってしまった。私が彼と過ごした数年間で彼を作ったものが、浮気相手、しかも女子高生と恋に落ちるための序章になってしまった。
きっと彼女とは卒業旅行に行くだろう。私とは感染症予防で行けなかったディズニーに行くだろう。そして私と行った3泊4日の金沢旅行なんて忘れてしまうだろう。他にも、一緒に過ごしたあの高校での思い出も、彼女と言う存在に塗り替えられて、私と出会った場所ではなく、彼女とを繋ぐ場所になったのだろう。
もう彼のことは好きじゃない。それでも、許せなかった。これはもう浮気をされたひとにしか絶対にわからない。本当に許せなかった。年上がタイプで甘えられる人が好きなんて言っておきながら、年下で自分に甘えそうな、鼻の低い一重の女に乗り移ったのか。
浮気相手のことも許せなかった。女がいるかどうかくらい、わかってくれ。何より、年上ってことを利用するような男なんかに、本気にならないでくれよ。てか女子高生から見た成人男性なんてカッコイイに決まってるだろ。そいつじゃなくたって良いだろう。
そう、私のものだったんだよ。
高校1年生の春、初めて出会った部室。お前、すげえ無愛想だったよな。なんて呼べば良い?って聞いたらすっごい空いて、中学の時のあだ名を教えてくれたよな。本名とか知らなかったよ。でも名前の漢字がすごく美しくて、由来が両親の好きなゲームだったんだっけ。もう両親は不仲で家では何も話してないって、よく不満そうに言っていたよな。
高校1年生の夏、みんなで頑張った部活の練習。暑かったよな、冷えピタとか貼ってバカみたいな顔してた。練習が終わっても夕方の冷えた風が吹くまで一緒に喋ってたよな。あの頃はまだ一緒に帰っていなかった。お前の家と私の家、そういえば逆方向だったし。
高校1年生の秋、初めて勇気を出して誘った放課後の喫茶店。お前はキャラメルのカフェオレを飲んでいた。飲むスピードがびっくりするくらい早くて笑ったよ。そういえば食べるのはすごく遅かったのに、何であんな飲むのだけ早かったんだろう?確か、そこにものがあったら飲んじゃうって言ってたよな。それ病気らしいよ気をつけてね。
高校1年生の冬、勇気を出して渡したバレンタイン。本命って気づいてくれるかななんて思って渡したけど、私があまりにも無愛想に渡すもんだから、義理チョコと思われてたんだっけ。馬鹿野郎、義理チョコにあんな丁寧な手紙同封するわけないだろう。それから1ヶ月して告白して付き合って、その日は初めて手を繋いで、顔が痛くなるまで笑った。人に好かれるのって、それを伝え合えるって幸せだねってよく話してた。
高校2年生の春、クラス替え一緒にならなくて悲しかったよな。一緒のクラスになったらダンス一緒に踊れるはずだったのに。結局お互い誰と組んだんだっけ?覚えてないなあ、私、お前の衣装姿が可愛くてかっこよくて、今でもなんか思い出せるよ。私は紫で、多分お前は青だったよね。似合ってた。体育祭、3年生の頃はなかったからあの日のことすごい鮮明に覚えてるわ。
高校2年生の夏、一度別れた。何で別れたんだっけ。なんかショックすぎて覚えてないな。返しそびれたCDを返したいとか言って久々に会ったよね。あの時普通に楽しく話せて、また戻れるんじゃないかなあって思ったよ。あの日の緊張、今もどんなだったかわかるよ。
高校2年生の秋、もう部活もしなくなって本当は会えるわけないのに、私が前みたいに色々なところ無理やり誘って一緒に遊びに行ったよね。なんか映画とか見た気がする。お前最初から最後まで興味なさそうだったけど、今思えば何で着いてきてくれたの?友達いなかったのかな。その後パンケーキ食べたよね。甘くて食べきれなくて、気持ち悪かったよ。その日たまたま月が綺麗で、夏目漱石の気持ちを強くわかったな。
