それならそれらに能動的である必要はない。改めてやりたくなったときだけ調べるというので構わないわけだ。
あまりにも口やかましく宣伝されるわけだからやりたいってときに「名前が思い出せない…」なんてことまずないわけだし。
よってこの態度で捻出した時間でマイナーなものをひたすら探すべきだ。
マイナーなものこそ自分から調べなきゃまず知り得ないわけで、しかもメジャーなものより遥かにたくさんあるのだから、その中から面白いものを見つけるうえでもより多くの時間が必要というわけだ(調べる量も多ければその分だけ調べたものから吟味するのも時間がかかるということ)。
しかし理想としてはそうであっても最近この行動態度を貫こうとするうえで心が折れかかってる。
画像検索を頼りに思いがけないコンテンツの発見を狙っても、画像の詳細を開くと関連画像がまたずらずら出てくるという再帰的なデザインを採用しているので、情報量はねずみ講式に増えていく。
しかも画像検索は同じ画像を元にしても日によって検索結果は変わっていくのだ。
あの日なんてことないと思った画像が次の日むしょうに気になっても二度と出てこないということがありえる。
なら出会った画像のurlを片っ端からブクマしとけば解決するかといえばことは単純にはいかない。
何万とブクマがたまってくると、あの画像が見たいと思い立ってもそうそう見つけられない。
見つけられないというか、かりに見たいと思った画像を見つけたときしても、「それが見たかった画像である」ということに確信が持てなくなってしまうだ。膨大な記憶の中に似たり寄ったりの画像が数多くあるとそういうことも起こる。
既に思い出しているのに、それが思い出したかったものだと気づけず素通りして思い出す作業を続けてしまうという経験がある人はそれなりにいるのではないだろうか。
まあこんな感じでひたすら深く自分の好みを追求するというのもなかなか限界がありそうな態度なわけだ。
そう考えるとなんでもかんでも浅く与えられたものを適当に楽しむっていう多くの人の態度も、まあ夢がなくて虚無主義的な気がするのだけども、やっぱり賢い気がする。身の程を弁えた余暇活動のあり方っていうかな。