高校2年生の冬、クリスマスイブの日にカラオケでまた付き合った。イコラブの制服クリスマス歌って、「大人になって今日この日を、僕は思い出すだろう」って、なんかなぞる気持ちだったよ。あの日久しぶりにキスをして、嬉しくて泣いた。カラオケに入るまでは友達、出た後は恋人って、雑魚のスカイツリー広告だよね。多分広告なんて興味ないだろうから、何言ってるか分かんないだろうけど。
高校3年生の春、コロナが流行って学校に行けなくなって、会えなくなった。でもお互いの家のちょうど間くらいの場所に公園があって、なぜか誰もいなくてよくそこでマスクしながら会ったよね。たまにデカい犬の散歩してる爺さんが来てた。そこから見えるいつもいっぱいの駐車場には一台も車がなくて、ふざけて「コロナでみんな死んだ後の世界だね、二人きりだね」なんて笑った。私、正直それが本当になったら幸せだなあって思ってたよ。
高校3年生の夏、コロナの影響で全然夏休みとかなくて、しかも受験勉強でなんか全然記憶ないな。でも二人が一緒に高校で過ごせる最後の夏だって思うと、妙にワクワクした。これから一緒にずっと過ごせても、高校生の夏は一生来ない。お互いどうしようかって思ってたけど、私は美大に、君は文学部に行くって決めたね。国語と読書が大好きな君が、大学で何をするのかすごいワクワクしてたよ。
高校3年生の秋、私はひと足先に進学先が決まって、そこからずっと君の受験を応援した。確か塾に行き始めて、金銭的に英語の授業しか取れないって言ってたけど、君は記憶力も悪くないし国語は得意だし、それさえ伸ばせればきっと良い大学に進めるんだろうなって思ってたよ。私の方が英語得意だったのにいつの間にか私に教えてるくらい成績よくなってたよね。すごいよ。ほんとに。
高校3年生の冬、2月ごろ確かお互いようやく進学先が決まって、もう残すは卒業式だけだった。高校生活最後の日、サイゼリヤでどれだけ食べられるかって隣駅のサイゼリヤまで行った。途中から吐きそうなくらいしんどかったような気がする。間違い探し全部見つけた時の達成感、めっちゃ面白かったなあ。卒業式の日は一緒にプリクラ撮って、観覧車乗って、キスして、本当に3年間ありがとうって泣いた。本当に大好きだよって言った。ずっと一緒にいようねって、言った。
でも、お前浮気してたんだな。バイト先の女子高生と。妹と同じ年齢の女の子に。私に言った全ての言葉を嘘にして、彼女と手を繋いだんだね。
選ばれなかったという事実が、貴方と過ごした日々は全て無かったことになってしまったということが、もう一生戻れないということが、私は辛いよ。苦しいよ。
また二人にしか通じない言葉で笑おうよ。子どもが生まれたらなんて話す時につまらないキラキラネームを言って本気にならない会話をしようよ。公園で一緒にハンバーガーを食べながら桜を見ようよ。興味のない映画に着いてきてよ。顔の大きさが全然違うプリクラに爆笑しようよ。私はピアノを弾くからその優しい声で楽しそうに歌ってよ。将来私が作る晩御飯をリクエストしてよ。私の飼い犬を可愛いなあって笑いながら撫でてよ。その黒い髪を私の手で梳かさせてよ。カラオケで一緒にaikoを歌おうよ。ハグで全部分かった気になろうよ。
もう一度好きになってよ。
もう誰に話せばいいかわからないここ数年ずっと消えない自分の中の怨念をただ書いていく。
両親と兄の4人家族
母を専業主婦にして(母は働きたかったが父が許さなかった)気に触ることがあると怒鳴ったりするのは当たり前。私達も押し入れに閉じ込められたり怒鳴られたりすることがよくあった。
また偏屈というか理屈が通っていない&父が納得できないものは(世の中では正しいとされても)全て許されなかったので、何か大事な事を決める時は必ず父を説得する必要があった。
ただ何もない時は面白い人だったし抱っこしてくれたり普通に可愛がってくれたため、怒ると怖いけど父親として好きではあった。
18歳から大学進学のため上京しそのまま地元には戻らずに就職して結婚。
上京する時に「なぜ地元じゃないのか」と若干反対はされましたが、話し合いの末に納得し私はひとり暮らしへ。そのまま大学時代に出会った夫と就職を機に同棲。
同棲する時も「なぜ同棲する必要があるのか」「期間はいつまでなのか」など、当時彼氏だった夫と共に父へ事前に説明をしに行った。
私としては大学進学も同棲もきちんと自分の気持ちを話して、具体的な将来の話もして、父も納得したため全てをスムーズに進めていました。話し合いの時も言い合いになることはあれど強く反対はされなかったし。
そのまま2年ほどたちプロポーズされた。
母はとても喜んでくれたし父もおめでとうメッセージをくれた。
夫の両親にも挨拶をし、じゃあ両家顔合わせはいつにしようか〜と日程調整をしようと連絡を取ったら
顔合わせなんていらない
結納もいらない
俺は絶対に行かない
と父から言われた。
夫の両親が嫌いとかではなく、本当に必要性がないから会いたくないらしかった。
さすがに非常識すぎると言ったら父がマジギレした。最終的にはそんな無駄な事に俺を引っ張りだすなら結婚をやめろとまで言い出した。
こうなると絶対に意見を変えないとわかっているので誰が何を言っても無駄。
夫の両親には、父の仕事が忙しく休みがなかなか取れない(半分本当)。結納などの堅苦しいものは無くて大丈夫です。と話した。
夫の両親はすごく良い人達なので、大事な娘さんと結婚するのにそんなこと申し訳ないと言ってくれたがなんとか納得してもらった。
この時は義両親に本当に申し訳なかった。
特に義父はきちんとした結納式をしたかったらしく最後まですごく粘っていた。本当に申し訳ない。
その後入籍。結婚式はどうしようかな〜東京の方がお互いの友達が多いから東京でやろうか〜と式場見学をしながら考えてた。
入籍前にも親には結婚式はしたいと思ってる事は雑談程度に話していたので、日取りについても改めて相談した。
この時に父からは「本当に結婚式をするのか?」と一度言われた。
え、だめ?私は小さくても結婚式したいんだけど…と話すと、その時はふ〜んと言われて終わった。この時もっと突っ込んでいればよかったとあとで死ぬほど後悔する。
無事式場を決めて報告。
結婚式はするな。
理由は俺が結婚式をしたが、あんなものするべきじゃなかったから。
そんな金があるなら別の事に使え。
おいおいマジかよ。
というか私の意見は?自分がやって良くなかったからって娘までだめなの?
しかも夫は長男で義両親もとても楽しみにしてるのに?なんて説明するの?
両家顔合わせすら断ってるのに結婚式までなんて何考えてるの?
と疑問と悲しさと焦りでいっぱいの最悪のタイミングで世の中がコロナ禍に突入する。
式場からも打ち合わせなど一時中断の連絡がきた。このタイミングしか父と話す事はできないと思い、父、夫、私の3人で電話会議をした。
・義両親もとても楽しみにしていること
・父が結婚式をしない方が良かったとしても、私は結婚式をしたことがないから同じとは思わない
・コロナが流行ってて友達を呼ぶのも難しいかもしれないが、呼ぶなら人数をかなり減らすしワクチン接種などもした人のみにする
などなど私の思いを伝えた。
これに対する父の答えは
・俺が結婚式が良くないと言ったら良くない
・義両親が楽しみにしていようが関係ない。俺がそれに付き合う義理はない
・そもそもお前の結婚式なんで誰ひとり楽しみにしてない。お前の友達全員どうでもいいと思ってる。(父は私の友達に1人も会った事が無い)お前の友達なんて友達じゃない
・やっぱりお前を東京になんて行かせた事が間違いだった。地元にいさせるべきだった
友達にはコロナ禍になって結婚式が延期になるかも…と連絡した時点で慰めのメッセージがきたり、余興は準備バッチリだし絶対休みも取るから!結婚式楽しみにしてるね!って言ってくれたりする子ばかりだった。
こんなに優しい子達が友達じゃないって何?
東京に行かせなきゃよかったって何?
なんでこんなに全部を否定されなきゃいけないんだろう。
義両親への配慮のなさは何度も言ったが父には何も響かず。こんなに不誠実な事ばかり義両親にしたら申し訳ないと言ったら「くだらない」と言われた。
義両親への配慮をくだらないってなに。
この時にやっと私は気付いた。
父にとって大切なのは父だけ。
自分に従わない奴らは全員悪なんだなと。
後々、職場の人にこの話をしたら
普通は自分の娘が相手のお家で苦労しないように立ち回ったり、娘の立場が悪くならないようにフォローすべきなのにお父さんは自分の事だけが大切なのね。と言われたけどまさにそうなんだと思う。
その後何度も話し合ったが話は平行線のまま。
義両親もなんで結婚式をしないんだ、顔合わせもしない結婚式もしないなんて!と怒ってしまった。
私は不眠症になり食事もうまく取れず変な痩せ方をしていった。夫もすごく心配して、父にどれだけ私が苦しんでいるかを話してくれたりした。
数ヶ月話してようやく条件付きで許しが出た。
・人数を極力減らすこと。親族は呼ばない。お互いの両親と兄弟、どうしても呼びたい数人だけにしろ
・俺達は何もしない
義両親は結婚式の規模にはこだわっていなくて、ただ結婚式をしてほしいという希望だったのですごく喜んでくれた。
友達にもコロナのこともあるから人数を減らす事を話したら、全員が理解してくれ落ち着いたら改めてお祝いすると言ってくれた。中には式当日に電報をくれた子もいた。
結婚式当日。
私達にすら話しかけてこなかった。
帰りも母がまたねと声をかけただけだった。
コロナのせいで結婚式に敏感になっていたのはもちろんあると思うしそれは仕方ないと理解してる。
でも、その前から結婚式を反対されて、理由が俺が嫌だったからという謎理論が未だに納得できない。両家顔合わせを拒否したことも。
私の気持ちを一度も肯定してくれず、18歳からの人生を全て否定されたのもずっと胸に残ってる。
父とはそこそこ良い関係だと思っていただけにとてもショックだった。母とは上京してもほぼ毎日連絡を取っていたし、私の気持ちも話していたから味方になってくれると思っていたが一度も助けてくれなかった。
父の結婚式で何があったのかは知らないが、私はあなたのせいで普通の結婚式を望む事すら否定された。
(父達の結婚式のビデオを昔見せてもらったがよくある普通の結婚式でハプニングなどは何もなかったし、父達も笑っていた)
本当は祖父母にも来てほしかったし友達もみんな呼びたかったし、やりたい事もいっぱいあったのに何1つ希望通りにならなかった。
希望通りの結婚式が出来なかった事ももちろんショックだしその話し合いの過程で私自身を否定されて、あの日のショックがずっと胸に残ってる。そして何より私の気持ちを一度も汲んでくれなかった事が悲しかった。
あれから友達の結婚式に行くにも自分の結婚式を思い出して身構えてしまう。
両親からは「そろそろ顔を見せにきませんか?」なんて連絡が普通にくる。あの時の話なんて無かったみたいに。
このままゆっくり両親と縁を切りたい気持ちと、それでも家族だから会いたい気持ちがずっとぶつかりあっていてそれがまたすごく苦しい。
でももう今までみたいに実家に帰って心から笑ったりすることはもう無いと思う。
子供ができたとしても会わせたくない。
夫にはそんなに恨むと自分が辛いよと言われたけど、どうしても止められない。
地元にいた頃、ど田舎にポツンと新しくできたローソンのロッピーでチケット買って、サッカー見に行くのが好きだった
真新しい店内で、ピッピッて押してチケットが買えるのは革命だった…!
楽しかったなぁーあの日々。ロッピーのためにローソンに通った。まんまとおにぎりやお茶、雑誌も買って、あの店が都会へのドアだった。
今は海外にいるのでサッカー見れなくなってしまった(あんまり人気ない)。W杯はさすがに見れるけど…。有名な選手しかいない。地元の選手が見たいんだ〜。
Twitterとかでスーパーゴール!とかあってうおお!って見ようとしても海外IPは遮断されてて見れない!
NHKワールドでサッカーのニュースが流れても試合映像は海外では流してくれない!!
見れるのはYouTubeのハイライトだけ。あと、クラブの公式動画で練習風景とかも見てる。選手バスでふざけてるところとかもインスタに載せてくれる。でも試合は見れない。っていう状態がずっと続いた。
それが、今年からJリーグの英語公式で少ない(浦和とか一部の有名クラブ中心)けど中継してくれるようになった!!(たぶん日本国内からは不可、実況は英語、試合後のインタビューは途中で切れる)
マジ革命だわー。海外からも英語でたくさんコメントついてて超嬉しい。日本のサポはDAZNで見てるんだよね?なんか申し訳ないけど。
日本のサッカーは英国とかと違って治安もいいし、スタグルも美味しいから、外国人観光客が増えてくれるといいな。
楽しみだー!
しかし、音楽系のライブとかのチケットは買いづらくなったね。前は代行業者に頼んだこともあったけど(なんかその時ロッピー対応してなかったんだよね)、今はもう無理なんだろうな。なんか航空券とかをスマホでピッピッてしたら買えるようにしてくれよー。今時よぉー。
辺りは既に暗くなった仕事の帰り道、道端からピポポポポといった音が聞こえたので何事かと目を向けた。
ちょうど電柱の隣。そこにはダンボールがあり、まだ幼いであろう小さなゼットンがつぶらな瞳をこちらに向けて鳴いていた。
そのとき俺は小学生のときのことを思い出し、捨てゼットンを拾って家に持って帰ったものの親に見つかり泣く泣く元の場所へと戻しに行った記憶が脳裏に浮かんでいた。
最近では捨てゼットンが社会問題となり、野生のゼットンが増えているといったこともニュースで見たことがある。
人間は身勝手だ。最初は可愛くて飼っていても、成長して世話が面倒になるとすぐに放り出す。
だからといって人間は悪だといいきれるほど俺は立派な人間ではないし、人の役に立つことをしてきたと胸を張っていえるほどの根拠も自信もない。
下請け会社に安月給で勤め、今日だってスーパーで半額弁当とストロングを買っての帰り道だった。
俺は捨てゼットンに歩み寄った。ダンボールは雨に濡れたのか萎れていて、捨てゼットンはまだ小さく体長は30センチほどに見えた。
俺のことを見上げ、ピポポ…? と鳴く。
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目元を細める。
ごめんな、いい人に拾われろよ。
後ろは見ないと決めて。見たら駄目だ。一度決心したことを改めてはいけない。
弱みを見せれば、そこに付け入る悪意の塊というものは確実に存在する。
片田舎の農村で牧歌的に育った俺は、就職と共に都会へと出て、それを嫌になるほど実感した。
俺は振り返らない。
目を下ろすと、俺の脚にさっきの捨てゼットンが抱きついていた。
目が合う。捨てゼットンはさびしそうな目を俺に向け、ピポポポ…と悲しそうに鳴いた。
俺は足を止めた。ぽつ、ぽつと雨が振り出すのが分かった。予報どおりだった。
だから足早に帰ろうとしていたのだけど、それでも動けずに居た。
雨はすぐに本降りとなって、俺と捨てゼットンを激しく濡らした。
それでもゼットンは俺の脚から離れず、顔を上げてずっと俺のことを見つめ続けていた。
そんな目で見るなよ、なあ、頼むよ。
心の中でそんなことを思いながらも、脚を払って捨てゼットンを放り出すようなことはできなかった。
しばらく雨に濡れ続けた。あーあ、スーツびしょびしょだよ。明日どうしよう。
そんなことを頭の片隅で思いながらも、頭のもう片方で俺は過去の自分を、小学生のときの自分を見ていた。
飼えないと分かって捨てゼットンを元のダンボールのところに戻しに行った、あの日のことを。
捨てゼットンは俺に抱きかかえながらキョトンとしていて、それでも抱き抱えられていることを嬉しそうにしていたっけな。
ああ、そうだ。あの日もこんな雨だった。小学生の俺は捨てゼットンをダンボールに戻すと、そのあと一度も振り返らず走って帰った。
頬を伝わる涙は、雨が隠してくれていた。
気付けば俺は捨てゼットンを抱き上げていた。
仕方ない、か。
俺はそのまま、雨に打たれながらアパートへ向けて再び歩みだした。
まあ、なんとかなるだろう。
既にびちょびちょになった革靴で歩きながら、そんなことを考えていた。